大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 これは、通り魔の叫びではない、まさしく現実の声で、屯所の壮士一同の不安の的を射抜いた驚報でしたから、
「スワ……」
と一度に色めき立って、押取刀(おっとりがたな)で駈け出そうとしたが、
「諸君、そのまま駈け出しては危険だ、裏には裏がある」
「もっともだ」
と、逸(はや)る心を押鎮めて、
「さてこそ新撰組の術中に陥ったのだ、これは隊長を殺した上に我々を誘(おび)き出そうとする手段か、しからずば隊長を殺したと称して、我々を乱す計略に相違ない、使者の者を留めて置いて、再応仔細を糾問(きゅうもん)すべし」
 使者というのは七条油小路の町役人であって、その申告は、目のあたり見て来ているのだから間違いはない。
「たしかに御陵衛士隊長伊東甲子太郎様が、何者にか殺害せられ、御紋章の提灯をお持ちになったままで、私共かかりの七条油小路四辻に無惨の御横死でござりまする」
「して、それを誰が見届けた」
「市中巡邏(しちゅうじゅんら)のおかかりからの仰せつけでござります」
「巡邏というのは新撰組のことだろう」
「左様でござります」
「して、誰が死体の傍らに見張りをしているか」
「はい、新撰組の方が、我々が張番をしているから、其方たち行って知らせて来いとの仰せでござります」
「よくわかった」
 新撰組が殺して、新撰組が張番をしているのである。隊長がその術中に落ちたのみではない、その手で、我々を誘き寄せようとの手段であることは、もう明らかだ。彼等の怒髪は天を衝(つ)き、闘争の血は湧き上った。
「諸君、これは尋常ではいけない、戦場に臨む覚悟を以て行かないと違う、甲冑着用に及ぶべし」
との動議を提出したのは、この組の中で、最も年少にして、最も剣道に優れた服部三郎兵衛でありました。
 誰もそれを卑怯だとも、大仰(おおぎょう)に過ぐるとも笑う者がない。
 事実、新撰組の京都に於ける勢力は、厳たる一諸侯の勢力であって、彼等には刀槍の表武器のほかに、鉄砲弾薬の用意も備わっているのである。その新撰組が計画しているところへ飛び込むには、戦場に赴(おもむ)くの覚悟があって至当なのであります。
 甲冑着用を申し出でた服部の提言を笑う者はなかったけれども、それに同じようとする者もない。それについて憮然(ぶぜん)たる態度で、そうして老巧――といってもみな三十前後ですが、比較的年長の輿論(よろん)は次のようなものです。
「いずれにしても、新撰組全体を相手に取るとすれば、我々同志の少数を以てこれに当ること、勝敗の数はあらかじめわかっている、十死あって一生がないのだ、要するに死後に於てとかくのそしりを残さぬようにする用意が第一――甲冑用意も卑怯なりとは言わないが、一同素肌で斬死(きりじに)の潔(いさぎよ)きには及ぶまい。彼等が隊長を殺し、彼等が張番をし、彼等が注進をよこして来た、言語道断の白々しさではあるが、表面一通りの体裁を立てて来たので、戦闘行為を仕掛けて来たというわけではないから、これに応ずるにひとまず礼を以て受け、しかして後に従容(しょうよう)として斬死の手段がよかろうではないか」
 一同が、この言に従って、素肌を以てこれに臨み、素肌を以て決死の応戦に覚悟をきめてしまいましたのです。
 ひとり主張者の服部三郎兵衛だけは、ひそかに、一室に於て、身に鎖をつけ、その上に真綿の縫刺しの胴着を着たのは、覚悟の上に覚悟のあることに相違ない。
 かくて以上七人が、打揃うて、別に一人の小者を従え、隊長の屍骸を収容して帰るべき一台の駕籠(かご)を二人の駕丁(かごや)に釣らせて、粛々として七条油小路の現場に出動したのは、慶応三年十一月十一日の夜は深く、月光(げっこう)晧々(こうこう)として昼を欺くばかりの空でありました。

         五十二

 神尾主膳が閑居してなす善か不善か知らないが、その楽しむところのものに書道がある、とは前に書きました。また、彼が何の発心(ほっしん)か、近ごろになって著述の筆をとりはじめて、自叙伝めいたものを書き出したということも前に書きました。
 それは、ほんの筆のすさびに過ぎなかったのを、この数日、非常なる熱心を以て、机に向って筆を走らせ出しました。今までは道楽としての著述であるが、最近は少なくとも生命を打込んでの筆の精進です。書きつつあるところに、何かしら憂憤の情を発して、我ながら激昂することもあれば、長歎息することもあるし、それほど丹精を打込んで書くからは、彼はこの書を名残(なご)りとし、生前の遺稿として、記念にとどめたいほどの意気組みが、ありありと見るべきものです。
 主膳のこのごろは、たしかに激するところがあるのです。著述の興味が進むということも、半ばその激情にかられて筆を進めるからです。かくて、ともかくも、神尾主膳が殿様芸ではなく、不朽――というほどでなくとも、著作の真意義に触れるような心の行き方に進みつつあるのも、不思議の一つでないということはありません。
 根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽(ふけ)っている。彼の著作は一種の生立ちの記ですが、書出しは祖先の三河時代の功業から起っている。そこに多くの自負があり、懐古が現われて来るのですが、同時に自らの現状との比較心が起って来ると、いよいよ平らかならざるものがある。それが激し来(きた)って、ついつい筆端に油の乗るようになる。さらさらと筆を走らせて、雁皮薄葉(がんぴうすよう)の何枚かを書きすまして、ホッと一息入れているところへ訪(おとな)うものがありました。
 シルクのお絹でもなく、芸娼院の鐚(びた)でもないが、神尾のところへ来るくらいのもので、左様に賢人君子ばかりは来ない。いずれも先日の悪食会(あくじきかい)の同人でした。
「何を書いているのだ」
「出鱈目(でたらめ)の思い出日記を書いているのだ」
「つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)というわけかな」
「いや、閑(ひま)にまかせて自分の一代記を書いてみているところだ、今は先祖の巻を書き終えて、次は父の巻にうつろうとしているところだ、第三冊が母の巻、それから自分の放蕩三昧(ほうとうざんまい)の巻――自慢にもなるまいが、まあ一種の懺悔(ざんげ)かね」
「せっかく大いにやり給え」
「懺悔にはまだ早かろうがな、善悪ともに書き残して置いてみることは悪くない――閑のある時分に、興の乗った時に限ってやって置くことさ、書いているうちに興味が出てくるよ。自分も早く学者になって置けばよかった、学問をして置けば、新井君美(あらいきみよし)ぐらいにはなれたろう、戯作(げさく)をやらせれば馬琴はトニカク、柳亭ぐらいはやれる筆を持っていたのを、今まで自覚していなかった、我ながら惜しいものだ。時に……」
 神尾主膳は、筆を筆架に置いて、投げ出すように、悪食家に向って言いました。
「徳川の天下も、いよいよ駄目だそうだな」
「は、は、は、おかしくもない、今ごろそんなたわごとを言い出すのは、君ぐらいなものだろう」
「徳川の天下が亡びた時は、日本の政治はどうなるのだ」
「そんなことはわからん、そういうことは永井玄蕃(ながいげんば)のところへでも行って聞き給え」
「まあ、君たちの見るところを正直に話して見給え」
「十目の見るところ――言わぬが花だなあ、力めば時勢を知らないと言われるし、くさせば主家を誹(そし)るに似たり」
「いよいよ駄目かい」
「匙(さじ)を投げるのはまだ早かろう」
「いや、実はおれも、徳川の禄を食(は)んで三百年来の家に生れた身であってみると、それを対岸の火事のようには見ていられない、今日まで自分本位で生きて来たが、とにかく、一朝主家興亡の秋(とき)ということになってみると、別に考えなけりゃならん」
「考えてどうなるのだ」
「どうかしなけりゃなるまい」
「どうしようがあるのだ、要するに徳川をこんなに弱くしたのも、君のような――君一人に背負わせるのも気の毒の至り、おたがいのような享楽主義者が続々と出たその結果と見なけりゃなるまい」
「それを言われると、おれも真剣に考えたくなる――人物がないなあ」
「人物がないよ――今の徳川には人物がないのに、西南のやつらにはウンとある、足軽小者の方面にまで、切れる奴がウンといる」
「旗本八万騎あって、人物が一人もないのかなあ」
「ないことはない、有る――必ず、隠れたるところには人物がある。あるには相違ないが、出頭の機会がない」
「今のところ誰々だ、旗本で目ざされている人らしい人は。人物らしい臭いのする奴は。少なくとも落日の徳川家を背負って立とうと、人も許し、自らも許すような奴が、一人や二人はありそうなものだなあ」
 神尾は投げ出したように、自暴的に言うけれども、今日のは自暴(やけ)の裏に、強烈な意地のようなものがひらめくを感ずる。
 こういう問いをかけられて、押しかけて来た二人の悪食家(あくじきか)も、おのずから切迫の真剣味につりこまれて、
「そうさなあ――今の旗本で、同じ徳川でも譜代大名は別物として、直参のうちで、人らしい人、人も許し、我も許そうというほどのものは――この時勢を重くとも軽くとも背負って立とうというほどの人物は――まあ、小栗又一(おぐりまたいち)か勝麟太郎、この二人あたりがそれだろうなあ」
「ナニ、小栗又一と、勝麟太郎、二人とも、それほどの人物か――」
「まあ、世間の評判はもっぱらそこにあるな。ところでこの二人がまた背中合せだから、やりきれないよ」
「どう背中合せだ」
「小栗は勝を好まず、勝は小栗に服しない、小栗は保守で、勝は進取――性格と主義がまるっきり違っている」
「そいつは困る、せっかく、なけなしの人材が二人ともに背中合せでは、さし引きマイナスになってしまう」
「悪い時には悪いもので、困ったものさ」
「で、小栗と、勝と、どっちが上だ、器量の恵まれた方に勢力を統制させずば、大事は托し難かろう」
「さあ、器量という点になってみると、我等には何とも言えない――おのおの、一長一短があってな」
「小栗はだいたい心得ているよ、あれは家柄がいい、ああいう家に生れた奴に、性質の悪い奴はないが、勝というのはいったい何だい、よく勝麟勝麟の名を聞くが、そんな名前は我々には何とも響かん――どんな家に生れた、どんな男なのだい」
「そりゃ、家柄で言えば小栗とは比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝などは四十俵の小身、我々仲間に於ても存在さえ認められなかったのだが――近頃めきめきと頭角を上げて来た、事実、稀代の才物ではあるらしい」
「知りたいね、勝という男の素姓来歴を」
「待ち給え」
 悪食家の一人が、この時、首を傾けて、
「勝は四十俵の小普請(こぶしん)、石川右近の組下だが、勝の父は男谷(おたに)から養子に来たのだ」
「男谷の……講武所の剣術方の男谷精一郎(下総守)か」
「左様――彼、勝麟の父が、精一郎の弟になる。その親父(おやじ)について思い当ったよ、ほんとうに、それこそ箸にも棒にもかからぬ代物(しろもの)でな、それが晩年、何か発心して、いま君がやっているように、自叙伝を書いた、その写しを僕が持っているが、これはまた稀代な読物だ、こんな面白い本を今まで読んだことがない。面白いものを小説の稗史(はいし)のと人が言うけれど、あれは本来こしらえもの、大人君子の興味に値するほどのものではないが、勝のおやじの自叙伝に至ると、真実を素裸(すっぱだか)に書いて、そうして、あらゆる小説稗史よりも面白い、あの父にして、この子有りかな、古今無類、天下不思議の書物だ、参考のために君に貸すから読んで見給え、家に帰って、すぐに届けるよ、『夢酔独言』というのだ、実に何とも名状すべからざる奇書だ、あれを読むと、勝麟その人もわかる」
 悪食が口を極めて、推賞か示唆かを試むるものだから、神尾も、
「では、読ましてくれ」
と言わざるを得ませんでした。

         五十三

 その翌日、珍しくもよく約束を踏んで、悪食が、昨日約束の書物を届けてくれました。
 これが、当時評判の勝麟太郎の父親の自叙伝であるそうな。
 徳川の末世を背負って立つ男は、小栗か勝だろうと、かりそめにまでうたわれるくらいの人間と聞いて、これも珍しく神尾が勝のことを注意する気になりました。
 受けて見ると、その書の標題は前出の如く「夢酔独言」という。
 巻頭に書き添えた勝家の系図というのを見ると、神尾が軽蔑の気持になって、
「なあんだ、勝の先祖、元は江州坂田郡勝村の人、今川家に仕えて塩見坂に戦死、市郎左衛門に至り徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
 家禄知行蔵米合わせて四十一石、というところに神尾が憫笑(びんしょう)を浮べました。
 特に軽蔑したわけではあるまいが、そういう時に、冷笑が思わず鼻の先へ出るのがこの男の癖です。
 神尾の家柄は三千石でした。
「万治三庚子十二月卒百五歳――ふーむ」
 四十一石の高は軽きに過ぎるが、百五歳は多きに過ぎる。四十一石の小身は稀なりとはしないが、百五歳の長生はザラにあるものではない、と感心しました。
 その市郎左衛門時直から七代目で、左衛門太郎惟寅(これとら)というのが即ち、今いう勝麟太郎の父になる。隠居してから夢酔と号した。この書の標題の「夢酔独言」の名のよって起るところである。なお仔細に系図書の割注を読んでみると、
「惟寅は男谷平蔵の三男、聟養子(むこようし)となって、先代元良の女信子に配す、嘉永三庚戍年九月四日卒四十九歳」とある。
 存外夭死(わかじに)だが、実家の男谷というのはどんな家柄だ、四十一石の身上へ養子に来るくらいだから大した家柄ではあるまい、とやっぱり軽蔑を鼻の先に浮べて、神尾が男谷の系図書の方を読んでみて、
「ははあ、こいつはまた先祖は士分ではない、検校(けんぎょう)だ――検校が金を蓄(た)めて小旗本の株でも買ったんだろう」
 その男谷の初代、検校廉操院というのに、三人の男の子がある。その三男の平蔵にまた三人の男の子がある。なるほど、長男が彦四郎、次男が信友――ははあ、これが講武所の下総守だな、こいつの剣術はすばらしい、なんでも話に聞くと、上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)以来の剣術ということだ。して三番目が初名小吉――即ち左衛門太郎夢酔入道、今の評判の麟太郎の父なんだな。してみると男谷下総は麟太郎の伯父(おじ)になる、剣術の家柄というのも無理はない……と神尾がうなずきました。
 神尾の眼で見ては、四十石の家柄だの、検校出の士族だのというものは冷笑以外の何物でもないが、その一門に男谷下総守信友を有することが、侮り易(やす)からずと感じたのです。いかに不感性の神尾といえども、男谷の剣術だけは推服のほかなきことを観念しているところに、この男もまた、その道に相当の覚えがあるものと見なければなりません。
 そんなような前置で、神尾は「夢酔独言」の序文を読みはじめました。
「鶯谷庵独言
おれがこの一両年始めて外出を止められたが毎日毎日諸々(もろもろ)の著述物の本軍談また御当家の事実いろいろと見たが昔より皆々名大将勇猛の諸士に至るまで事々に天理を知らず諸士を扱うこと又は世を治めるの術治世によらずして或は強勇にし或はほう悪く或はおこり女色におぼれし人々一時は功を立てるといえども久しからずして天下国家をうしない又は智勇の士も聖人の大法に背く輩(やから)は始終の功を立てずして其身の亡びし例をあげてかぞえがたし――」
 読み出して神尾がうんざりせざるを得ません。文章がまずい上に、句読の段落も、主客の文法も、乱暴なものだ。だが、まずいうちに文字に頓着しない豪放の気象が現われないでもないから、神尾は辛抱して、
「文武を以て農事と思うべし」などと聖人のようなことを言い、「庭へは諸木を植えず、畑をこしらえ農事をもすべし、百姓の情を知る、世間の人情に通達して、心に納めて外へ出さず守るべし」などと教訓し、おれも支配から押しこめに会って、はじめは人を怨(うら)んだが、よく考えてみると、みんな火元は自分だと観念し、罪ほろぼしに毎晩法華経を読んで、人善かれと祈っているから、そのせいか、このごろは身体(からだ)も丈夫になって、家内も円満無事、一言のいさかいもなく、毎日笑って暮らしている、というようなことで――読んで行くと、自分は箸にも棒にもかからぬ放埒者(ほうらつもの)だが、これでも、人を助けたり、金銀を散じたりしたこともある、その報いか、子供たちがよくしてくれる、ことに義邦(よしくに)(麟太郎)は出来がよくて、孝心が深く、苦学力行しているから、おれは楽隠居でいられる、おれがような子供が出来た日には両親は災難だが、子孫みな義邦のように心がけるがいいぜ、と親心を現わしたところもあるし、女の子は幾つ幾つになったら、何を学べ彼(か)を習えと、たんねんに教えてみたり、そうかと思えば、序文は一つの懺悔になっていて、その結びが、
「子々孫々ともかたくおれがいうことを用ゆべし先にもいう通りなれば之(これ)までもなんにも文字のむずかしい事は読めぬからここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし天保十四年寅年の初冬於鶯谷庵かきつづりぬ
左衛門太郎入道夢酔老」
         五十四

 さて、それから本文にうつると、冒頭に何か道歌のようなものを二三首、書きつけたばかりで、端的に自叙伝にうつっているから、文章はまずく、文字は間違いだらけだが、率直に人を引きつけるものがある。
 その、まずい文章と、読みがたい文字、句読も段落もない書流しにくぎりくぎりをつけて、神尾はともかくに独流に読みつづけて行きました。
 これはもちろん、夢酔老というなまぐさ隠居の筆として読まないで、不良青年男谷小吉(おたにこきち)の行状記として読んだ方が面白い、と神尾が思いました。

「おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいと思う故(ゆえ)に、孫やひこのために話して聞かせるが、よく不法者、馬鹿者のいましめにするがいいぜ。
おれは妾(めかけ)の子で、それを本当のおふくろが引取って育ててくれたが、餓鬼の時分よりわるさばかりして、おふくろも困ったということだ。
それと親父が日勤のつとめ故に、うちにはいないから、毎日毎日わがままばかり言うて強情ゆえ、みんながもてあつかったと、用人の利平治という爺(じい)が話した」

 神尾は自分の事を書かれたように共鳴する点もある。

「その時は深川の油堀というところにいたが、庭に汐入(しおい)りの池があって、夏は毎日毎日池にばかり入っていた。八ツに、おやじがお役所より帰るから、その前に池より上り、知らぬ顔で遊んでいたが、いつもおやじが池の濁りているを、利平爺に聞かれると、爺があいさつに困ったそうだ。おふくろは中風(ちゅうぶ)という病で、立居が自由にならぬ、あとはみんな女ばかりだから、バカにしていたずらのしたいだけをして、日を送った。兄貴は別宅していたから何も知らなんだ。

おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉という奴と凧喧嘩(たこげんか)をしたが、向うは年もおれより三つばかり大きい故、おれが凧を取って破り、糸も取りおった故、胸ぐらを取って切石で長吉の面(かお)をぶった故、唇をブチこわして血がたいそう流れ泣きおった。その時、おれが親父が庭の垣根から見ておって、侍を使によこしたから、うちへ帰ったら、親父がおこって、人の子に傷をつけて済むか済まぬか、おのれのような奴は捨て置かれずとて、縁の柱におれを括(くく)らして、庭下駄で頭をぶち破(わ)られた。今に、その傷が禿(は)げて凹(くぼ)んでいるが、月代(さかやき)を剃(そ)る時は、いつにても剃刀がひっかかって血が出る、そのたび、長吉のことを思い出す。
おふくろが、方々より来た菓子をしまって置くと、盗み出して食ってしまう故、方々へ隠して置くを、いつも盗む故、親父には言われず困った。いったいは、おふくろがおれを連れて来た故、親父にはみんな、おれが悪いいたずらは隠してくれた。あとの家来はおふくろを怖れて、おやじに、おれがことは少しも言うことはならぬ故、あばれ放題に育った。五月あやめを葺(ふ)きしが、一日に五度まで取って菖蒲打(しょうぶう)ちをした。利平おやじがあんまりだと言って、親父に言いつけたが、親父が言うには、子供は元気でなければ医者にかかる、病人になるわ、幾度も葺き直し、菖蒲をたくさん買入れよと言った故、利平も菖蒲がなくて困ったと、おれが十六七歳のとき話した。

このおやじも久しくつとめて兄の代には信濃の国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍はみんな中間(ちゅうげん)より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人(ごけにん)の株を買ってやられたが、利平は隠居して株の金を貰って、身よりのところへかかりて、金を残らずそやつに取られてしまった。兄貴の家へ来たが、朋輩(ほうばい)が邪魔にしてかわいそうだから、おれが世話をして坊主にし、干ヶ寺に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、おれが三十ばかりの時だ。

おれ七つの時、今の家(勝)へ養子に来たが、その時、十七歳と言って、芥子坊主(けしぼうず)の前髪を落して、養子の方で、小普請支配石川右近将監(いしかわうこんしょうげん)と、組頭の小屋大七郎に、初めて判元(はんもと)の時に会ったが、その時は小吉といったが、頭(かしら)が『歳は幾つ、名は何という』と聞きおった故、名は小吉、年は当年十七歳と言ったら、石川が大きな口をあいて、『十七には老(ふ)けた』とて笑いおった。その時は青木甚兵衛という大御番、養父の兄きが取持ちをしたよ。

おれが名は亀松という、養子に行って小吉となった。それから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊んでばかりいた。

この年に、凧にて、前町と大喧嘩をして、先は二三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合いせしが、ついにかなわず、干魚場(ほしかば)の石の上に追い上げられて、長竿でしたたか叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らし、所詮(しょせん)かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌をぬいで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋が、留めて家へ送ってくれた。それよりして近所の子供が、みんなおれが手下になったよ、おれが七ツの時だ。

深川の屋敷も、度々(たびたび)の津浪(つなみ)ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の向う、若林の屋敷を当分借りていたが、その屋敷は広くって、庭も大そうにて、隣に五六百坪の原があったが、化物屋敷とみんなが話した。おれが八ツばかりの時に、親父がうちじゅうのものを呼んで、その原に人の形をこしらえて、百ものがたりをしろと言った故、夜みんなが、その隣の屋敷へ一人ずつ行った、あの化け物の形の袖へ名を書いた札を結えつけて来るのだが、みんなが怖(こわ)がった。オカしかった。いちばんしまいにおれが行く番であったが、四文銭を磨いて人の形の顔へ貼りつけるのだが、それがおれが番に当って、夜の九ツ半ぐらいだと思ったが、その晩は真暗で困ったがとうとう目を附けて来たよ、みんなに賞(ほ)められた。

おれが養家(勝家)の母どのは、若い時から意地が悪くて、両親もいじめられて、それ故に若死をしおったが、おれを毎日毎日いじめおったが、おれもいまいましいから、出放題に悪態をついたが、その時、親父が聞きつけて憤(おこ)って、年も行かぬに母親に向って、おのれのような過言を言う奴はない、始終が見届けられないとて、脇差を抜いておれに打ちつけたが、清(きよ)という妻はあやまってくれたっけ。

翌年、ようよう本所の普請が出来て、引越したが、おれがいるところは表の方だが、はじめて母どのといっしょになった、そうすると毎日やかましいことばかり言いおったから、おれも困ったよ、ふだんの食物も、おれにはまずいものばかり食わして、憎い婆あだと思っていた。おれは毎日毎日、外へばかり出て、遊んで喧嘩ばかりしていたが、ある時、亀沢町の犬が、おれの飼って置いた犬と食い合って、大喧嘩になった。その時は、おれが方は隣の安西養次という十四ばかりのが頭(かしら)で、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と、高浜彦三郎に、おれが弟の鉄朔というのと八人にて、おれの門の前で、町の野郎たちと叩き合いをした。亀沢町は緑町の子供を頼んで、四五十人ばかりだが、竹槍を持って来た、こちらは六尺棒、木刀、しないにてまくり合いしが、とうとう町の奴等を追い返した。二度目には向うには大人が交って、またまた叩き合いしが、おれが方が負けて――八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をついたが、町方では勝ちに乗って、門を丸太にて叩きおる故、またまた八人が一生懸命になって、今度はなまくら脇差を抜いて、門をあけて残らずきり立てしが、その勢いに怖れて、大勢が逃げおった。こちらは勝ちに乗ってきり立てしも、おれが弟は七ツばかりだが強かった、一番に追いかけたが、前町の仕立屋の餓鬼に弁治というやつが引返して来て、弟の手を竹槍にて突きおった、その時、おれが駈けつけて、弁治の眉間(みけん)を切ったが、弁治めが尻餅をつき、溝(どぶ)の中へ落ちおった故、つづけ打ちに面(つら)を切ってやった。前町より子供の親父らが出て来るやら大騒ぎ、それから八人がかちどきを揚げて引返し、滝川のうちへはいりたがいによろこんだ。その騒ぎを親父が長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日ばかり目通り止められ押込めに逢った、弟は蔵の中へ五六日おしこめられた」

 神尾主膳は読んで行くうちに、自分の幼年時を、鏡で見せつけられるようなところがないではない。おれは、これらの子供らより驕(おご)った家庭に育ったが、やっぱり気分に於ては、これに譲らないようだ。よし、それではひとつ、おれもこの伝によって、幼年時代のいたずら物語を書いてみてやろう、という気分にまでなりましたが、読みかけたこの書物を、さし置く気にもなれません。全く面白い読物だと心を引かれたのでしょう。

         五十五

 神尾主膳は、なお同じ書物を読み進んで行くと、今までは夢酔老の幼年時代、これからが修業時代の思い出になる。

「九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛という御細工所頭(おさいくどころがしら)を勤める仁(じん)、柔術の先生にて、一橋殿、田安殿はじめ、諾大名大勢弟子を持っている先生が、横網町というところにいる故、弟子になりに行くべしと親父が言う故、行ったが、二五八十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出てみた。はじめは遠慮をしたが、だんだんいたずらを仕出し、内弟子に憎まれ、不断えらき目に逢った。ある日稽古場に行くと、はんの木馬場というところにて、前町の子供らの親共が大勢集まって、おれが通るを待っている、一向に知らずして、その前を通りしが、それ男谷のいたずら子が来た、ぶち殺せと罵(ののし)りおって、竹槍棒ちぎりにて取巻きしが、直ちに刀を抜き、振払い振払い馬場の土手へ駈け上り、御竹蔵(おたけぐら)の二間ばかりの沼堀へはいり、ようやく逃げ込みしが、その時羽織袴が泥だらけになりおった。それから御竹蔵番の門番はふだん遊びに行く故に、いちいち世話をしてくれたが、うちへ帰るきがいがある故、頼んで送ってもらった。大きな目に逢った。その後は二月ばかり亀沢町は通らなんだが、同町の縫箔屋(ぬいはくや)の長というやつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にて叩きちらしてやったが、うちの中間(ちゅうげん)がようようとめて、長のうちへ連れて行って、はんの木馬場の仕返しの由をその野郎の親によく言ったとさ。それよりは亀沢町にて、おれに無礼をする者はなくなったよ。

柔術の稽古場で、みんながおれを憎がって、寒稽古の夜つぶしということをする日、師匠から許しが出て、出席の者が食い物をてんでんに持寄って食うが、おれも重箱へ饅頭(まんじゅう)を入れて行ったが、夜の九ツ時分になると、稽古を休み、皆々、持参のものを出して食うが、おれも旨(うま)いものを食ってやろうと思っていると、みんなが寄って、おれを帯にて縛って、天井へくくし上げおった、その下で残らず寄りおって、おれが饅頭まで食いおる故、上よりしたたかおれが小便をしてやったが、取りちらした食いものへ小便がはねおった故、残らず捨ててしまいおったが、その時はいいきびだと思ったよ。

十の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石取る神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、二月目に遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったゆえ横町へ逃げ込んだ、そうすると先生が、次の稽古に行ったら叱言(こごと)を言いおった、まだ鞍(くら)も据(すわ)らぬくせに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠はいい先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろいろ教えてくれたよ。毎日五十鞍乗りをすべしとて、借馬引にそう言って、藤助、伝蔵、市五郎という奴の馬を借り、毎日毎日、馬にばかりかかっていたが、しまいには馬を買って藤助に預けて置いたが、火事には不断出た。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込みしが、今井帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了(おお)せた。あとで聞けば、火事場は三町手前よりは火元へ行くものではないということだよ。
一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙(あぶみ)を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。

十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門(うどのじんざえもん)という剣術の先生がある、御簾中様(ごれんじゅうさま)の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭(かしら)の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭(おかちがしら)をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。

十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭(はやしだいがくのかみ)のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎(きもいり)のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」

 先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。

「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣(こづかい)またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面(かお)をする。)

兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。

十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあどのがやかましくて(神尾曰(いわ)く、なにばばあがやかましいものか、これで可愛がられるか)おれが面(かお)さえ見ると叱言(こごと)を言いおる故、おれも困って、しまいには兄嫁に話して知恵を借りたが、兄嫁も気の毒に思って、親父へ話してくれたが、そこである日親父がばばあどのへ言うには、小吉もだんだん年をとる故、小身者は煮焚(にた)きまで自分で出来ぬと身上をば持てぬものだから、以来は小吉が食物などは、当人へ自身にするようにさっしゃるがよいと言ってくれる故、なおなおおれがことはかまわず、毎日毎日自身に煮焚きをしたが、醤油には水を入れて置くやら、さまざまのことをするから、心もちが悪くてならなかった。よそより菓子何にてももらえば、おれには隠してくれずして、おれが着物は一つこしらえると、世間へ吹聴(ふいちょう)して、悪くばかり言い散らし、肝(きも)が煎(い)れてならなかった。祖父に言うとおればかり叱るし、こんな困ったことはなかった」

         五十六

「十四の年、おれが思うには、男は何としても一生食われるから、上方あたりへ駈落(かけおち)をして一生いようと思って、五月二十八日に股引(ももひき)をはきてうちを出たが、世間の中は一向知らず、金も七八両盗み出して、腹に巻き附けて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、なんだか心細かった。それからむやみに歩いて、その日には藤沢へ泊ったが、翌朝早く起きて宿を出たが、どうしたらよかろうとぶらぶら行くと、町人の二人連れの男があとから来て、おれにドコへ行くと聞くから、当てはないが上方へ行くと言ったら、わしも上方まで行くから一所に行けと言いおった故、おれも力を得て、一所に行って小田原へ泊った。その時あしたは関所だが手形は持っているかと言う故、そんなものは知らぬと言ったら、銭を三百文出せ、手形は宿でもらってやると言うから、そいつが言う通りにして関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たがその晩に、着物も、大小も、腹にくくしつけた金も、みんな取られた。朝眼がさめた故、枕元を見たらなんにもないから肝がつぶれた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は尾張の津島祭に間に合わないから先へ行くからあとより来いと言って立ちおったと言うから、おれも途方にくれて泣いていたら、亭主が言うには、それは道中の胡麻(ごま)の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して行かしゃるとて真実に世話をしてくれたが、言うには、ドコという当てはないが上方へ行くのだと言ったら、なんしろ襦袢(じゅばん)ばかりにては仕方がない、どうしたらよかろうととほうにくれたが、亭主がひしゃく一本くれて、これまで江戸っ児がこの街道にては、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃくを持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰(もら)って来いと教えたから、ようよう思い直して、一日方々もらって歩いたが、米や麦五升ばかりに、銭百二三十文もらって帰った。亭主はいいものにてその晩は泊めてくれた。翌日まず伊勢へ行って身の上を祈って来たがよかろうと言う故、貰った米と麦とを三升ばかりに銭五十文ほど亭主に礼心にやって、それから毎日毎日乞食をして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原または川原、或いは辻堂へ寝たが、蚊にせめられてロクに寝ることもできず、つまらぬざまだっけ。
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫という御師(おし)のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊めてくれろと言うがいい、そうすると向うで帳面を繰りて見て泊めると教えてくれた故、竜太夫のうちへ行って、中の口にてその通りに言ったら、袴(はかま)など着たやつが出て来て、帳面を持って来て繰り返し繰り返し見おって、奥へ通れと言うから、こわごわ通ったら、六畳敷へおれを入れて、少したってその男が来て、湯へはいれと言うから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると粗末だが御膳を食えとて、いろいろうまい物を出したが、これも久しく食わないから、腹いっぱいやらかした。少し過ぎて竜太夫は狩衣(かりぎぬ)にて来おった。ようこそ御参詣なされたとて、明日は御ふだを上げましょうと言う故、おれはただはいはいと言って、おじぎばかりしていた。それから夜具かやなど出して、お休みなされと言うから寝たが、心持がよかった。翌日はまた御馳走をして御礼をくれた。そこでおれが思うには、とてものことに金を借りてやろうと、世話人へそのことを言ったが、先の取次をした男が出て来て、御用でござりますかと言うから、道中にて胡麻の蠅のことを言い出して、路銀を二両ばかり貸してくれるように頼むと言ったら、竜太夫へ申し聞かすとて引込んだ。少し間が過ぎて、おれに言うには、太夫方も御覧の通り大勢様の御逗留(ごとうりゅう)ゆえ、なかなか手廻り申さぬ故、あまり軽少だがこれを御持参下さるようとて一貫文くれた。それをもらって早々逃げ出した。それから方々へ参ったが銭はあるし、うまいものを食い通したから、元(もと)の木阿弥(もくあみ)になった。竜太夫を教えてくれた男は江戸神田黒門町の村田という紙屋の息子だ。それから、ここで貰い、あそこで貰い、とうとう空に駿河の府中まで帰った……」

 野郎とうとう、胡麻の蠅にしてやられ、乞食から、食い逃げ、借倒しまで功が積んだな、と神尾が、甘酸っぱい面(かお)をして読み進みました。

         五十七

 しかし、天性図々しいところがなければこうはいかぬ、向うが折入ったところを図に乗るのは一つの手だ、あんまり賞(ほ)めた話ではないが、まあ、一つの自業自得さ、と、いい気持で神尾が読み進む「夢酔独言」――
「何を言うにも襦袢(じゅばん)一枚、帯は縄を締め、草鞋(わらじ)をいつにも穿(は)いたこともねえから、ざまの悪い乞食さ。
府中の宿(しゅく)のまん中ころに、観音かなにかの堂があったが、毎晩、夜はその堂の縁の下へ寝た。或る日、府中の城の脇の、御紋附を門の扉につけた寺があるが、その寺の門の脇は、竹藪(たけやぶ)ばかりのところだが、その脇に馬場の入口に、石がたんと積んであるからそこへ一夜寝たが、翌日朝早く、侍が十四五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつも下手だが、夢中になって乗っておるから、おれが目を覚して起き上ったら、馬引どもが見おって、ここに乞食が寝ておった、ふてえ奴だ、なぜ囲いの内へへえりおったとてさんざん叱りおったが、いろいろわび言してその内へかがんでいて馬乗りを見たが、あんまり下手が多いから笑ったら、馬喰(ばくろう)どもが三四人で、したたかおれをブチのめして、外へ引きずり出しおった。おれが言うには、みんな下手だから下手だと言ったが悪いか、と大声でどなったらば、四十ばかりの侍が出おって、これ乞食、手前はドコの奴だ、こぞうのくせに、侍の馬乗りをさっきからいろいろと言う、国はドコだ言え言えというから、おれが国は江戸だ、それに元から乞食ではないと言ったら、馬は好きかという故、好きだと言ったら、一鞍(ひとくら)乗れと言いおる故、襦袢一枚で乗って見せたら、みんな言いおるには、このこぞうめはさむらいの子だろうと言いおって、せんの四十ばかりの男が、おれの家へ一しょに来い、飯をやろうと言うから、けいこをしまい、帰る時、その侍のあとについて行ったら、町奉行屋敷の横町の冠木門(かぶきもん)の屋敷へはいり、おれを呼んで、台所の上り段で、したたか飯と汁とを振舞ったが、旨(うま)かった。その侍も奥の方で、飯を食ってしまって、また台所へ出て来て、おれの名、また親の名を聞きおるから、いいかげんに嘘を言ったら、なんにしろ、ふびんだからおれが所へいろとて、単物(ひとえもの)をくれた、そこの女房もおれが髪を結ってくれた、行水をつかえとて湯を汲んでくれるやら、いろいろと可愛がった。いま考えると与力(よりき)と思うよ。その侍は肩衣(かたぎぬ)をかけてドコへ行ったか夕方うちへ帰った、夜もおれを居間へ呼んで、いろいろ身の上のことを聞いたから、町人の子だと言って隠していたら、いまに大小と袴(はかま)をこしらえてやるから、ここにて辛抱しろと言いおる。六七日もいたが、子のようにしてくれた。おれが腹の中で思うには、こんな家に辛抱していてもなんにもならぬから、上方へ行きて公家(くげ)の侍にでもなる方がよかろうと思いて、或る晩、単物、帯も畳んで寝所に置いて、襦袢を着て、そのうちを逃げ出し、安倍川の向うの地蔵堂にその晩は寝たが、翌日夜の明けないうちに起きて、むやみに上方の方へ逃げたが、銭はなし、食物はなし、三日計りはひどく困ったが、その夜五ツ時分に、堂の縁がわに、どんと音がする故、その音に夢がさめたが、人がいる様子ゆえ、咳(せき)ばらいをしたら、その人が、そこに寝ているは何だと言いおるから、伊勢参りだと言ったら、おれはこの先の宿へばくちに行くが、この銭を手前かついで行け、お伊勢様へお賽銭(さいせん)を上げるからと言いおる故、起き出でてその銭をかついで行くと、たしか鞠子(まりこ)の入口かと思った、普請小屋へはいりしが、おれもつづいて入りしが、三十人ばかり車座になりおって、おれを見て、その乞食めは、なぜここへはいったと親方らしい者が言うと、連れの人が言う、こいつは伊勢参りだから、おれが連れて来たという、そんなら手前は飯でも食って待ってろ、いまにお伊勢様へ御初穂(おはつほ)を上げるからとて、飯酒をたくさんにふるまった。少し過ぎると連れて来た人が銭を三百文ばかり紙に巻いてくれた、ほかのものも、五十、百、二十四文、十二文てんでんにくれたが、九百ばかり貰った。みんなが言いおるには、はやく地蔵様へ行って寝ろと言う故、礼を言うて、この小屋を出ると、ひとりが呼び留めて、大きな握飯(むすび)を三ツくれた。嬉しくってまた半道ばかりのところを戻って、地蔵へ賽銭上げて寝たが、それより、ぶらぶら一文ずつ貰い、四日市まで行くと、先ごろ竜太夫を教えた男に逢った。その時の礼を言って、百文ばかり礼にやったらば、その男は嬉しがって、久しく飯を腹いっぱい食わぬから、飯を食おうとて、二人で飯を買って、松原に寝ころんで食った。別れてよりたがいにいろいろの目に逢った咄(はなし)をして、その日は一所に松原に寝たり、乞食の交りは別なものだ。それから二人言い合って、またまた伊勢へ行った。
この男は四国の金比羅(こんぴら)へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしていたり、だんだん四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝た晩に、頭痛強くして、熱が出て苦しみしが、翌日には何事も知らずして松原に寝ていたが、二日ばかりたって漸く人ごころが出て、往来の人に一文ずつ貰い、そこに倒れて七日ばかり水を飲んで、ようよう腹をこやしていたが、その脇に半町ばかり引込んだ寺があったが、そこの坊主が見つけて、毎日毎日、麦の粥(かゆ)をくれた故、ようよう力がついた。二十二三日ばかり松原に寝ていたが、坊主が菰(こも)二枚くれて、一枚は下へ敷き、一枚はかけて寝ろと言った故、その通りにしてぶらぶらして日を送ったが、二十三日目ごろから足が立った故、大きに嬉しく、竹きれ杖にして、少しずつ歩いたが、それから三日ばかりして、寺へ行って礼を言ったら、大事にしろとて、坊主の古い笠と、草鞋(わらじ)とをくれた故、一日に一里ぐらいずつ歩いたが、伊勢路では火で焚いたものは一向食わぬ、生米をかじりて歩きたり、病後ゆえに腹がなおらぬから、またまた気分が悪くって、ところを忘れたが、ある河原の土橋の下に、大きな穴が横に明いているから、そこへ入って五六日寝ていた。或る晩、若い乞食が二人来て、おれに言うには、その穴は先日まで神田の者が寝所にしていたところだが、どこへか行きおった故に、おらが毎晩寝るところだ、三四日稼(かせ)ぎに出た故、手前に取られて困ると言う故、病気の由を言ったら、そんなら三人にて寝ようとぬかして、六七日一緒にいたが、食い物には困り、どうしようと二人へ言ったら、伊勢にては、火の物は大神宮様が外へ出すを嫌いだからくれぬ故、在郷へ行ってみろと言うから、杖にすがって、そこより十七八町わきの村方へはいったら、番太郎が六尺棒を持って出て、なぜ村へ来た、そのために入口に札が立ててある、このべらぼうめがとぬかして、棒でブチおったが、病気ゆえに、気が遠くなって倒れた、そうすると、足にて村の外へ飛ばしおった故、腹這(はらば)うようにして漸く橋の下へ帰って来たら、二人がどうしたと言うから、そのしだいを言ったら、手前は米はあるかと言うから、麦と、米と、三四合もらいだめを出して見せたら、そんならおれが粥子(かゆこ)を煮てやろうと言って、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を掘って、徳利へ麦と米と入れて、水を入れ、木の枝を燃して、粥を拵(こしら)えてくれたから、少し食ったあとは礼に二人に振舞った。それよりおれも古徳利を見つけ、毎日毎日、もらった米、麦、引割をその徳利にて煮て食ったから、困らないようになったが、それまではまことに食物には困った。だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だから、毎夜毎夜、町を貰って歩いたが、伝馬町というところの米屋で、ちいさい小皿に引割を入れて施行(せぎょう)に庭へ並べて置くから、一つ取ったが、一つのさしに銭が一文あるから、そっとまた一つ取った、そうすると米を搗(つ)いていた男が見つけおって、腹を立て、二度取りをしおるとて握(にぎ)り拳(こぶし)でおれをしたたかぶちおったが、病後ゆえ、道ばたに倒れた。ようよう気がついた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようやく二本杖で歩く時ゆえか、翌日は一日腰が痛くって、ドコへも出なんだ。それから或る日の晩方、飯が食いたいから二丁町へはいったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだん貰って行ったら、曲り角の女郎屋で客が騒いでいたが、おれに言うには、手前はこぞうのくせに、なぜそんなに二本杖で歩く、悪くわずらったかと言う、左様でござりますと言ったら、そうであろう、よく死ななかった、どれ飯をやろうとて、飯や、肴(さかな)や、いろいろのさいを竹の皮に包ませ、銭を三百文つかんでくれた、おれは地獄で地蔵に逢ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて、女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬(ひぢりめん)の袖のついた白地の浴衣(ゆかた)と、紺縮緬のふんどしをくれたが、嬉しかった。その晩は木賃宿へ泊って、畳の上へ寝るがいいと言った故、厚く礼を言って、それから伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると泊ったが、しまいには宿銭から食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物(ひとえもの)を六百文の質に入れてもらって、早々そこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へまた志して行くに、石部(いしべ)まで行って或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹(ふたさお)来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几(しょうぎ)に腰をかけて酒を飲んでいたが、おれに言うには、手前はわずらったな、ドコへ行くと言うから、上方へ行くと言ったら、当てがあるのかと言うから、あてはないが行くと言ったら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代(かみさかやき)をしろとて、向うの髪結床へ連れて行ってさせて、そのなりでは外聞が悪いとて、きれいな浴衣をくれて、三尺手拭をくれた、しかして杖をついては埒(らち)が明かぬから、駕籠(かご)へ乗れとて、駕籠をやといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て、おれを連れた親方は国へ帰るとて、くれた単物を取り返して、木綿の古襦袢をくれて直ぐに出て行きおったから、いま一人の親方が言うには、手前はこれまで連れて来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、また乞食をして、ぶらぶら来て、ところは忘れたが、あるがけのところにその晩は寝たが、どういうわけか崖より下へ落ち、岩の角にきんたまを打ったが、気絶をしていたと見えて、翌日ようよう人らしくなったが、きんたまが痛んで歩くことがならなんだ。二三日過ぎると少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫(は)れて膿(うみ)がしたたか出たが、がまんをして、その翌日、二子山まで歩いたが、日が暮れるからそこにその晩は寝ていたが、夜の明け方、飛脚が三度通りて、おれに言うには、手前ゆうべはここに寝たかと言う故、あい、と言ったら、強い奴だ、よく狼に食われなんだ、こんどから山へは寝るなと言って銭を百文ばかりくれた。三枚橋へ来て茶屋のわきに寝ていたら、人足が五六人来て、こぞうなぜ寝ていると言いおるから、腹が減ってならぬから寝ていると言ったら、飯を一ぱいくれた。その中に四十ぐらいの男が言うには、おれのところへ来て奉公しやれ、飯はたくさん食われるからと言う故に、一緒に行ったら小田原の城下の外の横町にて、漁師町にて喜平次という男だ。おれを内へ入れて、女房や娘に、奉公につれて来たから、可愛がってやれと言った、女房娘もやれこれと言って、飯を食えと言うから、飯を食ったらきらず飯だ、魚はたくさんあってくれた、あすよりは海へ行って船を漕(こ)げと言うから、江戸にて海へは度々(たびたび)行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名は何というかと聞くから、亀というと言ったら、お鉢の小さいのを渡して、これに弁当をつめて朝七つより毎日毎日行け、手前は江戸っ児だから、二三日は海にて飯は食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖(こわ)くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行った。それから同船のやつが、うちへおれを連れて行って頼んだから、翌朝より早く来いと言う、それから毎朝毎朝、船へ行ったが、みんなが言うには、亀が歩くなりはおかしいと言いおる、そのはずだ、きんたまの腫れが引かずにいて水がぽたぽた垂れて困ったが、とうとう隠し通してしまったが困ったよ。毎日朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引き上げ、網を干して、少しずつ魚を貰って小田原の町へ売りに行った。それからうちへ帰って、きらずを買って来て四人の飯を焚(た)くし、近所の使をして、二文三文ずつ貰った。うちの娘は三十ばかり気のいいやつで、時々水瓜(すいか)などを買ってくれた。女房はやかましくてよくこき使った。喜平は人足ゆえ、うちには夜ばかりいたが、これはやさしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第(りょうけんしだい)になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏(うるう)八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪(たかなわ)の漁師町のうらにはいりて、海苔取船(のりとりぶね)があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥(くたび)れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山(あたごやま)でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日回向院(えこういん)の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩度々(たびたび)、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭(かしら)があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」
 野郎、土性骨まで乞食になりおったな、しかしまあ、ここまで乞食になりきれりゃあ、人間もねうちものだと、神尾が感心しながら、野郎どんな面(かお)をして養家の閾(しきい)をまたぐのかと、調べてみました――
「そして、裏から亀沢町へ来て見たが、なんだか閾が高いようだから(でも閾の高低がわかるだけの感は残っていたのが不思議)引返して二ツ目の向うの材木問屋の蔭へ行って寝た。三日目に朝早く起きてうちへ帰ったが、うちじゅう、小吉が帰ったとて大騒ぎをし、おれが部屋へ入って寝たが、十日ばかりは寝通しをした。おれがいないうちは加持祈祷いろいろとして、いとこの恵山というびくは、上方まで尋ねて上ったとて話した。それから医者が来て、腰下に何か仔細があろうとていろいろ言ったが、その時はまだ、きんたまが崩れていたが、強情にないと言って帰してしまった。三月ばかりたつと、しつが出来てだんだん大相(たいそう)になった、起居(たちい)もできぬようになって、二年ばかりは外へも行かずうちずまいをしたよ。それから親父が、おれの頭(かしら)、石川右近将監に、帰りし由を言って、いかにも恐れ入ること故、小吉は隠居させ、ほかに養子いたすべきと言ったら、石川殿が、今日帰らぬと月切れゆえ家は断絶するが、まずまず帰って目出たい、それには及ばぬ、年とって改心すればお役にも立つべし、よくよく手当して遣(つか)わすべしと言われた、それから一同安心したと皆が咄(はな)した」

         五十八

 神尾主膳は、読み去り読み来(きた)る間にも、さげすんでみたり、存外やると思ってみたり、ばかばかしいと思ってみたり、おれは何が何でもここまでは落ちられないと歎息してみたりする、その間にも、四十俵高の小身者(しょうしんもの)と、自分の生れと比較して、優越感にひたらざるを得ないのも、この人の性根であります。
「根が小身者だからな」
とさげすみながらも、甚(はなは)だ共鳴させられる節が多くて、これはおれを書いているのではないか、自分の姿を鏡で見せられてでもいるような心持に、うっかりと捉われてしまうのは、つまり、高に大小こそあれ、やっぱり生え抜きの江戸人である。勝の家も小身ながら開府以来の江戸人である、男谷(おたに)の方は越後から来た検校出(けんぎょうで)ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところのものが、この一巻のうちに流れている。しかるが故に、神尾主膳が、このまずい文章と、格法を無視した記録に、足許をさらわれそうにしている。読み出した以上は読み了(おわ)らなければならない。東海道をうろついて、乞食をして歩いただけで納まったのでは、勝の父らしくない。この性根が一生涯附いて廻らなければ本物とは言えないと、神尾は変なところへ同情を置いて、次へと読み進みました。
「十六の年には、ようやくしつもよくなったから出勤するがいいと言うから、あいたいをつとめたが、頭(かしら)の宅で帳面が出ているにめいめい名を書くのだが、おれは手前の名が書けなくて困った。
人に頼んで書いてもらった。石川があいたいの後で、乞食をした咄(はなし)を隠さずしろと言ったから、初めからのことを言ったら、よく修業した、いまに番入りをさせてやるから、しんぼうをしろと言われた。
またうちでは、ばばアどのがなおなおやかましくなって、おのれは勝の家をつぶそうとしたな、といろいろ言いおって困った故、毎日毎日うちにはいなんだ。
兄貴の役所詰に久保島可六という男があったが、そいつがおれをだまかして連れて行きおったが、面白かったから毎晩毎晩行ったが、金がなくって困っていると、信州の御料所から御年貢(おねんぐ)の金が七千両来た、役所へ預けて改めて御金蔵へ納めるのだ、その時おれに番人を兄貴が言いつけたから番をしていると、可六が言うには、金がなくては吉原は面白くないから、百両ばかり盗めと教えたが、(神尾曰(いわ)く、悪いことを教える奴だ)おれもそうだと言って(そうだと言う奴があるか)千両箱をあけて二百両取ったが(そらこそだ)あとがガタガタするゆえ困ったら、久保島が石ころを紙に包んで入れてくれた故、知らぬ顔でいたが、二三月たつと知れて、兄きがおこったが(おこるのがあたりまえ)いろいろ論議をしたら、おれが出したと役所の小使めが白状しおった故、おれに金を出せとて兄きが責めたが、知らぬとて強情をはり通したが、兄が親父へそのわけを話したら、親父が言うには、手前も、年の若いうちに度々そんなことはあったっけ、僅かの金で小吉を瑕物(きずもの)にはできぬ故、何とか了簡(りょうけん)してみてやれと言った。そこで、いよいよおれが取ったに違いない故それきりにして、誰も知らぬ顔で納まった。おれはその金を吉原へ持って行って一月半ばかりに使ってしまったが、それから蔵宿(くらやど)やほうぼうを頼んで金をつかった」
 いったい、その親共なり、支配頭なりが、厳しいのか甘いのかわからぬ。自分もやっぱり、この厳しいような、甘いような江戸の家風に育った一人だ。勝のおやじのためには、たしかにそれが子孫への教訓にもなるようなものだが、おれのはなんにも残らぬ、と神尾がやや自覚しました。それから読みついで行くと、いよいよ大変なもので……
「ある日、おれの従弟(いとこ)のところへ行ったら、その子の新太郎と忠次郎という兄弟があるが、一日、いろいろ咄(はなし)をしたが、そこの用人に源兵衛というのがいたが、剣術遣いだということだが、おれに向って言うには、
『お前さんは、いろいろとあばれなさいますが、喧嘩はなさいましたか』
と言うから、おれが、
『喧嘩は大好きだが、小さいうちから度々(たびたび)したが面白いものだ』(こういう野郎だ)
と言った。

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