大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 斎藤の語尾が吟声になったが、直ちに真面目に返って、山崎の耳に口を寄せると、
「近藤隊長の命で、御陵衛士隊へ間者に入ってるんだよ、僕が――伊東をはじめ高台寺の現状を、味方と見せて偵察し、巧みに近藤方に通知するのが拙者の任務だ」
「そうか」
 山崎も納得したらしい。この斎藤というのは名を一(はじめ)と言い、藤堂平助と共に、江戸以来、近藤方の腹心であったが、今度は藤堂と相携えて御陵隊へ馳(は)せ加わってしまった。藤堂の方は新撰組に何か不平があってしたのだから、それが本心であろうけれども、斎藤はあらかじめ近藤の旨を受けて、間者として高台寺へ入り込ませてあるのだという。その内状を山崎が聞いてなるほどと思う――
「して、こんなに遅く、伊東を案内してドコへ行ったのだ」
「それを話すと長いが、まあ聞いてくれ」
 これもいい気なもので、御紋章の提灯を橋の一角に安置して置いて、もっぱら山崎を話敵(はなしがたき)に取ろうというものです。

         四十七

 斎藤一の語るところによると、今晩この男が、御陵衛士隊長伊東甲子太郎を送って、ここのところを通りかかった事情は次の如くでありました。
 上述の如く、近藤の新撰組と、伊東を盟主とする御陵衛士隊とは、相対峙(あいたいじ)して形勢風雲を孕(はら)んだ。どのみち、血の雨を降らさないことには両立のできない体勢になっている。土方歳三が、ついに火蓋(ひぶた)を切って、
「高台寺の裏山へ大砲を仕かけて、彼等の陣営を木端微塵に砕き、逃げ出して来る奴を一人残らず銃殺すべし」
 それを近藤が抑えて、
「何と言ってもお場所柄、それは穏かでないから、まあ、おれに任せろ」
というわけで、なるべく周囲の天地を驚かさないようにして、なるべく最少の動揺を以て彼等鏖殺(おうさつ)の秘計を胸に秘めつつ、事もなげに伊東へ使をやって、
「君等の隊と我々の隊との間に、戦場が開かれようとして、またしても京の天地に戦慄(せんりつ)が一つ加わった、そうでなくてさえ、人心極度におびえているところへ、また我々の同志討ちがはじまったとなっては、この上の人心動揺はかり難い、君等の奉仕する朝廷へ対しても恐れ多い次第だし、我等のつとむる幕府のためにも不利不益だ、おたがいの間のわだかまりは、先日切腹の茨木ら四人の犠牲で結論がついている、この上は笑って滞りを一掃しようではないか、それには、君と僕とが相和することが第一だ、君と僕とが相和して往来するようになれば、京中の上下は全く安心する、よってこの際、旧交を温めて、快く一夕を語り明かしたい」
 こういう意味で伊東へ交渉すると、伊東はそれを承諾した。伊東自身にも、その配下にも、あぶないという予感は充分にあったと思うが、近藤も男、おれも男である、こうまで言ってきているのに、行かないというは卑怯である、というわけで、近藤の招きに応じて今日、昼のうちから七条醒ヶ井の近藤の妾宅(しょうたく)へ出かけたのだ、吾輩がともをして。近藤は非常な喜び方で接待をする。先方には土方もいる。原田左之助もいる。会ってみれば皆、剣に生きる同志で、死生を誓った仲間だ。興は十二分に湧いて、款(かん)を尽して飲むほどに、酔うほどに、ついつい夜更けに及んでしまって、今こうして立ちかえるところなのだ。案ずるほどのことはない、極めて無事にこれから、高台寺月心院の屯所へ帰って快く、ぐっすりと寝込むばかりだ――
 こういうような事情を、斎藤一が山崎譲に向って、橋上で、自分も一杯機嫌に任せていい心持で語るのは、もはや、帰ることも忘れているような様子です。
 ところが一方、斎藤をここへ置き放して、一歩先に進んだ伊東甲子太郎は、これはまた斎藤よりも一層いい心持で、ぶらりぶらりと橋の袂(たもと)まで来ると、そこに一人の人間が立っているのを認めて、
「おい、誰だ、そこにいるのは」
 酔眼をみはって誰何(すいか)したが、返事がない。よって、わざわざ摺(す)りよるように近づいて、
「なんだ、机竜之助氏ではないか」
 竜之助と呼ばれた立像は、無言でうなずいているのを伊東が、
「何しに、こんな夜更けに、こんなところにいるのだ、芹沢の来るのを待っているのか、ははあ、山崎と同行か、山崎は今、あの通り、橋の上で斎藤と話している」
 伊東も振返って、再び橋上を見ると、立話に夢中な斎藤も、山崎も、てんでこちらのことは忘れてしまっているようです。
「して、貴殿はドコへ行かれる、先年、島原から行方不明になったとは聞いたが、どうして今ごろ、こんなところに何をしておられる」
 伊東甲子太郎は、こう言って、橋詰に立つ竜之助に向って問いかけたのは、酔い心地に旧知のことを思い出したのです。
 だが、竜之助は相も変らず柳の下に、立像のように突立っているだけで返事がない。酔っている伊東は、返事のないことにも頓着せずに、畳みかけて物を言う、
「今時、貴殿ほどに腕の出来るものを遊ばして置くという手はない、いったい、君は佐幕派かい、勤王派かい」
 駄目を押しても相手がいよいよ返事がない。伊東も木像を相手にする気にもなれず、
「そんなことは、ドチラでもかまわん、進退が自由だとすれば、僕のところへ来給え、ついこの上の高台寺月心院に、御陵衛士隊屯所というのがそれだ、貴殿が来てくれれば、死んだ芹沢も喜ぶに相違ない」
と言って誘いかけてみました。
 それでも、相手がウンともスンとも言わないので、伊東もあぐねて、もう相手にせず、そのまま橋詰を歩き出して、南側の、以前見た焼跡の板囲いのあたりまで来てしまいました。
 そうすると、ようやく長い立話を終った斎藤一が、菊桐御紋章の提灯をたずさえて、ここへ近づいて来て、
「いやどうも、旧友に出逢ったので、つい話が入り組んで……」
 申しわけたらたら近づいて来たのですが、山崎はついて来ない。橋上にも、橋詰にも、その姿を見ることができない。ドコへか消えてなくなったようなものです。

         四十八

 伊東と斎藤とは、そこでまた一緒になって、斎藤が御紋章の提灯をさげて先に立つと、伊東が、
「今そこで、拙者も変な人間に出会ったよ、一時は幽霊かと思ったがな」
「誰にですか」
「全く意外な男だ、それ吉田竜太郎――本名は机竜之助という、先年島原から行方不明になったあの男が、今、ひょっこりと、その橋詰の柳の木の下に立っている」
「机竜之助が――」
「あんまり不思議だから、話しかけてみたが、いっこう返答がない、音無しの構えだ」
「そうですか、それは珍しい人物に逢ったものですな、あの先生、島原であんな物狂いを起してから、トンと行方不明、人の噂(うわさ)では十津川筋で戦死したとも言われていたが、それではまだ生きていたのかな」
「たしかに、あの男だったよ、それから僕がいろいろ話しかけて、遊んでいるなら我々の屯所へ来いと言ったが、やっぱりウンだともツブれたとも言わぬ」
「はーて、それは珍しい、珍しいばかりじゃない、近ごろの掘出し物だ。本来、あの男は芹沢とよく、近藤とはよくない方だから、渡りをつければ、当然こっちへ来るべき男だ。惜しいことをした、今時こんなところにうろついているとすれば、きっと道に迷っているのです。道に迷っているとすれば、我々の屯所へ引こうではありませんか、あれを近藤方へ廻しては一敵国だ」
「僕もそう思って、しきりに誘いをかけてみたのだが、いっこう返事がない――しいてすると、ああいう性格の男だから、かえって事こわしと思って引上げたのだ」
「それは惜しいことです、ああいう人間をこの際、見落すという手はない、もう一ぺん引返して、さがしてみましょう、そうして僕からもひとつ説得を試みてみようではありませんか」
「それもそうだ、では、もう一ぺん引返してみよう、ついそこの橋詰の柳の木の下だよ」
 二人は、二三歩あとへ引返した。ほんの踵(きびす)をめぐらさずに、振り返れば済むだけの距離でしたが、振り返って見ると、もう、それらしい人はいずれにも見えない。いつのまにか消えてなくなっている。これより先、田中新兵衛の姿はもはや消えてなくなってしまっている。消えてなくなったのは、山崎譲と、田中新兵衛と、机竜之助だけではない、斎藤一もいつしか、橋上橋畔から姿を消してしまって、橋の真中から再び歩を踏み直しているのは伊東甲子太郎ひとりだけです。この男だけが例の酔歩蹣跚(すいほまんさん)として、全く、いい心持で、踊るが如くに踏んでいるその足許(あしもと)だけは変らない。

         四十九

 こうして、橋上を闊歩して戻る伊東甲子太郎の胸中は得意を以て満ちておりました。
 まず第一は、新撰組との絶縁が円満に通過したことです。新撰組を脱するには死を以てしなければならないのが、無事に解決したということに彼は大きな満足を感じていました。
 第二には、これによって幕府方と縁を断って、勤王方の一枚看板を掲げることができたというものである。もはや、眼のある人の目から見れば徳川幕府の時代ではない、勤王或いは別種の新勢力が取って代るべき時代が到来している。その新時代の新勢力の中へ、自分が一方の長として大手を振って合流することができる。勤王は自分の本来の持論であるのだ。
 第三には、右の意味に於て、自分には有力なる大藩や公卿のバックがある。それというのは、新撰組の兇暴に辟易(へきえき)しきっているこれらの諸藩閥が、一つには彼の勢力を殺(そ)ぎ、一つにはそれに対抗するために、別に一勢力を欲しがっている。自分がその適任と認められている。すなわち幕府方に近藤あるが如く、勤王方は自分を盛り立てようとする有力者が多い。
 それから、今日――から今晩にかけての会見についても、隊の者は不安がったが、自分はタカを括(くく)っていた。近藤といえども、もはや、おれの御機嫌を取らぬことには地位が不利益だということに気がついたのだ。いったい、近藤という男を、世間は兇暴一点張りの男とのみ見る奴が多いが、どうして、彼はなかなか眼さきも利(き)いているし、機を見るに敏な奴だ。不幸にして彼は有力な藩に生れなかったから、独力で今日の地位に驀進(ばくしん)しただけのもので、彼を西南の大藩にでも置けば、勤王方の有力なる一城壁をなす人物なのだ。だから、話せば話もわかる男で、存外、御(ぎょ)し易(やす)いのだ。なにも彼を強(し)いて敵に取るには及ばない。相当に追従して置いて、適当の時機に利用するもまた妙ではないか。
 伊東甲子太郎は、こんなことを胸中に考えて、ほくそ笑みつつ、ふと手を掲げて、己(おの)れの持った提灯をかざして見ると、また一段と肩身の広いことを感ずる。
 畏(かしこ)くもこの御紋章が物を言うのだ。こうして深夜、大手を振って、昨今の京洛を闊歩できるというのも、一つはこの御紋章が物を言うのだ。おれを快しとしない近藤一味といえども、この提灯に仇(あだ)をなすことはできない。
 かくて伊東は、満ちきった気分を以て橋を渡りきって、いよいよ再三問題の、南側の火事場あとの板囲いのところへさしかかったのであります。
 これより先、この板囲いの中には都合五人の黒いのが隠れておりました。
 抜身の槍の穂先が、尖々(せんせん)と月光にかがやいている。刀の白刃が、鞘(さや)の中で戞々(かつかつ)と走っている。五人十本の腕が、むずむずと手ぐすねで鳴っている。
 その間へ、別の方面の板囲いの透間を押分けて、また一つの黒いのが這(は)い込んで来ました。見ると、それが、さきほどの斎藤一です。忍び寄った斎藤は、この五人の鞘走りの一団へ近づいて、
「大石――」
「誰だ、斎藤か」
「来たぞ、来たぞ、いよいよ来たぞ」
と腹這いながら斎藤が言いました。
「来たか」
「それそれ、あの通り、得意満々たる千鳥足、御自慢の御紋章の提灯が何よりの目じるしだ、そらそら、今、そこをその板囲いの前を通る」
「御参(ござん)なれ!」
「やっ!」
と、大石鍬次郎が突き出した手練の槍、板囲いの間からズブリと出て、
「あっ!」
と、たしかに手答えがあった。表から見ると、無惨や伊東甲子太郎が、肩から首筋を貫かれて無念の形相(ぎょうそう)――血が泉のように迸(ほとばし)る。
「それ辰公――やっつけろ」
 首を突き貫かれて、よろめく伊東甲子太郎に向って、真先に板囲いの中から跳(おど)り出して斬ってかかったのは、元の伊東が手飼いの馬丁(べっとう)。
「隊長、済まねえが、わっしに首をおくんなさい」
「貴様は辰だな!」
 槍を掴(つか)んだ伊東の眥(まなじり)が裂ける。こいつは、先頃まで、自分が引立てて馬丁をさせて置いた辰公だ――八ツ裂きにすべき裏切者。
 痛手に屈せぬ伊東は、刀を抜いて、一刀の下にこの卑怯なる裏切者を斬って捨てたが、この時、板囲いの中から一斉に跳り出した五人の新撰組が、抜きつれて、手負いの伊東を取囲んで斬ってかかる。五人に囲まれて、走り且つ戦い、よろよろと御前通りの法華寺門前までよろけかかって来た伊東甲子太郎。そこに「一天四海」の石碑がある、その台石の上へ、よろけかかって腰を落しながら、
「奸賊(かんぞく)、新撰組! 呪(のろ)われろ」
と叫んで、槍創(やりきず)から吹き出す血汐(ちしお)を押え、うつぶしになったが、もうその時、息が絶えてしまっていた。
「存外、脆(もろ)かったなあ」
 五人のものもホッと一息つく。脆いのではない、この手でやられては、誰でも免(まぬが)れる由はあるまい。この運命を免れんとするには、最初、招きに応じて出なければよかったのだ。
 五人の者は、倒れ伏した御陵衛士隊長に近づいて、更におのおのこれに一刀ずつを加えて、更にその屍体(したい)を引摺り出して、そうして、程遠からぬ七条油小路の四辻へ引張り出して、大道へ置捨てにしました。
 しかも、その屍体には、念入りに御紋章入りの提灯を握り持たせてある。そうして置いて、一方には程近き町役人を叩き起して、
「御陵衛士の隊長が斬られている、伊東甲子太郎が殺されていると、高台寺へ向って知らせてやれ」
 町役人は慄(ふる)え上った。殺したのはこのやからであるにきまっている。そうして、このやからは新撰組のほかの者でありようはずがない。
 右の如くにして、伊東甲子太郎がせっかくの得意、これからという時、この途中にして殪(たお)れてしまいました。

         五十

 ところで、その晩のこと、月心院の屯所(とんしょ)の大きな火鉢を囲んで、伊東配下、御陵衛士隊の錚々(そうそう)たるもの、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、毛内(もうない)有之助、富山弥兵衛、加納道之助の面々が詰めきって、宵のうちから芸術談に花が咲いている。
 話題に夢中になったこの時間、この連中にも、殺気が消えて、芸術心というものが集中する。
 いったい、これらの人々には、勤王と言い、佐幕というようなイデオロギーよりは、芸術という魅力によって生き、これによって死んで悔いないというのが持味(もちあじ)なのです。
「芸術」というのは、徳川期に於ては「武術」に限ることであって、明治後期以後に慣用されたようなキザな生ぬるいものではない。
 勤王と言わず、佐幕と言わず、これが中心に活躍した壮士はすべて芸術の士である。芸術に於て彼等は必ずしも大家ではなかったけれども、それを生命とすることに於て、大家以上の精進力を持っていた。たとえば長州に於ては、桂小五郎もこの芸術家であった。薩摩に於て、西郷は芸術家たるべくして、負傷と体質から、その主流には外(はず)れたが、桐野は異彩ある芸術家の一人である。幕府に於て、近藤勇以下はまたその芸術家である。
 明治維新の推進力は、この種の芸術家の手にあった。暗殺はその一部分の演出表現に過ぎない。
 従って、当時の本物の志士で、談ひとたび芸術に亘(わた)ると神飛魂走せぬものはない。その点にはおのずから一種の見識があって、断じて一歩も譲らない剣刃上の覚悟があると共に、他の長を認めてこれを公平に鑑別するの雅量をも相当に持っていたらしい。ドコの藩で、誰がいかなる剣を使うかということの詮索(せんさく)は、彼等の間では、専門学者の研究慾と同じような熱を持っている。
 これらの連中の長夜の談義は、はしなくその芸術のことに燃えて、諸国、諸流、諸大家、諸末流の批評、検討、偶語、漫言雑出、やがて江戸の講武所の道場のことに帰一合流したような形になって、自然、男谷(おたに)の剣術のことに及ばんとした時でありました。
 これをこのほど、将軍上洛の時の人名表によって見ると、
  講武所 頭取
御使番次席   松平仲
御徒頭次席   一色仁左衛門
  同 砲術師範役
西丸御留守居格 下曾根甲斐守
        榊原鐘次郎
  同 剣術師範役
御先手格    男谷下総守
  同 槍術師範役
二丸御留守居格 平岩次郎太夫
ということになっている。つまり武家の表芸術、剣と、槍とを代表して、この二人だけが将軍について京都へ来ている。以て天下の芸術の代表の大家たることを知るべしと言わなければならぬ。
 何と言っても、江戸が武将の幕府である限り、芸術の秀粋も江戸に鍾(あつ)まることは当然である。その江戸芸術の粋たるものは当時、講武所にあるということも、避け難い結論となっている。その講武所の剣術に於て、男谷が押えていたということも、一同に異論のないことになっている。芸術の士の常として、屈下するをいさぎよしとしない。独創を尚(とうと)ぶが故に、模倣と追従とを卑しみ悪(にく)むことは変りはないが、自然、乱調子の中にも、長を長とし、優を優とする公論の帰するところも現われようというものです。
 男谷の剣術に就いては、これらの壮士といえども、多くの異論を起し易(やす)くない。男谷と言えば、その次には、今時の今堀、榊原、三橋、伊庭、近藤というあたりに及ぶべきところだが、会談が溯(さかのぼ)って島田虎之助が出る。島田を言う次に、勝麟(かつりん)の噂(うわさ)が出るような風向きになりました。
 勝麟太郎の名は、剣術としての名ではない、当時は幕府有数の人材の一人として、何人(なんぴと)の口頭にも上るところの名でありました。単に芸術の士だけではない、これからの天下の舞台を背負って立つ幕府方の最も有力なる人材の一人として、誰人にも嘱望されている名前でしたが、ここでは単に芸術の引合いとしての勝麟の名が呼び出される。
「いったい、勝は剣術は出来るのかいなア」
「勝の剣術は見たことないよ」
「だが、勝に言わせると、おれは学問としても、修行としても、ロクなことは一つもしていないが、剣術だけは本当の修行したと言っているぜ」
「口幅(くちはば)ったい言い分だな、ドレだけ修行して、ドレだけ出来るのか、勝に限って、まだ人を一人斬ったという話も聞かない」
「若い時は、あれで盛んに道場荒しをやったそうだ」
「いったい、彼は何の流儀で、誰に就いて剣術を学んだのだ」
「師匠は島田虎之助だが、剣術にかけては島田より家筋が確かなんだ、勝はあれで男谷の甥(おい)に当るんで、勝の父なるものが、男谷の弟なんだ、それが勝家へ養子に来たのだから、れっきとした武術の家柄なのさ――いやはや、その勝の父なるものが、箸(はし)にも棒にもかかった代物(しろもの)ではない」
と一座の中の物識(ものし)りが、勝麟太郎の家柄を洗い立てにかかったのが、ようやく話題の中心に移ろうとする時でありました。
 そこへ、ひょっこりと姿を現わして、
「やあ諸君、おそろいだな」
と、抜からぬ面(かお)で言いかけたのが、斎藤一でありました。

         五十一

「斎藤が帰って来たぞ」
「一人で帰って来たぞ」
「隊長はどうした」
 その詰問に斎藤が騒がぬ体(てい)で答える、
「隊長は今そこまで来ている、僕は別に人を一人つれて、一足先に帰って来たよ」
「別な人とは誰だ」
「そこにいるよ」
「どこに」
「そこに」
「誰もいないではないか」
「いるよ、たった一人、そこに立っているのが見えないか」
「見えない――」
「幽霊ではないか」
「戯談(じょうだん)を言うな、机竜之助だぞ」
「机竜之助がどうしたというのだ」
 そこで、一同が水をかけられたような気分になったが、それもホンの通り魔、我にかえって見ると、斎藤一もいなければ、机竜之助なるものもいない。
 二人は簡単なあいさつだけで、早くも奥の間に向って消えてなくなったものでしょう。
 これに芸術談の腰を折られた一同は、思い出したように、
「隊長の帰りが遅いではないか」
 これが、彼等の本来の不安であったが、その不安な気分を紛らわす間に、話の興が副産の芸術談に咲いてしまったのを、また取戻したという形です。
 そこへ、今度は、表門から、極度の狼狽(ろうばい)と動顛(どうてん)とを以て、発音もかすれかすれに、
「た、た、た、大変でござりまする、御陵衛士隊長様が殺されました、伊東甲子太郎先生が斬られて、七条油小路の四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の屯所へお知らせ申せとのこと故に、町役一同、馳(は)せつけて参りました」
 これは、通り魔の叫びではない、まさしく現実の声で、屯所の壮士一同の不安の的を射抜いた驚報でしたから、
「スワ……」
と一度に色めき立って、押取刀(おっとりがたな)で駈け出そうとしたが、
「諸君、そのまま駈け出しては危険だ、裏には裏がある」
「もっともだ」
と、逸(はや)る心を押鎮めて、
「さてこそ新撰組の術中に陥ったのだ、これは隊長を殺した上に我々を誘(おび)き出そうとする手段か、しからずば隊長を殺したと称して、我々を乱す計略に相違ない、使者の者を留めて置いて、再応仔細を糾問(きゅうもん)すべし」
 使者というのは七条油小路の町役人であって、その申告は、目のあたり見て来ているのだから間違いはない。
「たしかに御陵衛士隊長伊東甲子太郎様が、何者にか殺害せられ、御紋章の提灯をお持ちになったままで、私共かかりの七条油小路四辻に無惨の御横死でござりまする」
「して、それを誰が見届けた」
「市中巡邏(しちゅうじゅんら)のおかかりからの仰せつけでござります」
「巡邏というのは新撰組のことだろう」
「左様でござります」
「して、誰が死体の傍らに見張りをしているか」
「はい、新撰組の方が、我々が張番をしているから、其方たち行って知らせて来いとの仰せでござります」
「よくわかった」
 新撰組が殺して、新撰組が張番をしているのである。隊長がその術中に落ちたのみではない、その手で、我々を誘き寄せようとの手段であることは、もう明らかだ。彼等の怒髪は天を衝(つ)き、闘争の血は湧き上った。
「諸君、これは尋常ではいけない、戦場に臨む覚悟を以て行かないと違う、甲冑着用に及ぶべし」
との動議を提出したのは、この組の中で、最も年少にして、最も剣道に優れた服部三郎兵衛でありました。
 誰もそれを卑怯だとも、大仰(おおぎょう)に過ぐるとも笑う者がない。
 事実、新撰組の京都に於ける勢力は、厳たる一諸侯の勢力であって、彼等には刀槍の表武器のほかに、鉄砲弾薬の用意も備わっているのである。その新撰組が計画しているところへ飛び込むには、戦場に赴(おもむ)くの覚悟があって至当なのであります。
 甲冑着用を申し出でた服部の提言を笑う者はなかったけれども、それに同じようとする者もない。それについて憮然(ぶぜん)たる態度で、そうして老巧――といってもみな三十前後ですが、比較的年長の輿論(よろん)は次のようなものです。
「いずれにしても、新撰組全体を相手に取るとすれば、我々同志の少数を以てこれに当ること、勝敗の数はあらかじめわかっている、十死あって一生がないのだ、要するに死後に於てとかくのそしりを残さぬようにする用意が第一――甲冑用意も卑怯なりとは言わないが、一同素肌で斬死(きりじに)の潔(いさぎよ)きには及ぶまい。彼等が隊長を殺し、彼等が張番をし、彼等が注進をよこして来た、言語道断の白々しさではあるが、表面一通りの体裁を立てて来たので、戦闘行為を仕掛けて来たというわけではないから、これに応ずるにひとまず礼を以て受け、しかして後に従容(しょうよう)として斬死の手段がよかろうではないか」
 一同が、この言に従って、素肌を以てこれに臨み、素肌を以て決死の応戦に覚悟をきめてしまいましたのです。
 ひとり主張者の服部三郎兵衛だけは、ひそかに、一室に於て、身に鎖をつけ、その上に真綿の縫刺しの胴着を着たのは、覚悟の上に覚悟のあることに相違ない。
 かくて以上七人が、打揃うて、別に一人の小者を従え、隊長の屍骸を収容して帰るべき一台の駕籠(かご)を二人の駕丁(かごや)に釣らせて、粛々として七条油小路の現場に出動したのは、慶応三年十一月十一日の夜は深く、月光(げっこう)晧々(こうこう)として昼を欺くばかりの空でありました。

         五十二

 神尾主膳が閑居してなす善か不善か知らないが、その楽しむところのものに書道がある、とは前に書きました。また、彼が何の発心(ほっしん)か、近ごろになって著述の筆をとりはじめて、自叙伝めいたものを書き出したということも前に書きました。
 それは、ほんの筆のすさびに過ぎなかったのを、この数日、非常なる熱心を以て、机に向って筆を走らせ出しました。今までは道楽としての著述であるが、最近は少なくとも生命を打込んでの筆の精進です。書きつつあるところに、何かしら憂憤の情を発して、我ながら激昂することもあれば、長歎息することもあるし、それほど丹精を打込んで書くからは、彼はこの書を名残(なご)りとし、生前の遺稿として、記念にとどめたいほどの意気組みが、ありありと見るべきものです。
 主膳のこのごろは、たしかに激するところがあるのです。著述の興味が進むということも、半ばその激情にかられて筆を進めるからです。かくて、ともかくも、神尾主膳が殿様芸ではなく、不朽――というほどでなくとも、著作の真意義に触れるような心の行き方に進みつつあるのも、不思議の一つでないということはありません。
 根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽(ふけ)っている。彼の著作は一種の生立ちの記ですが、書出しは祖先の三河時代の功業から起っている。そこに多くの自負があり、懐古が現われて来るのですが、同時に自らの現状との比較心が起って来ると、いよいよ平らかならざるものがある。それが激し来(きた)って、ついつい筆端に油の乗るようになる。さらさらと筆を走らせて、雁皮薄葉(がんぴうすよう)の何枚かを書きすまして、ホッと一息入れているところへ訪(おとな)うものがありました。
 シルクのお絹でもなく、芸娼院の鐚(びた)でもないが、神尾のところへ来るくらいのもので、左様に賢人君子ばかりは来ない。いずれも先日の悪食会(あくじきかい)の同人でした。
「何を書いているのだ」
「出鱈目(でたらめ)の思い出日記を書いているのだ」
「つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)というわけかな」
「いや、閑(ひま)にまかせて自分の一代記を書いてみているところだ、今は先祖の巻を書き終えて、次は父の巻にうつろうとしているところだ、第三冊が母の巻、それから自分の放蕩三昧(ほうとうざんまい)の巻――自慢にもなるまいが、まあ一種の懺悔(ざんげ)かね」
「せっかく大いにやり給え」
「懺悔にはまだ早かろうがな、善悪ともに書き残して置いてみることは悪くない――閑のある時分に、興の乗った時に限ってやって置くことさ、書いているうちに興味が出てくるよ。自分も早く学者になって置けばよかった、学問をして置けば、新井君美(あらいきみよし)ぐらいにはなれたろう、戯作(げさく)をやらせれば馬琴はトニカク、柳亭ぐらいはやれる筆を持っていたのを、今まで自覚していなかった、我ながら惜しいものだ。時に……」
 神尾主膳は、筆を筆架に置いて、投げ出すように、悪食家に向って言いました。
「徳川の天下も、いよいよ駄目だそうだな」
「は、は、は、おかしくもない、今ごろそんなたわごとを言い出すのは、君ぐらいなものだろう」
「徳川の天下が亡びた時は、日本の政治はどうなるのだ」
「そんなことはわからん、そういうことは永井玄蕃(ながいげんば)のところへでも行って聞き給え」
「まあ、君たちの見るところを正直に話して見給え」
「十目の見るところ――言わぬが花だなあ、力めば時勢を知らないと言われるし、くさせば主家を誹(そし)るに似たり」
「いよいよ駄目かい」
「匙(さじ)を投げるのはまだ早かろう」
「いや、実はおれも、徳川の禄を食(は)んで三百年来の家に生れた身であってみると、それを対岸の火事のようには見ていられない、今日まで自分本位で生きて来たが、とにかく、一朝主家興亡の秋(とき)ということになってみると、別に考えなけりゃならん」
「考えてどうなるのだ」
「どうかしなけりゃなるまい」
「どうしようがあるのだ、要するに徳川をこんなに弱くしたのも、君のような――君一人に背負わせるのも気の毒の至り、おたがいのような享楽主義者が続々と出たその結果と見なけりゃなるまい」
「それを言われると、おれも真剣に考えたくなる――人物がないなあ」
「人物がないよ――今の徳川には人物がないのに、西南のやつらにはウンとある、足軽小者の方面にまで、切れる奴がウンといる」
「旗本八万騎あって、人物が一人もないのかなあ」
「ないことはない、有る――必ず、隠れたるところには人物がある。あるには相違ないが、出頭の機会がない」
「今のところ誰々だ、旗本で目ざされている人らしい人は。人物らしい臭いのする奴は。少なくとも落日の徳川家を背負って立とうと、人も許し、自らも許すような奴が、一人や二人はありそうなものだなあ」
 神尾は投げ出したように、自暴的に言うけれども、今日のは自暴(やけ)の裏に、強烈な意地のようなものがひらめくを感ずる。
 こういう問いをかけられて、押しかけて来た二人の悪食家(あくじきか)も、おのずから切迫の真剣味につりこまれて、
「そうさなあ――今の旗本で、同じ徳川でも譜代大名は別物として、直参のうちで、人らしい人、人も許し、我も許そうというほどのものは――この時勢を重くとも軽くとも背負って立とうというほどの人物は――まあ、小栗又一(おぐりまたいち)か勝麟太郎、この二人あたりがそれだろうなあ」
「ナニ、小栗又一と、勝麟太郎、二人とも、それほどの人物か――」
「まあ、世間の評判はもっぱらそこにあるな。ところでこの二人がまた背中合せだから、やりきれないよ」
「どう背中合せだ」
「小栗は勝を好まず、勝は小栗に服しない、小栗は保守で、勝は進取――性格と主義がまるっきり違っている」
「そいつは困る、せっかく、なけなしの人材が二人ともに背中合せでは、さし引きマイナスになってしまう」
「悪い時には悪いもので、困ったものさ」
「で、小栗と、勝と、どっちが上だ、器量の恵まれた方に勢力を統制させずば、大事は托し難かろう」
「さあ、器量という点になってみると、我等には何とも言えない――おのおの、一長一短があってな」
「小栗はだいたい心得ているよ、あれは家柄がいい、ああいう家に生れた奴に、性質の悪い奴はないが、勝というのはいったい何だい、よく勝麟勝麟の名を聞くが、そんな名前は我々には何とも響かん――どんな家に生れた、どんな男なのだい」
「そりゃ、家柄で言えば小栗とは比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝などは四十俵の小身、我々仲間に於ても存在さえ認められなかったのだが――近頃めきめきと頭角を上げて来た、事実、稀代の才物ではあるらしい」
「知りたいね、勝という男の素姓来歴を」
「待ち給え」
 悪食家の一人が、この時、首を傾けて、
「勝は四十俵の小普請(こぶしん)、石川右近の組下だが、勝の父は男谷(おたに)から養子に来たのだ」
「男谷の……講武所の剣術方の男谷精一郎(下総守)か」
「左様――彼、勝麟の父が、精一郎の弟になる。その親父(おやじ)について思い当ったよ、ほんとうに、それこそ箸にも棒にもかからぬ代物(しろもの)でな、それが晩年、何か発心して、いま君がやっているように、自叙伝を書いた、その写しを僕が持っているが、これはまた稀代な読物だ、こんな面白い本を今まで読んだことがない。面白いものを小説の稗史(はいし)のと人が言うけれど、あれは本来こしらえもの、大人君子の興味に値するほどのものではないが、勝のおやじの自叙伝に至ると、真実を素裸(すっぱだか)に書いて、そうして、あらゆる小説稗史よりも面白い、あの父にして、この子有りかな、古今無類、天下不思議の書物だ、参考のために君に貸すから読んで見給え、家に帰って、すぐに届けるよ、『夢酔独言』というのだ、実に何とも名状すべからざる奇書だ、あれを読むと、勝麟その人もわかる」
 悪食が口を極めて、推賞か示唆かを試むるものだから、神尾も、
「では、読ましてくれ」
と言わざるを得ませんでした。

         五十三

 その翌日、珍しくもよく約束を踏んで、悪食が、昨日約束の書物を届けてくれました。
 これが、当時評判の勝麟太郎の父親の自叙伝であるそうな。
 徳川の末世を背負って立つ男は、小栗か勝だろうと、かりそめにまでうたわれるくらいの人間と聞いて、これも珍しく神尾が勝のことを注意する気になりました。
 受けて見ると、その書の標題は前出の如く「夢酔独言」という。
 巻頭に書き添えた勝家の系図というのを見ると、神尾が軽蔑の気持になって、
「なあんだ、勝の先祖、元は江州坂田郡勝村の人、今川家に仕えて塩見坂に戦死、市郎左衛門に至り徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
 家禄知行蔵米合わせて四十一石、というところに神尾が憫笑(びんしょう)を浮べました。
 特に軽蔑したわけではあるまいが、そういう時に、冷笑が思わず鼻の先へ出るのがこの男の癖です。
 神尾の家柄は三千石でした。
「万治三庚子十二月卒百五歳――ふーむ」
 四十一石の高は軽きに過ぎるが、百五歳は多きに過ぎる。四十一石の小身は稀なりとはしないが、百五歳の長生はザラにあるものではない、と感心しました。
 その市郎左衛門時直から七代目で、左衛門太郎惟寅(これとら)というのが即ち、今いう勝麟太郎の父になる。隠居してから夢酔と号した。この書の標題の「夢酔独言」の名のよって起るところである。なお仔細に系図書の割注を読んでみると、
「惟寅は男谷平蔵の三男、聟養子(むこようし)となって、先代元良の女信子に配す、嘉永三庚戍年九月四日卒四十九歳」とある。
 存外夭死(わかじに)だが、実家の男谷というのはどんな家柄だ、四十一石の身上へ養子に来るくらいだから大した家柄ではあるまい、とやっぱり軽蔑を鼻の先に浮べて、神尾が男谷の系図書の方を読んでみて、
「ははあ、こいつはまた先祖は士分ではない、検校(けんぎょう)だ――検校が金を蓄(た)めて小旗本の株でも買ったんだろう」
 その男谷の初代、検校廉操院というのに、三人の男の子がある。その三男の平蔵にまた三人の男の子がある。なるほど、長男が彦四郎、次男が信友――ははあ、これが講武所の下総守だな、こいつの剣術はすばらしい、なんでも話に聞くと、上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)以来の剣術ということだ。して三番目が初名小吉――即ち左衛門太郎夢酔入道、今の評判の麟太郎の父なんだな。してみると男谷下総は麟太郎の伯父(おじ)になる、剣術の家柄というのも無理はない……と神尾がうなずきました。
 神尾の眼で見ては、四十石の家柄だの、検校出の士族だのというものは冷笑以外の何物でもないが、その一門に男谷下総守信友を有することが、侮り易(やす)からずと感じたのです。いかに不感性の神尾といえども、男谷の剣術だけは推服のほかなきことを観念しているところに、この男もまた、その道に相当の覚えがあるものと見なければなりません。
 そんなような前置で、神尾は「夢酔独言」の序文を読みはじめました。
「鶯谷庵独言
おれがこの一両年始めて外出を止められたが毎日毎日諸々(もろもろ)の著述物の本軍談また御当家の事実いろいろと見たが昔より皆々名大将勇猛の諸士に至るまで事々に天理を知らず諸士を扱うこと又は世を治めるの術治世によらずして或は強勇にし或はほう悪く或はおこり女色におぼれし人々一時は功を立てるといえども久しからずして天下国家をうしない又は智勇の士も聖人の大法に背く輩(やから)は始終の功を立てずして其身の亡びし例をあげてかぞえがたし――」
 読み出して神尾がうんざりせざるを得ません。文章がまずい上に、句読の段落も、主客の文法も、乱暴なものだ。だが、まずいうちに文字に頓着しない豪放の気象が現われないでもないから、神尾は辛抱して、
「文武を以て農事と思うべし」などと聖人のようなことを言い、「庭へは諸木を植えず、畑をこしらえ農事をもすべし、百姓の情を知る、世間の人情に通達して、心に納めて外へ出さず守るべし」などと教訓し、おれも支配から押しこめに会って、はじめは人を怨(うら)んだが、よく考えてみると、みんな火元は自分だと観念し、罪ほろぼしに毎晩法華経を読んで、人善かれと祈っているから、そのせいか、このごろは身体(からだ)も丈夫になって、家内も円満無事、一言のいさかいもなく、毎日笑って暮らしている、というようなことで――読んで行くと、自分は箸にも棒にもかからぬ放埒者(ほうらつもの)だが、これでも、人を助けたり、金銀を散じたりしたこともある、その報いか、子供たちがよくしてくれる、ことに義邦(よしくに)(麟太郎)は出来がよくて、孝心が深く、苦学力行しているから、おれは楽隠居でいられる、おれがような子供が出来た日には両親は災難だが、子孫みな義邦のように心がけるがいいぜ、と親心を現わしたところもあるし、女の子は幾つ幾つになったら、何を学べ彼(か)を習えと、たんねんに教えてみたり、そうかと思えば、序文は一つの懺悔になっていて、その結びが、
「子々孫々ともかたくおれがいうことを用ゆべし先にもいう通りなれば之(これ)までもなんにも文字のむずかしい事は読めぬからここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし天保十四年寅年の初冬於鶯谷庵かきつづりぬ
左衛門太郎入道夢酔老」
         五十四

 さて、それから本文にうつると、冒頭に何か道歌のようなものを二三首、書きつけたばかりで、端的に自叙伝にうつっているから、文章はまずく、文字は間違いだらけだが、率直に人を引きつけるものがある。
 その、まずい文章と、読みがたい文字、句読も段落もない書流しにくぎりくぎりをつけて、神尾はともかくに独流に読みつづけて行きました。
 これはもちろん、夢酔老というなまぐさ隠居の筆として読まないで、不良青年男谷小吉(おたにこきち)の行状記として読んだ方が面白い、と神尾が思いました。

「おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいと思う故(ゆえ)に、孫やひこのために話して聞かせるが、よく不法者、馬鹿者のいましめにするがいいぜ。
おれは妾(めかけ)の子で、それを本当のおふくろが引取って育ててくれたが、餓鬼の時分よりわるさばかりして、おふくろも困ったということだ。
それと親父が日勤のつとめ故に、うちにはいないから、毎日毎日わがままばかり言うて強情ゆえ、みんながもてあつかったと、用人の利平治という爺(じい)が話した」

 神尾は自分の事を書かれたように共鳴する点もある。

「その時は深川の油堀というところにいたが、庭に汐入(しおい)りの池があって、夏は毎日毎日池にばかり入っていた。八ツに、おやじがお役所より帰るから、その前に池より上り、知らぬ顔で遊んでいたが、いつもおやじが池の濁りているを、利平爺に聞かれると、爺があいさつに困ったそうだ。おふくろは中風(ちゅうぶ)という病で、立居が自由にならぬ、あとはみんな女ばかりだから、バカにしていたずらのしたいだけをして、日を送った。兄貴は別宅していたから何も知らなんだ。

おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉という奴と凧喧嘩(たこげんか)をしたが、向うは年もおれより三つばかり大きい故、おれが凧を取って破り、糸も取りおった故、胸ぐらを取って切石で長吉の面(かお)をぶった故、唇をブチこわして血がたいそう流れ泣きおった。その時、おれが親父が庭の垣根から見ておって、侍を使によこしたから、うちへ帰ったら、親父がおこって、人の子に傷をつけて済むか済まぬか、おのれのような奴は捨て置かれずとて、縁の柱におれを括(くく)らして、庭下駄で頭をぶち破(わ)られた。今に、その傷が禿(は)げて凹(くぼ)んでいるが、月代(さかやき)を剃(そ)る時は、いつにても剃刀がひっかかって血が出る、そのたび、長吉のことを思い出す。
おふくろが、方々より来た菓子をしまって置くと、盗み出して食ってしまう故、方々へ隠して置くを、いつも盗む故、親父には言われず困った。いったいは、おふくろがおれを連れて来た故、親父にはみんな、おれが悪いいたずらは隠してくれた。あとの家来はおふくろを怖れて、おやじに、おれがことは少しも言うことはならぬ故、あばれ放題に育った。五月あやめを葺(ふ)きしが、一日に五度まで取って菖蒲打(しょうぶう)ちをした。利平おやじがあんまりだと言って、親父に言いつけたが、親父が言うには、子供は元気でなければ医者にかかる、病人になるわ、幾度も葺き直し、菖蒲をたくさん買入れよと言った故、利平も菖蒲がなくて困ったと、おれが十六七歳のとき話した。

このおやじも久しくつとめて兄の代には信濃の国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍はみんな中間(ちゅうげん)より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人(ごけにん)の株を買ってやられたが、利平は隠居して株の金を貰って、身よりのところへかかりて、金を残らずそやつに取られてしまった。兄貴の家へ来たが、朋輩(ほうばい)が邪魔にしてかわいそうだから、おれが世話をして坊主にし、干ヶ寺に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、おれが三十ばかりの時だ。

おれ七つの時、今の家(勝)へ養子に来たが、その時、十七歳と言って、芥子坊主(けしぼうず)の前髪を落して、養子の方で、小普請支配石川右近将監(いしかわうこんしょうげん)と、組頭の小屋大七郎に、初めて判元(はんもと)の時に会ったが、その時は小吉といったが、頭(かしら)が『歳は幾つ、名は何という』と聞きおった故、名は小吉、年は当年十七歳と言ったら、石川が大きな口をあいて、『十七には老(ふ)けた』とて笑いおった。その時は青木甚兵衛という大御番、養父の兄きが取持ちをしたよ。

おれが名は亀松という、養子に行って小吉となった。それから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊んでばかりいた。

この年に、凧にて、前町と大喧嘩をして、先は二三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合いせしが、ついにかなわず、干魚場(ほしかば)の石の上に追い上げられて、長竿でしたたか叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らし、所詮(しょせん)かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌をぬいで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋が、留めて家へ送ってくれた。それよりして近所の子供が、みんなおれが手下になったよ、おれが七ツの時だ。

深川の屋敷も、度々(たびたび)の津浪(つなみ)ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の向う、若林の屋敷を当分借りていたが、その屋敷は広くって、庭も大そうにて、隣に五六百坪の原があったが、化物屋敷とみんなが話した。おれが八ツばかりの時に、親父がうちじゅうのものを呼んで、その原に人の形をこしらえて、百ものがたりをしろと言った故、夜みんなが、その隣の屋敷へ一人ずつ行った、あの化け物の形の袖へ名を書いた札を結えつけて来るのだが、みんなが怖(こわ)がった。オカしかった。いちばんしまいにおれが行く番であったが、四文銭を磨いて人の形の顔へ貼りつけるのだが、それがおれが番に当って、夜の九ツ半ぐらいだと思ったが、その晩は真暗で困ったがとうとう目を附けて来たよ、みんなに賞(ほ)められた。

おれが養家(勝家)の母どのは、若い時から意地が悪くて、両親もいじめられて、それ故に若死をしおったが、おれを毎日毎日いじめおったが、おれもいまいましいから、出放題に悪態をついたが、その時、親父が聞きつけて憤(おこ)って、年も行かぬに母親に向って、おのれのような過言を言う奴はない、始終が見届けられないとて、脇差を抜いておれに打ちつけたが、清(きよ)という妻はあやまってくれたっけ。

翌年、ようよう本所の普請が出来て、引越したが、おれがいるところは表の方だが、はじめて母どのといっしょになった、そうすると毎日やかましいことばかり言いおったから、おれも困ったよ、ふだんの食物も、おれにはまずいものばかり食わして、憎い婆あだと思っていた。おれは毎日毎日、外へばかり出て、遊んで喧嘩ばかりしていたが、ある時、亀沢町の犬が、おれの飼って置いた犬と食い合って、大喧嘩になった。その時は、おれが方は隣の安西養次という十四ばかりのが頭(かしら)で、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と、高浜彦三郎に、おれが弟の鉄朔というのと八人にて、おれの門の前で、町の野郎たちと叩き合いをした。亀沢町は緑町の子供を頼んで、四五十人ばかりだが、竹槍を持って来た、こちらは六尺棒、木刀、しないにてまくり合いしが、とうとう町の奴等を追い返した。二度目には向うには大人が交って、またまた叩き合いしが、おれが方が負けて――八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をついたが、町方では勝ちに乗って、門を丸太にて叩きおる故、またまた八人が一生懸命になって、今度はなまくら脇差を抜いて、門をあけて残らずきり立てしが、その勢いに怖れて、大勢が逃げおった。こちらは勝ちに乗ってきり立てしも、おれが弟は七ツばかりだが強かった、一番に追いかけたが、前町の仕立屋の餓鬼に弁治というやつが引返して来て、弟の手を竹槍にて突きおった、その時、おれが駈けつけて、弁治の眉間(みけん)を切ったが、弁治めが尻餅をつき、溝(どぶ)の中へ落ちおった故、つづけ打ちに面(つら)を切ってやった。前町より子供の親父らが出て来るやら大騒ぎ、それから八人がかちどきを揚げて引返し、滝川のうちへはいりたがいによろこんだ。その騒ぎを親父が長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日ばかり目通り止められ押込めに逢った、弟は蔵の中へ五六日おしこめられた」

 神尾主膳は読んで行くうちに、自分の幼年時を、鏡で見せつけられるようなところがないではない。おれは、これらの子供らより驕(おご)った家庭に育ったが、やっぱり気分に於ては、これに譲らないようだ。よし、それではひとつ、おれもこの伝によって、幼年時代のいたずら物語を書いてみてやろう、という気分にまでなりましたが、読みかけたこの書物を、さし置く気にもなれません。全く面白い読物だと心を引かれたのでしょう。

         五十五

 神尾主膳は、なお同じ書物を読み進んで行くと、今までは夢酔老の幼年時代、これからが修業時代の思い出になる。

「九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛という御細工所頭(おさいくどころがしら)を勤める仁(じん)、柔術の先生にて、一橋殿、田安殿はじめ、諾大名大勢弟子を持っている先生が、横網町というところにいる故、弟子になりに行くべしと親父が言う故、行ったが、二五八十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出てみた。はじめは遠慮をしたが、だんだんいたずらを仕出し、内弟子に憎まれ、不断えらき目に逢った。ある日稽古場に行くと、はんの木馬場というところにて、前町の子供らの親共が大勢集まって、おれが通るを待っている、一向に知らずして、その前を通りしが、それ男谷のいたずら子が来た、ぶち殺せと罵(ののし)りおって、竹槍棒ちぎりにて取巻きしが、直ちに刀を抜き、振払い振払い馬場の土手へ駈け上り、御竹蔵(おたけぐら)の二間ばかりの沼堀へはいり、ようやく逃げ込みしが、その時羽織袴が泥だらけになりおった。それから御竹蔵番の門番はふだん遊びに行く故に、いちいち世話をしてくれたが、うちへ帰るきがいがある故、頼んで送ってもらった。大きな目に逢った。その後は二月ばかり亀沢町は通らなんだが、同町の縫箔屋(ぬいはくや)の長というやつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にて叩きちらしてやったが、うちの中間(ちゅうげん)がようようとめて、長のうちへ連れて行って、はんの木馬場の仕返しの由をその野郎の親によく言ったとさ。それよりは亀沢町にて、おれに無礼をする者はなくなったよ。

柔術の稽古場で、みんながおれを憎がって、寒稽古の夜つぶしということをする日、師匠から許しが出て、出席の者が食い物をてんでんに持寄って食うが、おれも重箱へ饅頭(まんじゅう)を入れて行ったが、夜の九ツ時分になると、稽古を休み、皆々、持参のものを出して食うが、おれも旨(うま)いものを食ってやろうと思っていると、みんなが寄って、おれを帯にて縛って、天井へくくし上げおった、その下で残らず寄りおって、おれが饅頭まで食いおる故、上よりしたたかおれが小便をしてやったが、取りちらした食いものへ小便がはねおった故、残らず捨ててしまいおったが、その時はいいきびだと思ったよ。

十の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石取る神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、二月目に遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったゆえ横町へ逃げ込んだ、そうすると先生が、次の稽古に行ったら叱言(こごと)を言いおった、まだ鞍(くら)も据(すわ)らぬくせに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠はいい先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろいろ教えてくれたよ。毎日五十鞍乗りをすべしとて、借馬引にそう言って、藤助、伝蔵、市五郎という奴の馬を借り、毎日毎日、馬にばかりかかっていたが、しまいには馬を買って藤助に預けて置いたが、火事には不断出た。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込みしが、今井帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了(おお)せた。あとで聞けば、火事場は三町手前よりは火元へ行くものではないということだよ。
一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙(あぶみ)を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。

十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門(うどのじんざえもん)という剣術の先生がある、御簾中様(ごれんじゅうさま)の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭(かしら)の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭(おかちがしら)をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。

十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭(はやしだいがくのかみ)のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎(きもいり)のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」

 先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。

「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣(こづかい)またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面(かお)をする。)

兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。

十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあどのがやかましくて(神尾曰(いわ)く、なにばばあがやかましいものか、これで可愛がられるか)おれが面(かお)さえ見ると叱言(こごと)を言いおる故、おれも困って、しまいには兄嫁に話して知恵を借りたが、兄嫁も気の毒に思って、親父へ話してくれたが、そこである日親父がばばあどのへ言うには、小吉もだんだん年をとる故、小身者は煮焚(にた)きまで自分で出来ぬと身上をば持てぬものだから、以来は小吉が食物などは、当人へ自身にするようにさっしゃるがよいと言ってくれる故、なおなおおれがことはかまわず、毎日毎日自身に煮焚きをしたが、醤油には水を入れて置くやら、さまざまのことをするから、心もちが悪くてならなかった。よそより菓子何にてももらえば、おれには隠してくれずして、おれが着物は一つこしらえると、世間へ吹聴(ふいちょう)して、悪くばかり言い散らし、肝(きも)が煎(い)れてならなかった。祖父に言うとおればかり叱るし、こんな困ったことはなかった」

         五十六

「十四の年、おれが思うには、男は何としても一生食われるから、上方あたりへ駈落(かけおち)をして一生いようと思って、五月二十八日に股引(ももひき)をはきてうちを出たが、世間の中は一向知らず、金も七八両盗み出して、腹に巻き附けて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、なんだか心細かった。それからむやみに歩いて、その日には藤沢へ泊ったが、翌朝早く起きて宿を出たが、どうしたらよかろうとぶらぶら行くと、町人の二人連れの男があとから来て、おれにドコへ行くと聞くから、当てはないが上方へ行くと言ったら、わしも上方まで行くから一所に行けと言いおった故、おれも力を得て、一所に行って小田原へ泊った。その時あしたは関所だが手形は持っているかと言う故、そんなものは知らぬと言ったら、銭を三百文出せ、手形は宿でもらってやると言うから、そいつが言う通りにして関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たがその晩に、着物も、大小も、腹にくくしつけた金も、みんな取られた。朝眼がさめた故、枕元を見たらなんにもないから肝がつぶれた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は尾張の津島祭に間に合わないから先へ行くからあとより来いと言って立ちおったと言うから、おれも途方にくれて泣いていたら、亭主が言うには、それは道中の胡麻(ごま)の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して行かしゃるとて真実に世話をしてくれたが、言うには、ドコという当てはないが上方へ行くのだと言ったら、なんしろ襦袢(じゅばん)ばかりにては仕方がない、どうしたらよかろうととほうにくれたが、亭主がひしゃく一本くれて、これまで江戸っ児がこの街道にては、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃくを持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰(もら)って来いと教えたから、ようよう思い直して、一日方々もらって歩いたが、米や麦五升ばかりに、銭百二三十文もらって帰った。亭主はいいものにてその晩は泊めてくれた。翌日まず伊勢へ行って身の上を祈って来たがよかろうと言う故、貰った米と麦とを三升ばかりに銭五十文ほど亭主に礼心にやって、それから毎日毎日乞食をして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原または川原、或いは辻堂へ寝たが、蚊にせめられてロクに寝ることもできず、つまらぬざまだっけ。
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫という御師(おし)のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊めてくれろと言うがいい、そうすると向うで帳面を繰りて見て泊めると教えてくれた故、竜太夫のうちへ行って、中の口にてその通りに言ったら、袴(はかま)など着たやつが出て来て、帳面を持って来て繰り返し繰り返し見おって、奥へ通れと言うから、こわごわ通ったら、六畳敷へおれを入れて、少したってその男が来て、湯へはいれと言うから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると粗末だが御膳を食えとて、いろいろうまい物を出したが、これも久しく食わないから、腹いっぱいやらかした。少し過ぎて竜太夫は狩衣(かりぎぬ)にて来おった。ようこそ御参詣なされたとて、明日は御ふだを上げましょうと言う故、おれはただはいはいと言って、おじぎばかりしていた。それから夜具かやなど出して、お休みなされと言うから寝たが、心持がよかった。翌日はまた御馳走をして御礼をくれた。
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