大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 二人の医者は、わざとあんぽつを空にして、駕籠(かご)わきにつき添って歩いて行く。乗物と人物の見えなくなるまでお角さんは、追分の札の辻に立って見送っている。両国手は、時々振返って、一瓢をささげ上げて、さらばの継足し、その度毎に、お角さんも手を挙げてあいさつを返す。さきに待兼ねていた先発のお雪ちゃんの駕籠のところまで来ると、二人の国手も乗物の中へ隠れて、かくて三乗三従の一行は、追分道を左に綴喜郡田辺の里へ向って急ぐ。
 お角さんは、それを見送って、改めて庄公を引き立て、以前の通り大谷風呂をさして戻りにつく。

         四十二

 お雪ちゃんを追分から南へ送った日のその晩のこと。
 これは大谷風呂ではない、関の清水の鳥居の下から、ふらりと現われた一人の武士がありました。笠をかぶって、馬乗袴のマチの高いのを穿(は)いて手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)のいでたち、たった一人、神社の石段を下りて、鳥居をくぐって、街道へ歩み出しました。
 その時分、もう、さしもの街道にも人通りは絶えていたのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城(かつらぎ)まで呼びかける逢坂山(おうさかやま)の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来たように、ゆらりゆらりと歩いていました。
 どうも、この骨格から、肩越し、足もとに見覚えがある。笠のうちこそ見物(みもの)だと思って心配するがものはない、前半の一文字笠が、その瞬間、紗(うすもの)のように透きとおって、面(かお)が蛍の光のように蒼白(あおじろ)く夜の色を破って透いて見えるのです。さては思いなしの通り、この人は机竜之助でありました。
 絶えて久しい、この人の姿を逢坂山の上で見る。いつのまに健康を取戻したか、姿勢はしゃんとして、しかも、足許がきまっている。杖の力を借りないで、百里も突破する体勢になっている。眼は癒(なお)ったのだろう。その証拠に、今、紗のように透き通った笠の前半を見ると、切れの長い眼が、真珠の水底に沈んだような光を見せていた。関の明神の下で、草鞋(わらじ)の紐を結び直したあの手もとを見てもわかる。眼の不自由な者に、あんな手に入った扱いはできない。
 街道へ出て、人なき大道をこの人は、真直ぐに京山科方面へ向って、のっしのっしと歩んで行くのです。
 その足どりは甚だ軽く、腰に帯びた大小の蝋色(ろういろ)もおだやかで、重きに煩う色はない。
 行き行きて追分の札の辻まで来る。ここは朝のうち、伏見街道を行くお雪ちゃんと、両国手とをお角さんが送って来て、さらばさらばをしたところ。
「柳は緑、花は紅」の石標に腰打ちかけた机竜之助、前途を見渡すと夜色が京洛に立ちこめている。昼間に見たところでは、追分の辻から左右ともに、人家が櫛(くし)の歯のように並んでいたと覚えていたが、真夜中というものは、時代を一世紀も二世紀も逆転して見せるもので、風景もおのずからその時代の風景ではない。右手にながめる比良、比叡の山つづき、左にわたる大和、河内への山つづき、この間は一帯の盆地、京洛の天地はいずれのところにあるや、山科、宇治も見渡す限り茫々(ぼうぼう)たる薄野原(すすきのはら)でありました。
 机竜之助は、「柳緑花紅」の石に腰打ちかけて、腰なる煙草入を取り出して、燧石(ひうちいし)をカチカチ、一ぷくの煙草をのみ出しました。今日まで机竜之助が杯(はい)を傾けたということは見えているが、未だ煙草をのんだという記録はなかったように思う。ここへ来てはじめて悠々と煙草をのみ出している。
 煙草をのみながら、透綾(すきや)のように透き通る笠の、前半面から、悠然として、目に余るすすき野原をながめているのであります。
 そうすると、暫くして、行手の右の方の蜿蜒(えんえん)たる一筋路は伏見街道――やはり、すすき野原を分けて、見えつ隠れつ、一(ひ)い、二(ふ)う、三(み)い、三梃の乗物が、三人の従者に附添われながら大和路へ向って行くのを見る。
「おーい」
と机竜之助が、これを見かけて、片手をあげて呼ぶと、あちらでも、
「おーい」
 答えはあったが、人が見えない。
 机竜之助は、あわただしく火打道具を腰にはさんで、笠の紐をとって、それを片手に高く打振りました。
「おーい」
 あちらでも、
「おーい」
 すすき野原の中から、こだまを返して、返事はあるが、あちらでは手を振る人もなければ、ひらめかす笠もあるではない。乗物はずんずんと離れて進んで、すすき野原の中へ、見えつ、隠れつ、行く手は大和、河内の山、そこへ没入してしまうげに見える。
「おーい」
 竜之助は何と思ってか、突然に腰かけの石を立って、二三歩進み出し、また笠を手強く振って、
「おーい」
 こんどは返事がありません。返事のないことは、もはや、さいぜんの乗物がすすき野原を打過ぎて、大和、河内の山の中へ没入してしまった証拠です。
 それと知りつつ竜之助は、またも二歩と三歩と進んでみましたが、もうおとなうものは、谷川のせせらぎのほかは何もない。
 茫然として、そこに立ちつくしていると、
「おーい」
 今は人を呼びかけた身、今度は後ろから人に呼びかけられるらしい声がする。
「何だ」
「おーい」
「おーい」
 相呼び、相答うる双方の声はまだ遠いのに、不意に竜之助の肩に後ろから手をかけた者がある。その手は軟らかい白い手でありました。
「あなた」
「誰だ」
「どちらへいらっしゃるの」
「どこへ行こうと……」
 手だけは肩にかかって、声はするが姿は見えない。あまりにけったいなる物のたずね方なので、竜之助、怒気を含んで見返ろうとしたが、この背後が磐石(ばんじゃく)のように重い。
「島原へいらっしゃいよ」
「島原へ――」
 一方の白い軟らかい手が、自分の左の肩にかかっていたかと思うと、今度は、右の方の眼の前へ一つの白い軟らかい手が現われました。そうして、しかもその軟らかい手が、五体にくっついていないのです。手首から下はありやなしや、その指先だけが、
「島原へ――」
と言って、一方の空を指している。この指したところを見ると、ぼうっと、一隅だけ酸漿(ほおずき)のように赤い。
「あれが島原か」
「もう一ぺん、あなたを島原で遊ばせて上げたい」
「…………」
「皆さん、相変らずお盛んでございますよ、芹沢(せりざわ)さんは殺されましたが」
「近藤勇は無事か……」
「無事どころか、飛ぶ鳥落す勢いだよ、わは、は、は、は、は」
 それは軟らかく白い手首の女の声ではない、豪傑的なすさまじい高笑いでありました。
「誰だ」
と振り切った時は、竜之助の身が軽くなりました。島原へ――指したその手は細く柔らかい手でしたが、高笑いは、決してその手に相応する声ではありませんでした。このすさまじい高笑いが起ると共に、左の肩に置かれた細いしなやかな手も、右で指さされた島原の白い手首も、すっと、霞を引いたように消え失せてしまって、竜之助が振返った背後には、雲を衝(つ)く大男が一人、大手を振ってのっしのっしと歩み来るのを見受けます。
「は、は、は」
 先方は、すさまじい豪傑笑いを以て、竜之助の背後に迫り来(きた)ったのです。その時に、発止と思い当った竜之助は、二三歩すさって身構えざるを得なかったものです。
「喫驚(びっくり)したかな、田中新兵衛だよ、示現流(じげんりゅう)の、主水正正清(もんどのしょうまさきよ)の田中新兵衛だ」
「うむ――また出たか」
「今度は果し合いの申込みなんて、そんな野暮(やぼ)な真似(まね)はせぬから安心し給え、おいも、久しぶりで京都へ入るのだ、いい道連れを欲しいと思っていたところへ君が来たので嬉しいよ、昔のことは忘れて、旅は道連れの情けを以て、つき合ってくれ給え」
 いかにも、そういう声は田中新兵衛である。その昔、この道を通った時に、不意に背後から呼び留めて、白昼、真剣の果し合いを申込んだあの白徒(しれもの)である。だが、今宵は、あの時と打って変ったあけっぱなしの、隔てのないものの言いぶりで、豪傑肌こそ昔に変らないが、殺気などというものは微塵(みじん)もない、真に己(おの)れも淋しいことあって、友を呼ぶ魂のように聞えるから、竜之助も極めて安心をしつつ、その追いつくのを待っていると、ほどなく近づいた右の豪傑は、竜之助を見て莞爾(かんじ)として笑ったかと思うと、竜之助の腕をとって、親しみの態度を現わしました。竜之助も手をさしのべてさわってみたが、その手は荒いけれども、そのさわりは極めてつめたい。
「いやに冷たい手をしているな」
「は、は、は」
「どこへ行っての帰りだ、そうしてこれからどこへ行こうというのだ」
「美濃の関ヶ原から来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行のことだ、君の行くところへ僕も行こうではないか」
 田中新兵衛は極めて親しみを以て、こう言いました。思えば自分も一人旅、逢坂山の関の清水を立ち出でて、足はこうして京洛の地に向いているけれども、さて、今度の都入り、誰を当てに、ドコへ落ちつこうという目的があるではないのだ。田中新兵衛から、こう持ちかけられてみると、竜之助はいまさら自分の行手を思案する気にもなる。
「拙者は島原へ行こうと思っているのだ」
「島原――結構」
と田中新兵衛が言下に応じました。竜之助が島原と言ったのは出まかせである。最初からそこへ目的を置いたわけではなし、そこになんらの知己ある人がいるわけではないが、今の先、島原へと誘引した白い手首があった、そのことが眼先にちらついていたものだから、つい口頭に現われたものだが、この際は自分ながらよく言ったと思った。
 今の竜之助としては、会津へ行くとも言えまい。壬生(みぶ)へ参るとも言えまい。京洛の天地に彼が名乗りかけて、草鞋を脱ごうという心当りは一つもない。ただ、島原だけは万人の家である。あすこには、いかなる人をも許して拒まない女性がいる。
 そこで二人は、無言に轡(くつわ)を並べて、薄野原(すすきのはら)を歩み出しました。行けども行けども薄野原で、京伏見への追分路が、こんなに野原続きのはずはないのに、ほとんど無限の野原つづき。しかもその前面には、たえず「柳緑花紅」の石ぶみが並び進んで離れない。ただ安心なのは、この不意打ちの旅客に、今宵はドコまで行っても殺気というものが湧いて来ないことである。昔のように、警戒も、残心も、さらに必要がなくて、ややもすれば同行同向のなつかしみがにじみ出でて来る。竜之助は全く打ちとけた心になって、かえってこちらから隔てなく話しかけるような気分になりました。
「その後、拙者は身世(しんせい)の数奇(さっき)というやつで、有為転変(ういてんぺん)の行路を極めたが、天下の大勢というものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きはどうなっている、知っているなら話してくれないか」
「うむ、僕もよくは知らんが、君よりは一日の長があるか知れん、知っているだけ物語って聞かそう。まず、君にも何かと縁故の深い壬生(みぶ)の新撰組だな」
「うむ――どうだい、あれは」
「近藤勇がこれを率いて、土方(ひじかた)がそれを助けている、今の新撰組はことごとく近藤によって統制されている、新撰組の近藤ではない、近藤の新撰組だ、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力は飛ぶ鳥を落し、泣く児もだまる」
「近藤勇――それほどの勢力となりおったかな」
「市中の威力は町奉行以上、守護職以上、脱走の大藩浪人共も、かれの前には猫のようで、彼を怖るること虎の如し、全くエライ勢いだよ」
「彼もたいした英雄でもなかろうが、時の勢いで、威がついたのだな」
「たいした英雄ではないかも知らんが、たいした勇敢だ、是非名分はトニカクとして、あれだけの勇気ある奴はない、あれだけの決断のある奴はない、勢いの帰するところ、必ずしも偶然とのみは言えないのだ。そもそも彼が今日の威力を得たことも、必ずしも蛮勇と僥倖(ぎょうこう)とのみは言えない――ドコかに一片の至誠の人を打つものがあり、多少ともに人を御する頭梁(とうりょう)の器(うつわ)があればのことだ。彼の今日に至るまでには、血の歴史がある。血の歴史と言ったところで、人を斬って見るその血のことのみを言うのではない、自分の精神的にだ。精神的に、血涙を呑むの苦闘を嘗(な)め来(きた)った、それを言うのだ。近藤を蛮勇一辺の男とのみ見る人は、その胸臆をよく知らないものだよ、彼は珍しく純なところのある血性の男児で、憎むことを知る男だよ。彼にこの血性の有する限り、血の歴史はまだまだ続くよ」
 斯様(かよう)に語り来った新兵衛の言葉には、幾分なりと近藤に対する同情がほの見える。いわゆる勤王方の中心勢力たる薩摩のうちに、かえって近藤を諒解する男がいるということを、竜之助も不思議なりとして、
「あれはあれだけの男だろう、あれの器量として、今の地位は過ぎたるものか、及ばざるものか、その辺は拙者は知らない、だが、あれもいい死にようはしないだろうが、死場所を与えてやりたいものだ」
 何とつかず竜之助が、斯様に挨拶したのを、田中新兵衛はまた高笑して、
「は、は、は、その点は御同様、君も、僕も、いい死にようはできなかった」
 できなかったがおかしい。できなかったでは過去になる。過去に解決を告げてしまった語法文法になる。文法や語格には注意を払わない竜之助は、
「そうなると、近藤に万一のことがあるとなった暁は、今後の新撰組は誰に率いられるのだ」
「そこだ――路傍の噂(うわさ)では、伊東甲子太郎(いとうきねたろう)が最も有望だということだが、くわしいことはよくわからんが」
 ここまで語り合った時に、不意にまた路傍から声がかかって来た。
「その話なら、僕がくわしいよ」
 二人は驚いて、その声のする方を見やると――
 闇中(あんちゅう)からのそりと出て来た、旅すがたは平民的……いつかは奴茶屋(やっこぢゃや)の前まで来ておりました。その奴茶屋の縁台に腰打ちかけ休んでいた一人の発言でした。
「やあ、山崎君ではないか」
 これはこれ、新撰組の一人、香取流の棒の名手、変装の上手、山崎譲でありました。

         四十三

 なるほど、山崎ならば、新撰組の近状を知ることに於て田中以上だろう。奴茶屋に休んでいた山崎は、闇中から不意にしゃしゃり出たと見ると、二人に押並んで歩調を合わせながら、
「では、僕が代って、その後の新撰組の状態と、今後の予想とをくわしく話して聞かせようではないか――」
と言って、懐中から何か一ひらの紙切れを取り出して二人に示し、
「まず、これを一覧し給え」
 暗いところではあり、かつ、会話はしながらも、これは無性に進行している途中ではあり、そこで急に紙片をつきつけられたからとて、本来読めるはずのものではないが、そこは不思議にも、
「どれどれ」
と言って受取った二人の前へ、笠から透きとおって、その巻紙の文字がありありとわかるのであります。読んでみますと、それは次のような人名表でありました。
見廻組組頭格 隊長  近藤勇
同  肝煎格 副長  土方歳三
見廻組  格     沖田総司
右   同断     永倉新八
同          原田左之助
見廻組        井上新太郎
同          山崎木一
同          緒形俊太郎
見廻組  並     茨木司
同          村上清
同          吉村貫一郎
同          安藤主計
同          大石鍬次郎
同          近藤周平
惣組残らず見廻御抱御雇入仰せつけられ候
 卯六月
 これを二人が、すらすらと読んでしまって、田中が、
「なるほど、こうなってみると、新撰組は残らず幕府の方へ、お抱え、お雇入れ、仰せつけられ、ということになったのだな、金箔附きの御用党となったわけじゃな」
「そこだよ」
「よく、これで納まったな」
「納まらないのだ、これで近藤は御目見得格(おめみえかく)以上の役人となり、大久保なにがしという名をも下され、土方は内藤隼之助(ないとうはやとのすけ)と改名まで仰せつけられたというわけだが――納まるはずがない、本人たちは一応納まったが、納まらぬのは多年の同志の間柄だ」
「そうだろう、一議論あるべきところだ」
「本来、新撰組というのが、幕府の爪牙(そうが)となって働く放漫有志の鎮圧を専門としているが、もともとかれらは生え抜きの幕臣でもなんでもないから、その御すべからざるところに価値(ねうち)があったのだ、彼等は事情やみ難く幕府のために働くとは言い条、彼等の中には勤王攘夷の熱血漢もあれば、立身の梯子として組を利用しているものもある、天下の壬生浪人として大手を振っていたものが、公然幕府の御用壮士と極印(ごくいん)を捺(お)されることを本意なりとせざるものがある」
「それはそうありそうなことだ、で、右のように彼等が役附いたとなると、当然それに帰服せざるやからの出処進退というものが見ものだな」
「そこで、一部のものに不平が勃発し、その不平組の牛耳が、今いう伊東甲子太郎なのだ」
「また新撰組が二分したか」
「いや、すんなりと二分ができれば問題はないのだが、新撰組の組織というものが決して脱退を許さぬことになっている、脱退は即ち死なりと血誓がしてあるのだ、近藤に平らかならざるものも、隊としての進退が決した以上、それに不服が許されない、脱退も許されない、進退きわまったのだが、そこは伊東の頭がよい、誰にも文句の言えない名分によって辞職をして、新たに別の方面へ分立することができたのだ」
「ははあ、伊東という男、そんなに頭がよかったかな、そうして、その分立を近藤が素直に許したのも不思議じゃないか」
「しかし、そこが伊東の頭のよいところで、近藤といえどもこれには文句のつけられない名分を選んだのだ」
「どういう名分なんだ」
 これらの問答は主として、山崎譲と田中新兵衛との間に取りかわされている。机竜之助はただ黙って聞き役である。だが、語ると黙するとにかかわらず、三人の足は歩調を揃(そろ)えて絶えず京洛の方へ向って進んでいるのだが、行けども行けども捗(はかど)らないこと夥(おびただ)しい。やっぱり荒涼たる荒野原で、行けば行くほど「柳緑花紅」がついて廻る。

         四十四

 山崎譲は、相変らず能弁に新撰組後日物語を語りながら歩いている。
「もともと伊東は頭もよし、才もあるから、天下の形勢を近藤よりは一層広く見ている、近藤のように幕府一点張りの猪武者(いのししむしゃ)ではない、これは勤王攘夷で行かなければ事は為(な)せないと見たものだろう、その意見の相違から分立の勢いとなったが、今いう通り、新撰組そのものの組織が分立を許さない、そこで伊東が大義名分に立脚し、近藤といえども文句のつけようのない名分を発見して、それで分離の実を挙げたというのは、彼は策をめぐらして、泉涌寺(せんようじ)の皇家御陵墓の衛士を拝命することになったのだ。他のなんらの目的、理由、事情を以てするとも許されない新撰組の脱退も、皇室の御用勤務ということになると歯が立たない、さしもの近藤もその点に屈服して、ついに伊東甲子太郎を首領とする一派の新撰組脱退を許したのだ。彼等は喜んで一味と共に新撰組を去り、別に東山の高台寺へ屯所(とんしょ)を設けたのだ。そこで彼等は新撰組隊士でなく、御陵衛士という新しい肩書がついた、そうして、屯所が右の高台寺月心院に置かれたところから、人呼んでこれを高台寺組という、まず、この面(かお)ぶれを見給え」
と言って、山崎譲は、またふところから別の紙切れを取り出して示すと、二人は前と同様にして見ると、次のような文字がありありとうつる。
御陵衛士 伊東甲子太郎
同    篠原泰之進
同    新井忠雄
同    加納□雄
同    橋本皆助
同    毛内監物
同    服部武雄
同    中西昇
同    鈴木三樹三郎
同    藤堂平助
同    内海二郎
同    阿部十郎
同    富山弥兵衛
同    清原清
岡    佐原太郎
同    斎藤一
 右の人名表を二人は、一通り眼を通してしまうと、紙切れを山崎の手に戻す。それを指頭でひねりながら、山崎が語りつづける――
「事の順序として、伊東甲子太郎という男はどういう男であったか、それを説明して置こう。伊東はもと鈴木大蔵といって常陸(ひたち)の本堂の家来なのだ、水戸の金子健四郎に剣を学んでいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸へ出て深川の北辰一刀流、伊東精一に就いて学んでいるうちに、師匠に見込まれて伊東の後をついだのだが、腕もあるし、頭もよい、学問も出来る、なかなか今の時勢に雌伏して町道場を守っていられる人間でない、髀肉(ひにく)の歎に堪えられずにいるところへ、近藤が京都から隊士を募集に来た。近藤は、兵は東国に限るという見地から、わざわざ関東まで出向いて募集に来たのだ。その時に伊東が一味同志を率いて、これに参加することになったのだ。その一味同志というのが、この表にもある名前の大部分で、鈴木三樹三郎は彼の弟である、中西昇と、内海二郎はその代稽古をしていた、これに服部三郎兵衛、加納直之助、佐野七五三之助、篠原泰之進ら八人が打連れて、近藤ともろともに京都へ上って行った、それがそもそも縁のはじまり。その伊東以下がここに至って、前に言う通りの事情と名分とを以て、首尾よく新撰組と分離を遂げてしまった上に、新たに『御陵衛士』の名目を得て、立派に一隊を組織して盛んに同志を募りはじめた」
「それを黙って見ている近藤でもあるまい」
「その通り――伊東が芹沢と同じような運命に送られるか、或いは新勢力が旧組を圧倒して立つかの切羽(せっぱ)になった。そこへ持って来て、伊東が分離した時に、同時に分離して御陵衛士に入るべくして入らなかった一団がまだ新撰組のうちに残っている、その面(かお)ぶれを挙げてみると、佐野七五三之助、茨木司、岡田克己、中村三弥、湯川十郎、木幡勝之助、松本俊蔵、高野長右衛門、松本主税といったところで、これがどうかして脱退したいと、ひそかにその機を狙(ねら)っていたところへ、右の待遇問題が起って来た。近藤らは甘んじて幕府の金箔附きの御用党となる建前である、近藤としては、一土民から直参になり、あわよくば国主大名にも出世し兼ねまじき路が開かれたのだろうが、最初の同志浪人の面目は台なしだと、不平分子がこの機会にいきり出したのも無理のないところがある」
「そうだろう、浪人として集まったものの中には、浪人なることを本懐として、役人たることはいさぎよしとしないものが多々あったはずだ」
「その通り、我等は浪人として勤王攘夷を実行せんために、新撰隊に加盟したのだ、いまさら徳川の禄(ろく)を食(は)んで、その爪牙(そうが)となるわけにはいかぬ、新撰隊そのものが、そういうふうに変化した以上は、我々の隊に留まるべき大義名分は消滅したのだから、脱退して新たなる出処につくことが士の本分である、至急、我々の脱退を認めろ、というのが、これらの者の主張であって、これを右の直参待遇問題を機会にして、彼等が正面から近藤にぶっつかって行ったのだ」
「それを素直に聞くようなら、近藤も近藤でないし、新撰組も事実上の消滅だ。してその成行きはどうなった」
「右の十名のものは、右の意見を発表すると共に、袖をつらねて高台寺の伊東のところへ走ったが、それをそのまま受入れたのでは、高台寺組と新撰組が正面衝突になる、いや、高台寺組が新撰組へ公然宣戦布告ということになるから、さすがに伊東もそれは受入れない――投じて来た十名の者を諭(さと)して、諸君がそういう意志なら、僕のところへかけ込んで来るよりは、会津侯へ行ったらよかろう、何と言っても新撰組は会津が監督していることになるのだ、会津侯に向って、大義名分の理由により進退を決めるということを公明正大に申し述べて、立派に分離の手続を取るのがよろしい――こういうように伊東から諭されたので、それに従って会津侯へ請願書を出したが、会津でも扱いきれない。本来、新撰組は会津の監督とはいうものの、会津といえども、譜代といえども、新撰組に対しては監督というも名ばかりで、一目も二目も置いている、今の新撰組は厳然たる一大諸侯以上の存在である。そこで右の請願書を受取った会津の公用人は困ってしまって、これは当方の独断では取計らい兼ねるによって、一応近藤の方へも照会して、追って返事をするという挨拶であった――」
「そうだろうとも。会津といえども、宗家といえども、新撰組は扱いきれない、譜代なら譜代のように、大藩といえども処分のしようはあるけれども、新撰組は本来、骨からの浪人だ」
「そこで、会津から改めて近藤の方に旨を通ずると、近藤の返事がこうだ、さようなお取上げは一切御無用に願いたい、これと申すも、伊東あたりが背後にいて糸を引いてのことと思うが、こういうことが続発した日には、新撰組の致命傷だ、何はともあれ、一同の者はひとまず隊へ立ちかえるようによくおさとしが願いたいと。そこで会津からこの旨を脱退組に申し伝えると、彼等はまたそういうことをいまさら承知するはずがない――では明日改めてということになって、十人が打揃(うちそろ)ってまた会津屋敷まで出かけることになって、その前に伊東に会って打合せをすると、伊東が言うことには、まあ今日は会津屋敷へ行くのは止せ、相手が一筋縄ではいかない奴だから、どんな計略をしてないともわからぬ、それにひっかかりに行くのは危険千万だ、と言って留めてみたが、十人組はきかない、なあに、向うは会津屋敷だ、そう無茶なこともすまい、と十人のうち茨木司を先に立てて、佐野、富田、中村の都合四人が代表ということで会津屋敷へ歩いて行った。ところが仲介役、会津の公用人がなかなか出て来ない、主用で外出と言って容易に戻って来ないで、とうとう朝から夕方まで会津屋敷で待たされた。その時の代表の今の四人が奥室に進み、あとの六人は別室に控えていたが、いよいよ夕方まで待たされて、退屈を極めている途端を、不意にその四人の代表の後ろの襖からの電光の如く槍が突き出されて、四人とも芋刺し。思い設けぬ狼藉(ろうぜき)に、四人のものは深傷(ふかで)を負いながらも、刀を抜いてかかってみたけれどもすでに遅かった、僅かに相手を傷つけたのみで、四人もろともに田楽刺しになってその場に相果てたが、残る六人の者は主謀にあらず、罪状軽しとあって、新撰組へ連れ戻して追放の刑に処した――これがその近藤の取った復讐手段の序幕……」
 山崎譲が能弁に任せて、滔々(とうとう)として、ここまで語り去り語り来(きた)った時分にも、三人の足並みは更に変らないで、さっさと京洛をめざして進んでいたのだが、いつか知らぬうちに、茫々たる薄野原は早くも尽きてしまって、いつのまにか両側は櫛比(しっぴ)した町家になっている。そのまた町家が、いずれも熟睡時間だから、戸を閉しきって人っ子ひとり通るのではないから、みようによっては、薄野原の無人境よりはいっそう荒涼たるものに見える。清少納言は、火のなき火鉢というものをすさまじきものの一つに数えたが、もともと人家のないところに人家がないのは荒涼とはいえ、そこにまた自然の趣もあるというものだが、人家があって人がいない光景は、かえってすさまじいものがあると見られる。それに、これも今となって気がついたものだが、いつのまにか、闇の空は破れて皎々(きょうきょう)たる月がかがやいていようというものである。そこで、死の沈黙のような町並がいっそう荒涼たるものに見える。そのくせ、人家は行けども行けども無数に櫛比していることであり、その数の夥(おびただ)しいこと無数無限といってもよい。その中を三人が、例の歩調を揃(そろ)えて、さっさと歩み入るのでありましたが、前途に蒲団(ふとん)を着て寝ているような山があって、その山の真中に大文字の火が燃えている。どうしたものか、その辺で、山崎の能弁がぱったりと止まって、三人は無言で、その月下無人の市街路を、さっさと進んで行くのであります。
 路は早くも京洛の町並へ入っているのだ。当時の京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、深夜と言わず、宵(よい)のうちでさえも、独(ひと)り歩きなどをするものはないのだから、足は王城の下に入ったとはいえ、町は死の沈黙が当然なのであるにはあるが、それにしても、また一層のすさまじさで、歩調を揃えて行く三人の足どりが、どうも地についていない、いずれも宙に乗って走っているかと思われるくらいです。そのくらいだから、雲の飛ぶように、風の行くように、迅(はや)いことは迅いのだが、このまた町並というものも、どこまで行って、ドコで終るか知れないほど続けば続くものです。
 彼等三人は、さっさっと風を切って進みましたが、しばらく行って、山崎譲がようやく沈黙を破って、
「さて――田楽ざしの四人の者の死骸が……」
 その時に、道ばたの町並の町家の一角から人の声があって、きわめて低い声を発して、
「しばらく、しばらく、お控え下さい」
 六尺棒を持って、両刀をたばさんだ足軽体(てい)のが一人現われて、
「しっ! しばらく、お控え下さい、殺陣があります」
 叱するが如く、警するが如く、低く、そうして力ある声。
 ほかに通行の人はないのだから、その低声の警告は、まさしく、この三人の歩調の旅人のために発せられたものに相違ない。
 それと聞いてみると、ともかくも一応は歩調を止めないわけにはゆかない。
 竜之助と、新兵衛と、譲とは、ぴたりと路中のある地点に歩みをとどめて突立ちました。六尺棒の軽格がそれに向って、足音を重くして静かに近よって来る。

         四十五

 六尺棒を携えた軽格の士が、行手を遮(さえぎ)って、
「しばし、お控え下さい、この先で、たった今、凄愴(せいそう)たる殺陣が行われつつありますから……」
「ナニ、殺陣が」
「して、何者と何者とが相闘っておりますか」
 田中と山崎の二人が、踏みとどまって反問すると軽格が、
「いや、だまってお控え下さい、近よるは危険千万だからおとどめ申すのだ」
「何を」
 田中新兵衛がいきり立って進んだと見ると、やにわに一拳を振り上げて、したたかに軽格の眉間(みけん)をナグリつけました。
「うーん」
と言った軽格は、のけ反(ぞ)ったかと思うと、もう姿が見えません。
 これはあまりに乱暴です。ではあるけれども、口よりも手の早い田中新兵衛ではやむを得ない。一拳の下に軽格を打ち倒して置いて、三人がまた歩調を同じうしてこの非常線を突破してしまいました。
 行手に殺陣があろうと、剣山があろうと、そんなことで踏みとどまるこの三人でないことは、わかる人にはわかっているが、軽格にはわかっていなかったらしい。むしろ、そういうところへ好んで行きたがる人格であることを知らなかったのは、六尺棒の不運であったと見えるが、それにしても一拳の打擲(ちょうちゃく)だけで、声も姿も消滅してしまったのはどうしたものか。
 かくて、三人が踏み破って行くと、背後から一隊の人がバラバラと走って来る物音、振返ってそれを見ると、月光かがやく抜身の槍をかざして、身を結束した壮士が四十余名――こなたを指して乗込んで来るのです。
「それ、来たぞ」
 何が来たのだかわからないが、三人はそれを避けて通すと、すれすれに通行したが、鞘当(さやあ)てを演ずることもなく、しばらくすると、これも前の軽格と同様、音も姿も夜霧の中に消えてしまいます。
 またしばらくすると、右手の小高いところに山門があって、そこばかりは特に明るい。見れば大きな高張提灯(たかはりぢょうちん)が門の両側に出ている。しかもそのいずれもの提灯が、菊桐の御紋章である。そうしてその光で見ると、門の下にかかっている一方の表札は、
「高台寺月心院」
 他の一方のは、まだ木の香も新しい表札で、
「御陵衛士屯所」
とありありと読める。これを山崎譲が指して、
「あれ見給え、あれが高台寺の月心院、伊東が牛耳をとって、御陵衛士隊の本部として固めているところだ」
「なるほど」
「あの菊桐の御紋章が物を言うのだ、あれにはさすがの近藤勇も歯が立たない」
「伊東の得意とするところだ――事ある毎に菊桐御紋章の提灯を持ち出すことが伊東の得意で、その提灯を見て切歯するのが近藤勇」
 高台寺はそのまま過ぎて、なお同じ歩調で進んで行くと、ようやく一つの橋のたもとへ出ました。どこまで続くと思った町並の単調が、ようやく高台寺の提灯で破られると、今度は、橋にかかって来ました。橋は京都の名物の一つ、ただし、何という橋かその名はわからない。
 木津橋とも読めれば、木屋橋と読めないこともない。また読みようによっては大津屋橋とも読めそうだ。その橋の南側のところが板囲いになっている。多分、近い幾日かの間に火事が起って、その焼跡だろうと思われる。

         四十六

「向うから人が来るよ」
 なるほど提灯をつけて橋を渡って、こちらへやって来るものがある。何者が来ようとも、遅疑するこちらではない。
 しかし、相当の距離もあるとおもったそのうち、だんだん近よるに従って、その提灯の紋所がいよいよはっきりして来る。それを見ると、菊桐の御紋章です。
 菊桐の御紋章は、たったいま山崎から説明を聞いたところのもの、さいぜん見たのは高張提灯、これは弓張のさげ提灯です。
 二人連れで、いずれも両刀を帯びた壮士である。前のが提灯を持って先導し、うしろのが、少しほろ酔い機嫌で、微吟をしながら歩いて来るのです。
 こちらの三人と、ぱったり行会った途端、山崎譲がまたしても、その御紋章の提灯をたずさえた先導の壮士に向って呼びかけました、
「おいおい、斎藤一(さいとうはじめ)ではないか」
「拙者は斎藤だが、そういう貴殿は誰だ」
「山崎だよ、山崎譲だよ」
「ああ、山崎か」
「斎藤、君はこんな夜中にドコへ行くんだ、しかも、もったいない御提灯などを提(さ)げこんで……」
「は、は、は、ドコへ行くものか、この御紋章の示す通りだ」
「高台寺の屯所(とんしょ)へ帰るのか」
「そうだ、そうだ」
「そうして、今頃まで、どこで何をしていた」
と山崎から推問されると、斎藤と呼ばれた壮士は、提灯を持ったまま橋の真中に踏みとどまり、
「七条の醒(さめ)ヶ井(い)の近藤勇のところへ招かれて行ったのだ」
「近藤のところへか――そうして、連れは誰だ」
 連れはだれだと山崎から問いかけられて、思い出したように振返って見ると、もうその先導して来た一人は橋の上にいない。
「おや」
と思って見直すと、提灯持をそこに置きはなして、自分はもう前へ進んで、橋の詰の方へ酔歩蹣跚(すいほまんさん)として行く姿が見える。その主(ぬし)も酔っているが、提灯の斎藤も少なからず酔っている。同行のものを遣(や)り過ごしてしまっても、自分はまだいい気で橋上に踏みとどまって山崎と話し込んでいる。山崎もまた、いい気で問いをかけている。
「連れのあれは誰だ」
 その後ろ影を見やって、斎藤にたずねると、斎藤が高く笑って、
「君も知ってるだろう、伊東だよ、伊東甲子太郎だよ」
「ははあ、あれが伊東だったか」
「今は、伊東は大将なんだぜ、御陵衛士隊長と出格して、新撰組の近藤と対立の勢いになったのだ」
「そうか、そうして君はいったい、どっちに属するのだ、新撰組か、御陵衛士隊か」
 山崎から訊問(じんもん)のように言われて、斎藤は、
「拙者か――拙者はもとより新撰組、だが目下は、都合があって御陵衛士隊に寓(ぐう)している」
「二股者(ふたまたもの)――」
と山崎から一喝(いっかつ)されたが斎藤、なかなかひるまない。
「いいや、二股ではない、昨日は新撰組にいたが、今日は御陵組だ、昨日は昨日、今日は今日、朝(あした)には佐幕となり、夕(ゆうべ)には勤王となる、紛々たる軽薄、何の数うることを須(もち)いん――」
 斎藤の語尾が吟声になったが、直ちに真面目に返って、山崎の耳に口を寄せると、
「近藤隊長の命で、御陵衛士隊へ間者に入ってるんだよ、僕が――伊東をはじめ高台寺の現状を、味方と見せて偵察し、巧みに近藤方に通知するのが拙者の任務だ」
「そうか」
 山崎も納得したらしい。この斎藤というのは名を一(はじめ)と言い、藤堂平助と共に、江戸以来、近藤方の腹心であったが、今度は藤堂と相携えて御陵隊へ馳(は)せ加わってしまった。藤堂の方は新撰組に何か不平があってしたのだから、それが本心であろうけれども、斎藤はあらかじめ近藤の旨を受けて、間者として高台寺へ入り込ませてあるのだという。その内状を山崎が聞いてなるほどと思う――
「して、こんなに遅く、伊東を案内してドコへ行ったのだ」
「それを話すと長いが、まあ聞いてくれ」
 これもいい気なもので、御紋章の提灯を橋の一角に安置して置いて、もっぱら山崎を話敵(はなしがたき)に取ろうというものです。

         四十七

 斎藤一の語るところによると、今晩この男が、御陵衛士隊長伊東甲子太郎を送って、ここのところを通りかかった事情は次の如くでありました。
 上述の如く、近藤の新撰組と、伊東を盟主とする御陵衛士隊とは、相対峙(あいたいじ)して形勢風雲を孕(はら)んだ。どのみち、血の雨を降らさないことには両立のできない体勢になっている。土方歳三が、ついに火蓋(ひぶた)を切って、
「高台寺の裏山へ大砲を仕かけて、彼等の陣営を木端微塵に砕き、逃げ出して来る奴を一人残らず銃殺すべし」
 それを近藤が抑えて、
「何と言ってもお場所柄、それは穏かでないから、まあ、おれに任せろ」
というわけで、なるべく周囲の天地を驚かさないようにして、なるべく最少の動揺を以て彼等鏖殺(おうさつ)の秘計を胸に秘めつつ、事もなげに伊東へ使をやって、
「君等の隊と我々の隊との間に、戦場が開かれようとして、またしても京の天地に戦慄(せんりつ)が一つ加わった、そうでなくてさえ、人心極度におびえているところへ、また我々の同志討ちがはじまったとなっては、この上の人心動揺はかり難い、君等の奉仕する朝廷へ対しても恐れ多い次第だし、我等のつとむる幕府のためにも不利不益だ、おたがいの間のわだかまりは、先日切腹の茨木ら四人の犠牲で結論がついている、この上は笑って滞りを一掃しようではないか、それには、君と僕とが相和することが第一だ、君と僕とが相和して往来するようになれば、京中の上下は全く安心する、よってこの際、旧交を温めて、快く一夕を語り明かしたい」
 こういう意味で伊東へ交渉すると、伊東はそれを承諾した。伊東自身にも、その配下にも、あぶないという予感は充分にあったと思うが、近藤も男、おれも男である、こうまで言ってきているのに、行かないというは卑怯である、というわけで、近藤の招きに応じて今日、昼のうちから七条醒ヶ井の近藤の妾宅(しょうたく)へ出かけたのだ、吾輩がともをして。近藤は非常な喜び方で接待をする。先方には土方もいる。原田左之助もいる。会ってみれば皆、剣に生きる同志で、死生を誓った仲間だ。興は十二分に湧いて、款(かん)を尽して飲むほどに、酔うほどに、ついつい夜更けに及んでしまって、今こうして立ちかえるところなのだ。案ずるほどのことはない、極めて無事にこれから、高台寺月心院の屯所へ帰って快く、ぐっすりと寝込むばかりだ――
 こういうような事情を、斎藤一が山崎譲に向って、橋上で、自分も一杯機嫌に任せていい心持で語るのは、もはや、帰ることも忘れているような様子です。
 ところが一方、斎藤をここへ置き放して、一歩先に進んだ伊東甲子太郎は、これはまた斎藤よりも一層いい心持で、ぶらりぶらりと橋の袂(たもと)まで来ると、そこに一人の人間が立っているのを認めて、
「おい、誰だ、そこにいるのは」
 酔眼をみはって誰何(すいか)したが、返事がない。よって、わざわざ摺(す)りよるように近づいて、
「なんだ、机竜之助氏ではないか」
 竜之助と呼ばれた立像は、無言でうなずいているのを伊東が、
「何しに、こんな夜更けに、こんなところにいるのだ、芹沢の来るのを待っているのか、ははあ、山崎と同行か、山崎は今、あの通り、橋の上で斎藤と話している」
 伊東も振返って、再び橋上を見ると、立話に夢中な斎藤も、山崎も、てんでこちらのことは忘れてしまっているようです。
「して、貴殿はドコへ行かれる、先年、島原から行方不明になったとは聞いたが、どうして今ごろ、こんなところに何をしておられる」
 伊東甲子太郎は、こう言って、橋詰に立つ竜之助に向って問いかけたのは、酔い心地に旧知のことを思い出したのです。
 だが、竜之助は相も変らず柳の下に、立像のように突立っているだけで返事がない。酔っている伊東は、返事のないことにも頓着せずに、畳みかけて物を言う、
「今時、貴殿ほどに腕の出来るものを遊ばして置くという手はない、いったい、君は佐幕派かい、勤王派かい」
 駄目を押しても相手がいよいよ返事がない。伊東も木像を相手にする気にもなれず、
「そんなことは、ドチラでもかまわん、進退が自由だとすれば、僕のところへ来給え、ついこの上の高台寺月心院に、御陵衛士隊屯所というのがそれだ、貴殿が来てくれれば、死んだ芹沢も喜ぶに相違ない」
と言って誘いかけてみました。
 それでも、相手がウンともスンとも言わないので、伊東もあぐねて、もう相手にせず、そのまま橋詰を歩き出して、南側の、以前見た焼跡の板囲いのあたりまで来てしまいました。
 そうすると、ようやく長い立話を終った斎藤一が、菊桐御紋章の提灯をたずさえて、ここへ近づいて来て、
「いやどうも、旧友に出逢ったので、つい話が入り組んで……」
 申しわけたらたら近づいて来たのですが、山崎はついて来ない。橋上にも、橋詰にも、その姿を見ることができない。ドコへか消えてなくなったようなものです。

         四十八

 伊東と斎藤とは、そこでまた一緒になって、斎藤が御紋章の提灯をさげて先に立つと、伊東が、
「今そこで、拙者も変な人間に出会ったよ、一時は幽霊かと思ったがな」
「誰にですか」
「全く意外な男だ、それ吉田竜太郎――本名は机竜之助という、先年島原から行方不明になったあの男が、今、ひょっこりと、その橋詰の柳の木の下に立っている」
「机竜之助が――」
「あんまり不思議だから、話しかけてみたが、いっこう返答がない、音無しの構えだ」
「そうですか、それは珍しい人物に逢ったものですな、あの先生、島原であんな物狂いを起してから、トンと行方不明、人の噂(うわさ)では十津川筋で戦死したとも言われていたが、それではまだ生きていたのかな」
「たしかに、あの男だったよ、それから僕がいろいろ話しかけて、遊んでいるなら我々の屯所へ来いと言ったが、やっぱりウンだともツブれたとも言わぬ」
「はーて、それは珍しい、珍しいばかりじゃない、近ごろの掘出し物だ。本来、あの男は芹沢とよく、近藤とはよくない方だから、渡りをつければ、当然こっちへ来るべき男だ。惜しいことをした、今時こんなところにうろついているとすれば、きっと道に迷っているのです。道に迷っているとすれば、我々の屯所へ引こうではありませんか、あれを近藤方へ廻しては一敵国だ」
「僕もそう思って、しきりに誘いをかけてみたのだが、いっこう返事がない――しいてすると、ああいう性格の男だから、かえって事こわしと思って引上げたのだ」
「それは惜しいことです、ああいう人間をこの際、見落すという手はない、もう一ぺん引返して、さがしてみましょう、そうして僕からもひとつ説得を試みてみようではありませんか」
「それもそうだ、では、もう一ぺん引返してみよう、ついそこの橋詰の柳の木の下だよ」
 二人は、二三歩あとへ引返した。ほんの踵(きびす)をめぐらさずに、振り返れば済むだけの距離でしたが、振り返って見ると、もう、それらしい人はいずれにも見えない。いつのまにか消えてなくなっている。これより先、田中新兵衛の姿はもはや消えてなくなってしまっている。消えてなくなったのは、山崎譲と、田中新兵衛と、机竜之助だけではない、斎藤一もいつしか、橋上橋畔から姿を消してしまって、橋の真中から再び歩を踏み直しているのは伊東甲子太郎ひとりだけです。この男だけが例の酔歩蹣跚(すいほまんさん)として、全く、いい心持で、踊るが如くに踏んでいるその足許(あしもと)だけは変らない。

         四十九

 こうして、橋上を闊歩して戻る伊東甲子太郎の胸中は得意を以て満ちておりました。
 まず第一は、新撰組との絶縁が円満に通過したことです。新撰組を脱するには死を以てしなければならないのが、無事に解決したということに彼は大きな満足を感じていました。
 第二には、これによって幕府方と縁を断って、勤王方の一枚看板を掲げることができたというものである。もはや、眼のある人の目から見れば徳川幕府の時代ではない、勤王或いは別種の新勢力が取って代るべき時代が到来している。その新時代の新勢力の中へ、自分が一方の長として大手を振って合流することができる。勤王は自分の本来の持論であるのだ。
 第三には、右の意味に於て、自分には有力なる大藩や公卿のバックがある。それというのは、新撰組の兇暴に辟易(へきえき)しきっているこれらの諸藩閥が、一つには彼の勢力を殺(そ)ぎ、一つにはそれに対抗するために、別に一勢力を欲しがっている。自分がその適任と認められている。すなわち幕府方に近藤あるが如く、勤王方は自分を盛り立てようとする有力者が多い。
 それから、今日――から今晩にかけての会見についても、隊の者は不安がったが、自分はタカを括(くく)っていた。近藤といえども、もはや、おれの御機嫌を取らぬことには地位が不利益だということに気がついたのだ。いったい、近藤という男を、世間は兇暴一点張りの男とのみ見る奴が多いが、どうして、彼はなかなか眼さきも利(き)いているし、機を見るに敏な奴だ。不幸にして彼は有力な藩に生れなかったから、独力で今日の地位に驀進(ばくしん)しただけのもので、彼を西南の大藩にでも置けば、勤王方の有力なる一城壁をなす人物なのだ。だから、話せば話もわかる男で、存外、御(ぎょ)し易(やす)いのだ。なにも彼を強(し)いて敵に取るには及ばない。相当に追従して置いて、適当の時機に利用するもまた妙ではないか。
 伊東甲子太郎は、こんなことを胸中に考えて、ほくそ笑みつつ、ふと手を掲げて、己(おの)れの持った提灯をかざして見ると、また一段と肩身の広いことを感ずる。
 畏(かしこ)くもこの御紋章が物を言うのだ。こうして深夜、大手を振って、昨今の京洛を闊歩できるというのも、一つはこの御紋章が物を言うのだ。おれを快しとしない近藤一味といえども、この提灯に仇(あだ)をなすことはできない。
 かくて伊東は、満ちきった気分を以て橋を渡りきって、いよいよ再三問題の、南側の火事場あとの板囲いのところへさしかかったのであります。
 これより先、この板囲いの中には都合五人の黒いのが隠れておりました。
 抜身の槍の穂先が、尖々(せんせん)と月光にかがやいている。刀の白刃が、鞘(さや)の中で戞々(かつかつ)と走っている。五人十本の腕が、むずむずと手ぐすねで鳴っている。
 その間へ、別の方面の板囲いの透間を押分けて、また一つの黒いのが這(は)い込んで来ました。見ると、それが、さきほどの斎藤一です。忍び寄った斎藤は、この五人の鞘走りの一団へ近づいて、
「大石――」
「誰だ、斎藤か」
「来たぞ、来たぞ、いよいよ来たぞ」
と腹這いながら斎藤が言いました。
「来たか」
「それそれ、あの通り、得意満々たる千鳥足、御自慢の御紋章の提灯が何よりの目じるしだ、そらそら、今、そこをその板囲いの前を通る」
「御参(ござん)なれ!」
「やっ!」
と、大石鍬次郎が突き出した手練の槍、板囲いの間からズブリと出て、
「あっ!」
と、たしかに手答えがあった。表から見ると、無惨や伊東甲子太郎が、肩から首筋を貫かれて無念の形相(ぎょうそう)――血が泉のように迸(ほとばし)る。
「それ辰公――やっつけろ」
 首を突き貫かれて、よろめく伊東甲子太郎に向って、真先に板囲いの中から跳(おど)り出して斬ってかかったのは、元の伊東が手飼いの馬丁(べっとう)。
「隊長、済まねえが、わっしに首をおくんなさい」
「貴様は辰だな!」
 槍を掴(つか)んだ伊東の眥(まなじり)が裂ける。こいつは、先頃まで、自分が引立てて馬丁をさせて置いた辰公だ――八ツ裂きにすべき裏切者。
 痛手に屈せぬ伊東は、刀を抜いて、一刀の下にこの卑怯なる裏切者を斬って捨てたが、この時、板囲いの中から一斉に跳り出した五人の新撰組が、抜きつれて、手負いの伊東を取囲んで斬ってかかる。五人に囲まれて、走り且つ戦い、よろよろと御前通りの法華寺門前までよろけかかって来た伊東甲子太郎。そこに「一天四海」の石碑がある、その台石の上へ、よろけかかって腰を落しながら、
「奸賊(かんぞく)、新撰組! 呪(のろ)われろ」
と叫んで、槍創(やりきず)から吹き出す血汐(ちしお)を押え、うつぶしになったが、もうその時、息が絶えてしまっていた。
「存外、脆(もろ)かったなあ」
 五人のものもホッと一息つく。脆いのではない、この手でやられては、誰でも免(まぬが)れる由はあるまい。この運命を免れんとするには、最初、招きに応じて出なければよかったのだ。
 五人の者は、倒れ伏した御陵衛士隊長に近づいて、更におのおのこれに一刀ずつを加えて、更にその屍体(したい)を引摺り出して、そうして、程遠からぬ七条油小路の四辻へ引張り出して、大道へ置捨てにしました。
 しかも、その屍体には、念入りに御紋章入りの提灯を握り持たせてある。そうして置いて、一方には程近き町役人を叩き起して、
「御陵衛士の隊長が斬られている、伊東甲子太郎が殺されていると、高台寺へ向って知らせてやれ」
 町役人は慄(ふる)え上った。殺したのはこのやからであるにきまっている。そうして、このやからは新撰組のほかの者でありようはずがない。
 右の如くにして、伊東甲子太郎がせっかくの得意、これからという時、この途中にして殪(たお)れてしまいました。

         五十

 ところで、その晩のこと、月心院の屯所(とんしょ)の大きな火鉢を囲んで、伊東配下、御陵衛士隊の錚々(そうそう)たるもの、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、毛内(もうない)有之助、富山弥兵衛、加納道之助の面々が詰めきって、宵のうちから芸術談に花が咲いている。
 話題に夢中になったこの時間、この連中にも、殺気が消えて、芸術心というものが集中する。
 いったい、これらの人々には、勤王と言い、佐幕というようなイデオロギーよりは、芸術という魅力によって生き、これによって死んで悔いないというのが持味(もちあじ)なのです。
「芸術」というのは、徳川期に於ては「武術」に限ることであって、明治後期以後に慣用されたようなキザな生ぬるいものではない。
 勤王と言わず、佐幕と言わず、これが中心に活躍した壮士はすべて芸術の士である。芸術に於て彼等は必ずしも大家ではなかったけれども、それを生命とすることに於て、大家以上の精進力を持っていた。たとえば長州に於ては、桂小五郎もこの芸術家であった。薩摩に於て、西郷は芸術家たるべくして、負傷と体質から、その主流には外(はず)れたが、桐野は異彩ある芸術家の一人である。幕府に於て、近藤勇以下はまたその芸術家である。
 明治維新の推進力は、この種の芸術家の手にあった。暗殺はその一部分の演出表現に過ぎない。
 従って、当時の本物の志士で、談ひとたび芸術に亘(わた)ると神飛魂走せぬものはない。その点にはおのずから一種の見識があって、断じて一歩も譲らない剣刃上の覚悟があると共に、他の長を認めてこれを公平に鑑別するの雅量をも相当に持っていたらしい。ドコの藩で、誰がいかなる剣を使うかということの詮索(せんさく)は、彼等の間では、専門学者の研究慾と同じような熱を持っている。
 これらの連中の長夜の談義は、はしなくその芸術のことに燃えて、諸国、諸流、諸大家、諸末流の批評、検討、偶語、漫言雑出、やがて江戸の講武所の道場のことに帰一合流したような形になって、自然、男谷(おたに)の剣術のことに及ばんとした時でありました。
 これをこのほど、将軍上洛の時の人名表によって見ると、
  講武所 頭取
御使番次席   松平仲
御徒頭次席   一色仁左衛門
  同 砲術師範役
西丸御留守居格 下曾根甲斐守
        榊原鐘次郎
  同 剣術師範役
御先手格    男谷下総守
  同 槍術師範役
二丸御留守居格 平岩次郎太夫
ということになっている。つまり武家の表芸術、剣と、槍とを代表して、この二人だけが将軍について京都へ来ている。以て天下の芸術の代表の大家たることを知るべしと言わなければならぬ。
 何と言っても、江戸が武将の幕府である限り、芸術の秀粋も江戸に鍾(あつ)まることは当然である。その江戸芸術の粋たるものは当時、講武所にあるということも、避け難い結論となっている。その講武所の剣術に於て、男谷が押えていたということも、一同に異論のないことになっている。芸術の士の常として、屈下するをいさぎよしとしない。独創を尚(とうと)ぶが故に、模倣と追従とを卑しみ悪(にく)むことは変りはないが、自然、乱調子の中にも、長を長とし、優を優とする公論の帰するところも現われようというものです。
 男谷の剣術に就いては、これらの壮士といえども、多くの異論を起し易(やす)くない。男谷と言えば、その次には、今時の今堀、榊原、三橋、伊庭、近藤というあたりに及ぶべきところだが、会談が溯(さかのぼ)って島田虎之助が出る。島田を言う次に、勝麟(かつりん)の噂(うわさ)が出るような風向きになりました。
 勝麟太郎の名は、剣術としての名ではない、当時は幕府有数の人材の一人として、何人(なんぴと)の口頭にも上るところの名でありました。単に芸術の士だけではない、これからの天下の舞台を背負って立つ幕府方の最も有力なる人材の一人として、誰人にも嘱望されている名前でしたが、ここでは単に芸術の引合いとしての勝麟の名が呼び出される。
「いったい、勝は剣術は出来るのかいなア」
「勝の剣術は見たことないよ」
「だが、勝に言わせると、おれは学問としても、修行としても、ロクなことは一つもしていないが、剣術だけは本当の修行したと言っているぜ」
「口幅(くちはば)ったい言い分だな、ドレだけ修行して、ドレだけ出来るのか、勝に限って、まだ人を一人斬ったという話も聞かない」
「若い時は、あれで盛んに道場荒しをやったそうだ」
「いったい、彼は何の流儀で、誰に就いて剣術を学んだのだ」
「師匠は島田虎之助だが、剣術にかけては島田より家筋が確かなんだ、勝はあれで男谷の甥(おい)に当るんで、勝の父なるものが、男谷の弟なんだ、それが勝家へ養子に来たのだから、れっきとした武術の家柄なのさ――いやはや、その勝の父なるものが、箸(はし)にも棒にもかかった代物(しろもの)ではない」
と一座の中の物識(ものし)りが、勝麟太郎の家柄を洗い立てにかかったのが、ようやく話題の中心に移ろうとする時でありました。
 そこへ、ひょっこりと姿を現わして、
「やあ諸君、おそろいだな」
と、抜からぬ面(かお)で言いかけたのが、斎藤一でありました。

         五十一

「斎藤が帰って来たぞ」
「一人で帰って来たぞ」
「隊長はどうした」
 その詰問に斎藤が騒がぬ体(てい)で答える、
「隊長は今そこまで来ている、僕は別に人を一人つれて、一足先に帰って来たよ」
「別な人とは誰だ」
「そこにいるよ」
「どこに」
「そこに」
「誰もいないではないか」
「いるよ、たった一人、そこに立っているのが見えないか」
「見えない――」
「幽霊ではないか」
「戯談(じょうだん)を言うな、机竜之助だぞ」
「机竜之助がどうしたというのだ」
 そこで、一同が水をかけられたような気分になったが、それもホンの通り魔、我にかえって見ると、斎藤一もいなければ、机竜之助なるものもいない。
 二人は簡単なあいさつだけで、早くも奥の間に向って消えてなくなったものでしょう。
 これに芸術談の腰を折られた一同は、思い出したように、
「隊長の帰りが遅いではないか」
 これが、彼等の本来の不安であったが、その不安な気分を紛らわす間に、話の興が副産の芸術談に咲いてしまったのを、また取戻したという形です。
 そこへ、今度は、表門から、極度の狼狽(ろうばい)と動顛(どうてん)とを以て、発音もかすれかすれに、
「た、た、た、大変でござりまする、御陵衛士隊長様が殺されました、伊東甲子太郎先生が斬られて、七条油小路の四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の屯所へお知らせ申せとのこと故に、町役一同、馳(は)せつけて参りました」
 これは、通り魔の叫びではない、まさしく現実の声で、屯所の壮士一同の不安の的を射抜いた驚報でしたから、
「スワ……」
と一度に色めき立って、押取刀(おっとりがたな)で駈け出そうとしたが、
「諸君、そのまま駈け出しては危険だ、裏には裏がある」
「もっともだ」
と、逸(はや)る心を押鎮めて、

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