大菩薩峠
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著者名:中里介山 

いったい、船というものは、五月号にあれ、無名丸にあれ、今まで駒井の見た眼では、単に一つの構造物だけのものでありました。船の図を見ると、この船は何式で、何噸(トン)ぐらいで、どの時代、どの国の建造にかかっているかということのみが主となりました。従って、船の航海力にしても、これが石炭を焚(た)いた場合、どのくらい走り、帆をあげてからどの程度走るというような計数ばかり考えさせられていましたが、今晩は船というものが、大きな人格として、脈を打ち、肉をつけ、血を湛(たた)えている存在物のように見え出してきました。
 駒井が読み耽(ふけ)ったこの物語は、前の米国史の頁を、もう少し細かく、温かく、滋味豊かに敷衍(ふえん)してくれたといってもよい物語でありました。

         三十三

 読み且つ解して行くと、駒井の読んでいる物語には、次のような要点がある。
「コレ等ノ信神渡航者ハ一人モ往復ノ旅券ヲ求ムルモノナシ、彼等ハ他ノ旅客ノ如ク往ケバ必ズ帰リ来ルモノト予定スルコトヲセザルナリ、到リ着クトコロヲ以テ、ソノ骨ヲ埋ムルトコロト為(な)ス。彼等ハ本国いぎりすノ国家ノ強ヒル宗教ヲ信ズルコトヲ肯(がへ)ンゼザルナリ、制度ハ国ノ制度ヲ遵奉(じゆんぽう)セザル可(べ)カラズトイヘドモ、信仰ハ自由也、国家ヨリ賦課セラルベキモノニアラズ。
然(しか)ルニ、コノ信念ハ外ニ於テハ国家ニ不忠、内ニ於テハ国教ニ不信ナリトノ理由ヲ以テ、彼等ハ自国ニ住ムコトヲ極度ニ圧迫セラレタルヲ以テ、故国ヲ逃レテ和蘭(オランダ)ノ地ニ来リ、更ニ北米ノ天地ヲ求メタルモノナリ。彼等ノ欲スルトコロハ領土ニアラズ、物資ニアラズ、己(おの)レノ良心ト信仰トノ活路ヲ見出サンガタメニ新天地ニ出デタルモノ也。
閤竜(コロンブス)ノ求ムルトコロハ領土ナリキ。黄金ナリキ。サレバ、彼ニ従フトコロノモノモ、屈強ナル壮年男子ニ限リタレドモ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、オヨソ信仰ヲ共ニスル限リ、老幼男女ノアラユルモノヲ抱容スルコトヲ許サレタリ。コノ図ヲ見ヨ、彼等ノ一人モ、祈ラザルハナク、彼等ノ半個モ、武装シタルハナシ。彼等ハ皆、祈ルコトヲ知リタレドモ、祈ルコトヲ職業トスルモノハ一人モコレ有ラザリキ。即チ、コノ信神渡航者一行百二名ノウチニハ、僧侶ト名ノルモノ一人モコレ有ラザリキ。蓋(けだ)シ、僧侶ハ祈祷ヲ商ヒ、権力ニ媚(こ)ブルコトヲ職トスル階級ニシテ、彼等ノ信仰自由ニ同情ヲ持ツコトヲ知ラズ、コレヲ圧迫スルヲノミ職トスルモノナリケレバナラン。軍人ノ経歴アルモノハ、只一人ノミコレ有リキ。
コレニ反シテ、閤竜(コロンブス)ヲ先頭トスルすぺいん流ノ渡航者ハ、僧侶ト軍人ヲ以テホトンド全部ヲ占メヰタルガ、コノ信神渡航者ニハ、僧侶ナク、軍人ナシ。而(しか)シテ猶(な)ホ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、一人ノ貴族モナク、イハユル英雄モ豪傑モ、一人モ有ルコトナシ。
彼等ハ皆、小農夫、或ハ小商人ニ過ギザリキ。
然(しか)レドモ、コレ等ノ小農夫及小商人ハ、皆天ヲ敬シ、人ヲ愛スルコトヲ知ルモノナリキ。彼等ハ教育アリ、訓練アリ、特ニ自治ノ能力ニ於テハ優レタル天分素質ヲ有セルモノナリキ。
カクテ西航六十有余日。
信神渡航者ガぷりもすニ到リ着セル時ハ、北米ノ天ハ寒威猛烈ナル極月ノ、シカモ三十日ナリキ。彼等ノ胸臆ハ火ノ如ク燃エシカド、周囲ノ天地ハ満目荒涼タル未開ノ厳冬也。シカモコノ寒キ天地ノ中ニ、掘立小屋ヲ作リテ、辛ウジテ彼等ノ肉体ヲ入レテ、而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。
内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実不撓(ふたう)ナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ辱(はじ)ヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪(そさう)スルモノヲ見ザリキ。
彼等ハ、先ヅ荒土ヲ拓(ひら)イテ種ヲ蒔(ま)キタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍(たうもろこし)ノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」
 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を嘗(な)めて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に遡(さかのぼ)って、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。
「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」
というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを購(あがな)い得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と慣(なれ)っ子(こ)になって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。
 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。
 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ肚(はら)もないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。
 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎(キンツイ)を除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加(アメリカ)の強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。
 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸(おこ)がましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。
 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も紊(みだ)れない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして厭(いと)わない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易(ばいかしんえき)に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に未(いま)だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。

         三十四

 すべての人が、その領土に於て、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠(よ)り、駒井甚三郎は海により、竜之助は夢の国に生きている。その他の者は、多くはみな現実の国に於て生き、おのおのその能によって働いている。自ら自覚するとせざるとにかかわらず、おのおのの生きる立場に於て生かされているというわけで、がんりきの百蔵の如きでさえも、足の使命によって、まだ捨てられないものがあるのに、ひとり道庵先生だけが、この頃に至って、甚(はなはだ)しく生活の空虚を感じて、悲観に落ちていると言えば、知らないものは嘘だと言うかも知れないが、事実それに相違ないのは不思議です。
 何故に道庵が生活に空虚を感じ、人生の悲観に落ちかかっているかといえば、その内容は複雑怪奇で、一概には言えないけれども、連合いを亡くしたということも、その有力な原因の一つには相違ないのです。
 連合いといっても、俗に枕添(まくらぞい)のことではない。吾人は道庵先生に親炙(しんしゃ)すること多年、まだ先生に糟糠(そうこう)の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無(うむ)によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。連合いということは、この場合に於ては、同行者の意味に過ぎないのであって、彼はこの木曾道中の長い間、ドンキホーテ氏のサンチョー氏に於けるが如く、栃面屋(とちめんや)氏の北八氏に於けるが如く、影の形に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。あの男を胆吹山へ取られてしまっているが、その後の死生のほどもわからない。米友公を捨て、悍馬(かんば)の女将軍女軽業興行師のパリパリに乗替えたが、こいつが意外に道草を食いはじめて、自分よりは藤原の伊太夫なにがしという財閥へ附きっきりで、てんで道庵の方などへは見向きもしない今日この頃の形勢である。道庵先生としては、それをひがんでいるわけではない。誰にしても、十八文の貧乏医者を取持つよりは、当時きっての分限(ぶげん)の御機嫌を取ることの有利なるに走るのは人情だから、いまさら道庵が、そんなことにひがみを起しているほどの野暮(やぼ)ではないはずだから、特にそれを悲観しているとも思われません。
 道庵先生が、生活の空虚を感じて、人生を悲観している最大なる理由としては、現在の自分が、徒手遊食の徒に堕しきっているという点にあるらしいのです。前途の旅を急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きもならずしているうちに、本来そうあり余るという身代(しんだい)ではないから、懐中が少しずつ寒くなる。懐ろが寒くなると同時に心細くなる。その経済上の理由も一つはあるのです。しかし、その辺は、まかり間違えば金策の大家なるお角さんが附いており、お角さんの背後には、一大財閥が控えているのだから、ずいぶん心丈夫であってしかるべきだが、そこは痩(や)せても枯れても道庵である、財閥にすがるというような卑劣心が兆(きざ)してはならない。御粗末ながら自分の旅は、自分の財布でまかなうよと、意地を張っている。その意地が怪しくなった時は、すなわち心弱くなった時で、これでは旨(うま)い酒も飲めねえが、なんどと感じて来た時に、いささか悲観するかも知れないが、そんなことは今に始まったことではない。いまさら物質的の貧乏を以て生活の空虚なりと、この先生が考えるわけがない。何となれば、貧乏が即ち道庵、道庵が即ち貧乏と、それを一枚看板に今日まで生きて来た先生ですもの。
 江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の自分は、徒手遊食の民である、人生に貢献する何事もしていないで、そうして人生から食物を貪(むさぼ)っている。食だけではない、酒まで貪って飲んでいる。これでいいだろうかと深刻(?)に自省を発し出したことが、この先生の生活の空虚を感じ出した最大の理由なのです。
 長者町の本業を、高弟の道六に引渡して、身軽に旅に出て今日まで来たのはいいが、旅そのものを味わっていれば、日々の心がおのずから緊張もするが、こんなふうにして、進みもならず、退きもならず遊食していることは、この先生の良心に於て甚だやましいものがあるのです。日頃の主義主張としても、一日作(な)さざれば一日食せずという気概の下に働いて来たこの先生が、このごろでは一日中、何も作さずに、のんべんだらりと、食ったり飲んだりしている日が多い。こんなはずではなかったのだ。
 そこで道庵先生は、こう毎日、のんべんだらりとして宿屋の飯を食っていることに生活の空虚を感じ、これでは天道様に対して相済まないと自省してから、こういう無意識空虚な生活から一日も早く脱却向上しなければならぬと義憤を発したのです。
 しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるのです。
 というのは、道庵先生には敵が多いということがその理由の一つなのです。丁馬、安直、デモ倉、プロ亀、どぶ川、金茶、大根おろし、かき下ろし、よた頓、それらの輩(やから)は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの誤り)弥次郎兵衛、喜多八でさえも荒胆(あらぎも)をひしがれたので、この一派は江戸者に対して常に一種の敵愾心(てきがいしん)を蓄えている。一くせある江戸者が来たと聞くと、早速奇正の術を弄(ろう)してそのドテっ腹をえぐり、これに一泡吹かせて快なりとする悪い癖がある。その一味が、道庵来れりという内報を早くも受取って、用意おさおさ怠りがないらしいから、うっかり乗込もうものなら、忽(たちま)ちわなにかかって、十八文の金看板に泥を塗られるにきまっている。
 それからまた大阪には、緒方洪庵塾(おがたこうあんじゅく)などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵西上ということを伝え聞いて、手ぐすね引いている。この派の者共は、河太郎式の草双紙本と違って、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なるものが、こんど京大阪へ乗込んで来るそうだ。来たら袋叩き――と待ちかまえているという風聞が、かねて道庵の耳に伝わっている。
 その中へ一人では乗込めない――内心を聞くと、道庵も鼻っぱりに似合わず弱気なもので、そういう理由から危うきに近よるには、近よるようにして近寄らなければならないのだが、用心棒としての精悍無比なグロテスクは行方不明だし――女流興行師の大御所は、財閥に胡麻(ごま)をすることに急にして、自分の方はかまってくれない、頼む味方というものがない――それを心細がっている道庵は、我(が)を折って、お角さんの用のすむのを待ちわびて、これが同行を離れまいとしているところは、女にすがる意気地なしの骨頂のようでもあり、道庵の風上へも置けない醜態のようでもあるが、実のところは、あのたんかの切れる江戸前の鉄火者(てっかもの)を陣頭へ押っ立て、自分は蔭にいて、ちびりちびりとやりながら、女弟子でさえあの通り――うっかり親分にさわるまいぞ、という威力を見せて鴨振(カモフラ)しようというズルい考えがあるのです。つまり、面倒臭いことはお角にぽんぽんとやらせて、ごまかしてしまい、自分は隠れて一杯もよけいに飲みたいという腹なのですからズルいです。しかし、また一方、お角さんの方から言うと、自分もこれから京大阪の本場へ乗込むについて、この先生から離れたくない、この先生を手放したくない、という浅からぬ底意もあるのです。
 というのは、お角さんは、啖呵(たんか)は切れて、鼻っぱしの強いことは無類であって、この点では贅六(ぜいろく)人種などに引けを取る女ではないが、悲しいことには字学の方がいけない。熱田神宮の門前の茶屋でも、小娘に向って、「姉さん、ここの神様は何の御信心に利(き)くの」とたずねてテレてしまったことがある。ある時の如きは、皆々がよってたかって、舶来物が出来がよくて、和製はいけない、いけない、なんどとケナすのを聞いて、ムカッ腹を立て、「どうして、日本じゃ舶来が出来ないものかねえ」と口走って、一座の顔の色を変らせたことなんぞもある。そういう時に、お角さんの威勢に怖れて、明らかには笑ったり、そしったりしないけれども、この気色を見て取って、お角さん自身が、こいつは少し恥を掻(か)いたかなと、なおやきもきする。人の掛合いや兼合いでは、京大阪へ出ようと、唐(から)天竺(てんじく)へ出ようと、引けは取らないお角さんだが、字学の方にかけると、気が引けてどうにもならない。そこのところを埋合わせるには究竟(くっきょう)な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学の出来ることは底が知れない。こういう先生を後楯(うしろだて)に控えて行けば、ドコへ行こうと鬼に金棒だという観念がお角さんにはあるので、つまり、インテリ用心棒としての道庵先生を手放したくないのです。
 おたがいに、そこのところを利用し合って、うまく立廻ろうというズルい了見なのだが、それは双方とも甲羅を経ているから、勝負に優り劣りはありますまい。
 そういうわけで、道庵先生は、ここはどうしても、女親方の方の埒(らち)があくまで待つことを以て策の得たるものとする。それも、そう永い時日を要せずして埒があくに相違ないと思っているが、たとえ二日三日の間にしてからが、何か仕事をしたい、何か利用厚生の仕事にたずさわらなければ、自分の生存が徒手遊食ということになり、なおむつかしく言えば、尸位素餐(しいそさん)ということになる。徒手遊食だの、尸位素餐だのということは本来、貴族社会のすることで、道庵の極力排斥し来(きた)ったことであるから、たとえ二日でも三日でも、その生活をやっているということは、多年の敵の軍門に降るようなものである。何か仕事をしなくちゃあならねえ、何か稼(かせ)ぎをして飯を食わなくっちゃあ天道様(てんとうさま)に申しわけがない、と言って退屈して、生活の空虚を感じているところへ、話があったのは、
「どうです、先生、旅籠生活(はたごせいかつ)も御退屈でございましょうし、太夫元さんの方も、ここのところ、乗りかかった船で、なお二三日は引くに引けないんだそうでございますから、どうか、もうあと二三日の御辛抱が願いたいのです、何でしたら、この上の小町塚の閑静な庵(いおり)に、ついこの間まで女のお方が御逗留でいらっしゃいましたが、そのお方が大谷風呂の方におうつりになって空きましたそうで、関寺小町の跡でございまして閑静でもございますし、ながめが至極よろしうございます、それに、便もまたよろしうございまして、お酒の通いなども、ちょこちょことございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら……」
 伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、
「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」
「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」
「実は、こうしている間に、そこで本草(ほんぞう)の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」
「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから……酒の通いもちょこちょこ」
「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこというやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者(しゃれもの)でうれしいよ」
「あ、は、は、はっ、はっ」
 そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居(すまい)――小町塚の庵なのでありました。

         三十五

 道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居(ぐうきょ)していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木(さんぎ)筮竹(ぜいちく)も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取外されて、別に何か墨蹟がつっかかって、その下には、松が一枝活けてあるばっかり。
 床の間へ摺(す)り寄って見た道庵先生は、このかけ替えられた軸物を、皮肉らしい面(かお)をしてつくづくと見つめると、
鼠入銭□(せんとう)伎已窮
と、いけぞんざいに書きなぐってある。その下の落款(らっかん)を見ると、「一休純」と読める。そこで道庵先生が、
「一休め、皮肉な文句を書きやがったな」
と一謔(いちぎゃく)を発しただけで座につきました。座につくと、座蒲団(ざぶとん)も、机も、煙草盆も、普通一通りのものが備わっていて、お銀様の時のとは品は変るが、万端抜かりないことは同じで、ただ坐り込んで召使を呼びさえすれば事が足るように出来ている。
 そこで、一ぷくしてから、先生が御自慢の本草学にとりかかりました。
 つまり、宿からここへ送らせた旅嚢(りょのう)を、すっかり座敷へブチまけて、植物と押葉の分類をはじめたのです。それをはじめ出すと熱心なもので、さすがに心がけある先生だけに、つとめるところは、きっとつとめる。或るものはそれを改めて押葉とし、すでに押しのきいたものは取り出して台紙にはる。旅中では扱い兼ねる代物(しろもの)は写生にとって、図解と註釈とを記入する。牧野富太郎はだしの熱心を以て、道中、ことに胆吹の薬草の整理に取りかかっているのであります。
 こういうことをさせて置けば、生活の空虚なんぞは決して寄せつけない。仕事に対する興味そのものもあるが、それが道庵先生の主義主張に合して、利用厚生の道に叶うと信ずればこそなのであります。すなわち、薬草を整理することは、本業の医学に忠実なる所以(ゆえん)であって、医学こそは自分の生存の使命である。直接には病人の脈こそ取らないが、この薬草を整理することに於て、間接には救世済民の業にたずさわっているのである、徒手遊食しているのではない、尸位素餐(しいそさん)に生を貪(むさぼ)っているのではないという自信を道庵先生に持たせることが、つまり、その生活を空虚から救って充実せしめる所以でありました。
「こうして、一日作(な)している以上は、一日食う権利があるんだぜ、大口をあいて、この世の穀(ごく)を食いつぶしても恥かしくねえ」
と力みました。
 実際、人は一心になると怖ろしいもので、道庵先生に於てすら、今日は朝の迎え酒だけで、それからはわきめもふらず本草学に熱中している。昼になっても、夕方になっても、飯の一つも食おうということを言わないし、酒の通いのちょこちょこなどはおくびにも出ないで、一心不乱になっている。この体(てい)を見ると真に寝食を忘れている。まず、この分なら安心である。この人が生活の空虚を感じて、人生の悲観に暮れるということになったら、もう天下はおしまいです。
 かくして一日が暮れる。一日作した後の、一日の充実せる疲労を以て、ぐっすりとこの庵室に快眠を貪ることによって、天下泰平の兆(きざし)があります。
 無論、その夜の夢に、小町も出て来なければ、お豊真三郎も出て来ない。第一、出て来る方でも、道庵先生のところへ出て来たって、出て来栄えがしない、張合いがないと思って、それで出て来ないのです。翌朝、眼がさめると、おきまりの迎え酒一献(いっこん)、それからまた側目(わきめ)もふらず昨日のつづき、本草学の研究に一心不乱なる道庵先生を見出しました。

         三十六

 その翌日も、異常な興味を以て本草学の研究と整理に熱中していた道庵先生が、お正午(ひる)頃になると、急に大きなあくびとのびを一緒にして、カラリと筆を投げ捨てるが早いか、座右の一瓢(いっぴょう)を取り上げて、そそくさと下駄をつっかけてしまいました。どこへ行くかと見ると、早くも長安寺の石段をカタリカタリと上りつめて、それから尾蔵寺の方へ抜ける細い山道を、松の根方をわけながら、ゆらりゆらりと登って行くのです。
 ほどなく山腹の平らなところへ出て見ると、ここに、一風変った十三重の塔みたようなのがある。高さ一丈ばかり、とても十三重はないけれども、その塔の様式が少し変っているものですから、道庵先生は立ちよって、ためつ、すがめつ、石ぶりをながめていましたが、石刻の文字が磨滅してよく読み抜けないでいました。
 すると、少し離れたところに、落葉を掃いている中年僧が一人おりましたが、道庵先生が、特別に注意を払って、右の十三重まがいの塔をなでたりさすったりしているのを見て、我が意を得たりとばかり、右の中年僧が箒(ほうき)を引きずりながら近寄って来まして、
「よいお天気ですな」
と言いました。
「よいお天気でがすよ。時に、この塔はこりゃ、いったい何でござんす」
と道庵先生がたずねますと、右の中年僧がニコニコして、
「あねさん塚でござんすよ」
「あねさん塚?」
「ええ、これが有名なあねさん塚でござんすが、尋ねて下さるお方は甚(はなは)だ少ないでごわしてな」
 その甚だ少ない中の、自分が一人であると見立てられると、道庵先生いささか得意にならざるを得ない。
「いや、それほどでもないですがね、あねさんとは申しながら、これほどのものを無縁塔にして置くのは惜しいと思いましてな」
 あんまり要領を得ない返事をします。右の中年僧が、改めて道庵先生のために説明の労を取りました。
「いや、無縁ではございませんが、まあ、一種の悪縁とも言うべきでしょうか、これほどのお方の遺蹟が、すっかり世間から冷遇されることになりましたのは、遺憾千万なことでござんすよ」
「あねさんも、世間からそう冷遇されるようになっちゃあおしまいだ。いったい、あねさん、あねさんと言わっしゃるが、ドコの何というあねさんなんですね、まさか本所のあねさんでもござるまいがなあ」
と道庵が言いますと、中年僧は、
「あねさんというのは俗称でござんしてな――実は五大院の安然(あんねん)大和尚のこれがその爪髪塔(そうはつとう)なんでござんすよ」
「ははあ、安然大和尚、一名あねさん――」
「その通りでござんす、これが安然大和尚の爪髪塔なることは、歴然として考証も成り立つし、第一、磨滅こそしているようですが、よくごらんになりますと、ここにこれ、もったいなくも『勅伝法――五大院先徳安然大和尚』と銘がはっきり出ております」
「ははあ、なるほど」
 道庵がまだ注意しなかった石の側面に、なるほど立派に右の如く読める文字が刻してある。そこで、中年僧(実は長安寺の住職平田諦善師)は安然和尚に就いて、その来歴を次の如く道庵先生に語って聞かせました。

         三十七

 五大院の安然に就いては、「本朝高僧伝」には次の如くに記してあります。
「初め慈覚大師に随つて学び、後、辺昭僧正に就いて受く、叡山に五大院を構へ屏居(へいきよ)して出でず、著述を事とす、元慶八年勅して元慶寺の座主(ざす)たらしめ、伝法阿闍梨(あじやり)に任ず、終る所を記せず、世に五大院の先徳と称し、又阿覚大師と称す、著、悉曇蔵(しつたんぞう)八巻あり」
 また「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」と「東国高僧伝」とには次の如く要領が記されてあるのであります。
「安然は伝教大師の系族なり、長ずるに及び、聡敏(そうびん)人に邁(すぐ)れ、早く叡山に上り、慈覚大師に就いて顕密の二教を学びてその秘奥(ひあう)を極む、又、花山の辺昭に就いて胎蔵法を受く、博(ひろ)く経論に渉猟(せふれふ)し、百家に馳聘(ちへい)して、その述作する所、大教を補弼(ほひつ)す、所謂(いはゆる)『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇草』等なり、その『教時問答』は一仏一処一教を立て、三世十方一切仏教を判摂す、顕密を錯綜(さくそう)し、諸宗を泛淙(はんそう)す、台密の者、法を之に取る、その『悉曇草』は深く梵学(ぼんがく)の奥旨(あうし)を得たり。時人曰(いは)く、安然は東岳の唇舌を以て西天の音韻に通ず、才宏劉(くわうりう)なるかなと。都率超曰く、然(しか)り、師は顕密の博士なりと。又曰く、公若(も)し我が門に入らざれば秘教地に墜つ可しと。その英賢の為に旌(あらは)さるること此(かく)の如く、元慶八年勅して元慶寺伝法阿闍梨と為す」
 これほどの大善智識でありながら、死後すでに一千年、誰もその徳を慕う者がないばかりか、その記念の塔ですらが、世間から冷遇されるとは何と不幸な聖(ひじり)ではないか。
 住職和尚から、この一通りの来歴を説明されて道庵先生が、
「なるほど、五大院の安然大和尚が、教界古今の大学者だということは、拙者も兼ねて承らないでもありませんがね、それが、あねさん呼ばわりは、語呂の共通転訛の致すところで、やむを得ないとしてからが、それほどの大徳が、今日に至って、さほど世間から冷遇されるというのは、どうしたものでござるか、明智光秀の塔が壊されるとか、足利尊氏(あしかがたかうじ)の木像が梟(さら)されるとかいうなら、筋は通るが、しかし、碩学(せきがく)高僧である大和尚が、死後まで、俗人冷遇の目の敵(かたき)にされるというのがわからねえでがす」
 道庵は遠慮のないところの疑問を、平田師に向ってブチかけると、諦善師は、悪い面(かお)をしないで、かえってその疑問、我が意を得たりと言わぬばかりに、
「その事でござるてな、いや、このあねさん塚の世間俗間から冷遇されることは非常なものでござってな、貧乏神中の貧乏神として、あしらわれていますのじゃ」
「貧乏神」と聞いて、道庵が足もとを払われたように感じました。身に引け目があるからです。ただし、道庵先生のは、世間から貧乏神扱いにされるのではない、自分から貧乏神を売り物にしているだけの相違ですが、それでも、突然、人から貧乏神と言われると、正直いい心持はしないらしい。それにかまいなく、住職は重ねて註釈の労を厭(いと)いませんでした。
「このあねさん塚が俗間では、貧乏神中の貧乏神として嫌われておりましてな、この下の町でも、ちょっとこのあねさんの塔の方を仰いだだけでもその日は商売がない、それから、街道を通りながらも、思わず知らず、このあねさん塚の方へ振向いたその日は、もううだつが上らない、というようなわけで、とうとうこの塔をごらんの通り後向きにしてしまいました。そのくらいですから、俗人が皆おぞけをふるうばかりで、お参りなどをするものは誰一人もあるじゃございません。それにあなたばかりが珍しく……」
「おやおや、ヒドクまた嫌われたもんですね、しかし、人生にはまた意外の知己もあるものでね、あながち悲観するにも及びませぬわい」
 ひとり、この道庵に於ては大いに同情するところがある、という気前を見せたつもりなんでしょうが、住職はそれを好意に受取って、
「全く御奇特なことでございます」
「わしなんぞは、その日の商売が繁昌しようとすまいと、そういうことを石塔にかこつけて、義理人情を無視するようなことはしない、だがしかし、少なくも貧乏に於ては、安然大和尚に譲らねえつもりだが、自分の口から言うのは少し恥かしいくらいなもんだが、これで江戸の下谷の長者町へ行ってごろうじろ、一部には、なかなか大した人望があるんでね」
 そういう自慢がはじまるのを、住職は、やっぱり軽くあしらって、
「それは結構なことでございます」
「貧乏はしても、人望はあるんだよ。それにつけても、安然大和尚ともあるべき人物が、それほど人望を失っているというのは、よくよくのことなんだろう、いったい、どうした因縁なんですかね、不審の至りですなあ」
「その因縁でございます、その因縁には、実はこういう物語があるんでございます、まあお聞き下さい」
 平田住職は非常に親切に道庵に応対をする。道庵もまた、なんでもかでも聞いて置きたい方だから、神妙に傾聴している。
 小高い山の、赤土に長い赤松が生えて、青い空から晴れた軽い嵐がその梢(こずえ)に送られる。松の間から見る琵琶湖の景色のなごやかさ、湖上湖辺に騒ぎがあるなどとは夢にも思われない。かくて長安寺の裏山で、この変体な寒山と拾得とが、貧乏物語をはじめました。

         三十八

 諦善師が、道庵先生に語るところの因縁物語は、次の如きものでありました――
 安然大師、現世では左様に古今独歩の大学者であったけれども、その前世は甚(はなは)だ薄徳なる一個の六部でありました。そうして、人から受くることばかりで、与えるということを更にしなかった。その報いによって、学徳は左様に高かったけれども、財縁というものが甚だ薄く、修行時代には赤貧洗うが如く、朝夕の煙もたえがちで、ほとんど餓死に迫ってしまった。そこで、安然法師は歎息し、程近き「投げ足の弁天」へ参籠(さんろう)して泣訴することには、
「愚僧は貧困骨に徹して、もはや餓死になんなんとしている、わしは若いですから餓死するとも我慢は致しますが、老いたる母が不憫(ふびん)でなりませぬ、何とかよい工夫はないものでございましょうか」
 そうすると、投げ足の弁天様は、名前通り足を投げ出したままで、これに答えるようは、
「それはお気の毒千万なことだが、お前さんの人相を見ますと、お前さんの前世は六十六部でした、そうして貪慾で、貰うことばかり一生懸命で、人に施しということをしたことがありません、その報いで、お前さん母子(おやこ)が今のように貧乏に苦しむのですから、いわば因果応報で、如何(いかん)とも致し方がないのです。しかし、お前さんは勉強家で且つ親孝行だから、一つわたしが手段方法を教えて上げましょう。それというのは、お前さんが前世で六部の時代に、それほど貪慾の罪を造っていたが、ただ一度だけ施しをしたことがある、それはお前さんが、心あって施しをしたのではない、ある時、前世のお前さんは樹上の梨を取って食べた、そうして甘いところの実は、すっかり自分で食べてしまって、食べ残りのしんを路傍(みちばた)へ抛(ほう)り出したが、そのしんを地上で餓えた蟻が這(は)いよって食べて、それで蟻の命が救われた、お前さんには、たった一つのその功徳がある。その蟻が今の世で人間となって京都へ生れ、木屋町で豆腐屋を開いて、相当に繁昌している、よって、お前さん、母御をつれて、その豆腐屋へ行って相談してごらんなさい」
 投げ足の弁天から、これだけのことを教えられて、安然法師も、当座の急を救われる喜びには打たれたけれども、それにしても、弁天の応対ぶりが不愉快であった。弁天様とは言いながら、女の身で、人に挨拶するのに足を投げ出してするとは何だ。かりにも前世や後生のことを語るのに、いくら私が貧鈍で薄徳だからといって、足を投げ出して話をする作法はない――と安然法師はそのことを憤って、お祈りをして弁天様の足を封じたところが、それっきり弁天様の足が動かなくなった。それで、あの弁天様は、永久に足を投げ出したままの不作法をさらしている。投げ足弁天の由来はこうである、というのです。
 それはそれとして、安然法師は、言われた通りに京都の木屋町まで来て見ると、言われた通りの豆腐屋がある。それをたずねて委細を物語ってみると、その豆腐屋が立ちどころに同情して、母は豆腐屋が養ってくれることになり、安然は豆腐のカラを恵まれて、それを食べつつ修行して、ついに大智識になった――という因縁物語を聞き終ると、道庵がまた大いに感動させられてしまいました。
「いや、それで貧乏神の由来がわかりました、大いに教訓のある話です、貧乏の方では拙者もかなり先達(せんだつ)の方ですが、あねさんにはかないません、これは大先輩でした。ひとつ、どうでしょう、これも御縁ですから、安然大師のために、ひとつ拙者が発起人となって大供養を致したい、そうして一方、お角親方をでも焚(た)きつけて、盛んに景気をつけて、縁起直しをやりてえもんだねえ、貧乏神のあねさんを、ひとつ福々の神様に祭り直して上げたいものですねえ」
 こんなことを口走ったのを、住職は多分お座なりのお世辞だろうぐらいに聞き流していましたが、道庵にとっては真剣でした。
 道庵は得てこういう芝居気がある。関ヶ原ではまんまと大御所を気取りそこねたが、一向ひるまない。今日はまた、ここでこんな因縁話を聞いてみると、ほんとうに身につまされる。ことに自分と同じ宗旨の大先達であってみると、今日このお墓参りをしたということが、何かのお引合せである。今いう前世というやつのお節介に相違ない。ことに世間の奴等がこれほどの大先達を冷遇して、死んだあとの塔をまで、あちら向きにしてしまうなどとは、不人情と言おうか、冷酷非道と言おうか、言語道断のふるまいである。今日、その流れを汲む道庵がここへ来たからには百人力。
 ことに、芝居道の大策士たる女将軍が後ろに控えていて、そのまた後ろには、それは貧乏神とは全く対蹠的(たいせきてき)な大財閥が一人控えている。二人を脅迫して、うんと金を出させて、死せる不遇なる大先輩のために大々的な追善供養をするんだ――と道庵の心中はいきり立っているのを、住職はそこまでは見破ることができません。

         三十九

 道庵先生は、不日この地に於て盛大なる「貧乏祭」を催し、亡き安然大徳に追善供養すると同時に、この地方の有志をアッと言わせてやろうという野心に駆(か)られつつ、裏山をあてどもなく散歩し、程よきところで一瓢(いっぴょう)を傾けつつ、いいかげんに遊んで、やがてまた小町塚の庵(いおり)へ戻って来ました。
 道庵が、小町塚の庵へいい機嫌で立戻って見ると、意外にも来客が一人あって、留守の間に座に通って、すまし込んで控えておりました。
「やあ」
「やあ」
 相見て、おたがいに呆(あき)れたのは、これはたしかに相当熟した旧知の間柄であることがわかる。留守中の来客というのは、年配もほぼ道庵先生とおっつかっつであって、道庵より少し背は低いが、よく肥って、人品も悪くない一人の老紳士でありました。
「健斎君」
「道庵君」
「いや、どうも暫く」
「全く思いがけないよ」
「こんにちは」
「こんにちは」
 二人とも意外意外で、立ったなり、坐ったなりで、珍妙な挨拶を取交しました。
 これだけの名乗りによると、一方が道庵君であることは先刻わかっているが、留守中の来客というのが健斎君であることが同時にわかりました。しかし健斎君といっても、道庵にはわかっているが、他の者にはわからない。この作中に於ては初見参の名前ですから……だが、戸籍を洗ってみると、少しも怪しい者ではない。このあたり、あまり遠くないところに住んでいる、やはり道庵の同業者の一人であることが、名前から言っても、言語挙動から言っても、充分に受取れる。
「健斎君、君のところは、この近辺だったかいねえ」
「山城の田辺(たなべ)だよ」
「山城の田辺というと、どっちに当るかなあ」
「伏見の先の方なんだ」
「そうか。そうしてまた、どうして道庵がここにとぐろを捲いているということがわかったのだい」
「いや、それは、思わぬところで耳に入れたものだから、とりあえずやって来て見ると、君は留守だとのことだが、座敷の模様を見ると、あまり遠出をしたようでもないから、そのうち戻るだろうと、こうして待っていたところだ」
「よく待っていてくれた、なんにしても、聖堂以来の思いがけない対面で嬉しい、早速いっぱいやろう」
「ははあ、君は相変らず飲むな、僕はあれ以来、禁酒だよ」
「そいつは惜しいな、玉の盃(さかずき)、底なきが如しだあ。まあ、なんでもいいや、くつろぎ給え、聖堂以来の旧知、遠方より来(きた)る、またたのしからずや」
「遠方より来るは、こっちの言い分だ、君が遥々(はるばる)江戸から来てくれたんだから、これから僕が大いに飲ませるよ」
「有難え――持つべきものは友人だ」
 二人ともに、非常に砕けている。その交際ぶりを見ると、昨日や今日の間柄ではない。いい年をした二人が、全く若やいだ書生気分になってはしゃぎ出したのは、つまり、二人は書生時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に留まって十八文の名、天下(?)に遍(あまね)く、一方は郷里なる山城田辺に引込んで、先祖代々の医業を継承している。その間は音信不通であったのだが、会ってみると、急に時代が三四十年も逆戻りをして、牛肉を突っついた昔に返ってしまうのも道理です。
「へえ、どうして君は、僕がここにわだかまっているということがわかったんだね」
 道庵が、どっかりと坐り込んで、再び念を押すと、健斎が、
「不思議なところで聞いて来たよ、この上の大谷風呂で、君がここへ来ているということを、はからずも耳に入れたものだから、早速かけつけて来たのだ」
「大谷風呂で聞いたって、大谷風呂の誰に聞いたんだい」
「それが妙な因縁でな、順序を話すと、こうなんだよ――大谷風呂に、甲州の有名な財閥で、藤原の伊太夫というのがいる」
「知ってる、僕も名前だけは大いに聞いている、それから最近、お角という奴が、妙に胡麻(ごま)をすっていることも知っている」
 お角という奴が、胡麻をするかすらないか、そんなことはよけいなことだが、とにかく、藤原の伊太夫には相当知音(ちいん)の間柄と見える。その点を健斎が説明して言うには、
「その藤原の伊太夫というのは、親父(おやじ)の代からの懇意で、出府の前にはよく往来したものだが、その伊太夫が今度、上方へやって来て、大谷風呂に逗留しているのだ」
「そこへ、君がまた胡麻すりに来たのか」
「よせやい、おれはこう見えたって、財閥に胡麻をするひまはないんだ、ただ、その旧知の縁によって、伊太夫から招かれたんだ。ただ招かれたんでは、そう安々と出て来るわけにはいかないが、旅中、同行の中に急病者が出来たから、枉(ま)げて都合して来て見てくれないかという急の使だから、早速やって来てみたところなのだ」
 健斎が、こう言ったところを以て見ると、ますます同業者ということがわかる。同時に健斎の家は、田辺でも代々旧家の方で、相当の貫禄があるのだから、伊太夫に招かれたからと言って、そう安々とは出て来られないはずだが、病人ありと聞いては、職業柄、猶予はできないで、駈けつけて来たというのは、聞える道理だが、そのくらいなら、ナゼ道庵に頼まない! という不服が、道庵の胸三寸に、ちょっと、つむじを捲かせました。そうして不服を包んでいる道庵でないから、忽(たちま)ちにムキ出してしまって、
「なに、伊太夫に急病人が出来たから、わざわざ田辺まで君を招きに行ったのか。人をばかにしていやがら、つい端近(はしぢか)に、この道庵というものが控えているのを知りながら、ほかへ使をやるなんて、胡麻すりのお角もお角じゃねえか」
とこう言いました。道庵の気象を呑込んでいる健斎だから、そんな不服は深くは取上げない。
「いや、それには何か特別の事情があるらしいのでね、近所の医者では都合が悪かったのだろう、実は普通の病人ではないのだ、水死人なのだ、水に溺(おぼ)れた人を、伊太夫殿が湖水から掬(すく)い上げて来て、それを一室に匿(かく)まい、治療をさせようという次第で、急に僕のことを思い出して使を立てたものらしい」
「ははあ、あいつら、竹生島へ参詣をかこつけて、デモの避難を試みたそうだが、では、その途中、水死人を拾い上げでもして来たものだろう」
「心中者らしいのだ」
「心中者――今時、洒落(しゃれ)てやがるな」
「でもまあ、助かったから功徳(くどく)というものさ」
 二人、会話をしているうちに、婆やが酒を運ぶ、茶菓を運ぶ。
 それが話のきっかけになって、健斎は、どうしても道庵を田辺へ引っぱって行くと言ってきかない。
「田辺なんてところに、何かいいものがあるのかい」
「有るとも、大有りさ、一休和尚の寺がある」
「一休! 一休と聞いちゃ、聞きのがせねえよ」
と道庵が、いささかはずみました。山城の国、綴喜郡(つづきごおり)、田辺の里に、一休和尚の旧蹟酬恩庵(しゅうおんあん)があることの説明を、健斎老が道庵先生に説いて聞かせた上、どうしても、これから道庵先生を引っぱって行って、大いに上方酒(かみがたざけ)を飲ませなければならぬ、と言い出したものですから、暫く思案した道庵が、忽ち同意してしまいました。
 先に言うが如く、道庵が空虚を感じながら、ここを動けない理由の一つとしては、孤立無援で、味方のない敵地へ乗込むということの危険を予想したからである。ところが、山城生れの生粋(きっすい)の土地っ子で根の生えたやつが、自分の味方についた。これは切っても切れない書生時代からの同学だから、どう間違っても裏切りのおそれはない。のみならず、家も旧家で、相当豊かな暮らしをしていることがわかる。道庵に一月や二月、呑ませたからといって身上にさわる家でないこともよくわかる。且つまた、職務の暇々には、自分も興味を以て畿内の名所旧蹟を歴遊してもよいということだから、こうなってみると、あえて米友やお角をたよりにする必要はない。そういうのを頼りにして出かけるよりは、この方が一層、利(き)き目(め)があると思いました。
 道庵がそう鑑定したものですから、一も二もなく健斎の招待に応ずることになりました。もうこうなってみると、本草学の研究も、貧乏祭の計画も打忘れてしまって、いざ出直しの用意にとりかかるという気早さです。

         四十

 大谷風呂の別の一間には、屏風(びょうぶ)が立て廻されて、この外に、一人のお医者さんと、女の人とがいろいろと会談をしています。
 そのお医者さんというのは、さきほどのあの中川健斎老で、もう一人の女の人というのは、ほかならぬお角さんであります。
 屏風の中で、すやすやと眠っていたらしい病人が、やっと眼がさめた様子を見計らって、外からお角さんが言葉をかけました、
「お目ざめになりましたか」
「はい」
 お角さんが、屏風をちょっと押しやると、そこで枕についていたのは、やっぱり女の人であります。枕にかかる洗い髪は、まだ若い緑の黒髪がたっぷりしていました。
 そうすると健斎老が、これは無言で膝行(いざ)り寄り、患者の枕許へ手を入れて、しずかに取り上げた小腕を見ると細くて白い。
「ねえ、お雪様」
と、お医者さんに脈を見せて置いて、これも一膝進ませたお角さん。
 枕に親しんでいるのはお雪ちゃんであります。お角さんは、お雪ちゃんを呼ぶに、お雪ちゃんともお雪さんとも言わない、お雪様と本格扱いです。
「はい」
「先生が、わざわざ田辺からおいで下さいまして、もうすっかり、こっちのものだと太鼓判をお捺(お)しになりましたから、御安心なさいませよ」
「はい」
「そうしてね、お雪様、ここは閑静で、いつまで保養をなさっていてもかまいませんが、何を言うにも宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
「はい」
 何を言っても、はいはいと逆らわない。逆らわないだけたよりのないような心持もする。その時、脈を取り終った健斎老が、
「もうほとんど平脈、危険のおそれ更になし、どうです、今このおかみさんがおっしゃる通り、僕のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎(いなか)だが、空気もいいですよ、小高い山の上に別荘がある、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
「はい、有難うございます」
 素直に納得するのを、お角さんがまた傍らから力をつけて、
「そうなさいませよ、万事、少しも心配はいりません、あとのことも、先のことも、すっかりいいようにして上げてありますから」
「有難うございます」
「それから、もう一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でございますよ」
「あの、道庵先生が――」
 ここで、お雪ちゃんがはじめて、「はい」と「有難う」との単語のほかに、些少(さしょう)ながら感激の力のある言葉を発しました。これに力を得たお角さんは、
「ええ、あの先生がね、こちらへ参っていまして、こちらの先生と昔からのお友達なんだそうでございますよ、二人のエライ先生がお附きだから、全く親船に乗ったようなもので、あなた様もお仕合せです」
と励みをつけました。事実、この二人の国手(こくしゅ)がついていれば、大丈夫保険附きのようなものですから、お角さんの口前とばかりは言えません。しかし喜ぶべきはずのお雪ちゃんは、まだ思う存分に意志の発表ができるほど、気力が回復していないと見えて、いったんは道庵先生と聞いて、いささかながら昂奮の気色が見えましたが、お角さんがはずむほど、それほどはずまないようです。
 そうして、少し身動きをして言いました、
「それは御親切に有難いことでございますが、どうもわたくしは、知っているお方にはお目にかかりたくない心持が致しまして、このままずっと大阪へ行ってしまいたいと存じます、いいえ、こちらの先生の田辺とやらへ御厄介になって、それから大阪へ参るなら参るように致したいと思います」
と、やっとお雪ちゃんがこう言いました。
 それにお雪ちゃんは、道庵先生とは至極心安い。胆吹の王国で、この先生といっしょにハイキングをやったこともあれば、人生問題を論じ合ったこともある。至極イキの合う先生ではあるが、今となっては、自分を知っている人のすべてに会うことを、悪意でなく、避けたがっている。その気分をお角さんも認めたものですから、
「それもそうですね、ではあなたは道庵先生とは別の心持でいらっしゃい、お雪様だか誰だかわからないようにしてお送りしますから、蔭にはいつも両先生がついていると、心強く思っていらっしゃい」
 そこはお角さんも心得ている。道庵という先生は、至極出来のいい先生ではあるけれども、何をいうにも、あのがさつな気象である。むやみにいい機嫌で、病人の傍でさわがれた日には、病人のためにならないこともある。且つまた、この病人は、全く素直であるだけ、それだけ油断がならない。いつまた昂奮して、再び死を急ぐような気分にならないとも限らない。心中者には特にそういう気分は有りがちで、まあよかった、人間一人を取戻したと思ってホッと安心している、その隙(すき)をねらって飛び出して本望を遂げてしまうという例もずいぶんあることですから、その辺は健斎先生にもよく依頼してある。なんにしても、当分は、絹糸にさわるように本人の気分をやわらかにして置かなければならない。この際に道庵先生のようなざっかけを、病人の意志に反して、傍に置くことは相当考えなければならないと、お角さんが思いました。
 そこへ、取次の女中が出て来まして、
「ちょじゃまちの先生とかおっしゃるお方が、おいでになりました」
 早くも道庵が進入して来たらしい。

         四十一

 さて、その翌日になりますと、大谷風呂から三箇の乗物が前後して出立しました。
 まんなかのは普通の四ツ手ですが、前後のは、お医者さんだけが乗るべきあんぽつです。
 それに附添が三人――
 これによって見ても、まんなかのお駕籠(かご)がお雪ちゃんで、前後のあんぽつに、健斎、道庵の両国手が乗込んでいることと想像ができる。
 駕籠附の一人は、山城田辺から健斎国手がつれて来たおともで、他の二人は伊太夫の従者の若い者でした。
 この三乗三従の一行に加うるに、お角さんが庄公を召しつれて、追分まで送ろうというのです。
 やがて程遠からぬ追分まで来ると、例の「柳緑花紅」の道しるべの前で、前後のあんぽつだけが乗物をとどめ、まんなかの四ツ手は先をきって、静かに打たせて行きます。前後のあんぽつが停ったかと思うと、両方から一時にころがり出したのは、前なるは健斎国手、あとのは道庵先生でありました。
「やれやれ、御苦労さま」
 道庵が額の汗を拭きますと(汗は出ていないのだが、手加減で汗を拭く真似(まね)をする)お角さんが、
「先生、御窮屈でございましょうね」
「わしゃ、どうも、駕籠乗物よりは、事情の許す限り徒歩主義でしてね」
 そう言うと健斎国手も、
「いや、わしも歩くのが好きなんだ、では、これからずうっと歩くことにしようじゃないか、時に随って、或いは歩み、或いは乗るということにして行こう」
「賛成」
 二人はそういうことに同意をしました。お雪ちゃんの乗物は、一町ばかり先に休んでいる。こういう行き方にも、またお角さんの気の利(き)いた細かな勘が働いているものと思われます。
「では親方」
と道庵が改めて、お角の方へ向き直り、
「京都でゆっくり再会という段取りに致そう、たよりをくれ給えよ、綴喜郡の田辺のこれこれへ、京へ着いたら忘れないように早々便りをくれ給えよ」
「先刻心得ておりますよ」
「財閥へうまく胡麻をすって、大儲(おおもう)けに儲けなさいよ」
 これはよけいなことでした。こういうことは、この際、口走らない方がよかったのですが、どうも、御人体(ごにんてい)で如何(いかん)ともし難いと見える。
「ようござんすとも、どっさり儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよ、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよ」
とお角さんが応酬しました。前口上の、御意の通り大いに儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよはいいとしても、あとの、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよは、よけいなことです。道庵も、口を割ってまで飲ませられてはたまるまい。
「なにぶん頼む」
 それを道庵が素直に受けますと、お角さんが今度は健斎老の方へ向き直り、これは道庵先生に対するとは打って変った慇懃(いんぎん)ぶりで、
「では健斎先生、これでお暇(いとま)を申し上げます、この上とも、万事よろしくお願い申し上げます、そういう次第でございますから、病人の方には、道庵先生が御同行していることを当分はお話し申さない方がよろしいかと存じます、それから、こちらの大きな方の御厄介者、これが病人よりは一層の難物かと存じますが、この方も万事よろしく」
「ばかにしなさんな」
「ではなにぶん」
「失礼」
「お大切に」
「あばよ」
 これがこの場の最後の挨拶。
 右へ道をとれば山城の国、山科――左は伏見から大阪へ。
 二人の医者は、わざとあんぽつを空にして、駕籠(かご)わきにつき添って歩いて行く。乗物と人物の見えなくなるまでお角さんは、追分の札の辻に立って見送っている。両国手は、時々振返って、一瓢をささげ上げて、さらばの継足し、その度毎に、お角さんも手を挙げてあいさつを返す。さきに待兼ねていた先発のお雪ちゃんの駕籠のところまで来ると、二人の国手も乗物の中へ隠れて、かくて三乗三従の一行は、追分道を左に綴喜郡田辺の里へ向って急ぐ。
 お角さんは、それを見送って、改めて庄公を引き立て、以前の通り大谷風呂をさして戻りにつく。

         四十二

 お雪ちゃんを追分から南へ送った日のその晩のこと。
 これは大谷風呂ではない、関の清水の鳥居の下から、ふらりと現われた一人の武士がありました。笠をかぶって、馬乗袴のマチの高いのを穿(は)いて手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)のいでたち、たった一人、神社の石段を下りて、鳥居をくぐって、街道へ歩み出しました。
 その時分、もう、さしもの街道にも人通りは絶えていたのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城(かつらぎ)まで呼びかける逢坂山(おうさかやま)の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来たように、ゆらりゆらりと歩いていました。

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