大菩薩峠
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著者名:中里介山 

居つけば一躍して甲種へ昇格するが、水に合わないと早速飛び出して、悪評を世間にふり蒔(ま)いて歩きがちなのがこの人種である。
 その晩になると、果して、この青年が青嵐居士の許(もと)へ話しに来ました。彼は、特に師団長のお目に留まったことを光栄ともし、よろこびともして、晩飯が済むと逸早(いちはや)く押しかけて来たものです。
「君は蘭学をやっているのかね」
 昼のつづきで、青嵐居士が会話のきっかけを作って青年に与えると、青年は、
「いや、あれは蘭学ではないのです、英学なんです。蘭学はもう古い、将来は英学をやらなければならないと言われたものですから……」
と申しわけをしました。
「そうか、英学だったかね、見せ給え、もう一ぺん、あの本を」
 青嵐居士が、青年のふところを見込んでこう言いますと、青年が、
「これでございますか」
 またしても、青年はふところから、日中ころがり出たところの部厚な小冊子を再び取り出して、青嵐居士の前へ提出しました。
 してみると、この青年は、昼夜離さず、右の小冊子をふところにしているらしい。青嵐居士もそう気取(けど)ったから、そこで、再提出を求めたものに相違ない。つまり、蘭学か、英学か、そこまでは見究めなかったけれども、たしかに外国語の辞書であることは、青嵐居士が最初から認めたところのものでありました。
 辞書というものは、語学生はふところから放さないものである。今晩、来訪して来たのを見た時も、この青年のふところがふくらんでいることに於て、青嵐居士は早くも、この青年が辞書をふところにして来ているなと見て取ったものですから、この提出を求めたのです。
 青嵐居士は果して外国語の素養があるかどうかは知らないが、青年の提出した冊子を受取って、一応調べてみました。辞書といったところで、当時スタンダードもコンサイスも有るべきはずはない、有るべきはずがあったにしたところが、この青年などの手に渡るべき品ではない、そこで、青嵐居士が取り上げた辞書も、筆記物の辞書でありました。誰か、しかるべき人が所持している日本に数冊という極めて貴重の外国本の、又写しの又写しの、そのまた又写しの何代かの孫に当るべき薄葉(うすよう)の肉筆写本を、この青年が持っているのであります。
 筆写本だからといって、本人が読めて、そうして筆写するならまだいいが、読めないで形によって写すのだから、難渋なことは言わん方がない。だから、蘭文学だか、英文学だか、一見しただけでは誰だって判別がつき兼ねる。まず、横文字の辞書と見て取って、蘭学をやるのかと詰問した青嵐居士に、蘭学と英学の区別がつかなかったというわけではない。蘭字といえば蘭字、英字といえば英字、ずいぶん怪しげな辞書ですが、辞書は辞書に相違ないし、それをふところにしていることによって、相当好学の新しい青年であることを認めて、青嵐居士が会話を進めました――
「君はドコで英学をやりました」
「越前の福井で……ホンのちっとばかり、いろはだけなんです」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
「エエ、福井が僕の郷里なんです」
「福井に英学の先生がいましたか」
「エエ、その、なんです……」
 青年は、少々ドモリながら質朴に受け答える。なかなかいい気の青年だと、青嵐居士が見て取って、秋の夜の当座の話し相手とすることになりました。

         二十五

「福井でも、一部の青年の中には、語学熱が相当盛んでございます」
「そうだろう、福井はあれでなかなか進取の気象に富んだところだ」
「我々の先輩に橋本景岳という人がございまして」
「なるほど――あれは天下の人材でしたね、惜しいことをしたものです」
「それから、熊本から横井小楠(よこいしょうなん)などいう先生も見えまして……」
「その事、その事、いったい春岳侯が非凡な殿様だから、人材の吸収につとめられる」
「そういうような感化で、一部の青年には、なかなか新知識の吸収慾が強いのでして、僕もそれにかぶれた末輩の一人なんですが、どうも思うようにいきません」
「まあ、よろしい、青年時代には、好奇にしろ、流行にしろ、新しい方面へ向いてみることも悪くない」
 青嵐居士が、新しい青年に理解を持っていてくれることが、この青年の意気を鼓舞するらしい。青年は知己を得たりというような勇みをなして、
「そういうわけで、僕は英学をやりたいんです、けれども、先生がありません、本がありません、人から借りて、ようやくこの字引を写して、これと朝晩、首っぴきをしているだけなんですが、こんなことではなかなか追いつかないんで困っています」
「なかなか、語学なんていうものは一通りの根気で仕あがるものじゃない、やり出した以上は、失望せず、中絶せずにおやりなさい」
「有難うございます――先生も語学の方をおやりなんですか」
 青年は、青嵐居士の理解と激励を有難いことに感謝してみると、我々に対してこれだけの理解と同情を持っている人は、勢い、語学に対して相当の理解と同情を持っている人、あるいは相当以上にその実際の知識を持っている人ではないか、それを持ち合わせているとしたら、早速受けて学びたい、という好学的便乗心が早くも青年の胸に兆(きざ)したと見え、透かさずその言葉尻をとらえてみたのですが、
「いいや、僕は無精者で、語学なんぞはようやりません、それに晩学ではね」
と突放されたが、まだ相当脈はあるように、青年には思いきれないものがあると見えて、ひとり言のように、
「ドコか、英学を教えてくれるよい先生はありますまいかね」
「英学のよい先生を求めようとすれば、都会へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない」
「大家でなくてもいいんです、ホンの手ほどきだけしてくれる人があれば助かるんです、それから後は、どんなことをしても自分で漕ぎつけてみる決心をしています、先生、あなたは、わたくしに手引をして下さらんでしょうか、お願いです」
 青年は、もはや見込んで歎願のところまで来てしまっている。青嵐居士が相当語学に素養のあるものときめてしまって――独断できめてしまって、熱心な就学志願の方へ燃え出して来たので、青嵐居士が迷惑がり、
「飛んでもないことだ、君は我輩を英学者と誤認しているのかね」
「いや、国で承りました、胆吹山へ不思議な人物が集まって、新しい思想の下(もと)に、開墾をはじめているから行ってみろ、君の学びたい外国語なんぞは、さらさら読める学者が、世を拗(す)ねて鍬(くわ)を取って働いているから、語学が学びたければあそこへ行って学ぶべしと言われたから、僕は、わざわざ福井を飛び出して来たんです、どうか僕の熱心に免じて、御教授を願います、今日から一倍の仕事をしろとおっしゃればやります、毎晩でおさしつかえがお有りでしたら、隔晩でもよろしいですから、ぜひとも御教授を願います」
 そうせがまれて青嵐居士が、ははあ、なるほどこの青年は、そういう示唆(じさ)を受けて、ここへやって来たのだなと思いました。胆吹王国の主義目的に参加するためではなく、自分の好学の一念から、狭い郷里では求められない、広い日本であっても、当時では容易に求められない語学の先生を、この胆吹王国に於て発見し得るという希望の下に、越前の福井からやって来たのだなと知ることができました。
 同時に、そういう心がけを以てここへ参加して来ることは心得違いである、胆吹王国は、そういう志願の人を収容すべきところではない、同志としては異端者である、王国の職員の一人としては叱って諭(さと)すべきではあるが、青嵐居士は、この青年の好学に大きな同情を持ち得られる人でありました。
「いや、無理もない、我輩も若い時分に、そういう語学熱が燃えたですよ、どうかして語学を究(きわ)めたいと熱中してみたが、師がない、本がない、それがために、心ならずも中絶してしまってものにならないで今日に及んでいるが、当時、もし適当の師と書物とが与えられていたならば、今ではひとかどの語学者になっていたかも知れない、その語学熱高潮の当時を顧みてみると、ちょうど今の君と同様に、あらゆるものから学びたがった、ちょっと語学のうつしがあるとか、語学の出来る人があるという噂(うわさ)を聞くと、これがみんないっぱしの大学者のように見えて、走りついて教えを受けようとあせったものだが、さて、本当に出来るというのはなかったねえ、本当に語学の出来たという人は、日本中で五本の指まで行かなかったんだ」
「先生が、そういう語学熱の時代は幾つ頃の時代でした」
「左様、やっぱり君ぐらいの年頃さ――当時、これでも江戸に遊学していたんだ」
「江戸で、その時分の英学者は、どなたでしたかね」
「左様――蘭学で箕作阮甫(みつくりげんぽ)、佐久間象山(さくまぞうざん)などというところが大家だったね、それから黒田の永井青崖(ながいせいがい)というのがなかなか出来た、大阪には緒方洪庵(おがたこうあん)という先生がいたが、それらはみんな蘭学が主で、英学などやろうという者はほとんどなかったが、ただ一人、長崎の幕府の通訳で、森山という人が英語が出来るという評判であった。そういう門戸を張った学者ではなかったけれど、偶然にも我輩は、英学の勝(すぐ)れた友人を一人持っていたね」
「あ、そうですか、その人を御紹介していただけないでしょうか」
「あせってはいけない、それはもう二十年も昔のことだよ」
「二十年ですか……でも、かまいません、御紹介を願いたいものです、今の時節では、紹介を得なければ、よき師に就けません」
「いや、拙者のいま話したのは、門戸を張った学者ではない、しかも、れっきとした幕府の直参(じきさん)なんだから、紹介があったとて、人に教授などの余裕はない人なんだが、あの男は、たしかに英語が出来た、あのくらい出来たのは、当時でも、今日でも、まずあるまい」
「大家ですね、御紹介が願えなければ、お名前だけでもお聞かせ下さい、大家のお名前を承って置くだけでも後学の力になりますよ」
「駒井能登守といってな、幕府の旗本で、なかなか大した家柄なんだが、学生となると我輩などと同格で勉強したものなんだ、その後、甲州勤番支配にまでなったという話は聞いたが、その後の消息が一向わからん」
 ここで意外の人から、意外の人の噂(うわさ)を聞いたものだが、この青年にとっては、意外にも、意外でないにも、駒井能登などいう名は全く初耳でありました。

         二十六

 胆吹王国の留守師団長青嵐居士(せいらんこじ)は、何と思ったかその翌朝、馬に乗れる三人の青年を庭先近く召集しました。
 その中の二人は甲組から、一人は昨日の福井青年であります。この三人を乗馬もろともに庭先へ呼びよせて、次のような命令を下したものです。
「君たち、ひとつこれから春照へ下って、一致するなり、分離するなり、おのおの臨機の処置を取って、山麓いったいを偵察して来てくれ給え、目的は一揆暴動連の行動の如何(いかん)を見ることにあるのだ――彼等の群衆がドノ辺から来て、ドチラの方向へなだれ込むか、だいたいその方向を視察して来てもらいたい。万一、大勢が当方面をめざして進んで来るという形勢が見えた時には、誰でもが、単独でよろしい、早刻にここまで注進をしてもらいたいのだ。もしまた、それほど差迫った形勢が見えない、他方面へ向って進行しつつあるような場合には、報告を急がずともよろしい、だいたい六ツ時頃までに、轡(くつわ)を並べてここへ帰って来るように」
 こういう命令を下しているのは、この師団長は、一揆暴動の形勢が他方面へ流出する分には敢(あ)えて意としないが、万一、こちらへ向ってなだれ込んで来る形勢には極力警戒をしなければならない。事実上また、胆吹を目ざしてなだれ込んで来るというような形勢が、最も有り得る形勢であると見られる理由もある。それが、この斥候(せっこう)を放つ所以(ゆえん)なのでありました。
 この命令を下しているところへ、急に伝令が一人、本館の方からはせつけて来まして、
「先生、不破様からのお使者が参りました」
「なに、関守氏から使者が来た、早速ここへ通すように」
 案内につれて、そこへ風を切ってやって来たのは、ほかならぬがんりきの百蔵です。
 すっかり旅の装いが出来ている。しかもその装いは、不破の関守氏がここで用意して行った装束そっくりですから、何物よりもそのいでたちが、まず門鑑として物を言いました。
「ごらん下さいまし、不破様からお手紙をお届け致すようにとの御沙汰で持って参じました」
「それはそれは、御苦労さま」
と言って青嵐居士は、がんりきの百蔵が差出す手紙をとって、封を切りながら、三騎の斥候に向って言いました、
「諸君、少し待ち給え、今、この手紙を読み了(おわ)って、それからこの使者の文言(もんごん)を聞いてからの上で」
 こう言って乗馬を控えさせて置いて、不破の関守氏からの手紙を、立ちながら読み下しているのを待ちきれず、がんりきの百蔵が口走って言いました、
「もし、あんたが青嵐(あおあらし)の親分さんでござんすか」
 変なことを口走り出したので、さすがの青嵐居士(せいらんこじ)が、がんりきの面(かお)を見直しました。そうするとがんりきが、
「不破の旦那からお頼み申されて参りました、わっしはがんりきの百蔵というしがねえ野郎でござんす、こんた青嵐の親分さんでござんすか……」
 お控(ひけ)え下さいましと、本式のやくざ挨拶に居直り兼ねまじき気勢を見て、青嵐居士も全く面くらいましたが、直ちに合点して、
「ははあ、青嵐は拙者に違いないが、親分ではないよ、君は何か間違いをして来たんだろう、親分でも蜂の頭でもない拙者に向って、改まった口上などは無用だ、それよりは早速、君に聞きたいことは、君が逢坂山からここまで突破して来たその途中の雲行きをひとつ、見たまま詳しく話してもらいたい、湖辺湖岸の物騒な大衆がドノ辺まで騒いで、どんな動き方をしていたか、君の見て来たままを、ここで話してもらいたい」
「そいつを話して上げたいんでしてねえ、先以(まずもっ)て磨針峠(すりはりとうげ)からこの山の下三里がところまで押しかけて、そこでかたまっている一まきが、こいつが剣呑(けんのん)だということを御承知願えてえんでございます、そいつがみんな胆吹へ、胆吹へと言っていましたぜ、あの勢いじゃ、明日が日にもこちらへ押しかけて来ると見なくちゃなりませんぜ――そうですなあ、人数はざっと三千人、胆吹へ籠(こも)って旗揚げでもする意気組みで、なんでも胆吹山へ籠れ籠れと、口々に言っているのを聞いて参りましたよ、なるほど、不破の旦那がおっしゃったのはここだなと思いましたよ、あの同勢に、ここへまともに押しかけられた日にゃ、王国も御殿もあったもんじゃあござんせんぜ、それが心配になるから、不破の旦那が、青嵐の親分へ注進をするように、こちとらを見立てた眼は高いと、がんりきがはじめて感心を致しましたが、青嵐の親分と言ったのは悪うござんしたかね」
 がんりきの注進を聞きながら、眼は三人の青年の方を見て青嵐居士は、
「それを聞いて安心した、では、事情がわかったから、諸君は出馬を見合わせてよろしい、持場へ戻ってくれ給え、別にまた仕様があるから、それまで平常通りに仕事をして、待機していてくれ給え。がん君とやら、お使ご苦労――まあ、こっちへ来て足を洗って、飯でも食い給え」
 がんりきは勝手が少し違うように思われてならない。青嵐の親分と言われたから、でっぷり肥った、長半纏(ながばんてん)を引っかけて、胴金入(どうがねい)りの凄いやつでも引提げながら悠々(ゆうゆう)と立ち出でるかと思うと、これは寺子屋の師匠そっくりの長身温和な浪人風――気分から、応対まで、すっかり当てが違って、がんりきは、またしてもテレ加減を隠すことができない。案内されるままに足を洗って、客座敷へ通されて、本膳で飯を食わされた時に、存外贅沢(ぜいたく)だなあと思いました。
 一方、本館(ほんやかた)へ現われた青嵐居士は、自分も羽織袴で両刀を帯している上に、直ちに王国中に向って触れを下して、総動員を命じました。

         二十七

 総動員をしたからといって、自分が留守師団を指揮して、これだけの手勢を以て、一揆(いっき)の大軍に当ろうとするものでないことはよくわかっています。
 いかに胆吹王国といえども、これだけの実力を以て大軍に向うなどは、暴虎馮河(ぼうこひょうが)の至りです。よし、それに相当る大軍を保持していたからにしても、この人は戦をしかける人ではない、むしろ緩和に当ることを得意とする人であることは、姉川の時の水合戦の裁きぶりでもよくわかっている。
 五十名の胆吹王国の総動員をしたのは、戦わんがためでなくして、和せんがためであるに相違ない。和するというのは、つまり、こちらへ向って無遠慮に侵入の気配にある一揆暴動の逆流を、緩和転向せしめるためでなければならぬ。あの勢いを真正面からこの山へ引受けてしまった日には、独逸軍(ドイツぐん)の白耳義(ベルギー)に於けるように、損害と犠牲のほどは目も当てられないことはよくわかっている。群集共の間には、まだ、胆吹山あるを知って、この王国あるを知らないものが大部分に相違ないが、来てそうしてこれを知った日にはたまらない。せっかくここまでの経営が、瞬く間に掠奪と、犠牲の壇上に捧げられてしまい、そうしてこの本館も、御殿も、彼等暴民共の一炬(いっきょ)に附されるか、或いは山寨(さんさい)の用に住み荒されることは火を見るように明らかである。
 留守師団長としての自分の重責はそこにある。この際、いかにしてこの王国を守るかということは、いかにして一揆の大勢(たいせい)をそらすかということでなければならぬ。
 そうでなくても、胆吹は古来、山賊の類(たぐい)に目ざされる山なのである。ややもすれば、胆吹へ籠(こも)るぞと言いたがられる山なのである。こう大勢が傾いて来て、まず先陣がこの山の一角を占拠したということになると、風を聞いて、あとからもあとからも、近江一円の一揆共には限らない、遠近の国々から不逞(ふてい)の徒がみんなこの山に集まって来て根城に仕兼ねない。事は重大で、そうして、焦眉の急に迫っている。留守師団長として、ここで策をめぐらさなければ、めぐらす時がない――青嵐居士が正装をして両刀を提げて立ったのも故なしとはしないのであります。
「君たち、一手は手を揃(そろ)えてできるだけのたきだしをしてくれ給え、それから、有らん限りの米を積下ろしてくれ給え、庫(くら)には三日分ほどの量を残して置けばよろしい、それから最近、長浜で両替をしてきた銭の全部を出して庭へ積んでくれ給え、その数量は拙者が行って読むから、それが済んだら、直ちにそれを馬と車とに積めるだけ積んで、麓へ下って、春照の火の見の下に待機しているんだ。一手は留守を守ってくれ給え、留守といっても僅かの間だ。そのほかは、馬と車を以てできるだけの米と銭とを麓へ運ぶことに全力を尽すのだ、無論、拙者も同行する」
 青嵐居士は、五十人の手勢を日頃の訓練通りに部隊分けをして、一手は第一線に、一手は留守、しかして出動軍の第一線に自分が立つというのです。しかし、戦争をするつもりの出動でないことは、一同の胸によく納得されている。うちの大将は智将であるから、徒(いたず)らに戦争をしない。人数の総動員も、物資の総動員も、みな緩和の目的のために費されるのだということを、王国の民が皆、納得しながら勇み立つ。その勇み立ち方が、平和に向っての希望ある勇み方で、戦争に対する捨身的な勇気でないことは、臨時留守総理の器量に向っての無言の信任でもありました。青嵐居士は留守師団長、留守師団長と言い慣らされてはいるが、事実、この王国に於ける現在の地位は、師団長たるにとどまらない、むしろ臨時総理であり、女王代理であり、胆吹一国の興廃はその肩にかかっていると見るべきであります。
 かくて、この一行が繰出されました。青嵐居士は正装はしているが、決して武装しないことを以て見ても、この出動の目的が平和にあって、戦争にあらざることがよくわかる。それがまた味方の民心を、安静鎮定せしむること偉大なる効果もよくわかる。
 だが、しかし、この通り物資の総動員をして山を繰出す以上には、この物資をどう扱うのだか、それは味方の誰にもわからない。この人員と物資とを以て、一揆に参加するのだとは誰も考えない。また、一揆の不安から、人間と物資の避難のために繰出したのだとも考える余地がない。逃げるために、隠すための出動ならば、後へ留守を残して置くはずもなし、また、こんなに派手に正面を切って逃げ出すという手はない。
 策戦の方針は、臨時総理の胸一つにあって、王国民は測ることができない。測ることはできないけれども、全幅の信任はある。青嵐居士は徒歩(かち)で、一行について、かなり寛(くつろ)いだ気分で、山を下りつつあります。その途中も、国民を相手に平気で談笑をしているし、車の動きが悪い時は、後へ廻って後押しの腕貸しをするかとみれば、少し疲れた、馬へ乗らせてくれと、引かせた副馬(そえうま)に跨(また)がって少し歩ませてみては、いいかげんで馬上から飛び下りて、一行と共に談笑しながら徒歩立(かちだ)ちになるという行進ぶりです。
 やがて、相当の時を費しての後に、春照村の火の見のところまで一行が到着すると、その程よきところへ、約二百俵ばかりの米を積み上げさせ、別に盤台にのせて夥(おびただ)しい緡銭(さしぜに)を積み上げさせました。金額としてはそう驚くほどではないにしても、銭に換えてこうして積み上げると、田舎(いなか)の者の眼を驚かすに足るほどの夥しさでした。
「さあ、これでよろしい、あとに残るものは五人だけでよろしい、他の一同はこのまま山へ引上げたり。そうして、平常通りに持場持場で仕事をしていること」
 青嵐居士はこう言って、一行の大部分を館(やかた)へ帰らせてしまい、右の銭と米とは、五人の若い者を選抜して張番をさせ、自分はそのまま馬に乗って、いずれの方向へか打たせて行きました。

         二十八

 ゆくりなくも、青嵐居士から駒井甚三郎のことが口に出たのを機会として、あの人及びその周囲の一行の消息に向って筆を転ずることに致します。
 読者の便宜のためというよりは、書く人の記憶の集中のために、まず地点を陸中の国、釜石の港に置きましょう。人間のことを語るには、まず地理を調べてかかるのが本格です。陸中の釜石の港に、今、駒井甚三郎の無名丸が碇泊している。この船が陸前の松島湾の月ノ浦を出てから四日目、とにかく、船は安全に北上して、釜石の港まで到着することができました。
 駒井甚三郎の無名丸は八十噸(トン)、六十馬力の、駒井独創の和洋折衷形なのであります。人間で言えば五十人の人を乗せるに適している。無論、機関の設備はあるが、それは港を出る時と、港に入る時の少し以前だけに石炭を使用することにして、大海に出てからは、帆前の風力を利用することになっている。大砲も一門あって、その他の武器も護船用だけのものは備えている。農具工具も着陸早々の実用だけのものは備えている。
 さてその次には、この船の中に現在乗込の船員と船客の全部についてなのですが、無論この船に於ては、船員すなわち船客なのでありますから、人と名のつくものの全体を言えば、すなわちこの全船の人別がわかるのです。これは、いつぞや清澄の茂太郎が、出鱈目(でたらめ)の歌にうたわれ出たことがある。よって便宜のために、あのでたらめをここに転載して、反芻(はんすう)を試みてみると――
さて皆さん
これを現在
わたしたちが
一王国となして
乗込んでいる
この無名丸の社会と
引きくらべてみたら
どうでしょう
実際問題ですよ
御承知の通り
この船には
男が多くて女が少ないです
男は美男子の駒井船長をはじめ
豪傑の田山白雲先生
豪傑の卵の柳田平治君
だらしのないマドロス君
房州から来た船頭の松吉さん
同じく清八さん
同じく九一さん
月ノ浦から乗込んだ平太郎大工さん
同じく松兵衛さん
漁師の徳蔵さん
それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの
何の商売だかわからない七兵衛おやじ
それに、若君の登さん
つんぼの金椎君(キンツイくん)
さて、しんがりに
かく申す清澄の茂太郎も
これで男の端くれなんです
かく数えてみますると
この無名丸の中には
男と名のつく者が
都合十三人
それなのに女というものは
登さんのばあやさん
お松さん
それからもゆるさん
その三人きりなんです
十三人の男に
三人の女――
もし駒井船長が
理想の、人のいない島を求めて
そこに一王国を作るとしたら
いま申す
世界のドコかの国と同じような
女が不足の国になります
…………
…………
 右の茂太郎の即興歌は、船が回航の途上、まだ釜石の港に入らない以前の出鱈目なのですから、船が安着してみると、ここに多少の人員の増減が考えられなければならない。増減と言い条、これ以上の減は、船の操縦の必要上、許されないと言うべきだから、増が有り得れば有るのです。果して、この釜石の港で、この船に更に二人の人を加えることになりました。
 二人の人といっても、その一人は、すでに茂太郎の口頭に上っている人で、すなわち右の出鱈目の第二十三句から第二十四句までに表現されている――それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの、何の商売だかわからない七兵衛おやじ――その人であります。七兵衛が無事に、この港でこの船へ戻って来ました。清澄の茂公をはじめ、この老練家の怪おやじを船に迎え得たことの喜びは申すまでもありません。おそらく無事では帰れまいかとの予想で心配しきっていたその人が、無事で帰って来たのだから、家出をした親爺が無事で帰って来てくれたように、船中一同が喜ぶのは無理はありません。
 しかし、無事で帰って来たとは言い条、無事なのはその身体(からだ)の健康だけで、外面は絶大なる異変を以て、見る人の目を驚かさずには置きませんでした。船へついて、はじめて笠を取った七兵衛の頭を見ると丸坊主でした。それに、袈裟(けさ)こそかけていないが、首に大きな一連の数珠(じゅず)をかけておりましたことが、誰をしも、七兵衛らしくない七兵衛だと驚異がらせずには置きません。
 それと、もう一つは、この不可解な新しい老発意(ろうぼち)が、張りきった若盛りの田舎娘(いなかむすめ)を一人携帯して来ていることです。七兵衛おやじだってまだ五十にはならないのだから、男やもめに花が咲いて、長い道中の間、艶種の一つも作るということは、或いはお愛嬌みたようなものかも知れないが、いい年をして人前へ若いのを引っぱり込んで来たと言えば、七兵衛らしくもないだらしなさを感ずるけれども、とにかく、頭を丸めてしまって、そうして数珠をかけながら、そうして、若いのを引っぱって来たものですから、まるで判じ物のようでありました。
 そこで、清澄の茂の野郎の遠慮のないすっぱ抜きが、誰でもの人の驚異と疑惑とを代表して発表されました――
帰った
帰った
七兵衛おやじが帰った
嬉しい
嬉しい
七兵衛おやじが
やっとこさと戻った
戻ったと思ったら
やっとこさと丸坊主
丸坊主
丸坊主
七兵衛おやじが丸坊主
やっとこさと丸坊主
 七兵衛が、船へ上って、乗組の者に挨拶(あいさつ)をするために笠を取った、その途端にこの歌が飛び出たものですから、一同がドッと笑い、七兵衛が思わず苦笑しましたが、その苦笑のうちには、言い知れぬ苦闘の含蓄があって、笑いかけた一同のものを笑えないものにしました。だが、茂公の即興はひるまない。
皆さん
七兵衛おやじが
坊主になって
若い女の
手を引いて戻って来ましたよ
これには
仔細のあることでしょう
 なんてませた言い方だろう、もう慣(なれ)っ子(こ)になっているから、船中同士はさのみ驚かないけれど、七兵衛につれられて来た若い女その人は、真赤になりました。ただでさえ、もう上気しきって、わくわくしているところへ、無遠慮にこんな歌を浴びせられたものだから、真赤になるのも無理はありません。
その仔細というのは
追って
七兵衛おやじの口から
皆さんのお聞きに入れるでしょう
五十路(いそじ)に近いおやじが
まだはたちに足らぬ女の
手を引いて
戻って来たのは
皆さんの前に申しわけがないことがあるから
それで頭を丸めて
お詫(わ)びをする
といったような浮気の沙汰(さた)ではありません
同じ女を連れて来るにしても
マドロス君と
七兵衛おやじとは
性質が違いますよ――
ウスノロのマドロス君と
老練家の七兵衛おやじと
同じに見ちゃあいけません
すなわち
マドロス君が
女をつれて逃げてまた戻ったのは
つまり、だらしのない駈落(かけおち)なのさ
七兵衛おやじのは
まさか
掠奪でも
誘惑でも
駈落でも
ありますまい
くわしくは本人に聞いていただきたい
 ここまでは、内容に於てほぼ無事でしたが、ここで完全にバレてしまって、
坊主
間男(まおとこ)して
縛られた
頭がまるくて許された
 この時、船中の警視総監たる田山白雲のために、
「コレ……」
と一喝(いっかつ)を食いました。白雲の一喝に怖れをなした茂公は、調子をかえてテレ隠し、
土佐の高知の
播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
坊さんかんざし何するの
頭が丸くてさせないよ
頭が丸くてさせないよ
 しかし、聞きようによっては、この歌が七兵衛の帰着を歓迎する音楽隊の吹奏のようにも聞えて、船中の人気をなんとなくなごやかなものにした効果はたしかにありました。

         二十九

 七兵衛のつれて来た若い娘は、お喜代さんという村の娘でありました。
 この娘と、七兵衛との間には、言うに言われぬ複雑微妙なものがある。ただ単に、長の旅の途中で娘を一人拾って来たというだけの、単純な受渡しにはなっていないことは、前の巻にくわしく物語られているはずです。
 いずれにしても、女の少ないこの海上王国に、ただ一人の、しかも、張りきった健康と年齢とを持った、生気満々の若い娘を一人拾って来たということは、特に一つの大きな収穫と見るべき理由もあるのです。それはそれとして、これで船の全員が揃(そろ)いました。当然来(きた)るべき人と、充たさるべき人が全部集まりました。人が集まってみると、その次は物です。ここで、今後の長期航海に堪えるあらゆる物資を集めて、或いは新たに積入れ、或いは極度の補充をして行かなければならない。その物の補充に於ては、あらかじめ駒井船長が多大の心配を持っておりました。
 何となれば、船籍の不明瞭なこの船へ、人が恐れて物資を供給しないことになるかも知れない。よし供給してくれたにしても、その限度というものがある。釜石は悪い港ではないけれども、何を言うにも中央から遠い、ここで補給すべくして、出来ない品がありはしないか。
 そういうものは、今後どこで補充するか、というような先から先までを、駒井が頭に置いて、補給の準備を命ずると、案外にも非常に迅速に且つ多量に、ほとんど立ちどころに補給の道がつきました。代金も相当、或いは相当以上にしはらったには相違ないが、さりとて、この迅速豊富なる供給ぶりは、ただ金銭だけには換算し難い好意というものが含まれていることを、駒井船長が認識せざるを得なかったけれども、しかし、自分の船が、知らぬ他国の人から疑惑を蒙(こうむ)ろうとも、好意を寄せらるべき因縁(いんねん)は持たない。それを、こんなに土地の人が好意を以てしてくれることは、おそらくこの土地柄なんだろう。この土地の気風が、おのずから他国の客を愛するように出来ている、その人気の致すところかも知れない。駒井はその辺に疑惑を持ったけれども、これは悪い方の疑惑ではない、極めて素質のよい疑惑でありました。
 こうなった以上は、この港に久しく留るべき理由はない。万端がととのうて、即時出帆ということになりました。
 船が動き出した時に、陸上に、意外にも多数の見送りの人が現われました。ズラリと海岸に並んで、こっちへ向って笠を振り振り、さらば、さらばをしている。そこで、駒井をはじめ、船の者がまた不審がりました。あの人たちは、たしかに人を送るの情を現わしているようだが、さて送られる人は誰だ。我々は、ここに仮りの碇泊こそしたけれども、送らるべき知己を持たない。他に船出する人があってそれを送るべく、あそこに立っている。この船が大きく、あの人たちの送る舟が小さいがために、こちらが好意を独占するような形式におちているのではないかと、港の周囲を見渡したが、自分たちの船のほかに、それと覚しい舟の出帆は一ツも見えない。そこで、こちらは戸惑いをしました。我々を送ってくれるならばその好意を受けて、これに答えなければならぬ。こちらもハンケチを振るとか、テープを投げるとかしなければならない。ところが我々において送らるべき好意の所在を知ることができないから、
「あの人たちは、あれは何です、誰を送るためにああして集まって、笠を振り、さらばさらばをしているんですかな」
 田山白雲が、駒井船長に向って問いかけたのは、船長も最初から同じ思いで迷っているところの理由でした。
「分らないです、あの連中は果して誰を送っているのですか、我々を送っているとすれば、我々の中の誰がその人に当るのか」
 その上に、改めてまた甲板の上を見渡すと、こちらでたった一人、七兵衛が笠を振っている。
「やあ、七兵衛親爺(おやじ)だ」
と船長も、白雲も、こちらで笠を振る七兵衛の方へ振向くと、船上の一同もそのようにして、それからあらためて陸上の送り手と、送らるる七兵衛とを見比べていると、彼方(あちら)の人数の真中に囲まれたデップリした頭領らしい男が、最後に笠を取って打振りました。事の光景が、船中一同に呑込めない、追って後刻、七兵衛から説明されたらわかることに相違ないが、それだけでは、いかにも合点がなり難いことに思っていると、早くもマストの頂上に登りつめていた清澄の茂太郎が、高らかに歌い出しました。
坊主
坊主
向うにも坊主がいる
七兵衛おやじも坊主になったが
あちらにも一人、坊主首がいる
七兵衛おやじが
数珠をかけているように
あちらのおやじも
坊主首に数珠をかけている
坊主と
坊主が
笠を振り振り
チイチイ
パアパア
 その歌におしえられて、岸に見送りの人数の真中の頭領株を見ると、なるほど、同じような新発意(しんぼち)の坊主頭で、衣装足ごしらえ、長脇差、すべて俗体であるのに、頭だけを丸めて、これは茂太郎の眼で見なければわからないが、そう言われて見ると、首になにやら数珠(じゅず)のようなものを掛けている。
 そこで、送られる人は七兵衛入道であり、見送る人の何だかは分らないにしても、同じく俗体入道を主とする一行であることだけは分りましたけれども、さて、それがいかなる人で、何故に七兵衛が見送られ、七兵衛を見送らなければならないか、そのことはまだ船中の誰にも分っていません。
 しかし、その見送りの中央の頭領株の入道が、仏兵助親分であり、それを取巻くのが、その界隈の顔役であることは、底を割っておいてもいいでしょう。従って、これから推察してみると、船の物資の補給が、駒井船長を驚惑せしむるほどに迅速且つ豊かであったという理由もほぼ読めるのです。
 すなわち、仏兵助親分の顔を以てして、附近の顔役の総動員によっての、隠れたる任侠であったということが、その時は分らなくても、後刻に至って分らないはずはありますまい。

         三十

 怱忙(そうぼう)のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。
 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。辛(かろ)うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。
 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。
 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。
 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに耽(ふけ)っているのであります。
 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。
 これを前にしては、お銀様が山に拠(よ)って己(おの)れの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸(じそんごうがん)に孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。
 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷(えぞ)の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の鍬(くわ)を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧(もうまい)さがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。
 なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢(ぜいたく)のようなものだが、さりとて同じ拓(ひら)くならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。
 それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘(せいちゅう)せられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。
 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加(アメリカ)方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。
 ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至(ないし)は西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。
 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做(みな)さるべきであります。
 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸(かんりんまる)が、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎(かつりんたろう)を指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては寧(むし)ろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。
 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来和蘭(オランダ)から買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴(ヨーロッパ)までも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。
 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄(ほうき)せしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、未(いま)だ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に耽(ふけ)っているのであります。船は、もう疾(と)うに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。
 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。
 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄(やゆ)の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目(でたらめ)の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。
「祈っているな」
 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。

         三十一

 祈りつつある金椎の姿に、一時(いっとき)驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。
 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。
 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占(ぼくせん)ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。
 易(えき)だの卜(うらない)などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易(ばいかしんえき)というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占(つじうら)はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。
 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万乃至(ないし)二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。
 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先(へさき)へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。唖(おし)の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。
「まだ、祈っている」
 駒井は、今更のように呆(あき)れました。
「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」
と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。
 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を濺(そそ)ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。
 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定(ぜんじょう)に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。
 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の相(すがた)を後ろから注視しているうちに……
「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万(やおよろず)の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴(ヨーロッパ)からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」
 そこで、駒井の頭の中に甦(よみがえ)って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加(アメリカ)植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。
 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。
 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸(さみだれまる)」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。
 そこまで思い来(きた)ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――
 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然(まっしぐら)に船の図書室へ向って参入してしまいました。
 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ舳(みよし)によって祈っている。

         三十二

 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。
 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, after voyage of 63 days.
 そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加(アメリカ)訪問の五月丸が、僅か百八十噸(トン)の小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して繙(ひもと)いて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。
「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒(ピユーリタン)』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』若(もし)クハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼如何(いかん)ニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭(オランダ)ノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。
彼等ノ和蘭ニ在(あ)ルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ之(これ)ヲ能(よ)クスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎(ここにおいてか)千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督(キリスト)教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ洵(まこと)ニ能ク此等ノ目的ニ副(そ)フモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦(ロンドン)商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。
已(すで)ニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ来(きた)レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候悪(あ)シクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ遮(さへぎ)リテ船危ク、乃(すなは)チかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた茲(ここ)ニ始ル」
 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め来(きた)った駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫(かんかん)で紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。
 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜(あいじゃく)でした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。
 かくて、この多くの書物を、それからそれと漁(あさ)り読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然(さんぜん)たる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。
 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方(かなた)に一艘(いっそう)の船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外の帆船に過ぎないが、それが、彼方の沖合に碇泊している。その親船に向って、雑多な人が、小舟に乗込んで岸を離れようとする光景が、一種の写真画となって、その書物のうちにはさまれている。船が手頃の船だし、岸を離れ、国を離れて海洋へ乗り出さんとする刹那が、じっくりと駒井の心をとらえたために、その前後の記事物語を熱心に読み出すことになりました。駒井が多くの蔵書家であり、同時にそれが単なる死蔵書ではなく、充分に読みこなす人であり、読みこなすのみではない、これを実地に活用する稀人(まれびと)であることは、ここに申すまでもないが、駒井その人が、読書というものには裏も表もある、裏と思ったのが、表であって、読みつくし、味わいつくしたと信じて投げ出して置いた書物から、新たに多大なる半面の内容を贏(か)ち得たということは、このたびの著しい経験でありました。
 さて、この船出の写真絵を見ると、諸人(もろびと)が皆、祈っている。日頃、金椎(キンツイ)がするように、小舟の中に行く人も、岸に立って送る人も、みな祈っている。
 彼処(かしこ)にかかっている親船こそ、例の五月号に相違ないのであります。そうしてこれらの諸人は、五月号に乗込んで、まさに海洋に乗り出さんとする人と、これを送るの人であることも争われません。
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