大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 ある日の夕方、あれかこれかと考えながら立戻って格子戸をあけると、そこに不意に眼を眩惑(げんわく)されるものを見せられました。
 座敷では今、清澄の茂太郎が踊っているところであります。元禄模様の派手な裲襠(うちかけ)を長く畳に引いて、右の手には鈴を持ち、左の手では御幣(ごへい)を高く掲げながら、例の般若(はんにゃ)の面(めん)を冠(かぶ)って座敷の中をしきりに踊っているところでありました。
 それが白雲の帰ったのに気がつくと、大慌(おおあわ)てに慌てて、鈴を火鉢の隅に置くやら、御幣を神棚へ載せようとするやら、ようやく般若の面を取って、
「お帰りなさい」
 長い裲襠の裾(すそ)を引いたままで挨拶しました。
「茂坊」
「はい」
「もう一度、今の姿で踊ってごらん」
「御免なさい、おじさん、一人であんまり詰らなかったもんだから……」
「いいから、お前、もう一遍、今の姿で……その面を冠(かぶ)って、鈴と、御幣を持って、いま踊った通りに、踊ってわしに見せておくれ」
「御免なさい、もうしませんから」
「そうじゃない、お前のいま踊った姿を、ぜひもう一度見たいんだ、それを絵に取って置きたいと思うんだよ、叱るんじゃない、頼むんだよ」
「じゃ、やってみましょうか」
「やってごらん」
 そこで茂太郎は、再び面を冠って、両手に鈴と御幣とを持ち、裲襠(うちかけ)を長く引いて、座敷いっぱいに踊りはじめました。これを座敷へ上った白雲は、立ちながら目もはなさずに眺め入りました。
 この踊りは、一種不思議な踊りであります。仕舞のようなところもあり、かんなぎのような所作(しょさ)もあり、そうかと思えば神楽拍子(かぐらびょうし)のように崩れてしまうところもあって、なんとも名状のできない踊りだが、それでも、その変化の間に一つのリズムというものがあって、陶然として酔わしむるものがある。
 無論、この不思議な児童の、即興の、出鱈目(でたらめ)の踊り方には違いないが、その出鱈目のうちにリズムがあるから、白雲はかえってそれを、本格の踊りよりも面白いと思いました。
 そうしているうちに、白雲が膝を打って、
「これだ」
と言いました――白雲もまた、最初からこの般若(はんにゃ)の面が凡作ではないと見ていたのですが、この時になってはたと思い当りました。
 これこそ与えられた絶好な画題だ。その不思議な踊り全体のリズムが、人を妙に陶酔の境へ持って行くのみならず、仔細に見ると無心な子供が、大人の長い着物を引きずっているところにまた無限の趣味がある。そうして、鈴と、御幣(ごへい)とを、無雑作(むぞうさ)に小さな両の手で振り翳(かざ)したところに、なんともいえないたくまざるの妙味がある。
 もしそれ、その冠(かぶ)った般若の面に至っては、白雲が日頃から問題にしていた名作で、銘こそないがその作物の非凡なる、どこからどうしてこの少年が手に入れたのか。そうして朝から晩まで、食事の時でも膝をはなさないで大切(だいじ)がっているのが訝(おか)しいほどである。白雲は、いつか、その面を取ってつくづくと、作と年代等を研究してみようと思っていたそれでありました。いま見ると、その名作の面影(おもかげ)がつくづくと人に迫るものがある。
 体のすべてが無我無心に出来ているのに、面そのものだけが、呪(のろ)いと、憎悪(ぞうお)とを集めた、稀代の名作になっている。
 これこそ求めても得られない絶好な画題だ、と白雲が意気込みました。
 この白熱の興味が、ついに白雲をして五日の間に「妖童般若(ようどうはんにゃ)」の大額を完成させてしまいました。その作たる、われながら見とれるほどの出来と見ましたけれど、白雲はそれに愛惜(あいじゃく)するの暇(いとま)を与えずに、早くもここを出立するの用意を整えてしまい、
「茂坊、さあ、今日は房州へ立つんだぞ」
「え、房州へですか、おじさん、今日?」
「そうだよ」
「房州というのは、あのおじさん、鋸山(のこぎりやま)のある日本寺の、お嬢さんのいる房州なの?」
「そうだとも」
「あたいを、その房州へ連れて行ってくれるの、今日!」
「うむ」
「じゃ、あたい、久しぶりで、あのお嬢さんに会えるんだ」
「会わしてやるとも」
「ほんとに夢のようね、おじさん、もしかして清澄のお寺へ入れちまうんじゃない?」
「そんなことがあるものか、さあ行こう」
「ああ、うれしい」
 少年は欣然(きんぜん)として勇み立ちました。
 この出立はむしろ出奔(しゅっぽん)に近い。白雲ほどのものがどうしてこうも慌(あわただ)しいのか、と怪しまれるほどに大急ぎで、絵が成ると共に装いを整え、その場で置手紙を一本書き――その手紙には、二枚の西洋画を特別に大切に保存しておくように書き残しただけで、自分の作のことは書かず。
 最初は茂太郎の手を引いて外へ出たが、少し歩くともどかしそうに茂太郎を取って、自分の背中に背負(しょ)い込んでさっさと歩み去りました。
 江戸橋の岸、木更津船(きさらづぶね)の船つきの場所に茂太郎を十文字に背負って、空を眺めて立つ白雲。
 澄み渡った秋の空に、白い雲が悠々(ゆうゆう)と遊んでいるのを眺めた時は、一味の旅愁というようなものが骨にまでしみいるのを感じました。
 ほんとうに自分こそ白雲そのもののような生涯。
 それでも旅から旅へうつる瞬間には、どうしてもこの哀愁を逃(のが)れることができない。哀愁に伴うて起る愛惜(あいじゃく)の念が、流転(るてん)きわまりなき人生に糸目をつける。
 妻子を顧みないのは、妻子に対して自分の愛惜があり過ぎるからだと白雲は、その時にいつもそう思います。
 愛惜があってはいけない。妻子眷族(さいしけんぞく)にも愛惜があってはいけない。自己の作物にも愛惜があってはいけない。愛惜の一念ほど自由放浪の精神を妨げるものはないと、いつもそれを感じながら、旅から旅を歩いているのであります。
「妖童般若」の図を描き上げて、こうして追い立てられるように出立したのは、自個(じこ)の作物そのものに、また愛惜を感じてはならないと思ったからでしょう。
 白雲は愛惜が自由放浪を妨げるということをよく知っている。それは自分たちの生涯は自由放浪のほかには立場がないと信じているためらしい。
 昔の出家は一所不住といって、同じところへは二度と休むことさえもしなかったそうだが、自分のはそれとは違いこそすれ、愛惜があっては心を自由の境に遊ばせることができない。だから、つとめて愛惜から逃れんがために旅から旅を歩いているところは、一所不住の姿に似ている。
 それほどならば、最初から妻子を持たなければいいではないか。扶養の義務がある妻子を持った以上は、浮世の義理に繋がれて行くの義務があるべきはず。妻子を持って同時に自由放浪に憧(あこが)れるのは、自分はそれでもよかろうが、妻子そのものが堪るまい。白雲は、そればかりは何とも申しわけをすることができない。申しわけが立たずに両頭を御(ぎょ)して行くことは、白雲としてはかなり苦しいことでしょう。白雲もやっぱり天上の雲ではない、地上の人間だ。

 幸いにして、このたびの船路には、お角の時のような災難もなく、駒井と乗合わせた時のような無頼漢もなく、海も空の如く澄み、且つ穏かな船路でありました。
 久しぶりで海に出た清澄の茂太郎、行住座臥(ぎょうじゅうざが)はなさぬ所の般若の面を脇にかかえて、甲板の上を初めはダクを打って歩いていたが、その足がようやく興に乗じて急になる時分に、帆柱の下で馬鹿囃子(ばかばやし)が湧き上りました。
 これは多分、木更津方面の若い衆が、江戸近在へ囃子を習いに来ての帰りか、そうでなければ江戸近在の囃子連が房総方面へ頼まれて行く途中でしょう。
 太鼓は抜きですが、笛とすりがねの音は海風に響いて、いとど陽気な気分を浮き立たせ、船に乗る者、さながら花車屋台(だしやたい)の上にあるような心持になりました。
「おや、ごらんなさい、あの子は踊っているよ」
 見れば艫(とも)の方から、左腕には般若(はんにゃ)の面を抱え、右の手を翳(かざ)して足拍子おもしろく踊りながらこちらへ来るのは、清澄の茂太郎であります。
 吾等笛吹けども踊らず……と誰がいう。
 船の人は総出で、茂太郎の踊りを見に集まりました。
 踊る人が出て来たので、囃し手の弾(はず)むのは自然の道理であります。
 今や、艫の方から踊りながら歩いて来た茂太郎は、甲板の真中まで踊り進んで来ました。船の中の人という人は、みんな集まってこの踊りを見ていますが、茂太郎は恥かしいという色も見せず、さりとて手柄顔もしないで、しきりに踊っています。
 囃子連の喜びは、喩(たと)うるに物なく、囃子にいよいよ油が乗ってくると、踊りもいよいよ妙に入るかと思われる。最初は囃子が人を踊らせたのに、今は踊りが囃子を引立てるらしい。
 興に乗じた船の人は、知るも知らざるも興を催して、手拍子を打ち、あわや自分たちも一緒になって踊り出しそうな陽気になる。
 初めは人が興味を求め、後には興味が人を左右する。
 清澄の茂太郎こそは小金ヶ原での群衆心理を忘れはしまい。
 興味が人を左右して、自分たちはそれを逃るるに、命がけを以てしなければならなかった苦(にが)い経験を忘れはしまい。
 それを忘れない限り、この踊りもいいかげんで切上げることを忘れはしまい。
 古人は、明哲(めいてつ)身を保つということを教える。
 果然! がらりと拍子をかえた茂太郎は、身を翻すと脱兎の如く船底をめがけて駆け込んでしまいました。
 興酣(たけな)わにして踊り手に逃げられた船の客は呆気(あっけ)に取られ、囃子連も張合いが抜けたが、しかし船中の陽気は衰えたというではなく、人々はみんないい心持で酔わされたような気分です。

         二十二

 仏頂寺弥助と、丸山勇仙と、宇津木兵馬とが、相携えて松本の城下へ乗込んだ時、松本の城下は素敵な景気でありました。
 尋ねてみると今日から三日間の「塩市(しおいち)」だということ。なお「塩市」とは何だと尋ねてみると、これにはまた一つの歴史的の由緒(ゆいしょ)がある。
 甲斐(かい)の武田信玄と、越後の上杉謙信とが、この信濃の国で争っていた時分、信玄の背後をうかがう東海道筋から塩を送らない。甲斐も、信濃も、海の無い国。人民これがために苦しむの時、前面の敵、上杉謙信がこれを聞いて、武田に使を送って曰(いわ)く、吾と君と争うところのものは武勇にあって、米塩にあらず、南人もし塩を送らざれば北塩を以て君に供せん――といって価(あたい)を平らかにして信玄の国へ塩を売らしめたというのは、史上有名なる逸話であります。
 信濃の人、その時の謙信の徳を記念せんがために、この「塩市」があるのだという。
 事実は果してどうか知らん。例年は正月の十一日は大法会(だいほうえ)があるはずなのが、去年は諒闇(りょうあん)のことがあったり、天下多事の際、遠慮してこの秋まで延ばされたものらしい。
 そこで、いつものように花やかには執り行われないが、人気というものはかえって、こんな際に鬱屈(うっくつ)するものだから、底景気はなかなか盛んであるらしい。
 その盛んな市中を通り抜けて、浅間の温泉へ行き、兵馬を鷹の湯へ預けておいて、仏頂寺と丸山は城下へ引返し、二人は市中の景気を見ながら、各道場へ当りをつけ、兵馬は温泉場に止まって、その内部を探ろうという手筈(てはず)。
 宿に残された兵馬は、その晩、按摩を呼ぶことを頼みました。
 按摩を取るほどに疲れてもいないけれど、土地の内状を知るには、按摩を呼ぶが近道と思ったのでしょう。
 ほどなく、按摩が来るには来たが、それは眼の見えない男按摩ではなく、目の見える、しかも十四五になる少女でしたから、兵馬も意外の思いをしたが、それに肩を打たせて、さて徐(おもむ)ろにこの温泉場の内状、城下の景気、近頃の泊り客は如何(いかん)というようなことから持ちかけてみると、小娘の按摩は存外ハキハキした返答ぶり。
 特に「塩市」の賑(にぎ)わい隣国に並びなきことと、町の催し、諸国から集まる見世物、放下師(ほうかし)の類(たぐい)、その辺についての説明は委(くわ)しいもの。
 一段と念を入れていうことには、
「今年はちょうど、お江戸で名高い市川海老蔵さんという千両役者が参りました。昨日から宮村座で蓋(ふた)をあけましたから、ぜひ一度ごらんになっておいでなさいまし」
と勧める。そのことならば、仏頂寺、丸山の輩(やから)でさえも噂をしていた。だが、兵馬にとっては芝居どころではない。聞き流しているのを、小娘はいい気になって、海老蔵の偉いこと、千両役者の貫禄の大したものであること、この土地へも千両役者は滅多に来ないということ、果ては、わたしはまだ千両役者というのを一度も見たことがないと、聞かれもしないのに自白するところなどは、抜け目がなく、うっかり口車に乗ろうものなら、たちまち芝居を奢(おご)らせられる段取りになるかも知れない。
 ところで、兵馬は、千両役者にも、芝居にも、いっこう興味を催さないで、近頃のお客に、これこれの客を見なかったかと訊(たず)ねる眼目には、この小娘の手答えが甚だ浅く、いつか知ら役者へ話を引戻してしまう。
 おかしいのは千両役者を見たことがないという口の下から、海老蔵を褒(ほ)めること、褒めること。按摩に来たのではない、役者の提灯持(ちょうちんもち)に来たようなもので、小うるさくてたまらないから、兵馬は追い返してしまいました。
 まあそれ、小娘ばかりを笑ったものではないぞ。
 今の政治家がみんな人気商売の役者と違ったところはない――と京都にいる時、ある志士の慷慨(こうがい)を兵馬は聞いたことがある。
 経綸(けいりん)を一代に行うの抱負が無く、もとより天下を味方にするの徳もなく、また天下を敵とするの勇もない。さりとて巌穴(がんけつ)の間(かん)に清節を保つの高風もない。
 上は公卿(くげ)の御機嫌を伺い、外は外国の鼻息を恐れ、内は輿論(よろん)というもののお気に障(さわ)らないように、そうしてお気に向くような狂言を差換えて御覧に入れようとする。
 このくらいなら寧(むし)ろ蛮勇の井伊掃部頭(いいかもんのかみ)が慕わしい。天下の政治を人気商売として優倡(ゆうしょう)の徒に委するに似たり、と勤王系の志士が冷罵したのを兵馬は覚えている。
 それは天下国家のこと。兵馬の現在は、当分、この地を拠点にとって敵の行方(ゆくえ)を探すのだが、差当っては今に始めぬ滞在の費用問題。不思議なのは仏頂寺と、丸山。金銭の余裕があるべくもない者の身で、ちょいちょい耽溺(たんでき)を試みたり、兵馬の旅費までも綺麗(きれい)に立替えたりしてくれる。これらの輩(やから)はあいみたがい、好意を表したとて有難がらず、受けたとて罰(ばち)も当らない人間と思うから、そのままにしていたが、いつまでそのままにしてもおられまい。
 その辺を思案しながら兵馬は、床の間から刀と脇差を取寄せて拭いをかけて眺め入る。兵馬の刀は国助、脇差には包保(かねやす)の銘がある。これは相生町にいた時分、手に入れたもの。
 ここは松本平で名だたる歓楽の地。今日は城下の本町が大賑わいだから、その反動で、幾分しめやかではあるが、かえって底に物有りそうな宵の色。
 笛や太鼓の響きも聞えれば、音締(ねじめ)も響いて来るし、どうかすると、よいよいと合唱の唄が揚る。それを聞いていると、やはり、塩市の誉れを歌い、謙信の徳を称(たた)えるものであるらしいが、歌詞はさっぱりわからない。
 時々起るその合唱をほかにしては、森(しん)としたもので、空気全体がどこの温泉場も同じように、温かでしっとりしている。その時また、だしぬけに、
天文(てんぶん)二十三年秋八月
越後国春日山の城主
上杉入道謙信は
八千余騎を引率して
川中島に出陣あり
そのとき謙信申さるるやう
加賀越前は父の仇(かたき)
これをほふりてその後に
旗を都に押立てて
覇(は)を中原に唱へんこと
かねての覚悟なりしかど
かの村上が余儀なき恃(たの)み
武士の面目もだし兼ね……
 悲調を帯びたりんりんたる節が聞えたかと思うと、ぴったり止む。
 あれは何だ。詩ではない。浄瑠璃(じょうるり)でもない。相生町の屋敷でよく聞いた琵琶の歌に似て、悲壮にして、なお哀哀たる余韻(よいん)の残るものがある。
 その歌の一節が急遽(きゅうきょ)にして起り、急遽にして止む。
 拭い終った刀を鞘(さや)に納めると、外の通りが騒がしい。
「何だ、何だ、どうしたんだエ、火事でも起ったのかエ」
「火事じゃない、迷子(まいご)だ」
「迷子か」
 今までのは忽(たちま)ちにして起り、忽ちにして消えても、それは音律に協(かな)った音調。今度のは市人が路傍でガヤガヤと騒ぎ出したのです。
「迷子かい」
「迷子ですとさ」
 家並(いえなみ)の人が戸を押しあけて、通りへ飛び出して罵(ののし)る。その中で、
「ちぇッ、おいらの先生が、またいなくなったんだ」
 小焦(こじれ)ったく啖呵(たんか)を切ったその声に、兵馬はどうやら覚えがあります。

         二十三

 その騒ぎがけたたましいのに、その声になんとなく覚えがあるから、兵馬は今しも鞘に納めた脇差を片手に持って、鷹の湯の二階の障子を押し開くと、下の通りは、いまいった通りの戸毎に人が出て、迷子だ、火事だ、と騒いでいる中を走る一人の小者(こもの)、
「おいらの先生がまたいなくなっちゃった――先生、そこいらに泊っていたら言葉をかけておくんなさいな」
 笠を冠(かぶ)っているのを上から見下ろすのだから、さっぱりわからないが、どうもなんだか聞いたような声だと兵馬が思います。
 つまり、件(くだん)の小者が勢いこんで、器量いっぱいの声で、はぐれた連れの者を呼びながら駈けて来たその声に驚かされて、家々の者が出て見たのでしょう。
 ところが、驚かされて出て見た人も、ただそれだけのもので、存外小さな事件と見たから、張合い抜けがしたような思いで、そのあとを見送ってポカンとしているくらいだから、兵馬もそのまま障子を締め、刀と脇差とを以前のところへおいて、さて、これから寝てしまおうと思いました。仏頂寺、丸山は待って待ち甲斐のある輩(やから)ではなし――
 この場はこれで納まったが、納まらないのは、それから行く先々の温泉場の町並。
 例の笠を冠(かぶ)った小者(こもの)が、先生はどこへ行った、先生がまたいなくなった、と喚(わめ)き立てながら駈け廻っているから、だれも、かも、驚かされて出て見ない者はない。何かこの温泉場を根柢からひっくり返す事件でも持上ったかのように飛び出して見ると、件(くだん)の小者。
 それは、子供だろうと思われるほど背が低く、頭には竹の笠を冠って、首には荷物をかけ、手には杖(つえ)をついたのが、跛(びっこ)の足を引きずって、多分、眼中は血走って、そうして、かなりしめやかな歓楽の温泉の町を、ひとりで、騒がせながら飛んで行くのです。
「おい、兄さん、どうしたんだい。何だい、その騒ぎは」
 逗留(とうりゅう)の客で、世話好きなのが差出て聞くと、
「おいらの先生が、またいなくなっちゃったんだよ」
「なに、お前さんの先生がいなくなっちゃったんだって?」
「そうだよ……ちぇッ」
と舌を打って地団駄(じだんだ)を踏んだ人は浅間の人士はまだ知るまいが、これぞ宇治山田の米友であります。
「つまり、お前さんが連れにはぐれたというわけなんだね」
「そうだよ、それも一度や二度じゃねえんだからな、ちぇッ」
 米友が二度舌打ちをして地団駄を踏みました。
 これは、米友が二度舌打ちをして地団駄を踏むのも無理のないことで、またしても、道庵先生が米友を出し抜いて、どこかへ沈没してしまったものと見えます――全く、一度や二度のことではないから、米友としては世話が焼ける。察するところ、善光寺からあんなわけで、松本へ入り込んだ道庵は、今晩は浅間の温泉泊りということを米友にも申し含めておきながら、こんな始末になってしまったものと見える。もとより、こうして家並を怒鳴って歩けば、道庵がこの温泉場に泊っている限り、聞きつけて飛び出すには飛び出すだろうが、道庵ひとりを探すために、温泉場の全体を騒がすのは考えものです。
「兄さん、人を探すんなら探すように、帳場へでも頼んで……いったい、お前のお連れというのは何という宿屋に泊っているんだか、それをいってみな」
 世話好きに訊ねられて、米友が、
「何という宿屋に泊っているんだか、それがわかるくらいなら、こうして怒鳴って歩きゃしねえよ」
「なるほど……それじゃ、お前さんのお連れは何商売で、年は幾つぐらいで、人品は……?」
「商売はお医者さんで、年はもうかなりのお爺さんで、人品は武者修行だ」
と米友がたてつづけに答えました。
 いったい、これはどうしたのだ。尋ねている方が迷子だか、尋ねられているのが迷子だか、わからなくなりました。
 そこへ、またも全浅間の湯を沸かすような賑(にぎ)わいが持込まれたのは、塩市を出た屋台と手古舞(てこまい)の一隊が、今しもこの浅間の湯へ繰込んだということで、遥かに囃子(はやし)の音が聞える、木遣(きやり)の節が聞える。
 そこで、米友をとりまいていた連中も、米友を振捨てて走り出したから、全然閑却(かんきゃく)されてしまった米友。
 果して、今しも城下から練込んだ養老のダンジリ。
 それを若い衆がエンヤラヤと引いて、手古舞、金棒曳きが先を払う。見物が潮のように溢(あふ)れ出す。
 そこで、誰も米友を相手にする者のなくなったのもぜひないこと。
 ダンジリは上方式、手古舞と金棒曳きは江戸前、若い衆は揃い、見物と弥次とは思い思い。
 屋台の上の囃子は鍔江流(つばえりゅう)。
 この練込みの世話焼に、一種異様な人物が飛び廻っている――
「さあ、しっかりやってくんな、何でもお祭りというやつは江戸前で行かなくちゃあいけねえ、女房でも、子供でも、叩き売ってやる意気組みでなけりゃ、江戸前のお祭りは見せられねえ、ケチケチするない箆棒様(べらぼうさま)」
といって屋台の下から、手古舞のところまで一足飛びにかけて来て、
「そこの芸者、いけねえよ、その刷毛先(はけさき)をパラッと……こういう塩梅式(あんべいしき)に、鬼門をよけてパラッと散らして……そうだ、そう行って山王(さんのう)のお猿様が……と来なくっちゃ江戸前でねえ。おい、こっちの芸者、それじゃお前、肌のぬぎ方がいけねえやな、こうだ、同じことでもこういう塩梅式に肩をすべらせると見た目が生きてらあな、それそれ。ちぇッ、そっちの姉さん、お前、花笠をそう背負っちゃあいけねえよ、成田山のお札じゃあるめえし、ここんところをこう七ツ下りに落してみねえな、見た目が粋(いき)だあな。おいおい、そっちの金棒さん、もう少しずしんと、和(やわ)らか味のある音を出してくんな……さあ、提灯(ちょうちん)を、も少し上げたり、上げたり」
といって、また一目散(いちもくさん)に屋台のところまでかけ戻って、
「しっかりやってくんな……冗談(じょうだん)じゃねえよ、大胴(おおどう)がいけねえ、大胴、もう少し腹を据えてやりねえ。笛、笛、もう少し高く……ひょっとこ、ひょっとこ、思いきって手強く……」
 御当人も片肌をぬいでしまって、有合わせた提灯を高く高く振り廻して、屋台の上の踊り方にまで指図する。
 変な親爺(おやじ)が出て来やがった、町内ではあんまり見かけない風俗の親爺だが、かなり気むずかしい親爺らしい。気むずかしいだけに祭礼の故実も心得ているらしい。あんなのには逆らわずに世話を焼かしておく方がいいとでも思ったのでしょう。いくぶん尊敬の意味でいうことを聞いているらしいから、この親爺、いよいよつけ上り、
「さあ、若い衆、拙者が音頭(おんど)を取るから、それについて景気のいいところを一つ……オーイ、ヤレーヨ、エーンヨンヤレテコセー、コレハセー、イヤホーウイヤネー」
「ヤーイ」
 若い衆はわけもなくこの音頭に合わせてひっぱると、親爺、御機嫌斜めならず、
「ホラ、もう一つ、エーヤラエ、ヨイサヨイヤナ、アレハエンエン、アレハエンエン」
「ヨーイ、ヨーイヨーイ」
 この親爺(おやじ)一人でお祭りを背負って立つような意気組み。これぞ、以前の小者(こもの)が尋ね惑うているところの先生であります。
 またしても、あまりの賑(にぎ)やかさに、宇津木兵馬は再び二階の障子をあけて見おろしますと、この通りの景気です。
 その中を、右に左に泳ぎ渡って指図をして歩く変な親爺がある――兵馬は本来、道庵先生とは熟知の間柄で、ずいぶん今まで先生の世話にもなったことがあるのだから、そう見違えるはずはないのだが、いかに道庵先生だからとて、信州の松本までお祭の世話焼に来ていようとは思わず、第一、その頭が違っている。クワイ頭の専売物でなく、惣髪(そうはつ)にして二つに撫でつけた塚原卜伝(つかはらぼくでん)の出来損ないのような親爺が、まさか長者町の道庵だとは思われませんから、やはり、変な親爺が、世話を焼いているなぐらいの程度で、この景気の見送りをして、またも障子を閉(とざ)してしまいました。
 一方、宇治山田の米友は、浅間の町の迷児の道しるべの辻に立って、しきりに地団駄(じだんだ)を踏んだり、嘆息をしたりしている。
 ああしたような事情で善光寺を立ち出で、善光寺から稲荷山(いなりやま)へ二里、稲荷山から麻績(おみ)へ三里、麻績から青柳へ一里十町、青柳から会田(あいだ)へ三里、会田から刈谷原(かりやはら)へ一里十町、刈谷原から岡田へ一里二十八町、岡田から松本まで一里十八町を通って、松本の城下へ入り込んで見ると、前いうような景気でしたから、道庵がまたはしゃぎ出し、浅間の湯というのへ泊ることだけは打合せておいたが、とうとう途中で飛ばしてしまいました。
 止むことを得ず、米友は約束の浅間の地に着いて、町並に怒鳴り歩いてみたが手答えがなく、そこで、今は株を守って兎を待つよりほかの手段はなくなりました。
 町の辻の迷児の道しるべのあるところに、悄然(しょうぜん)と立った宇治山田の米友。
 人の気も知らないで、賑やかしい花車屋台(だしやたい)の行列は早くも米友の前まで押寄せて来ました。そこで迷児の道しるべの前に立っていた米友が、後ろへ隠れて人波を避ける。幸いにして米友は柄が小さいから、道しるべの蔭へ隠れた日には、少しも人波の邪魔になるということがありません。人波の方でもまた、米友と、道しるべとを捲き残して、大水のように過ぎ去ってしまえば何のことはないのだが、ここぞ、この町並ではほぼ目貫(めぬき)のところでしたから、そこで行列も御輿(みこし)を据えて、器量いっぱいのところを見せなければなりません。
 米友にとってはこれが迷惑です。早くこの人波が流れ去ってしまうことを希望していたのに、流れ来った水がここで湖となってしまい、自分と、道しるべとは島にされたならまだいいが、湖底に埋没されたような形になって、群衆は米友の頭の上でしきりに踊り騒いでいる。
 ぜひなく米友は、道しるべの蔭にいよいよ蹲(うずくま)って、ともかく、この人波の停滞が崩れ去るのを待って、おもむろに身の振り方をつけようと覚悟しました。
 こうして人波に埋没されている米友にとっては、何の面白くもないお祭り騒ぎ――だが人の面白がるものにケチをつけるにも及ばねえが、いいかげんにしてもれえてえものだな――と思って辛抱している。ところが、誰あって、米友が道しるべの下で、こんな犠牲的な辛抱をしていると気のつく者はなく、ただもう器量いっぱいに踊り騒いでいる。
 そのうち、むっくりと宇治山田の米友が跳ね起きたのは、その癇癪(かんしゃく)が破裂したのではありません、当然聞くべき人の声をその中で聞いたから、いきなり飛び上って道しるべの上へ突立って見ると、この時、道庵先生が屋台の上へかじりついて、
「さあ退(ど)いた、若い衆、いよいよこの親爺(おやじ)に一つ踊らしてくんな、この親爺の踊りっぷりを一つ見てくんな」
 若い者のすることが見ていられなくなったと見えて、道庵先生はダンジリに飛びあがって、自ら馬鹿面踊(ばかめんおど)りの模範を示そうというところでありましたから、米友が、じっとしてはいられません。
 道しるべの上から飛び立って、人の頭の上を走り通り、今しもダンジリに縋(すが)りついた道庵の袖を引っぱり、
「先生、いいかげんなことにしな」
と言って米友が、その手首をグングン引出した時に道庵が、
「友様か……済まねえ」
と叫びました。
 済むも済まないもありはしない。一刻も捨てておいた日には危なくてたまらないから、米友は有無(うむ)をいわせず道庵を引き立てて、また人の頭の上を飛んで走り戻りました。人の頭の上を、無闇に走り通ることの無作法ぐらいは米友も知ってはいるが、この際は、それを遠慮していられないほど急場の場合でありますからぜひがない。
 遮二無二(しゃにむに)、自分は人の頭の上を飛び、道庵の身体をも人の頭なりに引きずって、米友は露地の暗い人通りの少ないところへ引きずり込んでしまいました。
 それは米友流の極めて速かな早業(はやわざ)を以て、一瞬の間に行われてしまったものですから、頭の上を通られた連中までが、
「あっ!」
と言ったきり、手出しのできないほどの早業でありました。不思議な音頭取りを不意にさらわれても、それを追いかける手段を忘れしめたほどの早業でありました。
 道庵においても、遮二無二その腕を引張られても、人の頭の上を引きずり廻されても、痛いとも、痒(かゆ)いとも、言う暇のないほどの早業でありました。
 その早業が完全に行われて、人の頭の上から――露地の人通りの少ない所から、ついに行方(ゆくえ)も知らず引張り込まれた後に至って、群衆が騒(ざわ)めき立ちました。
「ひとさらい……」
 だが、もう遅い。
 ついにその近きあたりのどこを探しても、それらしい人の影を見出すことができませんものでしたから、一時、お祭りは中止の姿で、その奇怪のひとさらいの噂(うわさ)で持切りであります。
 たしかに小さいながら人間の形をしたものがこの道標(みちしるべ)の下から飛び出して、俺の頭の上を走ったには走ったが、その姿を見ることはできなかった、しかしその足は温かい足で、長い爪があったという者がある――いや、なんだか、俺の頭の上を通ったのは泥草鞋(どろわらじ)のようだったという者もある。それが、いきなり老人に飛びつくと、老人が「済まねえ」と謝罪(あやま)ったという者もあれば、謝罪ったのは飛び出して来た小者(こもの)だという者もある。
 しかし、幸いなことは、どちらがさらったにしても、さらわれたにしても、それは少しも土地ッ子の怪我(けが)ではないということで、誰に聞いてみても、あの頼まれもしない世話焼の親爺の何者であるかを知った者はなく、またこの道標あたりから飛び出したものの何者だか見極めた者もなく――どちらにしても氏子には、誰ひとり間違いが無かったということを喜び、結局、今のは天狗様だろうということに衆議が一決しました。
 つまり、辛犬(からいぬ)の山に棲(す)む天狗が、今夜の祭りの興に乗じて里へ出て見たが、面白さに堪らなくなって、つい人間と共に踊り、人間と共に楽しむ気になってしまったのだ、天狗が遊びに出たのだ、それも人を迷わしに来たのではない、人間と共に楽しみに来たのだから、それは怖いことではなく、賀すべきことである、いよいよこのお祭礼(まつり)の景気と瑞祥(ずいしょう)を示す所以(ゆえん)であると解釈がついてみると、右の老人のただ者でないという証拠が、あちらからもこちらからも提出されて、天狗から直々(じきじき)の指南を受けた人たちの持て方が大したものであります。
 天狗も来(きた)り遊ぶということで、この夜の景気がまた盛り返してきたのは、時にとっての仕合せでした。

         二十四

 しかし、天狗の評判があまり高くなったものだから、道庵主従も浅間の湯に泊ることには気がさして、松本の城下を指して宿を替えることにしました。
 城下は相変らずの景気でありますが、そのうちにも道庵をして絶えず大笑いに笑い続けさせたのは、例の「市川海土蔵」の辻ビラと、提灯(ちょうちん)が、至るところにブラ下げてあることです。それを大概の者が「海老蔵」と受取って、もてはやしていることであります。
「まあ、いいや、今夜は夜っぴて景気を見て歩こうじゃねえか、川中島の月見と違って、お祭りを見るのは寒くねえ」
と、道庵が言いました。
 そのうちに「夕日屋」という大きな店の前へ来ると、道庵がまた大きな声をしてカラカラと笑い、米友を驚かせました。
「この店もしかるべき大家のようだが、こう人真似(ひとまね)をするようになっちゃあ、身上(しんしょう)が左前になったのかな……番頭にいいのがいねえんだな」
と言いました。
 その夕日屋の大きな店は酒屋でしたが、この家で造り出す酒の名前を見ると、その頃の銘酒の名前を幾つも取って、それを自家醸造の如く拵(こしら)え、それにガラクタ文士を買い込んでしきりに能書を書かせている。
 人の評判を聞いてみると、この店では、いい酒を盗んで来ては、恥知らずの雇人共に金をあてがって、それに水を交ぜて売り出しているのだという。
 ともかくも夕日屋といえば、町内でも一流の老舗(しにせ)であるのが、こういう卑劣な商売の仕方をするようになったのは、つまり番頭に人物がいないからだ。
 良酒を取って来て、それに水を交ぜてごまかして売り出そうなぞは、三流四流の商店でも潔(いさぎよ)しとはしないのに、夕日屋ともいわれる大店(おおだな)がそれをやり出すに至っては、その窮し方の烈しさに腹も立たないで、涙がこぼれる――と噂をするものもある。
 ともかく、道庵先生は有名な飲み手だから、まあ人間の口で飲める酒はたいてい飲んでいるし、その味もよく知っているのだから、ここへ並べた詐欺物(いかさまもの)の酒の看板を見ると、ゲラゲラと笑い出し、
「箆棒様(べらぼうさま)、よい酒が飲みたけりゃあ、よい酒を作って競争するがいいじゃねえか、よい酒を作るだけの頭もなく、作らせるだけの腕もなく、しょうことなしに、どぶの水を持って来て引掻(ひっか)き廻させようなんぞは、吝(しみ)ったれでお話にならねえ」
と言いました。
 事実、道庵は好んで人の悪口をいい、また好んで当擦(あてこす)りをするわけでもなんでもないが、一流の店ともあろうものが、こういう悪酒を作って売り出させようとする手段を卑しむのは、少しも無理がない。ところがそれを聞いた店の者共は、しゃあしゃあとして、
「いい酒であろうと、悪い酒であろうと、大きにお世話だ、空気中へ抛(ほう)り出しておきながら、聞いて悪いの、見て悪いのという理窟はあるめえ」
といいました。
 その理窟は、ラジオでもなんでも、盗み聞いて差閊(さしつか)えない――といって奨励するような口ぶりでありましたから、道庵も呆(あき)れ返りました。
 本来、道庵先生も決して競争を非とはしない。むしろ大いに好んで競争をやりたがる。さればこそ鰡八大尽(ぼらはちだいじん)の如きをさえ向うに廻して大いに争ったが、その争いたるや君子――でないまでも卑劣な争い方は決してしていない。全力を尽して堂々――と、時としては全力を尽し過ぎて滑ったりするが、そこには自分の自信を裏切るようなことは決してしていないのだから、今この一流の夕日屋ともあろうものが、良き酒に水を交ぜてごまかして売るというようなやり方を見て、せせら笑いました。
 それから暫く行って道庵は、また素敵(すてき)なものを見出して喜んでしまいました。
 見れば火を入れた大行燈(おおあんどん)を横に高く、思いきって大きな文字で、
「市川海土蔵」
と掲げ、その下に見えるか見えないかの小さな文字で、外題(げだい)が、
「一番目 岩見重太郎の仇討
 中幕 勧進帳
 三番目 水戸黄門
 大切 所作事」
と書いてあり、なおその下に小さく月形半十郎だとか、牧野昌三郎、坂東妻公だとか、お茶っ葉の名前を申しわけのように並べ、その大行燈を横町の入口高く掲げてあるのを見たから、道庵がヒドク喜んでしまったのです。
「有難(ありがて)え、勧進帳を旅先で見られるなんぞは、開け行く世の有難さとでもいうんだろう、江戸ッ児も江戸ッ児、市川宗家エド蔵の勧進帳、こいつを見のがした日には江戸ッ児の名折れになる」
と道庵が熱心に力瘤(ちからこぶ)を入れて、
「友様、明日を楽しみに待ってくんな、明日こそお前にも芝居らしい芝居というものを見せてやる」
 今や、この芝居もハネた時間と覚しく、見たところ小屋の前の混雑は名状すべくもありません。
 この景気を以て見れば確かに芝居は大当り、そうして出て来る人の口々の噂(うわさ)を聞くと、
「海老蔵(えびぞう)はいいわね、なんて勇ましいんでしょう、杉之助もよかったが、海老蔵はまたいいわ」
とみいちゃんがいう。
「立廻りのキビキビした男前のいいこと、千両役者だけあるわね」
とはあちゃんがいう。
「海老蔵もいいが、月形は熱心で、牧野の頭のいいところが感心だ」
などと、お茶っ葉の提灯(ちょうちん)を持つ折助(おりすけ)の若いのがいう。名優を随喜渇仰(ずいきかつごう)するもろもろの声を聞き流して、道庵主従はこの盛り場から町筋をうろつきました。
 しかし、いくら祭礼の夜とはいえ、松本の城下に、こんなお笑い草ばかり転がっているわけではありません。
 行くこと暫くにして、とある門構えの黒板塀の賤(いや)しからぬ屋敷の前へ来ると、道庵はお祭りの提灯の光で、門の表札を眺めて突立っていたが、
「占(し)めたッ!」
と叫びました。
 例によって米友には、何を占めたのかわからない。
「友様」
 道庵はその門構えの前に立って米友を顧み、
「友様」
「何だ」
「占めたぞ、今晩の宿が見つかった」
 米友にはいよいよわからない。ことによったら武者修行の手を行くのではなかろうかと気がついたが、どうもその家の構えは武芸者の構えらしくない。邸内は相当に広いようだが、道場らしい建物があるようにも思われません。
 ところが、道庵はまず以て穏かに事情を告げてしまいました。
「友様、犬も歩けば棒に当るといって、何が仕合せになるか知れねえ、これはそれ、わしが友達の家だよ、ホラ門札に松原葆斎(まつばらほうさい)とあるだろう、大将いまは江戸にいるが、出立の前に、松本へ行ったら、ぜひおれの家を訪ねてくれろ、手紙を出しておくから……そうして、おれの家を宿にして一通り松本城下を見てもらいてえとこういった、遠慮をするには及ばねえ、松原だの、浅田宗伯なんぞは、おれたちの仲間でも至極(しごく)出来のいい方だ」
 こういって道庵は、ズンズンと門内へ入り込んで行きます。
 松原葆斎は松本藩の医にして、儒を兼ねている。道庵と知り合いになったのは多分江戸遊学中。後、京都に遊学し、また長崎に行って蘭人について医を学び、今は江戸の聖堂に出て、その助教授をしている。
 浅田宗伯は同じく信濃の人――一代の名医にして、また豪傑の資を兼ねている。
 果して、松原の家では道庵の来訪を非常に喜んで、もてなすこと斜めならず。
 その翌日は、同業の人々が案内に立って、まず藩学崇教館(すうきょうかん)に道庵主従を案内して、そのとき開かれた展覧会を見せてくれました。
 そこには松本を中心にして、概して信濃一国に関する古記古文書がある。諸名士の遺物がある。藩の殖産興業の模範といったようなものもある。
 道庵はそれをいちいち熱心に眼を通して歩き、「五人組改帳(ごにんぐみあらためちょう)」だとか、「奇特孝心者(きとくこうしんもの)の控(ひかえ)」だとか、松本新銭座の銭だとかいうものは、いちいち手に取って熟覧した上に、三村道益が集めた薬草の標本のところへ来ると、われを忘れて、
「有難い」
と合掌し、道益の自筆本「木曾薬譜(きそやくふ)」というのを見ると、伏し拝んでしまいました。
「これだ――これでなくちゃならねえ」
 道庵は三村道益の遺物の前で眼をしばたたいて、親の遺物に逢うように懐しみ、そうして言うことには、
「わしは別段、この道益先生を師として学んだわけでもなんでもねえが……その恵みというものは忘れるわけにはいかねえ。なぜといってごろうじろ、この木曾の薬草が今のように世に盛んに出て、貧民病者を助けるようになったのは、いったい誰のおかげだと思う。道益先生が考えるには、わしは代々この木曾で医者を商売にする家に生れたが、この木曾に産する薬草というものの良質にして、多量なることは、他国の及ぶところではねえ、もしこれをとって、年々に三都へ出して売り弘(ひろ)めた日には、少なくとも天下の薬価の三分の一を減ずることができる、それのみならず、木曾地方は山谷の間にあって、穀物を生ずることが少ない、そこで仕事のない人を山に入れてこの薬草を取らせ、それに多少の賃銭を与えることにすると、その人たちの生活の助けにもなる……と道益先生がこういって、それから自分も手弁当で、蓑笠(みのかさ)をつけて、数人の男をつれて山の中へ入り込んで、一草を見るごとに、必ずそれを取って嘗(な)めて、良いか悪いかを見分けて、その場所へいちいち目じるしを立てておいたものだ。その目じるしというのは、つまり後から取りに来る人のための目じるしだ。それのみならず、その草の根をまたいちいち掘って帰り、これを自分の庭園の中に植えて、山へ取りに行く人に実地を見覚えさせておいたものだ。なんとまあ親切な仕業(しわざ)じゃねえか――昔、支那には神農様というのがあって、百草の品々を嘗(な)めて、薬を見つけて、人間の疾病を救ったものだが、道益様のなすところはそれと同じことだ。ただ草を嘗めるというが、この草を嘗めて良否を見分けるというのは、なかなか度胸がなけりゃできねえよ。そうして道益先生は山に寝(い)ね、谷に転がり、木曾の山中を薬草を探し歩いて尾張に出で、名古屋へ行って銀若干を借りて、それで草を掘る道具類を買受けて、それを一人に一本ずつ与えて、また山中へ入れて薬草を取らせたのだが、仕事を与えられた人々は先を争うて山に入り、日々山の如く薬草を取って来た。それを粗製して年々三都へ売り出すことにしたものだから、もとより薬草の質がいい上に品が多い。今のように木曾薬草の名が天下に知れて、長者町の道庵までがそのおかげを被(こうむ)るようになったのは、みなこの道益先生の親切だ――医者に限ったことはねえ、天下の政治でも、実業界の仕事でも、すべてこの人類に対する親切気から湧いて来なけりゃ嘘だな。道庵なんぞもまことにお恥かしいはずのもので、何一つ社会へ親切気を示したことはねえのに、酒ばかりくらって、諸方をほうつき歩いているのは、古人に対しても、なんともハヤ相済まねえわけのものだが……道庵は道庵だけの器量しかねえんだから、どうぞ勘弁しておくんなさい」
 道庵がポロリポロリと涙をこぼして泣き出しましたけれど、この時は誰も笑うものはありませんでした。
 それから道庵は長沼流の「兵要録」の原本を見たり、義民多田嘉助の筆跡を見たり、臥雲震致(がうんしんち)が十四歳のとき発明した紡績機械の雛形(ひながた)を見たりして、あまり甚だしい脱線もなく、この展覧会を立ち出でました。
 これは初対面の人よりは、かえって附添の米友を驚かしたことで、事毎に何か脱線あるべきはずの先生が、ここでは一切脱線なしに、かえってその言う事が人々を感心させ、その見るところが玄人(くろうと)を敬服させ、案内する者をかえって案内して引廻すようなこともあり、そうして、それぞれ有志たちから受ける尊敬心を裏切らずに押して行く交際ぶりのまじめさが、米友をいたく驚かせました。これは本当の先生だ! 今まで嘘の先生と思っていたわけではないが、こうして押しも押されもせぬ先生で通れるのに、あんな馬鹿騒ぎをして、われと格を落す先生を気の毒と思わずにはいられません。
 やがて松本の城の天守閣の上まで見せてもらうことができました。
 壮大なる松本城天守閣上のパノラマ。あいにく、この日は曇天で、後ろのいわゆる日本アルプスの連峰は見えず、ただ有明山のみが背のびをしているように見えます。
 道庵は酔眼朦朧(すいがんもうろう)として眺める。米友は眼をみはって高い石垣の下の濠(ほり)を見下ろす。城を下って城を見上げて、説明を聞くと、加藤清正も熊本城を築く前に来って、この城を見学して帰ったという。天守閣の棟が西に傾いているのは、義民多田嘉助が睨(にら)んだからだという。
 道庵は、そこで、どうした風の吹廻しか七言絶句(しちごんぜっく)を三つばかり作って、同行の有志家たちに見せました。
 それは、いよいよ米友を驚嘆させて、おいらの先生は、あんな四角な文字まで並べられると、非常に肩身の広い思いをさせ、また同行の有志家たちも、即席に漢詩を作る道庵の技倆に感心をしたらしいが、詩そのものは道庵の名誉のためにここに掲げない方がよろしいと思う。道庵自身も、その辺は御承知のことと見えて申しわけたらたら、
「曲亭馬琴様は、あれほどの作者だが、悪い病には漢文を作りたがってな。漢文さえ作らなきゃあ馬琴様もいい男だが……人は得て不得意なものほど自慢をしたがるやつで……」
といって紙に書いて見せました。
 道庵の詩作に感心した有志家たちは、
「先生は武芸の方もおやりになるそうで……当地にはこれこれの道場もございますが、御案内を致しましょうか」
と来た時に、さすがの道庵がオイソレとは言わないで、苦笑(にがわら)いをしました。
 見も知らないところで、玄関から物々しく、武者修行の案内を求めてこそ、芝居もほんものになるが、身許(みもと)をすっかり知られてしまってからでは、気が抜けてしまって芝居にならない。そこで道庵もそれはいいかげんにごまかして、今日はこれからぜひ、浅間の湯へ行かなければならぬといって、なお松原の家でもぜひ、もう一晩というところを辞退して、浅間の湯へも案内しようというのを振り切って、二人はまた水入らずで松本の町を放浪しました。
 こうして急に息を吹き返したところを見ると、道庵も有志家連との交際を、かなり窮屈に感じてはいたらしい。
 そこで、歓迎から解放されて、自由な気持になり、今晩は浅間の湯へ泊って、ゆっくり休息をして、明朝は早立ちということになれば何のことはないのだが――町を通りながら、例の「市川海土蔵」を見つけると、道庵の病(やまい)が出て、昨晩の米友への約束を思い出し、
「さあ、どうでもこの芝居は見なくちゃならねえ……お前に対しての約束もあるからな――」
 とうとう道を枉(ま)げて、宮村座というのへ入り込んで、市川海土蔵一座を見物することになったのは感心しないことでした。

         二十五

 ちょうど、時刻が少し早かったせいか、さしも連日満員のこの大一座も、道庵主従をして、よい桟敷(さじき)を取らせ、充分に見物するの余裕を与えたことが、良いか、悪いか、わかりません。
 道庵主従が東の桟敷に、むんずと座を構えると、まもなく、土間が黒くなり出して、見るまに場内が人を以て埋(うず)まってしまいました。かくも短時間の間に、かくも満員を占める人気というものの広大なことに、道庵先生も面喰(めんくら)った様子であります。
 一通り場内を見廻して、道庵も人気の盛んなことに驚嘆しながら、酒を取寄せ、弁当を誂(あつら)え、さて番付を取り上げて、今日の番組のところを一通り見ておこうと大きな眼鏡をかけました。
 しかし、番付いっぱいに「市川海土蔵」が書いてあるものですから、どこに外題(げだい)があるのかよくわかりません。仔細に注意して見ますと、ようやく、岩見重太郎も、水戸黄門も、「海土蔵」の名前の下に小さくなっているのを見つけ、これでよかったと安心しました。
 米友は、自分は興行に使われたことがある。両国の大きな小屋で擬物(まがいもの)の黒ん坊にされていた経験があるから、多数の見物には驚かないが、自分がお客となって芝居見物をするのは今日が初めてですから、一種異様な感情に漂わされて場内を見廻しておりました。どこを見廻したところで、ここには米友の見知った面(かお)は一つもありません。
 こうしているうちにも、周囲は海老蔵の噂(うわさ)で持切りであります。海老蔵でなければ役者でないようなことをいいます。そうして、もう今までに五度も六度も海老蔵を見て、海老蔵と親類づきあいをしているように吹聴(ふいちょう)しているものも少なくはないようです。ところが米友は、海老蔵も鯛蔵もまだ見たことはない。自分は海老蔵や鯛蔵を見に来たのではなく、芝居というものを見に来たのだから、早く幕があいてくれればいいなと思いました。
 それにしても、先生がいやにおとなしいと米友が見返りました。本来こういう盛り場へ来ると、いよいよ噪(はしゃ)ぎ出して手がつけられなくなる心配があるのに、この時はめっきりおとなしいものだから、米友がそこに気がついて見返ると、先生は、番付をタラリとして、いい心持で居眠りをしています。
 なるほど、昨晩からのあの噪ぎ方では疲れるのも尤(もっと)もだ、幕があいたら起して上げよう、今のうちは静かに寝かしておいた方が先生のためでもあるし、第一、自分も世話が焼けなくていいと思いました。
 そこで米友は、居眠りをさせるにしても、なるべく醜態を人様のお目にかけないようにして居眠りをさせるがよいと思い、番付も取って畳み、道庵の姿勢も少し直してやり、そうして自分は一心に幕の表を眺めて、拍子木の音を待っておりました。
 幕あきを今や遅しと待ちかねているものは、米友一人ではありません。
 その時分、第一の拍子木が一つ鳴ると、満場が急に緊張して、人気がまたざわざわと立ってきました。
 ちょうど、その時です。かねて取らせておいたと見えて、土間を隔てて、米友とは向う前の桟敷に、四人連れの武家が案内されて来て、むんずと座を占めたのは――
 だが、それは格別、誰の眼を惹(ひ)くということもありません。士分の者らしいのも二人や三人ではないから、それがために多きを加えず、少なきを憂えず。米友とても同じことで、自分の前の向き合った桟敷へ、四人連れの侍が来たなと気がついただけで、また幕の方へ眼を外(そ)らせてしまいました。
 しかし、この四人連れの侍のうちの二人は、たしかに、仏頂寺弥助と丸山勇仙であります。あとの二人は確かに仏頂寺、丸山の友人で、風采(ふうさい)を見ればこれもひとかどの武芸者らしい。ただし、宇津木兵馬はおりません。兵馬がいれば、米友も見知っていたでしょう。
 さて、いよいよ幕があきました。
 これは一番目狂言の「岩見重太郎の仇討」の第一幕。
 八月十五日の夜。筑前国相良郡(さがらごおり)箱崎八幡祭礼の場。
 賑(にぎや)かな祭礼の夜の場面。小早川家中の血気の侍が八人、鳥居の下の掛茶屋に腰をかけて話している。一人が急に、あれへ岩見重太郎が見えたという。
 なるほど重太郎が来たと、一同が色めき立つ。その話によると、家中岩見重左衛門の次男重太郎が、山の中へ入って三年間、木の実を食って、このほど馬鹿になって出て来たという。なるほどボンヤリして歩いて来た。ひとつ調戯(からか)ってやろう、あんなのを調戯わなければ、調戯うのはないという。
 そこで、八人の侍が諜(しめ)し合わせているとも知らず、花道から岩見重太郎が出て来る。重太郎が出ると見物が騒ぎ出して静まらない。海老蔵、海老蔵の声が雷のようだ。
 いかにも重太郎、武士の風こそしているが、ボンヤリして馬鹿みたような顔をしながら歩いて来る。舞台の程よいところへ来ると、以前の若侍が出て調戯(からか)う。そうして結局酒を飲ませるといって附近の料理屋の二階へ連れ込む。
 同じ幕の二場。
 桝屋久兵衛という立派な料理屋の二階。八人の若侍が薄馬鹿の重太郎を囲んでしきりに嘲弄(ちょうろう)しながら、大杯で酒をすすめる。それを重太郎がひきうけて八杯まで呑む。そのうち、二人ばかり重太郎に組みついて来ると、重太郎がそれを取って投げる――つづいて組みついたり――打ってかかったりするのを、残らず二階から下へ投げ落してしまう――それから舞台が半廻しになって、重太郎は海岸の淋しい松原をブラブラ帰りながら、自分は三鬼山(みきざん)の奥に三年籠(こも)り、一人の老翁のために剣法を授かったが、その老翁が喬木(きょうぼく)は風に嫉(ねた)まれるから、決してその術を現わさぬよう、平常(ふだん)は馬鹿を装っているがいいといわれたから、その通りにしている、親兄弟にも馬鹿になって来たと思われているが、身に降りかかる火の子は払わなければならぬ、無益な腕立てをして残念千万、というような独白(せりふ)がある。
 そうして松原へかかると、人の気配(けはい)がするのでキッと踏み止まって八方に眼を配る。この時遅し、前後から白刃を抜きつれて斬ってかかる者がある。
 重太郎、心得てヒラリと体(たい)をかわし、たちまち一人の白刃を奪って、他の一人を斬って捨てる。それをきっかけに、松原の中から抜きつれたのが無数に飛び出して、重太郎に斬ってかかる。
 そこで大乱闘が始まる。
 重太郎、前後左右にかわして、体を飛び違えては四角八面に斬り散らす。いずれもただの一刀で息の根を止めてしまうが、敵は多勢――
 見物の喝采(かっさい)は沸くが如く、なかには鉢巻をして舞台へ躍(おど)り出そうとする者もある。
 またやられた。あれで十八人目だと丹念に数えている者もある。
 幕があいたので、いったん居眠りから呼び醒(さ)まされた道庵も、この物凄い景気に、すっかり眼を醒ましてしまうと、舞台は箱崎松原の大乱闘。
 重太郎が十八人目を斬った時に、道庵が二度目の居眠りから眼を醒まして、一時は寝耳に火事のように驚きましたが、やがて度胸を据えて見物していると、最初から数えていた見物のいうところによれば、都合二十八人を斬って捨てた時に幕が下りました。
 見物はホッとして息をつく。
 道庵はしきりに嬉しがっている。
 宇治山田の米友は、なんだか要領を得たような、得ないような顔をして、しきりに首を捻(ひね)っている。
 幕がおりると共に見物はホッと息をついて、その息の下から海老蔵は偉い、海老蔵ほどの役者はないと、感嘆の声が盛んにわきおこります。
 次の幕は、野州宇都宮の一刀流剣客高野弥兵衛の町道場。
 花道から岩見重太郎が、武者修行の体(てい)で腕組みをしながら歩いて来る。そうして述懐のひとり言(ごと)。
 自分は家中の者を二十八人も斬り捨てたために、浪人の身となって武者修行をして歩いている。自分としてはこうして武を磨くことが本望だが、国に残る父上や、兄上、また妹の身の上はどうだろう。近ごろ夢見が悪い、というようなことを言う。
 いや、そう女々(めめ)しい考えを起してはならぬ。あれに立派な道場のようなものが見える。推参してみようと、道場へ近寄って武者窓を覗(のぞ)くと、門弟共が出て来て無礼咎(とが)めをする。結局、貴殿武者修行とあらば、これへ参って一本つかえという。重太郎、多勢に引きずられるようにして道場に入り込み、それから入代り立代る門弟を、片っ端から打ち据える。堪りかねて道場主高野弥兵衛が出たのを、これも苦もなく打込んでしまう――弥兵衛は無念に堪えないながら、どうしても歯が立たないと見て、止むなく笑顔を作って重太郎を取持ち、一献(いっこん)差上げたいからといって案内する。
 舞台廻ると、宇都宮の遊女屋三浦屋清兵衛の二階。
 そこへ、弥兵衛が重太郎を連れ込んで盛んに待遇(もてな)す――そこで重太郎がパッタリと妹お辻にでっくわす。お辻はこの家に身を沈めて、若村という遊女になっていたのである。
 あまりの意外な邂逅(かいこう)に二人は暫く口が利(き)けない。やがて弥兵衛一味が酔い伏してしまった時分に、重太郎はお辻を呼んで、身の上を聞く。
 聞いてみれば、父の重左衛門は同じ家中の師範役、成瀬権蔵、大川八右衛門、広瀬軍蔵というものの嫉(ねた)みを受けて殺されてしまった。自分は兄の重蔵と共に仇討に発足したが、兄は中仙道の板橋で返り討ちになってしまい、自分はここへ身を沈めるようになったのだが、今、あなたと一緒に来た高野弥兵衛というのに附纏(つきまと)われ困っているが、あれはよくない男だというような物語がある。
 重太郎、それを聞いて悲憤のあまり、今夜のうちに、お前を連れてここを逃げ、父兄の仇討に上ろうと約束をする。
 舞台廻って三浦屋の裏手。松の木から塀越しに二人が忍び出す。それを待構えていた高野弥兵衛一派の者が斬ってかかる。
 重太郎は刀、お辻は懐剣を抜いて悉(ことごと)くそれを斬り払ってしまう。そうして二人は手に手を取って暗に紛(まぎ)れて――幕。
 この幕もまた、見物の残らずをして息をもつかせない緊張を与えたものですから、幕が下りると一同はホッと息をついて、それからまた反動的に、海老蔵は偉い、お辻はかわいそうだわね、ということになる。
 一幕毎に、こうして海土蔵の人気が沸騰してゆくものだから、道庵までがついその気になり、
「なるほど、海土蔵様もエラい、海土蔵様もエラいには違いないが、この芝居が海土蔵様をエラがらせるように出来ている」
と言いました。つまり、どの幕もどの幕も、海土蔵が一人儲(もう)けをやるように出来ているので、有象無象(うぞうむぞう)をいいかげん増長させておいて、ここぞというところで撫斬(なでぎ)りにしてしまうのだから、見物は無性(むしょう)に喜ぶ。
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