大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 この祭文語りが、もう少し近代風に、曾我をやるとか、義士伝を講ずるとかいうならば、道庵の昂奮もその謂(いわ)れがないではないが、何をいうにも、この祭文語りは山伏に近い古風なもので、ことに語り物が、哀婉(あいえん)たる苅萱道心(かるかやどうしん)の一節と来ているのだから、多少の菩提心(ぼだいしん)をこそ起せ、そう無暗に昂奮して、武者修行熱を起した道庵の心持は解(げ)せないものだが、道庵に言わせると、また立派にその謂れがあるのかも知れない。
 実をいうと、道庵の武者修行熱は必ずしも軽井沢に始まったというわけではなく、そのずっと以前から萌(きざ)しているので、一度はどうか武者修行をやって、至るところの道場という道場を、片っぱしから荒して歩きたいという念願が、離れたことはなかったのであります。
 それが軽井沢の出来事によって誘発せられ、小諸、上田を通って行くうちに、ここで始めようかここで……と幾度も思い込んではみたが、衣裳やらなにかの都合でそうもゆかず、とうとう善光寺までそのままで来てしまったが、ここへ来て祭文を聞いたので、またも激しくそれが誘発され、もう矢も楯も堪らず、明日からは是が非でも武者修行だと、非常な昂奮を始め、地響きを立てて善光寺の門前を驚かしたものです。
 そんなら、道庵先生自身は、それほど腕に覚えがあるのか――こういう先生のことだから、どこにどういう隠し芸を持っていないとも限らないが、軽井沢の宿でたいてい手並はわかっているではないか。しかし、昔をいえば道庵も、江戸市中の持余し者であった茶袋の歩兵を見事に取って押えて、群集をアッといわしたことがある。あれは天神真揚流の逆指(ぎゃくゆび)という手で――道庵自身にいわせると二両取りの手だというが――それから柳橋では辻斬を取って押えたこともあるという。いざといえば、匙(さじ)一本で二千人を殺したといい出す。
「先生は、まあ、昔でいえば張孔堂由井正雪(ちょうこうどうゆいのしょうせつ)といったようなもので、武芸十八般、何一つ心得ておいでにならぬのはない……」
なんぞと持ち上げようものなら、先生納まり返って、
「それほどでもねえのさ」
と顋(あご)を撫でるところなどは、全く始末にゆかないのであります。
 その先生が、今や進んで武者修行を試みようというのは、要するに米友というくっきょう無類の用心棒があればこそだろうが――単にそれだけではない、先生には先生としての奇警にして、正当なる自信を別に持っているもののようです。
 だが、道庵先生がドンキホーテを読んで、その興味に駆(か)られて武者修行を思い立ったものとも思われません。
 他の道楽は大抵、間違っても多少の恥を掻(か)くだけで済むが、武者修行は、やりそこなうと生命に別条がある――たとえ米友がありといいながら、これは危なげのあり過ぎる道楽である。よした方がよい。だが道庵の意気は冲天(ちゅうてん)の勢いで、留めて留まらぬ勇ましさは、その足どりでもわかります。もう既にいっぱしの荒武者気取りで、善光寺前の藤屋という宿へ、大風(おおふう)に一泊を申し込んで番頭を驚かせました。
 宿へ納まってから、改めて米友を呼んで、申し渡すことには、
「あの祭文(さいもん)を聞いてから急に武者修行をやってみたくなった、そこで友様、済まねえがお前は武芸の方で、俺のお弟子分になってもらいてえ、そうして、木曾街道から名古屋、京大阪をかけて、道場という道場を荒し廻って、武芸者という武芸者に泡(あわ)を吹かせてやりてえ、第一そうして道場めぐりをして歩けば、宿賃が浮くだけでも大したものだ」
 道庵先生としては詰らないことをいったものです。道場荒しの意気組みはまあいいとしても、宿賃が浮くなんぞは甚だ吝(けち)であります。道場めぐりで、宿賃をかすろうというような、さもしい道庵ではないはずだが、言葉のはずみで、そんなことを言ってしまったものでしょう。果して米友は軽々しくそれに賛成しない。第一武芸には、上には上があるものだから、そう物好きをやるべきものではない――という米友の諫言(かんげん)は正当にして穏健なるものだが、そうかといって思い止まるには、道庵に自信があり過ぎる。
 この自信が、匙一本で、幾千の人を、生かしたり、殺したりする自信だからたまらない。
 米友も実は心配している。道庵先生、しきりに強がりをこそ言うが、武術なんぞの素養は薬にしたくも持合わせていないことは、米友がよく知っている。万一、若い時、多少やったにしたところが、この年で、今まで休んでいれば、とうてい他流試合なぞに堪えられるものではあるまい。
 どういうつもりだか料簡(りょうけん)がわからない。しかし、道庵の料簡のわからないのは今に始まったことではなく、米友には全部わからないし、また、やはり道庵は偉い先生で、そのする事、なす事が、自分らの頭では解釈し切れないのだと米友は信仰しているのだから、全然料簡のわからないことをやり出しても、それが時間を経(ふ)ると、相当の意義を齎(もたら)して来ることもあるのだから、どうも仕方がない、御意のままに任せるよりほかは――
 そこで、武者修行を主張する道庵にも相当の自信があるので、吾々がそう危ながるほどの危険はないのかも知れない。また万一の危険の際には、及ばずながら自分が飛び出そうとの決心もあるから、賛成はしないが、強(し)いて反対するのでもありません。
 米友を口説(くど)き落したつもりの道庵は、いよいよ有頂天(うちょうてん)で、多年の慈姑頭(くわいあたま)をほごして、それを仔細らしく左右に押分け、鏡に向ってしきりに撫でつけているところは、正気(しょうき)の沙汰(さた)とも見えません。被布(ひふ)なんぞはニヤけていけねえ、脇差もこんな短けえんではいけねえ――道庵は衣裳、持物の吟味までも始めたが、肝腎の道場訪問の儀式作法に至っては、研究する模様もなし、米友に訊ねようとの気色(けしき)も見えない。
 総髪を左右に押分けた急拵(きゅうごしら)えの張孔堂正雪。
 悪い洒落(しゃれ)だ……と米友も呆(あき)れましたが、これというのも、あの祭文語(さいもんがた)りを聞いて昂奮したせいだろう。祭文が無暗に武勇伝を語って聞かせるのも考えものだと、米友が思いました。
 道庵が、どうしてこうも武者修行をやってみたいのだか――その最初の動機は、いま米友が心配しているところの如く、祭文語りから来たのも因縁でありますが、これには奇(き)にして正(せい)なる一場の物語がある。その物語たるや極めて興味あるエピソードとなすに足る。
 件(くだん)の物語の主人公は祭文語りであって、その祭文語りが、無能が大能に通ずるの真理を極めて滑稽なる仕方で現わしたところに、無限の興味があります。

         十九

 天保の初め頃、神戸に一人の祭文語りがあった。この男、身の丈五尺九寸、体量二十七貫、見かけは堂々たるものだが、正味は祭文語り以上の何者でもなく、祭文語り以下の何者でもない。芸名を称して山本南竜軒と呼び、毎日デロレンで暮している。
 男子生れて二十七貫あって、デロレンでは始まらない、と先生、ある日のことに、商売物の法螺(ほら)の貝を前に置いて、つくづくと悲観する。
 ところへ友達が一人遊びにやって来て、大将何を考え込んでいるのだと言う。
 身の丈が六尺、図体が二十七貫もあって、デロレンでは情けないと、今もこうして、法螺の貝を前に置いて、涙をこぼしているところだ。そうかといって立身するほどの頭はなし、商売替えをするほどの腕もなし……何かいい仕事はないかい。
 あるある、そのことなら大ありだ。実はおれもつくづく日頃からそれを考えていたのだ。全くお前ほどのものを祭文語りにして置くのは惜しい、お前、やるつもりなら打ってつけの仕事がある――と友達がいう。
 何だい、おれにやれる仕事は?――なお念のためにいっておくが、図体は大きくても、法螺の貝を持つだけの力しかないのだぜ、力業(ちからわざ)は御免を蒙(こうむ)るよ。
 そんなのではない、別段骨を折らず、大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける法がある。他人ではできないが、お前なら確かに勤まる。
 はて、そんな商売があるものか知ら。骨が折れずに、大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける法があるならば、早速伝授してもらいたい。
 ほかではない、それは武者修行をして歩くのだ、と友達がいう。
 南竜軒先生、それを聞いて呆(あき)れかえり、そんなことだろうと思った、武者修行は結構だ、法螺の貝から、岩見重太郎か、宮本武蔵でも吹き出して、お供に連れて歩けばなお結構だと、腹も立てないから茶化しにかかると、友達の先生一向ひるまず、
 たしかに、お前は武者修行をすれば大威張りで、日本六十余州をめぐって歩ける。剣客におなりなさい。剣術の修行者だといって、到るところの道場をめぐってお歩きなさい。到るところの道場では、お前を丁寧にもてなして泊めてくれた上に、草鞋銭(わらじせん)をまで奉納してくれるに相違ない。こんないい商売はあるまいではないか。
 なるほど、それはいい仕事に相違ないが、おれには剣術が出来ない、竹刀(しない)の持ち方さえも知らないのを御承知かい。
 そこだ、憖(なま)じい出来るより、全く出来ない方がよい。そこを見込んでお前に武者修行をすすめるのだ。少しでも出来れば、ボロの出る心配があるが、全く出来なければ、ボロのでようがない。その方法を伝授して上げよう。
 まず第一、お前の体格なら、誰が見ても一廉(ひとかど)の武芸者と受取る。そこで、武芸者らしい服装をして、しかるべき剣術の道具を担って、道場の玄関に立ってみろ、誰だって脅(おどか)されらあ。
 南竜軒、首を振って、詰らない、最初に脅しておいて、あとで足腰の立たないほどブン擲(なぐ)られる。
 友達の曰(いわ)く、そこにまた擲られない方法がある。
 とはいえ、武芸者として推参する以上は、立合わぬわけにはいくまい、立合えばブン擲られるにきまっている。
 けれでも、そこを擲られないで、かえって尊敬を受ける秘伝があるのだが――
 それは聞きたいものだね、そういう秘伝があるならば、それこそ一夜にして名人となったも同然。
 南竜軒もばかばかしいながら、多少乗り気になったが、友達の先生はいよいよ真顔で――
 しかし、一つは擲(なぐ)られなければならぬ、それもホンの一つ軽く擲られさえすれば済む。それ以上は絶対に擲られぬ秘伝を伝授して上げよう。
 頼む――多分、牛若丸が鞍馬山で天狗から授かったのが、そんな流儀だろう。それが実行できさえすれば、明日といわず武者修行をやってみたいものだ。
 よろしい、まずお前がその二十七貫を武芸者らしい身なりに拵(こしら)え、剣術の道具を一組買って肩にかけ、いずれの道場を選ばず玄関から、怯(お)めず臆(おく)せず案内を頼む。
 取次が出て来たところで、武者修行を名乗って、どうか大先生(おおせんせい)と一つお手合せを願いたくて罷(まか)り出でたと申し出る。
 道場の規則として、大先生の出る前に、必ずお弟子の誰かれと立合を要求するにきまっている。その時、お前はそれを拒(こば)んでいうがよい。いや、拙者はお弟子たちに立合を願いに来たのではない。直接(じか)に大先生に一手合せを、とこう出るのだ。
 先方は多少、迷惑の色を現わすだろうが、立合わないとはいうまい。立合わないといえば卑怯(ひきょう)の名を立てられる――そこで道場の大先生が直接にお前と立合をすべく、道場の真中へ下りて来る。
 南竜軒、ここまで聞いて青くなり、堪らないね、お弟子のホヤホヤにだって歯は立たないのに、大先生に出られては、堪らない。
 そこに秘伝がある――大先生であれ、小先生であれ、本来剣術を知らないお前が、誰に遠慮をする必要があるまいもの、いつも祭文でする手つきで、こう竹刀(しない)を構えて大先生の前に立っているのだ。
 それから先だ、そこまでは人形でも勤まるが、それから先が堪るまいではないか、と南竜軒が苦笑する。
 友達殿はあくまで真面目くさって、それからが極意(ごくい)なのだ、そうして立合っているうちに、先方が必ず打ち込んで来る。面(めん)とか、籠手(こて)とか、胴(どう)とかいって、打ち込んで来る。
 南竜軒の曰(いわ)く、打ち込んで来れば、打たれちまうじゃないか、こっちは竹刀の動かし方も知らないんだぜ。
 友達殿曰く、そうさ、打たれたのが最後だ、どこでもいいから打たれたと思ったら、お前は竹刀を前に置いて、遥(はる)か後ろへ飛びしさり、両手をついて平伏し、恐れ入りました、われわれの遠く及ぶところではござらぬといって、丁寧にお辞儀をしてしまうのだ。
 なるほど――
 そうすれば、先方の大先生、いや勝負は時の運、とかなんとかいって、こちらを労(いた)わった上に、武芸者は相見たがいというようなわけで、一晩とめて、その上に草鞋銭(わらじせん)をくれて立たせてくれるに相違ない。芳名録を取り出して先生に記名してもらう。その芳名録を携えて、次の道場を同じ手で渡って歩けば、日本全国大威張りで、痛い思いをせずに武者修行ができるではないか。
「なるほど」
 南竜軒は首をひねって、暫くその大名案を考え込んでいたが、ハタと膝を打って――
 面白い、これはひとつやってみよう、できそうだ。できないはずはない理窟だ。
 そこでこの男はデロレンをやめて、速成の武者修行となる。形の如く堂々たる武者修行のいでたち成って、神戸から江戸へ向けて発足(ほっそく)。
 名乗りも、芸名そのままの山本南竜軒で、小手調(こてしら)べに、大阪の二三道場でやってみると成績が極めてよい。全く先方が、誂(あつら)え通りに出てくれる。一つ打たれさえすれば万事が解決して、至って鄭重(ていちょう)なもてなしで餞別(せんべつ)が貰える。
 そこにはまた、道場の先生の妙な心理作用があって、この見識の高い風采(ふうさい)の堂々たる武者修行者、弟子を眼中に置かず、驀直(まっしぐら)に師匠に戦いを挑(いど)んで来る修行者の手のうちは測り難いから、勝たぬまでも、見苦しからぬ負けを取らねば門弟への手前もあるという苦心が潜むところへ、意外にも竹刀(しない)を動かしてみれば簡単な勝ちを得た上に、先方が非常な謙遜(けんそん)の体(てい)を示すのだから、悪い心持はしない。そこで、どこへ行っても通りがよくなる。
 部厚(ぶあつ)の芳名録には、一流の道場主が続々と名前を書いてくれるから、次に訪ねられた道場では、その連名だけで脅(おどか)される。
 かくて東海道を経て、各道場という道場を経めぐって江戸に着いたのは、国を出てから二年目。さしも部厚の芳名録も、ほとんど有名なる剣客の名を以て埋められた。
 天下のお膝元へ来ても、先生その手で行こうとする。その手で行くより術(すべ)はあるまいが、いったん味を占めてみると忘れられないらしい。事実、こんな面白い商売はないと思っている。
 そうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ来た。
 この三宅という人は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の達人で、旗本の一人ではあり、邸内に盛んなる道場を開いて、江戸屈指の名を得ている。
 そこへ臆面(おくめん)もなく訪ねてきた山本南竜軒。例の二十七貫を玄関に横づけにして頼もうという。門弟が応接に出ると例によって、拙者は諸国武者修行の者でござるが、当道場の先生にもぜひ一本のお手合せが願いたい――これまで各地遍歴の間、これこれの先生にみな親しくお立合を願っている――と例の芳名録を取り出して門弟に示すと、それには各地歴々の剣客が、みな麗々(れいれい)と自筆の署名をしているから、これは大変な者が舞い込んだ、と先生に取次ぐ。道場主、三宅三郎もそれは容易ならぬ客、粗忽(そこつ)なきように通しておけと、道場へ案内させて後、急に使を走らせて門人のうち、優れたるもの十余人を呼び集める。
 そこで三宅氏が道場へ立ち出でて、南竜軒に挨拶があって後、これも例によって、まず門弟のうち二三とお立合い下さるようにと申し入れると、南竜軒は頭を振って、仰せではござるが、拙者こと、武者修行のために国を出でてより今日まで二年有余、未だ曾(かつ)て道場の門弟方と試合をしたことがない、直々(じきじき)に大先生とのみお手合せを願って来た、しかるに当道場に限ってその例を破ることは、この芳名録の手前、いかにも迷惑致すゆえに、ぜひぜひ、大先生とのお手合せが願いたい――と、いつもやる手で、二年余り熟練し切った口調で、落ちつき払って申し述べる。
 そういわれてみると、三宅先生もそれを断わるわけにはゆかない。ぜひなく、それでは拙者がお相手を致すでござろろう。
 そこで、三宅先生が支度をして、南竜軒に立向う。
 南竜軒は竹刀(しない)を正眼(せいがん)につける。三宅先生も同じく正眼。
 竹刀をつけてみて三宅三郎が舌を巻いて感心したのは、あえて気怯(きおく)れがしたわけでもなんでもない、事実、南竜軒なるものの構え方は、舌を巻いて感心するよりほかはないのであった。
 最初の手合せで、しかも江戸に一流の名ある道場の主人公その人を敵に取りながら、その敵を眼中におかず、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)たるその態度。構え方に一点の隙を見出すことができない。
 事実、三宅三郎も、今日までにこれほどの名人を見たことがない。心中、甚だ焦(あせ)ることあって、しきりに術を施さんとして、わざと隙を見せるが、先方の泰然自若たること、有るが如く、無きが如く、少しもこっちの手には乗らない。
 勝とうと思えばこそ、負けまいと思えばこそ、そこに惨憺(さんたん)たる苦心もあるが、最初から負けようと思ってかかる立合には敵というものがない。しかもその負けることだけに二年有余の修行を積んでいる武芸者というものは、けだし、天下に二人となかろう。余裕綽々たるもその道理である。
 この意味に於て南竜軒は、たしかに無双の名人である。
 至極の充実は、至極の空虚と一致する。
 これを笑う者は、やはり剣道の極意を語るに足りない。道というものの極意もわかるまい。
 さて、三宅三郎は、どうにもこうにも、南竜軒の手の内がわからないが、そうかといって、剣術というものは、竹刀を持って突立っているだけのものではない。ものの半時(はんとき)も焦り抜いた三宅氏も、これでは果てしがないと思い切って、彼が竹刀の先を軽く払って面を打ち込んでみた。
「参った!」
 その瞬間、南竜軒はもう竹刀を下に置いて、自分は遥かに下にさがって平伏している。三宅氏は呆(あき)れてしまった。
 事実、今のは面でもなんでもありはしない。面金(めんがね)に障(さわ)ったかどうかすらも怪しいのに、それを先方は鮮かに受取ってしまったのだから、三宅氏が呆れたのも無理はない。呆れたというよりも寧(むし)ろ恥じ入ってしまったのだ。自分がこの大名人のためにばかにされ、子供扱いにされてしまったように思われるから、顔から火の出るほどに恥かしくなった。
「山本先生、ただいまのは、ほんの擦(かす)り面(めん)、ぜひもう一度お立合を願いたい」
 しかるに、相手の大名人は謙遜を極めたもので、
「いやいや恐れ入った先生のお腕前、我々風情(ふぜい)の遠く及ぶところにあらず」
と言って、どうしても立合わない。
「では、門弟共へぜひ一手の御教授を……」
と願ってみたが、先生に及ばざる以上、御門弟衆とお手合せには及ばずと、これも固く辞退する。止むを得ず、三宅氏は数名の門弟と共に、大名人を招待して宴を張る。
 その席上、改めて三宅氏は南竜軒に向い、何人(なんぴと)について学ばれしや、流儀の系統等を相訊(あいたず)ねると――南竜軒先生、極めて無邪気正直に一切をブチまけてしまった。
 これを聞いた三宅氏は胸をうって三嘆し、今にして無心の有心(うしん)に勝るの神髄を知り得たり、といって喜ぶ。

 道庵先生、この型を行ってみたいのだろうが、そうそう柳の下に鰌(どじょう)はいまい。

         二十

 田山白雲は、伝馬町の鱗屋(うろこや)という古本屋の前へブラリとやって来て、
「何か面白い本はないかね」
「左様、面白い本は……」
「面白い本があったらひとつ見せてもらいたい」
「ああ、左様左様、面白いものを少しばかり纏(まと)めて手に入れましたから、お目にかけましょう」
「面白いものを纏めて手に入れたのは結構、見せてもらいたい」
 白雲が腰をかけると、亭主は書物を山のように持ち出し、
「なかには相当に面白いものがございます」
「どれ……」
「古いのには、年一年面白いものが減って参りますのに、新しい方は、なかなか面白いものが出ませんので困ります」
 客が面白い本はないかと言ったので、亭主は面白い本があるという。おたがいに面白ずくで商売をしているようです。
 この時分には現代のように、雑誌学問の青二才までが、興味中心だの、芸術本位だのと、歯の浮くようなことを言わなかった時代ですから、面白いという言語の中には、すべて注目に値するほどのものを包含していたのでしょう。ですから翻訳すると、「何か注目に値する書物はないかね?」「ございます、なかなか掘出し物がございます」という程度の意味のものでしょう。
 されば佐藤一斎の講義が面白かったという場合もあれば、曲亭主人の小説が面白かったという場合もあります。
 白雲がいま求める面白い本というのは、さしあたり着手した洋学の初歩に関する、東洋の美術よりは西洋の美術に関して、何か特殊の知識を与えられるような書物はないかと尋ねた意味でありましょう。
 しかし、亭主の取り出して示した山のような書物は、そういった意味の面白い書物ではありませんでした。
「端本(はほん)が多うございますけれども、これだけ種類を集めますのが骨でございます」
「こりゃ大変だ」
 山の如く持ち出された書物を、白雲は横目に見て、驚いた顔をしたが、手には取ろうとしません。その書物というのは、白雲の求むるところのものとは違って、旧来ありきたりの赤本、黒本、金平本(きんぴらぼん)、黄表紙、洒落本(しゃれぼん)、草双紙、合巻物(ごうかんもの)、読本(よみほん)といった種類のものをこみで一手に集めて来たものらしいから、白雲は、
「こりゃ大変だ」
といって手に触れず、
「洋学の本はないかね、横文字の……」
「へえ、洋学の方でございますか、左様でございます、華英通語はこのあいだ差上げましたかしら……」
「うむ、あれは貰ったよ」
「では、築城と石炭のことを書いた翻訳書が二三冊ございますが……」
「築城と石炭――それは少し困る、何かほかに向うの歴史、風俗、絵のことなどがわかるといったような書物はないかい」
「左様――」
 亭主はあれかこれかと店と書棚を見廻し、
「ここに一冊、唐人往来というのがございます……」
「何だい、それは――」
「この通り写本でございますが、これになかなか、あちらのことが詳しく書いてあって面白いと皆様がおっしゃいます」
「どれ――」
 田山白雲は二十枚綴ばかりの写本を、亭主の手から受取りました。
「唐人往来――誰が書いたんだ」
「どなたがお書きになりましたか、なかなかあちらのことに詳しいお方がお書きになって、出版はなさらずに、こうして写本で、諸方へ分けてお上げになったのでございます」
「江戸、鉄砲洲(てっぽうず)某稿としてある、面白そうだ」
 白雲はそれを買い求める気になりました。
 白雲はその書物を買って来て両国橋の仮寓(かぐう)へ帰り、即日その書物を読みはじめましたが、実に、こんな面白い本はないと思いました。
 彼は面白い本を求めて、求め得たのです――といっても、それは自分の求める西洋の美術知識のことなんぞは一言も書いてはありませんが、僅かの小冊子の間に、西洋というものの輪廓[#「輪廓」はママ]を描いて人に知らしめる上には、こんな、痒(かゆ)いところへ手の届く本はないと思いました。
 なぜ、もっと早く、こんな面白い本を読まなかったのだろう。尤(もっと)も、出版はされず、写本として知人に配布されただけの書物だということだから、今まで自分の眼に触れなかったのも止むを得ないが、いま読んでも、読むことの遅かったのを悔ゆるばかりです。
 第一、その文章からして、従来の漢学臭味(かんがくしゅうみ)を脱している上に、平易明快で、貝原益軒(かいばらえきけん)をもう少し大きく、明るくしたような書きぶりが頭に残ります。
 それにしても著者は何者。署名はなくて、ただ、「江戸、鉄砲洲某稿」としてある。当代に名だたる洋学者の筆のすさびだろうとは思われますが、誰とは当りがつきません。例えばその文章は、
「先年、亜米利加(アメリカ)合衆国よりペルリといへる船大将を江戸へ差遣(さしつか)はし、日本は昔より外国と付合なき国なれども……」
という書出しで、諸外国と交誼(こうぎ)を修し、通商貿易を求めに来(きた)るのを、
「日本国中の学者達は勿論(もちろん)、余り物知りでなき人までも、何か外国人は日本国を取りにでも来たやうに、鎖国の、攘夷(じょうい)の、異国船は日本海へ寄せ付けぬ、唐人へは日本の地を踏ませぬなど、仰山に唱へ触らし、間には外国人を暗打(やみうち)にするものなど出来(いでき)て、今のやうに人気の騒ぎ立つは、ただ内の騒動ばかりでない、斯(か)く人心の片意地なるは世間へ対しても不外聞至極ならずや。元来何の悪意もなく、一筋に異人を嫌ひ、異人が来ては日本の為にならぬと思ひ込みたる輩(やから)は、自分には知らぬ事ながら我が生国(しやうこく)の恥辱を世間一般に吹聴(ふいちやう)するも同様にて、気の毒千万なれば、この人々の為め聊(いささ)か弁解すべし……」
という見識はたしかにその時代の一般はもちろん、学者の頭を抜いている。
 それから、世界の広さを一里坪にして八百四十万坪あり、これを五に分ち五大洲という。その五大洲中ヨーロッパの文明が世界に冠たることを説き、その文明国を夷狄視(いてきし)することの浅見より、支那の覆轍(ふくてつ)を説いての教え方も要領を得ている。
 次に右五大洲中八百四十万坪の中に住む人口をほぼ十億と数え、そのうち、日本人は数およそ三千万あるゆえに、世界中の人数と比例すれば、九十七人と三人の割合に過ぎないという数字も、大ざっぱながら親切で、当時の粗雑にして空疎なる人の頭に、印象を強くしてなるほどと思わせ、
「さて今何(いづ)れの国にもせよ、百人の人あり、その中九十七人は睦(むつま)じく付合往来するところへ、三人は天から降りたるもののやう気高(けだか)く構へ、別に仲間を結んで三人の外は一切交りを絶ち、分らぬ理窟を言ひながら自分達の風に合はぬと畜生同様に取扱はんとせば、それにて済むべきや、先づ世の中の笑はれものなるべし」
も確かに肯綮(こうけい)に当っている。
 それより外国と貿易をすれば、無用の物が殖(ふ)えて、有用の物を取られてしまうという心配の愚なことを解釈し、日本国中の学者先生がたいがい残らず海防策というものを書いて、頭から外国人を盗人に見てかかるの陋(ろう)を笑い、最後には、
「されば地図でこそ日本は、世界の三百分の一つばかりに見る影もなき小国のやう思はるれども、その実は全世界を三十にわりてその一分を押領(おうりやう)するほどの人数を持てる国なり、まして産物は沢山、食物は勿論……」
と土地は小なれども人口の大なることに自信を持たせて、盛んにヨーロッパ文明を取入れることを主張している論旨は闊大(かつだい)にして、精神は親切に、文章は例の痒(かゆ)いところへ手の届くようです。
 田山白雲がその頃では最新版に属する「西洋事情」を読み出したのは、それからまもない時であります。
 前の匿名(とくめい)の写本「唐人往来」も、この新刊の「西洋事情」も、等しく福沢諭吉の著述であることは申すまでもありません。
 当時のすべての階級がこれらの著作によって教えられた通り、田山白雲もほとんど革命的の知識を与えられました。
 白雲思うよう、今まで、多少西洋の翻訳書も見たが、それは兵術家は兵術のために、医者は医者のために、語学者は語学のために著(あらわ)されたもののみで、この人の著作のように、包括的に西洋というものの全部を見せてくれた人はない。しかもその見せてくれぶりが、雲霧を払って白日を示すように鮮かなものである。今までの単に鉛管を引いてタラタラと水を流してくれるに過ぎなかったのが、この人のみが巨大なる鉄管を以て、滔々(とうとう)と滝の如くに日本へ向けて、西洋文明の水を落してくれるようだ。
 田山白雲も、この書物を通して、そぞろに巨人の面影(おもかげ)を認めずにはいられなかったようです。
 事実、幕末明治はあれだけの劃時代の時でありながら、その全体を代表する人物を求める日になると、茫然自失する。
 西郷の功大なりといえども、かれ一人でこの時代を代表すること秀吉の如く、家康の如く、尊氏(たかうじ)の如くありはしない。各藩の各種の人傑、おのおの一人一役を以て王政維新という事業に参加しているまでで、維新が中心となって、人物が主とならないのはあの時代の特色といえる――もし、強(し)いて象徴的に幕末維新というものを代表する巨人を選定せよとならば、そは西郷よりも、大久保よりも、木戸よりも、福沢諭吉が相応(ふさわ)しかろう。
 田山白雲も、そこまでは考えなかったろうが、この巨人が時代の渇望に向ってしかけてくれた鉄管の水の豊富なるに驚喜もし、詠嘆もせずにはおられなかったろうと思われる。
 だがしかし、驚喜も、詠嘆も、するはしたけれど、まだ物足らないところはいくらもある。第一、自分が現在尋ねているこの不可解の西洋画の内容においても、外形についても、「西洋事情」は少しも、説明も、暗示も、与えてくれないではないか。それのみか、このあいだ房州へ行った時、支那の少年金椎(キンツイ)が説いて、駒井甚三郎ほどのものが解釈しきれなかった耶蘇(やそ)の教えというものも、この書物が是とも非とも教えていないではないか――そのほか、白雲はまだ風馬牛(ふうばぎゅう)ではあるが、その耶蘇の教えと並んで、西洋文明の血脈をなしているというギリシャ系統の学問についても、この書物は少しも力を入れていないではないか。
 西洋というものの建物の目下の全体を見せてくれるためには、さほど驚喜すべく、詠嘆もすべき書物でありながら、内容に立入ると物足らないこと夥(おびただ)しい――と白雲はようやくそれに気がつきました。広く知る次には、深く見たいものだと白雲が、望蜀(ぼうしょく)を感じたのはぜひもありません。
 ともかくも、あちらの書物を読まねばならぬ、直接にあちらの書物が読めるようにならなければならぬ――との慾求は、これらの著述を読むことによって、ようやく強くされてゆくことは疑うべくもありません。
 よって、白雲はまた一層の熱心を以て、例の初歩の語学書と首っ引――「華英通語」によって紙をパーペルと知り、絵をピキチュールと知り、絵相師(えそうがき)をポールトレート・ペーヌタル、筆がペンシル、顔がフェース、頭がヘッド、足がフットと覚えて行った程度では満足ができない。
 しかるべき塾へ入門し、しかるべき師につくということは、この種類の人間にはなかなかおっくうなもの――
 ところで白雲が、再び駒井甚三郎のもとへ行こうという気になりました。切支丹を描いて観音に納めるというような註文は本気では聞けないが、とにかく、相当なものを描いて置いて、房州へ押渡ろうという気を起しました。

         二十一

 田山白雲はお角のために、何を描いて与えようかと思案しました。
 頼まれた題目の非常識は、もとより問題ではないが、それでも自分の良心が満足するほどのものを描いて与えなければならぬという義務を感じました。この場合、その題目と出来ばえが、頼んだ人の気に入ろうと入るまいと、自分の力で相応と認めるものをさえ描いて残して置けば、主人の帰りを待つまでもなく、例によって白雲悠々の旅へ飛立つには何のさわりもないことだ。
 さて、何を描こう、選択を自由にすれば、かえって題目の取捨に迷う。
 ともかくも、目標は浅草寺境内(せんそうじけいだい)の額面である。従来のものの中へ割込んで遜色(そんしょく)のないもの、それを頭に置いて、題目の選択にとりかかってみたが、それが案外骨が折れます。
 容斎の向うを張って弁慶でも描こうかしら。それも気が進まない。景清(かげきよ)は、あれは上野の清水堂にある。いっそ趣をかえて江戸風俗の美人画でも写してみようか、では浮世絵の店借(たながり)をするようだ。
 そこで、白雲は再三、浅草観音の額面を実地見学に行きましたが、どうもしかるべき題目を発見することができません。
 ある日の夕方、あれかこれかと考えながら立戻って格子戸をあけると、そこに不意に眼を眩惑(げんわく)されるものを見せられました。
 座敷では今、清澄の茂太郎が踊っているところであります。元禄模様の派手な裲襠(うちかけ)を長く畳に引いて、右の手には鈴を持ち、左の手では御幣(ごへい)を高く掲げながら、例の般若(はんにゃ)の面(めん)を冠(かぶ)って座敷の中をしきりに踊っているところでありました。
 それが白雲の帰ったのに気がつくと、大慌(おおあわ)てに慌てて、鈴を火鉢の隅に置くやら、御幣を神棚へ載せようとするやら、ようやく般若の面を取って、
「お帰りなさい」
 長い裲襠の裾(すそ)を引いたままで挨拶しました。
「茂坊」
「はい」
「もう一度、今の姿で踊ってごらん」
「御免なさい、おじさん、一人であんまり詰らなかったもんだから……」
「いいから、お前、もう一遍、今の姿で……その面を冠(かぶ)って、鈴と、御幣を持って、いま踊った通りに、踊ってわしに見せておくれ」
「御免なさい、もうしませんから」
「そうじゃない、お前のいま踊った姿を、ぜひもう一度見たいんだ、それを絵に取って置きたいと思うんだよ、叱るんじゃない、頼むんだよ」
「じゃ、やってみましょうか」
「やってごらん」
 そこで茂太郎は、再び面を冠って、両手に鈴と御幣とを持ち、裲襠(うちかけ)を長く引いて、座敷いっぱいに踊りはじめました。これを座敷へ上った白雲は、立ちながら目もはなさずに眺め入りました。
 この踊りは、一種不思議な踊りであります。仕舞のようなところもあり、かんなぎのような所作(しょさ)もあり、そうかと思えば神楽拍子(かぐらびょうし)のように崩れてしまうところもあって、なんとも名状のできない踊りだが、それでも、その変化の間に一つのリズムというものがあって、陶然として酔わしむるものがある。
 無論、この不思議な児童の、即興の、出鱈目(でたらめ)の踊り方には違いないが、その出鱈目のうちにリズムがあるから、白雲はかえってそれを、本格の踊りよりも面白いと思いました。
 そうしているうちに、白雲が膝を打って、
「これだ」
と言いました――白雲もまた、最初からこの般若(はんにゃ)の面が凡作ではないと見ていたのですが、この時になってはたと思い当りました。
 これこそ与えられた絶好な画題だ。その不思議な踊り全体のリズムが、人を妙に陶酔の境へ持って行くのみならず、仔細に見ると無心な子供が、大人の長い着物を引きずっているところにまた無限の趣味がある。そうして、鈴と、御幣(ごへい)とを、無雑作(むぞうさ)に小さな両の手で振り翳(かざ)したところに、なんともいえないたくまざるの妙味がある。
 もしそれ、その冠(かぶ)った般若の面に至っては、白雲が日頃から問題にしていた名作で、銘こそないがその作物の非凡なる、どこからどうしてこの少年が手に入れたのか。そうして朝から晩まで、食事の時でも膝をはなさないで大切(だいじ)がっているのが訝(おか)しいほどである。白雲は、いつか、その面を取ってつくづくと、作と年代等を研究してみようと思っていたそれでありました。いま見ると、その名作の面影(おもかげ)がつくづくと人に迫るものがある。
 体のすべてが無我無心に出来ているのに、面そのものだけが、呪(のろ)いと、憎悪(ぞうお)とを集めた、稀代の名作になっている。
 これこそ求めても得られない絶好な画題だ、と白雲が意気込みました。
 この白熱の興味が、ついに白雲をして五日の間に「妖童般若(ようどうはんにゃ)」の大額を完成させてしまいました。その作たる、われながら見とれるほどの出来と見ましたけれど、白雲はそれに愛惜(あいじゃく)するの暇(いとま)を与えずに、早くもここを出立するの用意を整えてしまい、
「茂坊、さあ、今日は房州へ立つんだぞ」
「え、房州へですか、おじさん、今日?」
「そうだよ」
「房州というのは、あのおじさん、鋸山(のこぎりやま)のある日本寺の、お嬢さんのいる房州なの?」
「そうだとも」
「あたいを、その房州へ連れて行ってくれるの、今日!」
「うむ」
「じゃ、あたい、久しぶりで、あのお嬢さんに会えるんだ」
「会わしてやるとも」
「ほんとに夢のようね、おじさん、もしかして清澄のお寺へ入れちまうんじゃない?」
「そんなことがあるものか、さあ行こう」
「ああ、うれしい」
 少年は欣然(きんぜん)として勇み立ちました。
 この出立はむしろ出奔(しゅっぽん)に近い。白雲ほどのものがどうしてこうも慌(あわただ)しいのか、と怪しまれるほどに大急ぎで、絵が成ると共に装いを整え、その場で置手紙を一本書き――その手紙には、二枚の西洋画を特別に大切に保存しておくように書き残しただけで、自分の作のことは書かず。
 最初は茂太郎の手を引いて外へ出たが、少し歩くともどかしそうに茂太郎を取って、自分の背中に背負(しょ)い込んでさっさと歩み去りました。
 江戸橋の岸、木更津船(きさらづぶね)の船つきの場所に茂太郎を十文字に背負って、空を眺めて立つ白雲。
 澄み渡った秋の空に、白い雲が悠々(ゆうゆう)と遊んでいるのを眺めた時は、一味の旅愁というようなものが骨にまでしみいるのを感じました。
 ほんとうに自分こそ白雲そのもののような生涯。
 それでも旅から旅へうつる瞬間には、どうしてもこの哀愁を逃(のが)れることができない。哀愁に伴うて起る愛惜(あいじゃく)の念が、流転(るてん)きわまりなき人生に糸目をつける。
 妻子を顧みないのは、妻子に対して自分の愛惜があり過ぎるからだと白雲は、その時にいつもそう思います。
 愛惜があってはいけない。妻子眷族(さいしけんぞく)にも愛惜があってはいけない。自己の作物にも愛惜があってはいけない。愛惜の一念ほど自由放浪の精神を妨げるものはないと、いつもそれを感じながら、旅から旅を歩いているのであります。
「妖童般若」の図を描き上げて、こうして追い立てられるように出立したのは、自個(じこ)の作物そのものに、また愛惜を感じてはならないと思ったからでしょう。
 白雲は愛惜が自由放浪を妨げるということをよく知っている。それは自分たちの生涯は自由放浪のほかには立場がないと信じているためらしい。
 昔の出家は一所不住といって、同じところへは二度と休むことさえもしなかったそうだが、自分のはそれとは違いこそすれ、愛惜があっては心を自由の境に遊ばせることができない。だから、つとめて愛惜から逃れんがために旅から旅を歩いているところは、一所不住の姿に似ている。
 それほどならば、最初から妻子を持たなければいいではないか。扶養の義務がある妻子を持った以上は、浮世の義理に繋がれて行くの義務があるべきはず。妻子を持って同時に自由放浪に憧(あこが)れるのは、自分はそれでもよかろうが、妻子そのものが堪るまい。白雲は、そればかりは何とも申しわけをすることができない。申しわけが立たずに両頭を御(ぎょ)して行くことは、白雲としてはかなり苦しいことでしょう。白雲もやっぱり天上の雲ではない、地上の人間だ。

 幸いにして、このたびの船路には、お角の時のような災難もなく、駒井と乗合わせた時のような無頼漢もなく、海も空の如く澄み、且つ穏かな船路でありました。
 久しぶりで海に出た清澄の茂太郎、行住座臥(ぎょうじゅうざが)はなさぬ所の般若の面を脇にかかえて、甲板の上を初めはダクを打って歩いていたが、その足がようやく興に乗じて急になる時分に、帆柱の下で馬鹿囃子(ばかばやし)が湧き上りました。
 これは多分、木更津方面の若い衆が、江戸近在へ囃子を習いに来ての帰りか、そうでなければ江戸近在の囃子連が房総方面へ頼まれて行く途中でしょう。
 太鼓は抜きですが、笛とすりがねの音は海風に響いて、いとど陽気な気分を浮き立たせ、船に乗る者、さながら花車屋台(だしやたい)の上にあるような心持になりました。
「おや、ごらんなさい、あの子は踊っているよ」
 見れば艫(とも)の方から、左腕には般若(はんにゃ)の面を抱え、右の手を翳(かざ)して足拍子おもしろく踊りながらこちらへ来るのは、清澄の茂太郎であります。
 吾等笛吹けども踊らず……と誰がいう。
 船の人は総出で、茂太郎の踊りを見に集まりました。
 踊る人が出て来たので、囃し手の弾(はず)むのは自然の道理であります。
 今や、艫の方から踊りながら歩いて来た茂太郎は、甲板の真中まで踊り進んで来ました。船の中の人という人は、みんな集まってこの踊りを見ていますが、茂太郎は恥かしいという色も見せず、さりとて手柄顔もしないで、しきりに踊っています。
 囃子連の喜びは、喩(たと)うるに物なく、囃子にいよいよ油が乗ってくると、踊りもいよいよ妙に入るかと思われる。最初は囃子が人を踊らせたのに、今は踊りが囃子を引立てるらしい。
 興に乗じた船の人は、知るも知らざるも興を催して、手拍子を打ち、あわや自分たちも一緒になって踊り出しそうな陽気になる。
 初めは人が興味を求め、後には興味が人を左右する。
 清澄の茂太郎こそは小金ヶ原での群衆心理を忘れはしまい。
 興味が人を左右して、自分たちはそれを逃るるに、命がけを以てしなければならなかった苦(にが)い経験を忘れはしまい。
 それを忘れない限り、この踊りもいいかげんで切上げることを忘れはしまい。
 古人は、明哲(めいてつ)身を保つということを教える。
 果然! がらりと拍子をかえた茂太郎は、身を翻すと脱兎の如く船底をめがけて駆け込んでしまいました。
 興酣(たけな)わにして踊り手に逃げられた船の客は呆気(あっけ)に取られ、囃子連も張合いが抜けたが、しかし船中の陽気は衰えたというではなく、人々はみんないい心持で酔わされたような気分です。

         二十二

 仏頂寺弥助と、丸山勇仙と、宇津木兵馬とが、相携えて松本の城下へ乗込んだ時、松本の城下は素敵な景気でありました。
 尋ねてみると今日から三日間の「塩市(しおいち)」だということ。なお「塩市」とは何だと尋ねてみると、これにはまた一つの歴史的の由緒(ゆいしょ)がある。
 甲斐(かい)の武田信玄と、越後の上杉謙信とが、この信濃の国で争っていた時分、信玄の背後をうかがう東海道筋から塩を送らない。甲斐も、信濃も、海の無い国。人民これがために苦しむの時、前面の敵、上杉謙信がこれを聞いて、武田に使を送って曰(いわ)く、吾と君と争うところのものは武勇にあって、米塩にあらず、南人もし塩を送らざれば北塩を以て君に供せん――といって価(あたい)を平らかにして信玄の国へ塩を売らしめたというのは、史上有名なる逸話であります。
 信濃の人、その時の謙信の徳を記念せんがために、この「塩市」があるのだという。
 事実は果してどうか知らん。例年は正月の十一日は大法会(だいほうえ)があるはずなのが、去年は諒闇(りょうあん)のことがあったり、天下多事の際、遠慮してこの秋まで延ばされたものらしい。
 そこで、いつものように花やかには執り行われないが、人気というものはかえって、こんな際に鬱屈(うっくつ)するものだから、底景気はなかなか盛んであるらしい。
 その盛んな市中を通り抜けて、浅間の温泉へ行き、兵馬を鷹の湯へ預けておいて、仏頂寺と丸山は城下へ引返し、二人は市中の景気を見ながら、各道場へ当りをつけ、兵馬は温泉場に止まって、その内部を探ろうという手筈(てはず)。
 宿に残された兵馬は、その晩、按摩を呼ぶことを頼みました。
 按摩を取るほどに疲れてもいないけれど、土地の内状を知るには、按摩を呼ぶが近道と思ったのでしょう。
 ほどなく、按摩が来るには来たが、それは眼の見えない男按摩ではなく、目の見える、しかも十四五になる少女でしたから、兵馬も意外の思いをしたが、それに肩を打たせて、さて徐(おもむ)ろにこの温泉場の内状、城下の景気、近頃の泊り客は如何(いかん)というようなことから持ちかけてみると、小娘の按摩は存外ハキハキした返答ぶり。
 特に「塩市」の賑(にぎ)わい隣国に並びなきことと、町の催し、諸国から集まる見世物、放下師(ほうかし)の類(たぐい)、その辺についての説明は委(くわ)しいもの。
 一段と念を入れていうことには、
「今年はちょうど、お江戸で名高い市川海老蔵さんという千両役者が参りました。昨日から宮村座で蓋(ふた)をあけましたから、ぜひ一度ごらんになっておいでなさいまし」
と勧める。そのことならば、仏頂寺、丸山の輩(やから)でさえも噂をしていた。だが、兵馬にとっては芝居どころではない。聞き流しているのを、小娘はいい気になって、海老蔵の偉いこと、千両役者の貫禄の大したものであること、この土地へも千両役者は滅多に来ないということ、果ては、わたしはまだ千両役者というのを一度も見たことがないと、聞かれもしないのに自白するところなどは、抜け目がなく、うっかり口車に乗ろうものなら、たちまち芝居を奢(おご)らせられる段取りになるかも知れない。
 ところで、兵馬は、千両役者にも、芝居にも、いっこう興味を催さないで、近頃のお客に、これこれの客を見なかったかと訊(たず)ねる眼目には、この小娘の手答えが甚だ浅く、いつか知ら役者へ話を引戻してしまう。
 おかしいのは千両役者を見たことがないという口の下から、海老蔵を褒(ほ)めること、褒めること。按摩に来たのではない、役者の提灯持(ちょうちんもち)に来たようなもので、小うるさくてたまらないから、兵馬は追い返してしまいました。
 まあそれ、小娘ばかりを笑ったものではないぞ。
 今の政治家がみんな人気商売の役者と違ったところはない――と京都にいる時、ある志士の慷慨(こうがい)を兵馬は聞いたことがある。
 経綸(けいりん)を一代に行うの抱負が無く、もとより天下を味方にするの徳もなく、また天下を敵とするの勇もない。さりとて巌穴(がんけつ)の間(かん)に清節を保つの高風もない。
 上は公卿(くげ)の御機嫌を伺い、外は外国の鼻息を恐れ、内は輿論(よろん)というもののお気に障(さわ)らないように、そうしてお気に向くような狂言を差換えて御覧に入れようとする。
 このくらいなら寧(むし)ろ蛮勇の井伊掃部頭(いいかもんのかみ)が慕わしい。天下の政治を人気商売として優倡(ゆうしょう)の徒に委するに似たり、と勤王系の志士が冷罵したのを兵馬は覚えている。
 それは天下国家のこと。兵馬の現在は、当分、この地を拠点にとって敵の行方(ゆくえ)を探すのだが、差当っては今に始めぬ滞在の費用問題。不思議なのは仏頂寺と、丸山。金銭の余裕があるべくもない者の身で、ちょいちょい耽溺(たんでき)を試みたり、兵馬の旅費までも綺麗(きれい)に立替えたりしてくれる。これらの輩(やから)はあいみたがい、好意を表したとて有難がらず、受けたとて罰(ばち)も当らない人間と思うから、そのままにしていたが、いつまでそのままにしてもおられまい。
 その辺を思案しながら兵馬は、床の間から刀と脇差を取寄せて拭いをかけて眺め入る。兵馬の刀は国助、脇差には包保(かねやす)の銘がある。これは相生町にいた時分、手に入れたもの。
 ここは松本平で名だたる歓楽の地。今日は城下の本町が大賑わいだから、その反動で、幾分しめやかではあるが、かえって底に物有りそうな宵の色。
 笛や太鼓の響きも聞えれば、音締(ねじめ)も響いて来るし、どうかすると、よいよいと合唱の唄が揚る。それを聞いていると、やはり、塩市の誉れを歌い、謙信の徳を称(たた)えるものであるらしいが、歌詞はさっぱりわからない。
 時々起るその合唱をほかにしては、森(しん)としたもので、空気全体がどこの温泉場も同じように、温かでしっとりしている。その時また、だしぬけに、
天文(てんぶん)二十三年秋八月
越後国春日山の城主
上杉入道謙信は
八千余騎を引率して
川中島に出陣あり
そのとき謙信申さるるやう
加賀越前は父の仇(かたき)
これをほふりてその後に
旗を都に押立てて
覇(は)を中原に唱へんこと
かねての覚悟なりしかど
かの村上が余儀なき恃(たの)み
武士の面目もだし兼ね……
 悲調を帯びたりんりんたる節が聞えたかと思うと、ぴったり止む。
 あれは何だ。詩ではない。浄瑠璃(じょうるり)でもない。相生町の屋敷でよく聞いた琵琶の歌に似て、悲壮にして、なお哀哀たる余韻(よいん)の残るものがある。
 その歌の一節が急遽(きゅうきょ)にして起り、急遽にして止む。
 拭い終った刀を鞘(さや)に納めると、外の通りが騒がしい。
「何だ、何だ、どうしたんだエ、火事でも起ったのかエ」
「火事じゃない、迷子(まいご)だ」
「迷子か」
 今までのは忽(たちま)ちにして起り、忽ちにして消えても、それは音律に協(かな)った音調。今度のは市人が路傍でガヤガヤと騒ぎ出したのです。
「迷子かい」
「迷子ですとさ」
 家並(いえなみ)の人が戸を押しあけて、通りへ飛び出して罵(ののし)る。その中で、
「ちぇッ、おいらの先生が、またいなくなったんだ」
 小焦(こじれ)ったく啖呵(たんか)を切ったその声に、兵馬はどうやら覚えがあります。

         二十三

 その騒ぎがけたたましいのに、その声になんとなく覚えがあるから、兵馬は今しも鞘に納めた脇差を片手に持って、鷹の湯の二階の障子を押し開くと、下の通りは、いまいった通りの戸毎に人が出て、迷子だ、火事だ、と騒いでいる中を走る一人の小者(こもの)、
「おいらの先生がまたいなくなっちゃった――先生、そこいらに泊っていたら言葉をかけておくんなさいな」
 笠を冠(かぶ)っているのを上から見下ろすのだから、さっぱりわからないが、どうもなんだか聞いたような声だと兵馬が思います。
 つまり、件(くだん)の小者が勢いこんで、器量いっぱいの声で、はぐれた連れの者を呼びながら駈けて来たその声に驚かされて、家々の者が出て見たのでしょう。
 ところが、驚かされて出て見た人も、ただそれだけのもので、存外小さな事件と見たから、張合い抜けがしたような思いで、そのあとを見送ってポカンとしているくらいだから、兵馬もそのまま障子を締め、刀と脇差とを以前のところへおいて、さて、これから寝てしまおうと思いました。仏頂寺、丸山は待って待ち甲斐のある輩(やから)ではなし――
 この場はこれで納まったが、納まらないのは、それから行く先々の温泉場の町並。
 例の笠を冠(かぶ)った小者(こもの)が、先生はどこへ行った、先生がまたいなくなった、と喚(わめ)き立てながら駈け廻っているから、だれも、かも、驚かされて出て見ない者はない。何かこの温泉場を根柢からひっくり返す事件でも持上ったかのように飛び出して見ると、件(くだん)の小者。
 それは、子供だろうと思われるほど背が低く、頭には竹の笠を冠って、首には荷物をかけ、手には杖(つえ)をついたのが、跛(びっこ)の足を引きずって、多分、眼中は血走って、そうして、かなりしめやかな歓楽の温泉の町を、ひとりで、騒がせながら飛んで行くのです。
「おい、兄さん、どうしたんだい。何だい、その騒ぎは」
 逗留(とうりゅう)の客で、世話好きなのが差出て聞くと、
「おいらの先生が、またいなくなっちゃったんだよ」
「なに、お前さんの先生がいなくなっちゃったんだって?」
「そうだよ……ちぇッ」
と舌を打って地団駄(じだんだ)を踏んだ人は浅間の人士はまだ知るまいが、これぞ宇治山田の米友であります。
「つまり、お前さんが連れにはぐれたというわけなんだね」
「そうだよ、それも一度や二度じゃねえんだからな、ちぇッ」
 米友が二度舌打ちをして地団駄を踏みました。
 これは、米友が二度舌打ちをして地団駄を踏むのも無理のないことで、またしても、道庵先生が米友を出し抜いて、どこかへ沈没してしまったものと見えます――全く、一度や二度のことではないから、米友としては世話が焼ける。察するところ、善光寺からあんなわけで、松本へ入り込んだ道庵は、今晩は浅間の温泉泊りということを米友にも申し含めておきながら、こんな始末になってしまったものと見える。もとより、こうして家並を怒鳴って歩けば、道庵がこの温泉場に泊っている限り、聞きつけて飛び出すには飛び出すだろうが、道庵ひとりを探すために、温泉場の全体を騒がすのは考えものです。
「兄さん、人を探すんなら探すように、帳場へでも頼んで……いったい、お前のお連れというのは何という宿屋に泊っているんだか、それをいってみな」
 世話好きに訊ねられて、米友が、
「何という宿屋に泊っているんだか、それがわかるくらいなら、こうして怒鳴って歩きゃしねえよ」
「なるほど……それじゃ、お前さんのお連れは何商売で、年は幾つぐらいで、人品は……?」
「商売はお医者さんで、年はもうかなりのお爺さんで、人品は武者修行だ」
と米友がたてつづけに答えました。
 いったい、これはどうしたのだ。尋ねている方が迷子だか、尋ねられているのが迷子だか、わからなくなりました。
 そこへ、またも全浅間の湯を沸かすような賑(にぎ)わいが持込まれたのは、塩市を出た屋台と手古舞(てこまい)の一隊が、今しもこの浅間の湯へ繰込んだということで、遥かに囃子(はやし)の音が聞える、木遣(きやり)の節が聞える。
 そこで、米友をとりまいていた連中も、米友を振捨てて走り出したから、全然閑却(かんきゃく)されてしまった米友。
 果して、今しも城下から練込んだ養老のダンジリ。
 それを若い衆がエンヤラヤと引いて、手古舞、金棒曳きが先を払う。見物が潮のように溢(あふ)れ出す。
 そこで、誰も米友を相手にする者のなくなったのもぜひないこと。
 ダンジリは上方式、手古舞と金棒曳きは江戸前、若い衆は揃い、見物と弥次とは思い思い。
 屋台の上の囃子は鍔江流(つばえりゅう)。
 この練込みの世話焼に、一種異様な人物が飛び廻っている――
「さあ、しっかりやってくんな、何でもお祭りというやつは江戸前で行かなくちゃあいけねえ、女房でも、子供でも、叩き売ってやる意気組みでなけりゃ、江戸前のお祭りは見せられねえ、ケチケチするない箆棒様(べらぼうさま)」
といって屋台の下から、手古舞のところまで一足飛びにかけて来て、
「そこの芸者、いけねえよ、その刷毛先(はけさき)をパラッと……こういう塩梅式(あんべいしき)に、鬼門をよけてパラッと散らして……そうだ、そう行って山王(さんのう)のお猿様が……と来なくっちゃ江戸前でねえ。おい、こっちの芸者、それじゃお前、肌のぬぎ方がいけねえやな、こうだ、同じことでもこういう塩梅式に肩をすべらせると見た目が生きてらあな、それそれ。ちぇッ、そっちの姉さん、お前、花笠をそう背負っちゃあいけねえよ、成田山のお札じゃあるめえし、ここんところをこう七ツ下りに落してみねえな、見た目が粋(いき)だあな。おいおい、そっちの金棒さん、もう少しずしんと、和(やわ)らか味のある音を出してくんな……さあ、提灯(ちょうちん)を、も少し上げたり、上げたり」
といって、また一目散(いちもくさん)に屋台のところまでかけ戻って、
「しっかりやってくんな……冗談(じょうだん)じゃねえよ、大胴(おおどう)がいけねえ、大胴、もう少し腹を据えてやりねえ。笛、笛、もう少し高く……ひょっとこ、ひょっとこ、思いきって手強く……」
 御当人も片肌をぬいでしまって、有合わせた提灯を高く高く振り廻して、屋台の上の踊り方にまで指図する。
 変な親爺(おやじ)が出て来やがった、町内ではあんまり見かけない風俗の親爺だが、かなり気むずかしい親爺らしい。気むずかしいだけに祭礼の故実も心得ているらしい。あんなのには逆らわずに世話を焼かしておく方がいいとでも思ったのでしょう。いくぶん尊敬の意味でいうことを聞いているらしいから、この親爺、いよいよつけ上り、
「さあ、若い衆、拙者が音頭(おんど)を取るから、それについて景気のいいところを一つ……オーイ、ヤレーヨ、エーンヨンヤレテコセー、コレハセー、イヤホーウイヤネー」
「ヤーイ」
 若い衆はわけもなくこの音頭に合わせてひっぱると、親爺、御機嫌斜めならず、
「ホラ、もう一つ、エーヤラエ、ヨイサヨイヤナ、アレハエンエン、アレハエンエン」
「ヨーイ、ヨーイヨーイ」
 この親爺(おやじ)一人でお祭りを背負って立つような意気組み。これぞ、以前の小者(こもの)が尋ね惑うているところの先生であります。
 またしても、あまりの賑(にぎ)やかさに、宇津木兵馬は再び二階の障子をあけて見おろしますと、この通りの景気です。
 その中を、右に左に泳ぎ渡って指図をして歩く変な親爺がある――兵馬は本来、道庵先生とは熟知の間柄で、ずいぶん今まで先生の世話にもなったことがあるのだから、そう見違えるはずはないのだが、いかに道庵先生だからとて、信州の松本までお祭の世話焼に来ていようとは思わず、第一、その頭が違っている。
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