大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         十二

 根岸の御行(おぎょう)の松の下の、神尾主膳の新屋敷の一間で、青梅(おうめ)の裏宿の七兵衛が、しきりに気障(きざ)な真似(まね)をしています。
 がんりきと違って七兵衛は、あんまり気障な真似をしたがらない男でありますが、どうしたものかこのごろは、しきりに気障な真似をしたがる。
 というのは、毎晩、いいかげんの時刻になると、百目蝋燭を二挺までともし連ねて、その下で、これ見よがしに銭勘定を始めることであります。
 金銭や学問は、有っても無いふりをしているところに、幾分おくゆかしいところもあろうというものを、こう洗いざらいブチまけて、これ見よがしの銭勘定を始めたんでは、全くお座が冷(さ)めてしまいます。事実、七兵衛の前に、堆(うずたか)く積み上げられた金銀は、お座の冷めるほど、根太(ねだ)の落ちるほど、大したもので、隣りの千隆寺から持って来たお賽銭(さいせん)を、ひっくり返しただけではこうはゆきますまい。
 近在へ、盗み蓄えて置いたのを、残らずといわないまでも、手に届く限り持ち込んで、ここへこうして積み上げて、銭勘定を始めたものとしか見えません。第一、分量において、お座の冷めるほど、根太の落ちるほど、積み上げられたのみでなく、種類においても、大判小判を初め、鐚銭(びたせん)に至るまで、あらゆる種類が網羅されてあり、それを山に積んで、右から左へ種類分けにして、奉書の紙へ包んでみたり、ほごしてみたり、叺(かます)へ納めてみたり、出してみたりしている。
 それを、また、いい気になってその隣りの一間で、脇息(きょうそく)に肱(ひじ)を置いて、しきりに眺めている人があります。
 これ見よがしに、金銀をブチまけるのも気障だが、人の金銀を涎(よだれ)を垂らして眺めている奴も、いいかげんの物好きでなければならぬ。その物好きは、お絹という女です。
 これは猫に小判ではない、たしかに猫に鰹節ですが、この猫は牙を鳴らして、飛びかかりはしないが、猫撫で声をして、
「七兵衛さん、眩(まぶ)しくってたまらないから、蝋燭(ろうそく)を一挺にしたらどうです」
「へ、へ、へ、いや、これで結構でございますよ」
 見向きもしないで、また新たに小判の包みを一つ、ザクリと切ってブチまけたのは、いよいよ気障(きざ)です。
「小判のようですね」
「へ、へ、小判でございます」
「贋(にせ)じゃあるまいね」
「どう致しまして……小判も、小判、正真正銘の慶長小判でございますよ」
「本当かい」
「論より証拠じゃございませんか、一枚嘗(な)めてごらんなさいまし」
と言って七兵衛が、その小判のうちの一枚を取って、敷居ごしの隣座敷のお絹の膝元まで、高いところから土器(かわらけ)を投げるような手つきで抛(ほう)ると、それがお絹の脇息(きょうそく)の下へつきました。
「お見せな」
 お絹はその一枚を手に取り上げて、妙な面(かお)をして眺めました。
「色合からして違いましょう」
「そうですね」
「それから品格が違います」
「そうかしら」
「これと比べてごらんあそばせ――こちらのは、常慶院様の時代にお吹替えになりました元禄小判でございますよ」
といって、七兵衛はまた一枚の小判を取って高いところから土器を抛(ほう)るような手つきで、お絹の脇息の下まで送りました。
「お見せな」
 それを、また拾い上げたお絹は、花札をめくるような手つきで、以前のと扇子開(せんすびら)きに持ち添えて眺め入ると、
「色合から品格――第一、厚味が違いましょう」
「なるほど」
「時代がさがると、金銀の質(たち)までさがります」
 七兵衛は抜からぬ面で、
「御通用の金銀を見ますと、その時代の御政治向きと、人気が、手に取るようにわかるから不思議じゃございませんか」
と、「三貨図彙(さんかずい)」の著者でもいいそうなことをいう。
「まあ、篤(とく)とごらん下さい。この慶長小判の品格といい、光沢といい、細工の落着いた工合といい、見るからに威光が備わっていて、なんとなしに有難味に打たれるじゃございませんか」
 自分も慶長小判の一枚を取り上げて、さも有難そうに見入ります。
「そういわれれば、そうです」
とお絹も感心したように、慶長小判の色合にみとれている。
「この小判一枚を見ても、権現様(ごんげんさま)の威勢と、その御政治向きのたのもしさがわかるじゃございませんか」
「なるほどね」
「天下をお取りになるには、智仁勇ばかりではいけませんよ、やっぱりお金が無けりゃあね。またよくしたもので、天下をお取りになるような方には自然、お金の運も向いて来るものですからね。権現様はお金持でした……その権現様をお金持にして上げたのは、甲州武田のお能役者で大蔵(おおくら)というのが、これが目ききで、伊豆の北山や、佐渡の金山を開いて上げたのも、あの大蔵というお能役者の働きでございましたよ。この慶長小判の質(たち)のいいのも、つまりその時の手柄で、権現様の御治世には、諸国に金銀の山がたくさんに出来、牛車や馬につけ並べた金銀の御運上がひっきりなしにつづいたそうで、昔の人の話では、佐渡ヶ島は金銀で築立(つきた)てた山で、この金銀を一箱に十二貫目ずつ詰めて、百箱を五十駄積みの船に積み載せ、毎年五艘十艘ずつ、風のいい日和(ひより)を見計らって、佐渡ヶ島から越後の港へ積みよせ、それから江戸へ持ち運ぶ御威勢は大したものだっていいました」
「わたしは、そんな山は、いらないから、お金の実(な)る木がただ一本だけ欲しい」
「へ、へ、一本とは、あんまりお慾が小さ過ぎます、せめて十本も植木屋にいいつけて、おとりよせになってはいかがです……冗談はさて措(お)きまして、こういう質(たち)のいい金銀を、平常遣(ふだんづか)いに、惜気もなく使い捨てたその時代の人は豪勢なものでしたが……この通り、元禄の吹替えになりますていと」
 七兵衛は慶長小判を、そっとかたわらへ置いて、改めて元禄小判といった一枚を手にしましたから、お絹もそれを上置きに直して比べて見ている。七兵衛は得意らしく、
「元禄になって、これをお吹替えになったのは、つまり、お上がお金の質(たち)を悪くして、そのかすりをお取りになろうという腹でした仕事なんですから、ごらんなさい……見たところでもわかりますが、品格がグッと落ち、光沢が落ち、この通り裂け目が出来ています。通用の途中で裂けたり、折れたり……慶長小判には摺(す)りきれてなくなるまで、そういうことはございません。ところで、悪くなりだすと際限がないもので、この元禄小判より、もう少し下等なのが出来てしまいました。ごらんなさい、これですよ。これを乾字金(けんじきん)といいましてね、金の量を思いきり少なくして、銀と銅とをしこたまブチ込んだものですから、見てさえこの通り、情けない小判が出来上っちまいました」
といって七兵衛は、また別の一枚の小判を取って、前と同じように、高いところから土器(かわらけ)を投げるような手つきで、お絹の脇息の下まで送りますと、それを拾い上げて、やはり花札を持つように、三枚持ち並べたお絹。
「だんだん札が落ちてくるのね」
「お金というやつは、悪いやつが出て来ると、いいのが追ッ払われてしまうんですから、無理が通らば道理引っ込むといったようなわけです、時代が悪くなると、いい人間と、いい金銀が隠れて、碌(ろく)でもなしが蔓(はびこ)ります」
 七兵衛は得意になって、正徳(しょうとく)、享保(きょうほ)の改鋳金(かいちゅうきん)を初め、豆板、南鐐(なんりょう)、一分、二朱、判金(はんきん)等のあらゆる種類を取並べた上に、それぞれ偽金(にせきん)までも取揃えて、お絹を煙に巻いた上に、
「なんと、お絹様――金というものは腐るほどあっても、使わなけりゃなんにもなりません」
「それはそうですとも」
「そこでひとつお絹様、あなたのために、家を建てて差上げようと思います」
「結構ですね」
「家を建てるには、まず地所から求めてかからなければなりません。いかがです、恰好(かっこう)なところがありますか。ありませんければ、さし当りこの隣りの地面を買い潰(つぶ)すことに致しまして、左様、ともかく、六百坪、二反歩はなければ、庭も相当には取れません。それを一坪一両ならしと見て六百両……」
 七兵衛は、百両包と覚(おぼ)しいのを六つ、お絹の方へ向けて形よく並べました。
「そこで普請(ふしん)にかかりますが……それが坪三十両に見積って、建坪三十坪、まあザッと千両ですか」
 七兵衛は、また百両包と覚しいのを、前に並べた六百両の上に積み上げました。
「それから庭……これはさしあたって、三百両もかけておいて……」
 女も少なくとも二人は置かなければならない。それから男の雇人と、庭師といったようなもの、それに準じての家財雑具――それをいいかげんに七兵衛が胸算用(むなざんよう)をしては、次から次へと並べてみると、都合三千両ほどになりました。
「いかがです、この辺のところでお気には召しませんか――何しろ、大名や分限(ぶげん)の仕事と違いまして、わたしどものやることですから、この辺がまあ精一杯ですね」
「その辺で結構ですよ、どうも御親切に済みません。御親切ついでにどうでしょう、そのお金をそっくり、わたしに貸して下さるわけにはゆきますまいか」
「お貸し申すつもりで出したお金ではございません、家を建てて、あなた様を住まわせてお上げ申したいためのお金でございます」
「同じことじゃありませんか、どのみち、わたしのために都合して下さる御親切なお金なら、そっくり貸して下すっても同じことでしょう」
「なるほど、御融通する以上は同じようなものですけれど、家屋敷としてお貸し申せば目に見えますけれど、ただお貸し申したんでは目に見えませんからな、そこにはそれ、抵当というものがありませんと」
「野暮(やぼ)なことをいうじゃありませんか、抵当を上げて順当に借りる位なら、何もお前から借りようとはしませんよ」
「これは恐れ入りましたね、わっしどものお金に限って抵当はいらない、ただ貸せとこうおっしゃるんでございますか」
「お気の毒さま、今の身分では、逆さに振っても抵当の品なんぞはありませんからね」
「無いとおっしゃるのは嘘です、嘘でなければお気がつかれないのです。お絹様、あなたは、ちゃんと、その抵当を持っておいでになりますよ」
「え……わたしの今の身で、大金を借り出す抵当がどこにあると思うの」
「ありますともさ、つまり、あなた様の身体(からだ)一つが、立派な抵当になるじゃございませんかね」
「おや、お前は変なことをお言いだね」
「ずいぶん、世間にないことじゃなかろうと心得ます」
「ばかにおしでない、身体を抵当にお金を借りるのは、世間でいう身売りの沙汰(さた)じゃないか、痩(や)せても、枯れても、まだ勤め奉公をするまでには落ちないよ」
「そう悪く取ってしまっちゃ困るじゃありませんか、いつお前様に身売りをお薦(すす)めした者があります、よしんば身売りをお薦め申したところで、失礼ながら、御容貌(ごきりょう)は別として、あなたのお歳では、判人(はんにん)が承知を致しますまい」
 お絹は怫然(むっ)として、
「冗談も休み休み言わないと、罰(ばち)が当りますよ」
「どうも相済みません」
「お前たち、百姓の分際で……」
「まことに相済みません、あなた様は御先代の神尾主膳様御寵愛(ごちょうあい)のお部屋様、とはいえ、金銭は別物でございますから、たとえ、どなた様に致せ、抵当が無くて、金銭を御用立て申すというわけには参りません、お気に障(さわ)ったら御免下さいまし」
 七兵衛はそういいながら、後ろの壁に押付けてあった鎧櫃(よろいびつ)を引き出して来ました。いつの間にか、お賽銭箱(さいせんばこ)が鎧櫃にかわっている。それを引き出して来た七兵衛は、並べた金銀の包みを、次から次へとこの鎧櫃の中へ蔵(しま)いはじめました。
 お絹は、その手つきを冷笑気分で見ていましたが、そう思って見るせいか、七兵衛の金を蔵う手つきまでが堪らなく気障(きざ)です。
「恐れ入りますが、そいつをひとつ……その見本をこっちへお返しなすっていただきましょう」
 ふいと気がついたように七兵衛は、お絹に向って最初に提示した慶長小判をはじめ、見本の金銀を、お絹の手元まで受取りに出ました。
「持っておいで」
 お絹は脇息(きょうそく)の上から、ザラリと金銀の見本を投げ出しました。
 それをいちいち御丁寧に拾い上げた七兵衛、
「あああ、私という人間が、こんなに金を蓄えて何にするつもりなんでしょう、気の知れない話さ、女房子供があるわけじゃなし、妾(めかけ)、てかけを置いて栄耀(えいよう)しようというわけじゃなし、これがまあ本当に宝の持腐れというやつかも知れませんが、金というやつは皮肉なやつで、欲しくないところへは無暗に廻って来るし、欲しいと思うところへは見向きもしない……」
「知らないよ」
 お絹が横を向きました。
「だが、金というやつは、有って邪魔になる奴じゃなし、そばへ置いとくと、いよいよ可愛くなる奴だが、足が早いんで困ります、金銭のことをお足とは、よくいったものさ、捉まえたと思うと、逃げ出したがる奴で、よく世間で、可愛いい子には旅をさせろというが、この息子ばかりは、野放しにしておいた日には締りがつかねえ」
といいながら、七兵衛は、一つ一つ金包を鎧櫃(よろいびつ)の中へ納めます。
「文句をいわないで蔵ったらいいでしょう」
「はいはい」
「どんなに困ったって、わたしは自分の身体(からだ)を抵当にして、お金を貸せなんて決していわないから」
「左様でございましょうとも」
「けがらわしい、早くお蔵いよ」
「これだけの数でございますから、そうは手ッ取り早くは参りません、小さくとも六百坪の地面に、三十坪の一戸だて、火事で焼いたって一晩はかかりますよ」
「いやになっちまうね」
 お絹はじれ出しました。それほどいやならば、この場を立って奥へでも行ってしまえばよいのに、いやになりながら、流し目で、七兵衛の運ぶ金包を眺めている。七兵衛はすました面(かお)で、気障(きざ)な手つきで、相変らず、ゆっくりゆっくりと金包を鎧櫃に蔵い込んでいる。なるほど、この手つきで、まだうずたかい金を蔵い込むには、夜明けまでかかるかも知れない。
 七兵衛も気が知れない男だが、口では早く蔵えの、いやになるのといいながら、それを横目で見て見ない態度(ふり)をしながら、いつまでも坐っているお絹の気も知れない。
「七兵衛さん」
「え」
「覚えておいで」
と言って、不意にお絹が立ち上って奥の方へ行ってしまいますと、そのあとで七兵衛は、鎧櫃のそばへゴロリと横になりました。

         十三

 神尾主膳はこのごろ「書」を稽古しています。これ閑居して善をなすの一つ。
 そこへお絹がやって来て、
「ねえ、あなた」
 殿様とも、若様ともいわず、あなたといって甘ったるい口。
「何だ」
 主膳は法帖とお絹の面(かお)を等分に見る。
「七兵衛のやつ、いやな奴じゃありませんか」
「ふーむ」
 主膳は、サラサラと文字を書きながら聞き流している。
「もう今日で七日というもの、ああやって頑張(がんば)って、動こうともしないで、見せつけがましい金番をしているのは、なんて図々しい奴でしょう」
「ふーむ」
 主膳は同じく聞き流して、サラサラと入木道(にゅうぼくどう)を試みる。
「それで、夜になると、何ともいえないいやな手つきをして銭勘定を始めるのです、昨晩なんぞはごらんなさい……」
 お絹が躍起になる。主膳は入木道の筆を休めて面を上げると、朝日が障子に墨絵の竹を写している。
「他ノ珍宝ヲ数エテ何ノ益カアルト、従来ソウトウトシテ、ミダリニ行(ぎょう)ズルヲ覚ウ……」
と神尾主膳が柄(がら)にもないことを呟きました。けれどもお絹の頭には何の効目(ききめ)もなく、
「昨晩あたりの気障さ加減といったら、お話になったものじゃありません、慶長小判から今時(いまどき)の贋金(にせがね)まで、両がえ屋の見本よろしくズラリと並べた上、この近所の地面を買いつぶして、坪一両あてにして何百両、それに建前や庭の普請を見つもってこれこれ、ざっと三千両ばかりの正金を眼の前に積んで、この辺でお気に召しませんか、お気に召さなければそれまでといいながら、またそのお金を、何ともいえないいやな手つきで蔵(しま)いにかかるところなんぞは、男ならハリ倒してやりたいくらいなものでした」
「ふふん」
と神尾主膳が嘲笑(あざわら)い、
「それほど、いやな手つきを、眺めているがものはないじゃないか」
「だって、あなた、手出しはできませんもの」
「手出しができなければ、引込んでいるよりほかはない」
「なんとでもおっしゃい、引込んでいられるくらいなら、こんな苦労はしやしませんよ」
「ふーむ」
「あなたは、お坊っちゃんね、そうして、のほほんで字なんか書いていらっしゃるけれど、わたしの身にもなってごらんなさい、火の車の廻しつづけよ」
「ふーむ」
「今、外へ出ようったって、箪笥(たんす)はもう空(から)っぽよ」
「ふーむ」
「わたしも、この通り着たっきりなのよ、芝居どころじゃない、明るい日では、外へ用足しに出る着替もなくなってしまってるじゃありませんか。これから先、どうしましょう」
「なるほど」
「なるほどじゃありません、何とか心配をして下さいましな、わたしの酔興ばかしじゃありませんよ、一つは、あなたを世に出して上げたいから」
「それはわかっている。そこでひとつ、俺も足立とも相談をして、何とか動きをつけようとたくらんでいるところだ」
「そんな緩慢なことをおっしゃっている時節ではござんすまい、現在、眼の前にあの通り、金銀の山が転がり込んでいるじゃありませんか、あれをどうにもできないで、指を啣(くわ)えて見ているなんてあんまりな……」
「いけない、ああいうのはいけない、度胸を据(す)えてかかっている仕事には、武田信玄でも手が出せない」
「ホントに焦(じれ)ったい」
 酔わない時は、神尾にもどこか鷹揚(おうよう)なところがある。お絹はそれを焦ったがっている。
「ねえ、あなた、今日は七兵衛の奴が珍しくどこかへ出かけてしまいました、その後に鎧櫃(よろいびつ)が置きっ放しにしてありますから、見るだけでも見て下さい」
「鎧櫃がどうしたの」
「その鎧櫃の中に、見せびらかしの金銀がいっぱい詰め込んでありますのを、置きっ放して七兵衛の奴が、珍しく早朝からどこかへ行きましたから、見るだけ見ておやり下さいと申し上げているのです」
「見たって仕方がないじゃないか、金銀は見るものではなくて使うものだ、使えない金銀は、見たって仕方がない」
「あれだ、あれだから、お殿様は仕方がない――」
とお絹は神尾主膳の膝をつっつきました。酒乱の兆(きざ)さない時の神尾主膳は、つっつきたくなるほどに気のよく見えることもある。
「仕方がないったって仕方がない――無い袖は振れないから」
「有り過ぎるのです、鎧櫃の中には、金銀のお銭(あし)が有り過ぎて唸(うな)っているじゃありませんか。天の与うるものを取らざれば、禍(わざわい)その身に及ぶということを御存じはありませんか」
「ははあ、天の与うるもの……」
 主膳は、うんざりして、もう入木道をサラサラとやる元気もないらしい。
「つまり、わたしたちに使わせたいと思って、七兵衛の奴が、ああしてもち運んで来たものでしょう、それを使ってやらなければ、あなた、冥利(みょうり)に尽きるじゃありませんか」
「だから、お前の知恵で、いくらでも引出して、お使いなさい」
「けれども、相手が悪いから、わたしの知恵ばかりでは、どうにもなりません」
「お前の知恵でやれないことは、拙者にもやれようはずがない」
「三人寄れば文殊(もんじゅ)の知恵とありますから、何とか知恵をお貸し下さいまし、ほんとにひとごとではありますまい」
「いけない、隠すやつなら何とか方法もあろうが、持ち出して見せるやつが取れるものか」
「いいえ、取れます、その道を以てすれば……」
「その道とは?」
「その道が御相談じゃありませんか。まあ、ともかくも、見るだけごらん下さいまし、現在、眼の前にある宝の山をごらんになれば、また別な知恵が出ない限りもありますまい」
「では、まあ、ともかく見に行こう」
 神尾主膳は、とうとうお絹に引きたてられて、七兵衛の籠(こも)っていた座敷へ、廊下伝いに出て行きました。
 それは申すまでもなく、昨晩、百目蝋燭を二つまでともして、七兵衛が金銀の山を築いていた座敷。日中になると、かえって暗澹(あんたん)として、物凄(ものすご)いような座敷。
 この七日間というもの、仕出し弁当を取って頑張っていた七兵衛が、どうしたものか今日は朝から不在。
 この座敷の当座の主人が不在にかかわらず、鎧櫃だけは八畳敷の真中に、端然として置き据えられてある。
 主膳はズッとこの座敷の中へ入り込んで、鎧櫃の傍へ近寄りましたが、お絹はわざと座敷へは入らず、廊下の外に立って、少々気を配っているのは、もしや七兵衛が帰って来たら、と見張りの体(てい)に見えます。
 鎧櫃の上に手をかけてみた神尾主膳。あの百姓め、どこからこんな洒落(しゃれ)た具足櫃を持って来たという見得(みえ)で、塗りと、前後ろと、金具をちょっと吟味した上で、念のために蓋(ふた)へ力を入れてみたが、錠が堅く下りている。ちょっと押してみると手応えが重い。
 果して、お絹のいう通り、これへいっぱいの金銀が詰めてあるとすれば、その量は莫大なものといわなければならぬ。
 女の眼には、無垢(むく)も、鍍金(めっき)もわかりはしない。ただ黄金の光さえしていれば、容易(たやす)く眩惑されてしまうのだ――と主膳は冷笑気分になりました。
 やがて張番していたお絹もやって来て、言い合わしたように、二人が鎧櫃の前後に手をかけて動かしてみたけれど、ビクとも応えません。
 事実、この中へ、いっぱいの金銀が入っているなら――金銀でなく、贋金(にせがね)であっても、これへいっぱい詰められていた日には、一人や二人の手では、ちょっと始末にゆかない。
 この暗澹たる座敷の中で、鎧櫃を前に、二人は顔見合わせて笑いました。
 笑ったのがきっかけで、主膳は手持無沙汰の態(てい)でこの座敷を出かけると、お絹もついて座敷を出る。神尾は以前の居間へ戻ったが、もう法帖どころではない。
 お絹も、そわそわとして落着かない。
 気の知れないのは七兵衛で、この七日の間、夜も、昼も、仕出し弁当で鎧櫃(よろいびつ)の傍に頑張っていながら、今日という日になると、朝から出かけて、正午(ひる)時分になっても、夕方になっても、とうとう夜になっても帰って来ない。
 それを気にしているのは、むしろ神尾主膳とお絹とで、お絹の如きは幾度、その廊下を行きつ、戻りつして、この座敷を覗(のぞ)いて見るたびに、昼なお暗い室内に人の気配はなく、鎧櫃のみがビクとも動かずに控えている。
 それを見るとホッと息をつきながら、また新たに心配のようなものが加わる。
 ついにその夜が明けるまで、七兵衛は帰って来ませんでした。七兵衛が帰って来ないでも、鎧櫃の厳然たる形は少しも崩れてはいない。こうなると厳然たる鎧櫃そのものが判じ物のようになって、財宝を残して行った当人よりも、残されて行った他人の方が、心配の負担を背負わされる。
 知らず識らず、神尾と、お絹とは、この鎧櫃の番人にされてしまいました。代る代る二人が見廻りに来る。来ない時は、二人の心が鎧櫃をグルグル廻っている。
 どこへ行ったろう――その翌日も、とうとう七兵衛は帰って来ない。夕方も、夜も。
 主膳とお絹は、またもいい合わしたように、二人が前後から鎧櫃を囲んで、ついにその錠前へ手をかけてみました。手をかけてみたところで、それを壊そうとか、こじようとかするほどの決心ではなく、ただ錠前の締り工合をちょっと触ってみたくらいのところでありますが、その締り工合はまた厳として、許さぬ関(せき)の権威を守っているから、それ以上は手を引くよりほかはない。
 ばかにしている――三日目の夕方まで七兵衛が帰らないので、神尾の堪忍袋(かんにんぶくろ)が綻(ほころ)びかけました。
 この堪忍袋。誰も堪忍袋を要求した者はないはずだが、それでも神尾自身になってみると、相当に気をつかっていたらしい。三日まで七兵衛の音も沙汰もなかったその夕べ、神尾がいらいらしているところへ、お絹が酒を薦(すす)めました。
 酒を薦めて悪いことは知って知り抜いて、それを取り上げているお絹が、たまには、といって一杯の酒を薦めたのが、神尾のこの鬱陶(うっとう)しい気分を猛烈にする。
 一杯――二杯。
 そこでお絹が、七兵衛の奴の、気障(きざ)で、皮肉で、憎いことを説き立てる。つまりああして大金を放り出して、乾ききっている吾々の前へ出しておくのは、吾々のよわみを知って、とても手出しができまいとたかを括(くく)っての仕事だ、金銭は欲しいとはいわないが、その仕向け方が癪(しゃく)じゃありませんか……というようなことを煽(あお)り立てる。
 久しぶりの酒が利(き)いて――無論、まだ酒乱の兆(きざ)す程度には至らないし、またそこまで至らしめないように、そばで加減はしているが、神尾主膳が早くも別人の趣をなして不意に立ち上り、
「よし、目に物を見せてくれる」
 長押(なげし)にあった九尺柄の槍を取って、無二無三に、かの暗澹(あんたん)たる鎧櫃の座敷へ侵入しました。
 主膳が九尺柄の槍を取って、かの暗澹たる鎧櫃の間へ走り込んだのを、お絹は引留めようともせずに、手早く手燭(てしょく)を点(とも)して、その跡を追いかけました。
 槍を取って、件(くだん)の鎧櫃を暫く見詰めていた神尾主膳。
 お絹が差出した手燭の光が、神尾の心を野性的に勢いづけたようです。
「憎い奴、目に物見せてくれる」
 この見せつけがましい鎧櫃一個がこの際、骨を劈(つんざ)いてやりたいほどに憎らしくなる。
「エイ!」
といって、鎧櫃の前の塗板の柔らかそうなところへ勢い込んで槍を立てると、難なくブツリと入りました。
 それを引抜いて、また一槍、また一槍。ブツリブツリと槍を突き込み、突き滑らして後、神尾はホッと息をついて、槍の石突を取り直して、その穴をあけたところをコジて、次に、手をもってメリメリと引裂くと、穴は忽(たちま)ちに拡大する。そこへ突きつけたお絹の手燭の光に、燦爛(さんらん)として目を眩(くら)ますばかりなる金銀の光。
 神尾は槍を投げ捨てて、バラリバラリとその金銀を引出してはバラ撒(ま)き、掴(つか)み出しては投げ散らすものですから、暗澹たる座敷の中が、黄金白銀(こがねしろがね)の花。
 神尾は、燃え立つような眼付をして、手に任せては、金銀を掴み出して、四辺(あたり)一面にバラ撒く。
 一時(いっとき)、その光にクラクラと眩惑したお絹は、ついにその手燭を畳の上へさしおいて、両の手を以て、木の葉の舞う如く散乱する金銀を掻集(かきあつ)めにかかります。
 こうなると神尾主膳の野性が、酒ならぬものの勢いに煽(あお)られて、さながら、酒に魅せられた酒乱の時の本能が露出し、手に当る金銀のほか、包みのままで引出した封金をも、わざと荒らかに封を切って投げ出したものですから、その、燦爛たる光景はまた見物です――大にしては紀文なるものが、芳原(よしわら)で黄金の節分をやった時のように。小にしては梅忠なるものが、依託金の包みを切って阿波の大尽なるものを驚かした時のように――放蕩児(ほうとうじ)にとっては、人の珍重がるものを粗末に扱うことに、相当の興味を覚えるものらしい。神尾主膳も取っては撒き、取っては散らしているうちに、ついに撒き散らし、投げ散らすことに興味が加速度を加えたらしく、狂暴の程度で働き出している。
 お絹もまた、拾えば拾うほどに、集めれば集めるほどに、そのこと自身に興味を煽られてしまっている。ここには、紀文の時のように、吾勝ちに争う幇間(たいこ)末社(まっしゃ)の類(たぐい)もなし、梅忠の時のように、先以(まずもっ)て後日の祟(たた)りというものもないらしい。あったところでそれは相手が違うし、第一、自分が直接の責任者ではなく、いわば神尾を煽(おだて)て骨を折らせ、自分は濡手で掴み取りをしているだけの立場なのだから、お絹としては大放心で、吾を忘れるのも無理があるまい。
 もうこれ以上は――神尾も手が届かなくなった。鎧櫃の底はまだ深い。向うも遠いけれども、コジあけた穴の大きさに限りがあるものだから、そこで手の届く限りは掴み出してしまって、再び穴をくりひろげるか、そうでなければ、櫃を打壊すか、ひっくり返すかしないことには、取り出せなくなったので、神尾が手を休めて見返ると、お絹が拾い集めてはいるが、お絹一人の手では間に合い兼ねて、四辺(あたり)は燦爛(さんらん)たる黄金白銀(こがねしろがね)の落葉の秋の景色でしたから、この目覚しさに、自分のしたことながら、自分のしたことに目を覚して、その夥(おびただ)しい金銀の落葉に眩惑し、現心(うつつごころ)で、その中の一枚を拾い取って見ると、疑う方なき正徳判の真物(ほんもの)……
 その時に廊下で、咳払(せきばら)いがして、人の足音が聞え出す。七兵衛が帰って来たのです。
 その咳払いと、足の音を聞くと、吾を忘れていたお絹が、はっと胆を冷しました。
「あ」
 一方を見返ると、自分たちが開け放しておいたところに、七兵衛がヌッと立ってこっちの狼藉(ろうぜき)を見ながら、ニヤリニヤリと笑っています。
「七兵衛か」
と神尾主膳も槍を手にして、帰って来た七兵衛を見返りながら、てれ隠しの苦笑いです。ただ隠しきれないのは、室内に燦爛たる黄金白銀の落葉の光。
「殿様、ごじょうだんをあそばしちゃいけません、御入用ならば、そのままそっくりお持ち下さればいいに……」
 七兵衛は、いつまでも障子の外から、こっちを覗(のぞ)いてニタリニタリと笑っているばかり。
「七兵衛、天下の財宝を粗末にするな」
と主膳がいう。
 主膳も、多少の酒と、黄金の光に、一時(いっとき)眩惑されて兇暴性を発揮してみたけれど、今宵の酒量は乱に至るほど進んではいず、黄金性の魅惑は、かりにも所有主と名のつく者が来てみれば、幻滅を感じないということもなく、こうなってみると、手にさげている槍までが手持無沙汰で、引込みのつかない形です。
 お絹もまた、室内に燦爛たる黄金の光をいまさら、袖で隠すわけにもゆかず、拾い集めて当人に還付するのも変なもの、ほとんど立場を失った形で、てれきっている。
 第一、所有主そのものが、怒りもしなければ、怒鳴りもせず、外でニタニタ笑っているばかりですから、空気の緊張を欠くこと夥しい。妙な三悚(さんすく)みが出来上って、この室内のてれ加減がどこで落着くか際限なく見えた時、気を利(き)かしたつもりか、お絹の持って来て畳の上へ置いた手燭の蝋燭(ろうそく)がフッと消えました。これは蝋燭が特に気を利かして、この場のてれ加減を救ったというわけでもなく、風が吹き込んで吹き消したのでもなく、慾に目の眩(くら)んだ人間のために顧みられなかったものだから、以前は、相当に寿命のあった蝋燭(ろうそく)も、この際あえなき最期(さいご)を遂げたのであります。
「七兵衛さん、悪い気でしたのじゃないから堪忍しておくれ、殿様の御気性で、ホンの一時の座興なんだから。元はといえば、お前があんまり、ひけらかすから悪いのさ」
 暗くなって、初めてお絹が白々しい申しわけをする。
「なあにようござんすとも、こうしてお世話になっている以上は、何事も共有といったようなものでござんすからね、御入用だけお使い下さいまし、御自由に」
 先夜とは打って変った白々しい気前ぶりを見せた言い方。
 暗い間のバツを利用して、お絹は神尾主膳の手を取って、この座敷を連れ出してしまいました。あとに残された七兵衛、ドッカと胡坐(あぐら)をかいて、ニタニタ笑いがやまない。
 先方は見えないつもり、こちらは暗いところでよく物が見える。神尾の手を引いて、ソッと抜け出したお絹という女の物ごし、散乱した金銀に心を残して出て行く足どり――あの足どりでは、足の裏へ小判の二三枚はくっつけて出たかも知れない。悪い時に帰ったものだ。

 しかし、これが縁になって、その翌日、七兵衛は表向いて神尾主膳に紹介されました。
 うちあけた話になってみると、おたがいに、相当に頼母(たのも)しいところがある。頼母しいところというのは、世間並みにいえば、あんまり頼母しくないところだが、七兵衛は神尾の急を救うために、無条件で鎧櫃の中を融通する約束。今は、先夜お絹にしたような見せつけぶりでもなく、勿体(もったい)もつけず、サラリと投げ出したのは、神尾にとっても、お絹にとっても、頼母しいことこの上なし。
 ところで一つ、七兵衛の方からも、交換条件が神尾に向って提出される。これはお絹の身体を抵当に、なんぞという嫌味なものではなく、七兵衛は七兵衛としての一つの大望(たいもう)がありました。
 その翌日、七兵衛は神尾主膳に向って、自分は盗人(ぬすっと)だということを、大胆に打明けてしまいました。
 主膳も、それを聞いて存外驚かず、大方そんなことだろうという面付(かおつき)。
 盗人ではあるが、自分は質(たち)の悪い盗人ではないと言いだすと、主膳が、世間に質の良い盗人というものがあるのか、と変な面をしました。
 ありますとも……盗人の社会へ入って見れば、質(たち)のいいのも悪いのも、気取ったのも気取らないのも、渋味(じみ)なのも華美(はで)なのも、大きいのも小さいのも、千差万別の種類があるうち、自分は質の良い方の盗人だというと、神尾が笑って、自分で質が良いというのだから、間違いはなかろうと冷かす。
 そこで、七兵衛がいうには、自分の盗人ぶりの質(たち)の良いというのは、盗んで人を泣かすような金は盗まず、盗んだ金を自分の道楽三昧(どうらくざんまい)には使わず……ことに自分は盗みをするそのことに趣味を感じているのだから、盗んだあとの金銀財宝そのものには、あまり執着を感じていない。
 たとえば、ここにこうして古金銀から、今時の贋金(にせがね)まで一通り盗み並べてみたが、これもホンの見本調べをやってみただけのもので、もうそれだけの知識を備えたから、綺麗(きれい)さっぱりとあなたに差上げてしまっても惜しいとは思わない――つまり、盗むことの興味が自分の生命で、盗み出した財物は、楽しみをした滓(かす)だから何の惜気もない――といって神尾主膳を煙(けむ)に捲きました。
 しかし、また七兵衛は真顔になって、自分とても、ほかに何か相当の天分と、仕事をもって生れて来たのだろう、幼少の教育がよくて、己(おの)れの天分を順当に発達さえさせてくれたら、あながち盗人(ぬすっと)にならずとも、他に出世の道があったに相違ないという述懐を漏らします。
「そりゃそうだ、盗人をするだけの才能と、苦心を、他に利用すれば立派なものになる」
と神尾もまじめに同情しました。
 しかし、今となっては仕方がない。自分はこうして盗むことに唯一の趣味を感じていると、盗み難いものほど、盗んでみたいという気になる。
 そこで、一つの大望がある。なんとこの大望を聞いては下さるまいか。
 何だい、その大望というのは。石川五右衛門がしたように、太閤の寝首でもかこうというのかい。
 いいえ、そういうわけではございません、実は――
 七兵衛の大望というのはこうです。
 徳川初期の歴史を知っているものは、家康が金銀に豊富であったことと、その金銀を掘り出すのに苦心したことを知っている。
 そのうち、豊臣家から分捕った「竹流し分銅(ふんどう)」という黄金がある。
 この「竹流し分銅」は一枚の長さ一尺一寸、幅九寸八分、目方四十一貫、その価、昔の小判にして一万五千両に当るということを聞いている。それを徳川が、豊臣から分捕った時には、たしか五十八枚。大坂の乱後、家康が、井伊直孝(なおたか)と藤堂高虎の功を賞して手ずからその一枚ずつを与えたほかには、「行軍守城用、莫作(なすなかれ)尋常費」の銘を打たせて大坂城内へ秘蔵して置いた。
 その後、改鋳のことがあって、四代以来、この分銅へ手をつけ出し、今は残り少なになってはいるが、まだ有るには有ると聞いている。それはどこにあるのか、やはり四代以前の時のように大坂城内に秘蔵されているのか、或いは江戸城の内にもちこされて来ているのか――盗人冥利(ぬすっとみょうり)には、その分銅を手に取って、一目拝むだけ拝んでおきたいものだが、自分にはその所在の当てがつかない――なんと神尾の殿様、誓って、あなたに御迷惑はかけませんが、あなたのお手で、その黄金の所在の点だけがおわかりになりますまいか――それがわかりさえ致せば、自分が一人で行って拝見をして参ります、と七兵衛がいう。

         十四

 その日の夕方、七兵衛の姿は、芝の三田四国町の薩摩屋敷の附近に現われました。
 薩摩屋敷の中では、一群の豪傑連が、その時分、額(ひたい)を鳩(あつ)めて、江戸城へ火をつけることの相談です。江戸城の西丸のどこへ、どういう手段で火をつけるかということ。その先決問題は、どうしたらいちばん有効に江戸城へ忍び込むことができるか。
 かほどの問題も、ここでは声をひそめて語るの必要がなく、子供が野火をつけに行くほどの、いたずら心で取扱われる。
 彼等は関八州を蜂の巣のようにつき乱すと共に、江戸城の西丸へ火の手を上げる、これが天下をひっくり返す口火だと考えているものが多い。
 それに比ぶれば、七兵衛の野心などは罪のないもので、「行軍守城用、莫作尋常費」とある黄金の分銅一枚を見さえすれば満足するのですが、しかし、その苦心の程度に至っては、これらの豪傑に譲らないのみならず、それよりも一層むずかしい仕事になるのは、彼等のは、火をつけて騒がせさえすればよいのだが、七兵衛のは、手に入れて拝まなければならない。
 さて、こうして七兵衛が、三田の四国町の薩摩屋敷の、芝浜へ向いた方の通用門の附近を通りかかった時分、中ではこんな評定(ひょうじょう)をしていたが、塀外(へいそと)の道の両側には夥(おびただ)しい人出。
 今しも、通用門から異種異形(いしゅいぎょう)の一大行列が繰出されて来るのを、黒山のような両側の人だかりが見物している。
 よって七兵衛も、その中に立って、これを眺める。
 何のために、誰がしたいたずらか、今しも薩摩屋敷の中から繰出して来る一大行列は、乞食(こじき)の行列であります。ありとあらゆる種類の乞食が、無数に列を成して通用門から外へとハミ出して来る。その事の体(てい)を見てあれば、不具者(かたわもの)も、五体満足なのも取交ぜて、老若男女の乞食という乞食が、おのおのその盛装を凝らし、菰(こも)を着るべきものは別仕立のきたないのを着、襤褸(つづれ)の満艦飾を施し、今日を限りの哀れっぽい声を振りしぼって、
「右や左のお旦那様……たよりない、哀れな者をお恵み下さいまし」
 門内から吐き出されるこの乞食の行列は、いつまで経っても、尽くるということを知らないらしい。或いは、いったん外へ出て、また一方の門から繰込んでは出直すのかとさえ疑われるが、事実は、やはり出るだけの正味が、門内に貯えられてあることに相違なく、人をして、よくまあ江戸中にこれだけの乞食があるものだと思わせました。
 なお且つ、これら、多数の乞食連のうちには、単に盛装を凝らして、商売ものの哀れっぽい声で、「右や左のお旦那様……たよりない者をお助け下さいまし」を繰返すだけの無芸大食ばかりではなく、なかには凝った意匠で、破(や)れ三味線をペコペコやりながら、
雨の夜に、日本近く、とぼけて流れ込む浦川へ、黒船に、乗りこむ八百人、大づつ小づつをうちならべ、羅紗(らしゃ)しょうじょう緋(ひ)のつっぽ襦袢(じゅばん)…… 大津絵もどきを唸(うな)るのがあるかと思えば、木魚をポクポクやり出して、
そもそもこの度(たび)、京都の騒動、聞いてもくんねえ、長州事件の咽喉元(のどもと)過ぐれば、熱さを忘れる譬(たと)えに違(たが)わぬ、天下の旗本、今の時節を何と思うぞ、一同こぞって愁訴(しゅうそ)をやらかせ、二百年来寝ながら食ったる御恩を報ずる時節はここだぞ、万石以上の四十八館(たて)、槍先揃えて中国征伐一手に引受け、奮発しなさい、チャカポコ、チャカポコ それに負けず、一方にはまた、
菊は咲く咲く、葵(あおい)は枯れる
西じゃ轡(くつわ)の音がする
と唄い、囃(はや)し、おどり狂っているものもある。その千態万状、たしかに珍しい見物(みもの)ではある。七兵衛も呆(あき)れながら飽かず眺めておりました。

         十五

「弁信さん――」
 信州白骨の温泉で、お雪は机に向って、弁信へ宛てての手紙を書いている。
「弁信さん――
お変りはありませんか。わたし、このごろ絶えずあなたのことを思い出していますのよ。誰よりも、あなたのことを。
どうかすると、不意に、枕元で、あなたの声がするものですから、眼を醒(さ)まして見ますと、それは、わたしの空耳(そらみみ)でした。
どうして、わたし、こんなに、あなたのことばかり気になるのかわかりませんわ。
ほかに思い出さねばならぬ人もたくさんありましょうに、弁信さんの面影(おもかげ)ばかりがわたしの眼の前にちらついて、弁信さんの声ばかりが、わたしの耳に残っているのは、不思議に思われてなりません。
それはね、わたしこう思いますのよ、弁信さんはほんとうに、わたしのことを思っていて下さる、その真心(まごころ)が深く、わたしの心に通じているから、それで、わたしが弁信さんを忘れられないものにしているのじゃないでしょうか。こうして、遠く離れていましても、弁信さんは、絶えず、わたしの身の上を心配していて下さる。そのお心が夢にも現(うつつ)にも、わたしの上を離れないから、それで、わたしは、不意にあなたの面影を見たり、声を聞いたりするのじゃないかと思ってよ。
ほんとうに、弁信さん、あなたほど深く人のことを思って下さるお方はありません。それは、わたしにして下さるばかりでなく、どなたに対しても、あなたという方は、しんの底から親切気を持っておいでになる。わたしは、それを、しみじみと感心しないことはありません。
けれども、親切も度に過ぎるとおかしいことがあるのじゃない……思いやりも、あまり真剣になるとかえって、人の心を痛めるような結果になりはしないかと、わたし、よけいな心配をすることもありますのよ。
弁信さん。
わたしがこちらへ来る前に、あなたは、わたしのことを言いました。
『お雪ちゃん、あなたは、もう年頃の娘さんだとばかり思っておりますのに、そういうことをおっしゃるのだから驚いてしまいます。信濃の国の白骨のお湯とやらが、良いお湯と聞いたばかりで、その間の道中がどのくらい難渋だか、そのことを、あなたは考えておいでになりません。また、その難渋の道中を連れ立って行く人たちが、善い人か、悪い人か、それも考えてはおいでになりません。私がここでうちあけて申し上げますと、あなたは、その白骨のお湯へおいでになった後か、その途中で、きっと殺されてしまいます。いきて帰ることはできません』
この言葉が、今でもどうかすると、わたしの胸を刺してなりません。何かの機会(はずみ)に、はっとこの言葉を思い出すと、胸を刺されるような痛みを覚えますが、それでも暫くするとおかしくなって、弁信さんらしい取越し苦労を笑います。
わたしに笑われて、あなたは口惜(くや)しいとお思いにはなりますまい。あなたのおっしゃったのが本当なら笑いごとではありません。
わたしがこうして弁信さんらしい取越し苦労に、思出し笑いを止めることができないのは、わたしにとっては勿論のこと、あなたにも喜んでいただかねばなりません。
弁信さん。
わたしは無事で道中を済まし、無事でこの温泉へ着いて、今も無事に暮していますから御安心下さいませ。
ただし、無事といいますうちにも――道中では怖い思いもしました。またここへ来てからも、いろいろの人と逢い、珍しいものも見たり、聞いたり致しました。
弁信さん。
あなたの安心のために、わたしはこのごろの生活ぶりを、逐一(ちくいち)記してお知らせ致したいと存じます……」
 ここまで筆を運んで、お雪はほつれかかる髪の毛を撫でました。お雪はこのごろ、髪を洗い髪にして後ろへ下げて軽く結んでいる。自分もこの洗い髪がさっぱりしていると思うし、人もまた、お雪ちゃんには似合っていると褒(ほ)めもする。山中、外出の機会もなし、慣れてしまえば誰も、それを新しい女だといって誹(そし)るものもありません。
「外へ出て見ますと、周囲の高い山から、雪が毎日、下界へ一尺ずつ下って参ります。やがてこの雪が、山も、谷も、家も、すっかり埋(うず)めてしまうことでしょうが、まだ、谷々は、紅葉の秋といっていいところもありますから、お天気の良い日は、わたしは無名沼(ななしぬま)のあたりまで、毎日のように散歩に出かけます。
温泉の温かさは、夏も、冬も、変りはありません。このごろ、わたしは一人でお湯に入るのが好きになりました。一人でお湯に入りながら、いろいろのことを考えるのが好きになりました。
大きな湯槽(ゆぶね)が八つもありまして、それぞれ湯加減してありますから、どれでも自分の肌に合ったのへ入ることが自由です。真白な湯槽、透きとおるお湯の中に心ゆくまま浸(ひた)っていると、この山奥の、別な世界にいるとは思われません。
昨日も、そうして、恍惚(うっとり)とお湯に浸(つか)っていると、不意に戸があいて、浅吉さんが入って来ましたが、私のいるのを見つけて、きまり悪そうに引返そうとしますから、
『浅吉さん、御遠慮なく』
と言いますと、
『ええ、どうぞ』
と、取ってもつかぬようなことをいって、逃げるように出て行ってしまいました。
なんて、あの人は気の弱い人でしょう。このごろになって、一層いじいじした様子が目立ってお気の毒でなりません。
全く、あの人を見るとお気の毒になってしまいます。死神にでも憑(とりつ)かれたというのは、ああいうのかも知れません。このごろでは、力をつけて上げても、慰めて上げても駄目です。人に逢うのを厭(いや)がること、土の中の獣が、日の光を厭がるように恐れて、こそこそと逃げるように引込んでしまいます。
それにひきかえて、あのお内儀(かみ)さんの元気なことは――お湯に入っているところを見ますと、肉づきはお相撲さんのようで、色艶(いろつや)は年増盛(としまざか)りのようで、それで、もう五十の坂を越しているのですから驚きます。
『あの野郎、もう長いことはないよ』
というのは多分浅吉さんのことでしょう。お内儀(かみ)さんは、浅吉さんを連れて来て、さんざん玩具(おもちゃ)にして、それがようやく痩せ衰えて行くのを喜んで眺めているようです。
浅吉さんていう人も、なんて意気地がないのでしょう。
全く意気地無し――といっては済みませんけれど、ほんとうに歯痒(はがゆ)いほど気の弱い人です。お内儀さんは、浅吉さんを、こんな山の中へ連れて来て嬲殺(なぶりごろ)しにしているのです。そうしてその苦しがって死ぬのを、面白がって眺めているのだとしか思われないことがあって、私は悚然(ぞっ)とします。それでも、付合ってみると、お内儀(かみ)さんという人も、べつだん悪い人だとは思われず――浅吉さんもかわいそうにはかわいそうだが、お内儀さんも憎いという気にはなれず、わたしは、知らず識らずそのどちらへも同情を持ってしまうのです。一方がかわいそうなら、一方を憎まねばならないはずなのに――それとも、二人とも、別に悪いというほどの人ではないのでしょうか。また、わたしの頭が、こんがらかって、善悪の差別がつかないのでしょうか。
わからないのは、そればかりじゃありません。浅吉さんは、あれほど、お内儀さんから虐待を受けながら、お内儀さんを思い切れないんですね。無茶苦茶に苛(いじ)められて、生命(いのち)を□(むし)り取られることが、かえってあの人には本望なのか知らと思われることもありますのです。ですから、わたしには、うっかり口は出せません。夫婦喧嘩の仲裁は後で恨まれると聞きましたが、あの人たちは夫婦ではありませんけれども、悪い時は死ぬの、生きるのと、よい時はばかによくなってしまうのですから、わたしは、障(さわ)らないでいるのが無事だと思っています。
ですけれども、そうしているのは、わたしが、あのお内儀さんに加勢して、浅吉さんを見殺しにしているかのように思われてならないこともあります。
弁信さん。
こんなことを、あなたに書いて上げるんじゃありませんけれど、あなたが、わたしのために言って下すったことが、わたしの身の上でなくて、あの浅吉さんという人の身の上にかかっているような気持がしてならないものですから、つい、こんなことを書く気になってしまいました。
前に申し上げる通り、わたしは道中も無事、ここへ来てもほんとに幸福の感じこそ致せ、殺すとか、死ぬとか、そんないやなことは、わたしの身の廻りには寄りつきそうもありませんのに、あの浅吉さんという人には、最初から、それがついて廻っているようです。かわいそうでなりませんけれど、いま申し上げたようなわけで、力になって上げる術(すべ)がありませんのよ。
今日も、朝からお天気がいいものですから、わたしは一人で、小梨平を通り、低い笹原を分けて無名沼(ななしぬま)へ遊びに参りました。
その途中、硫黄ヶ岳の煙と、乗鞍ヶ岳の雪とが、わたしの足を留めました。
火を噴(ふ)く山から天に舞い上る大蛇(おろち)のような煙。高い山の雪の日に輝く銀の塔を磨いたような色。浅緑の深い色の空気。それから密林の間を下って無名沼のほとりに来て見ますと、いつも見る水の色が、今日はまたなんという鮮(あざや)かでしたろう。
どうして、こんなに無名の沼が、わたしを引きつけるのでしょう。わたしは天気さえよければ、毎日この沼を訪れないという日はありません。それは、やがて雪が谷を埋め尽す時分になっては、一寸(ちょっと)も戸の外へ出ることができないから、今のうちに外の空気を吸えるだけ吸い、歩けるだけの距離を歩いておくという自然の勢いが、わたしをこうして軽快に外へ出して遊ばせるのかも知れません。
それにしても、無名沼(ななしぬま)は、わたしを引きつける力があり過ぎます。
わたしは踊るような足取りで、沼のほとりを廻って、離れ岩のところまで参りました。
前にも申し上げた通り、今日の沼の色の鮮かさは格別に見えました。
ごらんなさい、水底には一面に絹糸を靡(なび)かしたような藻草(もぐさ)が生えているではありませんか。その細い柔らかな藻草の上に、星のような形をした真白な小さい花が咲いて、その花だけが、しおらしい色をして、水の上に浮び出しているではありませんか。
どこからともなく動いて来る水。多分、この、わたしが立っている離れ岩の下から、湧いて流れ出して来るのかも知れません。それが、じっと見ていなければわからないほどの動きで、その白い米粒のような藻の花を動かしているのです。見ていると、どうしても、その花が可愛い唇を動かして、わたしに話しかけているとしか思われないので、わたしも、つい、
『お前は何ていう花』
と訊(たず)ねてみましたが、その時、わたしは、ほとんど人心地を失うほどに驚いてしまいました。その白い藻の花の中に絡(から)まって、人間の屍骸(しがい)が一つ、仰向けに沈んでいるのです。なんという怖ろしいこと。
『ああ、人が殺されて、この水の底に沈んでいる、誰か来て下さい』
と声を限りに叫ぼうとしましたが、その瞬間に気がついて見ますと、何のことでしょう、それは屍骸でも、人の面(かお)でもありません、わたしというものの姿が、藻の花の間の水に映っていたのです。
あまりのことに拍子抜けがして、自分ながら呆(あき)れ返ってしまいましたけれど、それでもわたしの頭に残った今の怖ろしさが、全く消えたのではありません。
それから、何ともいえないいやな気持になって、あれほど好きな無名沼(ななしぬま)を逃げるように帰って来ました。
明日(あした)からは、たとえ、どのような、よい天気でも、あの沼へ行くことをやめようと思いながら。

弁信さん――
わたしは、その無名沼から逃げ帰る途中、あの低い笹原のところまで来ますと、ばったりと浅吉さんに行き逢ってしまいました。
『浅吉さん、鐙小屋(あぶみごや)ですか』
と、わたしが訊ねますと、浅吉さんは何とも返事をしないで、すうっと通り過ぎてしまいました。
多分、沼の近所にある鐙小屋の神主さんのところへ、あの人たちはよく出かけるそうですから、わたしが、そういって訊ねてみたのに、浅吉さんは一言の返事もせずに通り過ぎてしまったものですから、わたしも気になりました。気のせいか知ら、今日のあの人の顔の真蒼(まっさお)なこと。いつも元気のない人ではありながら、今日はまた何という蒼(あお)い色でしょう。まるで螢の光るように、顔が透き徹っていました。だもんですから、わたしは、あんまり気になって振返って見ますと、おや、もうあの人はいないのです。そこは笹原がかなり広く続いたところであるのに、いま通り過ぎたと思った浅吉さんの姿が、もう見えないものですから、わたしの身の毛がよだちました。
でも、急いで、あの林の中へ入ってしまったのだろうと、わたしも暫く立ちどまって、林の方を見ておりましたが、不安心は、いよいよ込み上げて来るばかりです。
あの人は、いつぞや林の中で縊(くび)れて死のうとしたのを、わたしが見つけて、助けて上げたことがあるくらいですから、もしやと、わたしは、堪らないほどの不安に襲われましたけれども、その時は、どうしたものか、あとを追いかけて安否を突き留めようとするほどの勇気が、どうしても出ませんでした。
無名沼(ななしぬま)の水の面影(おもかげ)といい、今の浅吉さんの蒼い色といい、すっかり、わたしを脅(おびやか)して、たとえ一足でも後ろへ戻ろうとする力を与えませんのみならず、先へ先へと押し倒されるような力で、宿まで走って参りましたのです。
宿へ帰って見ると、ここはまたなんという静けさでしょう。渓谷の間を曲って来る日の光というものは、こうも明るく、澄み渡るものかと思われるばかり。障子も部屋の隅々も、わたしのこの手紙を書いている机の上の、紙も、筆も、透き徹るほど明るく澄み渡っています。

弁信さん――
今日の手紙はこのくらいにしておきましょう。けれども、これがあなたのお手元まで着くのはいつのことだか知れないわね。それでも、勘のいいあなたは、わたしがここで筆を運んでいることを、もう、頭の中へちゃんと感じておいでなさるかも知れないわ。
茂ちゃんを大事にして上げてください。あの子は、よく独(ひと)り歩きをして、山の中へでもなんでも平気で行ってしまうから、わたし、それが案じられます。遠く出て遊ばないように、よく弁信さんの吩咐(いいつけ)を聞いて、来年の春、わたしたちが帰るまで、おとなしくお留守居をしていて下さいって――よくいって聞かせてあげて下さい。
では、今日は、これで筆を止めて、わたしは、これから下へ参ります。下の大きな炉の傍で、これから学問が開かれるのです。池田先生が歌の講義をして下さるのに、また新しく俳諧師の先生がおいでになって、面白い話をして下さいます。それが済むとみんなして世間話、山の話、猟の話などで、炉辺はいつでも春のような賑(にぎや)かさです。
弁信さん。
ではお大切(だいじ)に。
あ、まだ申し残しました。お喜び下さい、あの先生の眼がだんだんよくなりますのよ。
厚い霞(かすみ)が一枚一枚取れて、頭が軽くなるようだとこの間もおっしゃいました。
弁信さん、あなたはこの世界は暗いものと、最初からきめておいでになりますのに、あの先生は、暗いのがお好きか、明るくしたい御料簡(ごりょうけん)なのか、わたしにはさっぱりそれがわかりません」

         十六

 その翌々日、お雪はまたあわただしい思いで筆を執(と)りはじめました。
「弁信さん――
前の手紙をまだ、あなたのところに差上げる手段もつかないうちに、わたしはまた大急ぎで、継足(つぎた)しをしなければならない必要に迫られました。
先日の手紙にありましたでしょう――わたしが、無名沼(ななしぬま)から帰る時に、低い笹原の中で浅吉さんにゆきあったことを。そうして、わたしが言葉をかけたのにあの人は何の返事もなく、螢のような真蒼(まっさお)な面(かお)をしてゆきすぎてしまったことを。
あれから今日で三日目です。浅吉さんが帰りません――いいえ、帰りました。帰りましたけれど驚いてはいけません、あの人は、とうとう死んでしまいましたのよ。
それが、どうでしょう、ところもあろうに、あの無名沼の中で……捜して引き上げて来た人たちの話によると、まあ、わたし、どうしていいかわからなくなります。丁度、わたしが立っていた離れ岩の下の、絹糸のような藻の中に、浅吉さんの死体が、絡(から)まれて、水の中へ幽霊のように、浮いたり、沈んだりしていたということです。
ああ、それでは、わたしが人の死骸と思ったのは、あの人が沈んでいたのではないか、わたしの見たのは、自分の影が映ったと見たのが誤りで、最初、驚かされた幻(まぼろし)のような姿が、かえって本当ではなかったでしょうか。わたしは今、自分で自分の頭がわからなくなりました。
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