大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「どうです、宗舟先生、この温泉気分は絵になりませんかな」
「ならないどころですか――絶好の画材ですよ」
「南画ですか」
「いや、南画とも違いますね」
「では、呉春張りの四条風にでも写しますかね」
「あれより、もう一層、軽いところがいいですね」
「では近代の鳥羽絵」
「ああなっても少しふざけ過ぎます、まあ、夜半亭と大雅堂の合(あい)の子といったようなところで、軽く刷いてみておりますがね」
「おやおや、もう制作におかかりですか」
「もう最初からとりかかっておりますよ、白骨絵巻といったようなものを目論(もくろ)んでおりましてな、この宿の冬籠りの皆さんを中心に、白骨の内外を取りまぜて、一巻の絵巻物にしつらえようと、実はひそかに下絵に取りかかっておりました」
「それはそれは、お手廻しの早いことで……さだめて結構な土産物が出来ましょう」
「只今、暇を見ては下図調べにかかっておりますが、いよいよ本図にかかりましたら、良斎先生にひとつ序文を願って、柳水宗匠に跋句(ばっく)を書いていただき、それから皆さん方に一筆ずつ賛をのせていただきたいと、こう思っております」
「ははあ、それは至極好記念でございますが、また一方から申しますと、宗舟画伯きわめてお人が悪い、さだめて我々が行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のだらしのないところを、いちいち実写にとどめて、後世にまで抜き差しのならないことにたくんでお置きなさる、我々はいつのまにか宗舟画伯に生捕られて、画伯の名を成すために、後世に恥をのこさねばならぬ」
「いや、どういたしまして、あなた方の超凡なお動静に、朝夕親炙(しんしゃ)いたしておれば、宗舟平凡画師も、大家の企て及ばぬ自然の粉本(ふんぽん)を与えられるの光栄に接したというものです、筆はからっぺたでも、白骨絵巻そのものの名が妙じゃごわせんか」
「妙、妙、白骨絵巻一巻、古(いにし)えの餓鬼草紙あたりと並んで後世に残りましょう。今も言っていたところです、思わないところで、思いがけない人が集まるもので、集まるほどの者がいずれも一風流でござんすから、願わくば洩るることなく筆に残して置いていただきたいものです、面(めん)はみんな揃っておりましょうな、着到洩れはござんすまいな」
「ええ、その以前は知らず、やつがれがここへ加入させていただいてから以来の面(かお)ぶれは、一つとして逃(のが)しは致さぬつもりでございます」
「重畳重畳(ちょうじょうちょうじょう)――では、良斎はじめ我々一座の面ぶれは勿論のこと、あの一座の花と呼ばれたお雪ちゃんも」
「もとよりです、あの子の立ち姿から、坐ったところ、火熨斗(ひのし)を持って梯子段ののぼり下り――浴槽の中だけは遠慮しまして、ちょっと帯を解いて、この浴室の戸をあけた瞬間の姿はとってあります」
「なるほど――では、あの仏頂寺なにがし、丸山なにがしといったほどの浪人も」
「ええええ、傍若無人に炉辺にわだかまったところを描いてあります」
「その最後に姿を見せた、前髪立ちの若いさむらいも……」
「あの方のは、上り端(はな)で草鞋(わらじ)を取っておりますところと、病気で行燈の下に休んでいるところとを取りました、それから昨日は、品右衛門爺さんが蕎麦餅(そばもち)を食べているところを……」
「素早いもんでございますな。では、あの、何て言いましたか、昨今見えたあの、そうそう弁信さん、あのお喋(しゃべ)りの達者な坊さんも……」
「それですよ、それだけがまだ描いてないんです、あんまり不思議な人物ですから、描きたいところが多くて、横になっているところを描こうか、縦になっているところにしようか、それともあの通り、のべつに喋っているところがいいか、黙って控えて沈みきって首低(うなだ)れたところをつかまえてやろうかと、構図に苦心しているうちに、とうとう機会を逸して、まだ着手いたしません」
「まだ、当分こっちにいるでしょうから、機会はこのさきいくらもありましょう」
「それともう一つ、お雪ちゃんという子に連れの兄さんが一人いるとか聞きましたが、病気でちっとも顔を見せないものですから、これもとうとううつし損ねてしまいました。弁信さんの方はまた機会がありましょうが、あのお雪ちゃんのお連れの人は、もう永久に写生の機会を逸してしまったかと思うと残念に堪えられません」
「北原君が会っているはずですから、あの人に聞いて写してみてごらんなさい」
「そうでもしようかと思っているところです」
 三人がこんな問答をしている時に、一方の明り取りの窓に張った紙の破れのところが、急にすさまじい音を立てて、バタバタしたものですから、三人は驚いて、その明り取りの高い窓を仰ぐ途端に、パッと眼前に飛び下りて浴槽の隅に羽ばたきをしたものがあります。それは雪に食を奪われた野鳥山禽の類(たぐい)が紛れ込んだかと見ると、そうではなく、一目見て三人が、
「鳩だ、北原君愛育の伝書鳩だ」
と気がつきました。
「だが、少しおかしい」
 特に念入りに、その見知り越しの鳩に注意の眼を注いだのは池田良斎でした。
「宗舟さん、済みませんが、その鳩をちょっと見て下さい」
「どうしましたか」
「あなたは御職業柄、観察が細かいに相違ない、北原君愛育の鳩についても、特別に見覚えがなければならない」
「よく見ておりますよ」
「たしか、五羽いましたね」
「ええ、五羽でした」
「その五羽のうちを、今朝出立にあたり、北原君が二羽だけ懐中して行ったはずです」
「その通りです、高山に着いたなら、早速に手紙をつけて放ち返すからとおっしゃいました」
「そうしてあとの三羽は、村田君が北原君に代って監督していたはずです」
「それに違いありません、一号と二号だけを北原さんが持って行きましたから、三、四、五がこちらに残っているはずです」
「仕方がないな、村田君、頼まれものだから一層用意周到に監督すればいいのに、こんなところに舞い込ませるようでは、あとを猫か、いたちに御馳走してしまわねばいいが」
「それもそうですね」
 こう言いながら宗舟は、手拭片手で流しの隅っこへ行って、無雑作(むぞうさ)にその鳩を取捕まえて、ちょっと仔細に眺めていたが、面(かお)の色を曇らせ、
「おかしいですよ」
「どうして」
「良斎先生、これはたしかに、北原さんが今朝持って出た第一号の鳩ですぜ」
「え」
「どうしてそれが分ります」
 良斎と柳水とが声を合わせてこちらを向く。
「どうしてといって、あなた、この鳩には、北原さんから頼まれて私がいちいち足のところへ銘を打ちました、銘を打たなくとも、羽と毛の特徴と、気分で、私にはよくわかります。これはたしかに今朝、北原さんが持って出た第一号に相違ありません」
「してみると、北原君がまだ高山へ着いているはずはないのだから、途中から放して返したのだな」
「そうかも知れません」
「そうだとすれば、何か便りが書いてあるだろう」
「私も、そう思って見ましたが、文箱(ふばこ)がありません、どこにも合図らしいものが認(したた)めてはありません」
「してみると、北原君が承知で放したのではなく、鳩が勝手に放れて戻って来たのですな」
「そうとしか思われませんが、そうだとすればいよいよ変です、無意味に鳩を逃す北原君ではなし、鳩もまた、勝手に馴れた人の手から逃げたがるはずはないのですから……」
 その時に、三人の面(かお)に三筋の不安な色が同時に閃(ひらめ)いたのは、もしや! 途中の変事、北原がこの鳩に合図をする遑(いとま)もなく、鳩もまた合図を待つの余裕を与えられざるほどにきわどい場合。それを想像せられないではない。
 池田良斎は浴槽から飛び上って、そうして、あわただしく身体(からだ)を拭いはじめました。
 良斎も、柳水も、宗舟も、相次いで浴槽を出て、それから急に炉辺閑話の席に非常召集が行われてみると、案の如く、残された三羽は村田の手で安全に籠の中に保護されていて、浴室へ紛れ込んだそれは、まさに北原が今朝持参して出て、おおよそ三日の後に手紙をつけて送りかえすといったそれに相違ない、五羽のうちの第一号です。
 当然、良斎が懸念(けねん)したと同様の不安が、北原はじめ一行の上にかけられなければなりません。そのまた当然の行動として、直ちに、その不安を確めるための特使が、この一座のなかから選定せられなければならないはずです。否、選定されるまでもなく、我も我もと志願するものが出て来ました。
 まもなく、山の案内の茂八を先導に、堤、町田の三人のうち、町田は残ることにして、猟師の十太が加わるの一行が早くも結束して、この宿を発足しました。
 この場合に、やはり、普通ならば、弁信も閑却されてはならないのです。北原一行の安否こころもとなしということの知らせは、弁信へも一応、報告がなければならないはずでしたが、どういうものか、この人たちのために全く忘れられていました。忘れられているほどによく眠っていたのです。あれからずっと眠り続け、最初の報告通り、三日間は恩暇で寝通すということが、誰に向っても諒解を得ているのですから、それは差支えないが、とにもかくにも、この場合の不安と憂慮とを、弁信に向っても頒(わか)たなければならないはずなのが忘れられていました。

         九

 熱田の明神の参宮表道路の方面は、あんなように大混乱でしたけれども、その裏の方、南の海へ向った方面は、打って変って静かなものです。
 それというのは、海が見とおせるからのことで、見渡す限りの海のいずれにも黒船を想わせる黒点は無く、夜も眠られないという蒸気船の影なんぞは更に見えないで、寝覚の里も、七里の渡しも、凪(な)ぎ渡った海気で漲(みなぎ)り、驚こうとしても、驚くべきまぼろしが無いのです。
 この時しも、お銀様は飄々(ひょうひょう)として寝覚の里のあたりをそぞろ歩いておりました。お高祖頭巾にすらりとした後ろ姿。悠揚として東海、東山の要路を兼ねた寝覚の里の、旅路の人の多い中を行く女一人を見て、通りすがる人がひとたびは振返らぬはありません。
 それは、お銀様の立ち姿がすぐれて美しかったからでしょう。ことにその後ろ影は、すらりとして鷹揚(おうよう)で、なかなか気品があって、物に動じない落着きもあって、こんなところをともをも連れないでそぞろ歩きするところに、田の面か松原に鶴が一羽降りて来たような風情(ふぜい)がないでもありません。
 年増の女房たちも、若い娘たちも、ひとたびは振返ってお銀様の立ち姿を見ないものはありません。見て、そうして羨望(せんぼう)の色を現わさないものはありません。
 女の美しさを知るのはやっぱり女であるように、女が心から嫉(ねた)みを感ずるのもやはり女であります。本来、女が男を嫉むということは、有り得べからざることなんですが、そういうことがあるのは、男と女との間にまた一個の女がはさまるからです。女は女をとおしてでなければ男を嫉むということはないのですけれども、女は女に対してのみは、全くの直接です。
 お銀様の歩み行く後ろ姿を見て振返る女たちの視線には、みんな多少ともに、羨望と嫉妬とを含まないのはありません。それよりもなお憎いのは、この人が、さほどの羨望と嫉妬を浴せられながら、なお冷々然として、むしろ、そういった同性たちを冷笑しつくすかのように、澄まして取合わない高慢な態度でありました。
 他より羨(うらや)まれ、或いは嫉まれた時に、幾分なりとも、得意なり、慢心なりの色があるうちはまだしおらしい。羨まれ、嫉まれながら、それを冷倒するやからに至っては、全く度し難いものです。重ねて言えば、人間は縹緻(きりょう)を鼻にかけるうちは、まだ可愛らしいものだが、それを頭から抹殺してかかる奴に至っては、悪魔でも誘惑のしようがない。
 お銀様の態度がそれです。おそらくお銀様といえども、人の羨望と嫉視の的になる地位と空気とを、自分が感づかないはずはないのですが、それを刎(は)ね返して進む自分というものをも、自覚していないはずはありますまい。寝覚の里の渡頭(ととう)の高燈籠の下まで来て、そこに立ってつくづくと海を眺めたお銀様の眼には怒りがありました。
 寝覚の里は、すなわち七里の渡しの渡頭であります。七里の渡しというのは、この尾張の国の熱田から伊勢の桑名の浜まで着くところ、古(いにし)えのいわゆる「間遠(まどお)の渡し」であります。上古は畏(かしこ)くも天武天皇が大友皇子の乱を避けて東(あずま)に下り給いし時、伊勢より尾張へこの海を渡られたが、岸の遠きを思いわび給い、間遠なりと仰せられたところから、この名が起ったという。
 近世には、弥次氏と同行喜多君が、ここに火吹竹の失態を演じたという名残(なご)りもある。
 数日以前には、宇治山田の米友が、ここで足ずりをして、俊寛の故事を学んだこともあるのであります。
 今し、お銀様は鳥居前の高燈籠(たかどうろう)の下にとどまって、じっと海を遥かに、出船入船の賑わいを近く眺めて立ちつくしていました。
 お銀様としては、最初からここへ来るつもりではなかったのです――熱田の明神へ参詣して、ずんとお角を出し抜いて、ひとり境内を外(はず)れてしまったのは、例によってのやんちゃな驕慢心がさせたのみではなく、お銀様としては、お角などの予想のつかない目的を持っていたもので、実はこの熱田の宮の附近に、源頼朝の生れたところがある、そこが尼寺になっている――という知識を得たものですから、その尼寺へ行って見たいという気がきざしていたものです――なお、その尼寺に行くということも、女性特有の嘉遯心(かとんしん)のひらめきがさせた業(わざ)ではなく、ある機会から、お銀様の悪女性をそそるところの一つの物語を聞き込んでいたからのことで、そこで、この人は名所歴訪の意味でなく、悪女性の痛快癖から、ひとつその物語のある尼寺というやつを見てやりたい――こんな気勢が、熱田の明神の社頭から、お角さんを蒔(ま)いてしまうという結果となり、ついにはとうとう先方の癇癪玉(かんしゃくだま)を破裂させて、お角さんだけはお先へ御免蒙って、名古屋へ乗りつけてしまうという結果にまで立至らせたのです。
 だが、どちらにしても、このいきさつはもう先が見えているので、熱田へ来れば、名古屋へ来たも同様であり、名古屋へ来れば落着く宿はちゃんと打合せも準備も出来ているのだから、お角さんが癇癪を起してみたところで、ただ一足お先へというだけのもの、お銀様が迷子になってみたところで、迷子札の文字を読みきっていることはお角さん以上であり、ことに、お角さんは癇癪こそ起したけれども、お銀様に対しては一目も二目も置いてかからなければ、どうにも太刀打(たちう)ちのできない相手だということをよく心得きっているから、そこはなかなか食えないもので、癇癪を起して先発する途端に、庄公という若い衆に堪忍役を申し含めて、お銀様の行方(ゆくえ)を追わせているから、どう間違っても、この迷子はつれ戻し先のわかっている迷子です――そうしてかくあるうちに、不幸にしてそのたずぬる物語のある頼朝公の尼寺というのを探し当てる以前に、例の宮前の黒船騒ぎの波動が、お銀様をして前方へ進むことを阻(はば)みましたから、そこは気随のままに反対の方角へ足を向けて来ました。
 足の向いた方、土の調子が、この向いた足の歩み加減に叶う方向へと、そぞろ歩きをして来るうちに、この寝覚の里、すなわち七里の渡しの渡頭へ出てしまったのです。
 土地を踏む前に、その予備知識の吸収に怠(おこた)りのないお銀様が、七里の渡しの名、間遠(まどお)の故事を知らないはずはありますまい。
 表面は目的の変更から、そぞろ歩きのまぐれ当りにこの七里の渡頭へ来てしまったもののようですが、事実これは予定の行動で、問題の物語の尼寺をひやかした後は、当然ここをとぶらい来るべき段取りであったかも知れません。
 来て見れば、名所絵の示す通りの七里の渡し、寝覚の里――
 神戸(ごうど)の通りを真直ぐに左に海中へ突出した東御殿、右は奉行屋敷へ続く西御殿、石をもって掘割のように築き成した波止場伝い、その間にもやっている異種異様の船々、往来(ゆきき)の荷船、物売り船――本船は遠く帆をあげてこちらへ着こうとしている、海岸波止場一帯の賑(にぎ)わい、ことに何物よりも、七里の浜そのものを表示するあの大鳥居と高燈籠。
 この大鳥居は、熱田神宮へ海からする一の鳥居であるか、或いはまた特に海を祭る神への供えか、それはお銀様にもちょっとわからないが、あの高燈籠こそは、寛永の昔成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)が父の遺命によって建立の永代「浜の常夜燈」。滄海(そうかい)のあなたに出船入船のすべてにとって、闇夜の指針となるべき功徳(くどく)。
 この大鳥居と、あの高燈籠、海岸線を引いてこの二つを描きさえすれば、誰が見ても七里の渡船場――寝覚の里になってしまう。
 お銀様は故人の軒下にでもたたずむような、何かしら懐かしい心でその高燈籠の下に立って、渡頭と、そうして海を眺める――
 海の彼方(かなた)は伊勢の国、波の末にかすかにかかる朝熊(あさま)ヶ岳(だけ)。

         十

 東海道を上るほどの人で、「伊勢の国」に有終の関係を持たぬ者は極めて少数である。
 道中は、委細道中気分で我を忘れてふざけきっていた旅人が、七里の渡しに来て、はじめて本来のエルサレム「伊勢の国」を感得する。但しこのエルサレムは、巡礼者の心をして厳粛清冷なる神気を感ぜしむる先に、華やかにして豊かなる伊勢情調が、人を魅殺心酔せしめることを常とする。そうして七里の渡しの岸頭から、伊勢の国をながむる人の心は、間(あい)の山(やま)の賑やかな駅路と、古市(ふるいち)の明るい燈(ともし)に躍るのである。
 神を尊敬する日本人には、神を楽しむという裏面がある。清麗にして快活を好む日本人は、大神の存するところを、厳粛にして深刻なる修道の根原地としたがらないで、その祭りの庭を賑やかにし、その風情に遊興の色を加えることを忘れない。伊勢へ行くということは、日本人にとっては罪の懺悔に行くのでもない、道の修練に行くのでもない、一種の包容ゆたかなる遊楽の気分を持って行くのである。そこに日本人が神を慕う特殊の心情と行動とがある。伊勢参りの憧れは、すべての日本人にとって明るい。
 けれどもお銀様は、その日本人の普通の人が持つような、軽快な気性を以て育てられてはいませんでした。今し、その憧れの伊勢の国をながめている、というよりは睨(にら)んでいるのですが、それは今にはじまったことではありません。お銀様は、いつでも物を見るということはなく、物を睨めることのほかには為し得ない人ですから、当然その眼が伊勢の国へ向いている時は、その心が伊勢の国を怒っている時でなければなりません。だが、お銀様として、何を伊勢の国に向って怒らねばならぬものがありますか。
 数日前、宇治山田の米友という代物(しろもの)が、ここと同じところにいて、出て行く船と伊勢の国をながめて衷心(ちゅうしん)から憤っていたはずですが、それには充分に憤るべき理由があり、また憤りに同情すべき充分の事情がありました。いまだ伊勢の国の土を踏んだことのないお銀様には、そういう理由も、事情も、一切無いはずです。ただ、こうして海を眺めていたいのでしょう。山国に育って、山にのみ護られていたお銀様にとっては、このたびの旅行に於て、海というものが最も驚異の対象となっていることは事実のようです。
 機会があるごとに、海を見たがりました。さればこそ古鳴海の海をもとめて、もとめあぐみ、桑田(そうでん)変ずるの現実味をしみじみと味わわされて、それでもむりやりにその望みを遂げたほどの執拗性がここへ来てもやっぱり海を見たい――単に見たいのではない、見てやりたい、どんな面(かお)をしてわたしに見(まみ)えるか見てやりたい――といった気分がさせる業で、もとより七里の渡しにも、伊勢の国にも、恩も怨みも微塵あるわけではないが、ただ海を見てやりたい――それだけの気紛れなんでしょうよ。
 幸いにして海はいくら見てもいやだとは言わない、見たければまだまだ奥があります、際限なくごらん下さい、とお銀様をさえ軽くあしらっている。山はそうではない、我が故郷の国をめぐる山々、富士を除いた山々は、みんな、こんなとぼけた面をしてわたしを見ることはない。奥白根でも、蔵王、鳳凰、地蔵岳、金峯山の山々でも、時により、ところによって、おのおの峻峭(しゅんしょう)な表情をして見せるのに比べると、海というものはさっぱり張合いがない――
 こうして、お銀様の頭が故郷の山川に向った折柄、不意に、天来の響がその頭上に下るの思いをしました。
「お嬢様、お嬢様」
 朗かな声で二声まで続いて聞えたのは、わが名を呼ぶもの。
 それは、海のあなたの伊勢の山河から来る声でもなく、後ろから我を追手の呼びかける声でもない、そうかといって西の出崎の松、東、呼続(よびつぎ)、星崎(ほしざき)の海から来る声であろうはずもありません。
 その声はまさに、うららかとも言ってよい、わが頭の青天の上から、妙楽(みょうがく)の如く落ちて来たものであることは、お銀様自身がよく心得ていました。ですから、
「なあに」
と、天を仰いでそれを受けとめなければならないほどの現実性をもって、鼓膜にこたえたものです。
「お嬢様、いったいあなたはどちらへいらっしゃる目的なんでございますか」
 その声がまた言いました。
「わたしは知らない」
 お銀様は、またしても、ついついこうあしらわねばならなくされました。
「おわかりでございますか、わたしは弁信でございますよ、わたくしの声はよくお分りになりましょうと存じますが、今、わたくしがどこにいるかということは、到底、あなたにもおわかりになりますまい」
「わたしは知らない」
 この瞬間、確かにお銀様は弁信の呼びかけた声を聞いたのです。だが、それが東西南北のいずれから呼びかけたかということは問題ではありません。お銀様は青天碧落の上を、やや昂奮の気持で眺めておりました。
 その時に、お銀様の眼の中にありありと浮び出でたのは、トボトボと有野村を立ち出でて行くところの、弁信の憐れな姿でなければなりません。
 かの如くして、我と行を共にし、縁を同じうし、ついには家を同じうし、ついには心も行動も投げ出して見せるほどの間柄になりながら、最後の対面の後、あの弁信を送り出す我が眼の中に一滴の涙もなかったことを、いまさら不思議に感じ出したものでもありますまい。
 甲州一番の自分の家を焼き亡ぼしても悔いないお銀様です。肉身を呪(のろ)い滅ぼしてかえって痛快を叫びたいお銀様が、どうして、弁信一人ぐらいが、つこうとも、離れようとも、心にかけるはずがない。
 それがこの時、弁信の姿を思い起した。誰も見送る人もなく、どこを当てということもなく、災後の有野の家を、ひとりトボトボと出た弁信の姿だけを、まざまざとお銀様は天の一方で見出したものです。
 ああ弁信! この時はじめてお銀様は、弁信というものの存在が、自分の生涯の上に不思議の存在であるということを感じたようです。なぜならば、今日まで自分の眼に触れ、耳に聞いているところの人間という人間は、二つの種類しかなかったのです。それは、愛する者と、憎む者の二つしか、お銀様は人間を見ることができませんでした。愛せんとして愛し得ざること故に、すべての人間がみんな憎しみに変ってしまったようなものでありました。
 ところが、弁信はどうです。お銀様自身は、弁信を愛しているとは思わない。弁信がいることによって、特に愛着と煩累(はんるい)とを感じたこともないが、弁信がいないことによっても、なんら自分の愛の生命の一片を裂かれたと感じたことはない。そうかといって、彼を憎んでいない証拠には、自分の家へ連れて来て、永らく生活を共にしていながら、ついぞ彼のお喋(しゃべ)りに干渉を試みたこともないし、彼をわずらわしく感じたこともないので知れる。すでに愛してもいないし、また憎んでもいないとすれば、いったいお銀様は今まで、弁信に対してのみ、どんな待遇を与えていたのか。
 自分ながらそれが今になってわからなくなっているのです。淡(あわ)いこと水の如き存在、薄いこと煙の如き存在が、今、鉄の如くお銀様の胸に落ちて来ようとしました。
 なぜ自分は、あんなに無雑作にあの小法師を逃がしてしまったのか、あのお喋り坊主は真そこ、わたしというものに愛想を尽かして出て行ったものか、但しは、自分の仕打ちが誰にもする例によって、自然、出て行けがしになって、ついに居たたまれずに、あの可憐な小坊主をさえ追い立ててしまったのか。
 なぜに弁信は出て行ってしまったのか、また、どうして自分がああも無雑作に弁信を出してしまったのか、その差別が今のお銀様にはわからなくなってしまいました。
 思い去り、思い来(きた)ると、いよいよ彼の存在が不思議でたまりません。今日までかの小坊主の如く、自分に向って真正面に抗弁をしきった者は曾(かつ)てないのです。親といえども一目を置いているこのわたしというものに向って、たとえ上長たりとも、一言半句、批判の余地と圧迫の行動を許したことはないのに、ひとりあのお喋り坊主のみは、わたしに対して無際限の減らず口を叩いた、あの小坊主の信じているところはいちいち、わたしに真反対でありながら、そうして事毎に論争を闘わしながら、それで、曾てあの小坊主に対して、一微塵ほどもわたしは敵意を抱いたということがないのは、今になって考えると、深重以上の不思議ではないか。といって、未(いま)だ曾(かつ)てあのお喋りに、わたしというものが言い負かされたと感じたこともない。もとよりそう感じなければこそ、彼の上に暴威を振舞うの理窟がなかったのだけれど――そうかといって、また向うが自分の我儘(わがまま)に屈服したとはどうしても感ずることができない、のみならず、彼のお喋りは多々益々(たたますます)弁じて、こちらが反感を起さないと同様に、彼の論難にも曾て、反感と激昂の調を覚えたことはない。
 それが、実は、今のお銀様のゆゆしき不思議な存在でたまらなくなりました。
 嫉妬、排擠(はいせい)、呪詛(じゅそ)、抗争は、いずれ相手があっての仕事である。
 強かろうとも、弱かろうとも、相手は相手である。勝とうとも、負けようとも、相撲(すもう)にもしようとし、相撲にもなると思えばこそである。比較を絶する大きな存在に向っては、嫉妬の施しようがないではないか。排擠の手のつけようがないではないか。呪詛の、呪文の書きようがないではないか。抗争の足場の試みようもない。
 今やお銀様は、弁信という存在が愛すべきものであるや、憎むべきものであるや、自分はまた彼を愛しつつ来たのであろうか、憎んで来たのであろうか、という差別もわからなくなってくると同様に、彼の存在が、徹頭徹尾、自分の相手でなかったということを感ぜずにはおられませんでした。彼が無辺際に大きくして、自分が相手にされなかったとすれば業腹である。そうではない、彼があんまり小さくして弱いものだから、自分の感情の中へ繰込むに足らなかったのだ。
 可憐なる存在物! その名は弁信。暴君としてのお銀様は、こうも評価して弁信を軽く見ようとしたけれど、召使の女の返答ぶりにさえ動揺する自分として、弁信をのみ左様に小さくして、自分が左様に大器であることに見るのは、常識が許しません。
 彼が無制限に喋(しゃべ)り捨てをした冗談漫語の中には、思い返せば、幾多の明珠があったのではないか。いやいや、その全部が、或いは及びもつかぬ偉大なる説教になっていたのではないか。自分はそれを極めて無雑作に取扱っていたまでではないか。極楽世界に棲(す)む子供には、瑠璃宝珠(るりほうじゅ)が門前の砂となっている。
 彼のお喋りの中に、こんなことの覚えがある――すべて感激に価することは、さほど大いなることではありません。我々生きとし生けるものの一刻も無かるべからざる太陽の光、出で入る息のこの大気、無限に流るるこの水――こういうものに対して、その恩恵を誰も感謝するものはないのに、一紙半銭の値には涙を流してよろこぶ。
 偉大なる徳は忘れられるところに存する――というようなことを、あのお喋りが喋って聞かせたことがある。
 十日飢えて一椀の飯の有難さを感ずる心を以て、この大千世界の恩恵に泣けるようになって、はじめて人間の魂が生き返る!
 というようなことをあのお喋りが言っていた。忘れなければいけない、忘れられなければいけない、忘れるところに総ての徳が育ち、忘れられるところにすべての徳が実るのだ――
 こんなことを、あのお喋りがよく言い言いしたものだ。
 もし、そうだとすれば、今までわたしに、一別来の安否をも存亡をも忘れさせていたあのお喋り坊主の存在は、わたしの触れて来た人間のうちの、最も偉大なるものではなかったか?
 そんなことでありようはずがない、そうだとすれば、最も忘れ得られない存在は、最も下等なものとなるのではないか。
 わたしにはそれがあるのよ――憚(はばか)りながらここに至って、お銀様はまた冷笑を以て答えようとしました。
 淡きことは水の如く、薄きことは煙の如き存在に比べて、熱いことは湯のように、重いことは鉛のように、濃いことは血のように、旺(さか)んなることは潮(うしお)のように、今もこうしてわたしの身肉に食い入って、わたしをこんなに浮動させている悩ましいこの存在を、お前は知らないの?
 あの人の身は冷たいけれども、骨は赤い焼け爛(ただ)れた鉄のようです。あの熱鉄が、ひたひたとこの肌に触れ、この身内がその時に焼かれる、あの濫悩、この黒髪がどろどろの湯になって溶ける悩楽を知るまい。幸内が好きだったのは、どうにでもこちらの自由になるから好きだったのだ。あの人のはそうではない。あの人はわたしをなぶり殺しにするつもりで、わたしを弄(もてあそ)ぶから、それで好きなのだ。だから、わたしもその気になって、あの人の骨身を湯のように溶き崩してやるつもりであの人と取組んだ。弁信さん――お前なんぞが知ったことじゃないよ。
 どこへ行こうとわたしの勝手じゃないか。わたしの方でもまた、弁信、お前なんぞが出ようとも、留まろうとも問題にはしていないが、あの人には逢いたいよ、あの人ばっかりは放せない、目の見えない人が好きなのだよ、わたしは……
 お銀様の眼は、やはり天の一方を睨めながら、冷然として、こういって言い返してやったつもりだが、昂奮がおのずから形に現われて、お高祖頭巾がわなわなと慄(ふる)えているのを見る。
 その時に、お銀様の頭脳いっぱいに燃えたったのは、躑躅(つつじ)ヶ崎(さき)のあの九死一生の場面と、染井の化物屋敷でどろどろにもつれ合ったあの重苦しい爛酔、瞑眩(めいげん)、悩乱、初恋は魂と魂とが萌(も)え出づるものだそうだけれども、魂と魂とが腐れ合って、そこから醗酵する快楽!
 それが忘れられない。
 弁信さん、せっかくだけれども、わたしはお前さんのことを考えているのではない、あの人のことを忘れられないでいるのよ。お前さんはどこへ行って、これからまた何をお喋りして歩こうとも、わたしは妨げない、わたしはわたしとして、好きな道を行くんだから、いいのよ。
 だが、それにしては、いったい、今度の旅は何だろう。あのお角という鉄火者(てっかもの)が、父を口説(くど)き落したその口車に自分も乗せられて、つい引張り出されただけの旅ではないか。
 あの鉄火者が、果してどこへわたしを連れて行こうというのだ。あの女に導かれていい気になっているつもりはないが、やっぱり行く先の目的――名所古蹟が何です、それをたずねて生字引になるはずでもないでしょう。山や水がちょっとばかり取りすまして見せたところで、それが何です。英雄だとか、豪傑だとかいう片輪者が、臍(へそ)を曲げたとか、腰をかけたとかいう名所古蹟なんていうものを見て歩いてどうなるのです。変った人間の顔を見たいのなら、二十五座の神楽師(かぐらし)に面揃(めんぞろ)いをさせて見た方がよっぽど手間がかからない――こんな無意味な旅行を、あんな頭の空っぽな女親方を案内にして歩いて、それで自分というものが慰められているほど、わたしというものはお人好しなのかしら。ああ、つまらない! ああ、無意味と索漠を極めた旅というものよ!
 わたしは、極暑のうん気の中に、巣鴨の伝中の化物屋敷の古土蔵の中を閉めきって、針で指を刺したあのどろどろの生活がいいのだが、ああ、その相手がいない、その人は今どこへ行っている、その行方(ゆくえ)を誰が知っている?
 わたしは今、引返して、その人をたずねて、あの苦しみを取戻さねばならない、それにしては出立が違っていた、もう一足も、こんな旅は続けられない。
 お銀様の悩乱と昂奮は、ついにここまで到着しましたけれど、お銀様は米友ではありません。米友ならば、昂奮した時がすなわち行動に移るの時であるけれども、さすがにお銀様にはその余地があります――
 ただ、旅行というものを極度に忌避(きひ)する一念がこうまで昂上してみれば、今後のことは時間の問題のみであります。熱火に溶け行くような胸と腹を抑(おさ)えつつも、つとめて冷然と立っているのがお銀様の一つの習い性でなければなりません。

         十一

 そうしているお銀様の足許へ、その腰のあたりまでしかない一つの小さい物体が現われました。
「モシ、桑名からの二番船はまだ着きませんですか」
「え」
 思いを天上にのみ走(は)せていたお銀様が、ぎょっとして眼を地上におろすと、これはまた、天上に空(くう)なる今の弁信の生(しょう)の姿が、現実にここへ落ちて来たかと思われるばかり――よく見ればもとより違います。弁信よりは、もう少し稚(ちい)さい、十一二歳でもあろうか、やっぱり弁信と同じことに頭を円めて、身に法衣を纏(まと)っているが、弁信と根本的に相違しているのは、あれはあれでも男僧の身でしたが、これは女の法体、一口に言ってしまえば尼さんです。そうして弁信のように、永久にその眼を無明(むみょう)の闇に向けられているというような不幸な運命に置かれていないで、比較的利口そうな、そうしてぱっちりした眼をもった、世の常ならば、美しいといった方の女の子であるが、頭上から奪い去った黒いものと、身に纏わされた黒いものとが、少女としての華やかさをすべてにわたって塗りつぶして、その小さい手に持ち添えた数珠(じゅず)までが哀れを添える。
 この小尼は、こんどは海の方を眺めながら、再びお銀様に問いかけました、
「桑名からの二番船がまだ着きませんですか」
「まだ着かないでしょう、ほら、あの生簀(いけす)の向うに大きな帆が見える、あれがそれなんでしょう」
「そうでございますか、では、程なくこれへ着きますなあ」
「風が追手だから、まもなく着きますよ」
「左様でございますか」
 小尼はおとなしく、入船の白帆をまともに眺めて待っている。
 お銀様はそこでちょっと頭脳を転換させられたけれども、ただなんとなく、急に立去り難いものがある。せめて、あの船の着くのを見ていてやりたいような気分から、傍(かた)えの小尼を相手に暫くの間――
「お前さん、あの船で来る人を待っているの?」
「はい、お父(とっ)さんが、たぶんあの船でいらっしゃるだろうと思います」
「そう……」
 お銀様はなにげなく受けたけれども、この小尼が言ったお父さんという言葉が、異様な感じをもって聞えました。
 いとけないのに尼さんにされるほどの運命を持った人の子というものには、どうせ温かい親というものの観念からは遠かろうと思われるのに、父を待ちこがれるらしいこの子のそぶりを異様に感じながら、お銀様は桑名戻りの船を見ている。小尼もまた同じようにして、お銀様の傍を離れようとはしない。船はようやく近づいて来る。船が着くと、河岸一帯がどよめいてくる。お銀様は、乗込みの先を争うわけではなく、到着の人を待ち受けるわけではないけれども、それでもその動揺の空気につれて、なんとなくわが心もどよめいてくる心地がする。
 その時、固唾(かたず)をのんでいた小尼が、お銀様の面(かお)を見上げるように言いました、
「モシ、わたしのお父さんが通りましたら、お知らせ下さいましな、ツイ、わたしが見はぐれるといけませんから、どうぞあなた様にもお願いいたします」
「でも、わたしはお前のお父様を知りませんよ」
と、お銀様が正面を切りながら答えたのは当然でした。
「わたしのお父さんは、色が黒い方で、背は低い方で、身体も痩(や)せていますが、ただ、この額のところから頬のところへかけて、大きな創(きず)がございます、若い時に、木を伐(き)りに行って怪我をした大きな創がございます」
 数珠(じゅず)で自分の額を撫で、こう言いながら、またお銀様の面を見上げました。その時にお銀様は、自分の面をそむけるような形で、
「では、お前さんの方で気がつかないうちに、お父さんがお前さんを見つけるでしょう」
「いいえ、お父さんは、わたしが迎えに来ているということを知らないでしょう」
「それでは、大きな声で呼んでごらんなさい」
「でも……」
 小さな尼は口籠(くちごも)って、
「でも、お父さんを呼びかけることが、あの人の為めにならないかも知れません……どうぞ後生(ごしょう)ですから、小柄な、面の黒い、そうして額際から頬へかけて大きな創のある人にお気がつきましたら、おっしゃって下さい、わたしも一生懸命見ていますから」
 お銀様は、小さな尼の頼みと、その口から父の人相の説明を聞いて、なんとなく刺されるようなものを感ぜずにはおられませんでした。
 ことに、顔面に大きな創を持った小柄の色の黒い男――小柄の色の黒い男だけではたずね人の目安にならないが、額から頬にかけて大きな創を持ったという男は、そうザラにあるものではない、それは見違えようとしても見違えられない特徴。
 人に顔を見られることを厭(いと)うお銀様は、同時に人の顔を見ることをも嫌いましたけれど、この偶然の場合では、頼みを聞いてやるやらないに拘らず、ここに立っている以上は、人の顔を注視してあらためなければならぬ役目を遁(のが)れられないもののようになる。
 船は確実に到着して、甲板の拍子木、やがておもちゃ箱をひっくり返したような人出、波止場を上る東海道中諸国往来風俗図絵――
 薬籠(やくろう)を一僕に荷わせたお医者。
 二枚肩の長持。
 両がけの油箪(ゆたん)。
 箱屋を連れた芸妓が築地の楼へ褄(つま)を取って行く。
 御膳籠(ごぜんかご)につき当りそうな按摩さん。
 一文字笠に二本差した甲掛(こうがけ)草鞋(わらじ)の旅の武士。
 槍持に槍を持たせて従者あまた引連れたしかるべき身分の老士。
 鉄鉢の坊さんが二人づれ。
 油屋の小僧が火と共に一散に走る。
 杖に笠の伊勢詣りたくさん。
 気の抜けたぬけ参りの戻り。
 角兵衛獅子の一隊テレンテンツク。
 盤台を天秤(てんびん)にして勢いよく河岸へ走る土地の勇み。
 犬が盛んに走る。

         十二

 お銀様もそぞろに人を見ることの興味にかられていたが、その前後に、どちら附かずの妙な旅人が二人三人ずつ、この高燈籠(たかどうろう)の下へ寄って来て、今やお銀様と小さい尼が一心に前面の人を見ているその背後のあたり、しきりにこの高燈籠の構造を評判しておりました。
「この高燈籠は、犬山の成瀬様がお建てになったのだが、昔はこの燈籠のおかげで出船入船が助かりましたが、今は功徳のしるしだけで、実際に用いません」
「ははあ、これが名代(なだい)の成瀬様の高燈籠……」
「二代の隼人正様(はやとのしょうさま)が正成公(まさなりこう)の御遺命によってお建てになったのです、寛永二年の昔」
「なんにしても結構な思召(おぼしめ)しだ、ここにその謂(いわ)れが刻んである、依二于亡父成瀬隼人正藤原正成遺命一而正房所二営建一也、并寄二五十畝之田地於太子堂一以為二膏油之資一、と読みますかな」
「その通り、燈明料としては須賀の浦の太子堂へ田地を御寄附になったが、今はそれが神戸町(ごうどまち)の宝勝院の方へ引移されている」
 こんな会話を交わしながら、古碑でも探る気持で、燈台の石垣を撫でまわしているのが、この際、お銀様の耳障(みみざわ)りになりました。
 桑名戻りの船が着いたとあってみれば、今も言う通り、乗込みを争うわけでもなく、到着を待ちわびる人でなくても、下船して来る旅人の上陸ぶりに好奇の目を向けて見るのが通常の人情であるのに、このやからは一向その方に頓着なしに、燈籠のある部分を撫でてみては頻(しき)りにその故事来歴なんぞを説明していることがキザだと、お銀様のカンにさわったのでしょう。その途端のこと、
「あ、お父(とっ)さん!」
と小さい尼が叫びました。狂喜の声のうちにも高い叫びを慎(つつし)んだもののようですが、その声でお銀様も改めて人混みの中を見渡したけれども、急にそれらしいものを認めることができませんでした。
 何とならば、唯一の目標とするのは、その顔面の大きな創(きず)ではありといえ、それほどの創を持つ人が、自慢で見せて歩くとも思われない、よし自慢にすべき向う創であっても、そこは道中のこと、笠もあれば、頭巾もあろうというもの、どれをそれと小さな尼が呼んだのか、お銀様には分りませんでしたが、心走りに走り出した小さな尼が、
「お父さん――」
 ついに一人の男の人をこの子がとらえてしまいました。見れば、なるほど、小柄で、そうして背が低いには違いないが、その身体(からだ)は桐油(とうゆ)の合羽(かっぱ)でキリリと包んでいるし、質素な竹の笠をかぶり、尋常な足ごしらえをしているものですから、お銀様に先手(せんて)の打てようはずがありませんでした。
 しかし、この幼尼からとらえられた時に、笠と合羽の主は、ハッと物に打たれたように向き直って見た瞬間、お銀様も、確かに、その人相を見てとりました。厳しい顔であると思いました。厳しいというのは、その尋常な田舎老爺(いなかおやじ)としてのこしらえに比較してみて言うことで、なるほど、赤銅色(しゃくどういろ)に黒ずんだ顔面の皮膚の下の筋肉は鋭いほどに引締っている。同時にその金看板であるところの、額から頬へかけての創が稲妻のような鋭いひらめきを見せないではいない。
 その瞬間――お銀様は、この創は決して、若い時に木を伐(き)りに行って受けた創ではないということを直覚しました。第一、この隙間のない小柄な男が、木を伐って、その伐られた木に仕返しをされるまで、便々と待っているような男であり得るはずがない。
 こう、直覚的にお銀様の眼に映った時に、一方、その機会に、ふっつりと、今まで自分の背後にペチャクチャと燈籠の故事来歴を囀(さえず)っていたキザな声が止んでしまったことも、かえって耳障りでした。
 さいぜんの悠長さでは、この燈籠の台石の分析から、石工の詮議(せんぎ)までもしかねないと見えたのに、ここに至ってふっつりとペチャクチャが中絶されてしまったのは、ペチャクチャと囀っている以上に耳ざわりになったものですから、前のを一太刀受けて、直ぐに後ろへ切り返すような心持にせかれてお銀様が、ふとこの背後を振返って見ると、今まで漠たるペチャクチャを囀っていた旅の者――誰が見ても通常の東海筋の伊勢参りとしか見えなかった二人の者が、同時にその被(かぶ)っていた笠を払い落した途端で、そうして同時にキラリと懐中から光り出したものは、房の附いた十手というものであることを、お銀様の鋭敏なる眼に認められてしまいました。
 この二つの十手は、お銀様の目の前をかすめて隼(はやぶさ)のように飛んだと見れば、今し、父と呼びかけられて、いじらしい小さな尼に縋(すが)られた当の男、すなわち顔面黒くして、額から頬にかけて、決して伐り倒した木のために復讐されたのでないところの金看板を有する右の男に、左右からのしかかって飛びついたことです。
「あっ!」
 その時、左の方から飛びかかった十手が、あばらのあたりを抑えてうしろへのけぞってしまいました。
 けれども、右の方の十手によって、被った笠が叩き落されて、その利腕(ききうで)を取られていたのです。
 が、その利腕をひっぱずすと共に、十手を突き倒しておいて一目散に逃げ出しました。
 この、ほんの一瞬間の出来事の顛末を最もよく見たものはお銀様でありましたが、忽(たちま)ちその波紋が拡大すると、波止場の全体をひっくり返すだけの力がありました。
 その群衆の間を、隼のようにくぐり抜けて走る笠無しの創(きず)の男――それは同時に西浜御殿の塀の下にいた同じような伊勢参りのいでたちが、笠をかなぐり捨てて、形の如く十手を取り出して立ちふさがると、また一方、海岸にいた巡礼六部姿のやからまでが皆、懐中から十手を取って、その仮装をかなぐり捨てたのは、キンキンと音のする捕手の腕利きに違いない。同時にまた、いつのまにか、火消、纏持(まといもち)が、すべての非常道具を持ち出して、町角辻々を固めてしまう。
 ここで全く右の小柄の男を袋の鼠にして、この築地海岸一帯を場面としての大捕物がはじまることとなる。
 群衆の沸騰と興味は思いやるばかりです。相当の距離に立ちのいて、喧々囂々(けんけんごうごう)の弥次を飛ばすところを聞いていると、
「ありゃ、味鋺(あじま)の子鉄(こてつ)ですぜ」
「ああ、子鉄もいよいよ年貫の納め時か」
「こう囲まれちゃ、もう仕方がおまへんな――こうなると子鉄も、哀れなもんやなあ」
「だが、子鉄は腕が利いとりますからな、お手先の旦那方も、只じゃあ、あの鼠は捕れませんや」
「ごらん、はじめに子鉄を抑えた旦那が、ああして苦しんでおいでなさる、はっと飛びかかった時に、子鉄の右の臂(ひじ)であばらへあてられたんです」
「子鉄も子鉄だが、あんなのにかかっちゃ旦那方もつらい」
 子鉄、子鉄と呼ぶ、あの男が子鉄というものであることは、土地ッ子の証明によって、もう間違いのないところだが、子鉄の何ものであるかを説明している場合でないと見え、その性質は旅の人には分らない。
 無論、お銀様にもわからない。

         十三

 これを知らないもののために、一応その素姓(すじょう)を物語ってみると、ここに子鉄と呼ばれている当人は、有名なる侠客、会津の小鉄でないことは勿論(もちろん)だが、さりとて、会津の小鉄を向うに廻しても名前負けのする男ではなかったのです。
 生れは城外、味鋺村(あじまむら)の者で、その名は鉄五郎――父も鉄五郎といったから、そこで子鉄が通称となっている。
 名古屋城外で窃盗(せっとう)を働いて、敲(たた)きの上、領内を追われたのを皮切りとして、捕まってまた敲きの上に追放――その間に同類をこしらえ、ある時は一人、ある時は同類と、諸方を荒し廻っているうちに、好んで尼寺を犯したということだ。金品の被害のほかに、こいつの凌辱(りょうじょく)を蒙った無惨な尼たちが幾人あるか知れない――そのうちに、露見し、捕手二人を傷つけたが、ついに搦(から)め取られて入牢(じゅろう)の身となったのが、安政年間だとかいうこと。
 牢内では牢名主をつとめて、幅を利(き)かしていたが、やがて獄門にかかるべき斬罪を予期し、某月某日の夜、子鉄が巨魁(きょかい)となって破牢を企てた。その党に加わるもの三十人、かねがね牢番を欺いて用意して置いた、鑿(のみ)、縄梯子、丸に八の字の目印と、町役所と認(したた)めたそれぞれの弓張提灯を携え、衣類、十手、早縄まで取揃え、牢を破って乗越えた上に、これらの道具立てで、捕手の役人になりすまし、大手を振って逃げのびて、その夜、堀川通りの小寺宇右衛門ほか二カ所の屋敷を襲うて、金銀、衣類、刀剣を奪い取り、そうして、おのおの思い思いに高飛びをしたという。
 それが、今日まで厳密なる探索の手にかからず、全く消息を絶っていた。ある時は遠州秋葉山の下で見た者があると言い、ある時は駿河の興津(おきつ)に現われたなんぞと噂(うわさ)には出たが、かいもく行方が知れなかった。その兇賊が、今日という今日、網の目にひっかかったのだ。
 というわけですから、盗賊も尋常一様の盗賊とは違い、土地の人気を聳動(しょうどう)させるだけの価値はある。自然、捕方の役人たちの、ここにいたるまでの苦心惨憺も思いやらるると共に、ここにいたっても、なお且つ安心せられざるものが多分にあると言わなければならぬ。どのみち、こうまで袋の鼠としてしまった以上は、どう間違っても逃しっこはないのだが、とどめを刺すまでには相当の犠牲を思わねばならぬ。なるべく最小の犠牲をもってしたいことは卑怯の心ではない、自然、最初は劇(はげ)しいかけ声と共に、遠巻きに巻いて圧迫を試みて行くだけの戦略ですが、囲む者も、囲まれるものも、またそれを眺むるものも、真蒼(まっさお)です。
 笠の台だけを残して、それをまだ解き捨てる余裕のない創男の兇賊子鉄の頭は、常ならばいい笑い物ですけれども、笑うものなどは一人もない、捕方も、見る者も、眼が釣上り、面(かお)が真蒼(まっさお)になって、息がはずんでいるばかりです。
 お銀様は、囲まれた子鉄の面を、真正面からまざまざと見ることができました。
 不思議なことには、この時、群衆の中に起った一種の同情が、捕方の上よりは、むしろ囲みを受けた味鋺(あじま)の子鉄の上に注がれて来たようです。
 直接、間接に、名古屋城下がこの一兇賊のために、どのくらいの恐怖と迷惑とを蒙らせられたかわからないのに、こうなってみると、子鉄も憐れなものだ! と、一種の同情心のようなものが湧くのを如何(いかん)ともすることができないようです。
 赤銅色(しゃくどういろ)に黒ずんだ面に、額から頬までの大創を浮ばせ、それに、笠を飛ばされて台ばかり紐で結えた面構え。誰も笑う者はないが、自分が一種名状すべからざる皮肉の色をたたえて、ニヤニヤと笑っている。笑っているのではなかろうが、笑っているように見える。
 その間に、ジリジリと押す捕方のすべては、いよいよ真蒼になって、髪の元結(もとゆい)が刎(は)ね切れたものさえあるようです。
 手に汗を握り、固唾(かたず)を呑んでこの活劇を見物している群衆さえ、今は緊張の極になって、泣き出しそうになっている切羽(せっぱ)に、子鉄の両手が、今まで手をつける余裕さえなかった、例の笠の台だけを結んだ紐のところへかかると共に、
「恐れ入りました、味鋺の子鉄の年貢の納め時でございます、お手向いは致しませぬ、神妙にお縄を頂戴いたします」
 早くも笠の台を引っぱずして、後ろに投げ捨てると共に、バッタリと大地にかしこまって、丁寧に両手をついて頭を下げたものです。
 この光景が、すべての緊張しきった空気を一時に抜いてしまいました。前面に向った捕方のうち、卒倒したものがあります――観衆は暫くしてみんな一時に声をあげ、なかには声を放って泣く者さえありました。
 けれども捕方は、まだ軽々しく近づくことをしませんでした。子鉄ほどの者だから、息の根を止めてかかっても油断はならない――
 大地へ両手を突いて、頭を下げた子鉄は、その時に懐中へ手を入れて取り出して、二三間ばかり向うへ投げ出したのが一口(ひとふり)の短刀です。
「因果は争われないものでございます、尼にされた我が子の囮(おとり)で、子鉄がお縄を受けることになったのが運の尽きでございます、今まで子鉄のした悪事という悪事のうち、仏に仕(つか)える尼さんをいじめた、それがいちばん悪うござんした――仏罰でござんす、全く恐れ入りました」
 そうして両手を突いた中へ瘢面(はんめん)をつき込んで、下を向いたきりです。
 立往生をしてしまった弁慶でさえ怖くてちかよれないのだから、恐れ入ったとは言いながら、生きて手足も動かせるようになっているこの男の傍へ、誰も暫くの間は近づけなかったのも無理はないが、やがて圧倒的に抑えてみると、この兇賊は、ほんとうにたあいなく縄にかかってしまいました。
 この場合、たあいなく縄にかかったということが、見ている人の総てをまた圧倒的にしてしまいました。
 こうして兇賊が引き立てられ、場面が整理され、群集が堵(と)に着いた時分、例の高燈籠(たかどうろう)の下で小さな尼を介抱しているところのお銀様を見ました。
 そうしている時に、ハッハッと息を切った声で、
「お嬢様じゃございませんか、いやはや、お探し申しましたぜ、表通りはあの騒ぎでござんしょう、裏へ来て見るとまた捕物騒ぎ、気が気じゃございません」
 ハッハッと息をついて、しきりに腰をかがめているのは、お角がおともにつれて来た庄公です。

         十四

 道庵先生も、人間は引揚げ時が肝腎だ、ぐらいのことはよく知っておりました。
 名古屋に於ける自分というものは、時間に於ても、行動に於ても、もう、かなりの分量になっていることを知り、待遇に於ても、名声に於ても、むしろ過ぎたりとも及ばざるのおそれなきことをたんのうしたから、もうこの辺で名残(なご)りを惜しむ方が、明哲(めいてつ)気を保つ所以(ゆえん)だと気がつかなくてはならないはずです。
 そこで、米友に向っても出立の宣告をしておいて、今日明日ということになって、計らずも一大事件が突発して、道庵をして引くに引かれぬ羽目に置き、更に若干、出発のことを延期させねばならないことに立至りました。
 というのは、医学館の書生で津田というのが、このごろ、飛行機の発明に凝(こ)り出して、もうほとんど九分八厘まで仕上げたから、この際ぜひひとつその完成を道庵先生に見届けてもらい、且つその試験飛行の際には同乗が叶(かな)わなければ、せめて式場へ参列なりとしていただきたいという、切なる希望を申し出でたからであります。
 この津田生は、どうしたものか、医学館の講演以来、ほとんど崇拝的に道庵先生に傾倒して来たものですから、道庵も可愛ゆくなり、ことにその熱心な科学的研究心に対して、どうしても、道庵先生の気象として、その希望を刎(は)ねつけるわけにはゆかなかったのです。で、いよいよ明日あたりは出発という時に、またまた数日の延期を宣告して、せっかく旅装の宇治山田の米友を苦笑させました。
 この当時に於て、飛行機の研究及び製作ということは、いかにも突飛のようでありますけれども、突飛でも、空想でもなく、実際に道庵先生を首肯せしむるだけの科学及び技術上の根拠を持っているのでした。
 津田生は、どこからこの発明の技術を伝習したか、とにかく、製作に於ては、或る先人の設計を土台としそれに幾多の創意を加え、工夫を凝(こ)らして、工場を自邸内に設け、ほとんど寝食を忘れてそれに尽しておりました。
 そもそも、津田生が飛行機の発明を企てるに至った最初の動機というものは、例の柿の木金助が凧(たこ)に乗って、名古屋城の天守の金の鯱(しゃちほこ)を盗みに行ったという物語から起っているということです。事実の有無(うむ)はわからないながら、幼な物語に柿の木金助の一くだりを聞いたり、夢想兵衛のお伽噺(とぎばなし)を吹き込まれたりしているうちに、人間は機械を用いさえすれば、空中の飛行も決して空想ではないという信念を立てるに至りました。
 そうして、医学館に通って解剖を研究するうちに、どうしても飛行機の標準は、鳥類の骨格を研究することから始めなければならぬと覚りました。そうして、船はいかに進歩しても魚の形を出づることはできないように、鳥の形を無視しては飛行機の実現は覚束ないものだという原則を摘(つま)み出しました。
 そのうちに、ふと菅茶山翁(かんさざんおう)の「筆のすさび」という書物を見ると、こんなことが見出されました――
「備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて其身の軽重、羽翼の長短を計り、我身の重さをかけくらべ、自ら羽翼を製し、機を設けて胸の前にて繰り搏(う)つて飛行す、地より直ぐに□(あが)ることあたはず、屋上よりはうちて出づ。ある夜、郊外をかけ廻りて、一所野宴(やえん)するを下に視(み)て、もし知れる人にやと近より見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて思はず落ちたりければ、その男女驚き叫びてにげはしりける。あとには酒肴さはに残りたるを、幸吉飽くまで飲食ひしてまた飛ばんとするに、地よりはたち□(あが)りがたき故、羽翼ををさめ歩して帰りける。後にこの事あらはれ、市尹(しゐん)の庁によび出され、人のせぬことをするはなぐさみといへども一罪なりとて、両翼をとりあげその住巷を追放せられて、他の巷(ちまた)にうつしかへられける。一時の笑柄(わらひぐさ)のみなりしかど、珍しきことなればしるす、寛政の前のことなり」
とある。これを仮りに寛政のはじめ(西暦一七八九年)と見れば、道庵現在の時より約八十年の昔のことで、西洋ではじめてグライダーを作った独逸人(ドイツじん)オットー・リリエンタールの発明が一八八九年とすれば、それは日本の明治二十二年に当るから、これより先、徳川十一代の将軍家斉(いえなり)の寛政のはじめ、一七八九年に、すでに日本の岡山にグライダーを作って成功した人があったという事実は、驚異すべきものに相違ない。日本の鎖国の泰平が、斯様(かよう)に、無名の科学的天才も圧殺してしまった例は他にも少なくないと考えられる。
 岡山の幸吉の事績によって、津田生は、金助や、弓張月や、夢想兵衛のロマンスと違った、科学的技術者が日本に厳存していたことを知ると共に、苦心惨憺して、すでに没収され、湮滅(いんめつ)せられた幸吉のあとを探ったものと見えます。
 幸いなことには、津田生は父祖伝来の家産を豊かに持っていたから、研究費には差支えることは免れたが、不幸なことには、この熱心な発明慾が周囲の誰にも諒解(りょうかい)されないのみならず、それに冷笑と詬罵(こうば)とが注がれたことは、古今東西の発明家が味わった運命と同じことでありました。

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