大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 茂太郎は頓着なしに、仰々しく叫び立てています。

七兵衛おやじが
かけるわ、かけるわ
矢のようにかけて
勿来(なこそ)の関を通りぬけた
おやじはどこへ行くつもりで
あんなに道を急いでいるのか
それは言わずと知れた
陸前の石巻へ向けて
この無名丸と
かけっこをしようというのです

つまり、無名丸が先に
陸前の石巻に着くか
七兵衛おやじが先に
同じところへ着いて待ってるか
その二つのうちの
いずれかの一つなのだ
だが、船には
天候というものがある
それからまた
七兵衛おやじは七兵衛おやじで
田山先生を見つけなければならぬ義務がある

七兵衛おやじは
どうかして田山先生を
見つけ出して
一緒に石巻へ
連れて行ってあげたいと思います

だけれども
田山先生のあとを追うのは
白雲を掴むようなものですから
首尾よく見つけ出したらお慰み……
ヒュー

 ここまで歌い来(きた)った茂太郎が、急に歌をやめて、ヒューと口笛を一つ鳴らしました。
 いつか茂太郎の手に、一つの海鳥が抱かれていました。
「マドロスさん、こりゃ何だい、この鳥は何だか知っているかい、アルバトロスの雛(ひな)じゃあるまいね」
「海猫(うみねこ)!」
と高く叫んだのは、マドロスの声ではありませんでした。

         六十五

 駒井甚三郎は今、お松に於て、最もよき秘書を兼ねての助手を得ました。
 その前後から、お松は船長附専務のようになって、絶えず駒井のために働き、また同時に自分を教育することになったのは、どちらにとっても幸いです。
 この子は、お君女のように感傷に落ちるところがなく、兵部の娘のようにだらしのない空想家とも違い、聡明であって、そうして教養があって、理解が深くて、同情心にも富んでいるという得易(えやす)からぬ徳を備えておりました。
 海を走りながら、海についての知識だけではなく、駒井は折にふれての見聞と感想とを、或る時は断片的に、或る時はまた論述的に、お松を相手に説いて聞かせるのであります。
 お松にとっては、それを聞くことが、何物よりも自分を教育することになると共に、駒井甚三郎その人の理想と人格とを理解するに最もよき機会でありました。
 お松は駒井能登守の時代から、この人を尊敬すべき人格者とは信じていたけれども、その内容の価値に至っては審(つまびら)かにせず、ただ、品位あるが故に、地位高きがために、態度高尚なるが故に、人に対して親切であるが故に、感化せられていたようなものでしたけれども、ここに至って、駒井その人の遠大なる理想と、豊富なる学識というものに接してみると、また異った尊敬をこの人の上に置かねばならないし、同時に自分というものの世界もまた、曾(かつ)てなかった眼界を開かれて行くということを感ぜずにはおられません。
 船長室には種々の掛図や機具があるほかに、最も大きなる世界の地図が掲げてあります。
 話題のついでにはいつもこの世界地図が有力なくさびを成さないということはありません。
 今も駒井はこの地図に就いて、お松に向ってこんなことを話しているのです、
「年々人は殖(ふ)えてゆきます、陸地は少しも殖えません、今はまだ世界に空地がいくらもありますけれど、人間の殖える勢いはすばらしいものだから、いつか土地の争いが起るにきまっている、国と国との争いというものも、つまりはそこから起るのです。我々はどうかして戦争のない国へ行きたい、いや、どうかして戦争のない国を作りたいものです」
「本当でございます、相助けて行かなければならないはずの人間が、殺し合うなんてどう考えてもいいことではありません」
「いい事ではないが、弱くしていると国をとられてしまうから、勢い強くならなければならん、それがために、国はいつも戦争の準備をしていなければならないのです。今、日本が乱れかかっているのも、やはり、外国のために取られはしないか、取られてはならない、という心配が基なのです」
「外国というものは、みんなそう人の国ばかり取りたがるものでございましょうかねえ」
「いや、外国人だとて、好んで人の国を取りたがるわけではなかろうが、未開の国を通って歩いて、それを開いて自分のものにしようとするのは人情の自然ですからね。すると土着の人がそれを好まないで、敵対の色を現わすのも人情だから、そこで、戦争とか、侵略とかいうものが始まるのです。日本も今、その手にかかろうとしているが、日本は日本として決して野蛮国でも、未開国でもない、ただ暫く国として眠っていたばかりなのですから、そうやすやすと外国人の手には乗りません」
「日本が取られてしまうようなことはございますまいね」
「そんなことはない、日本は二千五百年来鍛えられている国だから、取られるようなことはないが、しかし無用の争いはしたくないものだ、無用の争いをする暇を以て、新天地を開拓することにしたいものだ、世界は狭いとはいえ、まだまだ至るところに沃野(よくや)が待っている」
「けれども、殿様、このお船だけで知らぬ外国へ行けば、かえってわたしたちが、その土地の人に殺されてしまうようなことはございますまいか」
「それはね、我々が大砲をのせたり、軍艦に乗ったりして行けば、先方でも驚いて警戒するだろうが、こうして漂いつけば、かえって渡る世間に鬼はなしという道理で、鬼ヶ島へ漂いついたにしたところが珍しがってくれるだろうと思う。もし、また、全く人のいないところへ着けば、そこに鍬(くわ)を下ろしはじめて、我々が開国の先祖となって働くのじゃ」
「それはいいお考えでございます、どうかして嫌われない土地か、人のいない島へ着きたいものでございますが、もし日本のように尊王攘夷で、外国の人と見れば打ち払えという国へ着いては大変でございます」
「いや、日本人だって、そう無茶に外国人を打ち払いはしない、外国と交際をしない国になっているところへ、先方が、軍艦や大砲で来るから、一時混乱しているまでのことだ。尋常に来た漂流船には、食料や水を与えていたわって帰すことになっている。だから我々は、軍艦や大砲の代りに、鍬と鋤(すき)を持って行くつもりです」
と言って、駒井甚三郎は、世界地図の西半球の部分の、大きな二つの陸地続きを鞭で指し示して言いました、
「これが北亜米利加(アメリカ)と、南亜米利加とです。今、日本人がメリケンといって怖れている国。嘉永六年にはじめて浦賀の港へやって来て、日本中の眠りをさましましたペルリという海軍大将は、この国の、この部分から来たのですが、日本よりずっと国は新しいくせに、ずんずん開けています。それに引きかえて、この南亜米利加の方は存外開けないのです。南亜米利加(アメリカ)も土地は肥え、気候もいいのだが、北アメリカがずんずん開けるのに、南がそのわりでないのは、一方は剣や大砲でおどかしたおかげであり、一方は鋤(すき)と鍬(くわ)を持って行って開いたからです。つまり今日のメリケンすなわち北アメリカという国を開いたのは、剣と鉄砲の力ではなく、鋤と鍬との力なのです。剣をもって開いた土地は剣で亡びると言います、それに反して、鋤と鍬で開いた土地は、永久の宝を開くわけですからね。私たちは国を開くのに、なるべく剣と鉄砲とを避けなければならないと思います」
 駒井の弁は熱を帯びて、その理想を説くのは、ただにお松を相手にしているのみとは思われません。

         六十六

「剣をもって国を取りに行くのは、戦争の種を蒔(ま)きに行くようなものですけれど、鍬をもって土地を拓(ひら)きに行くのは、平和の実を収穫(とりいれ)に行くのと同じです。たとえば……」
 駒井は、前途の洋々たる海面を油断なく見渡しながら、諄々(じゅんじゅん)として語るには、
「今より約三百年の昔、ヨーロッパの西班牙(スペイン)という国で、最初にこのアメリカを見つけてから、コルテツとか、ピザロとかいう豪傑が押しかけて行ったのですが、これが土地を拓くつもりではなく、全く掠奪のつもりで行きました。掠奪に伴うものは虐殺でしてね、コルテツなんていう男は全くの無学に加うるに六十一歳という年であって、僅かに百八十人の人と、二十五頭の馬を持って行って、この南アメリカの秘魯(ペリウ)という国に侵入してその国を亡ぼし、その宝をみんな奪ってしまったのです。そうして西班牙では五十年間に数億の財宝を奪い、四千万の土人を殺したというから、驚くではありませんか」
「四千万て、たいした人数でございましょうね」
「口でこそ四千万だが、今の日本の国の老幼男女のすべてを合わせても四千万にはなりません。そのほかに生捕って来て奴隷に売った数はいくらあるか知れません。そういうことをして荒したのですから、この土地も拓けません、本国も悪銭身につかずで、決して栄えはしなかったのです。ところが、この北の方へやって来た人間は、最初からして種がちがいました、掠奪と虐殺を目的としてやって来たのではなかったのです」
 駒井が鞭で指し示したところは、今の北米のケープコッドの、プロビンス・タウンからプリモスのあたりであります。
「西洋の紀元でいえば千六百二十年、日本でいうと元和六年の頃でしたね、もう豊臣家は全く亡びて、徳川家の治世になっていた時分です、こちらの欧羅巴(ヨーロッパ)のイギリスという国からたった一艘(いっそう)の船が、この大陸の岸につきました、この辺がその上陸点のプリモスというところです」
 お松は駒井の指す鞭の頭から眼をはなさず、そうして、よく噂にきくイギリスという国が、こんな小さな島国かということを訝(いぶか)りながら、そこから渡って来た人のあるという大陸の、とても大きいことの比較を見比べていると、駒井はいよいよ調子よく、
「このイギリスから、その時、メー・フラワーという小さな一艘の船――小さいといっても、これよりは大きいですが、無論その時は蒸気はなくて帆前船でした、それに百人余りの人が乗って、この大西洋という大海原を六十日余りで乗りきってここへ着いたのです。その船の乗組の人は前にも言ったように掠奪と虐殺とを目的に来たのではなく、自分たちが信ずるお宗旨を自由に信じたいためだったのですね。どこにもお宗旨争いというものはあるものでしてね、イギリスにいて、自分たちの信ずる教えを正直に信じて、まじめに働いていると圧制があるものだから、そこで、堅い決心をもってこの国に来て、無人の土地を拓(ひら)こうとしたのです。自分たちが、政府や、郷国人から圧制を受けず、正直に信じ、まじめに働きたい目的からこの土地へやって来たものです。ですから、その人たちはみんな正直な、小さなお百姓、小さな商人などであって、軍(いくさ)の上手な人や、人の財を奪う野心家はなかったのです。そこで彼等は非常な刻苦勉強をして、このプリモスという附近に鍬を下ろして、自分たちの食物を正直に自分たちの汗で得ることから出立しました。そういうところに、今日のメリケンの国の強さがあるのです。その国の子孫であるペルリという人が、日本へ来るのに夥(おびただ)しい軍艦と兵隊とをつれて来たということは少し変ですが、とにかく、その国の起りは南の方とちがって、剣ではなく、鍬であったというわけであり、そうして今日になって見ると、掠奪とか虐殺が成功しているか、鍬と労働が成功しているかの実例が、太陽の如く明瞭に示されているというわけです」

         六十七

 兵部の娘だけが出て来ないのは、船酔いということだけではないようです。
 それは階下の船室に寝ていることは寝ているが、常の船酔いがするようにそんなに苦しがっていないくせに、この一室にのみ引籠(ひきこも)って、食堂へも、甲板へも、ほとんど出て来ることはないのです。乗組の人が時々見舞には来ますけれども、それともあまり親しみを取らないようだから、自然、見舞に来る者も少なくなっていますから、ほとんど独(ひと)りぽっちのようなものです。
 実のところ、この娘は少し拗(す)ね気味なのであります。最初から船酔いばかりではなく、拗ねて人並にならない原因は、どうもお松が来てから後にはじまっているようです。ことに船に乗込んでから、一層それが船酔いにからんできたもののようです。
 お松のみが駒井に信用されて、自分が虐待を蒙(こうむ)るという次第になったというわけではないが、お松の方が、駒井の左右には最も適しているところから、兵部の娘の御機嫌が悪くなったのでありましょう。
 そうして、船室に引籠ってみると、誰とてこの娘の御機嫌ばかり取ってはおられないのです。それぞれ持分もあり、仕事もある。ことに駒井などは、船長として、寝る間も油断ができない地位にいるから、このやんちゃ娘のお見舞などが御無沙汰(ごぶさた)がちになるのは無理もないことで、他の乗組とてもこの娘を邪魔物にする人は一人もいないけれども、そうそうかしずいてはおられないのみならず、甲板の上の海上の空気が、またなく人を快活にするものですから、茂太郎でさえ、この娘の方よりは、甲板と、マストと、帆と、ダンスとに親しみが深くなって、もゆる子の病床に来ることは、ホンの思い出した時ばっかりというようなことになったのが、この娘の船酔いをいよいよこじらしてしまったもののようです。
 ところが、ひとりこうしてわれと我が身を拗(す)ねて、他の者からそうでもない冷遇を受けているとひがんでいる娘のところへ、忘れずにしげしげと見舞に来たり、以前よりはいっそう親切に世話をしたりしに来る一人の頼もしい男がありました。
 その、たった一人の頼もしい男というのはほかではありません、それはウスノロ氏のマドロス君であります。マドロス君は仕事の合間合間には、必ずこの娘のところへ来て、御機嫌を取ったり、御馳走を持って来てくれたり、また暇な時には、歌を唄ったり、手ごしらえの変った楽器を鳴らしたりして慰めてくれるのです。
 兵部の娘は、このマドロス君を、最初からウスノロだとは認めきっている。現にこのウスノロのために、自分があられもない辱(はずかし)め(?)を蒙った苦い体験があるに拘(かかわ)らず、本来そんなにこの先生を憎んではいないのです。もゆる子という娘は、性質が悪くひねくれているわけではないが、どこか厳粛なる貞操観念――とでもいったようなものが欠けているらしい。
 それは病気のせいか、境遇のためか知らないが、深刻に物を憎み切るということができないようです。ウスノロに無体な襲撃を受けた時も必死になって抵抗もし、のがれようともしたけれども、その罪を問う段になると、存外寛容で、男として性慾に悩まされるのは、あながち無理もない、生立ちの相違で、品がよく見えたり、見えなかったりするまでのことで、性慾に対する男の執着というものは誰も同じようなものだ、大目に見てやってもいい――というような観念を自分から表白してしまって、駒井甚三郎あたりのせっかくの厳粛なる制裁心を鈍らせてしまうことになる。
 本来ならば、マドロスに対しても、従来受けた仕打ちからいって、いやな奴、助平な奴、危険な奴として擯斥(ひんせき)すべきはずなのに、その後は忘れたように寛大な待遇をしているのですから、この際の病床を慰めに来てくれる唯一の友人として、マドロスを拒(こば)む模様はありません。
 マドロス君は世界の国々を渡り歩いているために、変った唄を数多く知っている。それから、何かと変った楽器を弄(ろう)することを心得ているのもこの男の一得です。もとより渡り者のマドロス上りだから、高尚な音楽の趣味があるはずはないけれども、粗野と、低調ながら、異国情調を漂わせて見せるだけは本物です。
 これがもゆる子の拗(す)ねた病床を大いによろこばせました。この娘のよろこびをもって、マドロス君がまたウスノロの本色を現わして、相好(そうごう)をくずしました。
 おかしなもので、こうして二人がようやく熟して行くのです。拗ねた病床に於てのもゆる子は、マドロスが早く来てくれないことを待遠しがるようになり、マドロスはまたもゆる子の病床を訪う仕事の合間を見つけると脱兎の如く、この拗ねた病室へやって来るという有様でした。
 駒井が船橋(ブリッジ)の上で、お松を相手に熱心に植民を説いている時分、マドロスは料理場から金椎(キンツイ)が得意の腕を振(ふる)ってこしらえた大きな真白いお饅頭(まんじゅう)を五つばかり貰って、それを抱えると、もゆる子の拗ねた病室へ飛び込んで行きました。
「もゆるサン、アナタ饅頭ヲ食ベルヨロシイ」
「どうも有難う」
「金椎サン、料理ウマイ、コノオ饅頭マタトクベツ旨(うま)イ」
「ほんとにおいしそうですね」
「色ガ白イ」
「ほんと」
「ヨク、フクレテイル」
「ほんとに、ふっくりしています、日本のお饅頭よりもおいしそうね」
「見カケモヨイ、中身モヨイ、ウマイデス、アナタ半分食ベルヨロシイ、ワタシ半分ズツタベマス」
といって、マドロスは饅頭の皮を剥いて、ふっくりしたのを二つに割る。
「サア、オアガリ、オイシイ」
「有難う、ほんとにふっくりして、おいしそうなこと」
「オ饅頭、支那ガ本場アリマス、金椎サン上手、オイシイコト請合イ」
 かくて二人は、ふっくりしたお饅頭を二つに割って、半分ずつ旨そうに食べている。
「モウ一ツオ食ベナサイ、オ嬢サン」
「ええ、いただきましょう」
「ワタシオ相伴スル、嬉シイ」
 また、色の白いふっくりしたお饅頭を、二つに割って、半分ずつ、ふたりなかよく夢中で食べ合っている。
「もゆる子サン、モウ一ツ食ベマショ」
「もう、わたしたくさん」
「モウ一ツ食ベナサルコトヨロシイ、残レバワタシ食ベル」
「では、もう一つ割って――みて下さい」
 マドロスは、三つ目の色の白いふっくりしたお饅頭を割って、またも半分ずつ二人で仲よく食べようとすると、入口のところで、いきなり、
「マドロスさん、どこにいるかと思ったら、こんなところに――やあ、お嬢さんと二人で旨(うま)そうなお饅頭を食べていやがらあ、隠れて自分たちばかり、おいしいお饅頭を食べるなんて罪だぜ」
 遠慮なく大きな声をして、二人をびっくりさせるのは、清澄の茂太郎でありました。

         六十八

 船を送り出して、自分ひとりは田山白雲のあとを追って陸路をとった七兵衛は、難なく九十九里の浜を突破して、香取、鹿島に着きました。
 たずぬる人の行方(ゆくえ)は、漠然たるようで、実はなかなか掴まえどころがありました。香取でも、鹿島でも、足あとを手繰ってみると、まさしく、それらしい人の当りのつかないというところはありません。それというのは、一つは天性盗癖ある者は、同時に機敏な探偵眼をも備えていて、七兵衛の追い方とたずね方が要領を得ていたせいかも知れないが、もう一つは、白雲そのものの人品骨柄が、目立たざるを得ない特徴が物を言い、到るところで、
「その武者修行のお方なら、かくかくで、これこれのところへおいでになりましたのが、それに違いごんすまい」
 画家という者はなく、武者修行の剣客とのみ見られている。事実また当人も画家と言わず、剣術修行を標榜して渡って来たのかとも思われる。そこで七兵衛は、上手な猟犬が獲物を追うと同じことで、あとをたどりたどり、臭いをかぎかぎ、ついに勿来(なこそ)の関まで来てしまいました。
 勿来の関へ来てみたところで、七兵衛には、白雲のような史的回顧も、詩的感傷も起らないのだが、それでも、ここが有名な古関の跡と聞いてみると一服する気になって、松の根方へ腰を下ろして煙草をのみはじめたものです。
 そうしていると、白雲ほどの内容ある感傷は起さなかったが、ただなんとなく、人間も楽はできないものだとしみじみおもわせられました。
 現に駒井の殿様なんぞが、あれだけの器量と、学問と、門閥とを持ちながら、江戸にも甲州にもおられずに、あの房州の辺鄙(へんぴ)にひとり研究をしていらっしゃる、そのことすらも邪魔をされて、結局日本の土地にいつかれないのだ、ということを考えさせられてみると、自分たちの如きが世間を狭くするのも、やむを得ないことだが、また、前途の新しい生涯のことを考えると勇みをなさないではおられません。
 駒井の殿様は、船で海外のいずれにか新天地を開きなさるについては、どうしても百姓からはじめなければならぬ、それには万事お前に頼む、お前の指図によって、自分も痩腕(やせうで)で農業を覚えるのだ、お前に農業を仕込んでもらうことが、わしの事業の第一歩の学問だからよろしく頼む、と言われた。
 どうも、有難いやら、勿体(もったい)ないやら、たまらない気持がした。なにも駒井の殿様が農業をなさるからといって、そんなに有難い、勿体ないはずはないのだが、天子様でさえも、百姓を大御宝(おおみたから)とおっしゃって、御自分も鍬(くわ)をとって儀式をなさる例もあると聞いていたのだから、駒井の殿様に限って、それを勿体ながるはずはないが、それでもなんだか、自分が尊くも勇ましくも感じて、涙がこぼれるほどであったのだ、自慢ではないが百姓ならば本業で、武蔵野の原で鍛えた腕に覚えがある、内職の方の興味と宿業が、ついつい今日までの深みにはまらせてしまったのだが、自分は本来、百姓が好きなのだ、好きな百姓を好きなように稼げない運命のほどが、自分の曲った内職を助長する結果になってしまったのだが、これから誰憚(はばか)らず本職に立戻れる愉快。
 駒井の殿様から頼まれて、農具の類(たぐい)もあとから買い集めて船へ積込んで置いたが、なお不足の部分は石巻へ行って買い足すことにしてある――種物類も、得られるだけは集めておいたが、なお奥州辺には変った良種があるだろう、この途中でもその辺を心がけておきたいもの。
 そういうことを考えて、七兵衛は腰を上げて、勿来の関を下って聞いてみると、ここで田山白雲の影がいっそう鮮かになってしまいました。
 今までは武者修行の、剣客の類であろうとのみ見られていたのが、ここでは明らかに絵師としての記憶に残っていて、その人を現に小名浜の網旦那の許まで送り込んだという現証人さえある。七兵衛は直ちに小名浜の網旦那をたずねてみると、なおいっそう明快にその消息がわかりました。
 ここに逗留すること二日、山形の奇士と会して共に北上したということを聞いて、そのあとを追ったが、それから先が茫としてわからなくなりました。
 七兵衛は、提灯(ちょうちん)が消える前に一度パッと明るくなるような感じがしました。小名浜でハッキリしたものが、平(たいら)へ来るとさっぱりわからなくなってしまったのです。
 それというのは、小名浜までは白雲先生一人旅であったが、あれから道づれが出来たことになっている。一人旅としての目的は陸前の松島へ行くことに間違いなかったが、二人連れとなってから誘惑を蒙(こうむ)ったものらしい。そうしてその一人の奇士に誘われて、どうも松島行きの道を枉(ま)げることになってしまったらしい。
 してみると、ここでも七兵衛は亡羊の感に堪えられません。
 いずれ目的は松島にあることに相違はないと聞いているが、あの人のことは、気分本位でどう変化するかわからないし、職業本位としても、必ずしも沿道を飛脚のように行くべき責任はないのだから、さあ、この磐城平(いわきだいら)を分岐点として、海岸伝いにずんずん北へ行ったものか、或いは左へ廻って奥州安達ヶ原の方へでもそれたものか。
 ここで七兵衛は種々なる探偵眼と猟犬性を働かしてみたけれども、さっぱり効(き)き目がありませんでした。或いはこの町へかからずに間道をまわったのではないか、そうでなければこの町のいずれかに足をとめているのではないかとさえ疑われたが、とうとうもてあました七兵衛、どのみち、道草にしても大したことはあるまい、行先は陸前の松島の観瀾亭(かんらんてい)というのにあることは、小名浜の網主の家でよく確めて来たから、先廻りをしてあちらに着いて、仙台の城下でも見物しながら待っているのが上分別――と、七兵衛はついに思案を定めて、ひとり快足力に馬力をかけて磐城平を海岸にとり、北へ向って一文字に進みました。

         六十九

 磐城平で七兵衛を迷わしめたも道理、田山白雲は、当然行くべかりし海岸道をそれて、意外な方面に道草を食うことになっていました。
 その消息は、駒井甚三郎に宛てた次の手紙を見るとよくわかります。
「(前略)鹿島の神宮に詣(まう)で候へば、つい鹿島の洋(なだ)を外(よそ)に致し難く、すでに鹿島洋に出でて、その豪宕(がうたう)なる海と、太古さながらの景を見るうちに、縁あつて陸奥の松島まで遊意飛躍仕(つかまつ)り候事、やみ難き性癖と御許し下され度候。
かくて北上、勿来の関を過ぎて旅情とみに傷(いた)み候へ共、小名浜の漁村に至りて、ここに計らずも雲井なにがしと名乗る山形の一奇士と会し、相携へて出発、同氏にそそのかされて、磐城平より当然海岸伝ひに北上いたすべき道を左に枉(ま)げ候事、好会また期し難き興もこれあり候次第、悪(あ)しからず御諒察下され度候。
松島の月も心にかかり候へども、この辺まで来ては白河の関、安達ヶ原、忍(しの)ぶ文字摺(もじずり)の古音捨て難く候ことと、同行の奇士の談論風発、傾聴するに足るべきものいと多きものから、横行逆行して、つひに今夜白河城下に参り、都をば霞と共に出でしかど、秋風ぞ吹くといふ古関のあとに、徘徊(はいかい)去るに忍びざるものを見出し申候。
白河の関址と申すところは、一の広袤(くわうぼう)ある丘陵を成し、樹木鬱蒼(うつさう)として、古来斧斤(ふきん)を入れざるものあり、巨大なる山桜のさるをがせを垂れたるもの、花の頃ぞさこそと思はれ申候。この森を中に入り歩む心地、出でて遠くながむる風情(ふぜい)、いかにも優雅なる画趣有之(これあり)、北地のものとは見えず、これに悠長なる王朝風の旅人を配すれば、そのまま泰平の春を謳(うた)ふ好個の画題に御座候。
これより須賀川、郡山、福島を経て仙台に出づる予定に御座候。
沿道に見るべきものとしては、二本松附近に例の鬼の棲むてふ安達ヶ原の黒塚なるもの有之(これあり)候、今ささやかなる寺と、宝物と称するもの多少残り居り候由。
文字摺石(もじずりいし)、岩屋観音にも詣で参るべく、須賀川は牡丹園として海内(かいだい)屈指と聞けど、今は花の頃にあらず、さりながら、数百年を経たる牡丹の老樹の枝ぶりだけにても観賞の価値は充分有之と存じ居候間、これにも参りて一見を惜しまざるつもりなれど、儲(まう)け物としては、この須賀川の地が亜欧堂田善(あおうだうでんぜん)の生地なりと聞いてはそのままには済まされず候。
御承知の如く亜欧堂田善は司馬江漢と共に日本洋画の親とも称すべき人物に御座候。遠くは天草乱時代に山田右衛門作なるもの洋画を以て聞えたる例これありといへどもその証跡に乏しく、近代の実際としては田善、江漢を以て陳呉と致すこと何人も異存は無きものと存候。
且又、田善は洋画のみならず、洋風の銅版を製することに於て、日本最初の人に有之候。その苦心のほどを聞く処によれば、適当の銅板なきために、自ら槌(つち)を振つて延板を作り、以て銅板の素地を作り候由、蝋(らふ)を使用する代りに、漆(うるし)を一面に塗り、それに鼠の歯を以て彫刻を施し候由、而して出来上り候原版を腐蝕せしむる薬品としては、自身多大なる苦心の上に発明候由、なほ一層苦心したるは右印刷に用ゆるインキにて、種々の試みのうちには、芸妓の三味線の撥(ばち)を購(あがな)ひ来りてそれを黒焼にしてみたることなども有之候由、何によらずその道に対する創始者の苦心容易ならざるもの有之、これ等の点は特に貴下御肝照の事と存じ申候。
また文晁(ぶんてう)の如きもこの地に遊跡あり、福島の堀切氏、大島氏等はその大作を所蔵する事多しと聞き候、これも一覧を乞はばやと存じ候。
それとは別の方面なれど、白河に於ける楽翁公、山形の鷹山公等について同行の奇士より種々逸伝評論を聞き、大いに啓発を蒙り候点も有之候へ共、秋田の佐藤信淵の人物及抱負については、特に感激するもの有之候。聞くところによれば、佐藤信淵の経国策はかねて貴下より伺ひ候渡辺崋山の無人島説どころのものにあらず、規模雄大を極めたるものにて、特に『宇内(うだい)混同秘策』なる論説の如きは、日本が世界を経綸すべき方策を論じたるものにして、その論旨としては第一の順序として日本は北樺太(カラフト)と黒竜洲を有として満洲に南下し、それより朝鮮を占め、満洲と相応じ、一は台湾を以て南方亜細亜(アジア)大陸に発展するの根拠地とし、更に一方は比律賓(ヒリツピン)を策源として南洋を鎮め、斯(か)く南北相応じて亜細亜大陸を抱き、支那民族を誘導して終に世界統一の政策を実行すべしといふ事にある由、その論旨も、軍国主義或は侵略手段によるにあらずして、経済と開拓とを主とする穏健説の由。
方今、日本に於ては朝幕と相わかれ、各々蝸牛角上の争ひに熱狂して我を忘れつつある間に、東北の一隅にかかる大経綸策を立つる豪傑の存在することは、懦夫(だふ)を起たしむる概あるものには無之候哉。
なほ又、当時、日本の人物は西南にのみ偏在するかの如く見る者有之やうに候へ共、北東の地また決して人材に乏しきものに非ず、上述の亜欧堂の如きは一画工に過ぎずといへども、なお以て我より祖をなすの工夫あり、信淵の如きは宇内(うだい)を呑吐(どんと)するの見識あり、小生偶然同行の雲井なにがしの如きは、白面の一書生には候へ共、気概勃々として、上杉謙信の再来を思はしむるものあり、快心の至りと存じ居り申候。
会津へも行きたし、秋田へも廻りたきもの、道草もさうなつては浸淫に堕し候、よつて以上の見聞を終り候はば、一路直ちに松島に直行し、あこがれの古永徳に見参し、それより海岸をわき目もふらず房州御膝下に帰趨(きすう)不可疑候。今夜白河の城下に宿を求め候処、右も左も馬の話にて、遠近より馬市に来たる者群り候うち、ふと下総の木更津の者といふのに出会ひ、これ幸便と、燈下に句々の筆を走らせて、右馬買ひの者に托し申候。
馬と申せばこの道中は、三春、白河等、皆名立たる馬の名所にて、野に走る牧馬の群はさることながら、途中茅野原を分け行き候へば、鹿毛(かげ)なる駒の二歳位なるが、ひとり忽然(こつぜん)として現はれ、我も驚き、彼も驚く風情なかなかに興多く候。
あはれ、画料数百貫を剰(あま)し得て、駿馬一頭を伯楽し、それに馭して以て房州の海に帰り候はば欣快至極と存じ候へ共、これは当になり申さず、但し画嚢(ぐわなう)の方は、騰驤磊落(とうじやうらいらく)三万匹を以て満たされ居り候へば、この中に乗黄もあるべく、昭夜白も存すべく、はた未来の生□(いけずき)、磨墨(するすみ)も活躍致すべく候へば、自今、馬を描くに於ては、敢(あ)へて江都王に譲らざるの夜郎を贏(か)ち得たることにのみ御一笑下され度候――(後略)」
 右の如くにして、白河の城下を立ち出でた白雲は、同行の奇士雲井なにがしとは、これより先いずれのところで袂をわかったかわからないが、白雲飄々(ひょうひょう)の旅を、行けという者も、とまれと呼ぶ者もありません。




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