大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 検視がズラリと床几(しょうぎ)に坐る。
 下働非人が槍をもって左右へ分れる。
 右の方にいた非人が、突然、槍をひねって、
「見せ槍!」
 一声叫ぶ。
 槍の穂先がキラリと光って、罪人の面前二尺ばかりのところを空(そら)づきに突く。
 と、左の一方のが、
「突き槍!」
 その一声で、罪人の右の脇腹からプッツリ槍の穂先、早くも罪人の左の肩の上へ一尺余り突抜けている。血が伝わるのを一刎(ひとは)ね刎ねて捻(ひね)る。
「うむ――」
 これは本当は抉(えぐ)るそのものの絶叫。
 この辺で群集の海に、
「南無阿弥陀仏――」
の声がつなみのように湧き上る。見るもののほとんど全部といっていいほどが、下を向いたり、眼をそらしたりしたものですが、今のその長く引いた罪人のうめきの唸(うな)りだけは、聾(つんぼ)ではない限りの腸(はらわた)を貫いて、生涯忘れることのできない印象を残さずにはおかないことでしょう。
 それから後の、左右交互に突き出し突き抜く槍先と、一槍毎に弱りゆく罪人の唸りとを、まともに目に見、耳に留めるものはおそらく一人もなかろうと思われたのに、たった一人はありました。それはお銀様。
 役目の人は知らず、こうして非人がアリャアリャと都合三十槍突いたのを矢来の側の特別席とでもいったところに立っていて、最後まで眼をはなさずに見届けていた者に、お銀様がありました。

         四十三

 お銀様は、土器野(かわらけの)にて行われた味鋺(あじま)の子鉄の磔刑(はりつけ)の場面の最初から最後までを、すべて見届けた一人には相違ありませんでしたが、唯一人とは言えませんでした。見物の大多数の中には、お銀様同様に、ほとんど目ばたきもせずして、この三十槍の残らずを見届けたものが、役向一同のほかに、まだ確かに一人、存在していました。そのお銀様以外の一人というのが、年魚市(あいち)の巻から姿を現わして、岡崎藩を名乗った梶川与之助という振袖姿の美少年でありました。
 この少年は今日、足駄がけでやってきて、矢来の外に立ち、大多数がすべて面(かお)を伏せた時も、更にはにかむことなく、じっと眼を凝(こ)らして、人間の死んで行く落ち際の表情を、漏らすことなく見ていたことは間違いありません。
 それは、やはり、見るべく見に来たのですから、単に自分の興味のために、或いは後学のために見に来て、滞りなくその目的を果したものですから、三十槍で検視の事済みになると、あとのことは頓着なく、さっさと歩み去って名古屋城下へ来てしまいました。
 同じ日のそれよりさき、お角さんは、忌々(いまいま)しがりながら、蒲焼の宿から、お銀様の宿としていた本町の近江屋へ引移って来ました。
 それは、明日の出立にまた何ぞ御意の変らぬうち、お銀様の膝元へ落着いてしまった方が安心といったせいもあるでしょう。また、出立についての万端、ここの方が都合がいいことにもよるのですが、磔刑を見物に出たお銀様がまだ帰らない時分に、もう引越しを済まして、出立の荷ごしらえ、あれよこれよと世話を焼いているところへ、
「姉御さん」
といって、つと入って来たのは、土器野帰りの岡崎藩の、美少年梶川与之助でありました。
「まあ、梶川様」
「おばさん、今日は面白いものを見て来ましたよ」
 姉御と言ったり、おばさんと呼んだりする、この美少年の心安だてな言葉に、お角さんが釣り込まれて、
「それはお楽しみでございましたね」
「楽しみというわけではないが、滅多に見られないものを、よく見て来ました」
 ここまで来てもお角さんはまだ覚めない。
「それはまあ、ようございました、そのお土産話(みやげばなし)を伺おうじゃありませんか」
「実はね、土器野で磔刑(はりつけ)を見て来たのです」
「磔刑!」
 ちぇッ、またしても、今日この頃は時候のせいか、よくよく磔刑を見たがる人ばっかり――人面白くもない、と、お角さんがうんざりして、
「お若い時分には、そんなものを見たがるものではありませんよ」
「でも、見ようとしても、一生に一度見られるか、見られないか、わからないものだから」
「そんなもの、一生見ないで過ごせれば結構じゃありませんか」
「おばさんは、嫌いなのかね」
「誰が磔刑の好きな奴があるもんですか――わたしなんぞは見るどころか、聞いてさえもいやなんです」
「そうですか、それでは話すのをよしましょう」
 そう素直に出られてみると、お角さんも、自分の弱気に向って憐れみを受けたような気になって、
「と言ったものですが、時と場合によればいやなものを見届ける度胸も大事ですね。怖がるわけじゃないが、虫が好かないだけなんです。いったい、今日磔刑の当人というのはどんな奴なんですか」
「おばさん、まだそれを知らないの、味鋺(あじま)の子鉄のことじゃないか」
「いっこう存じません、旅先のことだもんですから」
「では、その味鋺の子鉄なるものの来歴を話してあげようか」
と言って美少年は、前述のような凶賊で味鋺の子鉄があることと、役向が、それを捕えるに苦心惨憺していたが、その女の子が一人あったのを尼にして、それを囮(おとり)にして首尾よく捕ったことを説いて聞かせると、勢い今日のお仕置の場で、その子尼が親に水を飲ませ、親を磔刑柱の上へ縛りつけたことまで説き及ぼさねばなりません。それを事細かに話されて、お角さんが変な気になってしきりにうなされてしまいました。今の先は聞いてもいやだと言った磔刑の話を、知らず識(し)らず、根掘り葉掘り聞くようになってみると、この美少年の知識は人伝(ひとづて)ですから、お角さんの根掘り葉掘りに対して、つまり味鋺の子鉄なるものの生立ちから、性質の細かいことなんぞは知っていようはずがないから、勢い、どうしても、磔刑の場で見た子鉄の印象を深く語って聞かせるより仕方はありませんでした。
 しかし、こうなってくると、お角さんは、どうしても味鋺の子鉄なるものの本質を、もっともっと深くつきとめねばならない気がしました。
 そうして、お茶やお菓子をすすめながら、話がかなり深刻になって行ったが、やがて美少年は、
「それはそうとして、おばさんは、いつ名古屋をお立ちなの」
「明日は間違いっこなし」
「では、必ず清洲へお立寄り下さいよ、待っていますから」
「それも間違いございません」
「では、今日はおいとまをします」
 こう言って、美少年は立ちかけました。
「まだよろしいじゃありませんか」
「いや、ちょっとお立寄りのつもりを、かなり長く話し込んでしまいました」
 美少年はどうしても辞して帰るべき頃合いとなったので、お角さんは、それを丁寧に送って出ました。
 こうして見ると、二人はもう、かなり心安立てになっている。それは、お角さんもああいった気性であり、この美少年も、お角さんがはたで危ながるほど切れる性質に出来ているくらいだから、話も、息も、合うところがあって、それで、この逗留中も、名古屋へ出かけるごとに蒲焼のお角さんの宿をたずねて、相当に親密になっているらしい。送られて廊下を歩みながら美少年が言う、
「わたしも、ことによると近いうち、九州へ行かねばならぬようになるかも知れませぬ」
「たいそう遠いところへ、それはまたどうしてでございます」
「落ち行く先は、九州相良(さがら)……というわけではないが、肥後の熊本まで、退引(のっぴき)ならずお供を仰せつかりそうだ」
「それは、大変なことでございますね」
と言っているうちに玄関へ来ると、お角が女中たちに先立って、この美少年のために履物(はきもの)を揃えてやりました。
「これは恐縮」
と言って草履(ぞうり)を穿(は)く途端に、ちょっとよろけて、美少年の手がお角の肩へさわりました。お角はそれを仰山に抑えて、
「おお、お危ない、お年がお年ですから、お足元に御用心なさいまし」
「いや、どうも済みません、では、明日はお待ち申していますよ」
 この途端に、すっと入違いに無言で、大風(おおふう)に入って来た人がありました。
 それは、土器野から廻り道したものか、この時刻になって立戻って来たお銀様でありましたから、機嫌よく美少年を送り出した途端に、この気むずかしやの苦手(にがて)を迎えねばならぬお角さんは、ここでちょっと気合を外(はず)されてしまった形で、
「これはお嬢様、お帰りあそばせ」
 今まで美少年を相手にしていた砕けた気分がすっかり固くなり、言葉の折り目もぎすぎすしているようで、我ながらばつが悪いと感ぜずにはおられません。

         四十四

 そうして置いてお角さんは、お銀様の部屋へ御機嫌伺いに出ました。
 明日の出立のことには、もはや、お銀様もかれこれ言わないようでしたから安心していると、
「お角さん、わたし、少しばかりお前さんに頼みがある」
 改まった口上に、お角さんがドキリと来ました。頼みがあるなんぞと依頼式な物言いは極めて稀れなものですから、あとが怖いという気がしたのでしょう。
「まあお嬢様、そんなにお改まりあそばして、何の御用でもわたくしに仰せつけ下さるのに、否(いや)の応(おう)がございますものですか」
「あのね――明日出立の時、わたしは一緒に連れて行きたい人があるの」
「どなた様でいらっしゃいますか」
 そんなことはむしろお安い御用の部類だとお角さんが思いました。何となれば、お銀様のかかりで人一人や二人増す分には何でもないことです。費用といっても結局は自分の懐ろが痛むわけではなし、これに反し人減しを仰せつかって、おとものうちの一人でも、あいつは気に入らないから目通りならぬとでも言われようものなら、それこそ事だが、召しかかえる分にはいっこう差支えないと安心したのです。
 そこで、お思召(ぼしめ)しのお連れはどなた、と軽く応答をしてみたのですが、
「それはあの――お前がさっき玄関で送り出していた、あの若衆と一緒に旅をしたいのよ」
「え、え」
 お角さんは、思わずお銀様の面(かお)を見上げて、また急にその眼を伏せてしまいました。それっきりお銀様がつぎ足さないものですから、お角さんがようやく口を切って、
「あの、梶川様でございますか」
「はい、あの人を一緒に旅に入れて歩けば用心にもなり……」
「でございますが、お嬢様」
 お角さんは、退引ならず一膝乗り出して、
「でございますがお嬢様、あの方はいけますまい」
「どうして」
「どうしてとおっしゃいましても、あの方はあれで、相当の考えがございましょう」
「相当の考えと言ったって、お前、あんな騒動を起して、どこかへ隠れたがっている人だろう、どこときまったところへ行かなければならない方じゃありますまい」
「それはそうでございますけれどお嬢様、こちらでそうお願いしても、向う様も御都合がおありでしょうから」
「でも、お前から言って上手に話せば、承知をしないとも限りますまい」
「それは、お話し申す分には、わけはございませんけれども……」
「では、お前、このことを話して頂戴、そうしてわたしは、これからあの方を自分の駕籠(かご)に乗せて一緒に旅がしたい」
「何とおっしゃいます、お嬢様」
 お角は見まいとした、また、見てはならないはずのお銀様の顔を、また見直さないわけにはゆきませんでした。
 だがお銀様は冷々(れいれい)として、
「いけないの、お前だって、それをしたじゃないか。岡崎の外(はず)れから、あの方を自分の駕籠に乗せて、相乗りで来たことがあるじゃないの。お前がそれをして、わたしがそれをして悪いということがありますか」
「悪いと申し上げたのではございませんが、お嬢様――」
 お角は、言句に詰りました。呆(あき)れたからです。
「わたしはなんだか、そうして歩きたくなりました、あの方と相乗りをして、これでもう安心というところまで、旅をしてみたい気になりました。お前さん、その心持で、あの方にお話をしてみて下さい」
「それはお話を申します分には、いっこうさしつかえございませんが、お嬢様――」
 ここでお角さんは、何と要領を伝えていいか、また詰りましたけれども、急に思いついたように、
「お嬢様、あの方は只今、この名古屋にはいらっしゃいませんのです」
「ここにはいないの?」
「はい」
 お角さんは急に元気づいてきました。よい口実が出来たものです――
「では、どこにいるの」
「あの――清洲とか言いまして、ずっと遠方なんでございます」
「清洲――清洲は遠方ではありません」
 お銀様にピタリと食(くら)ってしまいました。事実、清洲という名だけはお角さんも聞いて知っている。名古屋から上方への方向だということは聞いて知っているが、どのぐらいの距離があるものやら、そのことは一向知らないのです。それで御同様、旅のことであるから、お銀様もやはり御多分には洩れまい、そこで、遠方だと言ってごまかしてしまえば自然この話はうやむやに解消ができるとこう考えたものですから、そう返事をしたのが誤算でした。つまりお角は自分の知識の程度と、お銀様の知識の程度とを同一に見たことからの誤算でしたが、事実お銀様は清洲というものを知り抜いている。土地そのものとしては、未(いま)だ未踏の地だが、名に聞いているというよりも、元亀天正以来の歴史と伝記の本で暗(そら)んじきっていることを、お角さんは気がつかなかったのがおぞましい。
 そこでピタリと抑えられてしまったから、もうお角さんとしては、二言を許されないのです。
 しかし、遠かろうとも、近かろうとも、あの美少年が清洲にいることは事実で、そうして上方へ行く途中にはぜひ立寄ってくれ、立寄りますと言葉を番(つが)えてあることも事実なのだから、お角はお銀様にそのことを打明けて、それならば明日出立、清洲のあの方のおいでになるところをお訪ねしての上、万事は、わたしが取計らってお目にかけましょうということで結びました。
 そうして、自分の座敷へ帰ったお角さんは、煙管(きせる)を投げ出して、苦笑いが止まりません。
 近頃お話にならないお取持ちを頼まれたものだが、どちらもどちら、まあ何という難物と難件を一緒に背負いこんだことか、ばかばかしいにも程があると、一時は呆れ返ったが、そこはお角さんだけにガラリ気のかわるところがあって、そうさねえ、また考えようによっては面白いじゃないか、あの綺麗で気性(きっぷ)のいい若衆を、こっちのお嬢様に押しつけてみるのも面白いことじゃないか――お夏は清十郎、お染は久松と相場がきまり、色事も型になってしまってるんでは根っから受けないね、お銀与之助なんていうのも乙じゃないか、一番ここいらを骨を折ってみたらどんなものか、お角さんの腕の振いどころというのも妙なもんだが、ちっとばかり変った取組みさねえ。だがねえ――何と言っても、こっちのお嬢様が役者が上だねえ。きれいで、腕が利(き)いて、目から鼻へ抜けた子ではあるが、何といってもまだねんねだからねえ、やがてお嬢様が食い足りなくなって投げ出さなけりゃいいが――だが、そうなったあとが、またまんざら捨てたものじゃないからねえ。
 お嬢様のしゃぶりっからしだって、まだまだあの子あたりなら、だしがたっぷり利きますからねえ、やりましょう、やりましょう、ひとつやってみましょう。
 お角さんはあわただしく、また煙管を取り上げて悠々と煙を輪に吹きました。

         四十五

 あんなようなわけで、飛騨の高山の空気が悪化すると同時に、平湯の景気が溢(あふ)れてきました。
 高山から平湯までは八里余、かなりの道程(みちのり)ですけれども、高山では遊びにくいものや、この際、保養を心がけるもの、或いは他国の旅人らが一時の避難として平湯の地を選ぶ者が多かったものですから、急に景気が溢れ出してきたということを聞き伝えて、高山を中心としていた芸人共がまた競って平湯の地に入り込み、そのまた景気を聞きつけて、諸商人ならびに近国近在の保養客が、ずんずん押しかけて来るものですから、平湯が思いがけぬ大繁昌を極めました。
 といっても、本来いくらもない宿のことですから、附近の農家でも、小屋でも、臨時に借受けの客が溢れ、泥縄のような増築が間に合い、そうして飛騨の平湯が、ここのところ山間の一大楽土になりました。
 そのくらいですから、朝も、晩も、浴槽の中は芋を盛ったようにいっぱいで、歌うもの、囃(はや)すもの、男も女も、若きも老いたるも、有頂天(うちょうてん)です。夜はまた広い場席を借りて、商売の芸人を呼ぶことでは事足らず、おのおのの得意な芸づくしがはじまる。
 平常の時に於ては、これらの客は、山間田野の無邪気な団体客が一年の保養をする程度であったけれども、今年の景気は全くばかな景気で、来るほどの者がみな有頂天となって、無邪気に保養は忘れてしまいます。
 こういう際にあって、人間の風俗が崩れ出すのは免れ難いことと見え、ただでさえ温泉場には、幾多のロマンスが起りつ消えつする習いなのに、こういう景気になってしまっては、若い者同士だけではなく、妻のある夫はもとより、夫のある妻までが、大抵はある程度まで、イヤなおばさんかぶれになるものらしい。
 それがまたこういう際に、ある程度まで黙認されるようなことになって、古(いにし)えの時代の歌合(かがい)、人妻にも我も交らん、わが妻に人も言問(ことと)えという開放性が、節度を踏み越させてしまうのも浅ましい。
 ここの場所、ここの瞬間だけでは、密会は公会であり、姦通も普通として、羨まれたり、おごらせられたりするうちはまだしも、ついにはそれがあたりまえのこととなってしまって、憚(はばか)る人目の遠慮も必要がなければ、羨み嫉む蟠(わだかま)りというものも取払われてしまってみると、なあにこういう開放時代は、一年に一度と言いたいが一生に一度あるかないのだから、野暮(やぼ)を言うものではない、ここ一日二日の後には、てんでに里へ帰って真黒になって稼ぐのだ、ここは暫く歓楽の世界、苦い顔をすることはない、人のするように自分もやれ、それがええじゃないか、ええじゃないか。
 高山でちょっと手を焼いたがんりきの百なんぞも、こんなところこそあいつの壇場であるべきはずだから、きっと、どこにか姿を見せて、湯気の後ろから山国の女の肌目の荒い細かいを覘(うかが)っていそうなものだが、さていずれを見渡しても当時、この平湯には奴の姿が見えないのは抜かりだとは思われるが、あいつは本来、温泉場は鬼門なので、温泉が嫌いなわけではないが、あいつの肌が駄目なのだ、いや、肌は自慢で見せたいくらいなんだが、五体の中の一部が人様の前へは出せないことになっている、すなわち、研(と)いでも、つくろっても、どうにもならない右の腕の筒切りにされている附根の不恰好というものが、がんりきの百の野郎ほどの図々しい面の皮を以てして、はりかくすことのできないという弱味が、人様の前で裸体を見せることを遠慮せしめるという、しおらしい次第になる。
 ですから、百はいかに目下の飛騨の平湯が肉慾の天国であっても、そこで衆と共に快楽を共にすることができないということになっているのは、あいつにとって悲惨の至りと言わねばならぬ。
 そんなことはどうでもよい、ここに集まる別天地の歓楽の衆の中に、がんりきの百がいようとも、女の相場が狂うわけではなく、あいつがいないとしても、色男の払底を告げるというわけでもなく、それぞれ適当に相手にはことを欠かないで、まず腰の曲った年寄と胸紐の附いた子供を除いては、男女ともにお茶を引くというようなものは一人もなかったはずです。
 北原賢次一行は、ここへ打込んで困りました。生命に別条はないけれども、内出血がしているから三四週間はかかるという負傷を、ここで療治しなければならぬ、品右衛門爺さんは越中の方へ出てしまったが、高山へ寄りつけないで立戻って来た町田と久助は、お雪ちゃんのことを心配しながら北原の看病です。その間、高山方面から続々来投の客に向って、それとなくお雪ちゃんらしいものの動静を尋ねてみるが、当てになるのは一つもない。
 そうしてこの三人は、薬師堂の一間を借りて養生をしながら、みるみる歓楽の天地になってゆく平湯一帯の景気を見て胆を冷してしまいました。
 大抵のことには動じないで来たが、この景気と羽目の外し方には呆(あき)れる。人間同士が世間態というものを忘れてしまって、快楽そのものが無方図に許される社会というものを見せつけられて、北原が憤慨したのは、自分は不幸なる怪我で、この歓楽の渦中へ投ずる機能を失った残念さをいらだったのではありません。人の好い久助さんですらが、あれで、間違いが起らないというのは……話に聞く畜生谷というのが、やっぱりこうした人気なところかしらん、それにしても、これらの人たちがみんな、人も許し、我も許し、いい気で遊び興じているその人情の無制限が不思議だ、と思わずにはいられなくなりました。
 北原の友人、町田なにがしなどは、自分がピンピンしているために、そう引込んでばかりはいられないと見え、時に賑(にぎ)わいの方へ姿を没しては、いいかげんの時分に戻って来ることはあるが、その都度、
「驚いたもんだ、驚いたもんだ、人間というやつがみんなここまで許し合っていると、全くお話にならん、及ぶべからず、及ぶべからず」
 こういう景気が連続して、いつ終るべしとも見えない歓楽の日が続くこと約七日ばかり、ここに歓楽の天地をひっくり返す物音が意外のところから起りました。
 その意外のところから起った物音が、これら歓楽のすべての色を奪い去り、塗りつぶしてしまいました。
 それは天意といえばいわれるほどの地位から、偶然に落下して来たのも、偶然といえば偶然、果然といえば果然かも知れません。

         四十六

 それは何事かといえば、この飛騨の平湯のつい後ろにそそり立っている焼ヶ岳、硫黄岳が鳴動をはじめたのです。
 焼ヶ岳は、信濃と飛騨に跨(またが)って、穂高と乗鞍の間に屹立(きつりつ)する約二千五百メートル、日本北アルプスの唯一の活火山ですから、鳴動することはそんなに不思議ではありません。常に煙を炎々と吐いているくらいの山だから、時に吼(ほ)え出すこともあたりまえなのであります。
 古来鳴動の歴史もずいぶん古いものでありましたが、土地が高峻にして人目に触るる機会が少なかったために、その鳴動も、浅間や磐梯のように、人を聳動(しょうどう)はせしめませんでした。ところが、この際、この歓楽の日うちつづくうちの或る夕方――突然鳴り出したことも、気にしたものとしなかったものと、気にするにもしないにも、それが耳に入らなかった者の方が多かったのですが、その夜寝て翌朝の暁、俄然とした大鳴動が、ほとんど平湯にいた残らずの人の夢を打ち破ってしまいました。
 この鳴動だけは、誰も聞かなかったというわけにはゆかなかったのは、山が大鳴動をしたのみならず、寝ている床の下が大震動をしたのですから、一時に夢を破られた連中がみな飛び出しました。
 飛び出して見ると、外は色の変った雪です。払って冷たくない雪でした。つまり今、ほとんど寝まきの半裸体や、或いは一糸もかけぬ全裸体で飛び出した総ての人の上に、盛んに灰が降りかかっているくらいですから、暁の天地は泥のようでした。
 つづいて第二、第三の大鳴動があって、地が震い、同時に頭上、山々の上の空に炎が高く天をこがしているのです。
 歓楽の客は狼狽せざるを得ません、仰天せざるを得ません。
 暫くは為さん術(すべ)を知らず、濛々(もうもう)と降りかかる灰を払うの手段もなく、呆然(ぼうぜん)と天を仰いで立ち尽したままです。
 しかも、その音は轟々として山の鳴動は続き、時々、きめたように地がブルブルと震え、霏々(ひひ)として灰は降り、硫気はいよいよ漂い、空は赤く焦(こ)げてゆくのです。
 飛騨の平湯の天地の昨日の歓楽は、今日の地獄となりつつ行きます。
 但し被害の程度としては、まだ何もないのですけれども、人心の滅却は被害の計算で計るわけにはゆかないのです。昨日までは我を忘れて、湯槽に抱擁し、土地に貪着していた人々が、今日はわれ先にとこの天地を逃れようとするところから、人間界に動乱が生じました。
 まず人間が人間の奪い合いをはじめました。それは物と物との奪い合いでもあり、肉と肉との奪い合いでもあるようだが、要するに先を争って逃げようとする者に対しての交通機関と、人夫の奪い合いが原因であります。
 北原賢次は存外、落着いていました。事実は、こう足を怪我していては、落着いているよりほかはせんすべがなかったのかも知れないが、それでも、昂然として言いました、
「それ見ろ、人間があんまりふざけると、山までがおこり出すわ」
 小気味よしと見たのではあるまいが、また、自分が逃げ出すことのできない腹癒(はらい)せの私怨とのみは思われません。
 全く、少しでも離れたところで見ていると、こうも人間がふざけ切ったのでは、山がおこり出すのも無理はない、と思われたのでしょう。
 天災は天災、人事は人事、ポンペイの町が腐敗していたことと、ヴェスビアスの山が火を噴き出したことと何のかかわりあらんやと言ってしまえばそれまでだが、地殻のゆるむところに人気もまたゆるむ、物心一元の科学的根拠をまだ発見した人はないが、人心のゆるむところに天変地異が来(きた)ることを、古来、人間は無意味に看過することはできなかった性癖がある。科学者はつとめてその両者を無意味、没交渉に看過せしめようとするけれども、人心の奥底には、誰しもその脈絡を信じようとしてやまぬものがあるらしい。
「焼ヶ岳も気が利(き)かない、鳴動するなら、軟弱外交の幕府の老中共の玄関先へでも持って行って鳴動してやればいいに、爆発するならば、黒船の横っ腹へでも持って行って爆発してやればいいに……」
と、町田が附け加えました。
 それはいずれにしても、このたびの鳴動は、容易ならぬ鳴動でありました。今までの分が、焼ヶ岳としては有史以来の鳴動であるとすれば、今後のことは測り知られないと言うよりほかはありません。
 北原、町田らは、やや離れた見方をしているに拘らず、これからの身の処置に就いてはなんらの思案のないところは、歓楽の一団と同じようなものです。
 山の鳴動と共に、地は時を劃して震動する。時を劃して震動するのがかえって連続的にするよりも人心を脅かす程度が深いのは、恐怖する時間の余裕を与えらるるからでしょう。
 空は暁ほど赤くないのは、つまり日中になったせいであって、火勢が衰えた結果ではないでしょう。その証拠には降灰がいよいよ濃くなって、のぼりのぼっているはずの天日をも望み難い色を深くしてくるのでもわかりましょう。
 爆発したのは焼ヶ岳ではない、硫黄岳だという者もあります。いや硫黄岳ではない、焼ヶ岳の南側だという者もあります。いやいや、焼も硫黄もどちらも噴き出しているのだ、手がつけられないと叫ぶ者があります――少なくとも五十里四方は火の塊(かたまり)になってしまうのだと泣きわめく者もあります。

         四十七

 それは焼ヶ岳であっても、硫黄岳であっても、どちらでもかまわない。信濃の人は、硫黄岳も焼ヶ岳も同じものに見るが、飛騨ではこの二つを区別している。
 それはそれとして、この鳴動と、そうして噴火と、地震とが、飛騨の平湯の人間の歓楽の法外を憤ったためのみではないという証拠には、それに恐怖を感じたものが、平湯の温泉の歓楽の人のみでなかったということでもわかります。
 平湯よりも一層、焼ヶ岳に近いといってもよろしい白骨の温泉に於ては、その被害と恐怖とを蒙(こうむ)ることの程度に於て、より大なるべきは疑いの余地もありません。しかし、ここ白骨温泉の客は、以前の通りで更に変らず、イヤなおばさんの全盛時代はいざ知らず、只今は平湯の客のように、人倫を無視した程度にまでの歓楽に酔っていたわけでもないのに、彼よりも危険なることなお一層の境地に置かれたのは、罪障のためでなく、運命の不幸と観ずるよりほかはないと見えます。
 もはや、白骨の温泉も、歌でもなし、俳句でもなく、絵でもなく、はた炉辺閑話でもありません。この鳴動と共に、みんな期せずして炉辺へ参集したけれど、それは万葉の講義を聞かんがためでもなく、七部集を味わわんがためでもない、さしもイカモノ揃いが悉(ことごと)くみな驚歎しきった色を湛(たた)えて、
「さて、どうしよう」
というは、ほとんど落城の際の最後の評定(ひょうじょう)みたようなものです。
 しかし、いずれも相当の教養と覚悟のある連中でしたから、悪怯(わるび)れるということもなく、この評定も決断的に一定せられてしまいました。
 すなわち、何といってもいまさら動揺することはすなわち狼狽(ろうばい)することである、これから険山絶路を我々が周章狼狽して足の限り逃げてみたところで何程のことがある、山が裂けた以上は、ここ数十里の地域は熱鉱を流すにきまっている、逃げられないものなら逃げるだけが無益、むしろここに最後を死守して、相抱いて溶鉱の中に埋れ去るのがいいのだ、鎮まるべきものならば時を待つに越したことはない、結局、運命を山に任して、山が動き出した以上は、人間がむしろ山の株を奪って動かざること人の如し――と度胸を据えた方が遥かに賢明である、勇略である。
 ということに、すべてが一致してしまいましたから、山の鳴動は劇(はげ)しくなるとも、白骨の人間にはかえって動揺を与えないで、一致の心を起させたものです。
 けれども、浴槽につかっても、今日は窓越しに青天のうららかさを見ることもできず、白骨の朝日に映(は)ゆるのを眺むることもできず、いわゆる天日を晦(くら)くして灰が外に降り籠(こ)めているのに、湯壺の底までが時々鳴動してくるものですから、湯の中にもいたたまれないで、期せずしてみんな炉辺へかたまって淋しい笑みを湛えてみたり、途切れ途切れに人の噂をしてみるくらいのものです。その噂も北原君らのことが主になるが、北原も平湯にいることは確実だから、その恐怖被難に於て、我々に劣らないものだということになると、思いやりもまた暗くなるばかりですが、その時、つい近くの入口の戸をトントン叩いたものがありましたから、またゾッとせざるを得ません。ところが外で案外のんびりした声で、
「おあけ下さい、鐙小屋(あぶみごや)の神主でございますよ」
 ははあ、鐙小屋の神主さん、そのことは忘れていた。その心細い程度に於て北原君よりもいっそう――気の毒千万、さすがの行者も心細くなって、ここをめざして降る灰の中を身を寄せて来たのだ。
 十二分の同情をもって入口をあけてやると、果して、鐙小屋の神主が蓑笠(みのがさ)でやって来たのです。蓑笠も灰でいっぱいですけれども、その被(かぶ)りものを取去った神主さんの面(かお)は相変らず輝いたもので、実に屈託の色が見えなかったことは、この際、一同をしてさすが神主さん――と感心させました。
「大変に山が鳴り出しましたね、しかしまあ、御安心なさいよ」
 こちらが同情したのがかえって先方から慰めの言葉を送られる。斯様(かよう)な際には、ただ単に平然たる人の面色だけを見てさえ大きな力になるものですが、この神主さんは平然たるのみならず、またいつものかがやきをちっとも失ってはいないのみならず、この天災にも充分の見とおしを置いて、あえて騒ぐに足らずといったような態度は、つまり、焼ヶ岳を鳴らしたのも、自分がちょっと火を焚きつけて来たことだから、みんな騒ぎなさんな、もう少しすれば音がしなくなる――ということをでも、わざわざ断わりに来たもののようでしたから、一同がそれだけに多大の心強さを与えられたもののようです。

         四十八

 とにかく炉辺に集まった一同は、鐙小屋の神主の来臨を、暴風の際の船の中に船長を見るような気持で注視しました。それと同時に、暴風の際に船長が自若たることが、すべての乗組人をいわゆる親船に乗った気持の安心に導くことと同様に、この神主の自若たる言語容貌が、すべてのイカモノを欣快せしめ、
「大丈夫ですか神主様、心配はありませんかね」
 神主は笠を取ったままで、蓑は脱がず、草鞋(わらじ)ばきのままで土間に突立っていて、炉辺へは上って来ないのです。
「心配はありません、火を噴く山を傍に持っていれば、この位のことは時々あると覚悟しておらにゃなりませんよ」
「そうですか」
「いったい、火を噴くと言いますが、火を噴いちゃいないのですよ、時々石を降らすには降らしますが、火は噴きませんや、夜になって赤く見えますが、ありゃ火じゃございません」
「ですけれども水を吹いてるわけじゃないでしょう、灰のあるところには火がなければなりませんからね」
「いや、火じゃごわせん、山の中には熱い腸(はらわた)がございまして、それが息を吹くだけのものなのです。だが、その息がなかなか侮り難いものでしてね、天明三年の浅間山の破裂を御存じでしょう。その次に上州の草津の白根山が破裂しましたね。あの時なんぞは、あなた、浅間山の下に石が降る、岩が降る、日中、これどころじゃありません、天はまっくらで、地には熱湯が湧き出してからに、山の下の田という田、畑という畑は一面に大河になってしまい、そうして、その付近三十五カ村というものが、この熱い泥の中へ陥没してしまいましてね、戸数にして四千戸、人間にしておよそ三万六千というものが生埋めになってしまい、牛馬畜類の犠牲は数知れませんでした」
「おどかしちゃいけません、神主さん、大丈夫だ、大丈夫だと言いながら、そんな実例を引いて人をおどかしちゃ困ります」
「それとこれとは違いますよ、硫黄岳、焼ヶ岳もずいぶん、噴火の歴史を持っているにはいますが、何しろ土地がこの通りかけ離れた土地ですから、人間に近い浅間山や、富士山、肥前の温泉(うんぜん)、肥後の阿蘇といったように世間が注意しません」
「神主さん、我々は噴火の歴史と地理を聞いているのじゃありません、この震動が安全ならば、何故に安全であるか、という理由を説明してもらいたいのです」
「なあに、この震動はこれは山ヌケといって、こうして山が時々息を抜くのですなあ、息を抜いては一年一年に落着いて、やがて幾年の後には噴火をやめて並の山になろうという途中なんですから、たいした事はありません、山の息です、山が怒って破れたのではありません」
「そうですか」
「山が怒る時は、そうはいきません。寛政四年の春、わしは九州にいて肥前の温泉岳(うんぜんだけ)の怒るのを見ました。その時は島原の町と、その付近十七カ村の海辺の村々がみんな流されて、いかなる大木といえども一本も残りませんでした。人間も二万七千人、海へ溺れて死にました。海の中の島が三つとも沈没してしまい、その代りに普賢岳(ふげんたけ)の前の峰が一つ破裂して、海の中に辷(すべ)り込んで新しい島となり、島原の町の南の方へ高さ六七十尺、長さ一里ばかりの堤が出来て海の中へ突出し、その付近は、害を蒙(こうむ)らぬところでも、地面が熱くてとても草履では歩けませんでした。二月でしたが、花の咲く木はみんな咲いてしまいました。ところで、その災難が有明の海を隔てた向う岸の肥後の国にまで海嘯(つなみ)となって現われ、それがためにあちらでも、五千人からの人が死にました。そのほか――」
「もうたくさんです。とにかく、今日のこの鳴動は、それらに比べては物の数ではないと証明なさるのですね」
「左様さ、あれは数百年に一度ある山の怒りでございまして、これは山の息抜きですから性質が違います。そのうち、わしは焼(やけ)へ参って噴火の本元を見届けて来ようと思いますが、今日は皆さんの御見舞を兼ねて、ひとつ皆さんの安心のために、山神の祓(はら)いをして上げたいと思って来ました」
「それは有難いことです、何よりのお願いですな、ぜひどうぞ、お足をお取り下さい」
「はい、はい」
 この時、はじめて神主は足をとって上りこみました。
 この連中、何程の信仰心と、清浄心を持っているかは疑問だが、この際、お祓いをしてやろうという神主様の好意には随喜渇仰の有難味を感じたと見え、それから神主のために祓いの座を設け、有合せではあるが、なるべく清浄な青物類を神前に盛り上げ、御幣(ごへい)も型の如くしつらえました。
 かくて、鐙小屋の神主は恭(うやうや)しく「山神祓(さんじんばらい)」をよみ上げる――
「高天原(たかまのはら)に神留(かんづま)ります皇親(すめらがむつ)、神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)をもちて、大山祇大神(おほやまつみのおほんかみ)をあふぎまつりて、青体(あをと)の和幣三本(にきてみもと)、白体(しろと)の和幣三本を一行(ひとつら)に置き立て、種々(くさぐさ)のそなへ物高成(ものたかな)して神祈(かむほぎ)に祈ぎ給へば、はや納受(きこしめ)して、禍事咎祟(あしきこととがたた)りはあらじものをと、祓ひ給ひ清め給ふ由を、八百万神(やほよろづのかみ)たち、もろともに聞し召せと申す――」
 さすが信心ごころの程を疑われるイカモノ共も、この時ばかりは、神主の御祈祷に、満腔の感激と感涙とを浮べたものです。
 祓いが終ってから、一座を見廻して、神主が言いました、
「弁信さんはどうしましたか」
「あ!」
 この時に、はじめて一座が舌を捲きました。
 弁信! そうだ、忘れていた、あのこまっしゃくれたお喋(しゃべ)り小法師はこの際どうしている、それは人から尋ねられることではない、こちらが気がついておらねばならぬ、呉越も助け合うべきこの危険の際の、同じ屋根の棟の下の一人ではないか、良斎はじめこの一座が、面を見合わせて言いました――
「ほんとに弁信君は、どうした」
「あの子は眠っています」
「眠っている!」
「ええ、今日で三日目です」
「三日目、その間、飲まず食わず?」
「三日の間は、いかなることがあっても起してくれるなと言いました」
「だって、この際――」
「忘れていました」
「起して来ましょうか」
「そうさ、いくら起すなと頼まれたからといって、この非常の際じゃないか」
 良斎はじめ一座が、自分たちながら忘れ方もここまで来ては、むしろ非人情に近いことを慚(は)じねばならない。それを鐙小屋(あぶみごや)の神主は、
「いやいや、あの子は大分疲れているから、当人がそういう望みでしたら、やっぱり寝られるだけ寝かして、起さない方がようございましょう」
「でも、あんまり長い」
「三日ぐらい寝通すことはなんでもありませんよ、わたしなんぞは、六日一日寝通したことでございましたっけ」
「眠り死ぬということはないですかね」
「眼を醒(さ)ますつもりで寝ていれば、いくら眠っても、眠り死ぬことはございませんよ」
「でも……この際のことですから、弁信さんを起しましょう」
「起さない方がいいです、あんな人は、醒めていい時にはきっと醒めますから、起すまでのことはないです」
「そうですか」
 神主は、弁信の眠りを妨げようとする一座の者を固くいましめて置いて、
「さて、わしは、久しぶりで、お湯をよばれます」
と言って、そのままスタスタと湯殿の方へ行ってしまいました。
 あとでは、炉辺の一座が、この時、はじめて弁信の噂(うわさ)を盛んに唇頭に上せてきました。何ということだ、今まで、小さくともあの人間一人の存在を忘れていたのは、何というおぞましいことだ、こうして家を同じうして、天災に遭(あ)ってみれば、死なばもろともという覚悟をきめて、かたまっていたはずなのに、そのなかの一人を忘れてしまうとは情けないことではないか、もし我々すべてが助かって、あの不具な小法師ひとりを見殺しにしたとあっては、世間への面目はもとより、我々の良心が許さないではないか。
 神主様はああは言うけれども、忘れていたのは我々の落度だから、ともかく彼の熟睡を醒まして、この天変地異を告げて、我々と運命を共にすることに相助け相励ますの誠を尽さなければ、天理人情に反くというものじゃないか。
 誰か行って起して来給え――
 なるほどもう三日目だ、三日眠り通している、「よく寝れば寝るとて親は子を思ひ」という古句もある、この天変地異がなくとも、万一の安否を見てやるのが同宿の相身互(あいみたがい)、かまわないから、誰か行って弁信君を起して来給え。
「心得た」
 そこで、堤一郎は直ちに立って弁信を起すべく、三階の源氏香の間へと走(は)せつけましたが、ややあって、足どり忙しく立戻って来て、
「諸君――いません、あの小法師の姿があの部屋に見えません」
「え」
「次の間にもいません、夜具蒲団(やぐふとん)はちゃんといま畳んだように、きれいに畳んでありますが、本人はいずれにも見えません」
「はて……」
 この際に於ても、これはひと事として捨てては置けない。つづいて二三の人が、追いかけてまた三階へ行きました。
 それらの人が戻って来た時も、前の堤と同様の視察で、寝具はキチンと整理してあるが、人間のかけらはどこにも見えないという報告は同じことです。
「どうしたろう」
「不思議だ」
 この時、裏口から面(かお)を出した風呂番の嘉七おやじが、
「弁信さんなら、もうちっとさっき、一人で風呂に入っていなさるのがそれでがんしょう――もうかなり長いこと、おとなしく湯槽(ゆぶね)につかっていなさるようですが、もう上ったかと見ると、音がしたり、念仏の声なんぞが出てまいります」
「ああそうか」
「なあんだ」
 それで安心したような、気を抜かれたようなあんばいで、一座ががっかりしました。

         四十九

 嘉七の報告通り、もうずっと以前、ちょうど鐙小屋の神主が抜からぬ面で、この炉辺を訪れた時分に、弁信はいつ起きたのか、ぶらりとやって来て、大一番の湯槽の中を、我れ一人の天下とばかり身をぶちこんでおりました。
 適度の湯加減になっている槽を選んで、それに身を浸けた弁信は、仰ぐともなく明り取りの窓のあたりを仰ぎ、ゆるゆる首筋を洗いながら、物を考えているかと思えば、念仏か念経(ねんきん)かの声がする。
 山の鳴動から、この湯壺の底までが地響きをすると言って、一座のイカモノさえ気持悪がって逃げたこの湯槽の中に、弁信は一向そんなことにお感じがないようです。しかし、弁信としては目こそ見えね、耳と勘とは超人的に働くのですから、醒めて起き出でた以上は、この異常な天変地異を感得していないはずはないのです。そうだとすれば普通の五官を持っている人と同様に、多少の恐怖をもって湯に向わねばならないはずなのに、そのことがありません。見えない目を向けた窓のあたりから、昼を暗くする雲煙が濛々(もうもう)と立ちのぼり、灰が降っていることをも感得しているはずながら、それも別段にいぶせきこととも感じてはいないようです。
 そこへ、やにわにガラリと浴室の戸があいて、太陽のようなかがやきが転がり込みました。これぞ、お湯をよばれるといって炉辺を辞した鐙小屋の神主でありました。
「おやおや弁信さん、お目醒めでしたかいな」
「はいはい、そうおっしゃるお声は、鐙小屋(あぶみごや)の神主様でございましたね。先日はあなた様によって命を助けられまして、ほんとうに有難いことでございました、あの時の浅からぬ因縁は、忘れようとしても忘れられないのでございますが、それよりも今もって、私の気について離れられないのは、あなた様のお手はまあ、なんという温かいお手でございましたろう、それからまたあの時にお恵み下さったお粥(かゆ)がまた、なんという温かいお粥でございましたろう、温かいのはあたりまえの炉の火までが、あの時の温か味は全く味が違いました。たとえばでございますね、世間の火で焚いた風呂の温か味と、自然に湧き出づるこうした温泉の温か味とは、同じ温か味でも温か味が違いますように、あなた様のお助けの手はほんとうに温かいものでございまして、あの時に、わたくしの身内に朝日の光がうらうらとさし込んで参りましたような気持が致しました」
 例によって弁信法師は、最初の御挨拶の返事だけがこれです。
「そうでしたか、それこそ朝日権現の御利益(ごりやく)というものですね、つまり朝日権現のあらたかな御光というものが、わしの身を通してお前さんの身にとおったというわけなのですよ」
「左様でございましょう、人間の身体といたしましては、たれしもそう変ったものでございませんけれども、神仏のお恵みを受けると受けないとによって、温か味が違わなければならない道理でございますね。あなた様のお恵みのすべて温かいのは、朝日権現の利益とおっしゃるお言葉を、わたくしは無条件に信ずることができるのでございます、朝日権現様はつまり大日如来の御垂迹(ごすいじゃく)でございましょうな」
「は、は、は、左様でござらぬ、朝日権現は、すなわち天照大神の御分身じゃ」
「天照大神はすなわち大日如来でいらせられると、たしか行基菩薩も左様に仰せでございました」
「は、は、は、お前さんのは、それは両部というものでしてな、わしはいただきませんよ」
「左様でございますか、しかし……」
 弁信法師が、なお何をか続けようとした時に、ズドーンと大鉄槌を谷底へ落したような音がしましたので、
「たいそう、今日は山鳴りがいたします」
 今になって山鳴りがいたしますでもあるまいが、ここではじめて弁信の頭が、天変地異の方へ向いて来たようです。
「今日ではありませんよ、昨日からですよ。弁信さん、お前さんには分るまいが、この上の方に硫黄岳、焼ヶ岳という火山があってね、それが昨日から鳴り出したのです」
「左様でございますか、道理で、空気に異常があると思っておりました、灰もずいぶん降っているようでございますね」
「みんな心配しているが、たいしたことはないから安心なさい」
「はいはい。では火を噴(ふ)く山が近辺にあるのでございますね。わたくしも、ある学者から聞いたことがございまして、山のうちには、現在火を噴いている山と、昔は火を噴いたが、今は火を噴かない山と、今こそ火を噴かないが、またいつ噴き出すかわからない山とがあるようでございますね」
「それはありますよ、現に、わたしが諸国を実地に見たところでも……」
 神主がなお続けようとしたところへ、また浴室の戸があいて、池田良斎が裸体で手拭をさげてやって来ました。

         五十

「湯加減はいかがですか……弁信さん、ようやくお目が醒めたようですね」
「はい、はい、良斎先生でございましたね。おかげさまで、ぐっすり三日の間というもの心置きなく休ませていただいて、ようやく只今、眼が醒めましたところでございます」
「食事はどうしました、いくらなんでも三日の間、飲まず食わず寝たんではお腹が空いたでしょう」
「ええええ、それはなんでございます、休ませていただく前にお蕎麦(そば)の粉を用意しておりましたから、これを枕許へ置いて食事に換えました」
「そうですか。で、起きる早々、こんなに長くお湯につかっていていいのですか」
「鐙小屋の神主様に、いろいろとお話を聞かせていただいておりましたから、時の経つのを忘れておりました」
「身体に障(さわ)りさえしなければ、いくら長くいてもかまいませんがね」
 その時、三人が四角の湯槽の三方を占めて、おのおの割拠の形に離れて湯につかり、形だけはちょっと三すくみのようになって、暫く無言でしたが、余人はともあれ、このお喋(しゃべ)り坊主に長く沈黙が守っていられようはずがありません。
「わたくしが或る学者から承ったところによりますと、ヨーロッパにイタルという国がございまして、そのイタルという国にペスビューという山がございました。最初は誰も火を噴いたのを見たものがなかった山だそうでございましたが、今よりおよそ二千年の昔に当って、この山が突然火を噴き出したそうでございます。その時に、山の麓にありましたポンプという大きな町が、あっ! という間もなくそっくり埋ってしまったそうでございますが、さだめてそれほどの町でございますから、何万という人がすんでいたのでございましょうが、それが、やはり、あっ! という隙もなく一人も残らず熱い泥で埋ってしまったそうでございますが、火を噴く山の勢いというものは、聞いてさえ怖ろしいものでございます」
 聞いてさえ怖ろしい――ではない、事実、その怖ろしいものが、眼前でなければ耳頭に聞えているに拘らず、弁信の述べたところは、全く客観の出来事を語るに斉(ひと)しいものですから、いくらか安心した池田良斎をして歯痒(はがゆ)い思いをさせずにはおかないと見えて、
「皆さんの前ですが、こうして神や仏が在(おわ)しますこの世界に、人間が左様に自然の惨虐に苦しめられなければならないのはどうしたものでしょうかね、罪も咎(とが)もない生霊(いきりょう)が何千何万というもの、あっ! という間もなく、地獄のるつぼに投げ込まれる理由が、我々共にはわかりません。悪い者が罪を蒙(こうむ)るのは仕方がないとしても、その何万何千と生きながら葬られるものの中には、全く罪を知らない良民や、行いのすぐれた善人や、罪も報いもない子供たちも多分にいたことでしょうに、神仏というものが在しましながら、それらをお救いなさらぬことの理由は、凡夫でなくても疑ってみたくなるではございませんか」
「人間界のもろもろの幸や、不幸や、天災地変といったものを、人間が人間だけの眼で、限りあるだけの狭い世界の間だけしか見ないで判断をするのが誤りの基でございます――人は一人として、罪を持たずに生きている者はございません、もろもろの災難はみな、人間の増上慢心を砕く仏菩薩のお慈悲の力なんでございます」
 弁信法師が息をもつかず答えてのけると、鐙小屋の神主が、それに横槍を入れました、
「いやいや、罪なんていうものは元来無いものなんですよ、人間界にもどこにも罪なんていうものはありませんよ。生き通しのお光があるばかりじゃ、天照大神の御分身が充ち満ちているばかりじゃ。天照大神はすなわち日の御神じゃ、八百万神(やおよろずのかみ)をはじめ、我々人間に至るまで、大もとはみな天照大神のお光の御分身じゃ、天照大神が万物の親神で、その御陽気が天地の間に充ち渡り、充ち渡り、それによって一切万物が光明温暖のうちに生き育てられるのじゃ。このお光を受けさえ致せば罪という罪、けがれというけがれ、病という病は、みんな祓(はら)い清めらるるにきまったものじゃ、『罪という罪、咎という咎はあらじ』と中臣(なかとみ)のお祓いにもござる、物という物、事という事が有難いお光ばかりの世界なのでござるよ」
 それを聞いて良斎は、けげんな面(かお)をして、
「これは大変な相違です、弁信さんは、一人として罪なきものは無しと言い、神主様は、罪という罪はあらじとおっしゃる、大変な相違ですね。少なくとも有ると無いとの相違ですが、でも拙者としては、あなた方のどっちにも服することのできないのが残念でござる」
 神主はそれを軽く受けて、
「これほどはっきりした天地生き通しの光がわからないと言われるのが、すなわち闇じゃ。光はこの通り輝きわたっているのに、それを光と見えんのじゃ」
「けれども神主様……」
 池田良斎が続けて言いました。
「平田篤胤(ひらたあつたね)の俗神道大意に、真如(しんによ)ノ無明(むみやう)ハ生ズルトイフモイトイト心得ズ、真如ナラムニハ無明ハ生ズマジキコトナルニ、何ニシテ生ズルカ、其理コソ聞カマホシケレ……とあったのを覚えていますが、そこですね、弁信さんのおっしゃるように、三千世界が仏菩薩のお慈悲ということならば、罪悪の出所が無く、神主様は物みなは天照大神のお光とおっしゃるけれども、夜は闇になり、罪もけがれも、病気もあって、人が現に悩んでいます、やっぱり平田大人(うし)と同様に、拙者にも、真如から無明の出所がわからない、生き通しのお光から闇とけがれが出るという理がわかりません」
 神主様がまたこれに答えました、
「池田先生、あなたは平田篤胤大人なんぞを引合いにお出しなさる心持がもういけません、あの人を学者とお思いなさるか知れないが、あの人は本当の学者ではありません、議論家のようで、理窟屋の部類を出ない人なんですからね、まして本当の神道家でありようはずはありませんよ、日の神の恵みを本当に身に受けた行者でもなんでもありません、日本の古神道の道を唱えた功はありましょうが、神徳を実際に身に体験した人ではないのですよ。そこへ行くと両部もいけません。では、日本で本当に天照大神のお光をわが身に体験した先達(せんだつ)は誰かとお尋ねになれば、それは黒住宗忠公でございますね。あなたが神の道を学びたいとのお心なら、それはどうしても黒住宗忠公から出立なさらなくてはいけません、平田大人(うし)ではお話になりませんよ」
 そこへ弁信が口を出して、
「わたくしは、平田篤胤大人というお方はお名前は承っておりますが、まだその御著書を拝承したことはございませんから、果して神主様のおっしゃる通り、学者であって本当の学者ではなく、議論家であって、理窟屋の範囲を出でないお方で、また果して真に神道を体得したお方であるかないか、そのことは存じませんが、もし真如と無明との御解釈を御了解になりたいならば、それは馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の大乗起信論をお聴きなさるに越したことはなかろうと存じますのでございます……」

         五十一

「大乗起信論と申しますのは……」
 ここまで来ると、弁信法師の広長舌が無制限、無頓着に繰出されることを覚悟しなければなりません。
 鐙小屋の神主も、池田良斎も、お喋(しゃべ)り坊主のお喋り坊主たる所以(ゆえん)を知っても知らなくても、この際弁信のために、饒舌(じょうぜつ)の時とところとを与えて控えるのは、やむを得ないことでもあり、また二人としても、この奇怪なるお喋り坊主から聞くだけ聞いてみないことにはと観念もしたらしく、鐙小屋の神主は相変らず夷様(えびすさま)の再来のように輝き渡っているし、池田良斎は一隅に割拠したまま沈黙して、湯の中で身体(からだ)をこすっています。
 さてまた、一方の湯槽(ゆぶね)の隅に短身と裸背を立てかけた弁信は、果して滑らかな舌が連続的に鳴り出して来ました、
「御承知の通り、馬鳴菩薩のお作でございまして、釈尊滅後六百年の後小乗が漸(ようや)く盛んになりまして大乗が漸く衰え行くのを歎いて、馬鳴菩薩が大乗の妙理すなわち真如即万法、万法即真如の義理を信ずる心を起さしめんがためにお作りになったものだそうでございまして、真如と無明との縁起がくわしく説いてございます。わたくしは清澄のお寺におりました折に老僧からその大乗起信論の講義を承ったことがございますが、真如、無明、頼耶(らいや)の法門のことなどは、なかなか弁信如きの頭では、その一片でさえこなしきれるはずのものではございませんが、不思議と老僧の講義を聴いておりまするうちに、しみじみと清水の湧くような融釈の念が起ってまいりまして、およそ論部の講義であのくらいわたしの頭にしみた講義はございませんでした。ちょうど只今、真如と無明の争いを承っておりますうちに、その講義の当時のことが思い出されてまいりました。真如が果して真如ならば、無明はそれいずれのところより起る、という平田先生並びに池田先生のお疑いは決して今日の問題ではございませんでした。真如の中に無明があって、真如を動かすものといたしますと、もはや真如ではございません、もしまた真如の外に無明が存在していて、真如を薫習(くんじゅう)いたすものならば、万法は真如と無明の合成でございまして、仏性一如(ぶっしょういちにょ)とは申されませぬ。真如法性(しんにょほっしょう)は即ち一ということはわかりましても、無明によって業相(ごうそう)の起る所以がわかりませぬ。真如即無明といたしますれば、無明を真如に働かせる力は何物でございましょう。真如は大海の水の如く、無明は業風によって起る波浪の如しと申しますれば、水のほかに浪無く、浪のほかに水無く、海水波浪一如なる道理のほどはわかりますが、円満なる大海の水を、波濤として湧き立たせる業風は、そもいずれより来(きた)るということがわかりませぬ。この風を起信論では薫習と申しているようでございますが、薫習の源が、また真如無明一如の外になければならぬ理窟となるのをなんと致しましょう。世間でよく譬(たと)えに用いまするところの、蛇、縄、麻の三つでございますが、麻が形を変えますと縄になりますが、本来、麻も、縄も、同じものなのでございます。真如と無明とがまたその通り、一仏性が二つの形に姿を変えたものでございますが、その縄を蛇と見て驚くのが即ち人の妄想でございます……と申しましても、巧妙な譬えには巧妙な譬えでございますが、やはり良斎先生の御質問には御満足を与え得ないと存じます。つまり、麻と縄との同質異相は疑いないと致しましても、そのまま縄を蛇と見るものは衆生(しゅじょう)の妄想といたしましても……現実多くの人の煩悩(ぼんのう)は、怖るべからざるものを怖れ、正しく見るべきものを歪(ゆが)めて見るところから起るのでございまして、多くは皆縄を蛇と間違えて諸煩悩の中に生きているものには相違ございませんが――それは事実上の世界のことでございまして、只今の究竟的御質問には触れてまいらぬのでございます。良斎先生はその二つの譬喩(ひゆ)をお疑いになるのではなく、ただ麻が縄となるその外縁がわからぬようにおっしゃるのでございましょう。麻と縄とが同じものだということはお疑いにならなくとも、では、何者が麻を縄にしたか、その力を知りたいとおっしゃるのでございましょう。
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