大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 竜之助も、それを拒む由はないが、喜んで出て行ったお雪のあとに、一抹(いちまつ)の淋しいものの漂うのに堪えられない気持がしました。

         二十八

 ちょうどその日、代官の屋敷では新お代官の胡見沢(くるみざわ)が、愛妾のお蘭の方と雪見の宴を催しておりました。
 雪見といっても、雪は降っていないのですが、三日前、チラチラふった雪の日に、一杯飲もうと言ったのが、急の用件で延び延びになったために、今日その雪見の宴を開いて、水いらずに楽しんでいるという次第です。
 そこへ、女中が取次に来ました。
「あの、いつも見えます鶴寿堂が参りました」
と、それは主人公の胡見沢に向っての注進ではなく、お部屋様のお蘭さんの顔色をうかがっての取次でした。
「政吉が来たかい、政吉ならここへお通し」
 お蘭の方は、主人の同意を得ることなしに、独断でこの席への出入りを許したものです。
 まもなく、女に導かれて、廊下伝いにこの席へ現われたのは、相応院のお雪ちゃんをお得意とする貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしくいえば、白骨へイヤなおばさんが同伴して来た浅吉という男とそっくりなあれです。
 番頭は敷居外にうずくまって、額が畳へ埋れるほどにお辞儀をしました。いつも御贔屓(ごひいき)にあずかるお部屋様に対しての敬意ばかりではない、飛騨一国を預るお代官の御列席へ、特に入場を許さるる自分の待遇に恐れ入ったものと見えます。
「何ぞ面白い本が出たかえ」
と、お部屋様のお蘭が聞きました。
「はい、うつし本ではございますが、近ごろ評判の新刊物が出来ましたから、ごらんに入れたいと存じまして持って参りました」
「それは御苦労、ここへ出してごらん」
「はいはい」
 若い番頭は、一層の恐縮をもって風呂敷を解いて、その中から薄葉綴(うすようつづ)りの三冊を取り出して、
「はい、ただいま評判の種彦物でございます、絵の方も豊国でございまして、なかなか出来がよろしうございます、写し本ではございますが、原本の情味がすっかり出ているものでございますから」
と言って、恐る恐るお蘭の方の前へ捧げたのは、赤い色表紙の美しい製本になっていましたが、中身はこの二三日来、お雪ちゃんが丹精をこらして書き上げた「妙々車」であります。
「まあ、ちょっとお見せ」
 女中の手からお蘭はその冊子を取り上げて、中身をめくり、
「これは面白そうだね、雪国の話、大きな熊が出ているわ――誰が写したのか女の手のようね、なかなかよく書いてある、絵もよくうつしてあるわねえ」
 それがお目に止まったのは、得たり賢しというみえで、番頭が、
「うつしたのは、いいところのお嬢様なんですが、特にお頼みして書いていただきました、その初(はつ)おろしをこちら様に読んでいただきたいものでございますから、まだ綴目(とじめ)折らずでございます」
 商売柄、如才ないところがある。なんにしても初物は気持が悪くないと見えて、お蘭の方の御機嫌も斜めでなく、
「では、ゆっくり貸して置いて下さい、これんばっかりじゃないでしょう、まだあとが続くんだろうねえ」
「ええ、続くどころではございません、まだあとが五十冊もございます、一生懸命うつさしておりますから、追々とごらんに入れまする」
 若い番頭がまた頭をこすりつけると、いよいよ御機嫌のよいお部屋様は、
「まあ、政ちゃん、こっちへ入って、殿様から一つお盃を頂戴なさい、今日はわたしたちの雪見だから無礼講よ」
「これは恐れ入りました」
「御前様、これがあの鶴寿堂の政吉でございます」
「そうか、入れ入れ、今日は雪もないのに、この女からせがまれて雪見だ。貴様、なかなかの色男だという評判だが、何か艶種(つやだね)があるなら語って聞かせろ。それ――」
 これが、いわゆる新お代官の下し置かれるお言葉で、そのお言葉が終ると、それと言って投げてくれた盃です。
 恐れ入ってしまって、その受けようも知らないでいると、お部屋様が、
「政どん、御前がああおっしゃるから、御辞退は失礼だよ、遠慮なくこちらへ入って頂戴なさい」
 ぜひなくその前へ引き込まれて、御両方(ごりょうかた)の前へ引据えられたという次第です。
 引据えられると共に、下し置かれた盃を恭(うやうや)しくいただかねばなりません。
「ほんとうにこの政どんは、人間がおとなしくって、商売に勉強で、親切気があるといって、お得意先で持てること、持てること……町の芸妓(げいしゃ)たちなんぞは、政どんからでないと、本を借りないことにしてあるそうでございますよ」
とお部屋様がはしゃぐ。新お代官は頷(うなず)いて、
「そうかそうか、色男というやつは得なもんだ、拙者もあやかりたいものだ」
「御前、この政どんは、一まきがみんな色男に出来てましてね」
「うむ、そうか」
「これの兄さんなんぞは、またどうして……」
 お蘭が、はしゃぎついでに、何か素破抜(すっぱぬ)きをやり出しそうなので、周章(あわ)てて盃を下に置いた若い番頭は、
「ああ、どうぞもう御免くださいまし、それをおっしゃられますと、消えてしまいとうございます」
「何のお前……」
とお蘭さんは、多少の御酒かげんでけっきょく面白がって、
「何のお前、恥かしいことがあるものかね、お前の兄さんなんぞは、高山第一の穀屋のお内儀(かみ)さんに惚れられて……」
「どうぞどうぞ、御勘弁くださいまし」
「勘弁どころか、お前の方から堪忍分(かんにんぶん)を貰いたいくらいのものだよ。高山第一の穀屋のお内儀さんに、この人の兄さんの浅さんというのが、すっかり可愛がられちまいましてね、御前……」
「もうたくさんでございます、もうおゆるし……」
 政吉は盃を下に置くと、身を翻えして、あたふたとこの場を逃げ出してしまいました。それを抑えようでもなく、あとでは、新お代官とお部屋様の高笑いがひときわ賑わしい。

         二十九

 これより先、あんな喜び方で、竜之助にしばしの暇乞(いとまご)いをしたお雪は、自分の座敷へ取って返すと、同時に気のついたのはこのなりではどうにもならないということでした。内にいる分には何でもいいが、外へ出るには、これでは……と悄気返(しょげかえ)ったのも無理はありません。あれ以来今日まで、まだ町へ下りたことのないのに、これでは仕方がない、ほんとうに貰い集め、掻集め同様の衣裳で身をつくろっているという有様ですから、全く出端(でばな)を挫(くじ)かれてしまいました。
 といって、買物を止める気にはさらさらならない、と、目についたのが、衣桁(いこう)にかけた例のイヤなおばさんの形見の小紋の一重ねです。あれを引っかけて行こうか知ら、あれなら、どうやら外聞が繕(つくろ)えるが、気恥かしいばかりではない、見咎(みとが)められた時の申しわけにも困りはしないか。
 といって、やっぱりこの場は、あれを着て行くよりほかはない。いっそ晩にしようかと思いましたが、夜は物騒であって、とても一人で出て行けるものではない。これにひっかかったお雪ちゃんは、ほとんど当惑に暮れてしまったが、ふと、壁に寺用の雨具のかかっているのを認めました。
 雨具というけれども、それは雪具といった方がいいかも知れない。竹の笠と、半合羽(はんがっぱ)と、カルサンと、藁沓(わらぐつ)といったようなものが、取揃えられてあるのを見ると、あれをお借りしようという気になりました。
 あれですっかり身ごしらえをして行けば中身は何でもかまやしない、ちょうどあんなふうにして、近在や山方から出て来る娘さんの姿をよく見かける、この辺ではかえって、あんなにして出た方が目につかなくていいと思いました。

 まもなく、笠と、合羽と、かるさんで、町へ下りて行くお雪ちゃんの姿を見ました。
 なるほど、こうして行く方がこの辺では目に立たない、笠の中をわざわざ覗(のぞ)いて見ない限り、見咎められるはずはない、また、見咎められたとて必ずしも暗いこともないけれど、この方が安心だと、自分も思い、周囲のうつりもよかったのです。
 そうして、無事に、久しぶりに町へ出て見ましたが、焼跡の工事もかなり進んでいる。どこでどう買物をしていいか、ちょっと戸惑いをするが、ほぼ勝手を知った宮川筋を上って行くと、そこに一つの大きな小屋が立っていて、その小屋が全部、公設市場のようになっているのを見ました。
 これは、火事あとへ直ぐに出来た「お救い米」の小屋であったことをお雪ちゃんも知っている。今は、「お救い米」の時は過ぎたが、そのあとが、白米をはじめ諸日用品の廉売所となっていることは今はじめて知りました。
「お救い米」が済んだ後で、諸色(しょしき)が高くなるにつれて、売惜み、買占めをする奴がある、それを制するためにお代官が建てたものだということまでは知らないが、ともかく、この市場へ入れば、大抵の物は買えるような組織になっているのだという目利(めき)きは直ぐにつきました。そこで、お雪ちゃんは、遠慮なくこの市場の中へ入って行きました。別段に恥かしい思いなんぞはなく進入することのできたのも、この臨時の仮装の賜物(たまもの)、なるほど、自分同様の装束をした近在山里の女連が、ずいぶんこの中にいますから、心強いようなものです。
 お雪ちゃんの主なる目的としては、小豆とお頭附きを買うことにあるのです。小豆は直ぐに用が足りたけれども、お頭附きは何を買っていいか、ちょっと惑わされて、あれこれと見つくろっている。
 そこへ、お代官のお見廻りがあるというので、市場のうちがざわめいて、またひっそりとしてしまいました。売る者も、買うものも、みんな恐れ入ってしまった。大抵は土下座をきって静まり返ってしまいましたが、お雪ちゃんはどうも土下座をする気にもなれず、そうかといってうろうろしてもいられないから、乾物屋のうしろに小さくなっていると、巡検のお代官がその前へやって来たのです。
 新お代官というのは、赤ら顔のでっぷり太った男で、向う創(きず)まであるが、お代官としては存外、磊落(らいらく)な性質と見え、大声で附添の者と笑い話をしながらやって来る。実はこの公設市場は、お代官として得意な施政の一つなので、この非常の際の買占め、売惜みを防ぐものに、逸早(いちはや)く官権の手で日常物価の公平を保つ機関を作り上げた、成績がなかなかいいという報告を聞いたものだから、この際、実地検分に来たものと見えます。
 事実、この新お代官なるものは、ずいぶんと悪い噂(うわさ)もあるが、またなかなかの苦労人と思われるところもあり(前身はなんでもバクチ打ちの経歴まであるということ)したがって型破りの手腕を見せることがないではない。現にこの公設市場なんぞは、たしかに悪いやりかたではなく、物価政策の機先を制したなんぞは、たしかに月並みのお代官にはできない働きだと賞(ほ)める者もあるくらい。
 そこで、大得意で巡検してお雪ちゃんのいる乾物屋の前まで来ましたが、お雪ちゃんは直ちに、このお代官様は少々酔っていらっしゃると感じました。本来得意のところへ、一杯機嫌でしたから、怖いものの元締になっているお代官が、開けっ放しの心安いものに見えないではありません。
 笠は取りたくはないが、被(かぶ)っているわけにはゆかないから、取外してお雪ちゃんが頭を下げていると、それが早くもお代官のお目にとまったようです。
 いったい、悪い領主やお代官には、自分の女房や娘は滅多に見せるものではないのです。慣れたものは大抵そのへんは心得ているが、お雪ちゃんはあらかじめ、そんな気兼ねを置くの余裕もなにもなくして出て来たのですが、笠で隠していれば何のこともなかったのですけれど、こうして笠を取ってみると、その衣裳と面立(おもだ)ちとはどうしても釣合わないことが、この際、誰にも認められることになるのはやむを得ませんでした。
 そこで新お代官は、お雪ちゃんの前でちょっと足を止めました。
「お前はこの店の掛りかい」
 不意に言葉をかけられたので、お雪ちゃんはうろたえ、
「いいえ――」
 その返答ぶりだって、近在の山奥から出て来た娘ではない。
「どこだい」
「はい」
 お雪ちゃんは返答に窮してしまったが、折よくそこへ来合わせた兵隊が一人、
「もはや、あの農兵の組合せが出来上りまして、いつにても調練の御検閲をお待ち申しております」
「ああ、あの農兵の調練か、この足で出向いて行く、御苦労御苦労」
 お雪ちゃんを見ていた新お代官は、この兵隊の復命を聞くと頷(うなず)いて、前へ歩み出しましたが、どうも横目でじろじろとこちらを見ていられるようで気味が悪い。
 それでもその場はそれだけで、何のこだわりもなく、市場は以前のような喧噪(けんそう)と雑沓(ざっとう)にかえり、お雪ちゃんは首尾よく手頃のお頭附(かしらつ)きを買って家へ帰りました。
 帰ってみると、何にするためか、碁盤を前にして、紙を畳んでは刻み、刻んでは畳んでいるところの竜之助を見ました。
 お雪ちゃんはいそいそとして、買い調えたものの料理にかかり、それより適当の時間に、やや早目な晩餐が出来上り、やがて睦(むつ)まじく膳を囲みました。
 お祝いが済むと、また緊張しきった気持で新しい仕事にとりかかる心持まで、充実しきっておりました。

 しかしお雪ちゃんが立って行くまもなく、例の公設市場に一つの難題が起ったことは、お雪ちゃんの知らない不祥事でした。
 それは、お代官から改まって三名ばかり役人が見えて、さいぜん、お代官が検分の砌(みぎ)り、この乾物屋の附近に立っていた在郷らしい女の子はいったいありゃ何者だ、どこの誰だか詮議(せんぎ)をして申し上げろということです。
 そこで、市場の上下が総寄合のように額を集めて、あれかこれかと詮議をしてみましたけれども、要領を得たようで得られないのは、本人はたしかに見たが、その在所が一向にわからないことです。小豆を買い、お頭附きを買い、その他、椎茸(しいたけ)、干瓢(かんぴょう)の類を買い込んで行ったことは間違いなくわかりましたけれども、どこの何者かどうしても分らないのです。ただ、言葉つきから言えば、決してこの山里から来た者ではなく、そうかといって、土地の者でも、上方風の者でもないことは明らかだし、その風采や、品格から言えば、なかなか山里や在郷の者ではないが、いでたちは、ざらにあるこの辺の山出しの娘にちがいなかった――ということだけは誰も一致するのですが、さてそれが何者で、どこから来たかということは一向わからない、それに、連れといっては一人も無く、たった一人で来たことも間違いないから、聞き合わせる手がかりもないことです。
 その旨をお代官の下役に答えると、下役の御機嫌の悪いこと。
 こういう意味で、あいまいに復命すれば、それはきっと隠し立てすることの意味のほかに取られるはずはない、もし身許がわかってお召出しを蒙(こうむ)った日には、及ぼすところの迷惑甚大なところから、身許不明ということにさえしておけば、まずは無事――という算段から出たとお代官に睨(にら)まれるにきまっている。お代官の威勢として、たった一人の山出しの娘が突留められないとあった日には、自分たちの首の問題でもある。そこで下役は自然市場の連中に辛く当らなければならない段取りになる。
「そういうあんぽんたんの行き方で、商売がなるか! 言葉尻をつかまえておいても方角はわかりそうなものだ。貴様たち、心を合せてかくまいだてするなら、その了見でええ、吾々にも了見がある、明朝までにきっと詮議をしてなにぶんの返事をせい」
 こういって市場連を威丈高に嚇(おど)し立てたものです。
 この嚇しは利(き)きます。今晩は寝ないでも市場の関係人全体は手をわけても、その身許を突きとめない限り市場組合員は所払いとなるか、欠所(けっしょ)となるか、そのことはわかりません。

         三十

 その夜の――暁方のことです。
 最初に宇津木兵馬が触書(ふれがき)を読んだ例の高札場のところ。
 歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹。
 がんりきの百という野郎が、芝居気たっぷりで隠形(おんぎょう)の印を結んだ木蔭。
 あそこのところへ、また以前と同様な陣笠、打裂羽織(ぶっさきばおり)、御用提灯の一行が、東と西とから出合頭にかち合って、まず煙草を喫(の)みはじめました。
 東から五人、西から五人――かなりの仕出しが、舞台の中程、柳の下へずらりと御用提灯を置き並べ、その附近の石と材木とへ一同ほどよく腰を卸して、申し合わせたように煙草をのみ出したことは、この間の晩と今晩とに限ったことではなく、いつもここが臨時非常見廻役の会所になっていて、ここで落合ってから、東の奉行は西へ、西の奉行は東へ、肩代りをして一巡した後にお役目が済んで、おのおのの塒(ねぐら)へ帰る順序ですから、ここは会所であると共に、交番所であり、同時に東は東の動静を、西は西の持分の動静を、おのおの報告し合って、役目の引きつぎ所ともなる。
 けれども、会合、交替、引きつぎ、すべてそう改まって角立ったことはなく、こうして三べん廻った煙草のうちの、出放題の世間話のうちに含まれて、そのすべての役目が果されてしまうわけです。
 そこで、先晩は、専(もっぱ)ら下原宿の嘉助の娘のお蘭の出世が話題となり、後ろに聞いていたがんりきの百を大いにむずがゆがらせたが、今晩もあの調子で、
「時に、市場でも難儀が降って湧いてのう、あの娘(あま)っ子(こ)、まだ身性(みじょう)がわからんかいのう」
「まだわからんちうがのう、困ったもんじゃのう、なんでも市場の世話役は、勧賞(けんじょう)つきで沙汰をしおるちうが、つきとめた者には二十両というこっちゃ」
「二十両――このせち辛い時節に、えらい掘出しもんじゃのう」
「市場連も、勧賞と聞いた慾の皮の薄いわいわい連も血眼(ちまなこ)じゃがのう、明日の九ツまで見つからんと、あの市場総体が欠所を食うじゃろうて」
「何してもそれは気の毒なこっちゃ、勧賞はどうでもいいが、市場連を助けてやりてえもんじゃのう」
「一骨折っちゃ、どうでごんす」
「さあ、当番でなけりゃ、何とか一肌ぬいでみようがなあ、いったい、手がかりはあるのかや、物怪変化(もののけへんげ)が、木の葉をもって買いに来たわけじゃあるまいからのう」
「物怪変化じゃねえさ、ちゃんと世間並みの鳥目(ちょうもく)を払って、小豆と、お頭附きと、椎茸(しいたけ)、干瓢(かんぴょう)の類を買って行かれた清らかな娘(あま)ッ子(こ)じゃげな――払ったお鳥目も、あとで木の葉にもなんにもなりゃせなんだがな」
「小豆と、お頭附きと、椎茸、かんぴょうを買うて行ったんや、何かお祝い事じゃろう」
「どんなもんじゃろう」
「わしゃ思いまんなあ、その娘ッ子、山家(やまが)もんじゃごわせんぜ」
「だが、合羽、かんじき、すっかり山家者のいでたちじゃったということじゃ」
「でも、山家者なら椎茸なんざあ買いやしませんがな」
「はてな」
「木地師(きじし)の娘ッ子じゃござらんか」
「木地師の娘ッ子なら、たんと連れ合うて来るがな、一人で来るということはごわせんわい、それに、木地師の娘ッ子ならお尻が大きいわいな」
「土地ッ子ではなし、よそから奉公に来ている娘ッ子という娘ッ子はみんな人別を調べてみたが、当りが無いというこっちゃ」
「何とかならんもんかなあ」
「明朝九ツまでにわからんと、首ととりかえせんじゃがなあ」
「そうじて泣く子と地頭にゃ勝たれんわな。水戸の烈公さんなんて、あれでなかなか強(ごう)の者(もの)でいらっしゃったるそうな」
「水戸様の奥向は大変なことだってなあ、で、以前一ツ橋様なんぞがお世継(よつぎ)になろうものなら、それ、あの親子して狒々(ひひ)のように大奥を荒し廻るのが怖ろしいと、将軍様の大奥から故障が出て、温恭院の御生母本寿院様などは、慶喜が西丸へ入れば、わたしは自害すると言って、温恭院様の前でお泣きなされたそうな」
「奥向ばっかじゃないな、御領内の女房狩りでは、百姓の女房でもなんでも御寵愛(ごちょうあい)なさるそうだげな、前中納言様が……」
 時々、水戸家に関する有る事、ない事の浮評が、この辺、この連中にまで伝わっていると見え、消えかかった提灯の蝋燭(ろうそく)が、またはずみよく燃えさかるのである。
「水戸の今の殿様は、結城(ゆうき)から入った阿(お)いねというのを御寵愛になるげなが、この女子(おなご)は、昼はおすべらかしに袿(うちかけ)という御殿風、夜になると潰(つぶ)し島田に赤い手絡(てがら)、浴衣(ゆかた)がけという粋(いき)な姿でお寝間入りをなさるそうな。それでそれ、こっちの親玉(新お代官)も、もとは水戸の出身じゃろう、その真似(まね)をなさるわけでもあるまいが、あのお蘭のあまっ子も、夜分になると、潰し島田に赤い手絡といった粋な風俗(なり)に姿をかえるげな」
「誰か、お寝間の隙見をしたものがあるのかね」
「いやもう、その辺のことは格別――水戸様ばかりじゃござんせんわい、わしらが聞いた大名地頭の好者(すきもの)には、まだまだ凄いのがたんとございますって。ここのお代官なんぞは、やわいうちでござんすべえ」
「何しても、泣く子と地頭には勝たれん、市場連中のために、その女子の心あたりを、これからなりとせいぜい頼みますぞ」
「はいはい、他人事(ひとごと)じゃごわせん」
「じゃ、これで交替」
「いや御苦労さま」
「いや御同様さま」
「どうれ」
「どっこい」
「どうれ」
「どっこい」
 こうして、東西五人ずつの非常見廻りの交替と引きつぎの事務は済んでしまったもので、おのおの御用提灯が右と左へ悠長に揺り出して行く。
 この交替と引きつぎが済んでしまった後、気のせいか、この間の晩のように、柳の木蔭にまだ何か物怪(もののけ)が残っているようです。
 あの時は、がんりきの百の野郎が、あわててくしゃみを食い殺して背のびをしたが、そう毎晩、柳の下にがんりきがいるはずはないが、どうも非常見廻りの連中が去った後に、おのずから人の気配が柳の木蔭から、ぼかしたようにうっすりと現われて、やがて影絵のような影がさしました。
 それは別人でなく、この前の晩に宮川の川原の蘆葦茅草(ろいぼうそう)の中を、棺巻(かんまき)の着物をかかえてさまようた怪物、桜の馬場で馬子を斬ろうとして逸走せしめたあの覆面が、今晩もまた、夜遊びに出たのです。
 何の目的ということもなく、何の理由ということもないが、一旦、夜遊びの味を占めると、少なくとも一晩に一度は夢遊の巷(ちまた)を彷徨(さまよ)うて帰らないことには、血が乾いて眠られないらしい。
 この柳の木蔭にいたのは、今晩、この見廻りの連中を斬ってみようとのためでないことは、隠れていながら、少しも殺気を感じなかったのでもわかるが、ひらりと鱗を見せただけで高札場の後ろに消えてしまいました。
 そこからは、加賀の白山まで見とおしの焼野原――
 犬の遠吠えも遠のいて、拍子木の音も白み渡って、あたり次々に鶏の声が啼(な)き渡る。

         三十一

 その晩、相応院へ帰って来た机竜之助は、いつもあるべき人の気配(けはい)が無いことを直覚してしまいました。
 その蒲団(ふとん)の裾につまずき倒れようとして踏みこたえながら、夜具の中へ手を入れてみたのですけれども、中は冷たくありました。
 その面(かお)に、近頃に見なかった、すさまじい色が颯(さっ)と流れたが、どうする手だてもないと見え、そのまま刀を提げて、さっさと屏風(びょうぶ)のうちに隠れてしまって、その後の物音がありません。
 夜は全く明け放たれたけれど、今日は早く起きて水を汲む人もなし、部屋を掃除する者もなし、膳を調えて薦(すす)めようとする者もないが、座敷の一方だけはあけ放されたままです。だがあけ放されたのは、その一方だけで、他の部分は、日脚が高くなっても戸足は寂然として動かないのです。
 こうして日がようやく高くなっても、物の音は、内からも外からも起りません。寺男夫婦はこのごろ、夜の明けないうちに山伐りに出かけてしまうのを例とする。
 日が高くなったのに、いつもあけらるべきはずの家の戸があかないのは寂しいものだけれども、その戸の一枚だけがあけられて、他のみんなが閉されたままであることは、むしろ凄いものです。最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱(くつぬぎ)に血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
 こうしている間に、ずんずん時が経ち、日がのぼります。矮鶏(ちゃぼ)が夫婦で連れ添うて餌をあさりに来たことのほかには、いよいよ訪(おとな)うものなしで、開け放されたいちいちの戸が、唖(おし)の如く動かないでいるばかりでした。
 けれども、ようやく一人の人があって、麓から登って来ました。例によって背に負うた萌黄色(もえぎいろ)の風呂敷包だけを見ても、これぞ毎日の日課としてやって来る鶴寿堂の若い番頭であることは疑いありません。
 果して、若い番頭は、えっちら、おっちらとやって来て、
「おや――」
とつぶやきました。あのこまめなお雪ちゃんが、今朝はまだ戸もあけていないということがまず怪訝(けげん)の念を刺激したと見えます。それは尤(もっと)もな怪訝で、廻って見ると怪訝が一種の恐怖に近いものになりましたのは、あけないならあけないでいいが、その一枚だけが確かにあけられてあることを発見したからです。
 若い番頭――たしか、新お代官の寵者(おもいもの)お蘭さんの言うところによると、浅吉の弟で政吉といったと覚えている。
 政吉はその時に慄(ふる)え上りました。
 盗賊? 人殺し?
 同時に、まえ言った通り、敷居の溝と沓(くつ)ぬぎのあたり一面に血がこぼれているのではないかと打たれました。
 だが、血はこぼれていなかったけれども、縁の下のところと、沓ぬぎとにおびただしい人の足跡がありました。
「あっ!」
と政吉が慄え上って、中を覗(のぞ)き込んだ縁の内側にはお雪ちゃんのさしていた、赤い塗櫛(ぬりぐし)が落ちているのを認めました。
「もし、お雪様、もし……」
 辛(かろ)うじて呼んでみたけれども、返事がないのです。ないのがあたりまえで、返事をする者があるくらいなら、戸がポカンと口をあいているはずがないのです。
 政吉は恐怖に襲われて、誰か人を呼んでみようとしたけれども、このあたりに人は無し、寺男を兼ねた夫婦の家は少し下のところにあるが、これは毎日、山仕事に行ってしまって、夕方でなければ戻らないことを政吉がよく知っている。
「もし、お雪様、お休みでございますか、鶴寿堂でございますが」
 恐る恐る中を覗いて見たが陰深として暗い。でも、このまま引返すわけにはゆかない。充分、二の足も三の足も踏んでみた末に、この若い番頭は、ようようその一枚の戸口から、座敷の上へ這(は)い上りました。
「お留守でございますか」
 駄目を押したが、手答えもなく、そろそろと侵入してみたが誰も咎(とが)める者もない。
「おやおや、お雪様にも似合わしからぬ、とりちらかしてございますなあ、何か急用で出ていらしったのか。それにしても……」
 蒲団は敷きっぱなしであるし、机の上はと見れば、自分の註文の仕事が、やりっぱなしで、紙が辛うじて文鎮の先に食留められている。平常着(ふだんぎ)だけは脱いで、よそゆきの着替えをして行った形跡は充分あるから、それが若い番頭にとっては、せめてもの気休めとなるくらいのものです。いずれにしても慌(あわただ)しいことの限りである、と番頭は、そぞろ荒涼の思いに堪えられなかったが、その時自分の入って来た一方口が俄(にわ)かにけたたましくなったのは、思いがけない人がやって来たのではなく、さきほど行き過ぎた矮鶏(ちゃぼ)めが、何と思ってか引返して、この入口から縁の上へと侵入して来たものでありました。
「叱(しっ)! 叱!」
 政吉は軽くそれを追い払って、ともかくもお雪ちゃんが、着物を着替えて出て行った形跡だけは明らかであるし、室の内も荒涼とは言いながら、何一つ盗まれているらしい様子はないことから、少し待っている限り、必ず戻って来るに相違ないものと鑑定しました。
 それまで待っていてみましょう――という気になって、あけ放された裏の方の一枚を、もう二三枚繰って明るくし、あんまり出過ぎない程度で、室内を取片づけておくことも、心安立ての好意として斥(しりぞ)けられはしないことだと考え、何かと取片づけているうちに、どうしてもひとつ、炬燵(こたつ)の中へ火をおこして上げることが急務だと考えたのでしょう。
 炬燵に火をおこした政どんは、このへんで少しいい気持になったものと見え、いつもお雪ちゃんがするようにして、炬燵を前にみこしを据えてしまうと、半ば折りめぐらされた金屏風の緑青(ろくしょう)の青いのと、寒椿(かんつばき)の赤いのが快く眼を刺激してうつらうつらした気分に襲われたものです。浅公の弟にしても、こんな場合には幾分、からかい心も出るものと見えて、こうして炬燵に納まり込んでしまってみると、ここへ不意にお雪ちゃんが帰って来た時、ただお帰りなさいでは曲がないと考えたらしいのです。一番、軽い意味でおどかしてやろうとたくらんだらしく、屏風の蔭、炬燵の後ろにひそみ隠れていて、主が帰って度を失う呼吸が少しばかり見てやりたいという気持になったのでしょう。
 政どんはこうして、炬燵の中にまるくなっているうち、やがてうとうとと眠気を催してきたのは、金屏風の視覚から来る快感と、炬燵の中の程よい炭火から起る温覚とが、知らず識(し)らず、昨日来の商売疲れを揉みほごして行ったものと見えます。
 あっ! と、この甘睡の落ちはなが、何かの力によって支えられたと覚った時に、政公はうしろから押しかぶさる圧覚を感じて、さてはと醒(さ)めようとした時は遅いのでした。自分の首は白い蛇のような人間の腕で、うしろからしっかりと抱え込まれていることをさとりました。
「あ! お雪ちゃん、じょ、じょ、ごじょ……」
と言っただけで、あとは言えないのです。
 おそらくこの男は、後ろから巻きついた白い蛇のような人間の腕が、あまり白過ぎたものだから、これはお雪ちゃんの手でなければならぬと見たのでしょう。
 自分がうたたねに落ちかけている時に、不意に立戻ったお雪ちゃんは、こっちのおどかしの裏をかいて、あべこべに自分をおどかしにおいでなすったものと、目の醒めた瞬間にはそう感じたが、次の瞬間に於て、その白い蛇のようにからみついた人間の腕というものの、吸い着いた力の予想外に強大なることに驚愕したものらしい、その瞬間に、もうお雪ちゃんのために裏をかかれたという幻覚は消滅して、自分の生命が脅かされているということを自覚した時にはすでに遅く、じょ、じょ、ごじょ……と言って寂滅したのは、冗談――お雪ちゃん、御冗談をなすってはいけませんと、言うべくして言い得なかった言葉尻であると見るよりほかはありません。
 政どんの意識はもうそれでおしまいで、あとは、その白蛇のような腕が、ぐったりとした若者をズルズルと引っぱって次の間まで連れて行き、それから、これはまた別の屏風の裏の寝間の背になっている戸棚の中へ無雑作(むぞうさ)に投げ込まれてしまったのです。
 甲州の躑躅(つつじ)ヶ崎(さき)の古屋敷で、ほぼこれと同様な不幸な目に遭(あ)わされた一青年を見たことがありました。その時は、もっと念入りに虐待されて、戸棚ではない長持の中に窮命をさせられていたところの、幸内という者の運命を見ましたけれど、今は犠牲者の取扱いに於て、それよりも無雑作であるし、第一、躑躅ヶ崎の時はあらかじめ別の人があって、企(たくら)んで長持へ入れて置いたものを、偶然にもこれと同一の人間が監視に当っていたようなものでしたが、今日のは、犠牲をこしらえた者も、それを守る者も同一人で、かくして狼が羊を取ってくわえて来たように、戸棚の中に政公を投げ込んだ竜之助は、最初の通りその前の夜具の中に身をうずめて枕を高く寝込んでしまいました。
 ここで、この室の内外は、以前あった通り寂然たるものにかえってしまったが、今度は、戸も表の方だけは一帯にあけ放してあるし、室内も頼まれもしない外来者が来て、相当に取片づけておいてくれたから、この分なら誰が来て見ても、血のあとなんぞに目をみはるものはありますまい。
 こうして、短い日はグングンはしょられて行って、九ツ、八ツ、とうとう暮六ツが鳴ったのに、室の内外は日脚の短さ加減のほかの何者も来(きた)りおかすものはない。
 とうとう日が暮れたけれども、物の気配が全く起りませんでした。こうなってみると、物は動かないが、象(かたち)が変るのを如何(いかん)ともすることはできません。
 日のカンカン照っている時、縁に立てきった障子の紙の新しいのは、人の心を壮(さか)んにするけれども、日が全く没した時に、中に燈火の気配もなく、前に雨戸が立てきられるでもなく、白い障子紙がそのまま夜気を受けてさらされている色は、また極めて陰深のものになりました。
 つまり、日中あけられない戸に凄(すご)いものが漂うとすれば、夜分隠されない障子の色はすさまじいものでなければならぬ。このすさまじい障子の色は、ずんずんこのままで夜色に浸ってゆく。

         三十二

 こうして、夜はしんしんと更くるに任せて行くが、誰あって障子の肌の夜寒を憐むものはないのです。
 無論あのままで、訪ねて来る人も、出て行く人もなかったのですが、夜もほとんど三更ともいってよい時分になると、ひそかにその裏の縁側の南天の蔭が物音を立て、そこから鼠のようになって這(は)い出した一つの人影を見出す――それは、鶴寿堂の若い番頭政吉に相違ない。でもよかった、息を吹き返して、ここまで逃げ出すことができた点に於ては、幸内よりもズット優った運命を恵まれている。やっと南天の茂みから這い出した若者のホッと安心したのは束(つか)の間(ま)――かわいそうにこの若者の後ろにはやっぱりのがれられない縄がついておりました。
 その縄を辿(たど)って後ろから続く人影こそは、いつもの通り、甲府の城下でも、江戸の本所でも、夜な夜な一人歩きして、闇を喰い、血を吸わねば生きておられない人。
 今晩は一人、お先供(さきとも)があるまでのものです。
 つまり、飛騨の高山の貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしく言えば、高山屈指の穀屋の後家さんの男妾(おとこめかけ)を業としていた浅吉という色男の弟だと言われた同苗(どうみょう)政吉――が、この怪物のために時に取ってのお先供を仰せつかりました。
 政公の両腕は後ろへ括(くく)り上げられている。そこから長さ一丈ばかりになる一条の縄がつづいて、それが竜之助の片手に取られている。
 お猿が、めでたやな、といったようなあんばいに。
 政公は今、この一条の縄によって殺活を繋がれながらお先を打たせられている。腰が立つのか、立たないのか、南天をくぐる時からしてこけつまろびつしている。
 境内(けいだい)を出て、丘を下って里へ出る。
 八幡町、桜山、新町の場末を透して加賀の山々を遠く後ろにして例の宮川の川原――月も星もない夜でしたから、先日来の思い出も一切、闇の中に没入され、一の町、二の町、三の町にも人の子ひとり通らない。但し犬は随時随所にいて、遠く近く吠えつつはあるが、特にこの二人にからんで来て吠えつくというわけではない。
 こけつ、まろびつ八幡山を下りて来たお先供は、この時分になって、存外落着いて腰ものびてきたかのように、すっくりと立っては行くが、そのすっくりが糸蝋(いとろう)のようで、魂のあるものが生きて歩んで行くとは思われない。
 この若いのの兄貴というのが、白骨温泉の夏場、イヤなおばさんなるものにさんざん精分を抜かれて、ちょうど、こんな腕つきで引き立てられて歩いたのを見た者もある。
 ああ人が来た、二人、三人、四人、手に手に提灯(ちょうちん)を提(さ)げている。御用提灯だ。御用提灯とはいえ、これは臨時取立ての非常見廻りだ。警戒に歩いているのではない、おつとめに歩いているのだから、そんなに怖がることはない、縄をひかえて物蔭に立寄る間に、やり過すことは水を掻(か)くようなものである。
 糸蝋のようなお先供はなんにも言わない、御用提灯が目の前を過ぎても、それを呼びとめて我が身の危急を訴えることさえが、ようできない。本来を言えば、縄はなくともよかったので、この若いのは、行くべきところまで行きつかしめられるまでは、この怪物の身辺から離れることは、ゆるされないように出来ている。
 御用提灯をやり過すと、糸蝋のフラフラ歩み行くのは宮川川原を下手に下るので、下手といっても下流のことではなく、川としては多分上流へ向って行くのですが、飛騨の高山の町としては、ようやく目ぬきの方へと進んで行くのですが、まもなく左は今や焼野原のあとが、板がこいと、建築と、地形(じぎょう)とのやりっぱなしで荒(すさ)みきっている。
 お先供はどこまでも、宮川べりをのぼりつくすかと見れば、国分寺通りの四角(よつかど)へ来て、火の番の拍子木を聞くと急に右へ折れて花岡の方へと真向きに行く――ここをふらっと行き尽せば灘田圃(なだたんぼ)だ。
 だが、なにがなんでも灘田圃へ連れて行って、この若者を生埋めにするつもりでもあるまい。そうかといって、半ば失神のこの若い者が、絶望のあまり灘田圃へ身を投げに迷い込むとも思われない。
 その時分、灘田圃三千石の夜の色がいっそう濃くなって、国分寺伽藍(がらん)の甍(いらか)も、大名田、花里の村々もすっかり闇に包まれてしまい、二人の姿も、もう闇のうちには認めることができなくなりました。
「道を間違いました」
 やっと、若いものの声が闇の中から聞えた、ところは辻ヶ森。
 それからまたややしばし、郡上街道(ぐじょうかいどう)の真只中にその姿を見せたと思うまもなく、三本松の夜明しのあぶれ駕籠屋(かごや)の小屋へ、外から声をかけた者がある。
「これこれ駕籠屋」
「はいはい」
「代官屋敷の者だがな、これから一時(いっとき)ばかりたってでよろしい、二梃の早駕籠を東川の辻に待たして置いてくれ」
「はい畏(かしこ)まりました、畏まりました」
 外で呼びかけたものは内の者の面(かお)をも見ない、内で答えたものは、外の何者かを考えないが、代官屋敷御用の声に権威があって、仰せを畏んで、眠い眼をこすりつつ起き上ったあぶれ駕籠屋の若い者。

         三十三

 それから、いくばくもなく、代官屋敷の門前の松の木に引据えられて、縛りつけられたところの貸本屋の若者を見ました。
 手は後ろへあのままで、余れる縄でもってグルグル巻きに松の幹へ結び捨てられているのだが、口には別段に轡(くつわ)をはめられているわけでもないのに、眼はどろりとして、口は唖(おし)の如く、助けを呼ぶの気力さえないようです。
 この分では、夜が明けきって、誰ぞ通りかかりの者の助けを待つことのほか、動きが取れそうもありません。ひょっとすると、舌でも噛(か)み切って事切れているのではないかとも疑われるが、そうでない証拠には、どろりとあいた眼が時々は動いているから、生きていることだけは確かだが、ただこうして夜明けまで置けば凍え死んでしまいはせぬかとのおそれがあるばかりです。
 表に斯様(かよう)な変則門番の出来たことを知るや知らずや、広い屋敷の中の別邸のお部屋を、しどけない寝巻姿で、そうっと抜け出した潰(つぶ)し島田に赤い手がら、こってりしたあだものの粋づくり、どう見てもお屋敷風ではない、がこれは昼の時の姿とは打って変ったお蘭の方の閨(ねや)の装いでした。
 お手水(ちょうず)に行くつもりだろうが、途中で戸惑いをして、お手水場とは全く違った方向の廊下を忍びやかに歩いて行くのは、おかしいことです。寝ぼけて戸惑いするほどの年でもなし、実のところ、お蘭さんは手水に行くふりをして、全くはそうではないのです。これはあけすけに言ってしまった方がわかり易(やす)い、お蘭さんはこうして、客分になっている宇津木兵馬を口説(くど)きに行くのです。口説きに行くというのが穏かでなければ、からかいに行くとでも言いましょう。
 お蘭さんが兵馬に気のあるのは昨日や今日ではない。もっと突きつめて言えば、淫婦というものが持っている先天の血潮が、眼の前に写る年頃のものを、すべて只では置かないという本能がさせるのでしょう。時にここのお代官殿を中に、今の屋敷の近頃の空気そのものが、またお蘭さんの行動に油を注ぐように出来ている。
 案の定――兵馬の客となっている部屋の外、それは先日の晩、がんりきの百が立ち迷ったと同じところ、そこまで来てお蘭の方は、障子の桟へ手をかけながら、そっと内の寝息をうかがったものです。
「宇津木さん」
 ほんとうに魅惑的なささやき。
 中では返事がない。
「兵馬さん」
 甘ったるい、なまめいた小声。
 でも返事がない。
「入ってもよくって?」
 コトコトと二つばかり、障子を極めて軽やかに叩きました。
 でもやっぱり手答えがない。
「入りますよ」
 障子をスラリと細目にあけて、まだ侵入はしないで中をそっと覗(のぞ)き込んだものです。
 返事はないけれども、中に人のいる証拠には、有明の行燈(あんどん)が細目に点(つ)いている。
 が、その行燈の麓は屏風で囲まれているから、細目にあけて見ただけでは、中の様子はいっこう知れようはずがない。
 そこで、今度は軽く廊下で足踏みを二つ三つしてみせて、
「今晩は……」
 それで、ようやく気がついたのか、中では寝返りをするような蒲団(ふとん)の音。もうたまらず、
「お目ざめ……」
 そこでお蘭さんがずっと座敷へ入りこんでしまって、同時に手を後ろへ廻してわれと入口の障子を閉してしまいました。
 そうして、さやさやと衣裳を引きずりながら、立て廻した屏風を廻り込んで、
「御免下さいまし」
 屏風をめぐって見ると、果してそこに宇津木兵馬がいました。
 この間の晩、がんりきの百はここでとんでもない人違いをして大失策(おおしくじり)をやらかしたが、今晩のこの場は全く人違いではありません。まさに訪ねようと求めて来た人が、註文通りそこにおり、待つ方の人も、声によって予定通りの人柄がそこに現われたのですから、これからの行動も、註文通りにはまって行かねばならぬ筋合いになりました。
 しかし、ここまで来たお蘭さんが、急にテレ切って立場を失った様子は、笑止千万というよりほかはありません。
 宇津木兵馬が生真面目(きまじめ)にキチンと蒲団の上に座を正し、一刀を膝へ引寄せて待構えている形を見て、飛びつくことも、飛びのくこともできなかったからです。
 兵馬の姿勢は整然たるものでした。もし、もう少し時間の余裕があったら、袴を着けていたかも知れません。
「お帰りなさい、一刻お帰りが遅ければ、取返しのならぬ疑いを受けてしまいます」
「いいえ、大丈夫」
と、お蘭さんはすましたものです。
「いけません、早くお引取り下さい、お引取り下さらなければ、こちらにも了見(りょうけん)がございますぞ」
「そんなに生一本におっしゃるものじゃございませんよ、もし、わたしが帰らないと言えば、あなたはどうします」
「お帰り下さらねば、声をあげて人を呼びます、御主人に訴えます」
「それは駄目です、こうして私がここまで来ている以上は、人を呼べば、わたしよりもあなたの方が困りましょう、それに、今晩はたれもこっちの別邸にはいやしませんよ」
 兵馬は憮然(ぶぜん)として、この肉感的の女のおしの強いのに驚き、今まで出会ったもののうちに、こうまで図々しいのは初めてだと、呆(あき)れないわけにはゆきません。
 その間に、もう女はするすると入って来て、火鉢の向う側へだらしなく、立膝式に座を占めてしまいました。
「今晩も、明日の晩も、コレはやって来ませんよ」
といって、図々しい女は、右の手の親指を立てて兵馬に見せました。
 親指が来ようと来まいと、それは兵馬の知ったことではない。
「ねえ、宇津木様、ウチの親玉の女狩りにもたいてい呆(あき)れるじゃありませんか、きのう、市場でもってちょっと渋皮のむけた木地師の娘かなにかを見初(みそ)めてしまったんですとさ、そうして、草の根を分けて、やっとその子を掘り出してからというものは、今晩から母屋の方で一生懸命、口説落しにかかっているそうですよ。ですから、こちらなんぞは当分の間、御用なしさ。見限られたもんですね」
 しゃあしゃあとしてお蘭は、こんなことを兵馬に言いかけました。
「ねえ、兵馬さん、年をとると若いのがよくなるものと見えますね、いい年をしてウチの親玉なんぞは、後家たらし、女房たらしも飽きて、これからは若いところに当りをつけるんですとさ。ところで、若い方の心持はどんなものでしょう、大年増になってから若い男を好くようになるものかしら。昨日もこの町の穀屋のイヤなおばさんという人の噂(うわさ)が出ましてね、わたしはいやになっちまいましたね、後家さんになってから、家に置いた若いのをみんな撫斬りですってね。女もやっぱり年をとると、若い男を薬喰いにしたくなるものか知ら。してみると若い男たちは、また若い同士では食い足りないから、年上の水気たっぷりなのかなんかと、可愛がったり、可愛がられたりしてみたくなるものか知ら。宇津木様、あなたなんぞはどうですか、偽りのないところ、かけねのないところをお聞かせ下さいましな。若い者は若い者同士がいいか、それとも年増――お婆さん、イヤなおばさんみたようなものにも、浅公というのが生命(いのち)を吸い取られるほど、いいところがあるものか知ら……ねえ、その辺の正直なところを聞かして頂戴よ――」
 兵馬は呆れ果てて、この厚顔無恥なる女の底の知れない図々しい面(かお)を、ウンと睨(にら)みつけました。
 神尾主膳の愛妾であったお絹という女も、かなりの淫婦には相違なかったが、こうまで図々しく、肉迫的ではなかった。
 ことにこうまで露骨に出ながら、火鉢の傍に立膝の形で、股火にでもあたっているような、だらしない形――女というものはこうまで図々しくなれるものかと兵馬は憤然として、
「よろしい、あなたがお引取りなさらなければ、拙者の方で、この場を立退きます」
と言って、兵馬は刀を提げたまま、ついと立って、一方口から流れるように屏風の外へ、早くも障子をあけて廊下へ飛び出してしまいました。
 この早業においては、さすがの淫婦も如何(いかん)ともすることができないで、
「何という無愛想なお方……」
 所在なくこう言って、兵馬の起きぬけの夜具蒲団をテレ隠しにちょっとつくろい、自分も続いて廊下へ出てみましたけれども、その時はもはや、兵馬の影も形も見えません。

         三十四

 寝間を飛び出した宇津木兵馬は、そのまま庭を越えて、道場へ入って神前へ燈明(とうみょう)をかかげ、道場備附けの袴(はかま)をはいて、居合を三本抜きました。
 ここで兵馬は、心気が頓(とみ)に爽やかになり、今までの圧迫が払われて、わが心の邪道を断つには剣を揮(ふる)うに越したことはないと、いまさらに喜びを感じていると――
 一方の口、すなわち本邸から続いたところの入口が、スーッと外から押し開かれる。
 執拗千万な推参者、ここまで淫魔めがあとを追うて来おったか! 兵馬は居合腰に構えたまま、心の中に充分の怒気を含んでおりますと、戸口をスーッとあけて中へ入るとまた、つとめて音のしないようにスーッと締めてしまって、こっちを振向いたのは、同じような寝まき姿であるけれども、物そのものは全く違っている。
 すなわち予期していたものの侵入者は、先刻のあのむんむといきれるような肉の塊りであったにも拘らず、ここへ姿を現わしたのは、まだ妙齢の初々(ういうい)しい娘の子であったものですから、兵馬は、怒気も悪気も消えて、今晩はまあどうして、こうも女の戸惑いをする晩だ! と、全く呆(あき)れてしまいました。
 その時にまた外の庭で、俄(にわ)かに荒らかな下駄の音がして、濁声(だみごえ)が高く起ります。
「これさ、悪くとっては困るよ、そうやみくもに逃げ出さんでもいい、じっとしておれば為めにならぬようにはせぬものを、そうして一途(いちず)に走り出しては、人前もあるぞ、こちの面をつぶすなよ」
 その濁声は、充分の酒気を帯びているこの邸の主人、すなわち新お代官の胡見沢(くるみざわ)であることは申すまでもない。
 そこで、兵馬にもいちいち合点(がてん)がゆく。あんまり珍しいことではない、先刻もお蘭が言っていた、どこぞで女狩りをして来たその獲物だ、本来、爪にかけた上は退引(のっぴき)はさせないことになっているのが、今晩は少し手違いで、相手に甚だしい拒絶を食って逃げられたのだ、それをまた新お代官が、酔っぱらった足で、大人気なくも追いかけて来たのだ。兵馬は、それが忽(たちま)ち分ってみると、苦々しさがこみ上げて来たが、飛び込んで来た娘は一生懸命で、その戸口をしっかりと内から抑えたままです。つまり、この女の子は、咄嗟(とっさ)の間にはここの枢(くるる)のかげんも知らないものだから、必死にここを抑え、この垣一重の内へは敵を入れまいと努力していることは明らかです。
 そのくらいですから、こちらに兵馬が控えていることには、全く気がついていないようです。
 ところが、果して庭下駄の音はカランコロンとこちらへ廻って来る。濁声はろれつの廻らないほどになり、
「おいおい、そこは道場じゃないか、そんなところには誰もいやせんぞ、夜分は誰もおりゃせん……そこには誰もおらん、いや、こちらにも誰もおらん、おらん、お蘭――」
 かなり酩酊していることは、そのろれつのまわらない言いぶりだけでなく、駒下駄に響くカランコロンの乱調子でもよくわかります。
 しかし、その酔眼でも、この道場近くに相手が逃げ込んだということだけは、どうやら見当がついたものと見えて、ようやく道場へ近づいて来て、その表の大戸の方をしきりに押してみました。
「あきはせん、夜分は稽古なしじゃ、誰もおらんのだ、こんなところへ逃げてはいかん、逃げるに致せ、もっと穏かなところへ逃げるがよい、錠が下りている、あきはせんというのに、おい、あけないか、外からは錠がなくてはあかないが、なかから外(はず)せ、あけないか」
 しきりに大戸をがたがたさせながら、ろれつの廻らないことを言っている胡見沢は、どうも相手がはっきりこの中へ逃げ込んだものか、そうでないか、充分に観念があってするのではないらしい。
 娘の子が逃げ込んで来て、一生懸命に抑えているのは、廊下からの一方に、それとは全く違った大戸の方でしきりに胡見沢は騒いでいるのだから、女の子にとっては、努力甲斐のないことがかえって幸いでもある――
 それでも、その戸口を抑えた手はちっとも放さないで、ようやくこちらを振返り見るの余裕だけを得ました。
 そうすると、ほとんど有るか無きかの朧(おぼ)ろな神前の燈明の光にかすけく、そこに自分よりも最初に立っている一個の人影を認めました。しかもその人影は、手に白刃(はくじん)を提げて立っていることに渾身(こんしん)から驚いて、わななかずにはおられません。
 娘の子としては、それが追いかけて来た人とは別人であることは一見して分ったけれども、すでに人が内部に存在している以上は、前狼後虎というものである。もう絶体絶命で、遁(のが)れようとしてものがれられるものではない――
 南無阿弥陀仏、女の子は目をつぶって、その抑えた戸口にしがみついてしまいました。
 ところが、内には白刃を提げて立っているその人は、透かさず自分に向って飛びかかって来るでもなく、おどかしつけるでもなく、何の音沙汰もないのに、一方、その大戸の方の戸をしきりにガタつかせていた追手の胡見沢は、それもあぐみ果ててしまったと見え、
「あかないな、あかなければあかないでよろしいぞ、離れへ逃げたな、たれもおらん、おらんと洒落(しゃれ)のめして、お蘭のゆもじの下へ逃げ込んだな、うまくやった、お蘭がそこにおらんという洒落は苦しいぞ、だが、あっちは鬼門じゃてな――お蘭め、さだめて角を生やしているこっちゃろう、こいつは一番兜(かぶと)を脱がにゃなるまい、明朝になってでは後手に廻るおそれがあるから、お蘭がところへひとつ、このままおわびと出かけるかな」
 こう言って、胡見沢はまたカランコロンと庭下駄の乱調子で庭をくぐり歩いて行くのは、別邸のお蘭の部屋を目指して行くものと見える。
 ろれつの廻らない出鱈目(でたらめ)のうちにも、ほぼ本性は見える。やっぱりこの娘を口説(くど)き損ねて逃げられ、逃げた先はこの道場の中と思ったがそうでなく、別邸のお蘭の部屋へ逃げ込んだのだ、あそこへ逃げ込まれては実は少し困るのだ。それは、明日になってお部屋様の角が怖いから、今晩のうちに先手を打って、御機嫌をとっておかねばならぬという用心であることは明らかで、存外この男も、お蘭に対して弱味を抑えられていることが見えないではない。
 ほどなく、戸口に立ちすくんでしまった娘の肩へ手をかけた兵馬、
「心配なさるな、主人は行ってしまいましたよ」
 その声が存外若くして、そうしてやさしいのに、立ちすくんだ女の子は息を吹き返さないということはありません。
 振返って見ると、最初の印象では雲を突くばかりの大男が手に白刃を提げて迫っていると見たのが、こうして見ると、自分とはいくらも違わないところの、まだ前髪立ちの若い侍で、抜き放されていたと思った白刃は、いつしか鞘(さや)に納められて、右の手に軽く提げ、その左の手で、和(やわ)らかに自分の肩を叩いて言葉をかけたというよりは、慰めを与えられたといってよい程に、物静かなあしらいですから、娘の子は全く生き返った思いでこちらを向いてしまいました。
 前にいう通り、神前の燈(あかり)が朧(おぼ)ろで、はっきりとはわからないのですが、その輪郭と言い、その物ごしと言い、いま受けた印象をいよいよ鮮かにするのみで、微塵も、敵意と危険とを感ぜしめられないものですから、ホッと息をついて、
「どうも、とんだ失礼をいたしてしまいました」
 こうなってみると、自分の寝まき姿が恥かしい。
 だが、やっぱり神前の薄明りが幸いして、取乱した女の姿を、そう露骨に見せるということはありませんでした。
「まあ、こちらへいらっしゃい、まだ、ここを出てはいけません――もう少しここに忍んでいらっしゃい」
 この若い、おだやかな、敵意と危険とを微塵も感ぜしめない人は、徹底的に念の入った親切と用心で、静かに、道場の虎を描いた衝立(ついたて)の方に娘を誘(いざな)いました。

         三十五

 こうして道場の中はひっそりしているけれども、中庭を歩いて行く胡見沢は、いよいよ陽気になって、何かクドクドと口走りながら、庭をぐるぐる廻っているところを見ると、この男は酔うとむやみに陽気になり、御機嫌がよくなり、人が好くなってしまう点は、神尾主膳あたりとは全く酒癖を異にしているらしい。
 やや暫くして、例のお部屋様の戸の外に立ってことことと叩き、
「お蘭さん、お蘭さん、お蘭さんはおらんかね、ちょっとここをあけて頂戴」
 人の好いのを通り越して、全くだらしのない呼び声です。
 でも、中ではこのだらしのない呼び声が聞えていなければならないのに、いっこう返事がありません。返事がないものですから、
「お蘭さん、お目醒(めざ)めでないかい、おらがお蘭さんはおらんのかい」
 何といういやらしい猫撫声だ。
 これではまるで、お人好しの宿六が、嬶天下(かかあでんか)の御機嫌をとりに来たようなものではないか、郡民畏怖の的である新お代官の権威のために取らない。
 それにも拘らず、中ではいっこう返事がない。返事がないということは、中にたずねる人が存在していないということではなく、たずねる人がお冠(かんむり)を曲げてお拗(す)ねあそばしているから、それであらたかな御返しがないのだ――ということを誰も言っては聞かせないが、本人の良心に充分覚えがあるらしい。そこで御機嫌斜めな内(うち)つ方(かた)の御思惑(おんおもわく)を察してみると、お代官も権柄(けんぺい)ずくではどうにもならないから、下手(したで)に出てその雲行きの和(やわ)らぎを待つよりほかはないとあきらめたものらしい。
 甚(はなは)だ器量の悪い締出しを食っている新お代官は、お蘭さんはおらんかい程度の洒落(しゃれ)では到底、内なる人の角を折ることはできないと観念したものか、やはり、こういう時は強(し)いて御機嫌に逆らうよりは、時間に解決させるのがいちばん安全にして賢明なる手段だと、そこは政治家だけに、転換の妙を悟ったものか、いいかげんにしてまたその開かざる戸の外を立去ってしまいました。
 立去ったとはいえ、自分の本宅へ帰って眠るというわけではないにきまっている。よし中でお返事がないとしてみたところで、このお返事のなかったことを理由として、自分が安眠の床に帰ってでもしまおうものなら、明日が大変である。それほど薄情なお方とは思わなかった、お暇を下さい、わたしよりもっと若いのをたんと引入れて可愛がりなさいだのなんだのと、矢つぎ早に射かけられるのが、とうてい受けきれたものでない――だから時間に解決させるといったところで、明朝までというような悠長な時間を意味するのでなく、もう一ぺん通り庭を廻って来て、またここに立とうというだけの時間であること、疑いもありません。
 こうして、新お代官はまたお庭めぐりをはじめだしました。でも性癖はやむを得ないもので、絶えずニコニコと嬉しそうに、クドクドととめどもないことを口走り、そうして植込から、泉水の岸から、藤棚の下、燈籠(とうろう)のまわり……をグルグルと廻っています。

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