大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 幼きものを御衣(みころも)の、もすその中に掻き抱き給うなる大慈大悲の御前(おんまえ)、三千世界のいずれのところか菩薩捨身の地ならざるはなし、と教えられながらも、特にこの地点が与八のためには忘れられないものにもなり、立去り難いものにもなるが、何をいうにも六千尺の峠、時は初冬、天候の程も測りがたない、背に負うた幼な児の上を思うても下りを急ぐに如(し)かずと思い直しながら、なお立去り難いこの地点に、地蔵様をうしろにして暫く立って眺むるこし方(かた)の武州路。
 ここを下れば、もうその武蔵の国の山は見納めということになるのだ、と思えば尽きせぬ名残(なご)りはあるけれど、見返ることは徒らに、無益の涙を流して愛慾の葛藤を増すばかり。
「さあ、お地蔵様、お大切(だいじ)にござらっしゃれませ――いつまたわしらは帰って来られるか、来られねえか、そのことはわからねえでござんすが、それでも、諸国修行のことが無事に済みました暁は、またここの地点でお目にかかりまする。わしらの故郷といっては、どこがどうだかわからねえでございますから、無事に諸国修行が済みましたら、東西南北を合わせて、わしらはひとつこの峠に草(くさ)の庵(いおり)というようなものを建て、この世の安楽と後生の追善のために、ここでお地蔵様のお守をして一生を暮したいもんだと心がけてはおりますがねえ……」
 与八は再び跪(ひざまず)いて、自分のこしらえた地蔵菩薩にお暇乞いを申し上げ、
「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)地蔵菩薩――お別れのついでにこの笠をさし上げましょう、峠の上は下界より嵐がひどいことでござりますから、たとえ一晩でもこの笠で雨露(あめつゆ)お凌(しの)ぎ下さいまし」
 自分の持って来た菅笠(すげがさ)を、台座に攀(よ)じ上って地蔵菩薩の御頭(おんかしら)の上に捧げ奉る。
 姫の井の道、見返りがちなる大菩薩峠の辻――木の間枝のはずれから、いつまでも見えるあの笠。菩薩も笠を傾けて送り給うと見ゆる。
 姫の井の道を、左に広やかなかやのを見て歩いて行くとまもなく大菩薩西の峠の萩原の小平。珍しやここにまだ新しい山小屋が一軒、その以前に見かけなかったものだが、猟師か、山番の小屋か、立寄って見ると締め切った入口に札がかけてある。
「長兵衛小屋
大菩薩峠ノ道ヲ通ル旅ノ人、往々魔風ニ苦シメラルルコトアリ、依ツテココニ茅屋ヲ造リ報謝ノ意ヲ表スルモノナリ、貴賤道俗トナク、叩イテ以テ一夜ノ主ナルコトヲ妨ゲズ
   年月日
嶺麓  大藤村有志」 さては奇特の人ありけり、これもこれ艱(なや)み多き世路をすくわん菩提心の一つ、暫く御報謝にありつかんと、与八は戸を押してみると、容易(たやす)くあいた。中に入って見ると、素人(しろうと)手づくりの山小屋とはいえ、相当に入念の木口――炉も切ってあれば、鉄瓶、手桶、水注、流し元、食器の類も一通りは取揃えてある。
 では、せっかくのことに、今晩はここで一夜を明かさしてもらうべえかな。
 峠の上は寒いとはいえ、この固め切った屋内で、この炉の中に夜もすがら火を焚いて置けば、夜具蒲団は無くともけっこう夜を過ごせる、一歩外へ出れば焚物に不足はなし、外へ出るまでもない、炉辺には、もう夥(おびただ)しい薪が、しかも程よく割り揃えて山のように積みこまれているではないか。
 おお、この戸棚をあけて見ると、薄いながらも夜具が一組、やあ、こちらには米も、塩も、醤油までが使い残されている。
 与八は、この小屋を建てて、普(あまね)く道行の人に施さんとする有志の功徳の親切なることを、世にも有難く思い、行き暮れた旅人が、これによって、どのくらい救われたかの記念を、さまざまの壁書に見ました。
 それは、まだ新しい板張りの壁に、ほとんど隙間のないくらいに楽書が書かれてある。かなりの長い文句を書いたのもある、歌や、発句のたぐいを書いたのもある、単に何月何日同行何人と、その名前だけを記しているのもある。
 与八は浅からぬ興味をもって、その長短錯落した楽書を、次から次へと読んで行きましたが、ここは相当に教養のある人も通ると見え、与八の学問では読み抜き難い文字も多いけれども、あとを辿(たど)って見ると、
「われら二人、やみ難き悩みより峠を越えて江戸へ落ち行きます、江戸で一生懸命働いて、皆様に御恩返しをするつもりでございます。
   月日
あやめ大吉」と書いたのは戯れとは思われない。この文面で見ると、女の筆で現わされている。してみれば、若い夫婦か、恋人同士が、家庭の折合いつかず、やみ難き悩みのうちに相携えて江戸へ走るために、国を去るの恨みをとどめた心持がわかると共に、この若女房と思われる人の才気のほども思われないではない。
菩薩未成道時 以菩提為煩悩
菩薩既成道時 以煩悩為菩提
と達筆で認(したた)めたのは与八の学問には余る。
蓮の花少し曲るも浮世哉(かな)
と、古句か近句か知らないのを認めっぱなしで年月もところも入れてない。
失恋ノ悩ミニ堪ヘ兼ネテ今月今日此ノ処ニ来レリ
と、若い男の筆で書いてある。
来てみればさほどでもなし大菩薩
とぶっつけたのもある。
我慢大天狗
邪慢大天狗
打倒大天狗
と走らせたのもある。
借金スルノハツライモノ
鍋釜マデモミンナ取ラレテ
スツテンテン
と、途方もない自暴(やけ)を飛ばしたのもある。そうかと見れば、また一方にやさしい女文字、
「三寸の筆に本来の数寄を尽して人に尊まれ、身にきらを飾り、上も無き職業かなと思ひし愚さよ――我も昔は思はざりしこのあさましき文学者、家に帰りし時は、餅も共に来(きた)りぬ、酒も来りぬ、醤油も一樽来りぬ、払ひは出来たり、和風家の内に吹くことさてもはかなき――」
 何の意味とも知れないが、その筆つき優にやさしく、前の大吉、あやめの二人名の女文字になんとなく通うものがありとすればありと見られ、その筆のあとに血が滲(にじ)んでいると見れば見られてたまらない。
 転じて、西に向いた方を見ると、
「最モ美シイ芸術ホド、自分ノ最モ悪イコトヲ自覚シテヰル人間ノ作ニ成ルモノデアル」
と焼筆で走らせたものもある。その次には、
大魚上化為竜 上不得獣額流血水為舟
 これも与八にはちんぷんかん。
 更に一方の上壇、白檀張(びゃくだんば)りの床の間とも見える板の表には、
平等大慧音声法門
八風之中大須弥山
五濁之世大明法炬
 いともおごそかに筆が揮(ふる)われているのを見る。

         二十四

 かくて、七里村恵林寺へ着いた与八。折よく慢心和尚は在庵で、与八を見て悦ぶこと一方(ひとかた)ならず、ここにまた当分の足を留める与八。
 昼は、与八は寺男のする寺の内外の雑役の一切を手伝った上に、寺所有の山へも、畑へも行く。随所に郁太郎を連れて行って、しかるべきところへひとり遊びをさせて置くが、郁太郎は極めておとなしい。
 夜になると、与八独特の彫刻をする。寺男としては二人前も三人前もらくに働き、彫刻師としては、稚拙極まる菩薩を素材の中から湧出せしめて、欣求(ごんぐ)の志を顕(あら)わす。
 かくて菩薩像の一躯が成れる後、それを和尚に献じてはや出立の暇乞(いとまご)い。
 和尚も志に任せて強(し)いては留めず、
「与八、お前に餞別をやる」
と言って、合掌の印を結ぶことを与八に教えました。
 合掌の印といっても、別段、慢心和尚独特の結び方があるわけではなし、自分の手を胸で合わせて見せて、物を拝むにはこう拝むものだとして見せただけのもの。
 与八はそれを見て、有難い拝み方だと思いました。拝むのに有難くない拝み方というものもあるまいが、あの和尚様のように、ああすると、形そのものからまた別に有難味が湧いて来る、わしもああして拝むべえ……与八は、和尚の合掌を真似(まね)てみせると、
「おお、それでよしよし、これがわしからお前への餞別じゃ。道中、いかなる難儀があろうとも、その合掌一つで切り払え。およそいかなる賊であろうとも、その合掌で退治られぬ賊というものはない、いかなる魔であろうとも、その合掌で切り払えない魔というものはあるものではない。一寸なりとも刃物を持つな、一指たりとも力を現わすなよ、われと我が胸へ合わするこの合掌が、十方世界縦横無礙(むげ)、天下太平海陸安穏の護符だよ」
 与八はそれを、なるほどと信じました。
 それから和尚は、更に老婆心を尽して言うことには、
「これから先、どこへ行こうとも、縁あるところがすなわちお前の道場じゃ。わしは指図をするわけではないが、お前、気があったら、これから有野村の藤原というお屋敷へ行ってみろ。そこでは先日、家が焼けて、再建の普請の最中だから、お前のその力で働いてやれば、本当の建直しができようというものだ、行ってみる気があるなら行ってみろ」
 こう言われて、与八はそれこそ、また時に取っての縁――ともあれ、その有野村の藤原家というのへ踏出しの縁を置いてみようという気になって、ここを出立しました。
 その道中――といっても五里から十里までの道、同じ甲斐(かい)の国中の有野村のことですけれど、与八としては、ここまでは知己をたよるということもあったけれど、これから先は何も無い――本当の見知らぬ旅の気持になりました。

         二十五

 無心で通り過した甲府の城下――その昔、ここで、自分たちに縁を引いたそれぞれの人たちが、腥風血雨(せいふうけつう)をくぐり歩いた昔話も、与八は一切知らぬが仏――こんな山国の中に、またたいそう賑やかなところがあったもの。郁太郎のためにおもちゃと菓子とを買い与え、自分は茶屋へ寄って弁当で腹をこしらえて、いざ出立。無心で来て無心で過ぎてしまった甲府の城下。
 やがて釜無の川原――弁信法師が曾無一善(ぞうむいちぜん)の身に、また□(しんにゅう)をかけられたところ。琵琶が虐殺されて、肝脳を吐いていたところ。与八のためには遮るものも、脅(おびやか)すものもなにも無い。竜王川原を越ゆれば有野村。

 村へ入ると、もう問わでもしるき藤原家の大普請。木遣(きやり)の声、建前の音ではや一村が沸いている。
 慢心和尚の紹介は地頭の手形よりも有効で、与八は直ちにこの工事の手伝役にありつく。
 与八の体格の肥大であることと、子持ちの労働夫ということが、工事仲間の眼を惹(ひ)いたけれども、それも束(つか)の間(ま)、やがて与八は、この多数の工事人夫の間に没入してしまう、没入して現われないほどによく働いたが、どうしてもまた浮び上らなければならない。それは、第一によく働くこと、第二には総てに親切なこと――珍しい稼ぎ人が来たものだという評判が、それからそれと伝わって、彼の現われるところ、おのずから薫風(くんぷう)の生ずる有様を如何(いかん)ともすることができませんでした。
 ある日、この工事が、本邸の雨滴(あまだれ)の境に据えるところの磐石(ばんじゃく)の選定に苦しみました。
 石は多いけれども、大きくして、そうして雨滴の下に用うる風雅と実用とを兼ねた石が、かねて寄せられたもののうちに急に見つからなかったために、石探しの一隊が組織されました。
 一隊の者が、ここへ据える石を、この近所から物色して来るために派遣されるようになって、与八もその一隊の中へ加えられることになったのです。
 といっても境外へ出る必要はなく、この広大な屋敷のうちを物色することによって、適当のものが見つかるべきはずである。この一隊が、お正午(ひる)休みを利用してその目的のために、ブラブラと出かけるには出かけたが、さて探すとなれば、やっぱり有るようで無いもの、大きさにおいて適当と見れば形に於て整わず、形において面白いと見れば容積が足らず、あれか、これかと評議しながら一行がゆくりなくもやって来たのは、悪女塚の下です。
 この悪女塚を築いた当の暴君は、ただいま旅行中であること申すまでもないが、与八としては、その施主(せしゅ)が旅行中であったにしても、ないにしてもやむを得ないが、同行の一隊の者が全く素人(しろうと)であったことが悲しいことでした。ここに来合わせた者が、悪女塚の悪女塚たる因縁を全く知らない者ばかりでした。
 そうでしょう、お銀様のいる時には、気持を悪がってこんなところへ近づく者はないくらいですから、施主がいなくなってみれば顧みる人すらない。あの当座、知っている者だけが知っていて、知らないものはてんで知らなかったのですから、ここへ来合わせた者がすべて偶然のような工合で、「妙なもの」があることを、この時はじめて発見せしめられた者のみでした。
 そこで一同は、この異様なグロテスクを怪訝(けげん)な面(かお)をして右見左見(とみこうみ)していたが、本来の目的はこのグロテスクを眺むることではなく、単純に雨滴石(あまだれいし)を求めんがためでありました。ところが、偶然にも、このグロテスクの下に於て、ほぼ理想に近い石を発見し得たことです。
 あの土台の下になった蓮華(れんげ)のような形をした一枚石――あれがいかにも、おれたちの求めるものにふさわしいものではないか、あれを持って行けば棟梁にもほめられる、大旦那の御機嫌にも叶うに相違ない、あれが適当だ――という目利(めき)きだけは、すべての者が一致したようです。
 ところで、繰返して言うようだが、このなかに、悪女塚の悪女塚たる所以(ゆえん)を、ほんの露ほどでも知っていた者があるならば、口を抑えて手を振ったことでしょうが、いずれも知らぬが仏でした。
 塚にさしひびかないように取除くならば、あの一枚を引抜いてもよかろうではないか、そのあとへ、別のしかるべきのを見つくろって嵌(は)め込んで置きさえすれば、差支えはなかろうではないか――ということに一同が一致してしまいました。
 そこで、手もなくその一枚だけを悪女塚の台下から抜き取るということに意見も一致すれば、手も揃ってしまいました。
 まことに景気のいい音頭で、悪女塚の台石一枚を抜き取りにかかったのは是非もないことです。
 だが、無雑作(むぞうさ)に抜き取れるだろうと思ったそれは、存外、念入りの工事のために、なかなか思うように外(はず)せないことを発見しました。それがために、よほど周囲を掘りひろげ、隣石と隣石との間をこじあけなければならないことを覚りました。しかし、本来、幅も行きも知れた石だから、結局は努力の問題だけだという見とおしで、かなり無理をしてこじたけれども、石の食い合せにドコか執念深いところがあると見えて、ようやく困難を感じて、一同暫く息を入れないことには、一気にはやれないことを覚ったものです。
 郁太郎を背負ってこの一行に加わっていた与八は、離れてその掘返しを見ていたのです。
 それは、自分が手を出すまでのことはなかろうと思うし、また郁太郎も背中にあることだし、第一それに与八は、心して力を出すまいと念じていることがあるのです。それは慢心和尚に戒(いまし)められたからというわけではないが、自分の馬鹿力を出すことは、徒(いたず)らに人の驚異と好奇を惹(ひ)くのみで、その結果のよくなかったということを自覚せしめられていることが多いから、道中では人並みの仕事をし、力を出さねばならぬ時には、人に隠れた場所に限るというような戒めを持っていたから、それで、強(し)いて手出しをしなかったのですが、ここでみんながもてあまし出したのを見ると、気の毒になりました。
 なるほど、見たところでは、さほど苦しまずに抜き出せそうであるが、中の食い合せがしぶといに違いない、無理はいけないな、と思っているうちに、やっぱり無理をしたがります。無理引きをしたり、無理押しをしたりしているうちに、周囲にわたっての土台が非常に痛んでゆくことを見ないわけにはゆきません。それに、こんなことでは、この石一枚を外すのに半日かかるかも知れない。これでは、せっかく棟梁に賞(ほ)められようと思ってした仕事が、叱られる様子になるのもかわいそうだ。
 そこで与八は、ついつい手を出してやる気になりました。
「わしがひとっきりやってみますから、皆さん退(ど)いていてごらんなさい」
 一同は、思わず手を明けて与八を見ると、無雑作に寄って来た与八は、郁太郎を背負ったままで、軽く両手をその一枚石にかけたものです。その時に、右の一枚石が与八の手にかかって、ほとんど篩(ふるい)を廻すような軽みで左右に揺れ出したのには、一同が舌を捲かずにはおられませんでした。
 腕に覚えのある屈強なのが十人近くもかかってこじれなかったのを、あの無雑作な動かし方はどうだ。ここへ来て与八の力量の一端が認められたのは、この時が初めてでありましたけれども、不幸にして、それは、徒らに驚異と喝采だけで納まる場合ではありませんでした。
 こうして、与八の手で無雑作に、三つ四つ左右に揺られた石は、もはや抜き取れたと同様の位置になり、それが抽斗(ひきだし)を抜くように抜き出される瞬間に、グッグッと周囲が鳴り出したのは、最初の事情から見れば、あながち無理とは言えなかったのです。
 最初の石の食合せ方が執拗であったところで、それをコジるために、かなり無理をしているところへ、予想外の大力で一度にガタリと埒(らち)があいたものですから、周囲の土石も一層、狼狽(ろうばい)の度が強かったに違いありません。
 与八も飛び退きました、立って舌を捲いていた連中も一時に飛び退きましたから、幸いに人間は怪我をしませんでしたけれども、その石の四方の腰がグタグタに砕けると、塚の頭に立たせ給うグロテスクが、すさまじい権幕で、もんどり打って下へ落ちころがってしまったのです。
 この場合、人間に怪我のなかったことが何よりとして、一同はホッと息をつきながら崩壊の箇所へ戻って来て見ると、塚の上からまっさかさまに落ちたグロテスクは、与八の手によって抜き出された一枚石の角へ頭の頂天をぶっつけたと見え、その脳天の中央へ一つの穴があいたままで、仰向けにひっくり返されている形相(ぎょうそう)、知らぬ者でも一時は身の毛がよだつほどでしたが、
「まあ、それでもよかった、人間の代りにこれ見ろ、生塚(しょうづか)の婆様が脳天へ怪我をして身代りに立っておくんなさった、まあよかった!」
 口々にこう言って胸を撫で下ろしたけれども、何がまあよかった! のだ。
 まあよかったの言葉が、この塚の施主から出たならば、それこそ本当にまあよかったのだが! その施主なるものは旅中で不在とはいえ、やがて戻って来なければならない運命の人なのだ。
 この人の築いた悪女塚をひっくり返しておいて、まあよかったとホザく百姓ばらを、それで許して置く人であるか、ないか――そのことを知り、その場合を想像した者が、このなかに一人もいなかったことが、幸か不幸かそれは分らないが、知っている者が一人でもいたならば、この態(てい)を見て色を失い、為さん術(すべ)を忘れ、そうしてここにいる総ての奴等が、この石で圧殺されてしまおうとも、グロテスクの頂天へ穴を明けなかった方が、どのくらい幸福であったか知れないということに、身も魂もわななかされてしまったに相違ないが……
 ことに、この下手人の筆頭は、何も知らない好人物の他国者、与八であることの、免(まぬか)れんとしても免れられない運命のほどを、この男のために悲しみ、かの旅行中の暴君のために怖れることは想像にも堪えられないはずなのに……
 ここの一同は存外平気で、あとはあとのように相当に修理し、肝腎(かんじん)の悪女様は、手っとり早く元の座に直すというわけにはゆかないから、単に起して、土台石の一つへ立てかけて置き、そうして自分たちは、ほぼ理想通りの石が得られたことの満足で、他のすべてを自分から帳消しにしてしまっているほど好人物揃いでした。

         二十六

 飛騨の高山も、今日はチラチラと雪が降り出しました。
 相応院の一間に、お雪ちゃんは炬燵(こたつ)をこしらえ、金屏風(きんびょうぶ)を立て廻して、そこに所在を求めながら、考えるともなしに考えさせられています。
 白骨へやった久助さんも、今日あたりはどうしても帰って来なければならないのに、今以て音沙汰がない、まだ二三日はどうにか過せるものの、この二三日が過ぎれば、それこそ本当の絶体絶命だということに思い廻(めぐ)らされなければなりません。
 生活問題ということを、今日まで真剣にお雪ちゃんは考えさせられたことはないのです。こうしてお雪ちゃんは、炬燵に屈託しながら、ぼんやりと金屏風をながめていました。
 この痩所帯(やせじょたい)に金屏風だけが光っている、これはお寺の什物(じゅうもつ)の一つを貸してくれたもので、緑青(ろくしょう)の濃いので、青竹がすくすくと立っている間に寒椿(かんつばき)が咲いている、年代も相当に古びがついて、絵も落着いた筆である。
 この金屏風の金と、竹の緑青と、椿の赤いのを見ていると、屈託したお雪ちゃんの心も落着いてくる。
「お雪ちゃん」
 そこへ、屏風の蔭から竜之助が刀を提げて歩いて来ました。
「まあ、先生」
「あんまり静かにしているから、心配になって見に来ました」
と竜之助が言いました。
「いいえ、いい心持で屏風の絵を見ていましたのよ」
「何の絵が描いてあるのです」
「竹に寒椿、ほんとうにこの青い竹が、すっきりとして、その中に椿が咲いているところが何とも言われません」
「それでおとなしかったならいいが、わたしはまた、お前が何か思いつめているのではないかという気がしました」
「そんなことはございません。まあ、お入りあそばせ、おこたがよく出来ておりますから」
 お雪ちゃんが立ち上って、竜之助を誘おうとする時に、もう竜之助は金屏風の中へ廻って刀を置き、お雪ちゃんと向い合せの炬燵の蒲団(ふとん)に手をかけていました。
「寒いね」
「高山も雪でございます、でも、たいしたことはございますまい」
「久助さんから便りがありましたか」
「いいえ、まだ、何しろ、途中が途中でございますからね」
 竜之助は炬燵に添うて横になりました。頭はちょうど寒椿の葉の下になっている、そこへ肱枕(ひじまくら)で、いつもするようなうたた寝の姿勢をとりました。
 お雪ちゃんは、じっとその様子をながめただけで何とも言わず、ただ深々と櫓(やぐら)の下に手を差込んで首を投げるばかりでありました。
 竜之助もまた、それより押しては何とも言いませんでした。
 それでも、竜之助としては、何かお雪ちゃんの心配事を察して、それを慰めるためにわざわざ奥からここまで出て来たもののようにも思われます。さりとて、押しつけがましい気休めを言うのでもない。お雪ちゃんは、そうしてうたた寝をしている竜之助の横顔を見ると、この人はかわいそうな人だという思いが込み上げて来るのを抑えることはできませんでした。
 どこから見ても、いじらしい人だと思わずにはおられません。わたしの姉さんはこの人が好きであったというが、わたしはこの人が好きなのだか、好かれているのだか、そんなことはわからないが、どうもこんな気の毒な人はない、ほんとうにこのかわいそうな人のためには、どんなに尽して上げてもいいという心持でいっぱいになってしまいます。
 そう思って、炬燵(こたつ)の櫓越しにじっとその顔を見つめると、今日はこの人の髪の毛が、男には珍しい黒い毛であることに感心してしまいました。
 面(かお)がやつれて、一層に青白く見えるのは、この髪の毛が黒いせいだろうということを認めずにはおられません。眉毛が迫って、目の切れが長く流れている。あの眼が涼しく明いていたら、どんな光がさしたことかとも思われずにはおられません。あの黒い髪の毛が、痩(や)せた首筋にほつれている、凄いほどの美人の年増の奥様といったような魅力があるのではないか。キッと結んだ口もとには、意地の悪い深いおとし穴がある。
 あの強い腕にしっかりと抑えられて、あのおろちのような唇が開いた時、あの黒い髪の毛のほつれが頬にさわる、近く寄るとあの蒼白(あおじろ)い顔の色が蝋(ろう)のように冷たくなっている、けれども、蝋よりも滑らかになっているのに、あの唇からは火のような毒。
 ああ、かわいそうな人――心からいたわってやりたい。こうしているうちにも飛びついて、「ああ、先生、わたしは本当にあなたが好きでした」と、あの冷たい頬に、温い血をのぼらせてあげたい。あたしの姉さんはこの人に殺されたような気がするけれども、でも憎めない。わたしだって殺されてあげたっていいことよ。ほんとうにどうして、この人のために、こんなに尽してあげなければならないのか、わたしはこうしてうかうかと、一生を誤ってしまっているのではあるまいか、それも誰のためだと思います。
 ほんとうに、先生、これからのわたしを、どうして下さるの……
 お雪ちゃんは、竜之助の面を見ているうちに、何ともいえない物狂おしい心持でからだのうちがわき立ってきました。
 その時に、外で、
「こんにちは……」
 おとなしやかにおとなう人の声。
「どなた」
 お雪ちゃんはまだ蒲団(ふとん)を離れないで返事をします。
「鶴寿堂でございます、貸本屋でございます」
「貸本屋さん――」
 お雪は立ち上りました。
 立って障子をあけた時分には、貸本屋の番頭、一目見たところで、それはイヤなおばさんの男妾(おとこめかけ)として知られた浅吉さんの生れかわりではないか――誰も驚かされるほどよく似た若い番頭風の男、萌黄色(もえぎいろ)の箱風呂敷を手に提げて、もう縁を上って、座敷へ廻ってしまいました。ぜひなくお雪ちゃんは、
「こっちへおいでなさいまし」
「はい、御免下さいまし」
「雪になりましたね」
「はい、たいしたことはございますまい」
「鶴寿堂さん、この間の義士伝はたいそう面白うございました」
「お気に召しまして有難う存じます、今日はまた新しいのを持って参りましたから、御贔屓(ごひいき)をお願いいたしとうございます」
と言って、もう番頭は包みを解きかける。お雪ちゃんは炬燵のところへ戻って、その間には金屏風がさし出ているから、番頭はその外に、竜之助は全く金屏風の竹と椿の中に没入してしまっていて見られません。
 包みを解いて取り出した貸本の二冊、三冊――
「花がたみ――この方は人情本でございます、これは琴声美人録――、馬琴の美少年録をもじったような作でございます、絵は豊国(とよくに)でございます」
「まあ、こちらの方はみんな筆で書いたものですね」
「ええ、先日も申し上げました通り、あらかた焼けましたものでございますから――残っている分や、借出した分を残らず筆記に廻させておりますが、借り手はたくさんにございますから、書き手が足りませんで困っております」
「でも、よくまあ、こう丹念に書けますね」
「なあに、素人(しろうと)でございますがね、原本を写して書きますと、誰にもやれることなんですが、さて、なかなかありませんでね」
 火事で蔵本が焼けてしまって、補欠のために筆写をさせて、それを借方(かりかた)へ廻しているということはこの前に聞いたが、その筆耕が足りないことを本屋がこぼしている。お雪ちゃんはその書き本を手に取ってめくっていたが、なるほど、丹念には写したようだが、素人がやったと見えて、見れば見るほど不器用なところが多い。
 でも、こういう際には、これでけっこう役に立ち、読む人に相当の慰めが与えられるのも重宝(ちょうほう)だと思いました。
「まだほかに妙々車(みょうみょうぐるま)という近刊物で、たいそう面白いのが一組だけ出ましたが、誰かそれを写してくれる人はないかとしきりに探しておりますが、見つかりませんで困っております、素人で少し絵心のある人ならたれでもいいと思いますがね、二通り、三通り写して置けば商売にもなり、この際、焼け出された人の人助けにもなるのでございますが、なかなか人がございません」
 こう言って、貸本屋の番頭が繰返してこぼすのを、ふと聞き咎(とが)めたお雪ちゃんは、急に口がどもるような気がして、
「あの、本屋さん……」
「はい」
「それはなんなの、素人(しろうと)でも丹念にやりさえすればいい仕事なの?」
「ええ、もう、こんな際ですから、本職ようの註文などをしてはおられません、少し絵心のある人で、見た眼の感じがよくさえあれば充分でございます、原本がたしかですから、透きうつしが利(き)きますし、案外骨の折れない仕事でございます」
「では、本屋さん、ぶしつけですけれども、その仕事をわたしにやらせて下さらない?」
「え、あなた様が……」
「わたしでよろしかったらば……その写本にあるくらいのことはやれましょうと思います」
「それはほんとうに願ったり叶ったりでございます、あなた様ならば……」
 貸本屋が乗り気になりました。
 お雪ちゃんとしては、いい機会を捉えたもので、生活の真剣な苦しい思いが、お雪ちゃんをして、このいい機会を掴(つか)ませるようにおし進めたとも見られないではありません。
 事実、お雪ちゃんの年ならば、ここにいま持参して来た本ぐらいのことは、充分に自信がある、そういう写しものの仕事があるならば、それこそ時にとっての生活を救う無上の内職であると、勇みをなさずにはおられません。
「でございますが、お礼といってはホンの少しばかりで、お気の毒でございますが」
と番頭は入念につけ加えたことが、かえってお雪ちゃんに安心を与えるようなもので、
「ええ、いくらでもかまいませんのよ、わたしにまあ、試しに一冊だけをやらせてみて頂戴」
「では、明日持ってあがります」
 貸本屋を帰してしまった後で、お雪ちゃんはなんとなく心の勇むのを覚えました。そして、身に何かの力がついたように思われてきました。
 先日、あの貸本屋が最初に見えた時、この際、貸本でもあるまいと思い返してもみたことだが、自分はとにかく、竜之助を慰むるためには、何でも軽い読物が第一でなければならぬということを考え、このなかから五六冊借りてみたことが縁でありました。
 その奇縁が、今日は先方からこういう仕事を持ち込んで来る、この際、自分の腕で、たとえ少しなりとも働き出してみせるという機会を与えられたことが、やっぱりお雪ちゃんにとって、言い知れぬ力とならずにはおられません。

         二十七

 その翌日になると、果して鶴寿堂が、原本はもとより、紙も、墨も、筆も、硯(すずり)まで整えてお雪ちゃんのところへ持って来ました。
 その原本というのは「妙々車」と題した草双紙でしたけれども、お雪ちゃんには草双紙が光を放つかとばかり尊く見えました。
 番頭が帰る早々、机を据えてその写しものにかかりました。
 お雪ちゃんは、本来こういうことが好きなのです。好きなところへ生活の圧迫がさせるのですから、その熱心さ加減というものはありませんでした。全く集中した興味で、一気に一枚二枚を写し取って、その出来栄えを見直すと、自分ながらそう拙(まず)いものだとばかりは思われませんでした。
 現に見本として、誰が書いたかわからないが、昨日借りて置いた素人(しろうと)うつしの一冊「花がたみ」というのから比べると、自慢ではないが、自分の方がずっと出来がよい、絵をうつすにしても、本文を頭に入れて置いてかかるから、作中の人々の気持が多少乗り移るように感じてなりません。
 それに本文は、筆写にかかわる必要はないから、すらすらと自分流に、画面にも合うように筆を走らせるから進みも早く、その日のうちに、十余枚の一冊を苦もなく仕上げてしまいました。この分なら、慣れさえすれば一日に二冊は間違いないと思いました。
 異常な興味と勇気とをもって、それの初冊を仕上げてしまったお雪ちゃんは、その夜右の一冊を手に持って、竜之助の枕許(まくらもと)に来て、
「先生、ほんとうによい仕事をしました、骨の折れるどころじゃありません、わたしの大好きの仕事ですから、仕事というよりは、楽しみでございますわ、まあ、ごらん下さい、これでも本屋さんは何と言うかしら」
 初仕事の出来栄えを、見えない人に見てもらいたいほど、お雪ちゃんは自分の仕事を珍重しています。
「何だね、何をうつしたんだえ」
と竜之助が尋ねました。
「『妙々車』という合巻物(ごうかんもの)でございます、春馬作、国貞画とありますが、まあ、わたしの書いたところをはじめから読んでお聞かせ申しましょう、なかなか面白いお話ですけれど、話にしてあげるよりも、わたしの書いた通り読んでお聞かせしましょう」
と言って、お雪ちゃんは、自分の作ったものを、自分で朗読でもして聞かせるかのような意気組みで……
「中古のころなりけん、ゑちごの国、うをぬまのこほり、八海山(はつかいざん)のふもとなる雷村(いかづちむら)といふところに度九郎とよぶかりうどありけり、そのつまは荒栲(あらたへ)とて、ふうふともうまれつき、貪慾邪慳(どんよくじやけん)かぎりもなくよからぬわざのみ働く故、近きあたりの村里に誰ありて、彼等めうとに親しみむつぶものなく、ある年、冬の末つかた、荒栲は織上げし縮(ちぢみ)を山の一つあなたなる里に持行き売らんとするに、越路(こしぢ)の空の習ひにて、まなくときなく降る雪の、いささかなる小やみを見合はせ、橇(かんじき)とて深雪の上をわたるべき具を足に穿(は)き、八海山の峰つづき、牛ヶ岳の裾山を過ぎるに、身重(みおも)にあれば歩むさへ、おのれが思ふにまかせざりけん、そのあたりに足踏みすべらし、谷間へ深く落ちいりしが、不思議に身持を破らざれば、いかにもして登らばやと、打仰ぎて上を見るに、四方に岩の覆ひ重なり、昼なほ暗き深谷の底、ことには雪の降りうづみ、更に登らんよしなければ頻(しき)りに悲しみもだえつつ、ここかしこ見まはせば、横の方に大洞(おほあな)ありて、奥より出で来るもの見えたり、荒栲(あらたへ)ふたたび驚き怖れ、ひとみを定めてこれを見ると、丈(たけ)抜群の熊なりければ、さてわが身はこれがために、命を取らるるものよと思へど、いかにもせんすべなければ、心のうちに思案なし、けものは人の物言ふをわきまへべきやうはなけれど、懐妊の身のかかる難儀を告げて命を乞うてみばや、その上にて聞きわけずばそれまでよと思ひさだめ、進み近づく熊の前に跪(ひざまづ)き、涙を流して、かかるところに落ちいりしは、わが身のなせしあやまちなれば、よしやそなたに噛まるるとも、恨む心はさらさらなけれど、ただ恐ろしきは、みごもりて早や五月になる身故、宿せしみづ子のあさましや、この世に出づる日もあらで……」
「ここで次へとなっておりますのよ。この文章の間に絵がありますの、わたしの描いた絵を見せてあげたいけれど、口で言ってみますと、左の方に猟師の度九郎が炉へ焚火をしながら、縮(ちぢみ)を売りに行く女房の荒栲(あらたえ)を見返っておりますのよ。女房の荒栲は、縮を小腋(こわき)に当てて、右の手には竹笠を持って、蓑(みの)を着て外へ出て行こうとしているところを描いてあります。住居は越後の山の中の猟師ですね、壁には鼬鼠(いたち)のようなのが一匹と、狸かなにかの剥いだ皮が吊してあります、鉄砲も一梃立てかけてあります――この二人の夫婦の悪党が、それからが大変なのです」
 この仕事は、実にお雪ちゃんのためにも、二重にも三重にも興味と実益とを与えたものでした。
 第一、お雪ちゃんは、これによって、生活と関連した仕事の興味を覚えると共に、仕事そのものが自分の好きな道とぴったり来ていることの興味が集中し、それから仕上げた仕事を竜之助に報告し、その内容を読んで聞かせたり、話にしたりすることによって、自分も満足を感じ、相手を慰め得ることにもなる、すべてにこんな異常な力を感じたことは近来に全くないことで、それがためにお雪ちゃんは、久助さんのことも、北原君のことも、白骨谷のことも、一切忘れ去るほどに緊張を感じていたことは事実です。
 そうして、翌朝を待っていてみると、果して鶴寿堂がやって来て、お雪ちゃんの仕事の成績を一見するや、舌を捲いて喜び且つ賞(ほ)めあげました。
 それを聞くとお雪ちゃんは、大試験が一番の成績で及第したほどうれしく感じているところへ、この出来栄えでしたら、玄人(くろうと)はだしですから、この後も続々仕事を持ち込みますによって、欠かさずやっていただきます、先日も申し上げた通り、お礼というほどのことはできませんが、今までの例によって、少々のところ、明日改めて持参いたしますから、何分よろしく――と言って、写し物の分を持って帰り、続いての仕事の三冊を置いて帰りました。
 これに一層の元気と自信を得たお雪ちゃん、竜之助に呼ばれても返事を忘れるほど、机にしがみついて離れませんでした。
 その翌日になると、鶴寿堂はあとの仕事を持ち込むと共に、金一封をお雪ちゃんの前に置き、一枚について幾らずつの計算で、これから無限にお引受けを願いたいと言われた時に、お雪ちゃんは胸がわくわくして、いきなりその一封を押戴きたいほど嬉しくなりました。
 鶴寿堂が帰った後、その一封の金包を持って、転がるように竜之助の枕辺に走(は)せつけたお雪ちゃん、
「先生、わたしが稼(かせ)ぎました、生れ落ちてから、今日という今日はじめて、自分の腕でお宝を儲(もう)けることができました。これはそのままじゃおけません、わたしはこれを神棚へ捧げます、そうしてこれから買物に出かけます、小豆(あずき)の御飯を炊いて、お頭附(かしらつ)きでお祝いをしましょう。わたしの稼いだお金で買ってあげなければならない。ですから、忙しいけれども、わたしこれから町へ出てまいりますわ、そうしてこれで小豆とお頭附きと、そのほかに買えるだけのものを買ってまいります。あなたのためにばかりじゃありません、わたしも自分のために、自分のお宝で買いたいものがありますもの」
と言って、お雪ちゃんは竜之助の枕許で喜びました。
「ねえ、先生、おとなしく待っていて下さい、わたしが、わたしの儲けたお金で、あなたを喜ばせるおみやげを買って来てあげますから、ほんの少しの間、おとなしく待っていらっしゃい……」
 お雪は、竜之助に頬ずりをしないばかりにして出て行きました。
 竜之助も、それを拒む由はないが、喜んで出て行ったお雪のあとに、一抹(いちまつ)の淋しいものの漂うのに堪えられない気持がしました。

         二十八

 ちょうどその日、代官の屋敷では新お代官の胡見沢(くるみざわ)が、愛妾のお蘭の方と雪見の宴を催しておりました。
 雪見といっても、雪は降っていないのですが、三日前、チラチラふった雪の日に、一杯飲もうと言ったのが、急の用件で延び延びになったために、今日その雪見の宴を開いて、水いらずに楽しんでいるという次第です。
 そこへ、女中が取次に来ました。
「あの、いつも見えます鶴寿堂が参りました」
と、それは主人公の胡見沢に向っての注進ではなく、お部屋様のお蘭さんの顔色をうかがっての取次でした。
「政吉が来たかい、政吉ならここへお通し」
 お蘭の方は、主人の同意を得ることなしに、独断でこの席への出入りを許したものです。
 まもなく、女に導かれて、廊下伝いにこの席へ現われたのは、相応院のお雪ちゃんをお得意とする貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしくいえば、白骨へイヤなおばさんが同伴して来た浅吉という男とそっくりなあれです。
 番頭は敷居外にうずくまって、額が畳へ埋れるほどにお辞儀をしました。いつも御贔屓(ごひいき)にあずかるお部屋様に対しての敬意ばかりではない、飛騨一国を預るお代官の御列席へ、特に入場を許さるる自分の待遇に恐れ入ったものと見えます。
「何ぞ面白い本が出たかえ」
と、お部屋様のお蘭が聞きました。
「はい、うつし本ではございますが、近ごろ評判の新刊物が出来ましたから、ごらんに入れたいと存じまして持って参りました」
「それは御苦労、ここへ出してごらん」
「はいはい」
 若い番頭は、一層の恐縮をもって風呂敷を解いて、その中から薄葉綴(うすようつづ)りの三冊を取り出して、
「はい、ただいま評判の種彦物でございます、絵の方も豊国でございまして、なかなか出来がよろしうございます、写し本ではございますが、原本の情味がすっかり出ているものでございますから」
と言って、恐る恐るお蘭の方の前へ捧げたのは、赤い色表紙の美しい製本になっていましたが、中身はこの二三日来、お雪ちゃんが丹精をこらして書き上げた「妙々車」であります。
「まあ、ちょっとお見せ」
 女中の手からお蘭はその冊子を取り上げて、中身をめくり、
「これは面白そうだね、雪国の話、大きな熊が出ているわ――誰が写したのか女の手のようね、なかなかよく書いてある、絵もよくうつしてあるわねえ」
 それがお目に止まったのは、得たり賢しというみえで、番頭が、
「うつしたのは、いいところのお嬢様なんですが、特にお頼みして書いていただきました、その初(はつ)おろしをこちら様に読んでいただきたいものでございますから、まだ綴目(とじめ)折らずでございます」
 商売柄、如才ないところがある。なんにしても初物は気持が悪くないと見えて、お蘭の方の御機嫌も斜めでなく、
「では、ゆっくり貸して置いて下さい、これんばっかりじゃないでしょう、まだあとが続くんだろうねえ」
「ええ、続くどころではございません、まだあとが五十冊もございます、一生懸命うつさしておりますから、追々とごらんに入れまする」
 若い番頭がまた頭をこすりつけると、いよいよ御機嫌のよいお部屋様は、
「まあ、政ちゃん、こっちへ入って、殿様から一つお盃を頂戴なさい、今日はわたしたちの雪見だから無礼講よ」
「これは恐れ入りました」
「御前様、これがあの鶴寿堂の政吉でございます」
「そうか、入れ入れ、今日は雪もないのに、この女からせがまれて雪見だ。貴様、なかなかの色男だという評判だが、何か艶種(つやだね)があるなら語って聞かせろ。それ――」
 これが、いわゆる新お代官の下し置かれるお言葉で、そのお言葉が終ると、それと言って投げてくれた盃です。
 恐れ入ってしまって、その受けようも知らないでいると、お部屋様が、
「政どん、御前がああおっしゃるから、御辞退は失礼だよ、遠慮なくこちらへ入って頂戴なさい」
 ぜひなくその前へ引き込まれて、御両方(ごりょうかた)の前へ引据えられたという次第です。
 引据えられると共に、下し置かれた盃を恭(うやうや)しくいただかねばなりません。
「ほんとうにこの政どんは、人間がおとなしくって、商売に勉強で、親切気があるといって、お得意先で持てること、持てること……町の芸妓(げいしゃ)たちなんぞは、政どんからでないと、本を借りないことにしてあるそうでございますよ」
とお部屋様がはしゃぐ。新お代官は頷(うなず)いて、
「そうかそうか、色男というやつは得なもんだ、拙者もあやかりたいものだ」
「御前、この政どんは、一まきがみんな色男に出来てましてね」
「うむ、そうか」
「これの兄さんなんぞは、またどうして……」
 お蘭が、はしゃぎついでに、何か素破抜(すっぱぬ)きをやり出しそうなので、周章(あわ)てて盃を下に置いた若い番頭は、
「ああ、どうぞもう御免くださいまし、それをおっしゃられますと、消えてしまいとうございます」
「何のお前……」
とお蘭さんは、多少の御酒かげんでけっきょく面白がって、
「何のお前、恥かしいことがあるものかね、お前の兄さんなんぞは、高山第一の穀屋のお内儀(かみ)さんに惚れられて……」
「どうぞどうぞ、御勘弁くださいまし」
「勘弁どころか、お前の方から堪忍分(かんにんぶん)を貰いたいくらいのものだよ。高山第一の穀屋のお内儀さんに、この人の兄さんの浅さんというのが、すっかり可愛がられちまいましてね、御前……」
「もうたくさんでございます、もうおゆるし……」
 政吉は盃を下に置くと、身を翻えして、あたふたとこの場を逃げ出してしまいました。それを抑えようでもなく、あとでは、新お代官とお部屋様の高笑いがひときわ賑わしい。

         二十九

 これより先、あんな喜び方で、竜之助にしばしの暇乞(いとまご)いをしたお雪は、自分の座敷へ取って返すと、同時に気のついたのはこのなりではどうにもならないということでした。内にいる分には何でもいいが、外へ出るには、これでは……と悄気返(しょげかえ)ったのも無理はありません。あれ以来今日まで、まだ町へ下りたことのないのに、これでは仕方がない、ほんとうに貰い集め、掻集め同様の衣裳で身をつくろっているという有様ですから、全く出端(でばな)を挫(くじ)かれてしまいました。
 といって、買物を止める気にはさらさらならない、と、目についたのが、衣桁(いこう)にかけた例のイヤなおばさんの形見の小紋の一重ねです。あれを引っかけて行こうか知ら、あれなら、どうやら外聞が繕(つくろ)えるが、気恥かしいばかりではない、見咎(みとが)められた時の申しわけにも困りはしないか。
 といって、やっぱりこの場は、あれを着て行くよりほかはない。いっそ晩にしようかと思いましたが、夜は物騒であって、とても一人で出て行けるものではない。これにひっかかったお雪ちゃんは、ほとんど当惑に暮れてしまったが、ふと、壁に寺用の雨具のかかっているのを認めました。
 雨具というけれども、それは雪具といった方がいいかも知れない。竹の笠と、半合羽(はんがっぱ)と、カルサンと、藁沓(わらぐつ)といったようなものが、取揃えられてあるのを見ると、あれをお借りしようという気になりました。
 あれですっかり身ごしらえをして行けば中身は何でもかまやしない、ちょうどあんなふうにして、近在や山方から出て来る娘さんの姿をよく見かける、この辺ではかえって、あんなにして出た方が目につかなくていいと思いました。

 まもなく、笠と、合羽と、かるさんで、町へ下りて行くお雪ちゃんの姿を見ました。
 なるほど、こうして行く方がこの辺では目に立たない、笠の中をわざわざ覗(のぞ)いて見ない限り、見咎められるはずはない、また、見咎められたとて必ずしも暗いこともないけれど、この方が安心だと、自分も思い、周囲のうつりもよかったのです。
 そうして、無事に、久しぶりに町へ出て見ましたが、焼跡の工事もかなり進んでいる。どこでどう買物をしていいか、ちょっと戸惑いをするが、ほぼ勝手を知った宮川筋を上って行くと、そこに一つの大きな小屋が立っていて、その小屋が全部、公設市場のようになっているのを見ました。
 これは、火事あとへ直ぐに出来た「お救い米」の小屋であったことをお雪ちゃんも知っている。今は、「お救い米」の時は過ぎたが、そのあとが、白米をはじめ諸日用品の廉売所となっていることは今はじめて知りました。
「お救い米」が済んだ後で、諸色(しょしき)が高くなるにつれて、売惜み、買占めをする奴がある、それを制するためにお代官が建てたものだということまでは知らないが、ともかく、この市場へ入れば、大抵の物は買えるような組織になっているのだという目利(めき)きは直ぐにつきました。そこで、お雪ちゃんは、遠慮なくこの市場の中へ入って行きました。別段に恥かしい思いなんぞはなく進入することのできたのも、この臨時の仮装の賜物(たまもの)、なるほど、自分同様の装束をした近在山里の女連が、ずいぶんこの中にいますから、心強いようなものです。
 お雪ちゃんの主なる目的としては、小豆とお頭附きを買うことにあるのです。小豆は直ぐに用が足りたけれども、お頭附きは何を買っていいか、ちょっと惑わされて、あれこれと見つくろっている。
 そこへ、お代官のお見廻りがあるというので、市場のうちがざわめいて、またひっそりとしてしまいました。売る者も、買うものも、みんな恐れ入ってしまった。大抵は土下座をきって静まり返ってしまいましたが、お雪ちゃんはどうも土下座をする気にもなれず、そうかといってうろうろしてもいられないから、乾物屋のうしろに小さくなっていると、巡検のお代官がその前へやって来たのです。
 新お代官というのは、赤ら顔のでっぷり太った男で、向う創(きず)まであるが、お代官としては存外、磊落(らいらく)な性質と見え、大声で附添の者と笑い話をしながらやって来る。実はこの公設市場は、お代官として得意な施政の一つなので、この非常の際の買占め、売惜みを防ぐものに、逸早(いちはや)く官権の手で日常物価の公平を保つ機関を作り上げた、成績がなかなかいいという報告を聞いたものだから、この際、実地検分に来たものと見えます。
 事実、この新お代官なるものは、ずいぶんと悪い噂(うわさ)もあるが、またなかなかの苦労人と思われるところもあり(前身はなんでもバクチ打ちの経歴まであるということ)したがって型破りの手腕を見せることがないではない。現にこの公設市場なんぞは、たしかに悪いやりかたではなく、物価政策の機先を制したなんぞは、たしかに月並みのお代官にはできない働きだと賞(ほ)める者もあるくらい。
 そこで、大得意で巡検してお雪ちゃんのいる乾物屋の前まで来ましたが、お雪ちゃんは直ちに、このお代官様は少々酔っていらっしゃると感じました。本来得意のところへ、一杯機嫌でしたから、怖いものの元締になっているお代官が、開けっ放しの心安いものに見えないではありません。
 笠は取りたくはないが、被(かぶ)っているわけにはゆかないから、取外してお雪ちゃんが頭を下げていると、それが早くもお代官のお目にとまったようです。
 いったい、悪い領主やお代官には、自分の女房や娘は滅多に見せるものではないのです。慣れたものは大抵そのへんは心得ているが、お雪ちゃんはあらかじめ、そんな気兼ねを置くの余裕もなにもなくして出て来たのですが、笠で隠していれば何のこともなかったのですけれど、こうして笠を取ってみると、その衣裳と面立(おもだ)ちとはどうしても釣合わないことが、この際、誰にも認められることになるのはやむを得ませんでした。
 そこで新お代官は、お雪ちゃんの前でちょっと足を止めました。
「お前はこの店の掛りかい」
 不意に言葉をかけられたので、お雪ちゃんはうろたえ、
「いいえ――」
 その返答ぶりだって、近在の山奥から出て来た娘ではない。
「どこだい」
「はい」
 お雪ちゃんは返答に窮してしまったが、折よくそこへ来合わせた兵隊が一人、
「もはや、あの農兵の組合せが出来上りまして、いつにても調練の御検閲をお待ち申しております」
「ああ、あの農兵の調練か、この足で出向いて行く、御苦労御苦労」
 お雪ちゃんを見ていた新お代官は、この兵隊の復命を聞くと頷(うなず)いて、前へ歩み出しましたが、どうも横目でじろじろとこちらを見ていられるようで気味が悪い。
 それでもその場はそれだけで、何のこだわりもなく、市場は以前のような喧噪(けんそう)と雑沓(ざっとう)にかえり、お雪ちゃんは首尾よく手頃のお頭附(かしらつ)きを買って家へ帰りました。
 帰ってみると、何にするためか、碁盤を前にして、紙を畳んでは刻み、刻んでは畳んでいるところの竜之助を見ました。
 お雪ちゃんはいそいそとして、買い調えたものの料理にかかり、それより適当の時間に、やや早目な晩餐が出来上り、やがて睦(むつ)まじく膳を囲みました。
 お祝いが済むと、また緊張しきった気持で新しい仕事にとりかかる心持まで、充実しきっておりました。

 しかしお雪ちゃんが立って行くまもなく、例の公設市場に一つの難題が起ったことは、お雪ちゃんの知らない不祥事でした。
 それは、お代官から改まって三名ばかり役人が見えて、さいぜん、お代官が検分の砌(みぎ)り、この乾物屋の附近に立っていた在郷らしい女の子はいったいありゃ何者だ、どこの誰だか詮議(せんぎ)をして申し上げろということです。
 そこで、市場の上下が総寄合のように額を集めて、あれかこれかと詮議をしてみましたけれども、要領を得たようで得られないのは、本人はたしかに見たが、その在所が一向にわからないことです。小豆を買い、お頭附きを買い、その他、椎茸(しいたけ)、干瓢(かんぴょう)の類を買い込んで行ったことは間違いなくわかりましたけれども、どこの何者かどうしても分らないのです。ただ、言葉つきから言えば、決してこの山里から来た者ではなく、そうかといって、土地の者でも、上方風の者でもないことは明らかだし、その風采や、品格から言えば、なかなか山里や在郷の者ではないが、いでたちは、ざらにあるこの辺の山出しの娘にちがいなかった――ということだけは誰も一致するのですが、さてそれが何者で、どこから来たかということは一向わからない、それに、連れといっては一人も無く、たった一人で来たことも間違いないから、聞き合わせる手がかりもないことです。
 その旨をお代官の下役に答えると、下役の御機嫌の悪いこと。
 こういう意味で、あいまいに復命すれば、それはきっと隠し立てすることの意味のほかに取られるはずはない、もし身許がわかってお召出しを蒙(こうむ)った日には、及ぼすところの迷惑甚大なところから、身許不明ということにさえしておけば、まずは無事――という算段から出たとお代官に睨(にら)まれるにきまっている。お代官の威勢として、たった一人の山出しの娘が突留められないとあった日には、自分たちの首の問題でもある。そこで下役は自然市場の連中に辛く当らなければならない段取りになる。
「そういうあんぽんたんの行き方で、商売がなるか! 言葉尻をつかまえておいても方角はわかりそうなものだ。貴様たち、心を合せてかくまいだてするなら、その了見でええ、吾々にも了見がある、明朝までにきっと詮議をしてなにぶんの返事をせい」
 こういって市場連を威丈高に嚇(おど)し立てたものです。
 この嚇しは利(き)きます。今晩は寝ないでも市場の関係人全体は手をわけても、その身許を突きとめない限り市場組合員は所払いとなるか、欠所(けっしょ)となるか、そのことはわかりません。

         三十

 その夜の――暁方のことです。
 最初に宇津木兵馬が触書(ふれがき)を読んだ例の高札場のところ。
 歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹。
 がんりきの百という野郎が、芝居気たっぷりで隠形(おんぎょう)の印を結んだ木蔭。
 あそこのところへ、また以前と同様な陣笠、打裂羽織(ぶっさきばおり)、御用提灯の一行が、東と西とから出合頭にかち合って、まず煙草を喫(の)みはじめました。
 東から五人、西から五人――かなりの仕出しが、舞台の中程、柳の下へずらりと御用提灯を置き並べ、その附近の石と材木とへ一同ほどよく腰を卸して、申し合わせたように煙草をのみ出したことは、この間の晩と今晩とに限ったことではなく、いつもここが臨時非常見廻役の会所になっていて、ここで落合ってから、東の奉行は西へ、西の奉行は東へ、肩代りをして一巡した後にお役目が済んで、おのおのの塒(ねぐら)へ帰る順序ですから、ここは会所であると共に、交番所であり、同時に東は東の動静を、西は西の持分の動静を、おのおの報告し合って、役目の引きつぎ所ともなる。
 けれども、会合、交替、引きつぎ、すべてそう改まって角立ったことはなく、こうして三べん廻った煙草のうちの、出放題の世間話のうちに含まれて、そのすべての役目が果されてしまうわけです。
 そこで、先晩は、専(もっぱ)ら下原宿の嘉助の娘のお蘭の出世が話題となり、後ろに聞いていたがんりきの百を大いにむずがゆがらせたが、今晩もあの調子で、
「時に、市場でも難儀が降って湧いてのう、あの娘(あま)っ子(こ)、まだ身性(みじょう)がわからんかいのう」
「まだわからんちうがのう、困ったもんじゃのう、なんでも市場の世話役は、勧賞(けんじょう)つきで沙汰をしおるちうが、つきとめた者には二十両というこっちゃ」
「二十両――このせち辛い時節に、えらい掘出しもんじゃのう」
「市場連も、勧賞と聞いた慾の皮の薄いわいわい連も血眼(ちまなこ)じゃがのう、明日の九ツまで見つからんと、あの市場総体が欠所を食うじゃろうて」
「何してもそれは気の毒なこっちゃ、勧賞はどうでもいいが、市場連を助けてやりてえもんじゃのう」
「一骨折っちゃ、どうでごんす」
「さあ、当番でなけりゃ、何とか一肌ぬいでみようがなあ、いったい、手がかりはあるのかや、物怪変化(もののけへんげ)が、木の葉をもって買いに来たわけじゃあるまいからのう」
「物怪変化じゃねえさ、ちゃんと世間並みの鳥目(ちょうもく)を払って、小豆と、お頭附きと、椎茸(しいたけ)、干瓢(かんぴょう)の類を買って行かれた清らかな娘(あま)ッ子(こ)じゃげな――払ったお鳥目も、あとで木の葉にもなんにもなりゃせなんだがな」
「小豆と、お頭附きと、椎茸、かんぴょうを買うて行ったんや、何かお祝い事じゃろう」
「どんなもんじゃろう」
「わしゃ思いまんなあ、その娘ッ子、山家(やまが)もんじゃごわせんぜ」
「だが、合羽、かんじき、すっかり山家者のいでたちじゃったということじゃ」
「でも、山家者なら椎茸なんざあ買いやしませんがな」
「はてな」
「木地師(きじし)の娘ッ子じゃござらんか」
「木地師の娘ッ子なら、たんと連れ合うて来るがな、一人で来るということはごわせんわい、それに、木地師の娘ッ子ならお尻が大きいわいな」
「土地ッ子ではなし、よそから奉公に来ている娘ッ子という娘ッ子はみんな人別を調べてみたが、当りが無いというこっちゃ」
「何とかならんもんかなあ」
「明朝九ツまでにわからんと、首ととりかえせんじゃがなあ」
「そうじて泣く子と地頭にゃ勝たれんわな。水戸の烈公さんなんて、あれでなかなか強(ごう)の者(もの)でいらっしゃったるそうな」

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