大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

「おや、まあ、お前は弁信さんじゃありませんか……」
と、草鞋(わらじ)を取る前に、まず呆気(あっけ)にとられたのは久助です。
「はい、弁信でございますよ。久助さん、お変りもありませんでしたか、お雪ちゃんはどうでございます」
「お雪ちゃんも、無事でいるにはいますがね……」
「なんにしても結構と申さねばなりません、本来ならばあの子は、この白骨へ骨を埋める人でございましたが、それでも御方便に、助かるだけは助かりましたようでございます。お雪ちゃんは、当然ここで死なねばならぬ運命を遁(のが)れて、とにもかくにも、無事にこの白骨を立ち出でたのは果報でございました。誰も知らないお雪ちゃん自身の善根が、お雪ちゃんの命を救ったのはよろしいが、かわいそうに、あの子の身代りに死んだ人がありましたね」
「何を言うのです、弁信さん」
 炉辺閑話(ろへんかんわ)の一座の中では、最も臆病な柳水宗匠が、わななきながら唇を震わせますと、
「はい」
 弁信は、おとなしく向き直って、
「あの子が、この白骨へ旅立って参りまするその前から、わたくしはあの子の運命を案じておりましたが、その道中か、或いはこの白骨へ着いた後か、いずれの時かに於て、あの子の運命が窮まるということを、わたくしのこの頭が、感得いたしました。ですけれども、それを引止める力がわたくしにございませんでした。世の中には、こうすればこうなるものだと前以てよく分っておりながら、それを如何(いかん)ともすることのできない例(ためし)はいくらもございますのです。わたくしとしましては、そんな事まで、お雪ちゃんという子の門出を心配しておりましたにかかわらず、お雪ちゃん自身は、白骨へ行くことを、お隣りのでんでん町へでも行くような気軽さで、楽しそうな様子でございました。あの子もやっぱり物を疑うということを知らない子でございます。疑いの無いところに怖れというものも無いわけでございますが、怖れを怖れとしない本当の勇気は、疑いを疑いきった後に出てこなければならないのですが、お雪ちゃんのは、最初から疑いを知らないのです。突き当るまでは信じきっていて、突き当ってはじめて苦しむのですからかわいそうです。ただ心強いことには、あの子はやはり突き当って、自分が苦しみながらも、自分を捨てるということがございません、その一念の信を失うということがございません、九死の中の苦しみにいても、絶望の淵へは曾(かつ)て落ちていないということがせめてもの安心でございます。ですからわたくしは、蔭ながらいかにあの子の悲痛を思いやってはおりましても、あの子の身の上に、全くの絶望ということを感じないのが一つの心強さでございましたが、なんに致せ、あのように疑いを知らぬ人の子を長く迷惑の谷に沈めて置くというのは忍びないことでございます――白骨を無事に立ったとはいうものの、やっぱりあの子は苦しんでいるに違いありません」
 この時、草鞋(わらじ)を取って洗足(すすぎ)を終った久助が炉辺へ寄って来て、
「北原さん、これがあなたへ宛ててのお雪ちゃんの手紙でございます、口不調法な私には、何からお話を申し上げてよいか分りませんが、これをごらん下さると、すべてがお分り下さるでございましょう」
「お雪ちゃんからのお手紙ですか」
 北原はそれを受取って、燈火の方に手をかざして封を切りながら、自分も読み、人も差覗(さしのぞ)くことを厭(いと)わぬ形で読んでしまいましたが、
「おやおや、高山で火事に遭って、お雪ちゃんは身のまわりのものそっくりを焼いてしまいましたね」
「いやもう、飛んだ災難で、あなた方にお暇乞いもせず、逃げるようにここを出て行きましたくせに、今更こんなことを手紙であなた方へ申し上げられる義理ではございませんが、全く旅先で、身一つで焼け出され、九死一生というつらさが身にこたえました」
「君、何だってお雪ちゃんはまた、ここを逃げ出したんだ」
 堤一郎が不審がる。なるほど、誰もお雪ちゃんを邪魔にする者はなし、迫害する者はなし、いたずらをする者もなし、のみならず、すべての敬愛の的となり、ほんとうにこの雪の白骨の中に、不断の花の一輪の紅であったのに、いったい何が不足で、ここを夜逃げをしたのだ……ということが、今以て一座の疑問ではあるのです。

         二

 お雪ちゃんの手紙を逐一(ちくいち)読んでしまった北原賢次は、慨然として、
「だから言わぬ事じゃない」
とつぶやきました。だが、慨然として呟(つぶや)いただけではいられない、事急に迫って、轍鮒(てっぷ)のような境涯に置かれているお雪ちゃんの叫びを聞くと、まず、為さねばならぬことは、走(は)せてこれに赴くということです。
 北原は、忙しく手紙を巻きながらこう言いました、
「今晩というわけにもいくまいから、明早朝、拙者は高山まで行って来るよ。まあ、万事は向うへ行っての相談だが、僕の考えでは、どうしても、もう一ぺんお雪ちゃんとその一行をここへ連れ戻すのだな、そうして予定通り一冬をこの地で越させて、春になってからのことにするさ……とにかく、僕は明早朝、お雪ちゃんを救うべく高山まで出張することにしますから、皆さんよろしく」
 北原が手紙の要領を話した後に、進んでこういって提言したものですから、誰あって異議を唱えるものもあろうはずはありません。
「御苦労さまだね、北原君、この雪だからねえ、誰か一緒に行ってもらわねばなるまい」
 池田良斎が、ねぎらいながら言うと、誰よりも先に口を切ったのは、黒部平の品右衛門爺さんでありました。
「わしも、平湯から船津(ふなつ)へ越さざあならねえから、一緒に高山までおともをしてもいいでがんす」
「品右衛門爺さんが同行してくれれば大丈夫、金(かね)の脇差」
と山の案内者が言いました。
「有難い、品右衛門爺さんが行ってくれる、ではなにぶん頼みますよ」
 北原も品右衛門の名をよろこびました。事実、山と谷との権威者である、このお爺さんが同行すれば、山神鬼童も三舎を避けるに違いないと思われます。
 そうでなくてさえも、品右衛門爺さんに先を越されて、やむなく口を噤(つぐ)んでいた一座の甲乙が、この時一時に嘴(くちばし)を揃えて、
「北原君……拙者も連れて行ってくれないか、安房峠(あぼうとうげ)の雪はいいだろう、それに飛騨の平湯がまたこことは違った歓楽郷だということだし、高山も山間に珍しい風情のある都会だということだから、この機会に、僕も一つ同行を願って、観光の列に加わりたいものだ」
「冗談じゃない、物見遊山に行くんじゃないぞ、まさにお雪ちゃんの危急存亡の場合なんだ――ところで、品右衛門爺さんを先導且つ監督として、拙者が正使に当り、久助さんだけは当然介添(かいぞえ)として行かにゃなるまいから、同行三人――それで明早朝の約束ということに決めてしまいましょう、ねえ、池田先生」
「それがよろしいでしょう、御苦労ながら頼みます、頼みます」
 北原と良斎とは相顧みてこう言って、もはや緩慢な志願者の介入を許さないことになってしまって、一座もまたこの際、それに黙従の形となって、火は相変らず燃えているのに、一座がなんとなく、しんみりしてきた時、
「え、え、皆様、本来ならばこの際、私が進んで御同行を願わねばならないのですが……」
と、この時膝を進めたのは弁信でありました。
 本来、あのお喋(しゃべ)りが、ここのところで、ここまで沈黙していたのは、不思議といえば不思議であります。縁故の遠い甲乙までが、自分の好奇のためにも、お雪ちゃんの救急のためにも、嘴(くちばし)を揃えて同行を申し出でた際、それよりはもっとずっと馴染(なじみ)の深い弁信が、あの柔軟な舌を動かさずにいたということが変で、また、話がこんなに進んで来た場合に、今まで物(もの)の怪(け)ではないかとさえ驚異の的とされていたこの小法師が、たとえ僅かの間なりとも、一座から存在を忘れられていたということも、不思議な呼吸でなければなりません。
 ところが、この際突然としてまたしゃべり出たものですから、忘れられていた存在がまた浮き出したと同時に、一座がなんとなく水をかけられたような気持になって、神秘とも、幻怪とも、奇妙とも、ちょっと名のつけられない小坊主の、平々洒々としてまくし立てる弁説の程に、なんとなくおそれを抱かせられでもしたもののようです。こんな気配にはいっこう頓着のない弁信は、一膝進ませて、例の柔長舌をひろげはじめた、
「皆様が、こうもお気を揃えて、あのお雪ちゃんという子のために尽して下さる御親切をまたとなく有難いことに存じます。本当ならば、皆様をお煩(わずら)わせ申すことなしに、真先にこのわたくしというものが、あの子を訪ねて、そうして尽すだけの介抱も尽してあげなければならないはずなのに、今のわたくしでは、それができないと感じましたから、やむを得ずさいぜんから差控えておりました。と申しますのは、甚(はなは)だ我儘(わがまま)の次第でございますが、実のところ、わたくしの身体は只今、疲れ切っているのでございます、それに、ここに落着きまして、結構な天然のお湯に温められましてから、その疲れが一度に出てしまったような次第でございまして、たとえ、お雪ちゃんという子が山一重あなたにおりましても、今のわたくしのこの身体では、その山一つを越すのが堪えられますまいと案じられるのでございます。こんなに申しますと、弁信、お前は口ほどにもない意気地なしだな、さきほど玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)渡天の苦しみがどうの、なあに、同じ日本の国の信濃の国内がどうのと広言を吐いたそれがどうしたと、斯様(かよう)にお叱りを蒙(こうむ)るかも知れませんが、それはそれでございまして、お湯につかりましてから、わたくしが、全くぐったりと疲れが一時に出てまいりましたことは事実でございます。だが、御安心下さいませ、この疲れは困憊(こんぱい)の疲れというわけではございません、安息の疲れなのでございます。わたくしは行こうと思いますと、いかに病身の身でも行くべき路をさらさら厭(いと)いは致しませんけれど、今は休みたいのでございます。お雪ちゃんの身がどうありましょうとも、皆様を先立て、わたくしが控えておりまして、お義理を欠こうとも欠きますまいとも、わたくしは今日は休みたいのでございます、明日もここで休んでいたいのでございます。あさってのところはどうなるかわかりませんが――今のわたくしの気持は、何事を措(お)いても、ここで暫く休ませて置いていただきたいことのほかにはございません。隣国と申しましても、飛騨の高山まではかなりの道でございましょう、ましてこの大雪でございます、それは品右衛門爺さんが案内をし、屈強な北原さんと、お気の練れた久助さんとがお道連れですから、少しも心配はないようなものの、それでも時候外(はず)れの今の時に、人の通わぬ山路を御出立なさるのはなんぼう御苦労なことでございましょうか。それをわたくしらがここにいて充分に休みたいなんぞとは申し上げられた義理ではないのでございますが、なぜかわたくしはここで思う存分、三日の間休ませていただきたい気分がしてなりませぬ。北原様、品右衛門爺様――それと久助さん、どうか右のところを悪(あ)しからず御承知くださいませ。ではお頼み申します、ずいぶん御無事に、わたくしが念じおります」
 一息にこれだけのことを言いましたから、一座がまた口をあいてしまいました。なんというおしゃべり坊主、なんというませた口上の利(き)きぶりだろうと――弁信の顔を見たままでいると、北原賢次も笑っていいのか、ひやかしていいのかわからない気持になって、
「御心配なさるな、弁信さん、誰もお前さんに行ってもらおうとは言わない、お雪ちゃんだって、その姿で弁信さんが来てくれなかったといって恨むようなこともないでしょう――お望み通り三日の間、ここでゆっくり休息なさい、休息しないといったって、我々の方でお前さんを休息させないでは置かれないでしょう」
「そうおっしゃっていただくのが何よりでございます、お雪ちゃんにもよろしくお伝え下さいませ、そうして、もしあの子がここへ戻って来ると言いましたら、お連れ申せるものならば一緒にお連れ下さいませ、また、あの子に戻ることのできない事情がございましたなら、あの子のためにしかるべく取計らってやっていただきたいものでございます。弁信さんはどうしたとお雪ちゃんが尋ねました時には、弁信は白骨に助けられて来ているが、意地にも我慢にも疲れが出て、休みたがっているから置いて来たと、そうお伝え下さいませ。ここまで来ながらどうして一緒に来なかった、一緒にお連れ下さらなかったとお雪ちゃんは怨(うら)むかも知れませんが、怨まれても仕方がございませんが、私に会うためにお雪ちゃんが、これへ戻って来ることはよろしくありません――私の方から尋ねて行くまでお待ちなさるように、お申し伝え下さいませ」
「万事承知承知」
「では、その方はそれと一決して、あらためて日課の輪講に移りましょう、当番は……」
「堤君ではないか」
「時に……久助さんもお疲れでしょう、いつもの部屋でお休み下さい、それと品右衛門爺さんも、我々の輪講がはじまりますからお休みなさい」
 弁信のことは、行けとも行くなとも誰も言いませんでした。

         三

 良斎先生の「万葉」、柳水宗匠の「七部集」宗舟画伯の「四条派に就て」というような輪講が一通り終って後の炉辺の余談が、ついに弁信法師の上に落ちて来ました。
「どうです、あの弁信なるものは」
「驚き入ったものですね、あれはまた何という喋(しゃべ)り方です」
「ああなると、手のつけようも、足のつけようもありませんね、さすがの北原君でも交(まぜ)っ返す隙が無いじゃありませんか」
「喋らしたら、しまいまで聞いていなけりゃなりません、そうかといって、喋らせないように警戒しているわけにもいかないし、聞いていても、そう耳ざわりになるわけではないが……」
「かなわない、何しろ大寒小寒(おおさむこさむ)の時は、山から小僧が飛んで来ることになっているのが、反対に里から小僧が飛んで来たのだから、まさに天変地異だね」
「雪の白骨へ今冬は、かなり変った客人が見えないではないが、あんなのは絶品だね」
「絶品だ、全くよく喋るにも驚かされるが、勘のいいのにも度胆を抜かれるよ」
「久助君が来たのを、その足音もしないうちから感づいているのだから、我々なんぞはもう腋(わき)の下の毛穴まで数えられているかも知れない」
「なんだか少し怖いね」
 事実、さしものいかもの揃いであるらしいこの座の一行も、弁信のことを考えますと、おぞけを振うらしい。
 そうかといって、魑魅魍魎(ちみもうりょう)でないことの証拠には、お喋りこそするけれども、このお喋りには条理、いや、時とすると条理以上の何物かがあるように聞える――そこで、おぞけを振いながら、妖怪変化の類(たぐい)なりと断ずるわけにはゆかないのです。
 そこで、一座が弁信なるものの、正体に全く無気味なもてあましを感じ出した時、中口佐吉が言いました、
「なあに、それほど驚くこともないですね、どうかすると、盲人にはあんなふうに勘の働くものがあるものですよ。仕立師の名人でね、晩年に失明しましたが、どこへ出るにも不自由のくせに、物差(ものさし)を取らせると、分厘までも違(たが)わずピタリと差す老人を拙者は知っていますがね」
「そう言われてみると、思い当ったことがあります、西鶴の中にありますよ、皆さんお読みですか、井原西鶴の書いた『諸国咄(しょこくばなし)』という本の中に、不思議の盲人のことが書いてあるのを思い出しました」
「どんな話ですか」
「ちょうど、よい機会ですから、お話し申しましょう」
と言ったのは俳諧師の柳水宗匠です。
「京の伏見の豊後橋(ぶんごばし)の片蔭に笹垣を結び、心を行く水の如くにして世を暮しぬる一人の盲人ありけりと思召(おぼしめ)せ……」
「なるほど」
「ある時、問屋町の北国屋の二階座敷で、二十三夜の晩……客の所望によって一節切(ひとよぎり)の『吉野山』を吹いていますとね、お茶の通いをする小坊主が箱階子(はこばしご)をトントンと上って来る足音を聞いて、ああ油をこぼすよと言う途端、立てかけて置いた板戸がたおれて、小坊主は怪我をした上に、手に持っていた油差の油をこぼしてしまったという話。やがて笛を止めて一座が、この盲人の勘をためすために、二階の欄(てすり)のところから、いま大道を通る人は何者と尋ねてみると、盲人は足音の調子に耳傾けていたが、これは婆さんの手を一人の男が曳いて行く足音でございますが、男の方は何か気忙(きぜわ)しい心配があるらしい顔色、足どりの忙しさでよく分ります、してみると、多分、女の方は取上げ婆さんでございましょう……という返事、人をつけて見ると、手を曳いた男が言うことには、しきりが参りましたら、腰はわしでも抱きますが、とてものことに男を生んでくりゃあ有難い……と言ったので、大笑いして引返す。さてその次に通る者は……ははあ、これは二人だが足音は一人と盲人が言う、見れば下女が小娘を背負って行くのであった。さてその次に通るのは……これは鳥類だが自分の身を大事がる、なんという鳥か名は知れないが……と言う、見ると行人(ぎょうにん)が鳥足(とりあし)の高足駄を穿(は)いて行くのであった、という調子で、当らぬのは一つもない。そのうちに、初夜の鐘の鳴り渡る時分――下り舟に乗り遅れまいとして急ぐ旅人の姿が二階の灯にうつって見える、一人は刀脇差をさして黒い羽織に菅笠をかぶり、もう一人は挟箱(はさみばこ)に酒樽をつけて後につづく同行二人……あれはと盲人にたずねると、その盲人、前と同じく耳を傾けながら、同行二人連れでござるが一人は女、一人は男……と言う。ああ宵のうちから、こればっかりは見損ない……ではない勘違い、二人とも男で、しかも一人は大小まで差した侍衆じゃと一座から言われて、盲人が、そんなはずはありません、それはあなた方の見損ないではございませんかな……そこで、念のために人をやって右の二人の同行の後をつけさせてみると、大小差した男が樽を持った下男に向ってささやくには、夜船で、その樽をよく気をつけておいで、中のは酒ではない、みんなお金なんだよという声がまさしく女、よくよく聞いてみると、この侍と見たのは五条の『おたか米屋』であったそうな」
「そうしてみると、やっぱり眼あきはめくらに如(し)かず……塙検校(はなわけんぎょう)にからかわれるのもやむを得ない」
「事実、目で見るよりも勘で行く方が確かなのかも知れませんな」
「してみると、眼で見る奴の前では隠すことができるが、勘で来る奴には隠しだてはできないのだね、そういう奴が近所へ来た時には、何か勘避(かんよ)けの方法を講じておかんと、安心して生活はできない」
「それから、今のその西鶴の盲人咄(ばなし)の最後の『おたか米屋』というのは、いったいどんな米屋なんですか」
「さあ――」
 それには、柳水宗匠も、ちょっと註釈に困ったようでしたが、
「とにかく、男まさりで、女手で切って廻す米屋の女あるじで、相当の評判者なることは確かだが、戸籍の謄本はここにありません」
「つまり、飛騨の高山の穀屋の、イヤなおばさんといったようなタイプだろう」
「は、は、は、まず、そんなものかね」
 ともかく、一座の散会がこの笑いに落ちることになりました。

         四

 弁信が、その輪講の席を辞したのは、講義半ばの時分であったか、その終りに近づいた頃であったか、但しはのっけに輪講の初端(しょっぱな)、品右衛門爺さんや久助さんが、好意的退席を勧告された時分に、一緒に身を引いたものか、そのことは誰も気のついたものはありませんでしたけれど、弁信が自分の部屋としてあてがわれた三階の源氏香の一間に来て、夜具の傍らにホッと息をついたのは、この夜も闌(たけな)わなるある時刻の後でありました。
 この源氏香の間というのが、偶然にも――実は偶然でもなんでもなく、竜之助が引籠(ひきこも)っていたその部屋で、お雪ちゃんもその次の座敷にいて、絶えず往来していたのです。そこが手つかず、あのままで人を泊めるにいいようになっていたから、少し遠いにも拘らず、皆の者が弁信にこの部屋をあてがったものです。
 あてがわれた弁信は、一議に及ばずその好意を受けてしまったが、遠くて不自由だろうと思いやりながら、ここへ弁信を導いて来た人が、かえって、弁信の物怖(ものお)じをしないのに舌を捲いたようなあんばいです。のみならず、普通の人よりもいっそう都合のよいことは、遠い廊下道や梯子段を、手燭(てしょく)も提灯(ちょうちん)もなくして平気で歩いて行けるから、座敷さえ教え込んでしまえば、抛(ほう)り出して置いて手数のかからないこと無類です。
 さきほど、たった一人で、長い廊下を伝って二重の段梯子を上り、間違いなく、この源氏香の間に辿(たど)り着いた弁信。
 夜具の前にちょこんと落着いて、そうしてお祈りをしました。
 それは、お祈りというべきものか、念仏というべきものか、或いは、かりそめに無念無想の境を作ろうとしているのか、とにもかくにも暫くの間、黙坐をしていた弁信は、やがて帯を解き、緇衣(しい)を解いて衣桁(いこう)にかけ、それからさぐりさぐりに、夜具に向って合掌した後に、軽やかに、その中にくるまって、左の脇を下にして横になり、その法然頭をくくり枕の上に落しました。
 そうして、彼は今、すやすやと思い入りの快眠に耽(ふけ)ろうとしているのです。弁信の言うところによると、今夜ここに寝通すのみならず、明日も、明後日も――少なくとも三日の間はわたくしを起さないで、寝かせて置いて下さい、湯水のお世話もなにも要りません、三日の間は死んだものと思召(おぼしめ)して、ぐっすりと休ませていただきます――というようなことを、さいぜんも言っていたから、これから有らん限りのものを忘れての眠り三昧(ざんまい)の境地に入ろうとしているその瞬間です、悪い奴が出て来ました。
「弁信さん、よくおいでなさいました、ほんとうに、お待ち申していましたよ、寒くはございませんか、さだめてお退屈だろうと思いまして、お伽(とぎ)にあがりましたよ、わたしですよ」
 弁信のためには必要ではないが、部屋の調度の均整のためには、ぜひなくてはならない、例の角行燈(かくあんどん)のほくち箱の中から出て来たものがあります。
「どなたですか」
「はい、わたしですよ、ピグミーでございますよ」
 ああ、ピグミーだ、こんな奴は出て来なくてもいいのである。誰しも出て来ない方を希望するのに拘らず、目の見えない人か、目は見えても眠っている人のところへは、必ずなれなれしく出て来る。
「ピグミーさんですか」
「はい、ピグミーでございます、いつぞやは失礼いたしました、今晩はあなたがまた、これへおいでなさることを知っておりましたから、ちょっと先廻りして、ほくち箱の中へと身を忍ばせてお待ち申しておりましたところです、お寒くもあり、おさびしくもあろうと存じまして、お伽にまいりました、今晩は夜っぴてお話をしようじゃありませんか、あなたもお喋(しゃべ)りがお好きでいらっしゃるが、わたくしだってその気になれば、ずいぶんお相手ができようというものです――今晩はゆっくり話しましょう、夜っぴてお話ししましょう」
「いけません、今晩は、わたしは休むのです」
「そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ、ピグミーに恥をかかせるものじゃありません」
「今晩はお相手になれません」
「意地の悪いことをおっしゃる弁信さん。実はねえ、あなたのために、お淋(さび)しかろうと思ってお伽(とぎ)に出たのなんのというのは、お為ごかしなんでして、本当のところは、こっちが淋しくてたまらないんですよ、お察し下さい。この白骨の温泉の冬籠(ふゆごも)りで、誰がわたしの相手になってくれます、炉辺閑話の席などへ寄りつこうものなら、忽(たちま)ちあの人たちにとっつかまって火の中へくべられっちまいます。お雪ちゃんという子をとっつかまえて相手にしようと思いましたけれども、あの子はあんまり正直過ぎて歯ごたえがありませんね、ところがどうです、いい相手が見つかりましたぜ、ついこの間までお雪ちゃんが侍(かしず)いて来たあの盲目(めくら)の剣客、ことに先方も、たあいないお雪ちゃんのほかには骨っぽい話相手というものが更に無いという場合なんでしょう、こいつ願ったり叶ったり、究竟(くっきょう)の話敵御参(はなしがたきござん)なれと、こそこそと近づきを試みてみましたが、なんだか物凄くてうっかり近寄れません。そこであの天井の節板の上や、この畳のめどや、屏風の背後や、例のほくち箱の中なんぞに潜んで、隙を見てはこの話敵を取って押えようとしましたが、なかなかいけません、今日は御機嫌がいいようだと思って来て見ると、不意にあの短笛です、例の『鈴慕』ですね。あいつを聞かせられると、ピグミーはこの頭がハネ切れてしまいそうです。そこでその夜もびっくり敗亡、すごすごと引返すこと幾夜(いくよさ)。そのうちに、或る晩のこと、珍しくこの行燈(あんどん)へ火を入れましてね、ここで刀の磨きをかけていましたよ。その時ばかに御機嫌がよくって、この行燈の火影(ほかげ)で見える横顔なんぞが、美しいほど凄く見えたものですから、大将今晩こそは本当の御機嫌だなと、そっとそれ、あの衣桁の背後から怖る怖る這(は)い出して、まず刀の目ききからおべんちゃらを並べてみましたところが図に当りましたね。人間、好きには落ちるものですよ。五郎入道正宗じゃありませんか、違いますか、では松倉郷、それもいけませんかなんぞと言っているうちに、とにかくいい刀でしたからつい増長して、その棟の上へのぼってえっさえっさをして見せますと、それがいけなかったんですね、一振り軽く振られたんですが、何しろ手が冴(さ)えていますからたまりません、ホンの軽い一振りで、わっしの身体は胴から二つになってあの壁へやもりのようにへばりついてしまったというみじめな次第――いやどうも危ないものです。そこでこんどは河岸(かし)をかえてお浜さんへ取りつきましたね。いい女でしたね、姦通(まおとこ)をするくらいの女ですから、美しい女ではあるが、どこかきついところがありましたね。それもとどのつまりは『騒々しいねえ』といってお浜さんの手に持った物差でなぐられちまいました。どっちへ廻ってもこのピグミー、いたく器量を下げちまい、その後今晩まで閉門を食ったようなもので、この天井の蜘蛛(くも)の巣の中に、よろしく時節を相待っていたのは、弁信さん、あなたを待っていたようなものですよ。弁信さんならば、二尺二寸五分相州伝、片切刃大切先(かたぎりはおおきっさき)というような業物(わざもの)を閃(ひらめ)かす気づかいはありません。柳眉(りゅうび)をキリキリと釣り上げて、『騒々しいねえ』と嬌瞋(きょうしん)をいただくわけのものでもなし、人間は至極柔和に出来ていらっしゃるに、無類のお話好きとおいでなさる。こうくればピグミーにとっても食物に不足はございません、さあ相手になりましょう、夜っぴてそのお喋(しゃべ)り比べというところを一つ願おうじゃございませんか。それにしても火が無くちゃ景気が悪いです、先のお客様や、弁信さんなんぞは、塙保己(はなわほき)ちゃんの流儀で、目あきは不自由だなんぞと洒落飛(しゃれと)ばしなさるにしても、ピグミーの身になってみますと、これでも物の光というやつが恋しいんですからね、ひとつ火を入れましょう。この多年冷遇され、閑却された行燈に向って、一陽来復の火の色を恵むのも仁ではございませんか――どれ、ひとつ、永らく失業のほくち箱に就職の機会を与えて、カチ、カチ、カチ、カチ」
 それは燧(ひうち)をきった音であるか、ピグミーの軽薄な口拍子であるか知れないが、とにかく行燈に火が入りました。
「さあ、弁信さん、今晩は寝かしませんよ、人の期待に反(そむ)いておいて、自分だけが平和の安眠と、極楽の甘睡とを貪(むさぼ)ろうとしても、それは許されません」
 ピグミーは、小さい胡坐(あぐら)を一つ組んで、両手でもってその向う脛(ずね)と足首のところを抱え込んで、ならず者が居催促に来たような恰好をして、寝入りばなの弁信に退引(のっぴき)させまいとの構えです。
「いけません、今晩はお前さんの相手にはなれませんよ」
「意地の悪いことをおっしゃるものじゃありませんよ、弁信さんらしくもない」
「いいえ、わたくしは今晩は、何といっても相手になりません、しかし、お前さんが話したいという気持と、わたしを寝かすまいという圧迫に、わたしは干渉をしようとは思いませんから、話したければお前さんひとりで、そこでお話しなさい、わたしはまたひとりで、眠れるだけ眠りますから、そこはおたがいの留保として、では、わたしはこれから眠ります、お前さんは勝手に話しなと何なとなさい――さめるまで、わたしは御返事を致しません」
「これは御挨拶ですね、そう言われてみれば仕方がない、先方がこっちの自由と勝手とを尊重して下さることに対して、こちらも先方の安眠と甘睡を妨害すべき理由を見出すことができませんからね。では弁信さん、わたしはここに失礼さしていただいたままで、喋れるだけ喋らしてもらいますからね。お江戸の辻芸人には独(ひと)り角力(ずもう)というのがありましたが、わっしゃこれから一人で二人前のかけあい話をやりますよ。時に、ねえ、弁信さん」
「…………」
 ここに至って、もはや弁信の返事はありません。つまり相手にならないのです。ピグミーを相手にせず、さりとて、これに退却を命ずるのでもなく、彼は彼の為(な)さんとするところに任せ、我は我の為さんとする眠りに深く落ちて行きました。

         五

 それから暫くの間、この座敷がひっそりしてしまいました。
 なるほど、森閑としたこの源氏香の間には、すやすやとした弁信の軽い寝息のほかに何物もありません。やくざが居催促の形で、胡坐(あぐら)を組んで反(そ)り返っていたピグミーの姿はどこにも無い。さては、口ほどにもないピグミーの奴、弁信に相手にされないものだから、さすがにテレきって、ひとりでは持ちきれず、目に立たぬようにこっそりと、この場を退却してしまったものらしい。さりとは、いよいよ以て器量の悪いピグミー。
 さりながら、ピグミーの長所はしつっこいというところにある。ピグミーに向って勇断と果決と、威厳と雅量を望むことは注文が無理だけれども、小細工と、しつっこいことと、こうるさいことにかけては、けだしピグミーの独擅(どくせん)であります。
 果して、あれだけで引揚げるようなピグミーでは決してない。音も立てずに例の屏風(びょうぶ)の蔭からこっそりと再び姿を現わして、赤い舌を吐き、にったりと笑った、それがすなわち今のしつっこい業物です。にったりと笑いながら、以前のように、むんずと弁信の枕許に於て、ちっぽけな膝を悪態に気取って組みながら、同時に左手の方に置き換えたものは、銅の行燈(あんどん)の油壺です。それと同時に一方、右の手を懐中に差し込んだと見る間に取り出したのは、一本の蝋燭(ろうそく)――
 ははあ、さては今ちょっと外出と見えたのは、部屋部屋を通ってこの蝋燭を掻(か)き集めんとの目当て。
「とかく、話敵(はなしがたき)の席にも、やはり兵糧というものの用意が要りますよ、腹が減ってはお相手もなりかねますから、この通り食糧を掻き集めて参りました、これさえありゃあ――」
と言ってピグミーは、一本の蝋燭をカリカリと噛みはじめ、そうして一方には、油壺の油を注口からガブガブと飲み、
「ピグミーだって、あなた、時々は油っこいものを食べないと、身体がバサバサになって骨ばなれがしてしまいます。ああ、結構結構、こうして養いをしておきさえすれば、矢でも鉄砲でも――松倉郷の名刀でも、乃至(ないし)弁信さんの、のべつ幕なしの舌鋒でも、何でも持っていらっしゃい、さあ、いらっしゃい」
 酔っぱらいが管を巻くように、このピグミーは油に酔っぱらったらしい。
 こうして挑(いど)みかけたけれども、弁信のスヤスヤとした寝息は更に変りません。
「よろしい――弁信さんは弁信さんとして、存分にお眠りなさい、わっしはわっしとして、勝手に熱を吹いてよろしいというお約束でしたな。では、第一伺いますがね、弁信さん、お前さんはあのお雪ちゃんという子をどう思召(おぼしめ)しますね、それからまたお雪ちゃんが侍(かしず)いていたあの気持の悪い盲目の剣客――あの人をいったい何だと思います」
「…………」
「お雪ちゃんという子は、ありゃあれで存外の食わせものですぜ」
「…………」
「それから、あの竜之助って奴、あれはまあ、一口にいえば色魔なんだね」
「…………」
「わっしの見るところでは、お雪ちゃんの妊娠は事実だと思うんですよ、あの子はまさに孕(はら)んでるんでさあね」
「…………」
「それがお前さん、いつ孕ませられたか、どうして身持になったか、御当人がわからないって騒いでいるところが乙じゃありませんか。小娘というものは、そういうものなんですね、介抱していると思っているうちに介抱されちまうんですから、変なものです。そこへ行くってえと……功を経た奴にゃかないません。早い話が……」
 一方が絶対に無反抗の沈黙だから、一方も無方図(むほうず)の出鱈目(でたらめ)を並べることになる。そこに何か無形の警察があって弁士に中止を命ずるか、不文の法律があって発言を禁止させるかしない限り、こういう席では、野方図(のほうず)の限りを尽せば尽せるようなものだが、この世の中にも世の外にも、必ず無制限力を制する制限力が、眼に見えたり見えなかったりするところに存するもので、ひとりピグミー風情にだけ、こんな野方図が許されるわけのものではない。また油壺を取り上げて舌なめずりをしながら、弁信の寝顔を覗(のぞ)き込んで話題を続けようとする時、
「おい、ピグミー、ピグミー」
と、隣り座敷から不意に呼びかけたものがあったには、ピグミーもびっくり仰天して、思わず手に持てる銅壺(どうこ)を取落そうとしました。
「な、な、なんですか、そちらで拙者をお呼びになるのは、どなたでございますか」
「そこへ行くてえと……功を経た奴にゃかなわないと、お前いま言ったね、その功を経た奴というのはいったい、誰のことなんだえ、さあ、それを言ってごらん」
 隣り座敷から聞えたその声は、やや年を食った女の声で、最初からピグミーを呼びかけたのが高圧的であり、二度目に言いかけたのは、まさに手づめの詰問で、その調子はもう一言いってごらん、返答によっては只は置かないよという、強い威嚇を含んで響いて来たものですから、おぞましくもピグミーが慄(ふる)え上ってしまったのは、単に不意を打たれたばかりではない、この女の声の主に対して、何か若干の弱みを感じている者でなければ、こうはならないはず。そこで、ピグミーはシドロモドロで、
「いいえ、決してあなたのことを言ったのではございません、いや、ただ世間にはそうした奴もあるという例えを引こうと思っただけで、イヤなおばさん、あなたの噂(うわさ)なんぞ言い出そうというような不了見(ふりょうけん)ではございませんでしたから、どうぞごかんべんください」
「知らないよ、お前は、あたしのことを言おうとしたにきまっている、ピグミーのくせに生意気な、はじめての人様に、わたしの棚卸しなんぞをすると承知しないよ」
「はいはい、決してあなた様の棚卸しなんぞを、どういたしまして」
「そんなら、いいからこっちへおいで」
「はい」
「こっちへおいでなさい、何も慾得を忘れて眠っている人の傍にいて、イヤがらせを言わなくてもいいじゃないか、相手が欲しければ、わたしがいくらでも相手になってあげるから、こっちへおいで」
「はい、有難うございますがね、イヤなおばさん……」
「何だい」
「あの……」
「何があの――だい。お前、いま、赤い舌を出したね、わたしに見えないと思って。そうして、イヤなおばさんじゃあ、いくら傍へ寄れと言っても、うんざりする――と口の中で言ったね、覚えておいで」
「ト、ト、とんでもない……」
「じゃ、こっちへおいで、わたしこそ、人が欲しくって弱り切っているところなんだから、ピグミーだろうが、折助だろうが、誰でも相手になってあげるよ、さあ、おいで」
「弱りましたね」
「弱ることはないよ、ひもじい時のまずいものなしだから、いくらでもお前を可愛がってあげるから、こっちへおいで」
「イヤなおばさん、お言葉ではございますがね、そっちへあがると、わっしはおばさんに食われてしまいそうな気がして、怖くってたまりませんから……なんならこっちへおいで下さいましな、食物もございます、明りもついておりますよ、こっちで、ゆっくりお話を伺おうじゃありませんか」
「弱虫だねえ。だが、わたしゃそっちへ行けないから、お前、こっちへおいで」
「どうしてでございます、イヤなおばさん」
「だって、そっちには見ず知らずのお客様が寝ている」
「見ず知らずとおっしゃったって、ちっぽけな坊さんです、その坊さんも、死んだように寝ているんですから、差支えはございません」
「さしつかえはなかろうが、わたしは坊主は嫌いなんだよ」
「これは恐れ入りました、坊主と申しましたところで、三つ目のある入道ではなし、あなたほどの豪の者が、坊さんを怖がるとは不思議ですね」
「何だか知らないが、わたしは坊主とさつま芋は虫が好かないのさ、そればかりじゃない、いま動けないわけがあるから、ちょっとこっちへおいで……」

         六

「お前がどうしても出向いてこなければ、こっちから出向いて行くよ」
「わあっ!」
 ピグミーが大声あげて泣き出したに拘らず、次の間、つまり、先頃まではお雪ちゃんの部屋であったところの柳の間の隔ての襖(ふすま)がサラリとあいて、そこから有無(うむ)を言わさず乗込んで来たものがあるので、ピグミーは逃げようとしても逃げられない。
「泣くことはないじゃないか、取って食おうともなんとも言やしないよ、お前と一緒に遊んであげたいから来たんじゃないの」
 しかも、乗込んで来たその主(ぬし)の乗物というのは、一肩の釣台でした。
 戸板へ畳を載せて、その上へ荒菰(あらごも)を敷いたばかりの釣台の上へのせられながら、口を利(き)いているのが、イヤなおばさんというんでしょう。だが、釣台を担(かつ)ぎ込んだのは誰だか、駕籠屋もいないし、親類組合の衆も附添うているというわけではない、隔ての襖がひとりでにあいて、その間から、すーっとひとりでに釣台が流れ込んで来たようなものです。
 この釣台の乗込みによって、極度の恐怖におびえきったピグミーは、
「わあっ! おばさん、来たね、おばさん、裸じゃないの、この寒いのに、どうして裸で来たの、驚いたね」
 泣きわめきながらピグミーは釣台の上を見ると、まさにその通り、釣台の上にのせられたイヤなおばさんは、一糸もつけぬ素裸です。あのデブデブ肥った肉体が、いまだに生ける時のようにブヨブヨしている。その色が以前よりは白くなったように見えるだけで、ブヨブヨした肉体はちっとも変りがないらしい。
「裸じゃ悪かったかい」
「だって、おばさん、裸で人前へ出るなんて……第一、寒いじゃありませんか」
「寒かろうと、寒かるまいと、わたしゃ着物が無いから、裸でいるんだよ」
「着物が無い――そりゃ嘘でしょう、おばさんはあの通り衣裳持ちじゃありませんか」
「でも、無いから、こうしているのさ」
「どうしたんです、そら、あの、若くて気がさすのなんのとおっしゃっておいでだったが、まんざらでもなかりそうな、あの小紋の重ねなんぞは、どうなさいましたね」
「あれかね、あれは人に取られちまったよ」
「人に取られた? おばさんほどにもない。いったい、誰に取られたんです」
「きいておくれよ、憎らしいじゃないか、あのお雪ちゃんという子、あの子に取られてしまったんだよ」
「お雪ちゃんに……これは驚きましたね、あの子は人様のものなんぞに手をかける子じゃなかったはずですがね」
「あの子が取ったんじゃないけれど、取ってあの子に着せた奴があるんだから憎いじゃないか」
「憎い、憎い、そんな奴は憎い、拙者が行って取戻して上げましょうか」
「遠いよ」
「遠いったって、どこです」
「飛騨(ひだ)の高山だよ」
「飛騨の高山……そいつぁ、ちっと困りましたね、行って行けないことはないが、行って来る間に、おばさんが凍え死んじゃつまりませんからね」
「誰も行っておくれと頼みゃしない、その親切があるなら、もっと近いところにあるじゃないか」
「近いところって、ドコです、近いところにゃ古着屋はありませんぜ、おばさんの着る着物を都合するような店は、当今の白骨にはございませんよ」
「ないことがあるものか」
「ありませんよ」
「あるよ、あるからそこへ行って工面(くめん)しておいで」
「弱りましたねえ、どこを探したら、おばさんに着せる着物があるんですか」
「お浜さんのところへ行って借りておいでよ、あの人は、ほら、幾枚も幾枚も、畳みきれないほど持っていたじゃないか」
「えッ!」
 泣きじゃくりながら応対していたピグミーは、この時、しゃくりの止まるほどの声で、
「あれはいけません」
「どうして」
「何枚あっても、ありゃみんな血がついていますから、一枚だって着られるのはありませんよ」

         七

 仰向けに釣台の上に裸で寝かされているイヤなおばさんは、別段に寒いとも言わないのに、ピグミーがしきりに節介(せっかい)を焼きたがる。
「それじゃ、どうしても飛騨の高山へ行って、あの小紋を取戻して来るよりほかはありません、僕が行って来ます」
「よけいなことをおしでない、あの着物はあの子に着せておいてやります、そうして、わたしのあとつぎにするつもりだよ」
「え、お雪ちゃんをおばさんの後嗣(あとつぎ)にですか」
「そうだとも、いまに見ていてごらん、あの子を立派な男たらしにしてみせてやるから」
「えっ、あのお雪ちゃんを、おばさんのような助平にしようというのですか」
 ピグミーが飛び上るのを、
「気をつけて口をお利(き)き、出放題を言うと承知しないよ」
「畏(かしこ)まりました、それでは高山へ行くのは見合せにするとしましてもですね、現在、そうして裸じゃいられませんね。といって、着物の工面はなし……ああ、いいことがある、あんまりいいことでもないけれど、背に腹は換えられませんや、こいつをお召しなさっちゃどうです、当座の凌(しの)ぎに、この弁信のやつを引っかけておいでなすっちゃあ」
「いけない、いけない、そんな坊主の垢附(あかつき)なんぞが着られるものか」
「これもいけませんか――じゃあ、全く着るものが無い」
「無くたっていいじゃないか、誰がお前に着物を着せてくれと頼んだ」
「そりゃ、頼まれずとも、人様の裸になっているのを見るに見兼ねるのがピグミーの気性でしてね、やっぱり一走り行って来ますよ、それに越したことはござんせんから」
「どこへ行くの」
「飛騨の高山まで行って、お雪ちゃんの取ったあの小紋を取返して来て上げます」
と言ったが早いか、クルリと身を翻したピグミーは、天井の節穴へ向って飛びついたかと見ると、忽(たちま)ち吸い込まれたように姿が消えてしまいました。
 あとに残されたイヤなおばさん――というけれども、先程からさんざんピグミーを相手に話をしているものの、釣台の上へ裸で仰向けになったところの身体(からだ)をビクとも動かさず、眼をつぶったままで、一度も開いたことはないのですが、ピグミーが行ってしまった後でも、やはり同様の姿勢でその上にいる、いるというよりは、安置されたといった方がよいでしょう。
 弁信の安眠を続けていることも、最初と少しも変りがありませんが、この時、うつつの境にもの悲しい泣き声を耳にしました。
 それは、若い詩人などがよく言う、魂のうめきとか、すすり泣きとでもいったものか、世にも悲しい、細い、それで魂の中から哀訴※泣(あいそきんきゅう)[#「りっしんべん+瑾のつくり」、320-3]して来るような声であります。
 おかしいことには、それがよそから来るのでなく、釣台の上に横臥安置せしめられているイヤなおばさんの身体から起るのであります。たとえ裸にされたからといって、イヤなおばさんともあるべきものが、若い詩人のするような唸(うな)り声で魂をうめらかすなんぞは、外聞にもよくないと思われるが、それにも拘らず、魂のうめきを、このイヤなおばさんの肉体がしきりに発散させているのです。といっても、イヤなおばさんの身体そのものは、それがために少しも輾転反側するわけではなく、以前と同様の安静と、無表情と、微動だもしない死そのものの中から起って来るのですから、特にこのおばさんが苦しがって、魂のうめきを立てているわけではないのです。
 してみれば、おばさんの寝かされている下の釣台の中か、或いはその下の畳のあたりで、この魂のうめきが起るとしか思われないのです。この魂のうめきとても、事実、弁信の耳に入ったか入らないかそれさえ疑問で、弁信の安眠に落ちていることも以前と少しも変らないのに、よし、たった今この魂のうめきを聞いたからとて、その起る源を確めようとして起き直って来る形勢は少しもないからであります。
 また、かりに弁信が、それを聞きとがめたとしてみれば、起き上って、その源を確めに来る前に、あのお喋(しゃべ)りのことだから口からさきに起き出して、「たれですか、そこに魂のうめきを立てていらっしゃるのは。ピグミーさんは、イヤなおばさんという名前をしきりに呼びかけたようですけれど、わたくしはまだそのイヤなおばさんなるものにおつき合いを願ったことは更にございませんが、たとえ、おつき合いこそ致しませんでも……」なんかんと、語り出すに相違ないのだが、そんなお喋りも聞えないところを以て見れば、弁信はこの魂のうめきに目を覚ましていないことは明らかです。
 弁信がそれを聞いているといないとに拘らず、魂のうめきはいよいよ盛んであって、それはどうしてもイヤなおばさんの身体か、その真下から起らねばならないことになりました。
 おや! ごらんなさい、じっと安置されていたおばさんの身体が少し動きましたぜ、慄(ふる)え出しましたぜ、さすがに裸じゃ寒いでしょう。おやおや慄えているんじゃありません、動き出したのですよ。オヤ、おばさんの身体中の毛の穴が、ゾックリとふくらんできましたよ。おやおや毛の穴が動き出したと思ったら嘘でした、虫です、虫です、虫になりました。まあいやな、幾千万とない真白な女子蛆(おなごうじ)! おばさんの身体が、そっくりと真白な女子蛆になってしまいましたよ――まあ、あとからあとからあの通り、蛆がうずうずとして頭を出しています。あの蛆が我さきに頭を出そうとして泣いているのですよ、魂のうめきじゃありませんでした、蛆のひしめき合いです、ぞっくりとおばさんの、あれ、面(かお)も、首も、腹も、手も、足も――ぞっくりと首を出した目鼻のない蛆、頭をうごめかして先を争って這(は)い出そうとしても這い出せない、蛆の頭だけがああして、ぞっくり苦しがっている――あのうめきをお聞きなさい、魂のうめきなんてしゃれたものじゃありません、女子蛆のうめきなんですよ――何万匹何千万匹! まああの数は……
 驚くことはないよ、あれが八億四千の陰虫(いんちゅう)というものだよ。
 まあ、八億四千!
 そうだよ、女というものの五体の中には、すべてみんな、あの陰虫が巣を喰っている!
 おばさんのは、それが外へ頭を出しただけなんだ。
 その時、天井の節穴から、あわただしく走(は)せ戻って来たピグミー、
「おばさん、おばさん」
「何だえ」
「飛騨の高山へ行ってまいりましたがね、着物は持ってこられませんでしたよ」
「そうかい」
「わざわざ行って、手ぶらで帰るなんぞは子供の使のようで面目もございませんが、あの着物は、ちゃんとお雪ちゃんが着込んでしまってますから、手をつけるわけにいきませんでした」
「だから、そうしてお置きと言ったんだ。そうしてなにかい、お雪ちゃんは無事かえ」
「無事にゃ、無事ですけれどね……」
「あの眼の悪いお客さんはどうだい」
「元気で、夜遊びまでしていますぜ。何しろ、壺の底のような白骨とちがって、高山へ出ると、ずっと天地が広いですからね」
「そうかい、二人は仲がいいかい」
「いいか、悪いか、そんなことは知りませんがね、お雪ちゃんの身の上に一大事が起りそうなのを、ちゃんと見届けて来ましたぜ」
「何だね、いまさら一大事とは」
「ほかじゃございませんが、お雪ちゃんに悪い虫が附きました」
「悪い虫、悪いにもいいにも、離れられない人だから世話はないさ、遠い上野原というところから介抱して、この白骨まで、心中立てを見せに来た人だから、言うがものはないさ、あれでいいんだろうさ」
「そのことじゃございません、そんなことなら、憚(はばか)りながらピグミーの方が、おととい先にこの節穴から委細を御存じなんだ。こんど高山へ出て、別にまた悪い虫が一つお雪ちゃんに取っついたのか、取っつきかけたのかしているから危ないものだと、それを言ったのさ」
「へえ、高山に、お雪ちゃんを食おうなんていう悪い虫がいたかえ」
「そりゃ、高山の土地っ子じゃありませんがね、よそからの風来者なんですがね」
「若い人かい、年寄かい」
「そうですね、まあ、若いといった分でしょうよ」
「それじゃ、あの宇津木兵馬という前髪だろう」
「違いますよ」
「仏頂寺弥助かい」
「違いますよ」
「じゃ、このごろ来た新お代官の胡見沢(くるみざわ)とかいうのが悪性(あくしょう)で、女と見たら手を出さずには置かないという話だから、そんなのに見込まれでもしたのかい」
「それも違います」
「高山に、あの子を口説(くど)いてみようなんて気の利(き)いたのは、いないはずだがねえ」
「がんりきの百ですよ」
「がんりきの百?」
「そうですよ、あのやくざ野郎ですよ」
「そんな人をわたしは知らないが、なにかい、この夏、白骨にいたのかい」
「いや、そいつはまだ、白骨なんぞへ来たことはございませんが、何かの拍子で、名古屋方面から高山へ舞い込んだんですね」
「いい男かい」
「イヤに粋(いき)がった、やくざ野郎の小悪党ですがね、どうした拍子か、焼け出されて隠れていたお雪ちゃんを見つけちゃったんだね、そうして、やつ、一生懸命でお雪ちゃんを物にしようとして覘(ねら)っているんです」
「お雪ちゃんだって、なかなかしっかり者だよ、やくざ野郎のおっちょこちょいなんぞに、そう手もなくものにされてたまるものかね」
「ところがね、その百の野郎ときた日にゃ、しつっこいことこの上なし、いったん目をつけると、腕の一本や二本なくなすことは平気でかかる奴なんだからね、ずいぶんあぶないものなんですぜ」
「ちぇッ、いやな奴だねえ」
「おばさんなら、あんな奴を手もなくこなしちゃうでしょうが、お雪ちゃんが、あんなのにひっかかっちゃたまらない」
「お前、何とかして追払ってやるわけにはいかないかえ」
「そりゃ、わたしが天井裏かなんかに潜(ひそ)んでいりゃ、まさかの用心にはなるかも知れませんがね、わたしも実ぁ、お雪ちゃんの傍にいるのが怖いんです」
「どうして」
「だって、それ、相州伝の長いやつを持った人が、お雪ちゃんの傍には附いていますからね、へたに間違うと、またいつかのように二つになって、やもりのようにあの壁へヘバリつかなけりゃなりません」
「そんな人がいるんだから、がんりきとやらが覘ったところで、お雪ちゃんの身の上も心配なしじゃないか」
「そう言えばそうですがね、がんりきという奴はそれを覚悟で、お雪ちゃんをねらっているらしいです、つまり、相州伝で二つにされるか、但しはお雪ちゃんをものにするか、二つに一つの度胸を据えてかかっているらしいから、それで心配なんです」
「困ったねえ」
「おばさんも、お雪ちゃんという子は嫌いじゃないんでしょう、ずいぶん可愛がっておやりのようでしたし、お雪ちゃんの方でもまた、イヤなおばさん、必ずしもイヤなおばさんでなく、そのうちに愛すべき人間性のあることを認めていたようですから、おばさんにとっても得易(えやす)からぬ知己でしたね」
「生意気なことをお言いでないよ。だが、そう聞いてみれば、わたしもみすみす、そんなやくざ野郎の手にあの子を渡したくない」
「では、高山へ参りますか」
「行きましょうよ、お前も一緒に行っておくれだろうね」
「行きますともさ、僕だって意地でさあ、がんりきのやくざ野郎に、お雪ちゃんなんぞを取られてたまるものか。あの野郎のことだから、手に入れるとさんざん見せびらかした上、年(ねん)いっぱいに叩き売るにきまっていますから、そう話がきまれば善は急げ、一刻も早く行ってやりましょう」
「そうしようよ」
 釣台が、その時、以前の通り、担(かつ)ぐものもないのに、ふわりと動き出して、裸体で、無表情で、そうして魂のうめきを続けているところの肉体を載せたことは前の如く、すーっとこの場を流動してしまいます。
 口をあいてそれを見送っていたピグミーは、存外あせらず、例の角行燈(かくあんどん)の前に小さい膝をドカリと組んで、油差の油をゴクリと飲み、小憎らしい落着きを弁信の方に見せ、
「どうです、弁信さん、これでもまだ起きられませんか。あのイヤなおばさんさえ、お雪ちゃんのためにじっとしていられないと言って、飛騨の高山へ向けて先発しましたぜ、それに何ぞや、弁信さんともあろうものが、まだ悠々とお休みですか。それも御無理ではございません、弁信さんは疲れていらっしゃる――まあ、ごゆっくりとお休みなさい、僕はこれから、イヤなおばさんのあとを慕って、お雪ちゃんのいる、飛騨の高山まで急ぎます……」

         八

 その翌日のお正午(ひる)少し前、池田良斎は、俳諧師(はいかいし)の柳水と共に浴槽の中につかっておりました。
「外は雪で埋もれた山また山の中も、こうして湯気の中に天井から明るい日の光を受けていますと、極楽世界ですな、それにつけても、北原さん――の一行はこの雪の中を御苦労さまです」
 柳水が言うと、良斎は、
「なあに、外へ出れば出たでまた気がかわりますからね、血気壮んな者にはかえって愉快でしょう、まあ、天気がよくって仕合せですね」
「でも、飛騨の高山はかなりの道ですから、途中御無事でありますように」
「平湯まで出る途中、多少難所があるけれど、吹雪(ふぶき)にでもならなければ心配は要りませんよ――」
「それにしても、ところがところですから、雪見に転ぶところまでというわけにも参りません、この深山険路の山で転んでしまったらおしまいですね」
「風流も程度問題ですよ。だが、こうして、どこを雪が降るといった気分で、温泉につかっていると天上天下の太平楽です、一句浮びませんか」
「さよう――」
「古人の句で、こういった気分を詠んだ、面白いのはありませんか」
「さよう――」
 俳諧師柳水は、仔細らしく頭をひねって、
「あらたのし冬まつ窓の釜の音――というのはどうです、鬼貫(おにつら)の句ですがね」
「なるほど、温泉ということは言ってないが、冬日の温か味は出ていますね」
「我がために日(ひ)麗(うらら)なり冬の空――これは翁(おきな)の句ですが、空気の温か味はありますが、水の温か味はうたってありません。おもしろし雪にやならん冬の雨――」
「やはり、あらたのしというのが、この場の気分には合っているようです」
「和歌の方ではどうでしょう、こういったような気分と情味を現わしたものがございましょうか」
「これは和歌のものじゃありませんね、やっぱり、山の宿の温泉というようなものは俳諧のものですよ」
「一茶の句に、我が家はまるめた雪のうしろかな――というのが一茶らしくって、いかにも面白いが、拙者はこのうしろかなを、後ろ側としたら、いっそう実感的で面白いと思うんでがすよ」
「そうか知らんな」
「蕪村のは一句一句がみんな絵になっていますが――宿かせと刀投げ出す吹雪かな――なぞは実景ですね、ことにこの白骨の冬籠(ふゆごも)りの宿を預っているわれわれにしてみると、絵でもあり、実感でもあります、ついこの間の仏頂寺なにがしと名乗るさむらいなんぞは、まさにそれでしたね」
「なるほど――どうも気紛れなものでしてな、こんな山奥の冬籠りへ、まさかと思っていると、入りかわり立ちかわり相応の客が来るのが不思議ですよ。これが平常通り十一月で釘を打ってしまえば、狐狸もおかすまいが、人が籠っていると、また期せずして人が集まって来るものです。知ると知らざるとに拘らず、人間の住むところには人気が立てこめて、おのずから人の心を惹(ひ)くようになっているのかも知れません――予期せざる人の出入りを調べてみても、一人、二人、三人――ちょっと胸算用(むなざんよう)に余るところがありますね」
「面白いです。それが、あなた方をはじめ、みんな相当に一風流のある人だけが集まって来るような気配も面白いではありませんか。尤(もっと)も、一風流でもなかった日には、雪の山坂を分けて、これまで来られるはずはございますまいが……」
 こんなことを良斎と柳水とが語り合っている時に、浴室の戸がガタリとあいて、
「お早うございます」
「いや、これは宗舟画伯」
と、二人が新来の裸虫(はだかむし)を歓迎しました、見ればこれは絵師の宗舟でした。
「両先生お揃いで……」
「いや、いい心持で今、歌と俳諧とを論じていたところです」
「どこを雪が降ると温泉にぬくもりながら、詩歌を論ずるなんぞは風流の至りです」
「それを今も言っていたところですよ」

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