大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「あ、あ、あ、太平が小屋か、お国っかかあが餓鬼を背負って立ってるとこが、うまくけえてありゃがらあ――ふーん」
 諒解が、やがて感歎に変り、
「うめえもんだなあ、こりゃお関所の松の木んところだぜ――そっくりだあ、あ、こりゃ山庄の土蔵だよ」
「なに、お前様、小名浜(おなはま)の網旦那んとこんござらっしゃるのかね――みんな、御粗末にするなよ、網旦那んとこのお客様だあよ」
と、村の長老がこう叫び出したので、空気がまた一変しました。

         十七

 田山白雲は、長老の一人から、
「で、お前様、絵をかきに上州の方から、わざわざ、こっちへござらっしゃったのかい、そうして、これから、どっちの方さ、ござらっしゃるだかえ」
とたずねられて、
「今日はひとつ小名浜というところまで行って、そこで、小谷半十郎というのへ、紹介されているから、泊ろうと思うのだ」
「え、小名浜の網旦那んとこですか」
「いや、小谷というのだ」
「そりゃ、お前様、網旦那んとこだ」
「とにかく、そこへ尋ねて行くのだ」
「それじゃ、網旦那のお客様だ。みんな、このお絵かきさまは、網旦那んちのお客だから失礼のねえようにしなよ。直(なお)しゅうに次郎公、おめえ、小名浜まで、このお絵かき様をお送り申しな」
 こうして、彼は質朴なる村人の諒解と、好意を得て、その夜は関北の村に一泊し、翌日は小名浜の小谷家まで無事に送り届けられて、そこで、鹿島洋で、測量のさむらいがくれた紹介状が立派に物を言い、このあたりでは、ほとんど領主でもあるらしき尊重ぶりの、いわゆる網旦那の屋敷の客となることを得たという次第です。
 その家について見ると田山白雲は、いよいよ以て、この辺に於ける網旦那なるものの勢力が、勢力に於ても、富に於ても、鹿島以東の浦々に並ぶ者のない威勢を見せていることを知り、そうしてまた、ここの当主が聞えたる蔵幅家であることを知り、なお人物と書画と両方面に、相当の鑑識を備えていると見えて、田舎廻(いなかまわ)りの旅絵師を名乗って来た白雲を、無下に扱うということなく、少しく画談を試みているうちに、所蔵の書画を、それからそれと取り出して見せるのですが、白雲は、その数に於て驚かされないわけにはゆきませんでした。
 次から次と運ばせる軸物のなかには、駄物もあるが、また相応に見られるものもないではない。どうして、こんなところへ、こんな作物が舞い込んだかと思われるほど、支那の元(げん)明(みん)あたりの名家へ持って行きたい軸物も、時おり現われて来ることに感心しました。
 そのうち、ことに白雲の眼を驚かしたのは竹林(ちくりん)の図です。
「これは蛇足(だそく)ですな」
「そうです」
「うむ――」
と言って、白雲が眼をすましたのを見て、主人が敬服しました。
 数ある画幅のうちで、主人にとって、この蛇足は、一二を争う秘蔵のものであるらしい。しかしながら、この辺鄙(へんぴ)にお客に来るほどのもので、この主人の自負に投合する者が極めて少ない。蛇足を蛇足として見るだけの明のない奴等を、主人が笑ったり、ひとり腹を立ったりしているところへ、たまたま白雲が来て投合し、この蛇足に向って、蛇足だけの扱いをしたのですから、主人が悦びました。
 白雲としては、当然なことです。
 瓦礫(がれき)は転がるように転がり、珠玉は珠玉のように輝いて光っているのだから、数ある軸物のうちで、蛇足にひっかかったのは当然ですが、それが、たまたま主人の意を得て、
「この絵かきは話せる!」
という心持にして、それが、やがてまた待遇の上にまで現われて来るのも当然でした。
 白雲は、この蛇足から眼がはなれないでいる間に、主人の注文も定まったと見えます。
 やがて離れの別室にうつされて、主人の注文に応じて画を作ることになった白雲の微吟の音が、外へ聞えます。
吹く風ならぬ白雪に
勿来の関は埋もれて……

         十八

 しかし、ここでは、たとえ主人の好意があろうとも、注文の絵の性質があろうとも、永く滞留して、筆を練るということを許さない事情がありますから、白雲は二日間を限りて二つの画を作って、明日は晴雨にかかわらず、ここを立つという時に、主人が送別を兼ねて、小宴を開いて白雲をねぎらいました。
 二日間の作、一つは主人の注文によっての「鍾馗(しょうき)」と、自分の作意によっての「勿来関」であります。
 その二つを、床の間に置いて、送別の小宴を開いているところへ、外から、
「半十郎」
と主人の名を呼ぶ声がします。
「ああ、児島先生がおいでになりました」
 主人が座を立って迎えようとする時、早や、声の主は襖を押開いて、無遠慮に、ここへ通りました。それを白雲が見ると、小柄な、色白の、まだ年の若い一人の武士であります。
「拙者は、米沢藩の児島辰三郎という者でござる」
 引合わせられて、その若い武家が、白雲の前に名乗りました。
 年は若いし、小柄ではあるし、色は白いし、額は広いのに、髪は惣髪(そうはつ)に結んであるので、一見、女にも見まほしいといったような優男(やさおとこ)には見えるが、そこに、なんとなく稜々たる気骨の犯し難きものを、白雲が見て取りました。
 打見るところ、何か、出張の目的あって、自分よりも以前にこの家に逗留(とうりゅう)しつつ、その所用を果しつつあるのだな。
「ごらん下さいませ、あなた様の御不在中、田山先生に、あの二幅を描いていただきました」
「ははあ、鍾馗か……風景は、あれは勿来の関だな」
「はい」
「うむ、見事見事」
 その武士は、見事見事だけで一切を片附けてしまったのを、白雲は笑止に思うくらいです――やがて、酒杯をすすめて後、主人が改めて、
「児島先生、この勿来の関の方に、先生の御賛(ごさん)をいただきたいものでございます、いかがでございましょう、田山先生」
と網旦那の主人が言いました。
「結構ですな」
と白雲が如才なく同意を示すと、主人は手を打って人を呼び、筆墨の用意にとりかからせたが、それと聞いて、いやとも言わず、黙諾の形を示していた児島なにがしといわれた武士は、
「いいですか、せっかくの名作を汚してもかまいませんか」
「どうぞ御遠慮なく」
と白雲が、やはり如才なく言いました。
「では、ひとつ」
 用意せられた筆に墨を含ませて、白雲の描いた「勿来の関」の上の空白を睨(にら)んでいる目つきを見て、白雲が、こざかしい振舞かなと思いました。
 このぐらいの年配で、たとえ旅の貧乏絵師とはいえ、いやしくも他人の描いたものへ、賛をと望まれても、一応は辞退するのが礼であろうのに、いっこう、辞退の色もなく引受けて、少しもハニかむ色なく、筆をぶっつけようとする度胸だが、盲蛇(めくらへび)だか、それを白雲は、小癪(こしゃく)な奴だという気がしないでもありません。よし、まあ、やらせてみろ、下手なことをしやがったら、その分では置くまい、白雲の手並を見せてやる、それからでよい。
 若造――やってみろ、という気構えで傍らから白雲が悠然として、酒杯をふくんで見ているうちに、筆を取って、画面を見ていた右の若い武士は、ズブリと硯田(けんでん)にそれを打込んで、白雲の揮毫(きごう)の真中へ、雲煙を飛ばせてしまいました。
「あっ!」
と白雲が酒杯を落そうとしたのは、憤慨のためではありません。
 その竜蛇を走らすが如き奔放なる筆勢――或いは意気に打たれたとでもいうのでしょう。

         十九

 まず、書の巧拙や、筆法の吟味は論外として、その覇気(はき)遊逸(ゆういつ)して、筆端竜蛇を走らす体(てい)の勢いに、さすがの白雲が、すっかり気を呑まれてしまった形です。
 そうして、白眼で見ていた眼が躍(おど)り出し、危うく酒杯を取落そうとして見ていると、そんなことを眼中に置かず、さっさと、走らせた筆のあとを、文字通りに読んでみると、
平潟湾、勿来関(平潟の湾、勿来の関)
石路索廻巌洞間(石路索(もと)め廻(めぐ)る巌洞の間)
怒濤如雷噴雷起(怒濤雷の如く噴雷起る)
淘去淘来海噬山(淘(ゆ)り去り淘り来(きた)り海、山を噬(か)む)
地形雄偉冠東奥(地形の雄偉、東奥に冠たり)
…………………
 一字一句もまた、その筆勢にかなう磊嵬(らいかい)たる意気の噴出でないものはありません。
 もとより古人の詩ではない。誰か、近代人の作を借りて来たのか、どうもその手に入った書きぶりを見ていると、他の作を借りて、自家の磊嵬に濺(そそ)ぐものとも思われないのです。
 してみれば、これは自作だ、この年で――二十歳前後です――この筆で、この作で、この意気、これは全くすばらしい男だと、白雲が舌を捲いてしまって、今度は、改めて、拳を膝に置いて、その武士の横顔を、穴のあくほど睨(にら)みつけたものです。
 件(くだん)の武士は、ここまで一気に雲煙を飛ばせて来たが、ここへ来ると、ピッタリ筆をとどめて、
「まだ、あとがあるのだが、未完稿として、これで筆をとめておく」
と言いながら、同じ筆で、そのわきへ「湖海侠徒雲井竜雄題」と小さく書きました。
 これが落款(らっかん)のつもりでしょう。「湖海侠徒雲井竜雄」というのが、この男の好んで用いる変名であろうと白雲が考えました。
 そうして見ると、この雲井竜雄という名が、この青年には、いかにもふさわしい命名であるように思われてくる。
 主人は、先刻から米沢藩士児島某と紹介していたが、自分で名乗るところでは雲井竜雄だ。それは自己命名か、由緒あるところの雅号かなにか知らないが、この男には、たしかに児島なにがしよりも、ここに記した雲井竜雄の名がふさわしいと、白雲が微笑して納得してしまいました。
 そうとは知らず、昂然として、筆を置いた児島なにがしこと雲井竜雄は、またもとの座に直ったが、不出来ともなんとも申しわけをするのではなく、自分の書いた賛を七分三分に睨みながら、主人の捧げる杯(さかずき)を取り上げました。
 白雲が、そこでなんとなく、いい心持に、持前の喧嘩腰を発揮しようとします。
 この男の喧嘩は名物です。喧嘩を吹きかけてみるということが、必ずしも、癪(しゃく)にさわる時のみではない。何かいい心持になった時、酒の勢いによって善悪にかかわらず相手を巻添えにしてしまいたがる。この時もようやく酒気が廻ったのに、そのいい心持が手伝ったのですから、
「君、いったい、君は年は幾つだね」
と、湖海侠徒雲井竜雄の方に膝を押向けたのから、そもそも、喧嘩白雲の地金がころがり出したのです。
「弘化元年三月二十五日、辰の刻に生れたよ」
 こう答えられてしまったので、白雲が暫く二の句がつげなくなってしまいました。
 弘化元年三月二十五日辰の刻生れまで言われてしまったのでは、戸籍役人としても、このうえ難癖(なんくせ)のつけようがないではないか。田山白雲がちょっと手がかりを失って、力負けの形となって、二の矢がつげないでいたが、そこで引込む白雲ではなく、盛り返してからみついたのは、
「生れ故郷は、出羽の米沢だとおっしゃいましたね」
「左様左様、出羽の米沢の吾妻山(あずまやま)の下で生れたのだ」
 出羽の米沢だけなら無事だったが、吾妻山と言ったので因縁がついたらしい。

         二十

「出羽の米沢――謙信公の上杉家は知っているが、吾妻山なんて山は知らない」
 白雲がこんなところに因縁をつけてからみついたが、雲井なにがしは取合わない。酒によって悪いところが嵩(こう)じてきた白雲は、
「米沢の吾妻山なんて名乗っても、米沢だけの天地では通るかも知れんが、他国の人に名乗り聞かせる場合には通らない、出羽の米沢の、謙信公の上杉家の、その家中の、何のなにがしと、お名乗りなさい、吾妻山なんていう山は名山図会(ずえ)の中には無い」
「ふふん」
 児島なにがしが、冷笑して問題にしないから、田山白雲が躍起となりました。
 この男は、駒井甚三郎に対すれば駒井甚三郎に対するようになり、児島なにがしに対すれば、またそのようになる。
「関東では、山として高い方では日本一の富士、低いけれども名に於て、このもかのもの筑波(つくば)がある。高さにして富士は一万五千尺、山も高いが、名も高いことこの上なし。筑波は僅かに数千尺――山は高くないが名が高い。米沢の吾妻山なんて、山も高くない、名も高くない……いったい、その吾妻山なるものの高さは、何尺あるのだ」
 白雲が、しつこくからみついたのは、やはり相手が相手だからでしょう。その相手が、今度はそれに対して抜からず、次の如く答えました。
「左様さ、吾妻山の高さは、高くて五尺五寸というところだろう」
「ナニ?」
「吾妻山の高さは五尺五寸だ」
「五尺五寸とは何だ」
 田山白雲が威丈高(いたけだか)になりました。
 それはこの青年に対して、あまり大人げないようでしたけれども、酒興に乗じたとはいえ、高さ五尺五寸の高山とは、この青二才、人を愚弄(ぐろう)した挨拶だ、と憤慨したのも無理はありません。
 そこで、白雲が、いきなり猿臂(えんぴ)をのばしたのは、この青二才をなぐろうとしたのです。
「まあ、待ち給え」
と青年武士は、白雲の憤慨を軽く受けとめて、微笑を含みながら次の如く言いました。
「拙者の家の書斎の窓は六尺だ、その六尺の窓から見ると、吾妻山の全体が見えて、まだ四五寸余る、それによって測量すると、あの山の高さは、まさに五尺四五寸のものだろうと思う」
「ハ、ハ、ハ、ハ」
 嬉しそうに笑ったのは、この家の主人です。
「それは全く間違いのない測量でございます、六尺の窓へ入りきる山は、五尺四五寸以下でなければなりますまい」
 そこで、白雲がまた白(しら)まされてしまいました、これは喧嘩にならないと思いました。
 同時にこの青年は、鬱屈(うっくつ)たる怪物であると共に、湧くが如き才物であることを、思わせられて、どのみち、非凡の男には相違ないが、どうも非凡過ぎるところがあると、それが気になり出してきました。
 そこで、小谷の主人が、うまく調子をつくったものですから、風雲は頓(とみ)に納まり、三人ともに快く飲むことになります。
 やがて、白雲が、前途の目的を話して、自分は仙台の松島へ行くのだ、松島へ行くのは、あながち風景を見んがためではない、「永徳」を見んがために、松島へ行く気になったのだ――ただ一人の「永徳」にあこがれて、矢も楯もたまらぬ思いで、松島まで単騎独行するのだという意気を見せたが、一座があまりその興にのらないのを不足とします。
 興に乗らないのみならず、右の青年武士は、その「永徳」とは何だと反問して、豊臣時代の狩野(かのう)の画家の名であることを知り、今日のこの時勢に、一枚の絵を見ようとして、陸奥(みちのく)まで出かける閑人(ひまじん)……一人の画工にあこがれて、千里を遠しとせざる愚物が存することを冷笑しました。

         二十一

「だから君等は話せない」
 今度は青年武士の冷笑を、白雲が、軽く受けて争わず、かえって諄々(じゅんじゅん)として教えるの態度をとりました。
「一枚の絵と言うても、君たちはまだ一枚の絵の味がわかるまい、一人の画工と言うけれども、一人の画工の持つエラサが、君等にはわからないのだから情けない」
と言って、白雲はまず、慷慨して、次の如く論じました、
「君たちに、あの時代の歴史を言わせれば、太閤ノ時ニ方(あた)リ、其ノ天下ニ布列スル者、概(おほむ)ネ希世ノ雄也、而シテ尽(ことごと)ク其ノ用ヲ為シテ敢ヘテ叛(そむ)カシメザルハ必ズ術有ラン、曰(いは)ク其意ニ中(あた)ル也、曰ク其意ノ外ニ出ヅル也――程度で尽きるだろう。同時に人物を論ずれば、家康、如水、氏郷、政宗、三成、清正、正則、それに毛利と、島津あたりのところで種切れになるだろう。そのほかはあってもよし、無くてもよし――君たちの粗雑な頭で見る歴史と人物は、おおよそ、その辺が止まりだ。そのほか日本の貿易界に誰それがあり、発明家、美術家に誰、思想家に誰、学者にこれというようなことは、ほとんど頭にござるまい。それは君たちが悪いのじゃあない、日本の歴史の教え方が悪いのだ。天下を取ったとか、取られたとか、相場師の出来そこないのような奴、コケ縅(おどし)の鎧(よろい)を着て軍(いくさ)をする奴でなければ、日本には英雄が無いように、子供の時分から教育がそう教えこんでいるようなものだ。そこで君たちはじめ、日本人のこしらえた歴史は、まるで材木だけで組み立ったガランドウみたようなものだ、骨組みだけはどうやら出来ているが、壁も無ければ障子もない、まして室内の装飾と、調度なんというものは全然頭に無いのだ、日本の国家というものは、材木だけで出来ているように教えられているから、歴史を語っても、人物を論じても、その辺で、おおよそ種子が尽きてしまう。人間の住む家として、骨組みばかりのガランドウが何になる、人間らしい家は、人間らしい内容を持たなけりゃならんのだ。時代は英雄豪傑に骨組みだけを作らせるかも知れないが、その内容整斉というものは、全く違った人々の手にあることを君たちは知らない。知らないのは、教育が知らないように仕組んでいるのであって、天が不公平に一方に多く与え、一方に多く惜しんでいるのではないのだ。いつの時代でも必ず、君たちの知っているいわゆる通俗の英雄豪傑のほかに、やはり英雄豪傑ではあるが、君等の知る通俗の英雄豪傑に優るとも劣ることなき偉材が存しているものだ、それがいわゆる通俗の英雄豪傑のした荒ごなしを補填(ほてん)して行って、人間の仕事に、不朽の光栄を残して行くようになっているのだ。幼稚な国の教育は、ただ前の英雄豪傑だけに箔(はく)をつけ、後の使命者の真価を教えない、だからもし日本人に向って、秀吉とは誰だと聞いたら、三尺の童子だって知っている、永徳と呼びかけてみて、日本人のうちでは、最も教養のある部に属する君たちが知らない、知らないことが恥にはならない、真実情けないことではないか」
 白雲が痛快に罵倒(ばとう)するのを、雲井なにがしは耳を傾けていて、
「そりゃ、君の言うことも一面の真理はある、なにも政治をしたり、軍(いくさ)をしたりする奴だけが英雄豪傑ではなかろうけれど、他の社会の仕事は、その道の人でなければわからない、わからないから、自然、人の口頭にも上らないのだ。それは必ず英雄豪傑が存在するに相違ない、不幸にして、その人たちは、全体を見渡せるだけの地点に立っていないから、全体にも見られないのだ」
「ところが美術というものは、誰にも見えるところに置かれ、誰にも見られるように出来ていながら、それを見る人が無いのだ、たとえば……」

         二十二

 たとえば……と言って白雲が膝を組み直した時に、雲井なにがしが問いかけました、
「その通り、恥かしながら、我々も美術や絵画のことにかけては盲目なのだ、それは店頭にかけた絵草紙と、応挙の描いたもの――というような格段は別だが、大家の位附けになると、どれも同じように見えて、そのエラサ加減に甲乙をつけるだけの眼識は無い。それは一つは不幸にしてそういうことを学んでいる暇が無かったのだ。そこで、端的にここで、君について学びたいのは、日本一の画家――つまり、絵の方で古今独歩の名人というは、まず誰なのだね」
 それを聞いて白雲は、心得たりというような見得で、雲井なにがしの面(おもて)をながめ、
「素人(しろうと)は、そういうことを聞きたがる。子供が、義経と清正はどっちがキツイ、と言うような程度のものだ。日本一というものは、桃太郎の旗印のように、簡単明瞭にくっつけられるわけのものではないが、美術鑑識の入門としては、さもありそうな質問で、それを軽蔑するわけにはいかないのだ。また拙者もこれで、その道で衣食する職責上としても、素人の真向から来る、そういったような子供じみた質問にも、充分に応接する用意を持たなければならぬ義務はある。今、それを君になるほどと頷(うなず)かせるだけの返答を与えてやるつもりだが、その以前に……君に聞いておきたい予備試験がある。それは極めてやさしいもので、日本人である以上は、今いう三尺の童子でも楽に及第のできる問題だ。つまり、それは、日本第一の英雄は誰だ、と尋ねれば、まず何はともあれ豊臣秀吉と答えるだろう」
「そりゃあ、議論をすれば際限がないが、そう聞かれて、左様に出て来るのは豊臣秀吉さ――秀吉が日本に於ける古今第一の英雄だということは、まあ、富士が第一の高山だというのと同じように、相場になっている」
「その通り。そこで、拙者は、もう少し深く突込んだ意味で、端的に、日本第一の画家を狩野永徳だと答えるのだ」
「先生、そりゃ……」
と口をはさんだのは小谷の主人でした。雲井なにがしの応答には、異議をさしはさまなかった主人も、白雲の断定には、服することのできないものがあるらしく、
「先生、そりゃ、ちょっと考えものじゃありませんか。太閤秀吉の日本第一の英雄ということは許せるにしても、古永徳が日本一の画人、古今独歩の人ということは、まだ独断じゃありますまいか。巨勢(こせ)の金岡(かなおか)もあります、光長も、信実(のぶざね)もあります、土佐もあります、雪舟(せっしゅう)、周文、三阿弥(あみ)、それから狩野家にも古法眼(こほうげん)があります、その後に於ても探幽があり、応挙があり……」
「そりゃ、もとより異論もあるだろう、永徳の日本一は、秀吉の日本一のような相場にはなっていないが、拙者は狩野永徳が日本に於て最大の画家であり、古今独歩の名人であることを信じて疑いません――まあ、お聴きなさい、拙者だって、意地でそんなことを言うわけではありません、今日まで、拙者の見たところ、測ったところを論拠として、それを言うのです。地図の測量では、下総の佐原の伊能忠敬が名人ですが、拙者といえども、自分の職とする道に於ては、かなり忠実綿密なつもりです、人間はこの通りお粗末だけれども、せめて古人を見ることの謙遜と、忠実とだけでは、人後に落ちないようにと心がけてはいます。ですから、拙者は今日まで、いやしくも名画と聞き、名人と聞けば、できるだけの手数を尽して、その絵を見せてもらい、その人に親しく逢おうとしました。無論貧乏だから、買いたいと思うものも買えず、こうして乞食同様にしているから、見たいと願うものも見せてくれないものもあるが、その謙遜と、熱心とだけは、変りませんよ。陸前の松島まで永徳を見に行こうとするのも、必ずしも物好きと、酔興ばかりではありませんね――この骨のこわい頭を下げてはならぬ時と、下げねばならぬ時とは、これでも相当に心得ているつもりですよ」

         二十三

 白雲は傍若無人に語りつづけました、
「狩野永徳が日本一の画家です、古今独歩の名人です、本当に日本の絵というものを代表するのは、永徳のほかにありません。無いとは言えないが、あっても、それは部分的でなければ、条件つきです。ところが、永徳に限って、これが日本第一の、日本の美術の代表の画人だと、憚(はばか)りなく言うことができます」
「永徳のドノ点がエライのです、どういう理由が日本一になるのです」
「それを言うには……君たちを教育する意味に於ても、一通り日本の絵画史を頭に入れて置いてもらわなければならないが、そんなことをしている暇はないから、手っとり早く言えばですね、まず、ずっと上代では、絵画はすなわち仏画で、その仏画はみな神品といってよろしく、一とか二とか等級を附すべきものではないが、その神品たる仏画にしてからが、やっぱり支那というものの系統を、度外しては論ずることができないのです。その後大和絵というものが起りました。巨勢(こせ)とか、土佐とか、詫磨(たくま)とかいう日本の絵が出来ました。それは立派なものであるけれど、何をいうにも歴史が浅く、規模が足りません……そうしているうちに、東山時代といったようなものが来ました。いわゆる雪舟などは、まさにその完全なる代表者です、ただ、時代の代表だけではない、雪舟あたりこそ、日本一とか、古今独歩とかいうべき地位を与えても、異存のないところですが、幸か不幸か、雪舟の偉大なのは、これを宋元の大家と比較しての偉大であって、日本の画家としての代表には、偉大は余りあるとしても、特色が不足します。勿論(もちろん)、雪舟自身は支那へ渡っても、かの地に師とすべき者なし、ただ山水のみ師なりといって、空(むな)しく帰って来たくらいですから、その芸術に、国境や、系統を附すべきものではないが、その筆法の系統には、宋元の脈を引いて争うべからざるものがあるのです。そこで、よって、彼を世界の第一流とは言えるかも知れないが、日本を代表しての古今独歩とは推(お)し難い……日本を代表する以上は、そのすべてが日本化されて、そうして独自の境に立って、天下を睥睨(へいげい)するという渾成(こんせい)と、気魄(きはく)が無ければならないのです。そうして、優にそのすべてが備わっているのは、狩野永徳がただ一人です。永徳を日本第一、古今独歩と私が推称するのは、大体そんなような理由ですが、もう少し、それを分析しないと、いくら素人(しろうと)でも、君たちにわかるまいと思うから……」
 ここで、また酒をとって飲みました。主人ともう一人の客は、あながち、白雲の気焔を否(いな)まずに聞いているから、白雲が続けました、
「永徳は元信の孫です。元信は御承知の通り古法眼(こほうげん)で、この人もまた、ある点では永徳以上のものを持っていました。いったい狩野家には、代々豪傑が現われたこと不思議と思われるばかりですが、古法眼を祖父として、松栄を父として生れた永徳が、生れながら、すでに名匠の血を持ち、むつきの間から丹青の中に人となり、後年大成すべき予備と、練熟とは、若冠のうちに片づけてしまったこと、我々貧乏人が中年から飛び出して、やっと絵具の溶き方がわかった時分には、もう白髪になってしまっているというような大悲惨な行き方とは、天分の恵まれ方が違っていましたね。基礎学は子供のうちに叩き込んでしまって、一意、自家の大成に全力を注ぎうるように仕組まれていた彼の境遇も、仕合せといえば言えますが、天はその実力なき者に、優越の環境を許すものではありません、時代は永徳を現わさねばならぬようになっていたから、優秀な上に、優秀な待遇を与えて世に送り出しました。実際、彼ほど偉大な日本画家はない如く、彼ほど恵まれた環境を持った画家もありませんでした――祖父に元信があり、漢画と大和絵を融合して、日本の絵の技術を総合した上に、保護者が、その天下第一の英雄である秀吉であり、その秀吉よりもいっそう天才である信長でしたからね」

         二十四

「秀吉が永徳の唯一の保護者というわけではないが……永徳は信長のためにむしろ傾注していたに相違ないが、安土(あづち)の城が焼けると信長の覇業(はぎょう)が亡び、同時に永徳の傾注したものも失せました。そこで、秀吉はつまり信長の延長といってさしつかえないのですから、秀吉を仮りに保護者としておきましょう――しかし保護者といったところで、秀吉は永徳にとって、贔屓(ひいき)の旦那でもなければ、永徳は秀吉のための御用絵師でもなく、見ようによっては、秀吉はどうしても、その事業の光彩のために、永徳がなければ片輪者になるし、永徳はまた秀吉を待ってはじめて、その大手腕を発揮することができたのですから、もし仮りに永徳が秀吉の御用絵師ならば、秀吉はまた永徳のための御用建築家をつとめたとも言えるでしょう。永徳あって秀吉の土木が意味を成したので、永徳がなければ、単なる成金趣味の、粗大なる土木だけのものでした……
 かように永徳は、狩野の嫡流(ちゃくりゅう)から出たのですから、漢画水墨の技巧は生れながら受けて、早くこれに熟達を加えているのに、大和絵の粋をことごとく消化している、そうしてそれを導く者が、一代の巨人秀吉であり、その秀吉以上の天才信長であったから、惜気もなくカンバスを供給して、そのやりたいだけのことをやらせ、伸ばせるだけの手腕を伸ばさせて、他に制臂(せいひ)を蒙(こうむ)るべき気兼ねというものが少しもない、『画史』によると、松と梅の十丈二十丈の物を遠慮なく金壁の上に走らせている、古来日本の画家で、永徳の如き巨腕を持ったものはあるかも知れないが、その巨腕を、縦横に駆使すべきカンバスを与えられたこと永徳の如きはあるまい。彼は文字通りの大手腕を揮(ふる)うのに、注文通りの恵まれた材料を与えられている、幸福といえば無上の幸福者です――貧弱を極めた我々貧乏絵師の夢にも及ばないこと――だが彼は本来、大作に余儀なくされて、大作を成した男ではないのですよ、『画史』にありますね、『山水人物花鳥皆細画ヲ為(な)ス、間(まま)大画有リ』というのですから、むしろ細画に堪能(たんのう)で、そうして大物をこなすのが本当の大物です。大小ということはカンバスの面積の問題ではないのですが、古来これにひっかからない画家はほとんどありますまい。骨法の皆伝を父祖に受けたけれども、自然の観照は独得です。まあ、絵の骨法も正格だが、自然を観照するの正しいこと――忠実なこと、謙遜なこと、素直なこと、『細画ヲ為ス』の『為ス』というのは、その意味にとりたいくらいです。永徳が、いかに骨法に正格に、自然に忠実であるかということは……どうも、ここで君たちに口で説明するということができない、絵を見せて、そうして会得させるよりほかはないが、たとえば、京都の知積院(ちしゃくいん)の草花の屏風(びょうぶ)を見て見給え、あの萱(かや)の幹と、野菊の葉を見て見給え、飛雲閣の柳の幹と枝のいかに悠大にして自然なるかを見て見給え、西教寺の柿と柚(ゆず)の二大君子の面影(おもかげ)に接して、襟を正さないものがあるか、三宝院の鵜(う)は一つ一つが生きていますよ。いきていると言ったって君、いきているように巧く描けているという意味じゃありませんぜ。大覚寺の松は舞っている、大安寺の藤は遊んでいる、永納の証ある『鷹』は見ましたけれど、毛利家にあるという『唐獅子(からじし)』を見る機会を得ないのが残念です。われわれが、無位無官の田舎絵師としての伝手(つて)で、見られるだけは見たが、どこから見ても永徳に隙間(すきま)はありません、大にしてよく、細にしてよく、山水がよく、花鳥がよく、人物がよく、濃絵(だみえ)がよく、淡彩がよく、点がよく、劃がよい――ことにその線の勁健(けいけん)にして、和順なる味といったら、本当の精進料理を噛(か)みしめる味で、狩野家の嫡流として鍛えこんだ腕でなければ、あの線は出来ません――この大名人が、信長と、秀吉に、自分のカンバスを作らせて、思う存分の腕を揮って後、その秀吉よりも一足先にこの世を去った。四十八歳では短命の方ですが――自己の生命を不朽に残して、形態の英雄秀吉よりも一足お先へ行ってしまったところが、痛快ではないか」

         二十五

 主人も、雲井なにがしも、話の内容の興味よりは、意気に乗じて語る白雲の、豪快な気焔に興を催している。
 白雲は、この機会に、もう少し叩き込んで置かねばならぬと考えたのでしょう、こんなことを言いました、
「そういうように、信長や、秀吉が、いかに土木を起して金壁をなすりつけてみたところで永徳があって、それに眼睛(がんせい)を点じなければ、それは成金趣味だけのものだ。前に言う通り、秀吉や、家康や、氏郷や、元就(もとなり)でなければ、人物が無いと思っている者たちのために、もう少し永徳の後談(ごだん)を語らなければならない。永徳の時代、友松(ゆうしょう)のあったことも記憶すべきだが、その子に山楽(さんらく)の出でたことこそ忘れてはなりませんよ。子といっても山楽は本当の子ではない、養子であったのだ、しかもその養子の氷人(なこうど)が、やっぱり天下第一の秀吉の直接の口利きであっただけに、養子ではあったが、不肖の子ではなかった。永徳を知れば当然、山楽を知らなければならぬ、永徳の絵にも、山楽の絵にも、落款(らっかん)というものは極めて少ないから、いずれをいずれと、玄人(くろうと)でも判断のつきかねることがあるが、よく見れば必ず、永徳は永徳であり、山楽は山楽でなければならないはずのものだ――永徳は早死(はやじに)をしたが、山楽は長生(ながいき)をした、およそ長生すれば恥多しということを、沁々(しみじみ)と体験したもの山楽の如きはあるまい。山楽がちょうど四十歳前後の時に不世出の英雄であり、自分を絵に導いてくれた唯一の知己恩人である秀吉に死なれて、その豪華一朝に崩れて、関東に傾くの壮大なる悲劇を、まざまざと見せられた山楽、家康がしばしば招いたけれども行かない、ついにその不興を買い、身辺の危険をまでも感じて、やむなく家康にお目にかかりに罷(まか)り出でたことは出でたが、もとより家康は秀吉ではない、英雄ではあるけれども英雄の質が違う、例の『画史』に――恩赦ヲ蒙ツテ東照大神君ヲ駿城ニ拝シテ洛陽ニ帰休ス――とあるのが笑わせる。何が恩赦だ、何が大神君を拝するのだ、家康には、永徳や、山楽は柄にない、家康という男は、惺窩(せいか)や、羅山を相手にしていればいい男なのだ。白眼に家康を見て帰った晩年の山楽が、池田新太郎少将のこしらえた京都妙心寺の塔頭(たっちゅう)天球院のために、精力を傾注しているのは面白いじゃないか。京都へおいでたら、智積院(ちしゃくいん)、大安寺、その他の永徳を見て、天球院の山楽を見ることを忘れてはなりませんよ――拙者が、これから行って見ようとする松島の観瀾亭というのは、伊達政宗が、桃山城のうちの一廓を、そのまま秀吉から貰いうけて建設したのだということで、その一棟全体が絵になっているそうだ。そのいずれにも落款は無いが、山楽ということに専(もっぱ)ら伝えられている。山楽でなければ永徳――永徳でなければ山楽――よりほかへは持って行き場がなかろうけれど、遊於舎(ゆうおしゃ)の主人なども一見して、自分は永徳と信じたい――と語った。関東には永徳なんぞは無いものと信じていた拙者が、偶然、東北の一隅にその声を聞いてはじっとしていられない。一人の画工のために、一枚の絵のために、千里の道を遠しとせざる我輩の振舞は、なるほど君たちが見れば、閑人(ひまじん)の閑つぶしとして、この上もない馬鹿野郎に見えるだろうけれども、そこは縁なき衆生(しゅじょう)だ――縁なき衆生といえども、度するだけは度するの慈悲がなければならぬと思って、つい一人でおしゃべりをしてしまった――慈悲といえば事のついでにもう一つ、およそ彫刻でも、絵画でも、日本に於て最大級の産物は、ことごとく仏教と交渉を持たぬものはないけれども、永徳はその仏教からも超脱している。この点も、まさにその特色の一つで、秀吉を古今第一等の日本の英雄とすれば、同時に日本を代表する古今独歩の巨人としての画人、永徳を忘れてはならない――そういったような次第で、拙者はこれから松島の観瀾亭を見に行こうとするのだ」

         二十六

 その翌朝、田山白雲と、雲井なにがしとは結束して、その家を辞して出でました。
 白雲が急がぬようで急ぐ旅であり、この青年壮士もまた、落着いてここに逗留(とうりゅう)している身ではないらしい。
 雲井なにがしは、近き将来に日本の勢力が二分することを信じている。それは痩(や)せても枯れても従来の徳川家が一方の勢力で、他の一方の勢力の中心は、薩摩と、長州である。ことに薩摩がいけない。長州は国を賭(と)して反幕の主動者となっているが、そこへ行くと薩摩は、国が遠いだけに、長州よりも隠身(いんしん)の術が利(き)く。長州は幾度か国を危うくしたが、薩摩はそんな危急に瀕したことは一度もなく、そうして威圧のきくことは無類である。この両藩が中心となって末勢劣弱の徳川家を、有らん限りの横暴と、陰険とを以て、いじめている――と、雲井なにがしは誰もが見るように見ている。
 ところで、その徳川家の、征夷大将軍の威力も明らかに落ち目で、盛衰消長はぜひなしとするも、それにしても歯痒(はがゆ)すぎる――と、雲井なにがしは自分のことのように憤慨する。
 徳川氏、政権をとること三百年、士を養うこと八万騎、今日この頃になって、ついに一人の血性(けっせい)ある男子を見ることができない。雲井なにがしはそれを切歯(せっし)している。その点から見ると、明らかに徳川方の贔屓(ひいき)であって、薩長の横暴陰険を憎んでいる。ただ、徳川に贔屓するのが、いわゆる、佐幕論者とは、全く調子も、毛色も、変ったものであることを認めないわけにはゆかない。この男は徳川の恩顧を蒙(こうむ)り、或いはその知遇に感じ、以てその社稷(しゃしょく)を重しとするのではない、薩長が憎いから、徳川に同情するのである。
 薩賊、長奸(ちょうかん)というような言葉を絶えず口にする。とにもかくにも、薩長あたりが中心となって、末勢の徳川を圧迫する、そこで天下は二分する、二分して関ヶ原以前の状態にもどる、秀吉と信長以前の状態に一度逆転すると見ている。やがてまた群雄割拠の世になるかどうか知れないが、東西二大勢力が出来て、当分はこれが相争うのだ。その時の用意として、自分は、東北の海岸の地形や要害を見て廻っている。
 というような議論が風発するのを、田山白雲が聞いていると、こいつがいよいよ容易ならぬ男であることを感ずる。
 勤王とか、佐幕とかいう名目だけでは片づけられない、米沢というだけに、北方に嵎(ぐう)を負うて信長を畏怖(いふ)させていた上杉謙信の血が、多少ともこの男の脈管に流れているのではないか、とさえ思わせられる。
 白雲も、当世流行の勤王家や、佐幕党に、かなり眉唾物(まゆつばもの)の多いことを知っている。
 藩としてもずいぶんあやふやものの多いことを知っている。
 たとえば、ある藩では、あらかじめ藩中へ、勤王と、佐幕とのなれあい勢力を二つこしらえて置いて、万一天下が勤王方に帰した時は、藩中の勤王党の方を押立てて、弊藩(へいはん)はかくの如く最初から勤王党でござると言い、もしまた当分徳川で落着くことになれば、当藩はなんじょう無二の幕府方、その忠義心かくの如し……と、おのおのこしらえ置きの覚え書を出してお目にかけることにする。どうしても、染替えのならぬ旗色のものは別、そうでない限り、親藩といえども、態度の覚束ないこと、それぞれの志士浪士、皆それぞれの後ろだてをたよって大言壮語する。
 ひとりこの雲井なにがしは悍然明白(かんぜんめいはく)に、薩摩倒さざるべからずと主張する。そうして、ただ一人でもそれを実行する意気組みを持っている。とにかくその意気だけはほんとうに怖るべき意気だ、これほどの気骨あるのが徳川旗下にいたら、と思うよりは、やっぱり上杉謙信や、直江山城守が、この男の口を借りて、若干を言わせているように、白雲に想像されてならない。
 大言壮語をする奴は多いけれども、たった一人になっても、本当に謀叛(むほん)のできる奴はいくらもあるものではない。
 大勢(たいせい)の順逆は論外として、とにかくこの男は、本当に謀叛をやれる奴だ、謀叛人の卵だ、と白雲が、同行しながら、雲井なにがしに向って舌を捲きました。
 道は山路をとって磐城平(いわきだいら)へ通ずるところ。

         二十七

 煙にまかれて、雨戸をしめきったお雪ちゃんは、次の間へ飛んで出て、
「久助さん、久助さん、火事ですよ」
と言い捨てて、そのまま、あわただしく二階へかけ上ってしまい、
「先生、火事でございます、早くお仕度なさいまし」
 言われるまでもなく、この時、竜之助はもう心得て、身のまわりのものを掻(か)き寄せていたところでした。
「お雪ちゃん、気をつけるといい、火事の時は、明るい方へ逃げないで、暗い方へ逃げるものです」
「先生、早くなさいまし」
 お雪ちゃんは、竜之助の手を取って引立てようとしたが、人を急(せ)き立てる自分こそかえって、あわてていて、ねまき一つのまんまで騒いでいるのに、竜之助は、身のまわりのもの、少なくとも大小、懐中物だけは、抜かりなく用心した上に、頭巾(ずきん)を手に取り上げています。
「さあ、降りましょう、ああ、いけません、こちらは明るい、この裏梯子から」
「ああ、先生、わたしは、もう一ぺん自分の座敷へ戻らねばなりません」
「それは危ない」
「でも……」
「命には代えられません」
 その裏梯子を下りる時には、お雪ちゃんが竜之助を導くのではなく、むしろ、竜之助がお雪ちゃんを抱えて、静かに下りて行くのを見ましたが、火は、煙は、遠慮なくその後を追いかけて、姿そのものを捲き込んでしまいました。
 こうして二人は、ほんとうに身を以て、裏梯子から、すぐ家の欄(てすり)の下の桟橋(さんばし)に立って、河原を走ることになりました。
 お雪ちゃんこそは、全く身を以て逃れ出たもので、自分が一番先に発見したという立場から、まずもって急を久助さんに告げ、その足で、二階へ、竜之助に告げに行った。その次の仕事としては、もう、どうしても自分の部屋に戻ることはできませんでした。
 部屋そのものに名残(なご)りの残るわけではないが、そこには、自分の身のまわりの一切のものが置捨てられてあったのです。
 一切のものといううちに、その数々を挙げてみるよりは、その中から取り出し得たものは、この身体(からだ)と、この身についた寝巻一着だけ、という方がわかり易(やす)いでしょう。しかも、この寝巻は自分のものではありません、帯までが宿のものなのです。
 河原の真中へ来た時分に、盛んに燃えている自分たちの座敷のあたりを見ると、お雪ちゃんは急に恐ろしくなってしまいました。
 ああ、なんだって自分は、こんなに、はしたないのでしょう、せめてあの帯揚だけも、あの手文庫だけも、あの紙入だけも、立ち上る途端に、しっかりとここへ挟んで来ればよかったものを――命より大事なものは無いと言いながら、旅に出ては命同様の役目をする路用の一切を焼いてしまった、ほんとに明日からは、どうするのでしょう。
 久助さんは……久助さんは、どうしたろう、あの人は耳が少し遠いから、わたしがああ言って呼んであげたのがわかったかしら。わからなくても子供じゃなし、逃げ出せないはずはないが……
 お雪ちゃんは、ようやく、河原の中程へ来て、わが身のことと、人の身の安否を考えたが、どちらもたよりないことばっかり……でも、肝腎の目の見えない先生が、こうして御無事に……と思う、そればかりが心だのみでした。
「もう大丈夫ですねえ、先生」
 自己慰安を求めるもののように、こう言ったが、盛んに燃えさかる火の手が、河原の表面を、昼のようにかがやかすと、避難の者が、いずれもこちらへ、こちらへと走りかかるのを見て、またも不安の念に襲われました。

         二十八

 火に追われるのは怖れないにしても、人目に触れさせたくない心配はある。
 まもなく、川下の森のようになった柳の木蔭で、探し当てたのは、つなぎ捨てられた屋形船(やかたぶね)の一つです。夏になると、この宮川が屋形船に覆われて、花柳(かりゅう)の巷(ちまた)が川の上へ移される。今は誰も相手にする者のない捨小舟(すておぶね)。
 船の中をなおよく見ると、蓆(むしろ)や、ゴザが、丸く巻いて隅の方に積んである。お雪ちゃんは、その敷物をしいて、竜之助をその中に休ませました。そうして置いて言うことには、
「先生、わたしは、これから火事場の方へ行って参ります、久助さんの身の上も心配だし、もしかして、わたしの荷物を、宿の人が出してくれたかも知れません」
「行っておいでなさい」
「お寒いでしょうけれど、暫く御辛抱なすって下さいね」
「寒いぐらいは何ともありません」
「その代り、わたしが宿の人に頼んで、直ぐによい避難所を探して来てあげますから」
「ああ、何しろ火事場はあぶないから、怪我をしないようにね」
「大丈夫、先生こそ、お風邪(かぜ)を召さぬように」
「なあに、わしは大丈夫だ」
と言いました。
 暗いから、よくわからないけれども、竜之助は、お雪ちゃんのように寝巻一枚ではなく、急の場合に、手まわりで身づくろいの出来るだけのことはして来ているようです。ですから、ここで、うたたねをさせて置いても、そんなに急に風邪をひくようなこともあるまいと思われるのに、自分は、ホンの寝巻一枚――急にゾクゾク寒気がしてきました。
 気がついてみれば、自分がこの人を呼びさまして、連れてここまで避難して来たというのは全くウソで、事実は、この人に自分が抱えられて、裏梯子を下り、小川を飛び越え、河原を走って、ここまで来たのだということが、この時、はじめてわかりました。
 途中、緊張しきって、我を忘れていたものですから、そこは水でございます、そこに石があります、ああ大きな穴が、あぶない――と、走りながら、自分は幾度か警告したのは口だけで、そう言いながらここまで走って来たと思った自分は、実はこの人の小腋(こわき)に抱えられて、自分が口だけの案内者に過ぎなかったということが、この時、ハッキリわかりました。
 その証拠には、自分は全く素足(すあし)で、履物(はきもの)というものを穿(は)いていない。それは途中で脱げてしまったのではなく、最初から穿いて来なかったので、穿いて来る余裕の無かったということは、今となって明らかにわかります。
 かりにも履物をつけないで、あの河原道をここまで走って来れば、足が裂けてしまっているに相違ない。それだのに、自分の足はなんともないではないか。それが、ハッキリわかってみると、お雪ちゃんは、いくら先走って世話を焼くようでも、女は女――という引け目を、しおらしく感じてしまいました。
 同時にまた、こんなに病身で、ことに肝腎(かんじん)のお目が悪いのに、それでも足許(あしもと)を誤らずに、この石ころ高い河原道を、わたしというものを抱えながら、ここまで連れて来て下さった先生は、えらいと思わないわけにはゆきません。
 危急の場合にはどうしても女は女で……と感ずると共に、男である以上は、こんな不自由な身であっても、胆の据え方というものが違うのじゃないか知ら――とお雪ちゃんは、今更のようにそんなことを感じ、一時(いっとき)、こんな気持でボンヤリしましたけれども、いつまでもボンヤリしている場合ではなし、
「では、先生、一走り行って参りますから」
と、三たび暇乞いの言葉を残して行こうとしますと、竜之助が、
「お雪ちゃん――草履(ぞうり)をはいておいでなさい」
と心づけてくれました。
「まあ」
 そんなこと、細かいことまでわかるのかしら……お雪ちゃんは、眼のあいた人と、眼のあかない人との地位が、顛倒しているのではないかと思いました。

         二十九

 そうして置いてお雪ちゃんは、再び火事場へ取って返しました。
 たいした風はなかったのですけれども、乾ききっていたところへ、消防の手が不足のせいだったのでしょう、火勢はいよいよ猛烈で、ほとんど手のつけようがない有様でした。
 橋を渡って、火が対岸へ燃えうつろうとしているのを、必死で支えるだけが消防隊のする全力の仕事のようでした。
 ですから、ほとんど火事場へは寄りつけない、のみならず、火を避けようとして、逃げ出す人波と、荷物とに押されて、空しく押し戻されるよりほかはありません。
 その逃げ迷う人波の中に、せめて久助さんの姿でも見出したいものと、河原を廻って後ろからのぞんで見ましたけれども、それらしい人を見ることができません。
 ぜひなく、また河原道を、屋形船のところまで舞い戻るよりほかに為さん様がありませんでした。
 この戻りにも、何といって一つ、獲物(えもの)らしいものを持って来ることができない悲しさ。せめて、あのお金入の一つさえ持っていたならば、この戻りに、廻り道をしてなりと何か一品――さしあたっての一夜の凌(しの)ぎになるものを買って戻れるものを、それもできない。まして借りるところも、貸すところも――手ぶらで出でて、手ぶらで帰るよりほか、何事もできない自分を、歯痒(はがゆ)いと思いました。
 けれども、今の場合では、どうしても、そうして手ぶらで帰るよりほかに道はありません。せめて手ブラでなりと無事に帰って、人を安心させ、自分も安心して、この一夜を明かしてから、万事はその後――と、そう心を決めるほかはありませんでした。
 そうして、大火の火影に照らされながら、河原道を飛んで、時には、水たまりへぐちゃりと足を入れたりなんぞして、前をながめ、後ろを顧みながら辿(たど)って行くと、草むらの中に、ひときわ白いもののあるのが眼につきました。
「おや?」
 白い、長い、箱のようなもの、遠火の光にあおられてありありとそれを見出したのは、やっぱり長い箱に相違ありません。
 長持にしては白過ぎると思いました。
 でも、それが何のために、こんなところに存在するかを想像するのは難事ではない。大事なものを持ち出して、ワザとこんな遠くへまで置きっぱなしにして行ったのは、もうげんじたわけではない。火事に顛倒して、我を忘れた狼狽の沙汰ではない。荷物を持ち出す時の目測では、もうこの辺まで持ち出せば大丈夫、と安んじていたものが、いつしか、火勢に先んぜられて混乱の渦に没してしまうことが多い。そんな途方もないところまで運ばなくてもと、物笑いになるほどの心配がかえって賢明に、安全を贏(か)ち得るということはよく経験するところです――お雪ちゃんは歩むともなく、その置きっぱなしにされた白い、長い箱の傍に寄って見ると、果して長持ではない。
「おや――」
 前のは単なる驚異でしたけれども、今度のは、恐怖を伴う叫びでした。
 何です、これは、縁起の悪い、棺(ひつぎ)ではありませんか、寝棺(ねかん)ではありませんか。おおいやだ、寝棺が捨てられてある。
 お雪ちゃんはそれを見まいとして走りました。
 あれだけの寝棺では、かなり立派なお家の葬式であろうけれど、入棺間際に火事が起って真先にあれを担(かつ)いで避難はしたが、死んだ人よりも、生きている人の難儀の方が大事である場合、ぜひなく棺はあのままにして、また火事場へ取ってかえしてしまったのだ。
 それにしても、この際、棺をここまで持って来て避難させるまでの熱心があるならば、誰か一人ぐらいは、ここに番をしてあげたらよかりそうなもの、よくよくの場合とはいえ、捨てられた仏がかわいそうじゃないか、ひとりでこんなところへおっぽり出されて、もし狼か、山犬にでも荒されるようなことがあったならば、いっそ、火事場へ置いて焼いてしまってあげた方が功徳(くどく)じゃないかしら。
 お雪ちゃんはこんなことを考えながら、眼をつぶって屋形船の近くまで走って来てしまいました。

         三十

 この屋形船の中で、竜之助とお雪ちゃんは一夜を明かしたのです。
 夜が明けると、お雪ちゃんは竜之助に断わって、再び火事場へ出て行きました。
 昨晩(ゆうべ)は、近寄れなかったが、今朝は、もう火も鎮(しず)まってみれば、行けないことはない。第一に久助さんの行方(ゆくえ)――それから自分たちの荷物の安否、それから宿屋の主人に向って善後策の交渉――そんなことを、いちいちこれから切盛りをしなくてはならないと、雄々しくも心を決めて、寝巻一着を恥かしいとも思わず――恥かしいと思っても、この際、どうすることもできないのですから、そのままで、焼跡の方へ出かけて行ってしまいました。
 船の中に、ひとり残された竜之助は、肱(ひじ)を枕に横になると、天地の狭いことを感じません。
 このごろでは、よいことに、夢ではなく眼をつぶって、息を調えて沈黙している間に、さまざまのうつつの物を見ることです。曾(かつ)て見たことのある山水や、人物が、うつつとなって、沈思閉眼の境に現われて来て、甘美なる幻像に喜ばさるるの癖がつきました。
 これは、そうするつもりがなく、白骨の閑居のうちに、おのずから養われた佳癖ということができましょう。それは曾て自分が実見したことのある山水のみならず、人がさまざまに語り聞かす物語を、自分が閉眼して、いちいち絵に描いてみることができるようになったもので、白馬ヶ岳や、槍ヶ岳や、加賀の白山や、越中の立山が、みんな実物以外の想像となって、竜之助の眼底にありありとうつってくるのです。そうしてまたお雪ちゃんの話しぶりというものが、その想像を助けるのに最もふさわしいものでありました。
 白骨の炉辺閑話でも、そこに集まる冬籠(ふゆごも)りの人たちの風采(ふうさい)を、お雪ちゃんの話によって、いちいち想像に描いてみては、それらの人と共に語るような思いもするのです。時として、イヤなおばさんだの、仏頂寺弥助の一行だのといったようなのが、苦々しい幻像を現わすこともあるが、概して、自ら描いて見る風景と、人物とは、特殊な甘美なものがあって、自己陶酔には充分なのです。
 その幻像から来る自己陶酔を楽しむことができるようになった竜之助は、性格的にどれほど恵まれたかは知れないが、時間的には、たしかに、退屈ということを忘るるの術(すべ)を授けられたようなものです。
 平湯から、こちらでは、その機会の少なかったのは、沈静から流動へと移った旅程のあわただしさでしょう。昨夜の火事の前なども、うつらうつらとその夢幻の境に引き入れられようとして、引き戻されたのではあるまいか。
 今は、しばらくその時が与えられた。空想の幻像によって、窮居の無聊(ぶりょう)を救うの術を覚えたことの応用は、この辺だと心得たものでもないでしょうが、肱に枕をすると、眼を眼中に向けて、想いを雲煙の境に飛ばしました。しかし、幻想といえども、境遇と離れては成り立たないものと見えて、竜之助の夢うつつは、昨夜来の出来事と、そうして自分にかしずいているお雪ちゃんの面影(おもかげ)の外には、出でることができませんでした。
 あれから、夜の白むまでの半夜を、この狭いところに明かし合って、眼がさめた時の、お雪ちゃんの言葉が、
「先生、お寒くはございませんでした?」
と、こういうのです。
 寒くないかと、見舞を言ったお雪ちゃんその人が、かえって寒さに顫(ふる)えている面影を、竜之助はありありと見ました。
 寝巻一着のほかに、なんにも無くて、自分を顧みるよりも先に、人の安否のために奔走したお雪ちゃんの最も好意ある狼狽(ろうばい)を、竜之助といえども充分見て取っているのでしょう。
 自分はあの際にも、できるだけの身ごしらえはして来ているから、寒くはない。寒いといっても知れたものだが、お雪ちゃんは、あれから間もなく夜明けではあったものの、その間、寝入ったようなふりをしていたが、まんじりともしなかったことを、竜之助は知っていなければならぬはず。

         三十一

 竜之助も、あの子にだけは、どう考えても悪意を持つ気にはなれないらしい。
 お雪ちゃんという子を、竜之助は、どんなように想像しているか。女というものについては、お豊である限りのほかの女は、竜之助の肉眼での女というものは無いのです。
 どのみち、女というものの運命も、他の生物の運命と同じことに殺してしまうか、殺されてしまうのが落ちだ。
 竜之助は、お雪ちゃんを可愛ゆいと思わないことはない。可愛ゆい子だと、身に沁(し)みる時に、また一方に極めて冷たいものがあって、こいつもまた、今まで、経来ったあらゆる女と同じ運命の目を見せてやる時が来るのかな――とあざ笑うこともある。
 いつのまにか、自分が愛すれば愛するほど、自分が愛せられれば愛せられるほど、そのものの運命のほどを、じっと最後まで見詰めてやりたくなる癖がある。
 生かすこと、殺すことのほかには、竜之助の天地は無いのだ。
 たとえば、現在はどうあろうとも、運命がこの二つに過ぎないことは、見え過ぎるほど見えている。愛着がしばしの戯れと思われて、彼は何人の捧ぐる好意にも、感謝というものを持つことができない。
 それでも、お雪ちゃんその人には、感謝はできないながら、悪意を持つことまではできないで、そうしておのずからその残虐なる遊戯性が、この子の前では、萌(きざ)して来ないことを不思議と言えるでしょう。
 いかなる女をも、最後は、必ず自分が手にかけて殺してしまう――こういう自覚せざるの自信に充ちている竜之助も、まだお雪ちゃんを殺そうとはしていないらしい。結局はそこへ行かねばならないことを怖れているのは、弁信法師ひとりで、お雪ちゃん自身も、一向それに気のついている様子はない。
 弁信に対しては、竜之助は、ほとんど無関心でいることのできる、これも一つの不思議な存在でありました。
 神尾主膳は、弁信の存在を、この世のなにものよりも憎み、嫌い、憤り、その名を聞いてさえも、渾身(こんしん)の憎悪に震え上り、ひとたびその声を聞き、その姿を見た時は、打ち殺し、打ちひしぎ、裂き砕いて、この世での存在はもとより、想像をさえも掻(か)き消したがるほどの関心を持っているのに、竜之助は、あのおしゃべり坊主に対しては、水の如き執着をしか持っておりません。
 甲州の月見寺で、むらむらと彼を斬りたくなり、その身代りに卒塔婆(そとば)を斬った途端に、その執着が水の如く、身内を流れ去って以来、彼の存在を、あまり気にしているということを知りません。
 そのほか、考えてみれば、自分は、自分に降りかかって来る者のほかには、不思議に執着を持たない身であることを感ぜずにはおられません。むらむらと自分の身に湧き出す、如何(いかん)ともすべからざる力に、ふと外物がひっかかった時が最後――そのほかには、自分は憎むべくして憎むべき人を知らない、殺すべくして殺すべき人を知らない。
 こんなことを、うつらうつらと考えている時に、外で声がしました、
「先生、喜んで下さい、久助さんがいましたよ、見つかりましたよ」
 さも嬉しそうな呼び声、焼跡へ出かけて行ったお雪ちゃんが帰って来たのです。
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