大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 子供たちは、なけなしの小遣(こづかい)で買った団子のすべてを提供して、悔いないような有様です。
「与八さん、この鯣(するめ)も食べてごらんよ、お団子ばかり食べないでさ……」
「いけねえやい、今度は、おいらのあげたてんぷらを食うんだぞ、てんぷらを――」
「静かにしろよ、与八さんの好きなのから先に食べさせるんだといってるじゃねえか」
「与八さん、モットお団子をお食べ。まだ三串あるよ……」
「与八さん、お団子を食べてしまったら、あたいのお強飯(こわ)を食べて頂戴な……」
 ふところから、破れてハミ出した赤飯の紙包を持ち出したのは、五ツ六ツになるお河童(かっぱ)さんの女の子であります。
「いけねえやい」
 十二三の悪太郎が、無惨(むざん)にも、そのお河童さんを一喝(いっかつ)して、
「いけねえよ……おめえのお強飯(こわ)は食べ残しなんだろう、自分の食べ残しを、人に食べさせるなんてことがあるかい、人にあげるには、ちゃんとお初穂(はつほ)をあげるもんだよ、お初穂を――食べ残しを与八さんに食べさせようなんたって、そうはいかねえ……」
 悪太郎から一喝を食って、無惨にもお河童さんは泣き出しそうになると、同じ年頃の善太郎が、それをかばって言うことには、
「いいんだよ、与八さんは、残り物でもなんでも悪い顔しないで食べるよ」
 そこで与八の顔を見上げて、
「ねえ、与八さん、残り物でもなんでもいいんだね、志だからね、与八さんに志を食べてもらうんだから、残り物でもなんでもかまわないよ、ねえ、与八さん」
 ませたことを言い出すと、悪太郎が引取って、
「こころざしって何だい、こころざしなんて食べられるかい、へへんだ、こころざしより団子の串ざしの方が、よっぽどうめえや、ねえ、与八さん」
 しかし、それからまもなく与八は、お初穂であろうとも、残り物であろうとも、かまわずに取って食べてしまったから、この議論はおのずから消滅して、皆々、一心になって、与八の口許(くちもと)をながめているばかりであります。そのうち誰かが、
「大(でけ)えからなあ!」
とつくづく驚嘆の声を放つと、一同が残らず共鳴してしまいました。
「大えからなあ!」
 実際、与八の身体(からだ)の巨大なる如く、その胃の腑(ふ)も無限大に大きいと見えて、あらゆる御馳走を片っぱしから摂取して捨てざる、その口許の大きさは、心なき児童たちをも驚嘆させずにはおかなかったものと見えます。
 その後、子供たちは遂に与八さんを、小舟に乗せて遊ぼうじゃないかと言い出しました。
「ああ、それがいいや、先に与八さんに石を積んで大勢して遊んだから、今度は与八さん一人を舟に乗せてやろう」
 忽(たちま)ちに気が揃って、与八ひとりが舟に乗せられ、素早く裸になった子供たちは、ざんぶざんぶと川へ飛び込んで、その舟を前から綱で引き、両舷(りょうげん)と後部から、エンヤエンヤと押し出して、多摩川の中流に浮べました。
 従来、与八は、馬鹿の標本として見られておりました。今日とてもその通り。ただ馬鹿は馬鹿だが、始末のいい馬鹿というにとどまるのが与八の身上であります。
 狡猾(こうかつ)なのは、この馬鹿の力を利用して、コキ使い、米の飯を食わせるといって、食わせないで済ますことが、子供の時分から多いのでありますが、与八は欺(あざむ)かれたとても、あんまり腹を立てないことは今日も変ることがありません。
 欺かるるものに罰なし。それをいいことにして、ばかにし、利用し、嘲弄(ちょうろう)している者が、暫くあって、なんだか変だと思いました。
 欺かるる者に平和があり、微笑があるのに、欺いた自分たちに幸いがない。与八を追抜いたつもりで、さて振返って見ると、後ろには与八がいないで、ずんと先に立っているのを見て、ハテナ、と首を傾けた者が一人や二人ではありませんでした。このごろでは、
「与八をだますと、ばちが当る」
 誰いうとなく、そんな評判が立つようになりました。
 というのは、与八をだまして利用した者の、最後のよかったものは一つもないからであります。
 与八が、ばかにされ通しで、ほとんど絶対におこらないのを見て、おこるだけの気力のないものと見込んだのが、おこる者よりも、おこらない者のむくいがかえっておそろしい、というように気を廻したものが現われるようになりました。
 だが、この男に、微塵(みじん)も復讐心(ふくしゅうしん)の存するということを信ずる者はありません。
 表面、愚を装うて、内心睚眦(がいさい)の怨(うら)みまでも記憶していて、時を待って、極めて温柔に、しかして深刻に、その恨みをむくゆるというような執念が、この男に、微塵も存しているということを想像だもするものはないのであります。
 馬鹿は馬鹿なりでまた強味があるものだ、と人が思いました。
 今でも、与八が馬に荷物をつけて通りかかるのを見て、
「与八さん、後生(ごしょう)だから、ちっとべえ手伝っておくんなさい、与八さんの力を借りなけりゃ、トテも動かせねえ」
といって、何か仕事をたのむことがあると、与八は二つ返事で承知をして、そのたのまれた仕事にかかるのですが、その時は、まず馬をつないで、それから馬につけた荷物を、いちいち取下ろして地上へ置いてから、はじめてたのまれた仕事にかかるのであります。そうして、たのまれた仕事を果すと、その荷物をいちいちまた馬に積みのせて、それから前途へ向って出かけるのであります。
 ある人が、そのおっくうな手数を見て、与八さん、ちょっとの間だから、馬に荷物をつけて置いておやりなすったらどうだい、いちいち積んだり、卸したり、大変な事じゃねえか……というと、与八は答えて、馬にも無駄骨を折らせねえように……と言います。そこが馬鹿の有難味だといって、みんなが笑いました。
 しかし、こういうような与八の無駄骨を見て、笑う者ばかりはありません。ある時、御岳道者が、この与八のおっくうな積みおろしを見て感心して、
「ちょうど、丸山教の御開山様のようだ」
と言いました。
 丸山教の御開山様というのは、武州橘樹郡(たちばなごおり)登戸(のぼりと)の農、清宮米吉のことであります。
 この平民宗教の開祖は、馬をひっぱって歩きながら、途中で御祓(おはら)いをたのまれると、これと同じように、いちいち荷物を積み卸しの二重の手間をいとわず、馬をいたわって、しかして後に御祓いにかかったものであります。
 この人は、また言う、
「おれは朝暗いうちから江戸へ馬をひいて通(かよ)ったが、ただの一ぺんでも馬に乗ったことはないよ」
 いやしくも、一教を開く者にはこの誠心(まごころ)がなければならない。与八のは、必ずしもその形だけを学んだものとは思われません。
 それから、また一つ不思議なことは、木を植えても、農作物を作っても、与八がすると、極めてよく育つことであります。
 同じように種をまいて、同じように世話をして、それで与八のが特別によく育って、よく実るのが不思議でありました。
 ある時、老農がこの話を聞いて、与八の仕事ぶりを、わざわざその畑まで見に来て、
「なるほど、まるで岡山の金光様(こんこうさま)みたようだ」
といいました。
 この老農は、どこで金光様の話を聞いて来たか知らないが、与八の仕事ぶりを見て、そこに共通する何物をか認めたと見え、
「作物をよく作る第一の秘伝は、作物を愛することだ」
とつぶやいて帰りました。
 それだけで老農は、与八のまいた種が、他と比較して特別によかったとも言わず、その地味が一段と立越えていたとも言わず、肥料が精選されていたとも言わずに帰りましたから、わざわざ連れて来た人が、あっけなく思いました。

 備前岡山の金光様は……と、それから右の老農が、附近の農夫たちを集めての話であります。
 これも日本に生れた平民宗教の一つ……金光教の開祖は、備州浅口郡三和村の人、川手文次郎であります。
 自分の子供を、先から先からと失って行った文次郎は、その愛を米麦に向って注ぎました。
 子を思う涙が、米や麦にしみて行きました。人を愛する心と、物を愛する心に変りはありません。子を育てるの愛を以て、米麦を育てるのですから、米麦もまた、その育てられる人に向って、親の恵みを以て報いないというわけにはゆきますまい。
 農夫と作物とは、収穫する人と、収穫せらるる物との関係ではなくして、育ての親と、育てられる子との関係でありました。
 ある年のこと、浮塵子(うんか)が多く出て、米がみんな食われてしまうといって、農民たちが騒ぎ出し、石油を田にまいて、その絶滅を企てたけれども、文次郎だけは石油をまかなかったそうです。それだのに収穫の時になって見ると、石油をまいた多くの田より、まかなかった文次郎の田の収穫が遥(はる)かに勝(まさ)っていたということです。
 また、ある年のこと、米を作るのに追われて、麦を乾かさないで納屋(なや)へしまい込んでしまったが、文次郎の麦には虫が入らなかったが、同じように麦をしまい込んだ他の百姓は、みんな虫に食われてしまったということであります。
 これはなんでもないことです。ただ作物を人として扱うのと、物として扱うだけの相違であります。石油を注ぐことの代りに、愛情を注ぐだけの相違であります。日に当てなくとも、温かい心を当てていただけの相違なのに過ぎません。
 そう言って、老農は、植林も農業も、地味、種苗、耕作は第二、第三で、作物をわが子として愛するの心、これよりほかによき林をつくり、よき作物をつくる方法はないものだということを、懇々と説明して帰りました。
 つまり、この老農は、農政学も、経済学も教えない第一義を、与八を例に取って説明をして帰りましたのです。

 徳川の中期以後、日本には多くの平民宗教が起りました。
 法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮といったように、法燈赫々(ほうとうかくかく)、旗鼓堂々(きこどうどう)たる大流でなく、草莽(そうもう)の間(かん)、田夫野人の中、或いはささやかなるいなかの神社の片隅などから生れて、誤解と、迫害との間に、驚くべき宗教の真生命をつかみ、またたくまに二百万三百万の信徒を作り、なお侮るべからざる勢いで根を張り、上下に浸漸(しんぜん)して行くものがあります。
 眇(びょう)たる田舎(いなか)の神主によってはじめられた、備前岡山の黒住教もその一つであります。
 たれも相手にする者のなかった、おみき婆さんの天理教もその一つであります。
 金光教の金光大陣も、丸山教の御開山も、ほとんど無学文盲の農夫でありました――与八のことは問題外ですが、万一、こんな行いがこうじて、与八宗がかつぎ上げられるようなことにでもなれば、それは与八の不幸であります。

         四

 根岸の、お行(ぎょう)の松(まつ)の、神尾主膳の新ばけもの屋敷も、このごろは景気づいてきました。
 それは、七兵衛が、例の鎧櫃(よろいびつ)に蓄(たくわ)えた古金銀の全部を、惜気もなく提供したところから来る景気で、これがあるゆえに、ばけもの屋敷に、一陽来復の春来れりとぞ思わるる。
 この黄金の光で、ばけもの屋敷がいとど色めいてきたのみならず、この光によって、いずくよりともなく、頼もしい旧友が集まって来たことも不思議ではありません。
 ある夕べ、主膳は、このたのもしい旧友の頭を五つばかり揃えて、悠然(ゆうぜん)としてうそぶきました、
「黄金多からざれば、交り深からず」
 七兵衛が苦心して――資本(もとで)いらずとはいえ、あれだけ集めるの苦心は、資本をかけて集めること以上かも知れません――集めた古金銀の年代別の標本も、神尾らにとっては標本としての興味ではなく、実用(実は乱用)としての有難味以上には何もないのですから、早くもその古金銀は、最も実用に適する種類のぜに金に換えられて、当分は、それを崩し使いというボロい目を見ることができます。
 しかし、そこにはまた相当の用心もあって、このまま両替しては、かえって世間の疑惑を引き易(やす)いと思わるるものは、そのままで筐底(きょうてい)深くしまって置いて、後日の楽しみに残すこととしました。
 これだけあれば当分は遊べる――無論その余徳がお絹に及ぶことはあたりまえで、余徳というよりは、むしろあの女がすべての管理を引受けたようなものですから、このごろはまた、それで屋敷にいつきません。久しくかわききっていたところへ、黄金の翼が生えたのですから、あの女はあの女で、またその黄金の翼に乗って、水を飲みに出かけ、夜も帰らないことがあります。
 主膳は、それをいい機会とでも思っているのか、例のたのもしい旧友を引入れて、「黄金多からざれば、交り深からず」とヤニさがっている。
 たのもしい旧友はまたたのもしい旧友で、持つべきものは友達だといって、神尾の友達甲斐ある器量をほめて、おのおのその余沢(よたく)に恐悦している。
 ただ不自由なのは一つ、この勢いで旧友すぐって、名ある盛り場へ、大びらに遊びに出かけられないことであります。
 どこへ行っても、もう主膳の顔はすたっている。よし顔はすたっても、金の光というものはすたらないのだから、そうおくめんをする必要もなかろうが、額のこの傷が承知しない――と酒宴半ばに主膳は、われとわが手で額を撫でてみました。
 けれども、また一方からいうと、今の主膳は、もう、それをさまでやきもきとはしていないようです。もう今までに、金で遊べるところでは大抵遊びつくしているし、金で自由になる女はたいてい自由にしているし、金に渇(かつ)えている時分にこそ、金があったらひとつ昔の壮遊を試みて、紅燈緑酒の間(かん)に思うさま耽溺(たんでき)してみよう、なんぞと謀叛気(むほんぎ)も起らないではなかったが、金が出来てみると、そんな慾望がかえって鎮静し、紅燈とやらにこの傷をさらし、緑酒というものにこの腸(はらわた)を腐らせるような遊びが、古くて、そうして甘いものだという気になって、額を撫でながら、ニヤリニヤリと笑いました。
 同時に、ここに集まったたのもしい旧友とても、同じような経験に生きている連中で、もう一通りの遊び方ではたんのうができないし、遊ばれる方でも、こういった悪ずれのお客様は、あんまりたんのうしたくないということになっている。
 主膳は自分で、乱に至らない程度の酒を加減しいしい飲みながら、一座に向って、自分の胸底にひめていた新しい計画を、ソロソロとうちあけて、連中の同意を求めにかかる。
 ことあれかしと期待しているこの連中が、主膳の秘策なるものに共鳴せずという限りはあるまい。
 秘策といっても、それは別のことではない、われわれ世間並みの女という女を相手にしつくした身にとって、この上の快楽として、大奥の女中を相手にして遊んでみようではないか、というだけのことであります。
 こういうたくらみは、今までしばしばこの連中の想像にも上り、口の端(は)にも上ったのですから、特に奇抜な思いつきでもなんでもないのですが、この際、本気になって実行にとりかかろうという事の密議が、一座の者の固唾(かたず)を呑ませるだけのものであります。
 後宮三千というのは支那の話。事実、千代田の大奥に、ただいまどのくらいの女中がいるか知らないが、それらはみな、女護(にょご)の島(しま)の別世界をなして、幸いを望んでいる。
 密議半ばで、一座のいなせなのが、あんどんに向って、独吟をはじめました。
一肌一容(いつきいちよう)、態ヲ尽シ妍(けん)ヲ極メ、慢(ゆる)ク立チ遠ク視テ幸ヒヲ望ム。見(まみ)ユルコトヲ得ザルモノ三十六年……
 そこで一座は笑いながら、三十六年も大げさだが、これら女護の島の女人たちの多くが、性の悩みに堪(こら)えきれないでいることだけは明らかな事実で、その関を突破さえすれば、洪水のように流れ出して来るのだという。
 あるものはまた言う、
 大奥という池には、満々たる油が張りきっているのだ。こちらが行って堤をきれば、それは無論、一たまりもなく溢(あふ)れ出して来るのだが、そうするまでもなく、どうかすると、あちらから堪えきれずして堤を破って動いて来る。江島(えじま)生島(いくしま)の事になったり、延命院の騒ぎが持上ったり、或いは長持に入れて小姓を運んだり、医者坊主が誘惑されたりするのは、ホンの小さな穴をあけて表に現われただけの落ちこぼれで、張りきった油は、その中にどろどろとして、人の来って食指を動かすのを待っている。
 その時分、夜も大分ふけて、屋敷の外でしきりに犬がほえだしたものですから、一同が、申し合わせたようにピタリと密議をやめて、
「イヤに犬がほえるじゃないか」
 何かしらの不安におびえる心持。それを神尾主膳も暫く耳をすましていたが、
「心配することはない、使の者が戻ったのだろう」
という。
「使の者とは……」
 神尾のとりすました言葉に、不審をいだく者がある。
 今時分、何のために、どこへ使を出したのか、解(げ)せないことである。
「江戸城の、大奥の間取りを見て来るといって出かけたはずだが、多分、それが戻って来たのだろう」
「冗談(じょうだん)じゃない」
 一座は呆(あき)れ返りました。神尾が抜からぬ顔でいうものだから、冗談とも思われないので、また呆れました。
 そんなら計画はそこまで進んでいたのか。これは今夕のやや程度の進み過ぎた座談とばかり思うていたのに、早や細作(さいさく)を、千代田の城の大奥まで入れてあるらしい神尾の口吻(くちぶり)には、真偽未了ながら、その進行の存外深刻なのに恐怖を抱く程度で、呆れたものもあります。
「冗談じゃない……」向う横町の貸家の、敷金と家賃をたしかめに行くのとは違い、いやしくも江戸城の大奥の間取りを、ちょっと見て、ちょっと帰って来る、というようなことが出来得べきことではない。そんなことは、われわれが駄目を押すまでもなく、神尾自身が先刻心得ていなければならないはずのこと。
「そりゃいったい、何のおまじないだ」
 犬は外でどうやら吠(ほ)えやんだ様子。犬は静まったが気のせいか、周囲の竹藪(たけやぶ)が、しきりにザワザワとざわついているらしいのが一層気になる。
「ハハハハ……」
と神尾は、わざとらしく高笑いして、このところへ、今その当人の現われ出づるのを待つもののようです。
 だがしかし、主膳の言うことは嘘ではありませんでしたが、見当違いでありました。
 その使の者というのは、戻って来たのではなく、これから出て行くところであります。
 出て行く時に、尋常に門をくぐらないで、門の中に生えた竹によじのぼり、その竹のしない具合を利用して、ポンと塀の外へ下り立ってしまったものだから、おりから通りがかりの野良犬を驚かしたものと見えます。
 この男は地へ下り立つと、パッパと合羽(かっぱ)の塵を払い、垣根越しに屋敷の奥の方の燈(ともし)の光をすかし、それから笠を揺り直し、草鞋(わらじ)の紐(ひも)をちょっといじってみて、
「二足のわらじははけねえ……色は色、慾は慾」
とつぶやいてみたが、
「両天秤(りょうてんびん)にかかると、命があぶねえぞ……」
とその足を二三度踏み慣らしてみて、それからかきけすように姿をかくしたのは、裏宿(うらじゅく)の七兵衛であります。
 七兵衛が姿をかき消したかと思う時分に、今ちょっと静まった犬が、またほえ出しました。一つがほえると、次から次へ、根岸の里の犬が総ぼえの体(てい)になって、寝ていた人をさえ驚かしてしまいました。
 いったん、姿をかくした七兵衛が、また御行(おぎょう)の松の下に姿を現わしたのはその時で、
「いけねえ……こう犬にほえられちゃあいけねえ」
と息をついて立った有様は、海へ泳ぎ出して、いくばくもなく鱶(ふか)にであって、あわてて岸へ泳ぎ戻ったような有様で、七兵衛としては、かなりに不手際といわねばならぬ。
 七兵衛は、夜歩きしても犬にほえられないような秘訣を知り、またほえられても、その瞬間に、それを手なずける秘訣を知っているのでありますが、今晩は思いがけないドジを踏んで、ちょっと手のつけられない程度に犬をコジらかしてしまったものだから、ぜひなくここまで舞戻ったものと見えます。
 もし、これを舞戻らないで強行しようものならば、わざわざ網にひっかかりに行くようなものですから、七兵衛としては、ここまで舞戻り、再び犬の鎮静するのを待って、繰り出すより賢い道はないと見える。
 七兵衛は今、その最も賢い方法を取って、御行の松の下に、ぴったりと身をひそめているが、多少イマイマしいと癪(しゃく)にさわることがないでもない。
 こういう種類の人間には、幸先(さいさき)や、辻占(つじうら)というようなものを、存外細かく神経にかけることがあるもので、七兵衛はそれほどではないが、全く無頓着というわけでもありません。
 この屋敷へ、夜毎出入りすること幾度。それは正当に出て、正当に戻ったことは少ないにかかわらず、まだ今夜のように犬に吠(ほ)え出されたことがないのに、しかも今夜ほど大望をいだいて、この屋敷を出かけたことはない。
 どうやら、仕事先が気にかかる。
「いけねえ、いけねえ……」
 そこで、七兵衛が、何となく気を腐らせてしまいました。
 七兵衛の心に、悔恨といったようなものが湧くのは、今にはじまったことではない。
 七兵衛は、今度の仕事を終ったら、これで切上げ……と決心のような事をするのも、今にはじまったことではない。その心持につき纏(まと)われ、その心持で仕事にかかりながら、それをやり上げてしまうと、また新しい病が出ることを、自分ながら如何(いかん)ともし難い。
 しかし、今度こそは一世一代……これで年貢(ねんぐ)を納めるか、引退して余生を楽しみ得るか、という千番に一番。
 つまり、その大望というのは以前にいった通り、豊臣太閤伝来、徳川非常の軍用金、長さ一尺一寸、厚さ七寸、幅九寸八分、目方四十一貫ありと伝えられる、竹流し分銅(ふんどう)の黄金が、いま現に存在するか否かを確めた上、その一箇を手に入れてみたいということ。
 神尾主膳のいわゆる大奥の間取り調べという事の如きは、頼まれたとすれば、七兵衛にとっては、片手間でありましょう。
 暫くして、犬の吠え声が全くやみました。

         五

 それから、丑三(うしみつ)の頃、大胆至極にも、江戸城の一の御門の塀(へい)を乗越して潜入した、一つの黒い影があります。
 この時の七兵衛は、根岸の化物屋敷を出た時のいでたちとは全く違い、笠も、合羽(かっぱ)も、いずれへか捨ててしまって、目に立たない色の手拭で頬かむりをして、紺看板のようなのに、三尺帯をキリリと結んで尻端折(しりはしょ)り、紺の股引(ももひき)と、脚絆(きゃはん)で、すっかりと足をかため、さしこの足袋をはき、脇差は背中の方へ廻して、その長い下緒(さげお)を、口にくわえていました。
 それですから、例の菅笠(すげがさ)に合羽、という在来のいでたちとは全く趣を異にするのみならず、今までの七兵衛として、仕事ぶりにおいて、こうまでキリリと用心してかかったことはないようです。つまり一世一代の了簡(りょうけん)が、そのいでたちにまで現われて、今度の仕事は冗談じゃない、という気にもなったのでしょう。
 ところで、難なく一の御門の塀を乗越えて、その塀の下をズッと走るとお薬園(やくえん)であります。お薬園の築山の下へ来て、七兵衛の姿が見えなくなりました。
 見えなくなったのではない、動かなくなったのであります。鼠のように走って来た七兵衛が、とある木かげへ来て、ピッタリ吸いついてしまいました。
 これまで決行するからには、もうあらかじめ城内の案内は、手に取るように頭に入れておいたに相違ない。あらかじめ神尾主膳あたりの手から、江戸城内の秘密図といったようなものを手に入れておいて、要所要所は、悉(ことごと)く暗記しての上からでなければ、こんな仕事にかかれようはずはない。
 そこで、お薬園の木蔭にぴったり吸いついた七兵衛は、まず、ちょっと左へ寄ったうしろ、それが二の御門で、その裏が吹上の御庭構え。この門に、番人の気配のないことを見定めて後顧の憂いを絶ち、それから左前面に、こんもりとした紅葉山(もみじやま)をまともに見てから、その眼を右へ引いて行って、これが西丸……その西丸と、紅葉山との間を、七兵衛は暗いところから睨めているらしい。
『御宝蔵』はちょうど、その西丸と、紅葉山との間のところにある。
 それと相対(あいたい)した前面が御本丸。ここまで来て見ると、天地の静かなことが案外で、征夷大将軍の城内をおかしたとは思われない。田舎(いなか)の広い鎮守(ちんじゅ)の森にでもわけ入ったような心持で、番人などはいないのか知らと思われる。いても急に出合うような弾力性のではなく、お役御免に近い老朽が、どこぞに居眠りでもしているのだろうとしか思われない。
 しかし、何といっても征夷大将軍の本城である、その鷹揚(おうよう)なのに慢心してはならないと、七兵衛も、七兵衛だけの用心をして、容易にそのお薬園の茂みを立ち出でようとはしないらしい。それと一つは、まだ今晩のは瀬踏みに過ぎない。あわよくば進めるところまで進んで、本丸を突き抜いて、坂下御門を出て帰ろうとのもくろみまで立てているが、急いでそうせねばならぬ必要もないと考えている。
 とにかく、七兵衛が城内の用心の存外手薄いことと、空気に弾力の乏しいことを充分に感知しながら、軽々しくこの地点を動き出さないのは、一つは功を急がないという腹が出来ているのと、もう一つは、ある時間の程度にはキッと見廻りの役人が通過するに相違ないから、それの来(きた)るのをここに待って、やり過ごしておいて、そうしてゆっくり進退をきめようとの了簡(りょうけん)と見える。
 忍びの上手は、立木の間にかくれると、立木そのものになる。立木そのもののようになり得た七兵衛は、少しも城内の夜の気分と、自分というものの心を乱すということなく待っているが、果していくばくもなく、人の気配がうしろの方から起りました。
「来たな」
と七兵衛は心得たけれど、動揺はしない。動揺というのは身体(からだ)を動かすことだけではない、心を動かせば、空気は動くものであります。
 しかし、これは変だぞ……と七兵衛があやしみました。
 見廻りのお役人ではない。それは自分がしたのと同じように、吹上のお庭から、このお薬園の方へ、塀を乗越している者がある。
 以ての外と七兵衛が、暗いところでその眼をみはりました。
 生憎(あいにく)のことか、幸いか、七兵衛の眼は、暗中で物を見得るように慣らされていますから、今しも塀を乗越えて来る曲者(くせもの)。それは自分以上か、以下か知らないが、とにかく、このお城の中へ潜入した曲者を、別に眼の前に見ていることは確かです。
 そこで、さすがの七兵衛も固唾(かたず)を呑んで、その心憎い同業者(?)の手並を見てやろうという気になりました。
 見ているうちに、七兵衛はほほえみました。これはおれより手際(てぎわ)が少しまずい、まあ素人(しろうと)に近い部類だわい――と思いました。
 だが、人数は自分より多く、いでたちもおれよりは本格だわい、と思いました。
 たしかにその通り、今しも、吹上の庭から塀を乗越えたのは、都合四人づれだということが明らかにわかり、その四人づれが、とにかく、本格らしい甲賀流の忍びの者のよそおいをしていることによって、やはり尋常一様の盗賊ではあるまいと鑑定される。
 さりながら、その忍入りの技術は、甚(はなは)だ幼稚なものだ――と七兵衛は、それを憐(あわ)れむような気にもなりました。ナゼならば、彼等はいずれも一生懸命で、鳴りをしずめ、息をこらして、忍び込んでいるつもりではあるが、そのあたりの空気を動揺させること夥(おびただ)しい。
 番人がなまけているからいいようなものの、気の利(き)いた奴に見つかった日にはたまらない。ああして下りて来るところを待構えていれば、子供でもあの四人をうって取れる……素人(しろうと)だな。気の毒なものだな。
 しかし、素人にしては、あのいでたちの本格。忍びの者として寸分すきのない、たしかにすおう染の手拭で顔をつつみ、ぴったりと身につく着込(きこみ)を着て、筒袖、長い下げ緒の短い刀、丸ぐけの輪帯、半股引、わらじ。
 こういったようないでたちは、かいなでの町泥棒にはやれない。
 そこで七兵衛は、引続いて判断を加えてしまいました。
 これは物とりに江戸城へ入り込んだのではない。他に重大なる目的あって来たのだ。四人とも、いずれも武士階級に属するもので、潜入者としては素人だが、忍びの術において、相当の知識と経験とを教えられ、その一夜学問で、この冒険を決行したものに相違ない。
 事は面白くなった。七兵衛はそこで、玄人(くろうと)が、素人(しろうと)のする事を見て感ずる一種の優越感から、軽いおごりの心を以て、この新来の同業者――同業者でないまでも、同行者の仕事を、試験してやろうという気になりました。
 玄人から見れば、極めて無器用な潜入ぶり。しかし素人としては大成功に塀を乗越した四人づれは、七兵衛のあることを知らず、やはり取敢(とりあ)えずの息つぎとして、このお薬園をえらんで、七兵衛のツイ眼と鼻の先へ来て、かがんで額をあつめたから、七兵衛も苦笑をしないわけにはゆきません。
「まずうまくいったな!」
「これからが大事(おおごと)だ。真暗(まっくら)でかいもくわからん、いったい、紅葉山はドレで、西丸はどっちの方だ?」
「左様」
 彼等は、最低に声をひそめてささやき合ったつもりだろうが、こんなことでは、やはり物にならない。おれの耳には、十町先でこの声が聞える――と、七兵衛はまた、その時にもそう思いました。
「ちえッ――西も東も闇だ」
 一人が懐中をさぐったのは、この場に至って、絵図面でも取り出すものらしい。まだるい話だ。七兵衛が呆(あき)れる途端を、あっ! と驚かしたのは、他の一人が、この場でパッと火をすったからです。素人(しろうと)ほどこわいものはない――七兵衛が呆れ返って、舌をまきました。
 この場に至って、絵図面を取り出して見ようという緩慢さはまだしも、パッと無遠慮に火をすって、その火で絵図面を調べてかかろうとする度胸のほどが、怖ろしい。
「おやおや、燧(ひうち)じゃねえんだな、この人たちは摺付木(すりつけぎ)を持っているぜ」
と驚きながら、七兵衛があやしみました。
 甲賀流の寸分すきのないいでたちの忍びの者にしては、さりとはハイカラ過ぎる。今時ハヤリはじめの西洋摺付木を、この人たちは持っている――自分も三本ばかり人からもらったことがあるが、あれは便利なもので、木でも、石でも、壁でも、すりつけさえすれば火がつく。その摺付木を、かなり豊富に持っている様子を見ると、益々(ますます)これはただ者ではない――と七兵衛は、その辺にも注意が向きました。
 ところが、この四人は、その摺付木で取った火をろうそくへうつすと、そこで、悠々と絵図面をひろげて、ささやき合っているのはいいが、なかの一人は、その火で煙草をのみはじめたから、
「あ、物になっちゃあいねえ……」
 七兵衛は、反(そ)りかえってしまいました。その道の者からいえば、この忍びの連中のやることは無茶だ。本当の忍びは、呼吸そのものさえ絶滅してしまわねばならぬ。煙草を吸った日には、三里先にいる動物だって逃げるではないか。
 果して、一行のうちにも、多少は思慮の深いのがあって、
「君、煙草をのむことは、よした方がよかろうぜ」
と注意を与えると、
「そうか」
といって、素直にそれを揉(も)み消して、それからは極めてひっそりと、一本のろうそくに額(ひたい)をあつめて、絵図面の研究をつづけているうちに、その中の一人が、また制禁を忘れて、
「失脚落チ来(きた)ル江戸ノ城、井底(せいてい)ノ痴蛙(ちあ)ハ憂慮ニ過ギ、天辺ノ大月高明ヲ欠ク……」
と、はなうたもどきにうなり出したものですから、その時に七兵衛が、
「ははあ、わかった、今時、薩摩屋敷の中で、こんな声がよく聞える、なるほどあの連中のやりそうなことだ」
と感心しました。
 そうか、そんならばひとつ、こっちもいたずらをしてやれ、という気になりました。幸い、額をあつめて、絵図面の研究にわれを忘れているのがいい機会だ。
 そこで七兵衛は、彼等のうしろへ手を延ばして行って、まず、かぎ縄をそっと奪い取り、次にめいめいの革袋を、そっと引きずって来て、動静いかにとながめている。
 絵図面の上に一応の思案を凝(こ)らした一行は、いざとばかりに、ろうそくの火をふき消して立ち上ったのは、いよいよ早まり過ぎたことで、四方を暗くして後に、かぎ縄がない、燧袋(ひうちぶくろ)がない、あああの中に大切の摺付木(マッチ)を入れて置いたのだが――とあわて出したのは後の祭りであります。暗中で彼等はしきりに地上を撫で廻してダンマリの形をつづけたが、結局、ないものはない。
 さすがの大胆者どもも、顔の色をかえたことは、その語調の変ったことでわかっている。そのささやき具合の狼狽(ろうばい)さ加減でわかっている。かぎ縄は、まんいち途中で落したかの懸念もないではないが、摺付木に至っては、現在このところで、ろうそくに火をつけ、あまつさえ、その火を煙草にうつしてのんだではないか――申しわけにも、途中で落したとはいえない。ろうそくは空しく手に残るが、それに点ずべき手段がない。
「何たるブザマなことだい、これじゃあ、一足も動けない」
「帰るに如(し)かず……」
「帰りもあぶないものだ」
 彼等は、暗い中で途方にくれているらしい。
 こうなっては、杖(つえ)を奪われためくら同様で、引返すよりほかはあるまいが、その引返しでさえ、うまく行くかどうか。
 しかし、それは案ずるほどの事はなかったと見えて、この四人の一行は、それから間もなく、無事に江戸城外へ抜け出してしまって、八官町の大輪田という鰻屋(うなぎや)へ来ていっぱいやっているところを見ると、七兵衛が推察通り、薩摩屋敷の注意人物に相違ない。
 この時は、無論、忍びの装束なぞはどこへかかなぐり捨てて、いずれも素面で、いっぱいやっているところは、何のことはない、丸橋忠弥を四人並べたようなものです。
「ほかのものはとにかく、摺付木(マッチ)をなくしたのが惜しい」
と忠弥組の一人、落合直亮(なおすけ)がいう。
 その当時、長崎から渡って来たばかりのマッチは貴い。
「品物を手に入れて置いて、ろうそくを消せばよかった」
 忠弥組の第二、関太郎が残念がる。
 とにかく、手に入れたもの同様にかたわらへ置いたのが、あの際、見つからなくなったのは不思議だ――と、どこまでも解(げ)せない顔だが、この連中は深く頓着はしないらしい。
 ただ、あれが幕吏の手に見つかった時は大騒ぎになるだろう。いまごろは血眼(ちまなこ)になっているかも知れない。かぎ縄や、石筆や、マッチの類は、由々しき犯罪の証拠品となるだろうが、あの炭団(たどん)ばかりは、何のためだか見当がつくまい、と笑う者がある。
 けだし、この連中は、かねての目的通り、江戸の城中へ火をつけに行ったものに相違ない。そうして今夜の瀬踏みが見事にしくじったので、やけ酒を飲んで気焔を揚げているとも見られるし、また、ある程度まで成功した祝杯を揚げているようにも見られる。
 ともかく、これだけに味を占めた上は、早速また、第二回目の実行にとりかかるに違いない。
 彼等は、何の恨みあって、こんなことをするのか。なんらの恨みがあってするわけではない、人にたのまれてするのである。人とは誰。それは西郷隆盛に――
 西郷隆盛は、益満(ますみつ)休之助、伊牟田(いむだ)尚平らをして、芝三田の四国町の薩摩屋敷に、志士或いは無頼の徒を集めて、江戸及び関東方面を乱暴させ、幕府を怒らせて、事を起すの名を得ようとしていることは、前にしばしば記した通りである。
 この、成功か失敗かわからない乾杯があって後、この一座の、鰻(うなぎ)を食いながらの会話は、忍術の修行の容易ならざることに及ぶ。
 一夜づくりの修行では、やりそこなうのは当然だ、といって笑う。
 いったい、盗賊というやつは、先天的に忍術を心得ているのだろう、という者がある。
 いや、忍びに妙を得ているから、盗賊がやってみたくなるのだろう、という者もある。
 盗賊としての条件は、第一、忍ぶことに妙を得て、第二、逃げることに妙を得なければならぬ、身の軽いと共に、足が早くなければならぬ、という者がある。
 僕の方に、一日のうちに、日光まで三十余里を行って戻る奴がある、と落合直亮がいう。
 いや一橋中納言の家中には、駿府(すんぷ)から江戸へ来て、吉原で遊び、その足で駿府に帰る奴がある、という者がある。
 信州の戸隠山から、一本歯の足駄で、平気で江戸まで休まずにやって来る者がある、という。
 そんな雑談から、ついに石川五右衛門論にうつる。
 五右衛門は、果して忍術の達者であったろうか、という説。
 五右衛門を、盗賊として見るべきか、刺客(せきかく)として見るべきか、の論。
 盗賊でも、刺客でもない、彼は一種の英雄として見るべし、という讃。
 左様な議論で火花を散らして、さんざんに飲み且つ食い、この四人は八官町の大輪田を辞し、大手を振って、例の四国町の薩摩屋敷に入ったのは、夜の白々(しらじら)と明けそめた時分でありました。

         六

 同じ日の同じ時刻。七兵衛は、やはり三田四国町の、薩摩屋敷に近い越後屋というのにはいり込み、わらじを取ったままで食卓の前に、どっかりとすわり込みました。
 この時の七兵衛も無論、もと通りの七兵衛になって、なにくわぬ旅の百姓でありましたが、この広い座敷には、七兵衛ひとりです。
 ここは、薩摩屋敷の豪傑がよく出入りするところ。料理屋にして、また酒保を兼ねているところ。百人以上も会合ができるようになっている、その座敷のまんなかに七兵衛ひとり。
 日中には眼の廻るほど忙しい店。こう早い時にはガラン堂のようなものです。そこで七兵衛も誰憚(はばか)らず、とぐろを巻いているところを見れば、もう相当にこの店とは熟していて、木戸御免に振舞うだけの特権があるもののように見える。やがて七兵衛は、ズルズルと革の袋を一つひっぱり出して、その中へ手を差入れて、まず取り出したのがきせると、煙草入。
 それを目の子勘定のように食卓の上に置き並べ、次に取り出したのが新しい摺付木(マッチ)であります。
「ああ、摺付木、これだ、これだ」
とほくそ笑みして、その箱を押して、一本のマッチを摘(つま)み出し、食卓の上の金具に当ててシューッとすると、パッと火が出たからまぶしがり、あわててそれを煙管(きせる)にうつそうとしたが、あいにくまだ煙管には煙草が詰めてなかったものだから、大急ぎでその摺付木を火鉢の灰の中へ立て、あわただしく煙管へ煙草をつめて、その燃え残りの火にあてがい、大急ぎで一ぷくを試みて、その煙を輪に吹いて、大納まりに納まりました。
「重宝(ちょうほう)なもんだて。どうしてまた毛唐(けとう)は、こんなことにかけては、こうも器用なんだろう。これを使っちゃ、燧石(ひうちいし)なんぞはお荷物でたまらねえ」
 七兵衛は、今更のように、マッチの便利重宝を、讃美渇仰せずにはいられない。
 それから、煙草の吸殻をポンと手のひらに受けて二ふく目を吸い――三ぷく、四ふく、その煙をながめては、ヤニさがっていたが、暫くあって煙草をやめ、また思い出したように、以前の革袋へ手を入れて、
「何だろう、このゴロゴロした丸いやつは?」
 首をひねりながら引き出して見ると、それは紙に包んだ炭団(たどん)でありましたから、七兵衛が、コレハ、コレハとあきれました。
 炭団が出て来やがった、何のおまじないだろう――合点(がてん)がゆかない心持で、その炭団をまた一つ一つ食卓の上に置き並べ、それをながめて、ははあ、やっぱりこれは火つけだな、と思いました。
 江戸城へ火をつけるつもりで、あの連中は忍び込んだのだな――なるほど、かんなくずかなにかに炭団(たどん)を包んで、火をつけて置けば、念入りに燃え出す。爆裂玉(ばくれつだま)のように、急にハネ出すこともなし、油のように、メラメラと薄っぺらな舌も出さず、くすぶり返って気永に焼くには、炭団に限ると思いました。
 七兵衛がこうして納まり返っているけれども、この広い座敷へは、無論、夜明け早々からの客のつめて来るはずもなし、そうかといって、主人なり、雇人なりがいるならば、とがめないまでも、何とか言葉をかけそうなものを、そんな気配は更になく、ひっそり閑(かん)としたものですから、七兵衝は炭団を肴(さかな)に、また煙草をのみはじめ、座敷の中を見るとはなしに見まわしているうち、なんとなく無常の感というものにでも打たれたように、大きな溜息(ためいき)をついて、壁の一隅につるしてある薩摩屋敷の轡(くつわ)の紋のついた提灯(ちょうちん)を見て、じっと物を考え込んでしまいました。
「つまらねえな」
 七兵衛が思わず口走った時分に、平常(ふだん)ならばお銚子の一つもかえて、まぎらかそうというものだが、この時はそれができないで、
「つまらねえなあ、ほんとに……」
 七兵衛は煙管(きせる)を取落して、炭団をつくづくとながめました。
 七兵衛は今、急につまらなく、情けなくなって、あぶなく涙をこぼそうとしました。
 昨夜、七兵衛はあれから、江戸城内のどこまで忍び込んで、どこを出て来たかわからないが、夜が明けて見ると、なんとなくうちしおれていたのが、今になって一層目につきます。
 彼は、たしかに江戸城内を抜け出してきての今、
「浅ましいことだ」
という感慨が、ひしと胸にこたえているものらしい。
 何が浅ましい。自分のしたことが浅ましいのか、周囲の見るもの、聞くものが浅ましかったのか。七兵衛の胸に折々、里心(さとごころ)が首を持上げるのは、今にはじまったことではないが、この時は、特に何かの感じが激しくこみ上げて来たと見えて、ほとんど涙を落さぬばかりに浅ましい色を見せましたが、気をかえようとして取り上げたのが、杯(さかずき)ではなくて、火の消えた煙管でしたから、それが一層、七兵衛をめいらせるような気持にして、
「よくばちが当らねえものだなあ」
とつぶやいて、煙管を投げ出しました。
 七兵衛は常々そう思っている。何でも人の尊敬すべきものは尊敬しなくちゃならない。神仏が有難いといえば、有難がるのが凡人の冥利(みょうり)だ。長上をうやまえといえば、無条件にうやまうのが人間の奥ゆかしさだ。理窟も、学問も、いった事じゃない。尊敬と、服従の、美徳がうせては、人間の社会が成立たないじゃないか。
 それに、どうだ、おれに向って、大奥の間取りを見て来てくれとたのむ奴がある。たのまれるおれという奴も、またおれという奴、来て見れば、またそれにいっそう輪をかけた奴があって、城ぐるみ焼いてしまおうという。
 浅ましい世の中だ。お上(かみ)に対する人間の尊敬心というものが、地を払ってしまったのは、お上に威厳がないのか、人間がつけ上ってしまったのか。さてこの上の世の中が、どうなるだろう。七兵衛も今はそれを考えて、空恐ろしくなったもののようです。
 その持って生れたような盗癖を別にしては、七兵衛は、むしろ律義(りちぎ)な男です。
 昨晩、江戸城内を抜け出して来た七兵衛の頭では、公方様(くぼうさま)は決して悪(にく)むべきお方ではなく、むしろかわいそうなお方である。その悪むべからざる公方様を目のかたきにして、これを陥れようとたくらむ奴等の気が知れない。
 よく人の話では、薩摩に西郷という男があって、それが手下の者をけしかけ、この四国町の薩摩屋敷に、ならず者を集めて乱暴をさせ、そうして公方様を怒らせて、日本を乱そうとするたくらみだと――その西郷という男は、公方様に何の恨みがあって、そういうことをするのだろう。天下というものを取るには、そういうことをしなけりゃならねえのか。
 そういうことをして、かりに天下というものを取ってみたところで、それがどうなる、それにはそれだけのたたりというものがあるぜ――西郷という男も、末始終はいい死にようはしねえだろう……といったようなことを、七兵衛が考え出しました。ははあ、ひとごとじゃねえ、おれももう盗人(ぬすっと)はやめだ。
 そう忌気(いやけ)がさしてみて、さて、盗人をやめて、これからどうなる――ということを考えると、七兵衛が、どうでものがれられない縄にからみつけられているように思う。おれが盗人をやめて、穏かな百姓で終りたいという念願は、今にはじまったことではないのだが、それがそうならないで、そう考えるごとに悪い方へのみ深入りしてしまうのは、いったいどういうわけだろう。自分が意気地無しだから、とばかりは言えないではないか。
 それと同じように、天下を取るというような連中も、人殺しをするような連中も、自分で好(す)いて好(この)んでやるわけではない、どうでもそう行かなければならないように糸であやつられている。思えば人間というものは、ハカないものだ……
 七兵衛は今まで、こんなに浅ましさを感じたということはありません。
 天下の御宝蔵をうかがおうとも、九尺二間の裏店(うらだな)を荒そうとも、物を盗む、ということの悪いには変りはないはず。
 良心の責めというものの悶(もだ)えならば、時も遅いし、その意味をも成さないわけでありますが、七兵衛のした仕事そのものよりは、何かにつけて、もっと大きな浅ましさを感じてしまいました。
 もしまた七兵衛にして、徳川十四代の当城のあるじ家茂(いえもち)公の不幸なる生涯の物語をつぶさに聞いていたならば、この男は、ほんとうに涙を流して、自分のした仕事のいかに罰当(ばちあた)りな、身の程知らぬ振舞であったかということに気がついて、西に向って、身を投げ出しておわびをし、血の涙をこぼして懺悔をしたか知れませぬ。
「なんだかツマらねえ、こういう時には、一ぺえやりてえのだが……」
 しかしながら、その近所には、火の消えた火鉢と、不可思議の目的に供せられた火のつかない炭団(たどん)があるばかりです。
 そこで、所在なさに七兵衛は、くわえ煙管(ぎせる)で、ツラツラ室の中を見廻し、壁にはってあった一枚の美人絵を見出すと、それを念入りにながめた後、
「この御殿女中じゃあ……これじゃあ、コツの三百女郎としか踏めねえ」
 ニヤリと、皮肉に笑いました。
 その絵は、供をつれた奥女中の一枚絵で、あんまり上等の浮世絵とはいえない。英山、英泉あたりの末流の筆に成って、彩色だけは人目をひくように出来ている。
 けれども、このことから七兵衛は、江戸城の大奥の間取りを見て来てくれ、なんぞとたのまれたことを思い出したものですから、わざと、そのつまらない浮世絵が、当座の興味を惹(ひ)いたと覚しく、コツの三百女郎にしか踏めないという奥女中の浮世絵も、腹も立たないで見ていました。
 七兵衛は、美術眼があるわけでもなんでもないが、奥女中は奥女中らしい気品とうま味が出ないものかなあと、淡い不満をいだいてこの絵を見ているだけのもので、頭の中に往来するのは、やはり昨晩、あれからこれまでの、自分のした仕事の吟味と、咀嚼(そしゃく)とであります。
 だが、やはり、七兵衛の眼は、その奥女中の一枚絵に向ったきりでありますから、よそから見れば、相当のたんのうなる鑑識家が、批評的にこの絵を吟味しているとしか見えないのであります――
 おれはいったい、美人と、美人画では、誰のがいちばん好きなんだろう。上代のことはいわず、比較的近代について見ると、狩野家(かのうけ)にはもとより、円山、四条にもすぐれた美人かきはいないようだ。何といっても、美人画は浮世絵の畑だろう。もっとも美人というものの標準も、ちょっと問題ではあるが、人好きのする美人は、まず浮世絵と限ったものだろう……ところで、その浮世絵の美人も品々だが、いずれあやめという時は……左様、まずまあ鳥居派で清長、それから北川派では歌麿。
 清長にはしっかりしたところがある。歌麿は少しだらしないがたまらない。清長を本妻に、歌麿をお妾(めかけ)としたら申し分はなかろう。
 細田栄之(えいし)――あれはさすがに出がお旗本の歴々だけあって、女郎をかかしてもなんでも、ずっと気品があるが、そうかといって、大所帯向(おおしょたいむ)きのおかみさんにするには痛痛し過ぎる――といってまた、並大抵のものが妾にしては位負けがする……そんなら勝川派はどうだね、何といっても春章はたしかなものだ。清長より少しやさし味があって、歌麿ほどにだらけてはいない。栄之のように上品向きでもないから、まず、相当の大家の御内儀として申し分はない方だけれども、いずれにしても、この辺を女房にするには、ケチな身上(しんしょう)ではやりきれない……そんなら実用向きというところで北斎はどうです、北斎の女は……
 無論、七兵衛はまだ壁の一枚絵を一心にながめてはいるが、上に述べたる如き批評眼があるわけでもなんでもないが、あまり一途(いちず)に、絵にばかり眼をつけているものですから、よそで見ると、どうしても、その絵の吟味、批評に取りかかっているとしか見えないのも無理がありません。
 ところで北斎は……北斎の美人はどうだ。あの男は、御存じの通り剛健な、達者なかき手だが、美人をかかせると艶麗なものをかくから不思議なものさ。芸者なぞをかかしても、なかなかいい芸者をかくし、筆つきに癖はあるが、女にイヤ味はないよ、頂戴してもいっこう不足はない……
 しかし、世話女房としては、何といっても豊広だね……。豊広――歌川派の老手で、広重の師匠だといった方が、今では通りがよいかも知れぬ。広重の美人画は問題にはならないが、豊広の女には素敵な味がある。おっとりした世話女房としての味では、この人に及ぶ者はない。これはまた、清長や春章とちがって、大どころでなければ納まって行けないという女房と違い、ずいぶん世話場も見せながら、亭主にはつらい色も見せず、和(やわ)らかになぐさめて、しっくりと可愛がってゆく、という女房ぶりだ……豊国は役者の女房にしかなれず、国芳はがえんのおかみさん、国貞は団扇絵(うちわえ)。
 明治になって……まさか七兵衛が、明治以後の浮世絵の予言までもすまいけれど、やはり、あんまり念入りに一枚絵を見ているものですから、浮世絵の現在を論じて、その将来に及ぶというような面構(つらがま)えにも見えて来るのが不思議であります。
 明治の浮世絵の中心は、何といっても月岡芳年さ。この男は国芳の門から出たはずだが、少なくも伝統を破って、よかれあしかれ、明治初期の浮世絵の大宗(たいそう)をなしている。見ようによっては浮世絵の型が芳年から崩れはじめた……とも見られるが、ああ崩して行かなければ、明治以後の複雑な世相を浮世絵の中にもり込むことはできなかったともいえる。
 江戸の女の持つ情味というものは、小さな挿絵一つにも漂わぬということはない。芳年以後に、巧拙はとにかく、あれだけ江戸の女の情味というものを含ませた絵をかき得るものはない。この点においても、芳年が最後のものかも知れない。
 転じて大正年間、生存の美人画家……芳年系統の鏑木(かぶらぎ)清方、京都の上村松園、いずれも腕はたしかで、美しい人を描くには描くが、その美人には良否共に、魅力と、熱が乏しい。
 その点に至ると、北野恒富の官能的魅惑の盛んなるには及ばない。
 新進で、国画創作会の甲斐荘楠音(かいのしょうくすね)が、また一種の魅惑ある女を描くことにおいて、異彩ある筆を持っている。あの時の展覧会で見た三井万里の江島がなかなかよかった。
 挿絵の方では、永洗(えいせん)系統の井川洗□(いかわせんがい)が、十年一日の如く、万人向きの美人を描いて、あきもあかれもせぬところは、これまた一つの力であり、年英(としひで)門下の英朋は、美人を描くことにおいては、洗□より上かも知れないが、その美人は、愛嬌(あいきょう)がなくてつめたい。近藤紫雲の美人にも、なかなか食いつきのいいのがある――
 七兵衛は際限なく、浮世絵の過去と将来を論じているわけでもなんでもないのですが、相変らず例の一枚絵をながめているものですから、そんなふうにも見えるので、人は往々、物をいい、手を動かすと、すっかりボロの出るものでも、仔細ありげにだまってさえいれば、意外なかいかぶりをされるものがあるものです。
 本人はその時分は、もう自分がいま見つめている絵のことなどは眼底から飛び去ってしまって、昨夜の城内の光景が、まざまざと頭のなかに浮び出でて、われを忘れていたのですが、その瞬間、「ハッ」としてわれに返ったのは、今まで人の気(け)というものはなかったところへ、さりとは、あまりに荒々しい戸のあけ方でありました。

         七

 その物音で、すっかり空想をブチこわされた七兵衛。
 夢から醒(さ)めたような顔をして、きょとんとその入口の方を見てあれば、そんなことはいっこう御存じなしに、数多(あまた)の人足が、店の土間へしきりにこも包を投げ込んでいる。
 鮭のこも包にしては長過ぎる。土間へ当りの響きで見ると、金物であるらしい。
 土間の左右へ人足がそれを積込んでいると、そのあとから抜からぬ顔で入り込んで来たのは、アツシを着た十五六歳の少年で、耳に仔細らしく矢立の筆をはさみ、左右に積み分けたこも包の中央に立って帳面を振分けて、これもしさいらしい吟味をしている。無論、七兵衛のあることは、誰もまだ気がつかない。
 帳面と、そのこも包とを、すっかり引合わせてしまったアツシを着た前髪の商人が何とも言わないのに、人足たちは、積込むだけのものを積み終わると、大八車を引っぱって、この店の前を立去る。
 帳合(ちょうあい)を終った少年は、しきりにそのこも包の荷造りを改めはじめる。余念なくその荷造りを調べている時、後ろで、
「忠どん?」
「え?」
 はじめて気がついた、そこに先客のあることを――
「おじさんかい」
「何だね、そのこも包は……」
「こりゃ、おじさん、こっちの包みが刀で、こっちが鉄砲の包みだよ」
「え……刀と鉄砲? どちらも大変に穏かでねえ。それをお前が、いったいどうしようというのだ」
「どうしようたって、おじさん、お屋敷へ売込むんでさあ」
「お屋敷……ドコのお屋敷へ?」
「そりゃ、おじさん、わかってるだろう、その薩摩守のお屋敷へさ……」
「お前が……その鉄砲と、刀を、薩摩のお屋敷へ売込もうというのか――?」
「そうさ」
「いつ、お前は、薩摩様のお出入りになったんだ――?」
「いつだって、おじさん、近いところにいりゃあ、いつ、どうした便宜で、お出入りになるかわかるまいじゃないか」
「お前に限って、そうしたはずじゃなかったなあ」
「だって、おじさん……」
「いったい、お前は、この薩摩屋敷に巣をくう浪人たちのために、せっかく苦労してこしらえた財産を奪われたその恨みで、こんなところへ来て、そのかたきを取返すのだといって、力(りき)んでいたはずじゃないか」
「それは、それに違いないけれど、おじさん、商人は腹を立てちゃ損だということが、このごろわかってきたよ」
「なるほど……」
「そりゃあ一時は口惜(くや)しかったが、今となってみれば腹を立つだけが損で、本当の仕返しは、やっぱり算盤(そろばん)の上で行かなけりゃ嘘だと、つくづく思い当りましたよ。喧嘩をしないで、お得意にしちまえば、盗られたものを、楽に取り返すことができまさあね」
 七兵衛は、徳間(とくま)の山奥で砂金取りをしていたこの少年を見出だして以来、そのこましゃくれた面憎(つらにく)い言い分に、いつも言いまくられる癖がある。十五や十六の歳で、金儲(かねもう)けの話といえば寸分のすきもなく、金儲けの仕事といえばいっこう臆面がない。こんなのも珍しいと感心することもあるが、多くの場合には、そのこましゃくれを面憎く思う。
 今も、その生意気な言い分が、ハリ倒してやりたいほどしゃくにさわっているとも知らず、
「おじさん、近いうちに日本が二つに割れるよ、そうなると軍器だね、刀と、鉄砲が、売れるのなんのって……大儲けをするのはこれからだよ、おじさん、一口乗らないか?」
 そこで、この少年は上り口に腰をおろして、七兵衛を相手に、近く来(きた)るべき天下の大乱によって、大金持になるべき秘訣(ひけつ)を説き出して、七兵衛を煙(けむ)にまく。
 この忠作という少年の説によると、近いうちに日本が二つにわかれるというのは、要するに徳川と薩摩との喧嘩であって、東の方は徳川のもの、西の諸大名はたいてい薩摩に肩を持つ。
 ところで、その争いの結果、ドチラが勝つか、負けるかわからないが、勝つにしても、負けるにしても、とにかく一朝一夕ではいかないこと。
 入り乱れて、何十年、何百年も、戦争がつづくかも知れないということ。
 そこで、軍器と、兵糧との、無限の需要がある、そこが目のつけどころだということ。
 とりあえず自分の仕事は軍器の御用商人で、つまり、戦争が長引けば長引くほど儲(もう)かる。
 そんなことをして、江戸にいながら、薩摩の屋敷へ武器を売込んだりなどすれば、江戸の方に恨まれて、ヒドイ目に逢うぞ……と、七兵衛がオドかせば、なあに、商人(あきんど)だもの、どっちでも割のいい方へ売る分には文句はないはず、今、逆縁のようなわけで、薩摩の家に取入ることができて、刀剣と、鉄砲との、買入れ方をたのまれたから、薩摩の御用をつとめているようなものの、これが、薩摩が江戸から追っ払われて、江戸の風向きがよくなれば、よろこんで江戸へお味方をして、御用にありつくまでのことさ……と忠作は、事もなげに放言する。

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