大菩薩峠
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著者名:中里介山 

ついでにこの温泉や、附近の人情風俗を聞いてみる。
 内湯もある、外湯もある、蒸湯もある。リョウマチや、胃腸の病気や、労症(ろうしょう)や、脳病に利(き)き、婦人の病や、花柳病の類(たぐい)にも効があるということで、婦人客が意外の遠くから来て、長く逗留(とうりゅう)することもあるという。
 次にこの宿の設備を見ると、棟がいくつもにわかれて、室の数は五十以上もありそう。
 そのなかには、人のありそうでないのもあろう。なかりそうで隠れ療治を試みている者があるかも知れない。ことにこれから奥の野天にある蒸湯の設備は、熱泉のわき出すその上に、簾床(すどこ)をこしらえてよもぎを敷きつめ、その間を通してのぼる湯気で温まるところがあるという。そこへも一応行って見なければならぬ。
 程経て、兵馬はその炉辺を立ち、数多い棟々のいくつもの部屋を調べに出かけました。
 ほとんど全部が空いている時分でしたから、何の挨拶もなしに兵馬は障子をあけては、部屋部屋を見、また何の挨拶もなしに出て、五十余りと覚しき部屋の大部を検分してみましたけれど、どれも、これはと怪しむべきものは一つもない。
 ただふさがっているのが三つあって、その一つは長野あたりの夫婦者と、もう一つは松本辺の御隠居らしいのとで、なんら怪しむべきものはない。ただ、そのうちの一つに、人がいるのだか、いないのだかわからない暗澹(あんたん)たるものがありました。
 兵馬が、のぞいて見ると、蒲団部屋(ふとんべや)になっている。
 蒲団が山の如く積まれた中に、どうも気のせいか、人がいるように思われてならぬ。女中でもいるのかしらと最初は思いましたが、女中部屋は帳場から遠からぬところにあるし、第一、こんなかけ離れたところへ女を置くはずはない。では、夜番の者でもいるのか知ら。それもうけ取れない。
 兵馬は、ただその部屋だけに多少の心を残しましたけれど、一面に蒲団が積み込んであるのだから、それを押しくずしてまで侵入する気にはなれませんでした。
 いずれまた篤(とく)と……そこでまた炉辺へ帰って無駄話をしていると、ふと気がついたのは――もっと以前に気がつきそうなものであったのに――今になって気がついたのは、あがりはなに、隅の方へ押しつけられて、つづらが一つ置きばなしにされてあることです。あまり無造作に置き捨てられてあるから、それでかえって兵馬の気がつかなかったとも思われます。
 つづらといえば、どんな山の中にでも備えてある日用器具の一つだが、兵馬が特に見覚えのあるように感じたのは、そのつづらに巴(ともえ)の紋がついていることで、そうして、きのうの途中、四道将軍のような鎧武者(よろいむしゃ)がしょって、馬に乗ってまっしぐらに走らせたそれが、このつづらに似ている、いや、それに相違ないのだと兵馬は信じました。
 ところで、あれは例の八面大王に扮(ふん)したのが、古例によって、女を奪ってあれに入れて、この山へ来たのだ、そうして田村麿将軍の手でその女を取返されたのだ、ということになっている――ではひとつ、その納まりを聞いてみようではないか。
 それを聞いてみると、誰もとんと返事のできる人はない。
 第一、そんなお祭の古例をさえ知った者はない。このつづらにしてからが、誰が持って来て、誰が置きっぱなしにしておいたのだか、それすら満足な返事を与えるものがない。
 この上、尋ねるすべもなし、また必ずしも探求する必要もないので、兵馬は引返すうちに夜になりました。
 どてらを重ねて夜の寒さを防ぎ、人定まった後というけれど、昼のうちからほとんど人の定まったようなところを、兵馬は小提灯(こぢょうちん)をともして、ひとり廊下を歩いて、例の広い部屋部屋の外を通ってみました。
 しかし、かりそめの目的は、例の蒲団部屋にあるので、あの蒲団の砦(とりで)のうしろには、優に二人三人の人をかくし住まわすには余りがある、とこう睨(にら)んだのを見過ごすわけにはゆきません。
 ほどなく、その部屋の前に立って様子をうかがうと、これは意外千万――たしかにこの蒲団の砦のうしろあたりで火影がする。薄明りながら火をともして、その中に隠れている人があるらしい。
 さしったりと、兵馬は胸をおどらせました。そのまま、蒲団を押しくずして乱入しようかとさえ思いましたが、それでも前後を思案するの区別だけは残して、さて、中をつきとめるには、どういう手段を取ったらよいか。無茶に乱入すれば敵の備えがないともいえぬ。尋常に訪(おとの)うては、いよいよ敵に警戒を与えるばかり。雨戸越しにでもはいる手段はないかと、調べてみたが、これもおぼつかない。
 ぜひなく、兵馬は、この蒲団の砦(とりで)に向って正面攻撃を行うほかはないと思い、小提灯をたのみに、充分の用意をもって、一方から、その蒲団を崩しにかかりました。
 兵馬が、二三枚の蒲団を崩した時分に、中ではフッとその火影が消えてしまいました。ふき消したものに違いない。
 こちらの侵入を気取(けど)って、非常に狼狽(ろうばい)しているように思われる。狼狽したからとて、逃げ場はあるまい、はいるに不便なところは、出づるにも不便なはず。兵馬は、前以てこれを見届けておきました。
 そうして、一方の手で、ふとんのとりでを崩し崩して行く間に、洞然(どうぜん)として、遮(さえぎ)るもののなきところに達しました。
「だあれ!」
 暗い中で、狼狽しきった声は女でありました。兵馬はそれに答えないで、自分の手にある小提灯をつきつけて見ると、女が一人、枕屏風(まくらびょうぶ)の蔭にふとんから起きかかっている。そのほかには誰もいないようです。
「だあれ!」
と女はおどおどしながらとがめたけれど、存外、度胸があるのか、この不意の侵入者に対しても、世の常の女が騒ぐほど、騒いではいないらしいのが不思議です。
「あなた一人ですか」
と兵馬が言いますと、
「ええ、一人よ。なんだって、断わりなしにはいって来たの?」
 やはり女は悪びれずに、かえってこちらをとがめるだけの余裕さえあるのを、兵馬は案外の思いをしていると、
「あら、あなたは、あの浅間のあのお客様じゃなくって、まあ、この間は失礼致しました」
「おお、お前は、あの人か」
 その時の闖入者(ちんにゅうしゃ)は、ここでは地をかえてしまいました。
 闖入して来たのは宇津木兵馬であるが、その闖入に驚かされた人は、身なりこそ変っているが、あの手古舞の酔っぱらい芸妓に違いない。
 めぐりあうべき人にめぐりあわないで、めぐりあう必要がない人がついて廻る結果となる。
 兵馬は唖然(あぜん)として言うべき言葉を失いました。




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