大菩薩峠
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著者名:中里介山 

お前もよく眼をあいて見ておきねえ、なんで下を向くんだ、よ、高さは僅か三十三尋(ひろ)とちっとばかり、下はたんとも深くねえが、やっぱり三十と三尋、甲州名代(なだい)の猿橋の真中にブラ下って桂川(かつらがわ)見物をさせてもらうなんぞは野郎も冥利(みょうり)だ。お前も可愛がったり可愛がられたりした野郎だ、よく見ておきねえ、なにもそんな処女(きむすめ)みたように恥かしがって下を向くことはねえじゃねえか」
 鳥沢の粂の傍にいる女、それは女軽業の頭領のお角でありました。
「親分さん、どうか助けて上げてくださいよう、死んでしまいます、悪い人は悪い人でも、あれではあんまり酷うございますから、早く解いてやって下さいよう」
「いいや、いけねえ。お前もずいぶん、女子供を買って来て危ねえ芸当をさせて銭をもうける職業(しょうべい)に似合わねえ、あのくらいの仕置(しおき)が見ていられねえでどうする。野郎に軽業をさせて今日はお前と俺がお客になって見物するんだ、この桟敷(さじき)は買切りだから誰に遠慮もいらねえ、首尾よく野郎の芸当が勤まれば、二人の手から祝儀をくれてやらあ」
「親分、どうしても解いて上げることができなければ、いっそ殺してしまって下さい、あんな目に会わされているより、一思いに殺されてしまった方がよいでしょうから。わたしも見ていられないから、早く殺してやって下さい」
「殺しちまっちゃあ、身も蓋(ふた)もねえや、ああいう野郎にはいろいろの芸当をさせてみて、死にかかったらまた水を吹っかけて生き返らして、またやらせるんだ。まあ、お角、一杯飲みな。俺があの野郎をあんな目に遭わせるから、俺は鬼か魔物みたようにお前の目に見えるか知れねえが、ずいぶんああしてやっていい筋があるんだ。あの野郎の生立(おいたち)から国を出るまでのことを残らず知ってるのが俺だ、俺にああされてあの野郎には文句が言えねえ筋があるんだ、俺にああされたから野郎は本望ぐれえに心得ていやがるだろう、これからゆっくりその話の筋を語って聞かせてやるから、落着いて聞いていねえ、それを聞いているうちにはなるほどと思うこともあるだろう、俺が酔興(すいきょう)であんな軽業をさせるんじゃねえと思う節(ふし)もあるだろう……おやおや、役人が大勢来やがったな、あ、百の野郎を引き上げたな。うむ、土地のやつらあ俺を憚(はば)かって手が着けられねえのを、木端(こっぱ)役人め、出しゃばりやがったな、面白(おもしれ)え、どうするか見ていてやれ、百の野郎がなんとぬかすか聞きものだ」

 駒井能登守の一行はその晩、猿橋駅の新井というのへ泊りました。がんりきの百は一間へ引据えて置いたが、息の絶えるほど弱っているのだから、縄をかけるまでもあるまいと、与力同心は油断をしてそのままで置きました。
「鳥沢の粂という者を呼んで、ともかくもこの男と突き合せて見給え」
 能登守は命令の形式でなく、どうでもよいことのようにこう言って引込んでしまいました。
 与力同心の連中は、ちょうど慈恵学校の生徒が解剖の屍体をあてがわれたような心持で、がんりきの再調べに着手すると共に、いわゆる鳥沢の粂なる者を引き出そうとしました。
 ところが粂はただいま外出して行方が知れないという返事であったから、更にその行方を厳(きび)しく詮索(せんさく)させることにして、一方にはがんりきの百を三度目に引き出して調べてみました。いろいろにして泥を吐かせてみようとしたけれども、前と同じように百はいっこう口を開きません。あんな目に遭わされて、相手の罪を訴えないことがだいいち不思議であります。
「なあに、俺(わっし)が悪かったんでございますから、殺されたって仕方がねえんでございますから」
と言ったきり。
「貴様は、たいそう足の早い奴だな」
「へえ、歩くのは達者でございます」
「貴様は片腕が無い、それはどうしたのだ」
「これは怪我をしたから、お医者さんに切ってもらったんでございます」
「貴様は髪結渡世(かみゆいとせい)だと言ったが、その片腕で髪結ができるのか」
「へえ、両腕の揃っていた時分に叩き込んでありましたから、まだそれが片一方の方へいくらか残っているのでございます、けれども碌(ろく)な仕事はできませんからこのごろは職人任せでございます」
「貴様は身延(みのぶ)へ参詣に行くのだと申したがその通りか」
「左様でございます。お祖師様を信心致しますから、それで身延山へ参りてえと思って出かけて参りましたんで」
「身延の道者(どうじゃ)ならば講中(こうじゅう)とか連(つれ)とかいうものがありそうなもの、一人で出て歩くというは怪(け)しからん」
「それが、なんでございます、俺共(わっしども)は何の因果か人並みより足が早いんでございますから、講中の衆やなんかと一緒に歩いていた日にはまだるくてたまりません、それでございますから、どこへ行くにも一人でトットと出て行くんでございます」
「貴様が手形をもっておらんというのがどうしても怪しい、所、名前をもう一度そこで申してみろ」
「先にも申し上げた通り、手形を持っていたんでございますが、あの橋の真中へ吊される時に下へ落っこってしまったんでございます、桂川の水の中へ落してしまったんでございます。所、名前は山下の銀床(ぎんどこ)の銀といって……」
「よし、では鳥沢の粂を呼び出してからまた吟味(ぎんみ)をする、さがれ」
 一通りの調べを受けて、がんりきの百は次の間へ下げられて燈火(あかり)もない真暗なところへ抛(ほう)り込まれてしまいました。
「何だつまらねえ、猿橋を裏から見物させてもらうなんぞは、有難いくらいなものだが、こう身体が弱ってしまったんじゃどうにもやりきれねえ、今までのお調べは通り一遍だが、これから洗い立てられりゃ、どのみち、銀流しが剥(は)げるにきまってる、いつものがんりきならここらで逃げ出すんだが、身体の節々(ふしぶし)が痛んで歩けねえ」
と独言(ひとりごと)を言ってがんりきはコロリと横になりました。
 夜中になるとがんりきの耳の傍で囁(ささや)く声がしたから、がんりきはうとうとしていた眼を覚ました。
「百、しっかりしろ」
「兄貴か」
「野郎、また遣(や)り損(そこ)なったな、いいから俺と一緒に逃げろ」
「兄貴、動けねえ」
「意気地のねえ野郎だ、さあ俺の肩につかまれ」
「俺を荷物にしちゃあ兄貴、お前も動きがつくめえ、打捨(うっちゃ)っといてくれ」
「手前を打捨っておきゃあ、俺の首も危ねえんだ、早くしろ」
「それじゃせっかくだから、お言葉に甘えて御厄介になるべえ」
「人に世話を焼かせずに、自分から動き出す気にならなくちゃいけねえ」
 こうしてがんりきを助けに来た奴と、助け出されて行くがんりきは窓から逃げて行きました。窓を上手に切って、身体の自由になるようにして、細引で縄梯子(なわばしご)がかけてあったのを上手に脱け出したから、旅に疲れた与力同心の面々も更に気がつきませんでした。
「兄貴、よく来てくれた」
「ほんとうに世話の焼けた野郎とっちゃあ」
「どうも済まねえ」
「ははあ、今度という今度はいくらか身に沁(し)みたと見えて弱い音(ね)を吹き出したな」
「どうにもこうにも身体が痛んでやりきれねえ、そりゃそうと、兄貴、俺がここへ捕まってることがどうしてわかったんだい」
「初狩(はつかり)まで行ったところが、通りかかる馬方の口から変なことを聞いたもんだから、それで、もしやと引返してみたんだ」
「そうか。兄貴の前だが、猿橋を裏から見せられたのは今度が初めてよ」
「鳥沢の粂の野郎がそうしたんだというじゃねえか。野郎あんまりふざけたことをすると思ったから、わざわざ引返して来て見ると、粂の野郎もいなけりゃあ、手前の姿も橋のまわりには見えねえから聞いてみると、これこれのわけで、役人につかまって吟味最中ということだから、暫らく三島明神の裏に隠れて夜の更けるのを待って、それから忍んで行ってみたんだ」
「おかげさまで命拾いをしたようなもんだが、なにぶんこんなに身体が弱っていた日にゃ所詮(しょせん)遠道は利かねえ、あの役人というのが、勤番支配なんだから、一度はこうして助けてもらっても、あいつらに睨(にら)まれた上はどうもこの道中は危ねえな」
「なるほど、この様子じゃあ、どこかで二三日保養をしなくちゃあトテモ物にはならねえようだ。と言って、勤番支配を向うに廻したんじゃあ、滅多な家へ駈込むわけにもいかず……そうだ、いいことがある、これから粂の野郎のところへ押しかけて行こう、あの野郎、この界隈(かいわい)の親分面をして納まっているのが癪(しゃく)だ、これから二人で押しかけて行って、手前を預けて来ることにしようじゃねえか」
「粂の親分のところへ出直しに行くんだな。兄貴が一緒に行ってくれたら向うもマンザラな挨拶はすめえから、それじゃ、そういうことにしてもらいましょう。それから兄貴、お前が俺を出し抜いて甲府へ立たせたあの御新造と娘は、ありゃあ今どこにいる」
「ははは、まだそんなことを言ってるのか。ありゃ今晩下初狩(しもはつかり)へ泊っているから明日は笹子峠へかかるんだ、あの峠が危ねえと思ったから、俺が附いて行くつもりであったが、手前がこんな様子じゃあ二三日は安心ができる、二三日安心している間には甲府の城下へ一足お先に着いているから、甲府まで送り込んでしまえば、俺の肩が休まるんだ。百、お気の毒だけれど、とうとう物にならねえらしいぜ」
「ふふん、まだそう見縊(みくび)ったものでもねえ」

         四

 与力同心の面々はその翌朝になって仰天しました。
 逃げられてしまった。たかを括(くく)っていたために逃げられてしまった。逃げられたのよりも逃げたのが不思議であると思いました。あんな死にかけた身体で、どうして逃げ出したか。
 旅の一興で練習問題として扱われた代物(しろもの)ではあるけれども、逃げられたのは不面目である、役人の名折れにもなるから黙っているわけにはいかないとあって、与力同心の面々は駒井能登守にこのことを申し出でて恐縮すると、
「このたびの甲州入りは、なにもあの者共を追い廻すために来たのではない、歩いている間に打突(ぶっつ)かって来たら、捉(つか)まえてみるがよし、逃げて行ったら逃がしておくがよし」
 そこで、今までのひっかかりはいっさい断ち切ってしまって、翌朝駒井能登守の一行は猿橋駅を立ち出でて、またも悠々として甲州道中をつづけました。
 猿橋から殿上(とのうえ)、横尾、駒橋(こまばし)を通って大月へ出た時分に、
「この大きな一枚岩のような山、これが武田の勇将小山田備中守(おやまだびっちゅうのかみ)が居城岩殿山(いわとのさん)、要害としても面白いが景色としても面白い。備中守信茂(のぶしげ)はたしかこの城で二度の勇気を現わしているようだ。一度は村上義清の手から逆襲された時、五十余人でこれを守って守り通してその間に信玄の援兵が来た。二度は武田の末路の時、織田の兵をここで引受けて備中守が斬死(きりじに)した。武田家にはさすがに勇士がある、天険がある、この天険あり勇士あってついに亡びたのは天運ぜひもなし」
「いかにも、武田家の武略には東照権現も心から敬服しておられた。徳川家の世になって甲州の仕法(しほう)は、いっさい信玄の為し置かれたままを襲用して差支えなしということであったが、ただ一つ、甲州の軍勢が用いた毒矢だけは使用相成らずと東照権現のお声がかりであった。信玄は毒矢を平気で用いておられたが東照公はそれをお嫌いなされた、そこに両将の器量の相違がある」
「信玄公は、智略において第一、惜しいことに人情に乏しい、民を治(おさ)めることは上手であったにかかわらず、その徳が二代に及ばず、その術が甲斐信濃以上に出づることができなかった。越後の上杉謙信はそれに比べると勇気第一、それとても北国を切り従えたのみで上洛(じょうらく)の望みは遂げず、次に織田右大臣、よく大業を為し得たけれど、その身は非業(ひごう)の死。豊臣太閤に至って前代未聞(ぜんだいみもん)の盛事。それもはや浪花(なにわ)の夢と消えて、世は徳川に至りて流れも長く治まる。剛強必ず死して仁義(じんぎ)王たりという本文を目(ま)のあたりに見るようじゃ」
 例によって官用だか名所見物だかわからないような調子で歩いて行きました。
 駒井能登守のつれて来た与力同心は、大抵若い連中でありました。なかに老巧者もいないことはないが、話の中心になるのは若い連中であったから、ややもすれば批評が出たり、議論が出たりします。
「何といっても信玄と謙信の食い合いが戦国時代ではいちばん力の入った相撲だ。すべて相撲は段違いでは面白くないし、そうかといって同じ型の相撲が力ずくで揉(も)み合うのも面白くない、そこへゆくと謙信の勇に信玄の智、義を重んずる謙信と、老獪(ろうかい)な信玄と、型が違って互角なのが虚々実々と火花を散らして戦うところは古今の観物(みもの)だ。まあ、あんな相撲はおそらく日本の戦争に二つとはあるまいな、戦国の時代ではまさにあれが両大関だ」
「それはそうに違いない、川中島の掛引(かけひき)は軍記で読んでも人を唸(うな)らせる、実際に見ておいたら、どのくらい学問になったか知れぬ。我々は不幸にしてその時代に遭(あ)わなかったことを憾(うら)むくらいのものだが、しかしなお遺憾なことは、あの両大関を空しく甲斐と越後の片隅に取組ましてしまって、本場所へ出して後から出た横綱と噛み合わせてみなかったことが残念だな」
「それは誰でもそう思う、信玄と謙信が、もう少し長生(ながいき)をしていたら、トテモ信長公が天下を取るわけにはゆかぬ、信長公が世に出なければ太閤というものも世に出るわけにはゆかぬ、太閤が出なければ日本の歴史がまたどんなふうになっていたか見当がつかぬ。それを考えると、信玄、謙信という人たちの日本の歴史上の潜勢力もまた大きなものと言わねばならぬ」
「しかし、実際の力はどうであったろう、信玄や謙信が果して信長や太閤や東照公と戦って、それを倒し得たであろうか。それらの人たちも、小競合(こぜりあい)はしたけれども、本場所で晴れの勝負をしたことはないから、ほんとうのところはいずれが勝(まさ)りいずれが劣ると判断はつけられまい」
「そりゃわかりきった問題だ、謙信に対する信長は、いつも勝味(かちみ)がなかった、謙信は信長を呑みきっていた、信長はたえず威圧されて怖れていた、謙信が、いで北国人の手並を見せてくれんと、まさに兵を率いて京都へ来たらんとする時、信長は蒼くなって慄(ふる)え上った、ちょうどその京都へ出ようとする途端に謙信が病気で死んだ時は、信長はホッと息をついて、手に持っていた箸(はし)を抛り出したというではないか」
「それはそうであったかも知らぬ、それを事実とすれば信長というものがあまりに弱い、少なくとも木下藤吉郎を家来に持っていた信長、味方の全軍が覆没しても驚かず、桶狭間(おけはざま)で泰然としていた信長、たとえ一目(もく)なり二目なり置いていたとはいえ、そう無惨(むざん)な敗れを取るようなこともなかったろうと思う」
「どうして、今川義元や斎藤道三(どうさん)、或いは浅井朝倉あたりとは相手が違う、謙信があの勢いでもって、北国から雪崩(なだれ)の如く一瀉千里(いっしゃせんり)で下って来て見給え、木下藤吉郎なんぞも、まだ芽生(めばえ)のうちに押しつぶされて安土(あづち)の城が粉のようになって飛ぶ。謙信をもう少し生かしておいて、あの勝負だけはやらせてみたかった」
「ところで、そうなると、武田信玄が黙って見てはいない。信玄と謙信とは、今いう通り型が違って力は互角であったけれども、気位の上では信玄は謙信を白い眼で見ていたようなところがあるわい。謙信を都へ上せて織田と噛み合わせたそのあとで、ねちりねちりと道草を食って腹を太らせながら乗り込んで行くという、しぶとい芸当をやるのがこの入道だ。不幸にしてその時は、あんまり坊主の当り年でなかったと見え、武田入道が亡くなる間もなく上杉入道がなくなった」
「謙信が死んで悦(よろこ)んだのは織田公だが、信玄が亡くなって運が開けたのは家康公だ、謙信あるうちは信長公の志は遂げられなかったように、信玄存する間、家康公も実際手も足も出せなかった御様子だ」
「しかし、信長公も家康公も、信玄、謙信とはともかくも手合せをしておられるけれど、太閤だけは、ついぞ張り合ってみたことがないようでござるが、あの太閤の軍(いくさ)ぶりと、信玄、謙信あたりと掛け合わせてみたらどんなものであったろう。信玄、謙信に向っては織田公も家康公も二目も三目も置いたような軍(いくさ)ぶりをしておられたが、太閤ならばどんなものであったろうか知ら」
「それは手合せがなかっただけに面白い見立(みたて)にはなる。後に太閤の世になってから、太閤がこの甲州へ来て、信玄の木像を叩いていうことには、お前も早く死んで仕合せな坊さんだ、いま生きていたならばおれの馬の先に立って、下座触(げざぶれ)をするようなことになるのだと言って笑ったそうだが、太閤の眼から見ると、そんなものであったかも知れない」
「いや、太閤という人は、派手師(はでし)で人気を取るのが上手、いつもそんなことを言って人を慴伏(しょうふく)させるのだが、信玄とても、それほどやすくはない。現に太閤なども家康公の弓矢には閉口しておられた、その家康公を苦しめたほどの信玄だから、太閤のような派手師にとっては、謙信よりも信玄の方が苦手かも知れぬ」
 こんな話をして小山田備中の城、岩殿山の前をめぐりながら進んで行く。
「この城によって反(そむ)いたものがあるから、勝頼が天目山にちぢまって最期(さいご)を遂げることになってしまったということじゃ。小山田備中は果して忠臣であり、勇士であったろうか知らん。とにもかくにも要害は要害じゃ」
 大月を過ぎて初狩、立川原(たてかわら)、白野(しらの)から阿弥陀(あみだ)街道を練って行く。
「山国とは言いながら、どっちを見ても山ばかり、よくもこう山があったものじゃ。岩殿山が要害なばかりではない、甲州全体が一つの要害じゃ、小仏なり、笹子なりに兵を置けば、いかなる大軍も攻め入る手段(てだて)はなかろう、一夫これを守れば万卒も越え難しというのはまさにこれじゃ。東の方はこれで、南はまた富士川口があるばかり、西と北とは山また山、信玄も豪(えら)かったには相違ないが、この要害で守るに易く攻めるに難い地の理がよろしい。およそ四海に事を為す能わざる時に、この山国に立籠(たてこも)って天下の勢(せい)を引受けてみるも一興ではないか」
「左様な要害なればこそ、この国が天領であって、柳沢甲斐守以外には封(ほう)を受けたものが一人も無い。まんいち江戸城に事起った時は、この城がいかなるお役に立つやも計り難し。そうなると我々の勤めもまた重い」
 阿弥陀街道を過ぎると黒野田の宿(しゅく)、ここは笹子峠の東の麓で本陣があります。日脚(ひあし)はまだ高いけれど、明日は笹子峠の難所を越えるのだから、今夜はここへ泊ることになりました。
 この黒野田へ泊ったものは駒井能登守の一行ばかりではありませんでした。本陣へは先触(さきぶれ)があって能登守の一行が占領してしまったけれど、林屋慶蔵というのと、殿村茂助という二軒の宿屋にも少なからぬ客が泊っていました。
 笹子峠を下って来た客もこの黒野田で宿を取る。笹子峠へ上ろうとする旅人もここで泊って翌日立とうとするのだから、自然に足を留める。それに今日は勤番支配の一行が入り込んだから、この小さな山間の小駅が人を以て溢(あふ)れるという景気になってしまいました。
 駒井能登守の一行が本陣へ着いてしまってから、少しばかりたってこの宿へ入り込んで来た二挺の駕籠がありました。駕籠の中は何者だか知れないが、その傍に附いているのが例の米友であることによって大抵は想像されましょう。幸いにして米友は託された人の乗物に追いつくことができたらしい。

         五

 二つの駕籠の宿(しゅく)の休所へ駕籠を下ろして本陣へ掛合いにやると、
「今晩は御支配様のお泊りでございますから」
と言って、余儀なく謝絶(ことわ)られてしまいました。林屋というのと殿村というのと、そのいずれも満員です。満員でないまでもその空間(あきま)というのは到底、この乗物の客を満足させることができないものばかりでしたから、さてここへ来て途方に暮れ、
「弱ったな」
 米友が弱音を吹きました。
「兄さん」
 駕籠の中から垂(たれ)を上げて、米友を呼びかけたのはお絹でありました。
「何だ」
「この本陣に泊っている御支配様というのは、何というお方だか聞いてみて下さい」
「おい、茶店のおじさん、本陣に泊っている御支配というのは何というお方だか知っているかい」
「へえ、それはこのたび、甲府の勤番御支配で御入国になりまする駒井能登守様と申しまするお方でございます」
「御新造(ごしん)さん、お聞きなさる通り駒井能登守というお方だそうでございますよ」
「駒井能登守……その方ならば、わたしが少し知っている」
とお絹が言いました。
「兄さん、おまえ御苦労だが、その駒井の殿様へ掛合いに行ってくれないか」
「俺(おい)らが掛合いに行ったところで……」
 米友はさすがに躊躇(ちゅうちょ)します。米友もそういう掛合いに適任でないことを自覚しているのです。槍を取ってこそ宇治山田の米友だけれども、大名旗本を相手に掛合いをする柄(がら)でないことを知っているから、それで尻込みをしたがると、
「もと四谷の伝馬町にいた神尾主膳からの使でございますと言ってごらん、そうして主人の勤め先の甲府へ参る途中でございますが、女ばかりで泊るところに困っておりますからと、事情(わけ)を話して頼んでごらん。いいかえ、いつものようにポンポン言ってしまってはいけませんよ、丁寧に言って頼まなけりゃいけませんよ。と言ってもお前さんのことだから何を言い出すかわからない。それではわたしが手紙を書きましょう、手紙を書いて駒井様宛にお頼み申してみましょう、お前さんはその手紙だけ持って行って、お返事を伺って来ればよいことにしましょう」
と言ってお絹は駕籠から出て、休茶屋で手紙を書いて封をしました。
 駒井能登守は黒野田の本陣へ着いて休息していると、
「申し上げます、ただいま四谷伝馬町の神尾主膳様のお使と申しまして、この手紙を持参致しました」
「ナニ、神尾の手紙?」
 能登守は、少々意外に思って取次の手からその手紙を受取って見ると女文字でありました。
「甲府詰の主人神尾方へ参る途中の者、女連(おんなづれ)にて宿に困る……はあ、なるほど」
 能登守は早速その手紙を捲き納めながら、
「主人を呼ぶように」
 本陣の主人が急いで出向いて来て、遠くの方から頭を下げました。
「お召しでございましたか」
「当家には我々のほかにも客があるであろうな」
と能登守が尋ねました。
「どう致しまして、御支配様のお着きと承り、ほかのお客はみんなお断わり申し上げて、近所の宿屋へ頼みましてございます、御支配様のお連れのほかには決してどなたもお泊め申しは致しません」
「それは困る、我々が通るのにそんなことをしてもらっては人も迷惑する、自分も迷惑する、泊りたい者には部屋の空(あ)いている限り泊めてやらなくてはならぬ」
「恐れ入りまする」
「今、斯様(かよう)な手紙を持たせてよこした者がある、女連で宿がなくて困却すると書いてある、急いで泊めるようにしてもらいたい」
「恐れ入りました、お言葉に甘えましてそのように取計らいを致します」
 主人は畏(かしこ)まって出て行きました。
 まもなく本陣の主人が迎えに行って、そうしてお絹の一行を案内して来ました。米友もまたお絹一行について案内されて来ました。お絹の一行といっても、それは米友のほかにはお松があるばかりでした。お絹は例の通り町家の奥様のようななりをしていました。お松は御守殿風(ごしゅでんふう)をしていました。
 この二人が駕籠から出た時には、さすがに泊っている人の目を驚かせました。与力同心の面々なども、この思いがけないあい宿(やど)の客の奥へ通るのを目を澄ましていろいろに噂の種が蒔(ま)かれました。あれは能登守殿の親戚の者だろうと言う者もありました。いや御支配の夫人……にしては少し老(ふ)けている――というものもありました。江戸から連れて来たのでは人目もうるさいし、人の口もあるから、わざと道中を別にして、この辺で落ち合う手筈で来たのだろうと考えるものもありました。そんなはずはないというものもありました。能登守はそういう性質(たち)の人ではないと弁護をするものもありました。
 甲州道中で、山を見たり雲助を見たりしていた眼で、二人の女を見たから、目を驚かせることがよけいに大きかったと見えて、暫らくはその噂で持切りでした。そうして結局は、その何者であるかを突留めなければならない義務があるように力瘤(ちからこぶ)を入れたものもありました。けれどもこの水々しい年増と美しい娘とが奥へ通ったあとで、一同は吹き出さなければならないことに出会(でっくわ)してしまいました。
 それは二人につづいて米友がのこのこと入って来たからであります。笠を取るまではそんなに眼につかなかったけれども、笠を取って見ると米友の剃立(そりた)ての頭が、異彩を放っていることがよくわかるのであります。剃立てといえば、青々としてツルツルしたように考えられるけれど、米友のはよく切れない剃刀(かみそり)で削(けず)ったのだから、なかなかテラテラ光るというわけにはゆかないのです。ところどころに削り残された鉋屑(かんなくず)が残っているのであります。けれども当人は、やむを得ないような面(かお)をして二人につづいて上り込んで来たから、誰もそれを見て吹き出さないわけにはゆきませんでした。
「兄さん、お前の頭を見て皆さんが笑っていますよ」
 お絹は振返って米友の頭を見て、自分もおかしくなって口を袖で隠しました。
「でも家ん中で笠を被(かぶ)るわけにはいかねえ」
といって米友が不平な面をしましたから、お松はそれがまたおかしくって笑いました。
 能登守の一行は「なるほど、こいつだな」と思いました。昨日、鶴川での出来事を知っているだけによけいにおかしくなります。
「生(は)え揃(そろ)うまで頭巾(ずきん)でも被っていたらいいでしょう」
「鶴川の雲助の野郎が、こんなにしやがった、ほんとに憎らしい野郎共だ」
 米友は口の中でブツブツ言って、自分の頭をこんなにした雲助どもを呪(のろ)います。
 米友は、お絹とお松とがいる次の部屋へ陣取り、お絹お松の部屋と中庭を隔(へだ)てたところがすなわち駒井能登守の部屋であります。
 お絹は取敢えず御都合を伺った上で、能登守のところへお礼を申し上げに行ってきました。
 能登守は快(こころよ)くお絹と対談して女連の道中を慰めたりなどしました。駒井の許(もと)を辞して帰ってからお絹の胸には、駒井能登守を対照としての一つの心持が浮びました。
 甲府へ行けばこの人は、自分の元の主人の神尾主膳の上へ立つ人だと思いました。同じ旗本でありながら、一方は支配する人、一方は支配される人とお絹は思いました。
 そうして、自分よりも年が若いし、神尾よりもまた若い駒井能登守の幅が利くのかと思うと憎らしくなりました。なんとかしてやりたいという気になりました。
 お絹の思うには、けっきょく男は脆(もろ)いものであるということでした。まだ三十前後の能登守、たとえ相当の学問や才気があったところで知れたものである。固いということは、女に接する機会がない間に限ったことで、相当の手練(しゅれん)を以てすれば、男は必ず色に落ちて来るものである。固いようなものほど落ちはじめたら速度が強いということが、お絹の日頃から持っている信念でありました。だから駒井能登守が、いま甲州道中を、飛ぶ鳥を落す勢いで練って行く時に、これをどうにかしてやりたいということは結局、お絹が持っている唯一の信念から出立するということに帰着しますので、大へんやかましいことです。
 駒井能登守に会ってお礼を言ってから、そんな心持を起してお絹は自分の部屋へ帰って来て、
「お松や」
「はい」
 お松は静粛(しとやか)に返事をしました。
「お前は後程お茶を立てて駒井の殿様に差上げておいでなさい、それから、まだお風呂がお済みにならぬ御様子だから、お前は殿様のお伴(とも)を申し上げてお風呂のお世話を申し上げねばなりませぬ。こんな山家(やまが)のことで、気の利いた女中はいないし、ああして殿方が女気なしの旅をしておいでなさるのは、何かにつけて御不自由でいらっしゃるし、こうして今夜も私たちが安心して宿へ着くことのできたは、みんなあの殿様のおかげ、それにあのお方は甲府の勤番支配といって、うちの殿様よりはズット上席のお方、神尾の殿様はあれだけのお方だけれど、この駒井の殿様はこれからお大名になるか御老中になるか、出世の知れないお方」
 お絹は、こう言ってお松を説きました。お松はいちいちそれを聞いていましたけれど本意でないことがいくらもあります。自分の甲府へ行こうというのは、神尾の殿様だとか、駒井の御支配様だとかいうお方のお気に入られようと思って来たはずではないけれど、ともかくもこの場合、一通りの御用と御挨拶はつとめねばなるまいと思いました。好意を持ってくれた目上の人に対する礼儀という心から、そうせねばならないものかと思いました。

         六

 駒井能登守はこうしていても、毎日宿へ着くと、書類を調べたり手紙を認(したた)めたりすることでほとんど暇がありません。
 書類の多くは公用のもの、手紙は公用と私用とが相半(あいなかば)するくらいでありました。それらを一通り処理してしまったあとで、能登守が興味を以て書く手紙が一つありました。
「今日は笹子峠の麓なる黒野田といふ処に泊り申候、明日笹子峠へかかる都合に御座候、これより峠を越えて峠向ふの駒飼(こまかひ)といふ処まで二里八丁の道に候、小仏峠と共に此の街道中での難所に候、笹子を越え候はば程なく勝沼にて、それより甲府までは一足に候、さすがに峡(かひ)と申すだけの事はありて、中々難渋な山道に候へども一同皆々元気にて、名所古蹟などを訪(とぶ)らひつつ物見遊山(ものみゆさん)のやうな心持にて旅をつづけ居り候、また人事にも面白き事多く、土地の名物や風俗などにも少しく変つた事有之候(これありそろ)、言葉もまた江戸より入り候へば甲州特有の言葉ありて面白く覚え候、昨日はまた甲州名代(なだい)の猿橋といふのを通り申候、これは名所絵などにて御身も御承知の事と存じ候へ共、猿が双方より手を延ばしたるやうの形にて、土地の人は橋より水際まで三十三尋(ひろ)、水際より水底まで三十三尋も有之候様に申し居り候処、その間に一本の柱も無く組立て候事が奇妙に御座候、甲州は評判の如く荒き処あり、途中も心して見聞致し居り候。
 さて御身の御病気は如何に候や、われら斯(か)くの如き愉快なる旅をつづけ居り候うちにも常に心にかかり候はこの事のみに候、追々寒さにも向ひ候べく、一しほお厭(いと)ひなさるべく候、昨日受取り申候たよりによれば少しく快方との事、やや安心は致し候へども、甲府入りを致したしとは以ての外に候、少々快方に向ひたればとて心に弛(ゆる)みを生じてはならず候、再三申し候通り此の道は男子も憚る険道、それを女の身にて、殊に病中の身にて旅立たんなどとは想ひも及ばぬ事に候、左様の心を起さず当分は御静養専一に可被成候(なさるべくそろ)、冬を越して来春身体と共に陽気の回復する頃を待ちて御入国なされ候へ。
 今日も女連の二人の者同じく江戸より出でて甲府へ赴く由にて此の宿へ着き申候、御身が甲府入りを致したしとの書状と思ひ合せてをかしく存じ候、右の婦人達もたえず駕籠乗物に揺られ、人気の険しさに胆(きも)を冷し随分難渋のやうに見受けられ笑止に存候」
 駒井能登守には奥方があるのでした。それはこの手紙によっても察することができるようにかなり重い病気、かなり永い患(わずら)いにかかって江戸に残されているのです。その奥方に宛てて能登守が毎日のように手紙を書いては送り、奥方からもまたこの道中の都度都度(つどつど)に音信のあることがわかります。能登守も若いから奥方も若いに違いない。能登守も綺麗な人だから奥方も美しい人に相違ない。若くて美しい二人は結婚して、そんなに長い間でないこともわかっています。新婚の若い男と女、たとえお役目柄の厳(いか)めしい能登守にも情愛がなければならぬはずであります。ましてや奥方にはそれに一層の深い情愛がなければならぬはずであります。重い病気と、永い患いとが二人の中を隔てました。その隔てはこうして毎日のように書いているおたがいの消息によって、美しく結ばれているということが想像されるのであります。
 駒井能登守が手紙を書き終ったところへ、お絹から言いつけられた通りにお松がお茶を捧げて入って来ました。
「御免あそばしませ」
「これはこれは」
と能登守は言いました。
 能登守は風呂に入る前に、書類や手紙の用を済ましてしまうのが例であります。お松がお茶を捧げて来たのはちょうどよい折でありました。
 能登守は、お茶を捧げて来たお松の様子を見ると、どうもこの宿あたりにいる女中とは思われないから、
「そなたは、この家の娘御(むすめご)か」
と言って尋ねてみました。
「さきほどは伯母が上りましてお目通りを致しました」
「あ、左様であったか」
 宿を周旋してやったためにお礼に来たさきほどの女、この娘はその連(つれ)か、そうしてさきほどの女が気を利かして、この娘にお茶を持たしてよこしたのだろうと思い当りました。
「何ぞ、御用がござりましたなら、仰(おお)せつけ下さるようにとの伯母の申しつけでござりまする」
と言って、お松は能登守の前に指を突きました。
「それは御親切ありがたいが、別に用事といって……」
 能登守はちょうど眼を落したのが、いま書いていた手紙であります。せっかくのことに、
「大儀ながらこの手紙を、明朝の飛脚で江戸へ届けてもらうように、この宿の主人へ手渡し下されたい」
と言って、その手紙を拾ってお松に渡しました。
「畏(かしこ)まりました」
「あの先刻の婦人は、そなたの伯母でありましたか」
「はい」
「よろしく申して下されよ」
 お松はこうしてお茶を捧げて来て、手紙を持って能登守の許をさがる時に、まことに好い殿様だと思いました。怖(こわ)いお役人様のお頭(かしら)であろうと思って来たのに、打って変って優(やさ)しく思いやりがありそうで、そうかと言ってニヤけた御人体(ごにんてい)は少しもなく、気品の勝(すぐ)れていることを何となく奥床(おくゆか)しく感じてしまいました。
 お絹はお松が能登守から頼まれたという手紙を自分が受取って、お松に向っては、
「今、殿様がお風呂においであそばしたようだから、お前は行ってお世話を申し上げて下さい、失礼のないように」
と言いつけました。
 お松はその言いつけをも、温和(おとな)しく聞いて風呂場の方へ行きました。そのあとでお絹は能登守の手紙を手に取ってつくづくと眺めていました。表には「江戸麹町二番地、駒井能登守内へ」と立派な手蹟で認(したた)めてあります。
 それを見ると、お絹はまたむらむらと変な心が起りました。この手紙は能登守からその可愛い奥方に送る手紙だと感づいてみると、お絹の心が穏やかでありません。能登守の奥方にはまだお目にかかったことはないけれど、能登守があの通り若くて綺麗な人だから、奥方もまた若くて美しい人に違いないとは誰でも想像されることであります。そういうことにはことに敏感なこの女は、あんまり人をばかにしているとこう思いました。お安くない夫婦の間の音信をこのわたしたちに見せつける能登守の仕打(しうち)を憎いと思いました。能登守のような若い殿様に可愛がられる奥方は、どんな人か面(かお)が見てやりたいように思いました。自分たちにそういう心を起させようがために、お松に頼まないでもよい手紙をワザと持たしてよこして、これ見よがしに見せびらかすのではないか。
 これは能登守にとっては非常に迷惑な邪推であります。
「よしよし、そういうわけならばこの手紙の中を見てやりましょう。どんな憎らしいことが書いてあるか見てやりましょう、ほんとに癪(しゃく)に触るから見てやりましょう」
 お絹もそれほど悪い女ではないけれど、情事にかけると、いつも好奇心がいたずらをします。そのいたずらが、暗い中でうごめき出すのを抑えきれないという悪い癖がありました。
 それでも女のことで、荒らかに封を切るということはなく、楊枝(ようじ)の先で克明(こくめい)に封じ目をほどいて、手紙の中の文言(もんごん)を読んでみると、それがいよいよいやな感じを起させてしまいました。
 この手紙の中は夫婦間の美しい消息を以て満たされている。遠く旅に行く夫の心と、病んで家に残る妻の心との床しい思いやりが溢れています。その美しい消息と床しい思いやりとが、お絹の心持をさんざんに悪くしてしまいました。
 人の手紙というものは、見るべきものでも見せるべきものでもないのに、それを盗んで見るということはこの上もない卑劣なことで、お絹もそこまで堕落した女ではなかったのだけれど、好奇(ものずき)から出立して、我を失うようになるのは浅ましいことであります。
 その手紙を読んでしまったあとでお絹は、ついにその筆蹟をうつすというところまで進んで来ました。駒井能登守の筆蹟を透(す)きうつしにして取ってしまいました。これはどういうつもりか知らん。さすがにそれからあとを破りもしなければ裂きもしないで、もとのように丁寧に封をします。
 好奇の隣りには、いつでも罪悪が住んでいる。物を弄(もてあそ)ぼうと思えば必ず己(おの)れが弄ばれる。お絹は悪い計画をする女ではないにかかわらず、男を見るとこういういたずら心が起って、兵馬を口説(くど)いてみたり、竜之助の時の留女(とめおんな)に出てみたり、がんりきを調戯(からか)ったりしていたのが、ここへ来ると駒井能登守を、また相手にする気になってしまいました。
 能登守の手紙を見てしまったことが何か能登守の弱点を押えたように思われて、その取っておいた筆蹟から、或いは能登守を困らせてやるようないたずらができまいものでもあるまいと思っていました。
「友さん、友さん」
 お絹は次の間に控えている米友を呼びましたけれども返事がありませんから、
「どうしたんだろう、疲れて寝込んでしまったのかしら」
と独言(ひとりごと)を言っている時に、与力同心の部屋に宛(あ)てられたところで哄(どっ)と人の笑う声がしました。それと共に、
「笑っちゃいけねえ」
という声は米友の声であります。
「もうお役人衆の傍へ行って話し込んでいると見える。罪のない人だけれど、また間違いを起さなければよいが」
 大勢を相手にしきりに話し込んでいる米友を呼び出すも気の毒だと思って、お絹は自分でその手紙を主人のところへ持って行こうとして廊下へ出ました。
 お絹が廊下へ出て見ると、あの部屋の障子には幾多の侍の頭と米友の頭がうつって見えます。障子に映ってさえ米友の頭はおかしい頭でありました。よくあの頭で人中へ出られるものだ、せめて頭巾でも被って出るか、そうでなければ、かなり頭の毛が生(は)え揃(そろ)うまで人中へ出ないようにしていたらよかろうにと思いました。ところが米友はいっこう平気で、
「一生稽古したって駄目な奴は駄目なんだ、俺(おい)らなんぞは木下流の槍の手筋を三日しか稽古しねえんだ、木下流とも言えば淡路流とも言うんだ、三日稽古をしてその秘伝(こつ)をすっかり呑込んでしまったんだ」
 何を言ってるのかと思えば、槍の自慢でありました。与力同心の連中へ、坊主頭を振り立てて、槍の自慢をしていることがありありとわかります。
 与力同心の連中は、一人の米友を真中へ取りまいて、いずれも面白半分な面(かお)をしてその話を聞いているところであります。
 面白半分な面をして聞いているのはまだ真面目(まじめ)な方で、米友がこの部屋へ入って来る早々から笑いこけて、いまだにゲラゲラ笑っているものもあります。もう腹の皮を痛くしてしまって、このうえ笑えないで苦しがっているようなのもあります。
 これは米友が好んでここへ押しかけて来たのではありません。彼等は早くもこの宿へ米友が来たということを知って、相当の礼を以て招(まね)いたから米友はここへ来たのでありました。
 与力同心は、米友の頭を見て笑ってやろうというような心で米友を招いたのではなく、この不思議な人物の持っている、不思議な能力を解決してみたいからでありました。
 しかしながら、招かれて来た米友の頭を見た時は哄(どっ)と笑ってしまいました。人を招いておきながら、その人の入って来るのを見て、声を合せて笑い出すということは礼儀ではありませんけれども、つい笑ってしまいました。しかし笑われても米友は必ずしも腹を立てませんでした。
「笑っちゃいけねえ」
と言って座に着いてから、やがて話が槍のことまで及んで来て、
「一生稽古したって駄目な奴は駄目なんだ、俺らなんぞは木下流の槍の手筋を三日しか稽古しねえんだ、木下流とも言えば淡路流とも言うんだ、三日稽古をしてその秘伝(こつ)をすっかり呑込んでしまったんだ」
という気焔を上げています。

         七

 お絹が手紙を持ち扱い、米友が与力同心の中で気焔を吐いている間に、お松は風呂場で駒井能登守の世話をしておりました。
 お松は次の間に控えて、能登守の風呂から上るのを待っています。
 その間に兵馬のことを考えています。いま甲府の牢内に囚(とら)われているという兵馬を助けんがためには、神尾主膳に頼ることが最良の道であることに七兵衛もお絹も一致しているが、お松には神尾の殿様という人が、それほど頼みになる人とは思われません。ここにおいでなさる駒井能登守という殿様は、神尾の殿様よりも一層頼みになりそうな殿様であると、こう思わないわけにはゆきません。甲府勤番支配は、ある意味において、甲州の国主大名と同じことだと言ってお絹から聞かされました。神尾の殿様に比べて強大な権力を持っている人だということもお絹から聞かされました。その上に、ちょっとお目にかかっただけでも、大層お優しい方だとお松は頼もしく思いました。神尾の殿様とは、以前の知行高は同じぐらいであったそうだけれども、その人品は大へんな相違があると思いました。それですから、もし神尾の殿様に願って通らなかった時は、この殿様に願えば必ず叶(かな)えて下さるだろうと思われてなりませんでした。或いは神尾の殿様に願わない前に、この殿様にお願いした方が、事がすんなりと運ぶだろうと、お松はそこまで考えてきました。それでこの殿様に、この意味で取入っておくことが幸いであると気がつきました。お絹がお松をして能登守に取入らせようという心と、お松が自身で能登守を頼ろうとする心とは全く別なのであります。
 そう考えてくると、お松はこの時が好い機会であると思わないわけにもゆきませんでした。同じ甲府へ行く旅にしても、身分も違えば目的も違う、この後、こんなに親しくお目にかかれる機会があるかどうかわからぬとお松はそこへ気がついたから、どうしても今宵(こよい)を過ごさず能登守に向って、兵馬の身の上のお願いをしてみるほかはないと、心が少しいらだつようになりました。
 こんなことを考えている時に、能登守は風呂から上った様子でありましたから、お松は立って行きました。そうしてお松は、能登守の着物を着替える世話をしてやりました。能登守はお松の親切を喜んで、打解けて見えます。
 お松は言い出そう、言い出そうとしましたけれども、つい言い出しにくくなって、お願いがございますと咽喉まで出てそれが言えないで、自分ながら気がいらだつのみであります。
 お松が能登守のために雪洞(ぼんぼり)を捧げて長い廊下を渡って行く時に、笹子峠の上へ鎌のような月がかかっているのが見えました。
 能登守は静かに廊下を歩きながら、その月を振仰いで見ました。
「そなたは、江戸からこんなところへ来て淋しいとは思わないか」
と能登守はお松を顧(かえり)みてこう言ってくれました。その言葉があったために、さっきから一生懸命で、言い出そう言い出そうとしていたお松は一時に力を得て、
「いいえ、淋しいとは思いませぬ、少しも」
と言葉にも力を入れて返事をしました。
「それはえらい」
と言って、能登守は賞(ほ)めたけれど、お松の言葉よりは鎌のような月の方に見恍(みと)れているのでありました。
「殿様」
 お松はここでせいいっぱいに殿様といって能登守を呼びかけましたけれど、自分ながらその言葉の顫(ふる)えていることに驚いたくらいでありました。
「なに?」
 能登守は、お松の改まった様子を少しく気に留めた様子です。
「あの、お願いでござりまする」
とお松は、いよいよ改まった言葉でありました。
「願いとは?」
 能登守は鎌のような月を見ていた眼を、お松の方へ向けました。そうして雪洞(ぼんぼり)の光に照らされたお松の面(かお)に一生懸命の色が映っていることを認めて、これには仔細(しさい)があるだろうと感じました。
「あの、わたくしどもが甲府へ参りまするのは、冤(むじつ)の罪で牢屋につながれている人を助けに参るのでございます」
「人を助けに?」
「それ故、殿様のお力添えをお願い致したいのでございまする」
 お松は夢中になってここまで言ってしまいました。ここまで言ってしまえばともかくも安心と、ホッと息をつきました。
「果して冤(むじつ)の罪であるものならば、わしの力を借りるまでもなく罪は赦(ゆる)される。もし、まことに罪があるものならば、わしが力添えをしたとてどうにもなるものではない」
と能登守は、お松の願いの筋には深く触れないで、やや慰め面(がお)にこう言っただけでした。しかしお松はもう、一旦切り出した勇気がついたから、その頼みの綱を外(はず)すようなことはしません。
「いいえ、たしかに冤(むじつ)の罪なのでございまする、その方は決して盗みなどをなさる方ではないのでございまする、公儀様の御金蔵を破るなどという、だいそれたことをなさるお方でないことは、わたしが命にかけてもお請合(うけあい)を致しまする、それがあらぬお疑いのためにただいま御牢内に繋(つな)がれておいであそばす故、わたくしは心配でなりませぬ、何卒してそのお方をお助け申し上げたいと、それでわたくしどもは甲府へ参りますのでござりまする、甲府へ参りまして、神尾主膳様からそのお願いを致すつもりでございますが……」
 お松は一息にこれだけを言ってしまいました。能登守は、お松の願うほど熱心にそれを聞いたのか聞かないのか知らないけれど、笹子峠の上にかかった鎌のような月にばかり見恍れているのであります。
 そのうちに廊下を渡り了(おわ)って、能登守の居間の近くまで来ました。

         八

 お松が帰って来た時分に、お絹のいなかったことは別に怪しいことではありません。
 お絹は風呂から出ると、浴衣(ゆかた)を引っかけたままで暫く渓流に臨んで湯上りの肌を、山岳の空気に打たせていました。
 前にいう通り、すぐ眼の上なる笹子峠には鎌のような月がかかっている。四方の山は桶(おけ)を立てたようで、桂川へ落ちる笹川の渓流が淙々(そうそう)として縁の下を流れています。
 自分にいい寄って来る男を物の数とも思わないような気位が、年と共に薄らいでゆくことが、自分ながらよくよくわかります。それ故にがんりきとお角とが仲よくして歩くところを見ると嫉(や)けて仕方がありませんでした。
 有体(ありてい)に言えば今のお絹は、男が欲しくて欲しくてたまらないのであります。男でさえあれば、どんな男でも相手にするというほどに荒(すさ)んでくることが、このごろでもたえず起って来るようでありました。
「あの、がんりきの百蔵という男、御苦労さまにわたしたちを附け覘(ねら)ってこの甲州へ追蒐(おっか)けて来たが、あの猿橋で、土地の親分とやらに捉まって酷い目にあったそうな、ほんとにお気の毒な話」
とお絹は、がんりきのことと、それが猿橋へ吊されたという話を思い出して、ほほ笑み、
「七兵衛が助けると言って出かけたが、ほんとに助かったか知ら。酔興とは言いながら、かわいそうのような心持がする、何のつもりか知らないけれど、わたしを追蒐けて来たと思えば、あんな男でもまんざら憎くはない、命がけで、わたしの後を追蒐けて来る心持が可愛い」
 今となっては、たとえ無頼漢(ならずもの)であろうとも、自分に調戯(からか)ってくれる男のないことが淋しいくらいでありました。
 こんなことをいつまで考えていても際限がないと、お絹は浴衣の襟をつくろってそこを立とうとした時に、縁の下の笹藪(ささやぶ)がガサと動いて、幽霊のようなものが谷川の中から、煙のように舞い出した。あれと驚くまもなくお絹の首筋をすーっと一巻き捲いてしまいました。
「何を……何をなさるの……」
 その幽霊のようなものは、お絹の首筋をすーッと捲いて、その面(かお)を自分の胸のあたりへ厳しく締めつけたものだから、それでお絹は、言葉を出すことができなくなってしまいました。
「御新造(ごしんぞ)、がんりきだ、百だよ」
と言って、有無(うむ)を言わさず縁の下へ引き下ろしてしまいました。
 河童(かっぱ)に浚(さら)われるというのは、ちょうどこんなのだろうと思われます。お絹は一言(ひとこと)も物を言う隙(ひま)さえなく、欄(てすり)の上から川の岸の笹藪の中へ、何者とも知れないものに抱き込まれてしまいました。何物とも知れないのではない、その者はお絹の首を抱いてその面をしっかりと胸に当て、口の利けないようにしておいてから、「おれは、がんりきだ、百蔵だ」と名乗ったはずです。
 本陣の方では、こんなことを気のついたものが一人もありませんでした。
 能登守は事務に精励であったし、米友は与力同心を相手に気焔を吐いているし、そのほかの連中とてもそれぞれの仕事をしていたり、世間話をしていたりしていたものだから、一向この方面のことは閑却されていました。ただ一人お松だけが、お絹の湯上りがあんまり悠長(ゆうちょう)なのを気にして、二度までも湯殿へ来て見ましたけれど、そこにも姿を見ることができませんでしたから、ようやく気が揉(も)め出して米友を呼んでみようと思いましたけれども、その米友は、相変らず与力同心を相手に槍の気焔を吐いて夢中になっているようですから、気の毒のような心持がして、それで、また三度まで廊下の方へ行ってみました。
 お松が廊下を通った時に、廊下の縁の闇の中から、
「お松」
「はい」
 自分を呼んだのは、たしかに七兵衛の声です。
「お師匠さんはいるか」
「今、お風呂に……」
「風呂ではあるまい、風呂にはいないはずだ」
「ええ、今ちょっとどこへか……」
「それ見ろ」
 七兵衛から、それ見ろと言われてお松はギョッとしました。
「友さんを呼びましょう、御支配のお役人様もおいでなさいますから、お頼み申しましょうか」
 こういってあわてると、七兵衛はそれを押えて、
「米友にも役人にも知らせない方がいい、ナニ、百の野郎は痛み所で、身動きも碌(ろく)にできねえのだから、大したことになりはしめえ、俺がこれから一人で行って捉まえて来る、お前はこのまま座敷へ帰って静かにしているがいい、米友にもやっぱり黙っていた方がいいよ、あいつが下手(へた)に騒ぎ出すとまた事壊(ことこわ)しだ」
 七兵衛は、これだけのことを言い残して、闇の中へ消えて行きました。
 鎌のような月が相変らず笹子峠の七曲(ななまがり)のあたりにかかっている時に、黒野田の笹川の谷間から道のないところを無理に分け登って行くものがあります。肩に引っかけられた女は少しの抵抗する模様もなく、背中へグッタリと垂れた面へおりおり木の繁みを洩れた月の光が触(さわ)ると、蝋(ろう)のように蒼白く、死んだものとしか見えません。
 それを背中へ載せて路のないところを登って行くがんりきの百蔵。これもまた面の色が真蒼(まっさお)で、ほとんど生ける色はありません。木の根に助けられたり、岩の角に支えられたりして、上るには上るが、その息の切り方が今にも絶え入りそうで、やっと一丁も登ったかと思う時分に、力にした草の根が抜けると一堪(ひとたま)りもなく転々(ころころ)と下へ落ちました。
「ああ、苦しい」
 二三間も下へ落ちて岩の出たところで支えられた時に、がんりきは、もう苦しくて苦しくてたまらなく見えましたけれど、その肩へ引っかけていたお絹の手首は決して放すことではありません。
 はッ、はッと吐く息は唐箕(とうみ)の風のようであります。なんにしても、がんりきは腕が一本しかないのです。その一本しかない腕で、お絹を肩に担いで、足と身体で調子を取って上ろうとする心だけが逸(はや)って、岩に足を踏掛けると足がツルリと辷(すべ)りました。
「あっ、苦しい」
 またも二間ばかり下へ辷り落ちたがんりきは、お絹と共に折重なって、暫らくは起き上れません。
「あっ、苦しくてたまらねえ」
 やっと起き直って見ると、向(むこ)う脛(ずね)からダラダラと血が流れていました。
「畜生、こんなに向う脛を摺剥(すりむ)いてしまった」
 そのままにしてお絹を引っかけて、また上りはじめてまた辷りました。
「こいつはいけねえ、いくら力を入れても辷って上れねえ、はッ、はッ」
 やっと一間も登ると、ズルズルと七尺も辷っては落ちる。
「こんなことをしていたんじゃあ始まらねえ、帯はねえか、帯は」
 ここに至ってがんりきは、とても手首を掴まえて肩にかけて上ることの覚束(おぼつか)ないのを悟ったから、帯を求めて背中へ括(くく)りつけて登りにかかろうと気がついて、はじめて手首を放して大事そうにお絹の身体を岩蔭に置きました。
「死んでいるんじゃねえ、殺したと思うと違うんだよ、もう少し辛抱すりゃ活(いか)して上げますぜ御新造、はッ、はッ」
 例の鎌のような月が、微かながらその光を差して、真白なお絹の面と肌とが活きて動くように見え出した時、がんりきはどこかで大木の唸(うな)るような音を聞きました。
 猫が鼠を捕った時は、暫らくそれをおもちゃにしているように、自分でそこへ抛り出したお絹の面(かお)を見ると、がんりきは物狂わしい心持で、
「こうしちゃいられねえんだ」
 再びお絹を背負い上げて登りはじめようとしたが、この時はがんりきの身体もほとんど疲労困憊(ひろうこんぱい)の極に達して、自分一人でさえ自分の身が持ち切れなくなってしまいました。この女を荷(にな)ってこの崖路(がけみち)を登ることはおろか、立って見つめているうちに、眼がクラクラとして、足がフラフラとして、どうにも持ち切れなくなったから、がんりきはお絹の傍へ打倒れるようにして、烈しい吐息(といき)を、はっはっとつきながら峠の上を仰いで、
「矢立(やたて)の杉が唸(うな)っていやがる、矢立の杉が唸ると山に碌(ろく)なことはねえんだ。せめて、あの杉のところまで行きたかったんだが、この分じゃあもう一足も歩けねえ、といってこれから下へも降りられねえ、自分ながら自分の身体が始末にいけねえんだからじれってえな。うまくせしめるにはせしめたけれど、これだけじゃあ何にもならねえや。俺の腕はこんなもんだということを、七の兄貴にも見せてやりてえし、粂の親分にも見せてやりてえんだ。それからまた、勤番の御支配とやらが泊っている本陣から盗み出したといえば、ずいぶん幅が利かねえものでもねえ、これからこの女を連れて一足先に駒飼(こまかい)まで行って、そこで、どんなものだとみんなの面を見てやりゃあ、後はどうなったって虫がいらあ。峠を越してしまわねえうちは、こっちのもんでこっちのものでねえようなものだから、なんとかして漕(こ)ぎつけてえんだが、身体が利かねえから仕方がねえ。ああ、ほんとに弱った、死んでしめえそうだわい」
 がんりきはついにそこへ、へたばって動けなくなりました。
 がんりきが動けなくなった時分に、お絹が少しく動き出してきました。お絹が少し動き出した時分に、下の方で喧(やか)ましい人の声、上の方でもまた人の声。
 昏倒(こんとう)しかけたがんりきは、お絹の動いたことにはまだ気がつかなかったけれど、上下で起るその人の声は早くも耳に入ると、必死の力でむっくり起き直って見ると、提灯(ちょうちん)の光が、いくつもいくつも黒野田の方から、谷川と崖路を伝うてこちらを差して来るのがわかります。
 上の方、矢立の杉のあたりからもまた火影(ほかげ)がチラチラ、してみると自分はもう取捲かれているのだ。がんりきは遽(にわか)に立ち上ってよろめきながら、
「トテモ逃げられなけりゃ、ここで心中だ。生きて峠が越えられねえのだから、死んで三途(さんず)の川を渡るのも、乙(おつ)な因縁(いんねん)だろうじゃねえか。道行の相手に、まあこのくらいの女なら俺の身上(しんじょう)では大した不足もあるめえ。猿橋の裏を中ぶらりんで見せられたり、笹子峠から一足飛びに地獄の道行なんぞは、あんまり洒落(しゃれ)すぎて感心もしねえのだが、どうもこうなっちゃあ仕方がねえ」
 がんりきがお絹の傍へ寄った時、
「な、何をするの」
 お絹は生きていました。自分の咽喉へかけようとしたがんりきの手を、夢中で振り払うと、
「おや」
 がんりきも驚いたが、その途端にフラフラとまたしても岩を辷(すべ)ると、あわててその片手にお絹の着物の裾を掴む。裾を掴んだけれども、辷る勢いが強くてお絹もろともに釣瓶落(つるべおと)しに谷底へ落っこちます。

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