大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「へえ、あのお絹様と、それからお松どのとが何か難儀にお遭(あ)いなされましたか」
「左様」
「それは大変でござりまする。してその難儀と申しまするのは?」
「くわしいことはわからぬが、盗賊か胡麻(ごま)の蠅(はえ)に過ぎまいと思う」
「それはまことに心がかりでござりまする」
「とにかく、黒野田へ行って見ての上でないと拙者にもわからぬ。それから滝田、この道中、ことによると駒井能登守という旗本と出逢うかも知れぬ、それはこのたび、甲府へお役になった拙者の知合いだ、たぶん我々が峠へ登る時分に、駒井は下りて来るだろうから、やがて行逢った時は、乗物を下りて名乗り合うのはこと面倒だから、知らぬ面(かお)をして通れ」
「畏(かしこ)まりました」
「なるべくならば神尾主膳と名乗りたくない、尋ねたならば、諏訪(すわ)の家中で江戸へ下るとでも申しておいたがよろしかろう」
「畏まりました」
 こうして神尾主膳の一行が関所を出て橋を渡って休所の、すしや重兵衛の前を通って駒飼(こまかい)へと進んで行きました。
 その時は、まだ早朝のことでありました。神尾主膳の一行が駒飼の宿から出て、いよいよ笹子峠の上りにかかろうとする時分に、不意に傍(かたえ)なる林の中から人が飛び出して、主膳の駕籠わきに転がってしまいました。
「何者だ」
といって家来の連中が立ち塞(ふさ)がると、
「どうかお助けなすっておくんなさいまし、どなた様かは存じませぬが、九死一生(きゅうしいっしょう)の場合でございます、お見かけ申してお願い申すんでございます、どうかお助けなすって下さいまし」
 駕籠の傍へ手をついたのは、なるほど、九死一生と見えて髪は乱れ、白い着物は裂け、身体じゅう突傷(つききず)だの擦傷(かすりきず)だので惨憺(さんたん)たるもので、その上に右の片腕が一本無い男であります。
「次第によっては助けてやるまいものでもないが、其方(そのほう)は何者だ、どうして斯様(かよう)なことになった」
「身延山へ参詣する者でございます、途中で悪い奴に遭ってこんな目に逢わされてしまいました、お話し申せば長いことでございます、ここではお話が申し上げられません。あれ、いま追手がかかります、追手というのはお役人でございます、お役人が間違えて、私を悪者だと思って捉(つか)まえに来るんでございます、今お役人につかまっては、私も言い解くことができませんから、どうか暫らくおかくまいなすって下さいまし、そのうちにキッと私の罪のないことがわかるんでございます、同じことならあのお役人に捉まりたくないんでございます」
「はて、其方を追いかける役人というのは?」
「今、向うからやって参ります、今度、江戸表からお越しになった駒井能登守様というお役人の御人数でございます、あのお方に捉まると私が是が非でも悪者にされてしまいますから、どうかお助けなすっておくんなさいまし、もうこの通り身体が弱っていますから、一足も動けませんでございます」
「なるほど、其方を追いかけて来たのは、駒井能登守の人数であると申すな」
「左様でございます、あれもう、ああやって追いかけて参ります」
「殿様、お聞きの通りの次第、いかが取計らったものでござりましょう」
「よし、助けてやれ」
「では能登守様から故障がありました節は、いかが取計らいましょう」
「拙者が引受けるからよろしい」
 神尾主膳は一諾してしまいました。怪しい奴は弱りきっていたにかかわらず、この一諾を聞いて躍(おど)り上るほどに喜んで、
「有難うござりまする、この御恩は死んでも忘れは致しませぬ」
 神尾の駕籠を拝みます。神尾はそれを見て、
「どこの何者か知らんが、危急と見受ける故、ともかくも一応助けて取らせる。滝田、幸い駕籠が二つ空いている、それへこの者を載せてやれ」
「畏(かしこ)まりました。これ、殿様がお助け下された上に、この乗物をお貸し下さる、有難く心得てこの中へ入れ」
「何から何まで有難うございます、それでは御遠慮なしに、お言葉に甘えまして、どうか御免下さいまし」
 お絹を乗せてつれて帰るべき乗物へ、怪しい奴を乗せてやりました。怪しい奴はすなわちがんりきの百蔵であります。
 そうしておいて神尾は、
「もし能登守の手の者が何とか尋ねても、知らぬ存ぜぬと言ってしまえ、むつかしくなれば拙者が応対に出る、其方たちは取合わずに乗物を進めろ」
 果していくばくもなく、神尾主膳の一行の前にバラバラと駆けて来たのは、駒井能登守の手の与力同心とお手先の者共でありました。
「失礼ながらそのお乗物、暫らくお待ち下されたい」
「何の御用でござる」
「ただいま、一人の怪しき者を追い込んで参りましたところ、この辺にて姿を見失い申した、もしやお見かけはござらぬか」
「とんとお見受け申さぬ」
「はて」
と言って能登守の手の者は、挨拶に出た主膳の家来どもを怪訝(けげん)な眼でながめ、
「ただいま、このところでたしかにその者の姿を見かけたものがござるが」
「我々の方においては左様な者を一向に見かけ申さぬ」
「年の頃は三十ぐらい、色が白く、小作り、もとは江戸の髪結職(かみゆいしょく)であった者、それに誰が眼にも著しいのは左の片腕が無いこと」
「ははあ」
「怪しい廉(かど)が多い故、いちおう取押えて置きたい」
「それは御苦労千万。しておのおの方は?」
「我々は、このたび甲府勤番支配を承った駒井能登守の手の者、甲府へ赴任の道すがらでござるが」
「しからば、これより峠を登り行くうち、まんいち左様なものに出逢い申さぬとも限らぬ、その折は取押えてお引渡しを致すでござろう、これにて御免」
 これにはかまわずに、乗物を進めようとするから、能登守の手の同心と手先はあわててその前に立ち塞がるようにして、
「あいや、お暇は取らせぬ、暫時(ざんじ)お待ち下されたい。して御貴殿方はどなたでござるか、お名乗りを承りたい」
 こう言って能登守の手の者が、神尾の駕籠先を押えるようにしました。ここに至ってドチラにも多少の意地ずくが見えました。
「おのおの方にお名乗り申す由はない。たって姓名が承りたくば能登守直々(じきじき)においであるがよろしい」
と神尾の者がこう言いました。
 この時に、駒井能登守と渡辺という与力が、峠を下りて近いところまでやって来ました。
 それと聞いて渡辺は神尾の駕籠近く寄って来て、
「お乗物の中へ物申す、拙者は甲府勤番支配の与力渡辺三次郎、失礼ながらお名乗りを承りたい」
 この時に神尾主膳が駕籠の垂(たれ)を上げて外を見ると、おりから来かかった駒井能登守と面(かお)を合わせたが、さあらぬ体(てい)で、
「拙者事は、同じく甲府勤番の組頭神尾主膳でござる、今日は私用にてこのところを通行致す故、公用向きの礼儀は後日に譲る、お尋ねの怪しい者とやら一向に我等は存知致さぬ、前路にちと急の用事あるにより、これにて御免」
 こう言ったままで、垂を下ろさせてさっさと駕籠を進ませました。だから能登守の左右の者が、その無礼を憤(いか)って眼と眼を見合わせると、能登守はなにげなき風情(ふぜい)で取合いません。

         十

 こうして神尾主膳の一行は笹子峠を向うへ越えて、黒野田の本陣へ着きました。
 黒野田の本陣へ神尾の一行が着いた分には仔細がないけれど、その一つの駕籠の中に隠して来たがんりきをこの宿へ連れ込むとすれば無事ではないはずだが、一行がこの本陣の前へ着いた時に、がんりきの駕籠だけはここへ留めないで、「鳥沢まで送ってやれ」ということになったのは、思うにまたしてもその鳥沢の粂という親分のところまで送り返されるものであろうと思われる。
 がんりきだけを鳥沢へ送りとどけて、神尾の一行が、この本陣へ着いた時に、本陣では前の晩に能登守を泊めたと同じぐらいのもてなしをせねばなりません。
 そうしてそれぞれ失礼のないようにお迎え申したけれど、ここに奇怪なのはお絹の素振(そぶ)りでありました。この時、お絹はもう昨夜の災難のことなどは、ケロリと忘れてしまっているようでした。朝寝を少し永くしたぐらいのところで、主膳を迎うべく薄化粧などをして、主膳が着くと、真先に立って下へも置かぬもてなしが、何も知らぬ本陣の人々には別段おかしくもなかったろうけれど、前後を知っているお松には、あんまりそらぞらしいように思われてなりませんでした。
 なぜならば、駒井能登守をもてなす時は、神尾の殿様などは有っても無くってもいいような口振をして見せたのに、その能登守が去って神尾主膳が来てみると、能登守なんぞはどこを通ったかというようにして、もう一も二も神尾でなければならないように、そわそわしているからであります。よくもこうまで手のうらを返すようになれるものかと、お松がそれをあまりにそらぞらしく浅ましく思ったのも無理はありません。それのみならず、神尾がここへ着くと共に、早速に酒宴が始まって、お絹が先立ちでその周旋(とりもち)をするという体(てい)たらくになってしまい、お松が座を外して隠れるようにしていると、神尾主膳は、お絹を相手にして盛んに飲みながら、お前もひとりで貞女暮しは淋しいことだろうとか、殿様も甲府ではまた罪をお作りになったことでございましょうとか、お松か、あれも年頃になったな、お前の仕込みだから抜かりもあるまいとかいうような言葉を洩れ聞いたお松は、面(かお)から火が出るようでありました。

 ここに憐(あわれ)むべき宇治山田の米友は、己(おの)れの間に閉じ籠ったまま、沈痛な色を漲(みなぎ)らせて腕を組んで物思いに耽(ふけ)っています。
 米友は、ここまでの道中で二度失敗(しくじ)ったことを良心に責められています。
 米友が失敗ったその一度は、上野原の宿で一行に出し抜かれて、無理な鶴川渡りをしてやっと追いついた事、その二度目は昨夜の騒動であります。
 彼は、この道中が終るまでは、寸分の隙(すき)もなくお絹とお松とを守っておらねばならぬ使命がある。彼自身もまたその使命を粗末にしようとは思っていなかったのに、昨夜という昨夜、与力同心に招かれて槍の話になって、有頂天(うちょうてん)に気焔を吐いてしまいました。
 その隙にお絹が天狗に浚(さら)われたのだから、幸いにしてお絹は帰って来たからいいようなものの、もし帰らなければ、所詮(しょせん)自分の腹切り勝負だと思いました。とてもここにこうしてはいられぬ、面目のないことだと思いました。米友は、それ故に良心の呵責(かしゃく)を受けています。しかし、米友の単純な心でも、どうもあれからのお絹の挙動が解(げ)せない、他の人が騒ぐほどに騒がないお絹の心持がわかりません。髪容(かみかたち)や着物のさんざんになって帰って来たところを見れば、かなりヒドイ目に遭って来たのだろうと思われるにもかかわらず、そのヒドイ目に遭わした奴に仕返しをしてやろうという気が更に見えない。仕返しをしてみようという気がないばかりでなく、そのために山狩りをして悪い奴を捉まえようとするのを、よけいなことのように見ています。
 それよりもなおわからないのは、昨夜あれほどに人騒がせをやった当人であるにかかわらず、今日はもうケロリとしてしまって、甲府から迎えに来たというお武士(さむらい)を引張り上げて、あの通り御機嫌よくもてなしているということが、正直な米友にとっては忌々(いまいま)しいことです。
 あんなとりとまりのない人間を、槍を持って番人に廻っているのがばかばかしいと考えている時に、障子が不意にあきました。見ればやや酒気を帯びたお絹がそこに立って、
「友さん」
「うむ」
「昨夜(ゆうべ)はどうもお騒がせをしました、あの甲府から神尾主膳様がお迎えにおいで下すって、お供の衆もたくさんついていますから、もうこれからは安心、今までお前さんにもいろいろお世話になりましたけれど、これからはもうお前さんの勝手に旅をしてようござんすよ」
「ええ?」
「お前さんは、これから江戸の方へ帰りなさるとも、また甲府の方へ行ってみようとも、もうわたしたちにかまわないで、自分の気儘(きまま)にしておいでなさい」
「うむ」
「これは少しだけれど、ほんの、わたしたちの志(こころざし)、どうぞ納めておいて下さい。それから、もしお前さんが甲府へ行っても、今までの調子で心安立(こころやすだ)てに、殿様のお邸なんぞへ無暗にやって来られては困ることもあるから、そこは遠慮をしておいておくれ、そのうち御縁があればまた何とかして上げないものでもありませんからね」
 金一封を包んでそこに置いたまま、眼をパチパチさせて口を吃(ども)らせている米友を見返りもしないで、お絹はさっさとこの場を立って行きました。
 お絹の置いていった金一封を前にして米友は、暫く呆然(ぼうぜん)としていたが、やがて冷笑に変ってしまいました。
「ばかにしてやがら」
 その一封を横の方から突いてみました。突いてみたのはなにも、その中にどのくらい入っているかというのを試したわけではありません。あんまりばかばかしいから、小突(こづ)き廻してみたのであります。米友は、これらの連中の譜代の家来でもなければ臨時の雇人でもない。甲州へ行こうというのは、必ずしもこの人の附添が目的なのではないのです。これは行きがけの駄賃のようなもので、米友はお君に会いたくてたまらないから、それで甲州へ行く気になったものであります。
 この附添は頼んだものでなくて頼まれたものである。いつ断わられたところで敢(あえ)て痛痒(つうよう)を感ずるわけではないけれど、ここで断わるというのは、あんまり人をばかにした仕打ちであると思いました。それだから米友は、
「勝手にしやがれ」
と言って、またその金一封を小突き廻しました。金一封を小突き廻したところで始まらないのであるが、この場合、米友の癇癪(かんしゃく)のやり場としては、どうしても眼の前の金一封が的(まと)になります。
「ばかにしてやがら、こんな金なんぞ要(い)らねえ」
 米友はいったん、左の方から小突き廻した金一封を、今度は右の方から小突き廻しました。その有様は、掴(つか)んで抛り出すのも汚(けが)らわしいといった手つきであります。
 よしよし、これからは一本立ちで甲府へ行って見せるとも、峠を越せば甲府まで一日で行けるということだ、小遣(こづかい)だって何もそのくらいのことには困りはしない、こんな金なんぞ要るものか、突返しに行くのも、あの女の面(つら)を見るのが癪だから、と言って置放しにして行けば、誰か取ってしまった時に米友が持って出たと思われるのが業腹(ごうはら)だと米友は、眼の前の金一封を睨(にら)めながら、腹を立てたり始末に困ったりしていましたが、結局庭へ抛り出してしまうのがいちばんよろしいと考えました。庭へ抛り出して撒き散らかして置けば、人の目に触れて、自分が持って出なかった証拠が立つと思いました。米友はその金一封を掴んで、ゲジゲジでも取って捨てるような手つきで持ち出して、障子をあけてポンと庭の方へ、それもお絹の部屋の方へ近く、なるたけ人の眼に触れるようなところへと思って投げ出しました。
 米友に投げられた金一封は、庭の松の木の幹に当ってコツンと音がしましたけれど、かなり固く封がしてあったと見えて、そのまま転がってしまったから、とても、梅忠(うめちゅう)がやったような花々しい光景にはなりません。
「ちぇッ」
 米友は舌打ちをしてその抛り出した金一封を尻目にかけながら、自分は手荷物と例の手槍と脚絆(きゃはん)なんぞを掻き集めて、旅の仕度にとりかかります。
 旅の仕度が出来上って、いざと米友は縁へ出ましたけれど、いま投げ出した金一封が、封のままでゴロリとそこに転がっているのが眼ざわりでたまりません。
 米友の気象として、決してその金一封に未練があるのなんのというのではないけれど、ああして置いて誰にも見られないでほかの人に拾われてしまっては、結局やはり、自分が持って逃げたように思われてしまうのが心外であるから、松の根方に転がっている金一封を暫らくながめていましたが、そのうち、
「そうだ、そうだ、お暇乞(いとまご)いの印(しるし)にあいつの座敷へこれを抛り込んでやれ」
 何か思案がついたと見えて、庭へ飛び下りて、その金一封を拾い取るや米友は覘(ねら)いを定めて、それをお絹の座敷へ障子越しに投げ込みました。
 その時に、お絹の座敷にはお絹がいませんでした。お松がひとりで机によりかかって、本陣で貸してくれた本を読んでいました。
 そこへ怖ろしい音がして、障子を突き破ってちょうど自分の読んでいた絵本の上へ、重い物が落ちて来たからお松は吃驚(びっくり)しました。もう少しで自分の眉間(みけん)へ当るところであった。誰がこんな悪戯(いたずら)をしたのであろうと、お松は急いでその破れた障子をあけて見ました。
 障子をあけて見ると、米友がいま丸くなって植込の中を向うへ逃げて行く姿が見えましたから、お松は何のことだかわけがわからずに、
「友さん、友さん、今ここへ石を投げたのはお前かえ」
と言って廊下を追いかけるようにしてみましたけれど、米友は返事もしなければ、振返りもしないで、例の足どりで逃げて行ってしまいます。お松はいよいよ事情(わけ)がわからないけれど、米友はすっかり旅の装(よそお)いをして逃げて行くから、ともかくもつかまえて、様子を聞いてみなければならないと思いました。米友は気が短くて怒りっぽいし、それに時々勘違いをして怒り出す癖があるから、これも何か気に入らないことがあって逃げ出すのだろうと思ったから、呼び留めて事情(わけ)を聞いた上で、理解してやりさえすれば直ぐに納まるものと、大急ぎで廊下を駈けて有合せの草履(ぞうり)をつっかけて米友を追いかけました。
 表から逃げないで、裏の方の笹川へ沿うたところの細い道を逃げて行く米友を、お松は追いかけながら、
「友さん、どうしたのです、そう無暗に逃げてしまっては事情(わけ)がわからないじゃありませんか、少し待って下さい、事情を話して下さい、わたしたちを置いてけぼりにして逃げてしまうのは酷(ひど)いじゃありませんか、少し待って下さいよ、ね、友さん」
 お松がこう言って呼びかけた声の聞えないはずはありませんのに、米友はあとをも振返らず、いよいよ一生懸命で逃げて行きました。
「友さん、事情(わけ)がわかりさえすれば、お前の出て行くのを留めはしませんから、ちょっと待って話をして行って下さい、ね、友さん、何が気に入らないの、わたしはこんなに疲れてしまった、これほどにしてお前を追いかけて来たのに、お前が聞かないふりをして行ってしまえば、もし甲府へ着いた時に、君ちゃんの在所(ありか)がわかってもお前には知らせて上げないよ」
 お松は駈けながら息を切って、こう言うと、この遠矢(とおや)が幾分か米友に利いたと見えて、米友は急に立ち止まり、
「お松さん、お松さん、俺(おい)らはこれからひとりで甲府へ行くんだ、俺らがどういうわけでひとりで甲府へ行くようになったのか、いま投げてやった包み物に聞いてみるがいいや、お前さんには何も恨み恋はねえんだ、甲府へ行ったらお目にかかりましょうよ」
 米友は後ろを振返って、お松に向って大きな声で返事をしました。
「そんなことを言わないで」
 お松が押返して言うと、
「今まではお前さんたちと仲よくして来たけれど、これからは他人なんだ」
 米友は頑(がん)として首を振ると共に、クルリと背を向けてしまいました。米友はついに留まりませんでした。お松は再び追いかける余力がないので、米友の姿が山の中へ隠れてしまった時分に本陣へ帰って来ました。
 お松はもとの座敷へ帰って来て、米友の言い残して行った言葉、いま投げてやった包みに物を聞いてみるがいいと言ったことを思い出したから、机の上に置いてあったあの紙包を取って見ると、それは若干(いくばく)かの金の包みであります。
 聡明なお松は、早くもそれと合点(がてん)をしました。お師匠様のお絹が、この金を米友に与えて暇を出してしまったものだろうと感づいたことであります。役に立っても立たなくても一緒にここまで来たものを、もう目的地まで一息というところで暇を出すのは、人情に叶(かな)った仕打ちではないとお松は恥かしい思いをしました。お師匠様のお絹という人は、そのくらいのことをしかねない人。なるほど、神尾の殿様やその家来衆が迎えに来てくれてみれば、米友に附添を頼む必要はなくなってしまったかも知れないけれど、ここでもう用はないからと言って金包を出されたら、大抵の人は気を悪くするに違いないと思いました。
 ましてやあの気の短い米友が怒り出して、この金包を叩きつけて逃げるということに、お松はかえって気の毒に堪えないのであります。
 そこへ、お絹が見えたから、お松は米友が投げて行った金包を出して事情を話してみると、お絹は、
「それほど粗末になるお金なら返してもらいましょう、わたしに遣(つか)わせればいくらでも遣いみちがあるから」
と言って、恬(てん)としてその金包を再び自分の手に納めた上に、
「ほんとに、素直(すなお)に出て行ってくれてよかった。何かの力になるかと思って頼んでみたら、力になるどころか、かえって世話ばかり焼かせてしまって、この後、どんな間違いを起すか知れたものではない、今のうちに出て行ってくれたから助かったようなものさ」
 お絹はこう言って、その金を懐中へ入れてまた、神尾主膳の居間の方へと出て行きました。
 それと同時にお松は、犇(ひし)とわが身に頼りなさの心が湧いて来るのを禁(とど)めることができません。




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