大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 甲府の神尾主膳(かみおしゅぜん)の邸へ来客があって或る夜の話、
「神尾殿、江戸からお客が見えるそうだがまだ到着しませぬか」
「女連(おんなづれ)のことだから、まだ四五日はかかるだろう」
「なにしろ有名な難路でござるから、上野原あたりまで迎えの者をやってはいかがでござるな」
「それには及ぶまい、関所の方へ会釈(えしゃく)のあるように話をしておいたから、まあ道中の心配はあるまいと思う」
「関所の役人が心得ていることなら大丈夫であろうが、貴殿御自身に迎えに行く心があったら、近いところまで行ってごらんになるもよろしかろうと思う」
「しからば、勝沼あたりまで行ってみようか知らん」
「勝沼までと言わず、いっそ笹子(ささご)を越えて猿橋(さるはし)あたりまで行ってみてはいかがでござるな」
「笹子を越えるのはチト億劫(おっくう)だが、しかしまだ天目山(てんもくざん)の古戦場を初め、あの辺には見ておきたいと思ってその機会(おり)を得ない名所がいくらもある、そう言われるとこの際、行って見たいような気持がする」
「行って見給え、江戸からのお客というのを途中で迎えて、それを案内してあの辺の名所を見物し、その帰りに塩山(えんざん)の湯にでも浸(つか)ってみるも一興であろう」
「左様、それではひとつ、気休めをして来ようかな」
「それがよかろう」
と語り合っている一人は神尾主膳で、一人は分部(わけべ)という組頭。この二人が別懇(べっこん)の間柄であることはこの会話でも知れます。この話をしているところへ、
「お客様、山口四郎右衛門様がおいでになりました」
「ナニ、山口殿が見えたと? それはちょうどよい、分部殿もおらるる、直ぐにこれへお通し申すがよい」
「畏(かしこ)まりました」
 まもなく山口四郎右衛門というのが入って来ました。
「やあ、分部殿もおいでか。大分寒くなりましたな、山国である故、寒さの来ることも早いのはぜひもないが、それにしてもまだこんなはずはあるまい」
「左様、八ヶ岳にも雪が深いし、地蔵岳(じぞうだけ)も大分被(かぶ)りはじめたようだから、それが風のかげんで甲府の空を冷たくするのであろう、なかなか寒い」
「まあ、ここへ来て温まり給え、寒さ凌(しの)ぎに一献(いっこん)参(まい)らせる」
「催促をしたようで恐れ入るな」
「拙者ひとりで寒さ凌ぎをやろうと思うていたところ、折よく分部殿がお見え、それにまた貴殿のおいでで甚だ嬉しい、ゆっくりと寛(くつろ)いで行ってくれ給え」
 三人は飲んでようやく興が加わる時分に、山口四郎右衛門が何をか不平面(ふへいがお)に、
「御両所、近いうちに新しい勤番支配が来ることをお聞きなされたか、その風聞(うわさ)がたぶん御両所の耳にも入ったことと存ずる」
「ナニ、支配が来ると? しからば今まで欠けていた勤番支配の穴が埋まるのか、それは初耳じゃ、我々はトンと左様な噂(うわさ)は聞かぬ。して、いかなる人がどこから来るのじゃ」
 神尾と分部とは、自分たちの上に立つべき勤番支配の一人が新しく任命されて来るという報告を、山口の口から耳新しく聞いて意外に感じました。単に意外に感ずるばかりではなく、不安と妬心(としん)とがきらめいて見えるのです。
「左様か、まだ御両所にはそのことをお聞き召されなんだか。しからばお話し申そう、このたびお役目を承って我々共の支配に来るのは、表二番町の駒井じゃ」
「ナニ駒井? 二番町の駒井能登(こまいのと)が来るのか、あの駒井が」
 神尾主膳は他人事(ひとごと)でないような思い入れで、いそがわしくまばたきをしました。
「いかにもその駒井能登守」
「左様か、駒井が来るのか」
 神尾は絶望して、取って投げるような返答ぶりでした。
「太田筑前殿は老巧者(ろうこうもの)だ、我等が上にいただいても敢(あえ)て不足はないが、駒井は何者だ、あれは我々よりズット年下、しかも知行高(ちぎょうだか)も格式も以前は我々に劣(おと)ること数等、若い時は眼中に置かなかったものじゃ。今となってあれに先(せん)を越されて剰(あまつさ)え、我々が支配として頭に頂かねばならぬとは情けない。ああ、そう聞いては酒がうまくない、世の中が面白くないわい」
「それは我々も同じこと。なるほど、駒井は学問は多少あるにはあるだろう、我々が道楽をして遊んでいた時分に、あいつは青い面(かお)をして書物と首っ引きをしていたのだから、相当に理窟は言えるようになったろうけれど、それよりもあいつの得手(えて)は上役に取入ることだ、老中(ろうじゅう)あたりに縁があって、胡麻(ごま)をすったその恩賞で引上げられたのだ、あいつは頼もしそうな面をして老中あたりの頑固連(がんこれん)を口説(くど)き落すには妙を得ている」
「駒井も駒井だが老中も老中だ、いったい我々甲府勤番を何と心得ている。なるほどいずれも相当にしたい三昧(ざんまい)をし尽した報いで、こんな狭い天地に逼塞(ひっそく)はしているけれど、以前を言えば駒井の上に出でるものはいくらもある。言わば甲府勤番は苦労人の集まり、粋人の巣と言うべきだ、容易な人間でその支配が勤まると思われるのが大不足だ、相当の人を遣(つか)わすのが、我々へ対しての礼じゃ。しかるに駒井如き若年者(じゃくねんもの)をよこして我々の頭に置こうなぞとは、見縊(みくび)られたもまた甚だしい哉(かな)。二百余名の甲府勤番がそれで納まるか知らん、駒井を頭にいただいて唯々諾々(いいだくだく)とその後塵(こうじん)を拝して納まっているか知らん。もしそれで納まっているようなら世は末だ、徳川の天下もいよいよ望みなしじゃ」
「その通り、我々が不平なるが如く、二百余名の勤番、誰とて駒井を快く思うものはあるまい。さりとて公儀からのお役目、それを反(そむ)くというわけにもいくまい。いよいよ駒井が来たら我々共の覚悟はどうじゃ、いかなる思案を以て駒井を迎えるか、あらかじめ腹をきめておかねばなるまい」
「拙者は病気所労と披露(ひろう)して当分は引籠(ひきこも)る」
「病気所労もよかろうけれど、いつまでもそうは言っておられぬ。もっと男らしい手段はないか、甲府勤番の反(そり)の強さを見せつけて、駒井の胆(たん)を奪うてやるような仕事はないか、駒井が着く早々縮み上って尾を捲いて向うから逃げ出すような謀(はかりごと)があらば、これ以て甚だ痛快なる儀じゃ」
「なるほど」
「機先を制して駒井能登を圧倒するのじゃ、そうして、甲府勤番には骨があって、彼等如き若年者で支配などとは以てのほかというところを、老中にまでも思い知らせてやるのじゃ、それをせねば後来のためにもならぬ」
「なるほど」
 ここに三人の不平が火を発するほどに強くカチ合って、そうして彼等の上に来(きた)るべき、年の若い新しい支配というのを呪(のろ)い尽すの相談が持ち上ってしまいました。
 甲府の勤番支配は三千石高の芙蓉間詰(ふようのまづめ)であります。その下には与力(よりき)が十名と同心が五十人ずつあって、五百石以下の勤番が二百人は甲府の地に居住しています。支配は二人であることもあり一人は欠員のままであることもあります。御役知(おやくち)は千石で、本邸は江戸にあって住居は甲府へ置く。
 駒井能登守が勤番支配に任命されたのはどういう意味だかよく判りません。或る者はこれを栄転だとして嫉(ねた)みます、或る者は左遷だとして悲しみます。とにもかくにも能登守がまだ三十に足らぬ若年者であってこの地位に置かれたことは、ドチラにしてもその人物の非凡である証拠にはなります。
 その頃の幕議に長州出兵論というのがある。薩州と長州との横着(おうちゃく)があまりといえば目に余る、どうしてもまず長州から征伐してかからねば、幕府の威信が地に落つるというのが、長州出兵論の根拠であります。この長州出兵論を唱える者の中には、徳川譜代恩顧の者で徳川にとっては無二の精忠者があります。これらの人は本心から薩長あたりの暴慢(ぼうまん)をにくんで、徳川のために死のうという連中でありました。またそれらの熱心な長州出兵論を鼻の先でセセラ笑っている者もありました。これは徳川とはあまり縁の薄い方の平民側の中の蔭口に多いのです。その言い草を聞けば、
「ナーンだ、長州出兵なんて、よけいなことだ。お膝元を見るがいい、貧窮組がああして騒ぎ廻っているじゃないか。貧窮組がああして騒ぎ廻っている間に、頼まれもしない長州くんだりまで兵隊を出してどうする気だ。そんなことをするよりは印旛沼(いんばぬま)の掘割りでもした方がよっぽど割がいいぜ」
 こんなことを言って、ばかばかしがっている者もあります。
 また一方には譜代以外の者で、盛んに長州出兵に声援を与える者もありました。これはずいぶん変り者で、もとより徳川のために死のうというほどの縁故もなければ熱心もないのだが、何か景気をつけて自分たちの仕事をこしらえたいという浪人者、或いは自称志士の連中が多かったということであります。口先ばかりでもなんでも景気のいいことは雷同し易いから、精忠無二の長州出兵論よりも、景気のよい人たちの唱える出兵論が、だいぶ徳川に受けがよくなりました。まかり間違ってもそれに異議を唱えるような口ぶりをしようものなら、徳川に対して反逆者でもあるかのように見られたり、薩長の犬であるかのように疑ぐられたりしますから、出兵、出兵、出兵に限るというようなことに傾いて行きました。なんでもドシドシ兵を繰り出して長州から薩摩の果て、琉球までも踏みつぶしてやらねばならぬと意気込みを示した者も大分あったようです。
 この出兵論が正しいか正しくないかは知れないが、いよいよ事実になってみると愚劣を極めたものでした。最初の長州征伐は、どうにかこうにかお茶を濁して幕府の面目をつないだけれども、二度目となってはカラキリお話になりませんでした。幕府の威信を張るどころではなく、かえってグニャグニャと腰が砕けて、長州からあべこべに寄り出されて引込みがつかなくなってしまいました。長州征伐をやっても、やらなくても、もうたいてい幕府の寿命はきまっていたのだから、それがいいでもなし悪いでもないけれど、とにかく長州征伐をやったために、徳川幕府の寿命がまだ十年持つところを、九年早めてしまったような形勢は争うべからざるものであります。
 勝海舟(かつかいしゅう)のような目先の見えたものが――そういう場合に出て来たからおたがいに幸いでありました。けれどもその勝さんすら、いよいよ長州征伐が手に負えなくなった時に引っぱり出されたので、それまで引籠りを仰(おお)せつけられて幕府から勘当を受けていたような有様でありました。
 駒井能登守はこんな時節に、甲州の山の中へ来るようにさせられたということも何かの廻り合せでありましょう。
 駒井能登守が甲府へ入ることを悲しむ連中は、こんなことを言います、
「あれは山の中へ送るべき人間ではない、海の外へ向わせなければならない人物だ、外国との折衝(せっしょう)がこれほど面倒になってゆく世の中に、あの人物を山の中に送り込む当局者の気が知れない、駒井を甲州へやるのは舟を山へ送るのと同じで、しかもその舟も、旧来の伝馬船(てんません)や荷足(にたり)ではなく、新式の舶来の蒸気船だ、蒸気船を山へ積み込むとは、なるほどこのごろの徳川幕府のやりそうなことだ」
 これは駒井贔屓(びいき)の方の言い分で、駒井が西洋の知識に暗からず、且つ外交官として相応(ふさわ)しい器量のすべてを持っているように信じている者の口から出ました。
 それと反対の方の言い分はこんなものであります、
「あれは若い者共には人気は相当にあるけれど、本人はただ西洋の知識を多少心得ているというだけのことで、実務にかけてはいいかげんの無能者で、時々調子をはずれたところで思い切ったことをするから、危なくて仕方がない、腫物(はれもの)に触(さわ)るようなこのごろの外国向きのことに、あんな青二才を使えるものではない、甲州の山の中へ入って、摺(す)れからしの勤番の中で揉(も)まれて来るのが身のためだ」
 これは駒井を多少けむたがっている老成者の間から出る評判でありました。とにかく未知数の人間だけれども、どのみち、まだまだ叩き上げなければものにならないという嫉悪(しつお)と軽侮(けいぶ)とそれから、幾分か敬畏(けいい)の念も入っているのであります。
 そうかと思うとまたこんな一説もあります。幕府は駒井の人物を見抜いてワザと甲府へ納めるのだ、甲府は天険であって、まんいち徳川幕府がグラつき出す時は、そこが唯一の根城となる、まんいちの場合をおもんばかって、駒井を遣(つか)わして地利や兵備を調べさせておくのだと。これもまた駒井贔屓の者の臆想(おくそう)でありました。
 またその他の一説は、駒井能登守が甲州入りをするようになったのは、高島四郎太夫に関係することである、駒井は早く四郎太夫に就いて洋式の砲術を研究したり、西洋の事情を調べたりしたから、高島と同じような嫌疑(けんぎ)でこの左遷を蒙(こうむ)ったのだと。これも駒井崇拝の若い人々の口から洩れて来るのでありました。
 高島四郎太夫(秋帆(しゅうはん))が幕府から怖れられたのは、他の勤王家の連中が幕府から怖れられたのとは全く違います。秋帆には大藩を動かして権力を争ってみようとか、砲術を研究してそれによって虚名を博そうとか、そんな野心は少しもなかったものであります。国内のことに空(むな)しく慷慨悲憤(こうがいひふん)している連中などの、梯子(はしご)をかけても及ばないところにその着眼と規模とがあって、長崎の微々たる小吏でありながら、諸侯の力を借りずに独力でもって大事を行うほどの実力を持っていたから、それで怖れられたのです。けれどもその秋帆とても、もう罪(?)を赦(ゆる)されて、江川太郎左衛門を助けていろいろ熱心にその研究をつづけている時分のことであったから、なにもいまさらその祟(たた)りが駒井能登守へ報(むく)って来るという理由はないことなのであります。
 とにもかくにも、こんな風評の間に送られて、行先ではまた神尾あたりの、あんな悪感情に迎えられて甲府へ乗り込む若い支配の前途も多事でないことはありません。
 その行列は存外手軽(てがる)で、僅かに与力同心と小者の類(たぐい)と同勢十人足らずで、甲州街道を上って行きました。
 甲府の城内へも、いつ出かけていつ到着するという沙汰なしに出かけましたから、出迎えの来るべき模様もありません。
 駒井能登守は若くてそうして美男でありました。大森か川崎あたりまで遠乗りをするくらいの心持で、陣笠をかぶり馬乗袴を穿(は)いて、十人足らずの一行と共に駒木野(こまぎの)の関所へかかって来ました。
 関所の役人も実は驚いたくらいで、今ごろ不意に勤番支配がおいでになろうとは思いませんでしたから、多少狼狽(ろうばい)してこれを迎えました。能登守はその関所へ暫らく休息して、関所役人から附近のはなしなどを聞いていました。
 その時ちょうど駕籠(かご)で乗りつけて来た一人の女が、駕籠から出て関所の前へ通りかかりました。
「これこれ、其方(そのほう)はどこへ行く」
 関所役人が呼び止めますと、その女は、
「甲府の方へ参りまする、どうかお通し下さいまし」
「手形を持っておるか」
「はい、持って参りました」
 女は鼻紙袋を出してその中から、一枚の厚い御手判紙(おてはんがみ)の畳んだのを役人の前に捧げますと、
「ええ、其方(そのほう)は女軽業の芸人を引連れ……かくと申す女であるな」
「左様でござりまする」
「このお手形には二十余人の一座と書いてあるが、その者共はどこにいる」
「それはあとから参りまする」
「待て待て、このお手形の日附が違う、エーと、其方は今より三月ほど前にこの関所を越えて甲府へ出たことがあるように覚えているが、これはその時の手形だな」
「ええ、その……」
「ならん、斯様(かよう)なものは用向の済み次第お上へ御返納申さねばならん、これを以てお関所を通ることは相成らん」
「では、そのお手形では通れないんでございますか」
「左様」
「それではお書換えを願いたいものでございます、急に甲府まで参らねばならないんでございますから」
「ばかなことを言うな、そう急に書換えなどができるものではない、江戸表へ立帰って相当の手続を踏んでお願い申せ」
「そんなことをしてはおられません、わたしの連合(つれあ)いが甲府にいて、急にわずらいついて、大へん危ないのでございますから、どうぞ、お通しなすって下さいまし、お手形は古うございますけれど、この通り少しも怪しいものではございませぬ」
「怪しい者であろうともなかろうとも、拙者はお関所を預かる役目、手形のない者は通すことならぬ」
「それではわたしが困ってしまいます、もし連合いにでも亡くなられてしまったら、わたしは死目(しにめ)に会えないじゃございませんか、助けると思ってお通し下さいまし」
「わからぬことを申すな、其方(そのほう)の事情がどうあろうとも、お上の御法を曲げるわけには相成らぬ」
「それでもせっかくお江戸からここまで来たものが、どうしてまたお江戸へ帰られましょう、ほんとにこうしている間も気がせくんでございますから、お通しなすって下さいまし、女一人ぐらい通して下すったっていいじゃありませんか、お目こぼしということもあるじゃございませんか、どうぞお頼み申しますよ」
 この女は女軽業の頭(かしら)のお角でありました。お角は一生懸命に役人に頼み込んでみましたが、許さるべくもありません。
「くどい! この上かれこれ申すと処分致すぞ」
 役人は言葉を荒くして叱りつけます。
「おや、これほどにお願い申すのに判らないお役人だこと」
「何を申す」
 お角があまり強情だから、役人は立って抓(つま)み出そうとしました。
 縁に腰をかけて見ていた駒井能登守が、
「これこれ松浦」
 用人を呼びました。
「はい」
「あの女、血迷うているようじゃ、其方が行ってもと来た方へ追い返してやれ」
と言って、能登守は扇を持って指図をしました。能登守が元の方へ追い返してやれと扇で差し示した方向は、女がもと来た江戸の方ではなく、これから行こうという甲府の方でありました。
 松浦はそれを心得たようにズカズカと女の傍へ来て、
「これ女、お関所の前で左様なことを申してはならぬ、早く立帰って出直して参るがよい」
と言って、女の手を取ってグングンと引張り出しました。
「これほどにお願い申してお聞き入れがなければそれまででございます、もし連合いが甲府で亡くなるようなことになれば、わたしは江戸へ帰って親類の者やなにかに面(かお)が会わされませんから、ここで死んでしまいます、お関所の前で死んでしまいます」
「さてさて女という者は聞入れのないものじゃ、死にたくば他へ行って勝手に死ね、お関所を汚(けが)すことは相成らぬ」
 無理無体に引張り出されたから、女の力で争うことはできません。
「ほんとに口惜しい、わからないお役人だ、わからずや」
 お角は引摺(ひきず)り出されてしまいましたけれど、その引摺り出されたところは意外にも甲州口でありました。
「愚者(おろかもの)め」
 ポンと関所の外へ突き放されて腰が砕け、暫らく起き上れないでいたが、起き上った時分に気がついてお角は喜びました。
「ああ、わかった、あの若い殿様が粋(すい)を利かして下すったのだ、もと来た方へと言って、ワザとわたしを甲州口の方へ突き放すように、御家来の方に指図をなされたものを知らずにお怨(うら)み申したわたしは、やっぱり女だから馬鹿だね。殿様、有難う存じます、あとでお礼を申し上げまする」
 お角は起き上ってお関所の方へ向いてお礼を言いました。
 それから大急ぎで甲州の方へ歩いて行きました。
 がんりきに出し抜かれてしまったお角は、こうして前後の考えもなくそのあとを追いかけて来ました。お角にとっては、がんりきがそれほどに可愛ゆいわけではなく、お絹という女が憎らしくてたまらないのです。あんな古証文を突きつけて人をばかにした上に、またがんりきと一緒になってこれ見よがしの振舞でもされた日には、意地も我慢もあったものではないのですから、お角はあとを追っかけて来ました。
 腕こそ一本落したけれど、足の方に変りのないがんりきの歩きぶりは、到底お角の足を以て如何(いかん)ともすることはできません。ましてがんりきの方は変則な道を通り、裏道を行くのは慣れているから、お角が追いかけてみたところで到底ものにはならないけれども、どのみち行く道筋は甲州街道で、落着くところは甲府、先へ行ったのは女連、途中どこかで追いつかなければ、甲府で落ち合う。その時は、がんりきとあの後家様をつかまえて、思う存分荒れてやろうと、例の如く懐中には剃刀(かみそり)なんぞを忍ばせて、駕籠を飛ばせて来たわけです。
 幸いにうまくお関所が抜けられたけれど、これから先がほんとうの難所、女一人で通れるはずの道とも思われません。
 お角が一人で小仏(こぼとけ)の方へ行ってしまってから、駒井能登守の一行がこの関所を立って同じ方向に出かけました。
 関所で駕籠乗物の用意をするというのを謝絶(ことわ)って、やはり馬で行きました。険岨(けんそ)な道へかかったら馬から下りて歩くと言って出て行きました。
 小仏の宿(しゅく)から峠まで二十六丁。
「しかしあの女は愚かな女じゃ、駒木野を越えたからとて、まだこの先に上野原の関所もあれば、駒飼(こまかい)の関所もある、関所よりもなお難渋な、小仏峠というものもあれば笹子峠というものもある、これを知ってか知らずか、女一人で甲府まで乗り込もうというのは、大胆と言おうか、愚かと言おうか」
 これを話のはじめに、与力同心のなかでいろいろの話が持ち上りました。
「いや、あれは真実、亭主の病気を思うて出かけて来たのかどうかわからんが、とにかく何か思い込んで来たような女である、あんなのが何か思い込むと大胆なことをするものじゃ」
「左様、女軽業の元締(もとじめ)とか言いおったが、彫物(ほりもの)の一つもありそうな女じゃ、しかし悪党ではないらしい」
「悪党ではあるまいが、悪党に変化しそうな女である、あれが悪党になると鬼神のお松といった形で、この峠の上などに住みたがる」
「いや、そういうことはあるまい、あんなのはまかり間違って亭主を剃刀で切るとか、胸倉を掴んでギュウと締めるといった程度で、それ以上のだいそれたことはできまい。むしろ平常(ふだん)は内気でおとなしく、口も碌(ろく)に利かないような女が、時とすると大胆なことをする」
「それはどっちとも言い兼ねる、女はハズミ一つであるから、そのハズミの具合によっていかなることをやり出すかあらかじめ断わりはできない、女そのものの性質というよりも、時のハズミが女を賢婦人にしたり毒婦にしたりする例(ためし)が多い」
「それも一理はあるようじゃ。しかしそれではハズミというものをあまり重く見過ぎたきらいがある、いかにハズミが附いたからとて、政岡(まさおか)が、鬼神のお松になることはなかろう」
「性質にもよりハズミにもよる、罪はその両方にあると見るのが穏当であろう。明智光秀(あけちみつひで)の如きも、信長公があれほどの短気でなかったならば、謀叛(むほん)はしなかったであろうが、たとえ信長公が短気であったところで、光秀そのものに謀叛気がなければ、あんなことにはならぬ」
「要するに鐘と撞木(しゅもく)の間(あい)が鳴るというところで、我々共の役目においてもその通り、強く罪人を扱うてかえって罪を大きくしてやることになり、或いは寛(ゆる)やかに扱い過ぎてかえって増長を来すようなこともある」
「寛厳よろしきを得たりということは治政の要術で、その術はまた治者の人格である、くだらぬ人格の者が、みだりに寛厳の術を弄(ろう)すればかえって人の軽侮を招く」
「大阪の与力大塩平八郎の事件などがそれじゃ、あれは跡部山城守殿(あとべやましろのかみどの)が大塩を見るの明(めい)がないから起ったことである。奉行が大きければ大塩は非常な用をする、奉行が小さくて大塩が大きかった故あんなことになったという説がある」
「大塩はとにかく近代での人物である、是非善悪は論ぜず、貧民のためにあれほどのことを為し得る奴はほかにはあるまいと思われる、あの乱もまた大塩自身の人物もあろうけれど、時のハズミというものもなきにあらず」
「国民の富豪に対する怨恨(うらみ)がようやくに熟していたから火蓋(ひぶた)が切られたのじゃ。それにつけても思うのは、このごろ江戸に起った貧窮組、浅ましいようでもあるし、おかしいようでもあるが、あれもまた時世を警(いまし)むる一つの徴候(しるし)」
 駒井能登守の一行は、時事を論じたり、風景を語ったりしながら、小仏峠の頂上まで登ってしまいました。
 頂上に中の茶屋があって、そこに休んで見ると赤飯(せきはん)がありました。その赤飯を大盤振舞(おおばんぶるまい)にして与力同心、仲間馬方に至るまで食いました。能登守もまたそれを抓(つま)んで喜んで食いました。なおお茶を飲む者もあれば水を飲む者もあります。頂上まで上って見ればこれからは下りであります。下り道は上り道よりも楽であります。上野原泊りの予定は、遊びながらでも着くことができるのであります。
 能登守は柄に似合わない健脚でした。いちばん早く参るだろうと思われた能登守がいちばん疲れないで歩いて来ましたから、
「御支配は健脚だ、いや身体の華奢(きゃしゃ)なものはそれだけ足の負担が軽いからそれで疲れないので、我々は頑健肥満に生れた罰でかえって山路に難渋する」
と言って、与力のなかで、いちばん肥満していちばんよく話をした男が、いちばん早く疲れて愚痴を言いました。
「おのおの方は、あまりよく口を利きなさるからそれで疲れるのだろう、すべて険岨(けんそ)を通る時や遠路(とおみち)をする時は、あまり口を利かない方がよいそうじゃ」
 能登守はこう言った。なるほど、いちばん疲れない能登守がいちばん喋(しゃべ)らなかった。
「無言で気息を調(ととの)えて歩けばよろしかろうけれど、そこが旅は道づれで、いろいろの話をして歩きたいのが凡夫の常だ。よしよし、今度は無言の行を続ける」
 とにかく、中の茶屋で休んで、赤飯などを噛(かじ)っていると、誰も彼も疲れなんどは一時に忘れてしまいました。その元気で茶屋を立って下りにかかりましたが、上りに懲(こ)りて無言の行を続けると言った肥満の与力は、渋面(じゅうめん)を作って口を噤(つぐ)んで歩きましたが、それにひきかえて能登守が今度はいろいろの話をやり出しました。街道筋の地勢や要害を指さしながら、土地案内の与力同心に聞いてみたり、自分の意見を述べてみたりしました。時々諧謔(かいぎゃく)を弄して一行を笑わせたりしました。それで話の花が咲いて、登りの時より一層賑やかになりました。強(し)いて口を噤んでいた与力の連中もまた談話中の人となって、疲れた足を引きずりながら、息をはずませて気焔を上げていました。
 山腹の左の方から渓水(たにみず)が湧き出て滝のように流れています。それが深い谷に落ちて淵(ふち)になったり、また岩に激して流れ出したりする変化が面白い。その渓水を幾十曲りもして見ると、向うに二軒の茅屋(あばらや)が見える。その前に板橋があって、渓水がそこへ来て逆に流れている景色がなかなか面白いから、一行はそこで暫らく立って景色を見ていました。すると駒井能登守が、
「あれ見よ、あの家の後ろを怪しげな男が通るわ」
と言いました。一同は谷川の景色ばかり見ていたのでしたが、能登守にこう言われて、前の山の二軒の茅屋のところに眼をうつすと、そこを一人の旅人が急速力で、サッサと歩いて行くのを認めます。菅笠(すげがさ)を被って道中差(どうちゅうざし)を差して、足ごしらえをしてキリリとした扮装(いでたち)で、向う岸の茅屋の後ろを飛ぶが如くに歩いて行きます。
「あれは何者だ、足の早い奴」
と驚いていると、能登守が、
「いかにも怪しげな奴じゃ、関所の裏を通ったものと見ゆる、誰ぞ行って追蒐(おいか)けてみられよ」
「心得ました」
 同心が二人、板橋を渡って向う岸へと飛んで行きました。
 怪しげな旅の男はそれを知って、山の中へ逃げ込んで、かいくれ姿を隠したから、追いかけて行った同心は空(むな)しく帰って来ました。
「怪しい奴、足の迅(はや)いこと無類でござりまする」
 同心はまず以て、その逃げ去った奴の足の迅いのに舌を捲いて復命しました。
「年はまだ若いようであったな」
「年はまだ若いようでございました、三十の上を幾つか越したくらい、遊び人風の男で、後ろ姿をチラリと見かけましたが、その迅いこと迅いこと」
「なんにしても怪しい奴じゃ、すべてあの通り足の迅い奴には悪いことをする者が多い、よく演劇や講談に現われる雲霧仁左衛門(くもきりにざえもん)という悪漢も足の迅い男であったそうじゃ」
「ああ、その雲霧仁左衛門という悪漢、それはこの上野原から出た奴にございます、この上野原のしかるべき家に生れた悪漢でございました」
「足が迅いと高飛びが自由にできる、それで今日ここで悪事をしても、明日は他国へ行って知らぬ面(かお)している、悪事千里を走るとはこのことじゃ」
「足が迅いから自然、手が長くなるのでございましょう。冗談はさて置き、あの怪しい奴、取逃がしたは残念、直ちに手配を致して取押えさせましょう」
「それには及ばぬ」
「せっかく御支配のお目に留まったものを取逃がして、面目がござりませぬ」
「向うの岸とこっちでは無理もないことじゃ、まして人間並みを外(はず)れた足の迅い奴、逃げるのがあたりまえで、逃がした方に罪はない」
「それと知ったら声をかけずに、何か手段があったろうものを」
「これから先のこと、甲府へ入るまでにきっと、あの者が再び現われることがあるに違いない、その時は油断せぬように」
「心得ました」
 与力同心の面々がみな多少の好奇心にそそられました。もとよりこれらの人々がワザワザ手配をして騒ぎ立てるほどの代物(しろもの)ではないが、道中の腕比(うでくら)べというようなことになってみると、多少の張合いが出て来るものでありました。それ故、無駄なことと思ったものまでが、休み茶屋や、泊り泊りにも用心をしてみる気になりました。しかしながら別段に変ったこともなく与瀬(よせ)の宿(しゅく)へ入って、これこれの者の姿を見かけなかったかと尋ねてみても、誰もそんな者を見かけたという者はなく、
「ただ、さきほど峠道で若いおかみさんが悪者に苛(いじ)められているところを、鳥沢の親分が通りかかって連れておいでになったばかりでございます」
と土地の人が言います。
「若いおかみさんが悪者に苛められているところを、鳥沢の親分が助けて連れてかえったと? してその若いおかみさんというのは……また鳥沢の親分というのは何者」
 与力同心が、土地の者の言葉尻を捉(とら)えてそれを訊(たず)ねてみました。
 よく聞いてみると、峠道で悪い胡麻(ごま)の蠅(はえ)にかかって苦しめられていたという女は、駒木野の関を通してもらった女であって、それを助けた鳥沢の親分というのは、鳥沢の粂(くめ)という親分であることがわかりました。
 鳥沢の粂というのは郡内(ぐんない)切っての親分であって、ずいぶん悪辣(あくらつ)なことをするし、また相応に義侠らしいこともする。この界隈(かいわい)では厄介者視しているものが半分と、畏服(いふく)しているものが半分という勢力であることもすぐにわかりました。
 それを聞いただけで、駒井能登守の一行は例の通り上野原までやって来ました。上野原の宿へ着いた時も、先触(さきぶれ)がなかったから役員どもを驚かしました。
 御支配のお着きということは本陣を大へんに騒がせたけれども、そのほかには至って無事で、一泊して翌日未明に出立。
 上野原を出て少しばかり坂を下ると、もうすぐに川であります。川の両岸には川越しの小屋が立っていて、真裸(まっぱだか)になった川越し人足が六七人ほど、散らばっているのが一目に見えました。
「これが鶴川の渡し場でございます」
「なるほど、先年諏訪因幡守殿(すわいなばのかみどの)が人足どもに困らせられたという渡しはこれか」
「あれ以来、人足どもも大分おとなしくなりましたが、やっぱり気の荒い郡内の溢(あぶ)れ者(もの)でござるから、おりおり旅人が難儀する由でござりまする」
「ゆくゆくはなんとか取締りをしたいものじゃ、どこへ行っても、この裸虫には弱らせられる」
 一行は川越しの小屋のところまで来ると、宿役人から先に出向いていて、しきりに人足を指図していました。
「おいおい御支配のお通りだ、ほかの旅人は控えているがよろしい、御支配のお通りが済んでから通らっしゃい」
と言って、川の両岸の通行を暫らく差押えました。それがために両岸に多くの通行人が溜(たま)って、駒井能登守の渡ってしまうのを待っていました。
「どうしたのか、両岸に人がたかっている」
 能登守は不審に思いました。
「御支配様、どうぞこれをお召しなすって下さいまし」
 連台(れんだい)を持って来ました。屈強な男が二十人ほどでその連台を担(かつ)ぐのであります。
「お役人様方は、どうか野郎共の肩にお召し下さいまし」
 与力同心の面々は肩車で越えるということであります。そのほか仲間(ちゅうげん)、槍持(やりもち)、挟箱担(はさみばこかつ)ぎ、馬方に至るまで、みな人足の肩を借りたり手を借りたりして、なかなか大業(おおぎょう)なことでありました。駒井能登守はそれと気がついて、
「宿役人、こんな大業なことをしないがよかった」
 能登守は仕方がなしにその連台に乗りました。二十人の人足が曳々声(えいえいごえ)を出してそれを担ぎ上げました。甲州に入っての勤番支配の権威は絶大というべきものです。この街道を通る参覲交代(さんきんこうたい)の大名はあまり数が多くはないが、それらの大名が通る時よりも、勤番支配の通る時の方が鄭重(ていちょう)でありました。能登守は、それがために数多(あまた)の通行の人を留めてしまったことを気の毒に思って、早く手軽に通ってしまいたいのだが、鄭重にするために宿役人は川越し人足の勢揃いや人数配りに手数をかけてなかなかに時間を取るのであります。能登守の連台がやっと担ぎ出されて、与力同心の面々の肩車がそれにつづこうとした時に、上野原の方から慌(あわただ)しくこの場へ飛んで来たのは誰あろう、宇治山田の米友でありました。

         二

 米友は例の通り跛足(びっこ)を引いて、杖(つえ)をついて、横っ飛びにこの河原まで駈けて来て、
「通してくれ、通してくれ、俺(おい)らが悪いんじゃねえ、まだ出かけねえと言うから、それで安心して待ってたんだ、ところが出し抜かれたんだ、あいつの口前にひっかかって、無駄話をしている間に出かけられちゃったんだ、ぐずぐずしていると俺らが申しわけのねえことになっちまうんだ、どうか通してくれ」
 米友は眼の色を変えて川を渡ろうとしますから、宿役人や人足までが驚きました。米友のことですから、あんまり周囲の事情に見さかいがなく、笠と首根ッ子へ結(ゆわ)いつけた風呂敷包が上になったり下になったりするのをかまわず、無論、勤番支配であろうが、与力同心であろうが眼中になく、やみくもに川へ飛び込んで押渡ろうとするから、忽(たちま)ちドッコイと押えられてしまいました。
「やい、手前は何だ」
「通してくれ、通してくれ、無駄話をしているうちに出し抜かれちゃったんだ、こうしちゃいられねえ」
「馬鹿野郎」
「何だい、何をしやがる」
「よく眼をあいて見やあがれ、川の向うもこっちも通行どめなんだ、みんなああして御遠慮をしているのがわからねえか」
「遠慮なんぞをしちゃあいられねえ、人から頼まれて乗物の目付(めつけ)をして来たんだ、それが先へ出ちまったんだ、俺(おい)らはそのつもりじゃなかったんだ、まだ出かけねえと言うから、それで安心して待ってたんだ、悪い奴の計略にひっかかったんだ」
「何を言ってやがるんだい、この馬鹿野郎、引込んでいやがれ」
 人足は拳(こぶし)を固めて米友を殴(なぐ)りつけてしまおうとすると、米友はその手の下を潜って飛び出し、
「お前たちの手は借りねえんだ、一人で越すからいいよ」
 尻を引絡(ひっから)げて川へ入り込もうとするから、人足どもがバラバラと駈けて来て米友を囲んでしまい、その手を持ってギュウギュウ引き立て、
「方図(ほうず)のねえ馬鹿野郎だ」
 ポカポカと二つ三つ食(くら)わせてしまいました。
「おやおや、打(ぶ)ったね」
「まだあんなことを言ってやがる、叩きのめして簀巻(すまき)にしてやれ」
「ナゼ打つんだい、ええ、ナゼ俺らを打ったんだ」
「この野郎、ちびのくせに口の減(へ)らねえ野郎だ」
「まあ、おじさん待ってくれ、打つんならお打ち、打たれてもいいからその代り、おじさんここを通しておくれ、ね」
 米友は、それでも人足と争うことの不利なるを覚(さと)ってか、いっぱしの知恵を出して妥協を試みようとしたが、どうしてこの場合、川越し人足が米友の口前ぐらいで承知するものではありません。
「面倒くさいから叩きのめしてしまえ」
 争わずしている米友を、またも拳を上げてガンと食らわせました。
「あ、痛え!」
 米友も、さすがに面(かお)をしかめて痛みを怺(こら)えねばならぬくらいに手強く打たれて、思わず片手で頭を押えた時に、続けざまにポカポカと拳の雨が来ましたから、米友の癇癪(かんしゃく)が一時に破裂しました。
「もう、勘弁ができねえ、こいつら甲州街道の川越しの人足ども、あんまり人をばかにしやがるない、ここは手前たちの川じゃあるめえ、甲州街道の鶴川だろう、手前たちがこの川を持ってるわけじゃあるめえ、天下様の往来だい、俺らが通ってナゼ悪いんだ、渡し賃が要(い)るならくれてやらあ、手前たちは渡し賃を貰って人を渡しさえすりゃいいんだろう、通すの通さねえの、安宅(あたか)の関の弁慶みたいなごたいそうなことを言うない、富樫(とがし)にしちゃあ出来過ぎてらあ、第一、手前たちは富樫という面(つら)じゃねえ」
 さあいけない、米友はまた啖呵(たんか)を切ってしまった。
 米友流の啖呵を切って開き直ると、手に持っていた杖を眼にもとまらない迅さで取り直して、いま自分を撲(なぐ)った人足の眼と鼻の間に一刺(いっし)を加えました。
「あッ!」
 その人足はひっくり返る、あとの人足は殺気が立つ。人足を一人突き倒して、しばらく彼等を呆気(あっけ)に取らした米友は、二三間、河原の向うへツツと飛び越して岩の上へ跳(は)ねあがり、
「俺(おい)らは伊勢の国から東海道を旅をして江戸の水を呑んで来た宇治山田の米友だ。東海道には天竜川だの大井川だのという大きな川があるんだ、こんな山ん中のちっぽけな川とは違って、水もモットうんとあらあ、そこには川越しの人足も幾百人といるけれども、手前たちのようなわけのわからねえ人足は一人もいなかったんだ。おじさん、俺らはこの通り足が悪いんだから、大事にして通しておくれと頼めば、ウン兄(あに)い、気をつけて歩きねえ、転ぶとお前は背が低いから、浅いところでもブクブクウをするよなんて言やがるから、ばかにするない、背は低くっても泳ぎが出来るんだいと威張ってやると、あははと笑って通すんだ。手前たちは山ん中の猿だから世間を知らねえや、だから教えてやるんだ、東海道の川越し人足はそうしたものなんだ、同じ人足でも人足ぶりが違わあ、第一、面(つら)からして違ってらあ。俺らが急ぎだから通してくれと頼むのを、事情(わけ)も聞かねえで、無暗(むやみ)に撲(ぶ)ちやがる。撲たれていいものなら撲たしてやらあ、こっちに悪い尻があるんなら、いくらでも撲たれてやらあ、ここまで来て撲ってみやあがれ。米友が持っておいでなさるこの杖は、杖と見えても杖じゃねえんだ、まかり間違ったら槍に化けるように仕掛がしてあるとはお釈迦様(しゃかさま)でも気がつくめえ。やい山猿人足、手前たちは世間を見たことがねえから、この米友がどのくらい槍が遣(つか)えるんだかその見当がつくめえ。山猿と言われたのが口惜しけりゃここまで来てみやがれ、米友の槍が怖いと思ったら、早く川を通せろやい」
 こう言いながら米友は、持っていた杖を片手に取ってブンブンと振り廻し、猿のような面(かお)をして白い歯を剥(む)いて罵(ののし)ると、たださえ気の荒い郡内の川越し人足が、こんなことを言われて納まるはずがありません。
「ふざけた野郎だ、叩き殺せ」
 この騒ぎで、駒井能登守の連台を担ぎかけた人足も、与力同心の股倉(またぐら)へ頭を突っ込んだ人足も、みんなそれをやめてしまって、米友の方へバラバラと飛んで行きました。宿役人は青くなってその騒ぎを抑(おさ)えにかかります。

 意外の騒動が起ったので、駒井能登守はやむなくその騒ぎを見ていました。与力同心の連中もそれを見ていました。いずれも人足どもの騒ぎ、宿役の連中が取鎮めるであろうから自分たちが手を下すまでもあるまい。それで騒ぎの済むのを待っているうちにも、岩の上へ跳(おど)り上った米友の無遠慮露骨な罵倒を聞いてハラハラしました。
 人足どもも無暗(むやみ)に撲ることは乱暴だが、川越し人足である、これで通ったものを、東海道の人足とは人足ぶりが違うとか、面(つら)まで違うとか、山猿がどうしたとか、言わんでもよい悪口を言っているのはずいぶん向う見ずの無茶な奴だと思って、その鎮まるのを待っているが鎮まりません。
「矢でも鉄砲でも持って来やがれ」
 岩の上に立った米友を下から渦(うず)を巻いて押し寄せた川越し人足、なにほどのこともない、取捉(とっつか)まえて一捻(ひとひね)りと素手(すで)で登って来るのを曳(えい)と突く。突かれて筋斗(もんどり)打って河原へ落ちる。つづいて、
「この野郎」
 手捕(てどり)にしようとして我れ勝ちにのぼって来るのを上で米友が手練(しゅれん)の槍。と言ってもまだ穂はつけてないから棒も同じこと。
 これだから米友は困りものです。くれぐれもその短気を起すことを戒(いまし)められているにかかわらず、短気を起してしまいます。無暗に喧嘩を買ってしまいます。槍が出来るという自信があるために人を怖れないし、それに、どうしても曲ったことが嫌いだから、ポンポン理窟を言ってしまいます。
 不幸にしてただ脳味噌に少しく足りないところがあるらしく、それがために時の場合と相手の利害を見ることができません。役人であろうとも雲助であろうとも更に頓着がないから困りものです。お君でも傍にいてなだめたり諫(いさ)めたりするから江戸へ来て以来はあんまり大きな騒ぎを持ち上げませんでした。大きな騒ぎを持ち上げないこともない、見世物小屋の失敗(しくじり)などはかなり大きな失敗でしたけれども、それがために古市(ふるいち)における場合のように、槍を振り廻すことのなかったのはまだしもの幸いでしたが、今はとうとう本式の喧嘩を持ち上げてしまいました。しかもその相手が最も悪い、雲助のなかでも最も性質(たち)の悪い郡内の雲助ですから、米友も実に飛んでもない相手を引受けたものです。市川海老蔵(えびぞう)は甲府へ乗り込む時にここの川越しに百両の金を強請(ゆす)られたために怖毛(おぞけ)を振(ふる)って、後にこの本街道を避けて大菩薩越えをしたということ。性質(たち)の悪いことにおいて甲州街道の雲助は定評がある。その雲助を、あんなことを言って罵ってしまったから、その怒り出すことは火を見るようなものです。何のためか、ここの人足は長い竹竿を横にして、それに十数人の人足がつかまって乗物の先に立って川を渡す、今、その竹の竿を担ぎ出して米友を引払ってしまおうとしました。
 駒井能登守の一行は不意の出来事に驚いて暫らく立って見ていると、岩の上に立って杖を遣(つか)う米友の敏捷(びんしょう)なこと。
 蟻(あり)のように上りかける人足を片端(かたはし)から突いて突き落す。寄手がいよいよ多ければ、いよいよ突き落す。裸体(はだか)の雲助が岩の上からバタバタと突き落されたところは、ちょうど千破剣(ちはや)の城をせめた北条勢が、楠(くすのき)のために切岸(きりぎし)の上から追い落されるような有様ですから、目をすまして見物していると、
「こいつら、俺らの懐中(ふところ)にまだ槍の穂が蔵(しま)ってあることを知らねえか、今こうして手前たちを突き落しているのはこの棒だけれど、いよいよという場合には穂をつけて、ほんとうに突き殺すからそう思え、今は怪我をしねえようにそっと突いていてやるんだ、穂をつけてから、米友がほんとうに荒(あば)れ出したら、いちいち突き殺して、この河原を裸虫で埋めるようなことになるからそう思え。何だい、そんな長い竿なんぞを持って来やがって、俺らを叩き落そうと言うんだな。よしよし、そんならほんとうに棒の天辺(てっぺん)へ刃物をくっつけるぞ、さあこれだ、これをちゃあんと棒の先へつけて槍に組み立てるように仕掛が出来てるんだ、これで突いたら命はねえんだからなそう思え、面(つら)の真中でも咽喉仏(のどぼとけ)でもお望み通りのところを突いてやる、ちっとやそっと危ねえんじゃねえや」
 米友が懐中から取り出した笹穂(ささほ)は先生自身の工夫で、忽ちそれを杖の先に取りつけて、その穂を左の掌(てのひら)で握って下へさげ、石突(いしづき)をグッと上げて逆七三の構え、ちょうど岩の上に立って水を潜(くぐ)る魚を覘(ねら)うような姿勢を取ると、足を払いに来た竹の竿、それを身を跳らして避けると、いま上りかけた人足の面(つら)の真中から血汐(ちしお)が溢れ出して、
「呀(あ)ッ」
 仰向けに河原へ落ちる。
「野郎、仲間(なかま)を突きやがったな、さあ承知ができねえ」
 血を見ると人足が狂う。
 事態、いよいよ危険と見たから、駒井能登守の手にいた与力同心が出動せねばならなくなりました。

 与力同心の出動によってこの騒ぎは鎮(しず)まりました。しかし納まらないのは雲助ども、あんな悪口を言われ、且つ面(かお)の真中を突かれた負傷者をさえ一人出している。五分五分の仲裁では納まりようはずがないから与力同心は、両方を押えた後に米友を番小屋の方へつれて来ました。さてその後の裁判がふるっています。
 米友に槍で突かれた人足は一人。それは面を突き破られただけで、かなり重い傷には違いないけれど生命に別条はない。だからそれを償(つぐな)うために米友を片輪にしたら承知ができるだろう。しかし米友は跛足であってもう片輪になっている。この上に片輪にしてしまっては命を縮めることになるから、その代りに頭を坊主にして、それで許してやれという駒井能登守の裁判でした。
 能登守も笑いながら裁判しました。与力同心も笑いながら、
「それは御名案、どうじゃ川越しども、それで許してやれ、許してやれ、相手はこの通り正直者だから」
 与力同心がこう言うと、ハラハラしていた宿役人どももまた笑い出して、
「御支配様のお裁判だ、この男を坊主にして笑ってやれ、若い衆、それで我慢してくれ、我慢してくれ」
 八方からこう言われて、さすがの川越し人足も納まりかけました。
「あはははは、この野郎を坊主にしたらドンナ坊主が出来上るだ、見たところ餓鬼(がき)のようでもあるし、ばかに年寄じみたところもあるし、なんだかえたいのわからねえ野郎とっちゃあ、いいから坊主にして笑ってやれ」
「坊主、坊主」
 早くも番小屋から怪しげな剃刀(かみそり)だの鏡台だのが担ぎ出されます。
 米友はつまらない面(かお)をしています。俺を坊主にするなどとは以てのほかだというような面をしていたが、トテモ坊主になるものならおとなしく坊主になってやろうというような、得心をしたようにも見られます。
 物好きな宿役人が米友の後ろへ廻って剃刀を取ったが、その剃刀があまり切れないせいか、山葵卸(わさびおろし)で擦(こす)るようでありました。痛さを怺(こら)えてじっとして剃らせている米友、その面もおかしいが、いよいよ剃り上った坊主もかなりおかしいと見えて、一同でやんやと囃(はや)して笑ったけれど米友は笑わなかった。
「これでいいのか」
 坊主頭を振ってみて、それから例の風呂敷包を首根っ子へ結(ゆわ)いつけて、笠を被(かぶ)ると、
「俺らは急ぎなんだ」
 こう言って横っ飛びに川の中へ飛び込んでしまいました。その挙動が、あんまり無邪気で軽快でしたから、人足どもも笑って、米友がひとりでズンズン川を越して行くのを敢(あえ)て止めませんでした。
 この一場の小喜劇がこれで済んで、川彼方(かわむこう)を跛足を引き引き駈けて行く米友の形をさんざんに笑いながら、ようやく能登守一行の川渡りが済みました。しばらく遠慮をしていた両岸の旅客もようやく渡ることができました。
「いや、旅をするとさまざまの面白いものを見るわい、駒木野の関所で見た女、次に小仏を下りて見かけた足の早い男、今またあの奇妙な小男、さてこの次には何を見るか。それにしてもあの小男が槍を使うのは至極の精妙、見たところ、武家奉公をしている様子もなし、出し抜かれた、出し抜かれたと言って駈けて行くが、あの調子ではまた何かにぶつかって大事(おおごと)を惹(ひ)き起さねばよいが」
 駒井能登守はこういって米友の身の上を心配しながら、やはり悠々として甲州入りの旅をつづけましたが、ほどなく鳥沢の宿へ着いてここの本陣で一休み。

         三

 鳥沢で休んでいるうちに、またさまざまの雑談がありました。この附近で香魚(あゆ)が捕れてその味が至極よろしいこと、また山葵(わさび)も取れること、矢坪坂(やつぼざか)の古戦場というのがあること、太鼓岩、蚕岩(かいこいわ)、白糸の滝、長滝などの名所があるということ、それから矢坪坂の座頭転(ざとうころ)がしの難所のことになって、
「房州の小湊(こみなと)へ行く道にお仙転(せんころ)がしというのがあるが、ここには座頭転がしというのがある、座頭転がしとはなにか由緒(ゆいしょ)がありそうな名じゃ、どういうわけで、そんな名前がついたのだ」
 本陣の主人が答えて、
「ただ山の中腹に開(あ)いてありまする路が、羊の腸(はらわた)みたようにうねっておりますから、煙草の火の借り合いができるほどのところへ行くにも廻り廻って行かねばなりません。或る時、二人の座頭が、この道を通りまする時、おたがいに言葉をかけ合って参りましたが、途中で後ろの者が『オーイ』と申します、前のものが『オーイ』と返事をします、近いところに聞えたものですから、真直ぐに行くと谷へ落ちて死んでしまいました。それで座頭転がしというのだそうでございます」
「この街道は道が嶮(けわ)しいばかりでなく、人気などもなかなか荒いようじゃ」
「人気はなかなか荒いそうでございます、どうも郡内者といって、旅の者が怖れておいでなさるそうでございますが、住んでいますれば、やっぱり同じ人間でございますから、そんなに荒っぽいとも存じません、頼むとあとへ引かないといったような片意地のところもございまして、附合い様一つでございます」
「この鳥沢に粂(くめ)という者があるか。鳥沢の粂といって、この界隈(かいわい)に知られた男があるそうな」
「へえ、鳥沢の粂、そんな者があるにはあるんでございますが、お話を申し上げるような人体(にんてい)ではございません」
と言って、主人は鳥沢の粂のことをあんまり話したがらない。風景があったり名物が出たりすることは多少にも自慢にもなるけれど、あんな人間の存在することはあまり名誉とも思わないらしくて、粂のことは問われても語らずに、
「なんしてもこの通りの山の中でございますから、景色と申しても名物と申しても知れたものでございますが、そのうちでも甲斐絹(かいき)と猿橋(さるはし)、これがまあ、かなり日本中へ知れ渡ったものでござりまする」
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。猿橋から大月、大月には岩殿山(いわとのさん)の城あとがございまして、富士へおいでになるにはそこからわかれる道がございます。それから初狩(はつかり)、黒野田を通って笹子峠」
 本陣の主人は一通りの道案内を申しました。一行のうちにはここをしばしば通ったものもあるのだから、そんなに委(くわ)しく言う必要はないと思って手短かに案内をしたが、大部分は初めての甲州入りだから、珍らしがって名所の話をします。ことに日本三奇橋の一つと称せらるる猿橋に近くなったということが好奇心をそそって、
「いったい、その日本の三奇橋というのはドレとドレだ」
「周防(すおう)の錦帯橋(きんたいばし)、木曾の桟橋(かけはし)、それにこの甲斐の猿橋」
 一行のうちの物識(ものし)りが答えます。やがてこの本陣を出て右の猿橋へかかった時分に、そこで一行は、橋以外にまた奇体なものにぶっつかることになりました。
 鳥沢で休んで駒井能登守の一行がまたも悠々と甲州街道を上って行くと、ほどなく猿橋まで来かかりました。
 猿橋は有名な橋。その橋のところへ来ると、往来の人が怖々(こわごわ)と橋の左側の方ばかりを小さくなって駈けるようにして通るから、与力同心の面々が不思議に思って、
「ナゼ真中を通らぬ、橋がこわれているならナゼ普請(ふしん)をせぬ」
と言って咎(とが)めると、通りかかった男が、
「あ、あの通りでございます」
 青くなって指さしをしたから、その指さしをしたところを見ると、欄干に細引が結えつけてあって、それから釣忍(つりしのぶ)を吊(つる)したように何か吊してあるようです。何が吊してあるのかとよく見定めると人間が一人、四ツ手に絡(から)んで高さ十七間の猿橋の真中から吊り下げてありました。
「こりゃ怪(け)しからん、誰がこんなことをした」
「鳥沢の親分がこういうことをやりました」
「鳥沢の親分とは何者だ」
「鳥沢の粂(くめ)という、このあたりに聞えた親分でございます」
「何者であろうとも、斯様(かよう)な惨酷(さんこく)なことをするのを見逃しておくのは何事じゃ、ナゼ助けてやらぬ」
「粂が申します、これを解いてやった奴があれば生かしちゃ置かねえとこう申しますから、正直な土地の人は慄(ふる)え上ってまだ手をつける人はございません」
「憎い奴じゃ、上(かみ)を怖れぬ仕方、早く引き上げてやれ」
 与力同心は仲間小者と力を合せて、この細引にかけて吊してあった人間を引き上げてやりました。
 引き上げてみると、もう真蒼(まっさお)になって息が絶えている模様でしたから、薬をくれたり水をやったりして介抱すると幸いに息を吹き返しました。
「これ、気を確かに持て」
「有難うございます」
「其方(そのほう)は何者だ、どうして斯様な目に遭ったのだ」
「どうも相済みません、なあに、ちっとばかりこっちの悪戯(いたずら)が過ぎたから、それでこんな目に遭ったんでございます、打捨(うっちゃ)っておいて下さいまし」
「斯様な惨酷なことを致すものを打捨ててはおけぬ、聞けば鳥沢の粂とやらいう悪者の仕業(しわざ)じゃそうな。うむ、その粂という者はどこにいる」
「なあに、鳥沢の親分がやったんじゃあございません、俺(わっし)が慰みにやってみたんでございます」
「さてさて、貴様はわからぬ奴じゃ、包まず申せ、貴様のために仇(かたき)を取ってやる」
「なあに、仇なんぞは取っていただかなくってもよろしうございます、おかげさまで地獄から呼び戻されたのが何よりで、それでもう充分でございます」
「貴様はその粂とやらいう悪漢を怖れて包み隠すと見えるな、我々が聞いた以上はいかなる悪漢なりとても、後の祟(たた)りは少しも心配はないのじゃ」
「どう致しまして、たとえ粂であろうとも、鬼であろうとも、後の祟りを怖がってそれで包み隠すというようなわけじゃございません、どうか打捨ってお置きなすって下さいまし」
「貴様が白状しなければ別に調べる道もある、ともかく我々と一緒に本陣まで同道せい」
「どうか、このままお免(ゆる)しなすって下さいまし、歩けません」
 こんな酷(ひど)い目に遭わされながら何とも訴えないのは、そこに何か仔細がなければならぬと思って与力同心の面々は、この男を引き立てようとした時に気がついたのは、この男に片腕のないことでした。
 これより先、猿橋の西の詰(つめ)の茶屋の二階で郡内織の褞袍(どてら)を着て、長脇差を傍に引きつけて酒を飲んでいた一人の男がありました。年は五十に近いのだが、でっぷりと太って、額際(ひたいぎわ)に向う傷があって人相が険(けわ)しい。これは前にしばしば名前の出た鳥沢の粂という男であります。
 粂は二階から障子をあけ払って猿橋を一目にながめながら、
「どうだい、野郎をあんなにしてやった、いい心持だろう、あんなのを眺めて酒を飲むとよっぽどうめえ」
 粂は猿橋の真中から、亀の子のようにがんりきの身体を吊下げて、それを見ながら酒を飲んでいるのでありました。
「親分、どうか許して上げてください、あの人も悪いことがあるんでしょうけれど、あんなにまでなさらなくってもよろしうございます、どうか助けてやって下さい」
「いいや、いけねえ、あの野郎には、あれでもまだ身に沁(し)みたというところまでは行かねえんだ、もうちっと窮命(きゅうめい)さしてやる。
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