大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 伊勢から帰った後の道庵先生は別に変ったこともなく、道庵流に暮らしておりました。
 医術にかけてはそれを施すことも親切であるが、それを研究することも根(こん)がよく、ひまがあれば古今の医書を繙(ひもと)いて、細かに調べているのだが、どうしたものか先生の病で、「医者なんという者は当(あて)にならねえ、人の病気なんぞは人間業(にんげんわざ)で癒(なお)せるもので無(ね)え」と言って、自分で自分を軽蔑(けいべつ)したようなことを言うから変り者にされてしまいます。そうかと思うと、「人の命を取ることにかけては新撰組の近藤勇よりも、おれの方がズット上手(うわて)だ、今まで、おれの手にかけて殺した人間が二千人からある」なんというようなことを言い出すから穏かでなくなってしまうのです。どこから手に入れたか、この日は舶来(はくらい)の解剖図(かいぼうず)を拡げて、それと一緒に一挺(ちょう)のナイフを弄(いじ)りながら独言(ひとりごと)を言っています。
「毛唐(けとう)は面白いものを作る、こうすれば鎌になる」
 ナイフの刃を角(かく)に折り曲げて鎌の形にし、
「それからまた、こうすれば燧(ひうち)に使える、こうして引き出せば庖丁(ほうちょう)にもなり剃刀(かみそり)にもなる」
 たあいないことを言って、ナイフをおもちゃにして解剖図を研究しているところへ、
「先生」
「何だ」
「お客でございます」
「お客? いま勉強しているところだから、大概(たいがい)のお客なら追払っちまえ」
「与八さんが来ました」
「与八が?」
「与八さんが馬を曳(ひ)いて来ました」
「与八が馬を曳いて来た? そいつは面白い、こっちへ通せ」
 与八が沢井から久しぶりで道庵先生を訪れて来ました。
「与八、お前が来たから今日は、おれも久しぶりで江戸見物をやる、どうだ、両国へでも行ってみようか」
「お伴(とも)をしましょう」
 その翌日、道庵は与八をつれて両国へ出かけました。与八の背には郁太郎(いくたろう)が温和(おとな)しく眠っています。
 道庵先生は両国へ行く途中も、例の道庵流を発揮して通りがかりの人を笑わせました。
「あそこが両国だ、大きな川があるだろう、間(あい)を流るる隅田川というのがあれだ。向うは上総(かずさ)の国で、こっちが武蔵の江戸だから、昔し両国橋と言ったものだが、今はあっちもこっちもお江戸のうちだ。どうだい、景気がいいだろう、幟(のぼり)があの通り立ってらあ、橋の向うとこっちに見世物小屋が並んでる、見物人がいつでもあの通り真黒だ、木戸番が声を嗄(か)らしていやがる。与八、うっかりあの前へ行ってポカンと立っていると巾着切(きんちゃくきり)に巾着を切られるから用心しろ、ぐずぐずしていると迷児(まいご)になるから、おれの袖をしっかり捉(つか)めえていろ、自分の足を踏まれぬように、背中の子供を押しつぶされねえように気をつけて」
 こうして二人は両国の人混(ひとご)みへ入り込んで行きました。
「先生、こりゃ何だい」
 与八はいちいち見世物の絵看板の前で立ち止まる。
「こりゃその駱駝(らくだ)の見世物だ」
「駱駝というのは何だろう、馬みたような変てこなものだな」
「そりゃ南蛮(なんばん)の馬だ」
「背中に瘤(こぶ)がある」
「あれが鞍(くら)の代りになる」
「おおきな瘤だな」
「はははは」
「先生、こりゃ何だ」
「これは籠細工(かございく)というものだ、今はやりの籠細工というものだ」
「綺麗(きれい)だなあ」
「その次は竹細工、糸細工、硝子細工(びいどろざいく)、紙細工」
「綺麗だなあ」
「それから駒廻(こままわ)し」
「やあ、駒から水が出ている」
「今度は機関(からくり)」
「やあ、機関まである」
「女盗賊三島のお仙ときたな、こりゃ三座太夫だ、次がおででこ芝居」
「芝居で歯磨を売るのはおかしい」
「はははは」
「それでも先生、『おあいきやう手踊り御歯磨調合人、岩井管五郎(くだごろう)』と書いてある」
「いや、こいつらは、もと歯磨売りとしてその筋へ願ってあるのだ、芝居をすると言って始めたのではない、それだから今でも歯磨の看板を出しているのだ」
「ああ、打掛(うちかけ)を着たお姫様が向うを向いている、ありゃ何だ」
「与八、あんなものを見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」
「みんな中で笑っている」
「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」
「そうですか」
「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば言語道断(ごんごどうだん)のものだ。さあ与八、ここに軽業(かるわざ)がある」
「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」
「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」
「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な面(かお)をした娘が逆(さか)さになって、足で盥(たらい)を組み上げて、その上で三味線を弾いてらあ、エライものだなあ。こっちの方は綱渡りか」
 与八は余念なくこの立看板を仰向(あおむ)いて見て行くうちに、
「大評判、印度人槍使い」
 ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。
「先生、この槍使いの面(かお)は、こりゃ何という面だ」
「はははは」
「面も身体も真黒で、眼を光らかして、裸体(はだか)で槍を持って立っているが」
「こりゃ印度人だよ、印度といって天竺(てんじく)のことだ」
「へえ」
「印度から来た槍使いと書いてある」
「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」
「そうだ」
「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」
「黒ん坊とさえ言うからな」
「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」
「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」
「へえ」
「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」
「ずいぶん黒いなあ」
「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました稀代(きだい)の槍使いはこれでござい、ごらんの通り、身の丈わずか四尺一寸なれども、槍を使うては神妙不可思議、これまでこの男の槍先に斃(たお)されましたところの虎が三十八頭、豹(ひょう)が二十五頭、そのほか猛獣毒蛇をこの一本の槍先で仕留めましたること数知れず、或る時ヒマラヤ山の麓におきまして不意に一頭の猛虎に襲われましたる折に、右の股(もも)を牙(きば)にかけられ、すでにこうよと見えたるところを、取り直して、グサと突込みました一槍で、猛虎の口から尻まで突き通して仕留めましたその働きが、国王殿下のお耳に入り、この通り首にかけたる金銀のメタル、これが印度国王殿下からの賜わり物にござりまあす。それより以来(このかた)、当人は右足の自由を失いまして片足の芸当、高いところは十丈の梁(はり)の上を走り、低いところは水の底をくぐる、馬に乗りましてこの槍を使いますれば馬上の槍、我が朝におきましては宝蔵院の入道、高田又兵衛といえどもこれには及ばず。嘘偽(うそいつわ)りと思召すなら御見物の方々、御持合(おんもちあわ)せの手裏剣(しゅりけん)なり鉄扇なり、または備え置きましたる半弓、石、瓦の類(たぐい)をもって、御遠慮なく当人の四肢五体いずれへなりともお覘(ねら)いをつけ下し置かれ、まんいち当人の身に一つでも当りましょうならば、その場において、ここにござりまする虎の皮三枚、豹の皮二枚、これをお土産(みやげ)までにどなた様にも差上げまする。長い浮世に短い命、こういうものが二度とふたたび、日本の土地へ参りましょうならお目にかかりまする、孫子(まごこ)に至るまでのお話の種、評判の印度人、ガンジス河の槍使いはこれでござい!」
「ははあ、これがこのごろ評判の槍使いだな」
「先生、本当だんべえかね、本当に印度からこんなエライ槍使いが来ているのかね」
「口上言いの言うことは当(あて)にならねえが、それでもこのごろは、この見世物がばかに評判だ、まるっきり嘘を言って評判を立てるわけにもゆくめえから本当かも知れねえよ」
「そうかなあ」
 与八はしきりにその印度人槍使いの大看板をながめていますから道庵が、
「与八、これがそんなに気に入ったか。それでは、こいつをひとつ見せてやろう」
「そうしておくんなさい」
「俺もこいつをひとつ見たいと思っていたのだ」
 二十四文ずつの木戸銭を払って、道庵と与八はこの小屋の中へ入りました。
 小屋の中は摺鉢(すりばち)のようになって、真中のところが興行場になっていて、見物は相撲を見ると同じように、四方から囲んで見ることになっています。
 道庵と与八とは土間の程よいところに陣取って、与八は郁太郎を卸(おろ)して膝にかかえ、物珍らしそうに、この大きな小屋がけの天井から板囲(いたがこい)いっぱいになった見物人の方をながめて、
「たいへん人が入っている」
 この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。
 紋附を着て袴を穿(は)いて襷(たすき)をかけた娘が三人出て来て、台の上へ仰向きに寝て足でいろいろの芸をやる。それから力持、相撲のように太った女、諸肌脱(もろはだぬ)ぎで和藤内(わとうない)のような風をしているその女の腹の上へ臼(うす)を載せて、その上で餅を搗(つ)いたり、その臼をまた手玉に取ったりする。
 道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、鮨(すし)と饅頭(まんじゅう)を山の如く取って与八に食わせ、自分も食いながら、
「今度は、例の印度人の槍使いだな」
 問題の印度人、書入(かきい)れの芸当。長い浮世に短い命、二度とふたたびは日本の土地で見られないと口上が言った。前にも後にも初めての舶来、看板でおどかし、呼込みで景気をつけ、次に中入り前に、ワザワザ時間を置いて勿体(もったい)をつけて、また改めて口上言いが出て、
「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」
 前のに尾鰭(おひれ)をつけて長々と、槍使い一代の履歴を述べ、さんざん能書(のうがき)を並べて見物に気を持たせておいて、口上が引込むと拍子木カチカチと、東口から現れたのがその印度人であります。
「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に偽(いつわ)りは無(ね)え」
 見物はその異様な風采(ふうさい)でまず大満足の意を表します。なるほど背四尺一寸と看板に書いてあった通り。手に持った槍、柄は真赤に塗ってあって、尖(さき)が菱(ひし)のようになっている、それも看板と間違いはない。身体(からだ)は漆(うるし)のように黒く、眼ばかり光って、唇が拵(こしら)えたように厚く、唇の色が塗ったように朱(あか)い、頭の毛は散切(ざんぎり)で縮(ちぢ)れている、腰の周囲(まわり)には更紗(さらさ)のような巾(きれ)を巻いている、首には例の国王殿下から賜わったという金銀のメタルが輪になって輝いている、それもこれもみんな看板と同じこと。それが東口から赤柄(あかえ)の菱槍(ひしやり)を突いて出て来る足許(あしもと)は、一歩は高く一歩は低いものであります。
「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」
 その跛足(びっこ)がまた大喝采(だいかっさい)。
「イヨー、舶来の加藤清正!」
「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」
 見物は喚(わめ)く。
「先生」
「与八」
「看板の通りだね」
「看板の通りだよ」
 やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから面(かお)の上へは情がうつりません。
「キーキーキー」
 白い歯を剥(む)き出して、猿の啼(な)くような声を出して、左の手を高く挙げました。
「あれが向うの挨拶(あいさつ)なんだね、日本でこんにちはと言うのを、印度ではキーキーと言うんだろう」
「それに違えねえ」
 印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を一週(ひとまわ)り見廻して正面を切ると、一心に見ていた道庵先生と期せずして面(かお)がピタリ合いました。
 道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。他目(よそめ)には誰も何とも気がつかなかったが、印度人はブルブルと慄(ふる)えて、危なく槍を取落すところを、しっかりと持ち直して、わざとらしく横を向きました。
「はて、おかしいぞ」
 道庵先生もまたこの時首を捻(ひね)りましたが、
「何だね、先生」
「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」
「先生は印度人にも友達があるのかね」
「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、跛足(びっこ)に申し分もなし、こいつはいよいよおかしい」
 道庵先生は、慈姑(くわい)頭を振り立てて印度人の恰好(かっこう)を横から見、縦から見ていましたが、
「あはははは」
 突然、大きな声で笑い出しました。
 時々変なことを言い出すお医者さんと思って、あたりの見物も気に留めなかったが、この時は笑い方があまり仰山(ぎょうさん)であったから、みんなが道庵の方を振向いて見ました。
「先生、何を笑ってるのだ」
 与八も驚かされました。
「あはははは」
 道庵はやはり大口をあいて笑います。
「何がおかしいだか」
 与八は受取れぬ面(かお)。
「まず前芸と致しまして槍投げの一曲、宙天(ちゅうてん)に投げたる槍を片手に受け留める……」
 口上言いが言う。
 印度人が槍を取り直して、ヒューと上へ投げる。
「うまいぞ! あははは」
 道庵先生が囃(はや)すと、印度人はブルブルと慄えて、落ちて来た槍を危ないところで受け留める。手足にワナワナと顫(ふる)えが見えるのが不思議です。
「黒さん、しっかり頼むよ」
 道庵先生に言葉をかけられるたびに、印度人がドギマギして、ほかの人が見てもおかしいと思うくらいに、槍の扱いがしどろになってしまうから見物が、
「なんだか危なっかしい手つきだ」
 幸いに面の色は真黒だから、表情が更にわからないけれど、どうも黒さんの調子が甚だ変なのであります。それでもやっと数番の槍投げを了(お)えて、
「次は槍飛び!」
 口上がかかると、
「しっかりやれ、道庵がついてるぞ!」
 道庵がまた大きな声。
 槍飛びの芸当にかかるはずの印度人が、この時ふいと舞台から逃げ出しました。
「おい黒さん」
 口上言いが驚いて呼び止める。それを耳にも入れないで、印度人は、槍を突いて跛足(びっこ)を飛ばして楽屋(がくや)の方へ逃げ込みます。
「おや、黒さん、どうしたんだい」
 口上言いや出方(でかた)が飛んで行って、印度人を連れ戻そうとするのを、印度人は頓着(とんちゃく)なしに楽屋に逃げ込んでしまいます。
 いよいよ本芸にかかろうとする前に、肝腎(かんじん)の太夫さんが黙って逃げ出したのだから、
「どうしたんだ」
「怪(おか)しいな」
「急病でも出たのかな」
「ひょいと出て、ひょいと引込んでしまやがった」
「おかしな奴だよ」
「出方が追っかけて行かあ」
「あれ、楽屋へ逃げ込んでしまったぞ」
「どうしたわけなんだ」
「やあい、黒、どうしたんだ」
「黒!」
「黒ん坊!」
「早く出ろ! 黒やあい」
 見物は、ようやく沸き立ってきました。
「東西」
 口上言いが、沸き立つ見物の前へ出て来て、
「ただいま、印度人が急病さし起りまして、暫らく楽屋に休憩とございます、なにぶん熱国より気候の違った日本の土地に初めて参りましたこと故……」
「あはははは」
 口上の申しわけ半ばに道庵が笑う。口上は腰を折られて変な目をして道庵を見たが、また申しわけをつづけて、
「食当り水当りのために頭痛眩暈(ずつうめまい)を致し、なにぶん芸当相勤め兼ねまするにより……」
「その病気なら俺が癒してやる」
 またしても道庵の差出口(さしでぐち)。
「当人病気休息の間、代って手品水芸の一席を御覧に入れまあする」
「馬鹿野郎」
 見物が承知しませんでした。
「手品なんぞは見たくねえ、早く黒を出せやい、黒ん坊を出せ」
「新宿の八丁目から、わざわざ黒ん坊を見に来たんだい」
 半畳(はんじょう)が飛ぶ。

 自分の楽屋へ逃げて来た印度人、楽屋にはお玉のお君が胡弓(こきゅう)を合わせていました。
「どうしたの、友さん」
「駄目だ、駄目だ」
 ここへ来ると印度人は楽な日本語です。
「まだお前、引込む時間ではないのだろう」
「いけねえ」
 印度人は、お君の傍へ倒れるように坐って首を振りました。
「どうしたんですよ」
 お君は胡弓をさしおいて心配そう。
「ばれちゃった、ばれちゃった」
「まあ」
 お君も安からぬ色。
「誰か、お前が印度人でないと言う人があったの」
「うん」
「じゃあ何かい、お前が、宇治山田の友さんのお化(ば)けだということを、誰か見物が言ったの」
「そうは言わねえけれど、知っている人に見つかっちゃった」
「知ってる人? それは誰」
「それは、俺(おい)らが世話になったお医者さんだ」
「お医者さん? 伊勢(あちら)のお医者さんかえ」
「いいや、いつかもお前に話したろう、俺らが隠(かくれ)ヶ岡(おか)で突き落されて、一ぺん死んだやつを生かしてくれたお医者さんだ」
「それでは、あの下谷の長者町にいらっしゃるという先生かい」
「そうだ、その道庵先生が見物に来ているのだよ」
「まあ、そりゃ驚いたね。それだってお前、なにも心配することはありゃしないよ、お前の方では道庵先生だとわかっても、先生の方ではお前が友さんだとわかる気遣(きづか)いはないからね。傍にいるわたしだって、そう言われなければわからないのだから、心配しなくてもいいじゃないか」
「ところが駄目なんだ」
「わかっちまったのかい」
「なんしろ、俺の身体は頭の上に毛が幾本あって、足の蹠(うら)に筋がいくつあるということまで、ちゃあんと呑込んでる先生だから、一目で見破られちまった」
「そりゃ困ったね。でもね、先生は悪い方じゃないんだろう、だからここでお前を素破抜(すっぱぬ)いて恥を掻かすようなことはなさりゃすまいから」
「そんなことはしねえ、素破抜きなんぞはやりゃあしねえが、あはははと大きな声で笑う」
「そりゃ、知った人が見りゃおかしいだろうよ」
「そうして、『黒、しっかりやれ、俺が附いてる』なんと言うのだ、あの先生、酔っぱらっているからね」
「何と言ったってかまやしないじゃないか、怖(こわ)いことはないだろう」
「だってお前、俺(おい)らには気恥しくってやっていられねえ」
「困ったねえ」
「俺らはもう印度人は廃業だ、親方にうまく持ちかけられて、お前までがやってみろと言うものだからこんなに黒くなってしまったが、今日という今日は、とてもやりきれねえ」
「困ったねえ」
「印度人は俺らの性(しょう)に合わねえ」
「困ったねえ」
 この時、見物席の方で罵(ののし)り噪(さわ)ぐ声がここまで喧(けたた)ましく響いて来る。
「あれ、あんなにお客が騒いでいるじゃないか、お前が中途で引込んだからなのだろう、お客様はみんなお前を見たがって来るのだからね」
「俺らはここへ寝てしまう」
 この印度人の正体が米友(よねとも)であることは申すまでもないことで、米友は今、刺繍(ぬいとり)の衣裳などが掛けてある帳(とばり)の中へ入って寝込んでしまおうとすると、
「黒さん」
 楽屋へ来たのは洗い髪の中年増(ちゅうどしま)。色が白くて光沢(つや)がある。朱羅宇(しゅらう)の煙管(きせる)と煙草盆とをさげて、弁慶縞の大柄(おおがら)に男帯をグルグル巻きつけて、
「どうしたんだい」
 背後(うしろ)には屈強な若者が三人、控えています。
「親方、済まねえが……」
 米友はこの年増を親方という。そうして済まねえと言って一目(いちもく)置く。
「済まないといったってお前、あの通り、お客がわいてるじゃないか」
「ばれちゃったんだ、親方」
「ばれたって? 誰もそんなことを言やしないよ、あの通り騒いでいるのはみんな、お前を見たがって騒いでるのじゃないか、お前がイカサマだっていうことを、一人も言ってるものはないじゃないか」
「けれども親方、たった一人、知ってる奴があるんだから、何とかしておくんなさい」
「なんと言ったって駄目なんだよ、お前が出て挨拶しなけりゃ、お客は納(おさ)まらないんだよ」
「では親方、病気だと言って休ましておくんなさい、今日一日、休ましておくんなさい、今晩よく考えておきますから」
「困るよ、そんなことを言ったって。あれあの通り、大騒ぎが始まっているじゃないか。それではお前、ちょっと出て挨拶しておくれ、病気で芸ができませんからって、お前の面(かお)で挨拶をしなければお客様は納まらないんだよ」
「俺らは出るのはいやだ」
「いやだとお言いかえ」
 お君はそれと心配して、
「友さん、そんなことを言わずに出ておくれよう、出て、なんとか言っておくれよう」
「うむ」
「さあ、早く出て行っておくれよう」
「うむ」
 米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは一寸(ちょっと)ばかり面(かお)を出してね、出鱈目(でたらめ)を言うから、口上の方でごまかしておくんなさい」
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は廃業(やめ)だよ、黒ん坊は御免を蒙(こうむ)るよ」
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を晦(くら)ますと、こんな思いをしなくっちゃあならねえ、もう印度人には懲々(こりごり)だ」
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな小言(こごと)をいま言ったって仕方がないよ、早く出ておくれ」
 親方の年増(としま)は、だますようにして米友をつれて行きました。

「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
 与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
 道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の面(かお)に怖れをなして逃げ出したのだ。どうだ与八、おれの豪(えら)いことをいま知ったか、三十五頭の虎を退治した奴が、おれの面を見ただけで逃げてしまった」
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行って黒を引き出して見せる」
「それじゃ先生、あの黒ん坊とお前さんは知合いなんだね」
「なんでもいいから見ていろ」
「先生、印度の言葉がわかるのかね」
「わかるとも、印度の言葉であれ、和蘭(オランダ)の言葉であれ、ちゃんと心得ている」
「豪いもんだな」
「いよいよ楽屋の方へ押しかけて行ったな、うまく黒を引っぱって来ればいいがな。さあ、黒が来てなんと言うか、よく聞いていろ。このなかに印度の言葉がわかる奴は憚(はばか)りながらこの道庵のほかには無(ね)え、なあに、楽屋のやつらだって印度の言葉がわかるものか。出て来たら、奴の挨拶の仕様によって、おれが一番、通弁をして見物のやつらをあっと言わせてやる、出て来なければ俺が迎えに行って連れて来て見せる、俺が来いと言えば二つ返事で来る、もし病気だといえばお手の物だから俺が診察してやる、日本広しといえども、印度人の病気を見出すにはこの道庵より上手な医者は無(ね)え」
「先生、あんまり大きなことを言うと見物の人に撲(なぐ)られるよ」
「なあに、大丈夫、おれは印度の言葉を心得ている、その上に印度人の病気を見出すことが上手だ」
「先生、出て来ましたぜ」
「やあ来た来た。黒、またやって来たな、しっかりやれ」
「東西――」
 口上言いと出方とが黒を引っぱって、場の真中へ出て来ました。黒は元気のない歩きつきをして道庵の方を見るのが、鼠が猫を見るような態度であります。
 黒が出て来たので見物は、やっと納まりました。
「いよう黒ん坊!」
「御見物の皆々様へ申し上げます、ごらんの通り色が黒うございますから、喜怒哀楽の心持が現われませぬ、どうぞこの足どりの萎(しお)れたところでごらん下さいまし、虎を手取りに致すほどの豪傑も、人間はすこぶる内気でございまして、子供のようなところがございます、ただいま腹痛がさし起りまして、とても芸当が致し兼ねると申して、皆々様にお断わりも申し上げず引込んで駄々を捏(こ)ねまするのを、ようやくのことで引き出して参りました、今日はどうぞ、これにて御免を願い上げまする、その代りと致しまして、明日(あした)は残らず芸当を取揃えて御覧に入れまする……」
 口上言いがぺらぺら喋(しゃべ)ると、聞いていた印度人の米友、その手を後ろからグイグイと引く。
「明日は間違いがございません……」
 また手を引く。
「槍投げ、槍飛び、馬上の槍、水中の槍、綱渡りの槍、飛越えの槍、矢切(やぎり)の槍、鉄砲避(てっぽうよ)けの槍……」
「嘘(うそ)を言うな! 明日はやらねえ」
 怺(こら)え兼ねた印度人の米友、我を忘れて口上言いを力に任せて後ろへ引くと、口上言いは尻餅(しりもち)を搗(つ)く。
「おや!」
 見物は驚く。
「嘘だ!」
 米友が喚(わめ)く。
「おや、あの印度人が日本の言葉を使ったぜ、そうして口上をひっくり返した」
 見物はまた沸く。
「あはははは」
 道庵先生が、また大笑いをする。

 その晩に、お君と米友はこの見世物小屋を追ん出されてしまいました。
「友さん」
 お君は泣き出しそうな面(かお)をして、三味線だけを小脇(こわき)にかかえ、
「お前は、あんまり気が短いからいけないのだよ」
「だって仕方がねえ」
 米友は、この時はもう黒ではない。黒いところはすっかり洗い落されて、昔に変るのは茶筅(ちゃせん)を押立(おった)てた頭が散切(ざんぎり)になっただけのこと。身体(からだ)には盲目縞(めくらじま)の筒袖を着ていました。
「口上さんが申しわけをしている時に、あんなことを言い出さなければよかったに、あれですっかり失敗(しくじ)ってしまったんだよ。それでも聞き咎(とが)めた人は幾人もなかったからよいけれど、本当にばれた時には、それこそ小屋を壊されて、どんな目に会うか知れなかったよ」
「あの時は、ついあんなわけで、口上の言草(いいぐさ)が癪(しゃく)に触るから」
「あたりまえなら、袋叩(ふくろだた)きにされた上に小屋を抛(ほう)り出されるのだけれども、お前が槍が出来るし、それに偽(にせ)の印度人だという評判が立っては悪いから、こうして黙って追い出されたんだというから、まあ仕合せだと思っていますよ」
「うん、俺(おい)らも、もうあんなところにはいてくれといったって一日もいられやしねえ、ちょうどいい幸いだ」
「だけれどあの親方は、そんなに悪い人じゃないよ。なにしろ女の身でもって、あれだけのことを踏まえて行こうというんだから、なかなかしっかりしたところがあるねえ」
「そうだ、あの親方は、あれでなかなかいいところがあるよ」
「第一、侠気(おとこぎ)があるね。ほら、二人が三島まで来て、お金が無くなって困っていた時に、あの親方に助けられたんだろう、わたしの三味線がいいから下座(げざ)に使ってやると言って、中へ入れてくれたから、お関所も無事に通ることができたんだよ」
「そうだ、それからとうとう、おれを印度人に化けさせやがった。はじめの考えでは、俺(おい)らはあの道庵先生を頼って行くつもりであったが、途中で印度人に化けるようなことになっちまった」
「これからどうしようね」
「どうしようと言ったって、まあ今夜はどこか木賃(きちん)へでも泊って、ゆっくり相談するとしよう」
「あの親方が言うのにはね、君ちゃん、お前は一旦ここを出ても、気があったらまた戻っておいで、どんなにも相談に乗って上げるからと、出る時に親切に言ってくれたのよ」
「俺らにはそんなことを言わなかったが、お前にだけそんなことを言ったのかい」
「そうだよ、わたしにだけ内密(ないしょ)に言ってくれたの。江戸に居悪(いにく)ければ旅へ出た時に、まだ仕事はいくらでもあるから、どこへか落着いたら居所(いどころ)を知らせてくれと言ってくれましたよ。そうして今晩も泊るところがなければ、両国橋を渡ると向うに知合いの宿屋があるから、そこへ行って親方の名をいえばいつでも泊めてくれると、その所や宿屋の名前まで、よく教えてくれましたよ」
「はは、それでは親方は俺らには愛想(あいそう)を尽かしたけれども、お前の方にはまだ見込みがあるんだな。お前またあすこへ行ってみる気があるのかい」
「そうですねえ、あの親方さんが親切に言ってくれるものだから」
「そうか……」
 二人は両国橋を渡ります。夜風が吹いて川を渡るのに、見世物場では賑やかな燈火(あかり)。二人はこし方(かた)とゆく末を話し合って、後ろに跟(つ)いて来たムクのことを忘れていました。

         二

「君ちゃん、俺らもようやく奉公口がきまったよ」
 米友が言って来たのは、それからいくらもたたない後のことでありました。
「そうかい、それはよかったねえ、どんなところなの」
 着物を畳んでいたお君が莞爾(にっこり)しました。
「金貸しの家だよ、このごろ金貸しを始めた家なんだよ」
「金貸し? お金を貸して利息を取る商売なの」
「そうだよ」
「金貸しは貧乏人泣かせで、罪な商売だというじゃないか」
「罪な商売かも知れねえが、俺らがそれをやるわけじゃない、俺らはただ奉公人なんだから」
「そりゃそうさ。まあ、何でもよく勤めさえすりゃいいんだろう」
「家の留守番をして、庭でも掃いていりゃいいんだとさ。俺らは片足が不自由だけれども力があるから、泥棒の用心にいいからって、それで雇われることになったんだ」
「そうだろうねえ、金貸しの家なんぞは泥棒に覘(ねら)われるだろうねえ。家の用心もしなくちゃあいけないけれど、自分の身も用心しなくちゃいけないよ」
「大丈夫だ」
「それで家の人数は多いのかい、雇人はお前のほかにたくさんいるだろうねえ」
「うんにゃ、俺らのほかには飯焚(めしたき)が一人、そのほかによそから来ている人はいねえ」
「大へんにこぢんまりした金貸しさんだねえ、それでは家の者が多いのでしょう、息子さんだとか、娘さんだとか」
「それもずいぶん少ないのだよ、よく考えてみると、おかしな家だよ」
「おかしな家とは?」
「でも、主人というのは子供なんだからね、子供といっても十四か五ぐらいだ、それが主人で、そのお母さんともつかず姉さんともつかない女が一人、その子は、おばさんおばさんと言っているが、その二人きりなんだ」
「その女の人と子供と二人で金貸しをしているの」
「うむ、そうだよ、代々やっているのかと思えばそうでもなく、ほんの近頃はじめたらしいんだから」
「では、そのおばさんというのが、先(せん)の御亭主か何かが残しておいたお金をもって、それを寝かしておくのも惜しいから、金貸しをして暮らそうとでもいうんだろう」
「そんなことだろうと思うよ。その子供がまた、ばかにマセた子供でね、主人気取りで、俺らを使い廻す気になっていて、うっかり坊ちゃんなんと言おうものなら、怖い眼をして睨むんだからおかしいや」
「その子供さんが番頭をするんだろうから、お前は番頭さんといえばいいじゃないか」
「番頭さんでも気に入らないんだ、旦那様と言わないと納まらないんだからおかしいやな」
「旦那様というのは少しおかしいね、十四や十五の子供をつかまえて」
「けれども旦那様と言うことになったんだ。そうしてみると、俺らはあの、おばさんという人の方をなんと言っていいか、それをいま考えているんだ」
「その子供が旦那様では、まさか奥様とも言えないしね」
「そうかと言って、まだお婆さんという年でもないんだ、やっぱり奥様と言っているより仕方があるめえ」
「なんでもよいからその時の都合のいいようにお言い。それからお前、短気を出さないでよく奉公をしなくてはいけないよ」
「うまく勤まるかどうだか。それにしても君ちゃん、お前の方はどうなるのだい、お前はあの軽業(かるわざ)と一緒に旅に出る気なのかい」
「ああ、少しの間だから行ってみようと思うの、いつまでこうしていたって仕方がないから、わたしもあの人たちのお伴(とも)をして旅に出てみることにしようと思うの」
「もう返事をしてしまったのかい」
「ええ」
「旅に出るのは危ないぜ」
「でも永いことじゃないから」
「どっちの方へ行くんだい」
「甲州とやらへ」
「甲州へ?」
「すぐ帰って来ますよ」
 お君は畳みかけていた着物を、また畳みはじめます。
「君ちゃん」
 米友は、燈下に着物を畳むお君の姿を横の方から暫く眺めていて、思い出したように名を呼びました。
「何だえ」
 お君は着物を畳みながら返事。
「お前は旅へ行く、俺らは奉公に行く、そうすると、また暫く会えないね」
「何だい友さん、そんなに心細いようなことを言ってさ」
「でも、暫く会えないじゃないか」
「暫く会えないには違いないけれど、お前の言うのはなんだか一生会えないような心細い言い方をするから」
「一生会えないかも知れないからさ」
「縁起(えんぎ)でもないことを言っておくれでない、一生会えないなんて」
「それでも、なんだかそんな気持がする、これっきり一生会えないような気持がする」
「またそんなことを」
「お前、その畳んでいる着物は、そりゃあの親方さんから貰ったんだね」
「そうだよ、ちょうどわたしの身体に合っているから持っておいでと言って、あの親方さんがくれたの、まだ一度ぐらいしきゃ手を通したことがないんだよ」
「綺麗な着物だね」
「それからお前、櫛(くし)だの簪(かんざし)だの、足袋から下駄まで、そっくり拵(こしら)えてくれたのだよ。なかなか金目(かねめ)のもので、わたしたちが二年と三年稼(かせ)いだからって、これだけのものは出来やしない」
「お前、そんなにたくさん貰って嬉しいかい、有難いと思ってるのかい」
「そりゃ誰だって、こんなに結構なものを貰えば嬉しいと思いますわ、嬉しいと思えばお礼の言葉も出るじゃありませんか」
「そうだろうなあ」
「ほんとうに、あの親方さんは親切な人ですよ、自分の妹のように、わたしの面倒を見てくれますから」
「けれどもね、君ちゃん」
「ええ」
「あれは本当の親切ですると、お前は思っているのかね」
「本当の親切?……本当も嘘もありゃしない、このせちからい世の中に、こんなにして下さる人が二人とありましょうか」
「君ちゃん、お前は正直だから、なんでも人のすることを、する通りに受けてしまうんだが、伊勢の拝田村にいた時はそれでいいけれど、江戸というところはそれでは通らないことがあるんだから」
「ホホホ、お前はおかしなことをいう、どこの国へ行ったって、人情に変りというものがあるはずはないじゃないか」
「ところがなかなか、そんなわけにばかりはいかないのだよ、俺らの身にしたって、あんな約束ではなかったのだけれど、江戸へ来てみると、直ぐに真黒く塗られたのは、この通り洗えば落ちるけれども、君ちゃん、お前がもし真黒く塗られると、洗ったってどうしたって落ちやしないよ」
 米友はいまさらのように自分の腕を撫でてみて、それから散切(ざんぎり)になった頭の毛をコキ上げる。
「ホホホ、友さん、お前は今日はどうかしているね」
 お君は無邪気に笑います。
「まさかわたしを真黒にして、印度人に仕立てるようなこともないでしょう、そんなことをしたって、わたしでは見物が納まりませんからね」
「真黒にするというのは、そのことじゃねえんだ、お前の身体を真黒にしようと言うんじゃねえのだ」
「どこが黒くなるの」
「はは、まだお前はそれが気が附かねえんだ、心が黒くなるといけねえんだ」
「心が黒くなる? ばかなことをお言いでない、心なんていうものには色はありゃしない」
「それはないさ、今のところお前の心には色がないんだから、それで大事にしなくちゃいけねえ」
「友さん、お前は学者だから、心がどうだなんて言うんだろうけれど、わたしは学問がないからそんなことは知らないよ、黒くなったら洗えばいいじゃないか」
「洗っても落ちねえ」
「なんだか、お前の言うことはわからない」
「わからねえから、それで俺らは心配なんだ、黒くなると二度と洗い落すことはできないんだから」
「まだあんなことを言っている」
 それで暫らく二人の無邪気な会話は途切(とぎ)れたが、着物を畳んでいるお君の手は休まない。米友は両手で顋(あご)を押えて下を向いていたが、
「君ちゃん、どうだい、旅へ出ることをよしにしてしまったら」
「ええ? わたしに旅へ出るのを止めにしろって?」
 お君は畳みかけた手を休めて、米友の方を向いて眼を円くする。
「そうしてくれると、いつまでも一緒にいられるんだ」
「そんなことを言ったってお前、もう二三日でここに泊っている宿賃もなくなってしまうのに、お前は奉公に行くんだろう、とても二人一緒に過ごして行けることはできないじゃないか。それにお前、今になって急に行けないなんて、あれほど恩になった親方さんの前へ、そんなことが言えるものかね」
「それはそうだろう。それじゃあどうも仕方がねえから、行っておいで」
「情けない言い方をするねえ、もっと威勢よく力を附けて言ってくれなくちゃ」
 お君はどこまでも、米友の言うことを気にしないで、いつもの通り軽くあしらって、着物を畳んでいるが、米友はやっぱり浮かない面(かお)をしていると、破(や)れ障子(しょうじ)の裏で、ワン!
「ああ、忘れていた、ムクにまだ夕飯をやらなかった」
 米友は、あわて気味に頭を上げると、
「ああ、そうそう、かわいそうに、ムクにまだ夕飯をやらなかったのね」
 お君も面(かお)を上げる。米友は立って障子をあけると、縁側に首をのせて、ムクが尾を振って鼻を鳴らしています。
「ムクや」
 米友は直ぐに台所から食物を持って来て、ムクに食べさせました。
「ムクや」
 尾を軽く振って夕飯を食っているムク。それを見ながら米友が、
「ムク、俺(おい)らは明日から奉公に行くんだぞ、君ちゃんは近いうち旅へ出るんだぞ、俺らはお前をつれて行くことはできねえが……そうだ、お前は君ちゃんに附いて行け、俺らの代りに君ちゃんに附いて行け」
 こう言って米友の面が急に明るくなって、
「君ちゃん、君ちゃん」
「なに」
「旅へ出るにもムクはつれて行くんだろうな、ムクをつれて行っても親方は叱言(こごと)を言やしないんだろうね」
 お君は頷(うなず)いて、
「ああ、それはいいんだよ、ムクにはこれから芸を仕込むなんて、親方も大へん可愛がってるから」
「それで安心した、行っておいで、行っておいで」
 米友はホッと息をつきました。

         三

 米友が庭を掃いていると、木戸口をガラリとあけて入って来たのは十四五の少年であります。子供のくせに気取った容姿(なり)をして、小風呂敷を抱えた様子が、いかにもこまっちゃくれているが、よく見るとそれは甲州の山の中で金(きん)を探していた忠作でした。
「友造、誰も来なかったか」
「へえ、誰も参りませんよ」
「ああ、そうか」
 顋(あご)をしゃくって忠作は家の中へ入ってしまうと、米友はそのあとを見送って、
「ばかにしてやがら」
 相変らず跛足(びっこ)を引きながら庭を掃いていると、
「友造、友造」
 奥の方で呼ぶ声がします。
「ばかにしてやがら、友造、友造と噛んで吐き出すように言やがる」
「友造、友造」
「自暴(やけ)になって呼んでやがる、返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
「はははのはだ、友造がどうしたんだ、友造で悪けりゃ勝手にしろ」
「友造、友造」
「やあ、こっちへやって来るな、怒ってやがる、小餓鬼(こがき)のくせに金貸しなんぞをしやがって、生意気な野郎だから返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
 キンキンした声で怒鳴りながら奥から飛んで来る様子。
「隠れろ、隠れろ」
 友造の米友は縁の下へそっと隠れました。
「おや、ここにもいない、友造、どこへ行ったんだ、友造」
「はははのはだ」
 米友が縁の下で舌を出すと、忠作はその上で床板(ゆかいた)を踏み鳴らします。
「友造、友造」
「はーい」
 縁の下から返事。
「縁の下にいやがる。何をしているんだ、さっきからあれほど呼んだのが聞えないのか」
「聞えませんでした」
「嘘をつくな」
「嘘じゃありませんよ」
「嘘でなけりゃ貴様は聾(つんぼ)だ、跛足(びっこ)の上に聾ときては形(かた)なしだ」
「何だと」
「ナニ! 主人に向って貴様は口答えをするか、主人に向って」
 いつもの米友ならばなかなか黙ってはいないのだが、今日は奉公人の友造、短気をしてはいけないということが、お君からのくれぐれもの餞別(せんべつ)の言葉でもあり、せっかく仲人に立ってくれた道庵先生への義理でもあると、感心に辛抱しました。
「どうも仕方がねえ、なるほどお前さんは主人だ」
 米友――ここへ来てからは友造という名に改められたが、面(つら)を膨(ふく)らかして、御主人様のいうことを黙って聞いていると、
「馬鹿、日済(ひなし)を集めに行って来い」
「へい」
「さっさと掃いてしまってこっちへ廻れ、よく呑込めるようにしてやるから」
 忠作は障子を荒々しく締め切って奥へ行ってしまいました。
「ちぇッ」
 友造は舌打ちをして、
「いやになっちまうな、また日済集めにやられるんだ。日済集めは俺らは大嫌(だいきら)いだ、ナゼだと言えば、あの申しわけを聞くのがいやなんだ、そうかと言って思うように集まらねえと、あの小僧ッ子の御主人様がガミガミ言やがる、いやだなあ、いやだなあ」
 友造は口小言を言って庭を廻りました。
 米友の友造が貸金を集めに行ったあとでも、忠作はなお一生懸命に算盤(そろばん)と首っ引きをしているところへ入り込んで来たのが、丸髷(まるまげ)の町家風(ちょうかふう)の年増でありました。いつのまに変ったか、これは妻恋坂(つまこいざか)のお絹であります。
「七軒町の小間物屋さんが申しわけに来たから、そんならそれでよいと言って帰してしまいましたよ」
「帰してしまったって?」
 忠作は渋面(じゅうめん)をつくって後ろを見返り、
「帰してしまっては困るじゃありませんか、あの口は十五両一分で貸してあるんですよ、今時(いまどき)、ああいう走りの金を、十五両一分で融通するなんというのは格別の計らいなんですよ、それを有難いとも思わずに、待ってくれ待ってくれで、今日で三日目だろう、いいわ、いいわで帰してもらっちゃ困りますね」
「でも、あの人は気前のいい人だから、ありさえすりゃあ返すんだろうけれども、無いから返せないのだろう、性(しょう)の知れた人だから少しぐらい待って上げたっていいだろう」
「これは驚いた、そんな了簡(りょうけん)で金貸しができるものか。今度来たら私のところへ取次いで下さい、私が掛合うから。いや、そんな間緩(まぬる)いことをいってはおられん、今晩にも私が出向いて行って取って来ますから」
「いいじゃあないかね、二日や三日は」
「いけません、そんな了簡では金貸しはできません」
「金貸しという商売も思ったより忙(せわ)しい商売だねえ」
「忙しくって結構、忙しくないようでは上ったりですよ。おかげさまで、これごらんなさい、帳面尻(ちょうめんじり)が鼠算(ねずみざん)のように殖(ふ)えてゆく。どうです、おばさん、元金が利息を生み、利息がまた子を産むんですからね、その子がまた孫を産むんですから、ほうっておいてもメキメキと殖えてゆくんですよ。おばさんも少し算盤(そろばん)の勘定を覚えて下さい、利息の見積りなんぞを呑込んでおいてくれないと困る、私一人で朝から晩までやっているのも面白いけれど、おばさんにも少し覚えておいてもらわないと困ることがあるでしょう」
「使う方ならいくらでも引受けるが、儲(もう)ける方は面倒(めんどう)くさい」
「そうではありませんよ、その道へ入ってみるとこんな面白いことはない、なにしろ二十五両一分というのが利息の通り相場で、二十五両貸して月に一分の利息を上げる、それより上を取ってはならないことにお上(かみ)できめてあるんだが、どうしてどうして、裏はそんなものではない、十五両一分から十両一分、五両一分なんというのも珍らしくはないのですからね。それで向うが折入って御無心(ごむしん)に来る、こっちが高くとまって、それでいやならおよしなさいという腹でいると、背に腹は換えられないから向うが往生してしまうんでさあ、向うに働かしてこっちは懐手(ふところで)をしていて、うまい汁はみんな吸い上げてしまう、こんな面白い商売はまたとあるもんじゃない。これから追々大尽金(だいじんがね)というのを、はじめてみようと思っていますよ。大尽金というのは大身(たいしん)や金持の若旦那なんぞが、親や家来に内緒(ないしょ)で遊ぶ金を貸すんですね、これは思い切って高い利息を取って、そうして取りはずれのない仕事、ナニ、証文面(しょうもんづら)は御規則通り二十五両一分にしておくから、まかり間違って表沙汰になったところで、それだけの金は取れるんだ。そんな心配はありませんよ、こっちが表沙汰にしようと思っても、向うで折入って来るから……」
 忠作は帳面と算盤を見比べながら、ひとり悦(えつ)に入(い)るのを、お絹は面白くもない面(かお)をして、
「わたしの知ってる人が証人に立つから、百両融通してもらいたいと言って来たがどうだろう、借主は両国で景気のいい見世物師だという話だが、証人が確かだから……」
「見世物師?」
「ええ、両国に出ていたのが今度、旅を打って廻ろうというのに、仕込みや何かで金がかかるから、少しばかり借りておきたいと言うんですよ」
「なるほど、見世物師なんというものは、あれで当るとなかなか儲(もう)かるものだから都合して上げてもいいが……」
「今晩、また相談に来ると言っていたよ、よくその時に聞いてみたらいいでしょう」
「向うの話ばかり聞いていても駄目、実地に行って様子を見て、それから抵当(かた)になりそうなものの目利(めきき)をした上で……」
「そんなら行ってごらん」
「ほかにも廻るところがあるから、夕飯が済んだら出かけましょう。両国はなんと言いましたかね」
「何と言ったか、わたしもよく知らない、名札(なふだ)が置いてあったはずだから見て上げよう」
 お絹は気のないように、これだけのことを言いぱなしにして、自分の居間へ帰ってしまいました。居間へ帰ってからお絹は、机に凭(もた)れてホッと息をついて、
「ほんとに厭(いや)になってしまう、あんな子供のくせに朝から晩までお金のこと、元金(もときん)がいくらで利息がいくら、それよりほかに言うことはありゃしない。あっちから来るときは賢そうな子だから、見処(みどころ)がありそうに思って、つれて来てなにかと世話をしてやろうと来て見れば、殿様は甲州勤番(きんばん)、わたしもこれからどうして世渡りをしようかと戸惑(とまど)いをしていたところへ、どうしてあの子が聞き出して来たか、金貸しをすると儲(もう)かると言い出して、その利息勘定などを、わたしの目の前へ持って来て見せるものだから、わたしも眼から鼻へ抜けるようなあの子の賢いのに感心して、それではまあ、やってごらんと言って、それからあの子の持っていた金の塊(かたまり)と、わたしの使い残りのお金を資本(もと)にして、はじめさせてみると、調子はいいにはいいが、ああ細かくなって元金と利息のほかには眼がないようになってしまったのでは、末のことが思われる。このごろでは、コマシャクれた厭な餓鬼(がき)だ、見るのも厭になってしまった。なんとかして、わたしはわたしだけのお金を持って勝手に暮してゆきたい、そうしなくちゃ、ばかばかしくて仕方がない」
 お絹は続いてこんなことを考えていました。
「今晩はどこへか出かけてやろう。それにしても困ったのはお金、いちいちあの子が勘定して封印をして、ほかの人には手もつけさせないようにしてあるんだが、ひとつ探してみてやろうか。あとで文句を言うだろう。なるほどこうして置けば、お金はズンズン利に利を産んで殖(ふ)えてゆくだろうけれど、遣(つか)えないお金では全くつまらない。よし、帰って来たら、相談をして、わたしの取るだけのものは取って別れてしまおう、わたしはその金で、一軒を立てて、お花のお師匠……もうそんなことをしてもいられない、いいかげんの相手があれば……と言って、好いたらしいのは頼みにならないし、頼みになりそうなのは碌(ろく)でもなし、どうしていいかわからない」
 お絹は忠作をうまく使って、番頭も小僧も兼ねた仕事をさせ、自分は蔭で好きなことをして面白おかしく暮そうという目算であったのが、その事業はどうやら思うようにゆくが、お絹の目算は外(はず)れ、肝腎(かんじん)の金銭の出納(すいとう)、収支の自由は忠作が一手に握ってしまって、一分一朱も帳面が固く、お絹がかえって虚器を擁(よう)するようになってしまったから、厭気(いやき)がさしてたまらないのです。

         四

 貸金を集めに一廻りして来た米友。
 神田の柳原河岸(やなぎわらがし)を通りかかったのは、今で言えば夜の八時頃でした。懐中(ふところ)には十両余の金があって、跛足(びっこ)を引き引きやって来ると闇の中から、
「ちょいと、旦那」
 呼ばれて足をとどめた米友の友造が、
「誰だ」
「様子のよい旦那」
 闇(くら)いところから呼んでいるのは女の声。ちょうどその時分、他に往来がとだえていたから、友造を見かけて呼んだものに違いないと思われます。
「俺(おい)らに何か用があるのかい」
「こっちへいらっしゃいよ」
「お前はそこで何をしてるんだ」
「そんなことを言わずに、こっちへいらっしゃいよ、ほんとうに様子のいいお方」
「ばかにしてやがら」
「小作りで華奢(きゃしゃ)なお方」
「ばかにしてやがら、小作りだろうと大作りだろうとお前の世話にゃならねえ」
「ねえ旦那」
「用があるなら早く言いねえな」
「何を言ってるんですよ、用があるから呼んだんじゃないか」
「そんなら早く言ってしまいねえ、俺らはこれでも主人のお使先だ」
「まあ、ゆっくりしておいでなさいよ」
「大事の金を懐中に持ってるんだ、主人の金だから大事だ」
「お金? 頼もしいわ、そんなに大事なお金なら暫らく預かって上げようじゃありませんか」
「お前は俺らを調戯(からか)うつもりなんだな。女のくせに、この暗いところで、男をつかまえて調戯うとは呆(あき)れたもんだ、俺らだからいいけれども、ほかの男だと飛んだ目に逢(あ)うぞ」
「あははだ、お前さんこの柳原の土手を初めて通るんだね」
「初めてなもんかい、これで三度目だい」
「三度目? それでも夜になって通るのは初めてだろう」
「そりゃそうよ」
「そうだろうと思った、この柳原は昼間通るのと、夜通るのとは規則が違うんですからね。夜になってからこの通りを通るに、税金がかかることを知らないんだろう」
「税金がかかる?」
「税金をわたしに納めてからでなければ、通れない規則なんですからね」
「馬鹿野郎」
 女がからみついて来るから、友造は面倒がって逃げ出しました。逃げ出すといっても足の不自由な友造だから、早速には逃げられないで家鴨(あひる)のような恰好(かっこう)をして駈け出しました。女はそれきり追いもしないで、
「ホホホ、小柄(こがら)で華奢(きゃしゃ)で、そうして歩(あん)よのお上手な旦那、またいらっしゃいよ」
 友造の逃げっぷりを立って見て笑っていました。息せききって逃げて来た友造、
「ばかにしやがら、女でなければ、打ちのめしてくれるんだが」
 ようやくにして長者町の奉公先へ帰った友造は、御主人の居間へ行って見ましたが、どこへか出て行ったらしく、暫らく待ってみても帰る様子がないから、自分の部屋へ帰って一息ついている間に、疲れが出て、ついうとうとと寝込んでしまいました。翌朝になって、忠作の前へ呼び出された友造が、
「困ったなア」
「馬鹿」
 忠作のために頭ごなしに叱られました。
「だから財布(さいふ)は、首へ掛けなくちゃならんと言っておいたじゃないか、グルグル捲(ま)きにして懐中へ突っ込んでおくから、こんなことになるんだ」
「エエと、柳原の土手だ、たしかにあの時に落したに違えねえ」
「柳原の土手でどうしたんだ」
「あの土手で女の追剥(おいはぎ)が出やがったから、そいつを追払って逃げた時」
「馬鹿、女の追剥というやつがあるか」
 忠作は苦(にが)りきって、
「ありゃ夜鷹(よたか)というものだ」
「なるほど」
「何がなるほどだ、その夜鷹に捲き上げられたんだろう」
「どうも仕方がねえ、もう一ぺん行って探して来る」
「うむ、探して来い、出なけりゃ道庵さんに話して、せっかくだがお前に暇を出すから、そのつもりでしっかり探して来い」
 昨晩、十両余りの金をいつどこへ落したとも知らずに落してしまったが、その晩は疲れて寝込んだから、今朝まで気がつきませんでした。いざ御主人忠作の前へ並べようとしてみるとその金が無いので、米友も色を変えてしまった、というわけで、思い当るのは昨晩の柳原へ出た奇怪な女の振舞(ふるまい)であります。その辺に少し出入りをしたものは、誰でも知っているはずの夜鷹です。それを米友はまだ夜鷹と知らないでいるのに、忠作はまた、友造が夜鷹にひっかかって捲き上げられたとばかり邪推して、金が出なければ米友を追い出すことに了簡(りょうけん)をきめているらしい。
「弱ったな」
 跛足を引き引き柳原の方を差して行く。柳原へ行ってみたところで、あの女が取ったものならば、出て来るはずはないし、落したものならもはや拾われてしまっているはず、こうと知ったらあの女の面(かお)をよく見ておけばよかったものをと、米友はいまさらに悔(くや)みます。悔んだところで、暗いところから出て来たものだから面の見様もなかったし、ただ声に聞覚えがあるといえばあるのだが、それだって別段、耳に立つほどの声でもなかったから、声だけでは、いま眼の前へその女が現われて来たところでわかろうはずはありません。
「小作りで華奢で、歩(あん)よのお上手な旦那と言やがった、ばかにしてやがら」
 米友は昨晩の女の言草(いいぐさ)を思い出して腹を立てました。そんなに冷かされては米友だって腹の立つのは無理もないようなものだが、それよりも、人の懐中物を奪おうとするような性質(たち)のわるい女が江戸の市中に徘徊(はいかい)しているかと思えば、それが憤慨に堪えないのです。
「向うでは知ってるだろう、向うでは、俺(おい)らの歩きつきまで見ているんだから、俺らが柳原を通れば、もしあの女が正直な女でありさえすりゃ、拾った金を返してくれるにきまっているが、夜鷹でもするくらいの奴だから、拾ったところで知らん面(かお)をしているにきまってる、そうなると、俺らはまたあの家を追出(おんだ)されるんだ、どっちへ行ってもホントに詰(つま)らねえ」
 米友は且(か)つ憤慨し、且つ悲観してしまって、柳原の昨晩騒ぎのあったところまで来て見たけれども、河岸(かし)に材木が転がっていたり葭簀張(よしずばり)がしてあったりするくらいのもので、別段そこに人が住んでいる様子もないし、「ちょいと、様子のよい旦那」と言って呼びかけるような女の気配も見えないから、ポカンとして立ち尽していました。

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