大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 お松は返事に困って、この伯母という人の性根(しょうね)がどこまで卑(いや)しくなったかと、それを悲しむのみであります。
 お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して鞘(さや)を払ってながめました。
 暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に耽(ふけ)っていると、
「これお前様(めいさま)、心得違えをしてはなんねえ!」
 後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。
「飛んでもねえこんだ、刃物(はもの)なんぞを持って」
「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」
 お松は、与八の驚き方があまりに大仰(おおぎょう)なのでおかしくなったのですが、与八はまた、お松が永(なが)の病気から身の上を悲観して自害でもするつもりと勘違いをしているので、お松の手から短刀をもぎ取って、
「危ねえ、こりゃ俺(おら)が預かる」
 与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、
「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」
 お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、
「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」
「お前様これをお売りなさるのか」
「売ってしまいましょう」
「それでも大切の品だんべえ」
「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの入用(いりよう)にしたいと思います」
「そうか」

 与八はお松から頼まれて、御成街道の小田原屋という武具刀剣商の店へ行ってその短刀を見せると、物言わず三十両に価(ね)をつけられました。たかだか二両か三両と思っていたのに、三十両とつけられて与八は暫らく返答ができないでいると、番頭は畳みかけて、三十三両と糶(せ)り上げ、与八に口を開かせないで、その金を押しつけるようにして短刀と引換えてしまいました。
 与八はその金を懐(ふところ)にして佐久間町の裏店(うらだな)へ帰って来て、
「みどりさん、いま帰った」
「おお与八さん、御苦労でした」
 見れば、みどりは、いつのまにか髪を島田に取り上げて、燈火(あかり)の影にこちらを見せた風情(ふぜい)は、今まで永く患(わずら)っていたのとうつり変って、与八の眼をさえ驚かすくらいの美しさに見えました。
「思いのほかいい値(ね)に売れました、この通り三十三両」
「まあ、あの短刀がそんなに」
「あんな短けえもので三十両もするだから、よっぽどいい品に違えねえ」
「それでは与八さん、御苦労ついでに道庵先生まで行ってお礼をして来て下さいな」
「ああいいとも」
「御飯(ごはん)の仕度が出来たから一緒に食べましょう」
「そうかい、お前様が仕度をして下すったかい」
 二人は膳(ぜん)を並べて、
「さあ与八さん、お出しなさい」
「どうも済みましねえ」
 ここで旅費も出来たから、二人はかねての望み通り沢井へ行って、与八はもとの水車番、お松はその傍で襷(たすき)がけで働くこと、その楽しい生活を想像しながら話し合って、食事を終り与八は、
「そんならお医者様へお礼に行って来るだ」

         六

「何だって、薬礼を持って来たって。薬礼を持って来たらそこへ置いて行きな」
 与八が訪ねて行った時、道庵先生は八畳の間に酔い倒れて、寝言(ねごと)半分に与八に返事をしています。
「先生、いくら上げたらいいだ」
「いくら? 十八文(もん)も置いて行きねえ」
「十八文?」
 与八も変な面(かお)をして、
「半月もお世話になって十八文じゃ、あんまり安い」
「生意気なことを言うな、安かろうと高かろうとこっちの売物(うりもの)だ」
「先生、そんなことを言わねえで、本当の値段を言っておくんなさいまし」
「だから十八文でいいのだ」
「先生酔っぱらっていなさるからいけねえ」
「酔っぱらったって商売に抜目(ぬけめ)はねえ、早く十八文おいて帰れ」
「それじゃ済まねえ」
「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」
「それは先生が馬鹿だ、半月も診(み)てもらったり薬を飲ましてもらったりして、そのおかげさまで病人がすっかり癒(なお)って、そうしてお礼が十八文で帰れるか、よく考えてごらんなさい」
「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」
「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」
「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」
「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」
「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」
「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」
 与八はムキになって怒り出しました。
「俺(おら)、人の物を塵(ちり)一本でも盗んだ覚えはねえ、飛んでもねえことを言わねえ方がよかんべえ」
「盗んだに違えねえ」
 道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、
「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺(おら)が面(かお)が立たねえ」
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
 与八は飛びついて道庵の胸倉(むなぐら)を取りますと、
「この馬鹿野郎、わしに喧嘩(けんか)をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」
 道庵先生も与八の頭へ噛(かじ)りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。
 与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振(むしゃぶ)りついてみましたけれども、もともと悪気(わるげ)があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲(なぐ)ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。
 与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

         七

 与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
 呼んでみたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
 これも中ではことりとも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
 さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転(ひっこし)をしておしまいじゃないか」
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆(むすめしゅ)は駕籠でお出かけじゃないか」
「ちっとも知らねえ、俺(おら)そんなことはちっとも知らねえ」
 与八は面(かお)の色を変えて唇を顫(ふる)わせる。
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
 与八は呆(あき)れてホロホロと涙をこぼし、
「四谷のどこへ引越したんべえ」
 声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散(いちもくさん)に表の方へ走り出しました。
 与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
 これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘(ねら)うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。
「ああ兵馬さん」
 せわしい中で立ち止まった与八。

         八

 夜(よ)が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛(とりまぎ)れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感(かん)が嵩(こう)じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過(あやまち)がなかったと立派な口が利(き)けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによく眼を醒(さま)して「それ見ろ」と叱(しか)ります。
 竜之助は夜中になると、きっと魘(うな)されます。
 お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相(ねぞう)を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄(すさま)じい唸(うな)りと歯を噛(か)む音、夜(よ)更(ふ)けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気(さむけ)がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀(あみだ)様か何かが煤(すす)けた表装のままで蜘蛛(くも)の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒(あば)れ廻っているからです。
 それでもあまりにその音が仰山(ぎょうさん)なので、お浜は、
「しっ!」
 嚇(おどか)してみました。
 それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ枕許(まくらもと)へ落ちました。お浜は驚いて枕を上げて打とうとすると、度を失うた鼠は、お浜の乳房と、ちょうど抱いて寝ていた郁太郎の面(かお)の間へ飛びかかったのであります。
「あれ!」
 お浜は狼狽(ろうばい)して払いのけようとする。いよいよ度を失うた鼠は、お浜の腹の方へ飛び込みました。
「あれあれ」
 お浜は寝床からはね起きます。その途端(とたん)に鼠はポンと郁太郎の面の上へ落ちかかると、郁太郎は火のつくように泣き出します。
「おお、坊や、坊や」
 お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に襖(ふすま)を伝わって天井の隅(すみ)の壁のくずれの穴へ入ってしまいましたが、郁太郎の泣き声は五臓から絞(しぼ)り出すようです。
「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」
 お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に一痕(いっこん)の血。
「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」
 お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を抱(かか)えて、片手を伸べて無二無三(むにむさん)に竜之助を突き起します。
「何事だ」
 眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の身体(からだ)の手の触るるところが、水で漬(つ)けたような汗(あせ)であるのにも驚きました。
「よく見て下さいまし、坊やが鼠に噛(か)まれました」
「ナニ、鼠に?」
「はい、大きな鼠があの仏壇から出て、この中に潜(もぐ)りこんで坊やに食いつきました」
「どれどれ」
 竜之助は起き上って、燈心を掻き立てて、郁太郎の身体を調べて見ると咽喉(のど)に一文字の創(きず)。別に深い創ではないが、そこから血がにじんで、蚯蚓(みみず)ぐらいの太さにダラダラと落ちて行くのです。
「咽喉を噛まれました」
 お浜は狂気のように叫びます。
「大事はない、早く血を拭いて創をよく巻いてやれ」
 竜之助はあり合せた晒木綿(さらしもめん)の断切(たちぎ)れを取ってやる。
「針箱の抽斗(ひきだし)に膏薬(こうやく)がありますから早く……早くして下さい」
「焦(せ)くなよ」
「まあ焦(じ)れったい、その右の小さい方の小抽斗(こひきだし)」
「これか」
「水でよく創(きず)を洗ってやりましょう、あなた、お冷水(ひや)を」
 お浜は何もかも夢中で騒いでいます。ようやく水で拭き取った創のあとを洗ってやる、その間も郁太郎は苦しがって身をもがいて泣く。
「いいよ、いいよ、坊や、痛くはないよ、さあもう少し」
 やっとのことで創を洗って、膏薬を貼(は)って晒(さらし)で首筋を巻きました。
「もう泣くのではありません、坊やは強いからね」
 泣き止まぬ郁太郎を膝の上に、お浜自身も半ばは泣き声です。竜之助も、さすがに心配そうに郁太郎の面(かお)をながめていたが、そのうちに痛みが少しは退(ひ)いたのか、または声を泣きつぶしてしまったのか、郁太郎は母の乳房を抱えたなり少し静まってきたので、
「お医者様へつれて参りましょう」
「もう遅い、明朝(あした)のことにせい」
「いけません、手後(ておく)れになると大変ですから。それに、ほかの創と違って鼠に噛まれたのは、ことによれば生命(いのち)にかかわると申しますから」
 お浜はこの真夜中に、郁太郎をつれて医者へ往こうと主張する。
「よし、そんならわしが一走り、医者を迎えに行って来る」

 竜之助が医者を迎えに行ったあとでお浜は、
「にくい畜生(ちくしょう)だ」
 鼠というやつの憎さが骨身に徹(とお)って、取捉(とっつか)まえて噛み切ってやりたい。お浜は鼠を呪(のろ)いつめて仏壇の方を睨(にら)めて歯噛(はが)みをする。
 郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った丑三時(うしみつどき)で、しんしんと更(ふ)けてゆきます。天井ではまたしても鼠が走(は)せ廻る、その足音が「ざまを見ろ」というように聞える。
 お浜は天井をまでも仇(かたき)のように見上げて、見下ろすと、痛々しい繃帯(ほうたい)が泣き疲れた郁太郎の繊細(かぼそ)い首筋を締めつけるもののように見えて、わけもなくかわいそうでかわいそうでたまりません。
「坊や、大切におし、咽喉(のど)はだいじだからね」
 お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の面(かお)を見つめて、
「お前が万一(もしも)のことがあれば、このお母さんは生きていられないよ」
 実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、麻疹(はしか)も軽くて済み、誰が見ても丈夫そうで、他人さえ可愛いらしかったくらいですから、お浜にとって、どうして可愛がられずにいられよう。
「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」
 可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。
 お浜は医者を待つ用意で寝衣を平常着(ふだんぎ)に着換えようとして、ようやく少し静まった郁太郎を、そっと蒲団の上に置こうとすると、郁太郎はまたひーと泣き出す。ハッとしてお浜はまた抱き直すと、さあ、それから、また泣き出して、もう声も涸(か)れきっているのに、涙ばかりをホロホロとこぼし、パッチリとあいた眼に、じっと母親の面(かお)を見据えて五体をわななかせる。
「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな怖(こわ)い面をして母さんを見るものじゃありませんよ」
 お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は瞬(またた)きもせずに母の面のみ見つめていますから、
「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを苛(いじ)めるの、なんという因果だろうねえ」
 お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、
「ああ罰(ばち)だ、罰だ、これがほんとの天罰というのに違いない」
 投げ出すように郁太郎を蒲団(ふとん)の上に差置いたお浜の眼は、物に狂うように光っておりました。
 お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。
 我が子なればこそ、これほどのささやかな創(きず)に気も狂うほど心配するものを、今お浜が、
「ああ怖い」
と言って慄(ふる)え上った瞬間に眼前にひらめいた先(せん)の夫(おっと)文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期(さいご)を遂(と)げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨(うら)んだか。
 お浜とても、今まで寝醒(ねざ)めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面(かお)に文之丞の末期(まつご)の色がある。天井で噪(さわ)ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風(びょうぶ)の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼(あおい)い面をして睨(にら)めている。蒲団の唐草(からくさ)の模様を見ると、その蔓(つる)がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫(な)で廻そうとしている。針箱の抽斗(ひきだし)からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚(さら)って行きそうでならぬ。
 室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐(おそ)ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。
 夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
 郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体(からだ)を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。
 ちょうど有明(ありあけ)の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟(むね)に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
 こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
 医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際(まどぎわ)に立ちつくしているのでありました。

         九

 昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
 枕許(まくらもと)を揺り動かすのはお浜の声。
 頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
 竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封(ぎゃくふう)。
「これは――」
 やや驚いて、表を読んでみると「机竜之助殿」、裏を返せば「宇津木兵馬」。
 竜之助は勃然(ぼつぜん)として半身を起し、封を切って読むと、
「貴殿に対して遺恨あり、武道の習(ならひ)にて果合(はたしあひ)致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻(あかばねばしつじ)まで御越(おこし)あり度」
「うむ、小癪(こしゃく)な果し状」
 竜之助は手紙をポンと投げ出して、夜具を蹴って起き直りました。
「坊やはどうじゃ」
「よく寝ておりまする」
 竜之助はお浜の抱いている郁太郎の面(かお)をのぞき込み、
「医者の申すには、一時(いっとき)物に怖(おび)えたので、格別のこともないそうな」
 起きて面を洗い食事を済ましてから、
「浜、坊やをこれへお貸し」
「それでもよく眠っておりますものを」
「眠っていてもよいわ、抱いてみたい」
「今日に限ってそんなことを」
「いいからお貸し」
「せっかく寝たものを、起すとまたむずかりまする」
「いいから、これへ出せというに」
 竜之助の言葉が強くなりますので、お浜は詮方(せんかた)なく、よく寝ていた郁太郎を、そっと移して竜之助に渡すと、竜之助は抱き上げて、つくづくと郁太郎の面から昨夜の創(きず)を繃帯したあたりなどを見て、今更のように、
「まあ、無事に育つがよい」
「無事に育たなくてどうするものかねえ、坊や」
「親はなくても子は育つというからな」
「両親とも立派にあるものを、縁起(えんぎ)でもない」
 お浜はやや不足顔。竜之助は思い出したように、
「浜、わしも近々京都の方へ行こうと思う」
「京都の方へ?」
 お浜は意外な面(かお)。
「京都へは諸国の浪人者が集まり乱暴を致す故、その警護のためにとて腕利(うでき)きの連中が乗り込んで行く、わしもそれに頼まれて」
「まあ、それはいつのこと」
「近いうち、或いは足もとから鳥の立つように」
「そうして、坊やとわたしは?」
「やはり、こっちに留守(るす)しておれ」
「いいえ、それはいけませぬ」
 竜之助が不意に京都へ行くと言い出したので、お浜は驚いて、力を極(きわ)めてそれに故障を申し入れる。
「それでは、もう一度考えてみよう」
 こう言って竜之助は、やっとお浜を安心させて、自分は次の間へ引込んでしまいました。
 大した創(きず)ではないが容体(ようだい)が思わしくないから、お浜が引続き郁太郎を介抱(かいほう)している間に、竜之助は一室に閉籠(とじこも)ったまま咳(せき)一つしないでいるから、
「あの人は、どうしてああも気が強いのかしら」
 お浜は竜之助が、我が子の大病をよそに、何をしているだろうと、怨めしそうに独言(ひとりごと)をしてみたりしているうちに、竜之助がついと室を出て来ました。
 見れば刀を提(さ)げていますから、
「どこへおいでなさる」
「ちょっと芹沢(せりざわ)まで」
「急の御用でなければ、坊やもこんな怪我(けが)なのですから宅にいて下さい」
「急の用事じゃ、直ぐ帰る」
「早く帰って下さい、そうでないと心細いのですから」
「うむ」
 出て行く竜之助の後ろ影を見送りながら、
「あの人は、情愛というものを知ってかしら」
 何とはなしに、竜之助と添うてからのことが胸に浮んで来ました。愚痴(ぐち)は昔に返るのみで、文之丞との平和な暮しに自分が満足しなかったことの報いを今ここに見るとは思い知っても、まだまだ自分が悪い、自分だけが悪いのだとは諦(あきら)め切れないのです。
 こんなふうに、お浜は人を恨(うら)んだり自分を恨んだりして郁太郎の介抱に一日を暮らしましたが、直ぐ帰ると言った竜之助は、夕方になっても帰って来ないのです。
「ほんとうにどうしたことでしょう、あの人はあんまり情けない」
 お浜は繰返し繰返し竜之助の帰りの遅いことを恨んで、
「どうして現在自分の子にまで、こんなに情愛がないのでしょう」
 いったん悪縁に引かされて、お互いに切っても切れぬようになったればこそ、二人はともかくも無事にここまで暮したけれど、お浜にとっては竜之助の愛情がいつも不足に堪(た)えられなかったのです。お浜はじっさい竜之助から、もっと濃い情愛を濺(そそ)がれたかったはずなのに、それは存外冷(ひや)やかで、時としてはお互いの心と心との間に鉄を挿(はさ)んだような隔てが出て来るように感じ、ついには竜之助の愛し方が足りないばかりでなく、二人の間に出来た子供に対してすら、その愛し方に不満足を感ずるのであります。
「郁太郎はおれの子ではない」
 竜之助はいつぞや腹立(はらだち)まぎれに、お浜に向ってこんなことを言ったことがある。それが今も怖(おそ)ろしい勢いでお浜の耳に反響して来るのでありました。
「あの人は、ほんとにこの子を、自分の子とは思うていないのかしら」
 そこへ飄然(ひょうぜん)と竜之助が帰って来ました。
「いま帰った」
 竜之助の面の色はいつもよりも一層蒼白(あおじろ)く、お浜と郁太郎とをひとめ見たきりで、さっさと次の間へ行こうとする。お浜はこの時、腸(はらわた)の底まで竜之助の憎らしさが沁(し)み込んで、
「あなた、この子は誰の子でござんしょう」
 その声は泣き声でありましたから、竜之助はその切れの長い目でジロリと、
「誰が子とは?」
「坊やは誰の子でしょう」
「何をいまさら」
「郁太郎はお前様の子ではありませぬ」
「何を言うのだ」
「この子は死んでしまいますのに」
「なに?」
 竜之助は、お浜の例の我儘(わがまま)な突っかかりが始まったと思うたが、今日はそんな嚇(おど)し文句(もんく)に対して思いのほか冷淡で、
「寿命(じゅみょう)なら死ぬも仕方がない」
「まあ……」
 お浜は凄(すご)い目をして竜之助を睨みました。竜之助もまた沈み切った眼付でお浜を睨み返す。いつもならばここで癇癪(かんしゃく)が破裂して、生きるの死ぬのと猛(たけ)り立つべき場合であったのに、今日は不思議にも二の句をついで何とも言い張りません。
 竜之助はそのまま次の室へ入って、机に向って暫らく茫然(ぼうぜん)と坐っていましたが、自分で燈火(あかり)をつけて、それから料紙(りょうし)、硯箱(すずりばこ)を取り出して何か書き出したものと見えます。
 まもなくお浜はここへ入って来ました。
「あなた、竜之助様」
「何だ」
「お願いがござりまする」
「言ってみろ」
 竜之助は書きかけた筆を置きもせず、お浜の方を見返りもせず冷やかな返事です。お浜の方も何か深い決心があるらしくて、別にくどいことも言わず、これも眼の中はやっぱり冷やかな光で満ちて、
「離縁をして下さい」
「離縁?」
 竜之助はこの時、ちょっと筆を休めてお浜を見返り、
「離縁、それも面白かろう」
「ええ、面白うござんす、ずいぶんあなたとは永く面白い芝居を見ましたから」
「ここらで幕を下ろそうというのかな」
「離縁状を書いて下さい」
「誰に断(ことわ)った縁でもない、いまさら三行半(みくだりはん)にも及ぶまいが」
「そんなら今から出て行きます」
「それもよかろう」
 竜之助は、いよいよ冷淡な気色(けしき)で、
「しかしここを出てどこへ行く」
「どこへ行きましょうとお差図(さしず)は受けませぬ」
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒(めんどう)は頼みますぞ」
「郁太郎はわたしの子ですもの」
 お浜はついと立って出て行きます。

 お浜は箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白(やがすり)の袷(あわせ)を引張り出しました。
 この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧(きり)の御坂(みさか)で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。
 されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川(ひかわ)へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺(あざむ)いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。
 ここに世帯を持ってから、屑屋(くずや)にも売られずに残っていることが思い出の種(たね)。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切(とりしき)った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫(てぬい)にして下すったもの。
 お浜はそれを思うと自分の我儘(わがまま)であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁(し)みてくるのです。
「甲州へ帰りましょう」
 一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
 お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来(きた)って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。
 袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた一口(ひとふり)の懐剣です。
 お浜はこの懐剣を見ると、
「死!」
 この世で最も怖ろしい感情。
「生きて生恥(いきはじ)を曝(さら)すより、いっそ死のう」
 これがこの瞬間に起った考えでありました。
 お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに隠(かく)れ家(が)を見つけようと、無鉄砲な考えで胸も頭もいっぱいでした。
 生きる執着(しゅうじゃく)が残っていたればこそ、いろいろと思い煩(わずら)ったものを、それが全く取れてしまえば、もう道は開けたので……その道は地獄よりほか行き場のない道ではあるけれども。
 お浜は手早く懐剣を拾い取って、盗み物を隠すように懐中へ入れてみると、胸は山のくずれるような音をして轟(ひび)きましたけれども、お浜の面(かお)には一種の気味のよいような笑いがほのめいて、じっと眼を行燈(あんどん)の光につけたまま失神の体(てい)で坐っている。
「浜、浜はまだいるか」
 これは竜之助が呼ぶ声。
「浜はおらぬか」
 二度目に呼んだ時にお浜の耳に入りました。そのとき三度目の声。
「浜、浜」
 竜之助の呼び声がこの時お浜にとって無茶苦茶にいやな感じを与えるのでありました。
 お浜の返事がないので、竜之助は立ってこちらへ来るようでしたが、
「旅立ちのお仕度かな」
 襖(ふすま)をあけるとそこへ突立ってこちらを見入っています。お浜はジロリとその面を見上げましたが、つんと横を向いて取合いません。
「浜、お前はどこへ行くつもりだ」
「存じません」
「まあよいわ、先刻お前から離縁の申し出があってみれば赤の他人……いや、まだ餞別(せんべつ)に申し残しがあったのだ、よく聞いておけ」
 竜之助は立ったなりで、
「おれは近いうちに宇津木兵馬を殺すぞよ」
「兵馬を殺す?」
 お浜は膝を向け直す。
「うむ、兵馬を斬るか、兵馬に斬られるか……」
「それは――」
「まさか兵馬が小腕に斬られようとも思わぬ、毒を食わば皿までということがある、宇津木兄弟を同じ刃(やいば)に……」
 竜之助の蒼白い面に凄い微笑が迸(ほとばし)る。
 お浜は真正面(ましょうめん)からその面を見上げて、この時は怖ろしいとはちっとも思いませんでした。
「お殺しなさい――」

         十

 竜之助は自分で酒を飲んで早く寝込んでしまいました。
 お浜は、また暫らくの間はぼんやりと坐っているばかり、郁太郎は幸いにすやすやと眠っています。
「兵馬を殺す」
と言った竜之助の一言、それがお浜の胸を刺す。

 竜之助も眠りに就いたようで、例の唸(うな)る声、キリキリと歯を噛(か)む音。
 お浜は思い出したように立ち上って次の間へ行ってみました。
 竜之助の机の上には、さきほど書いていたらしい手紙が三本。お浜はそっとその一つを手に取って見ると、それは宇津木兵馬からの果(はた)し状(じょう)でありました。
「武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで……」
 お浜は読み去って宇津木兵馬と記された署名のところに来て、はじめて万事の合点(がてん)がいったのであります。
 殊勝(けなげ)なこと、こうも立派な果し状を人につけるようになったとは。自分の知ったのは十三四の可愛ゆい兵馬、それがまあ……それにしても、やっと十六か七、これまでには相当の修行も積んだことではあろうけれど、何というても竜之助の腕は豪(えら)いもの、刀を合せれば竜之助の酷(むご)い太刀先に命を落すは知れたこと。お浜は一途(いちず)に兵馬がかわいそうです。
「うーん」
 またしても魘(うな)される竜之助の声、兵馬を斬って血振(ちぶる)いをするのかとも想われる。
「兵馬どのが不憫(ふびん)じゃ」
 お浜の手がまたも懐剣へさわる。
 お浜は自分が死ぬ前に――竜之助を殺す――罪の二人が共死(ともじに)をすれば可愛らしい兵馬が助かる。お浜の決心は急速力で根強く、ついにここまで進んで来ました。
 果し合いを明朝に控えて、ともかくも眠っていられるだけの余裕(よゆう)が竜之助にはあるのです。
 衰えたりといえども剣を取っては人を眼中に置かぬ竜之助、僅かの間に一寝入りして気力を養っておこうと横になったけれども、この竜之助の気は疲れています。
 夜な夜な魘(うな)されたり、歯を噛んだり、盗汗(ねあせ)をかいたりすることは、かの新坂下の闇討に島田虎之助の働きを見てからであります。寝ても起きても島田の面(かお)つき、立って行く姿、坐っている態度、それが竜之助の眼先にちらついて離れることがありません。
 それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が衣紋(えもん)の折目正しく一□(いっちゅう)の香(こう)を焚(た)いて端坐しているところへ、自分は剣を抜いて後ろから覘(ねら)い寄る、刀を振りかぶると前を向いていた島田が忽然(こつぜん)とこっちへ向く、横に廻って突っかけようとすると、いつか島田はそっちを向いている、焦(いら)って躍(おど)りかかろうとすると、島田の前に焚かれた香の煙が一直線に舞い上って、その末端がクルクルと廻って自分の面に吹きかけて来る。竜之助、その煙を払いながら太刀をつけて島田の周囲をグルグル廻っているうちに、眼が眩(くら)んで鼻血が出て、そこへ香の煙が濛々(もうもう)と捲(ま)いて来て息が詰まる。その時にヒヤリと自分の首筋に冷たいもの。
「やッ何者! 誰だ!」
 夢を破られた竜之助、パッと跳(は)ね起きてむずと押えたのは和(やわ)らかい人の手、その手首には氷のような白刃(しらは)が握られてありました。これは夢ではない、たしかに現実。
「やあ、浜ではないか」
 竜之助の上から乗りかかって、彼の首に短刀を当てたのは、現在の自分の妻の仕業(しわざ)でありました。
「何をする、気ちがいめ」
 竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと蹴倒(けたお)すと、お浜は向うの行燈(あんどん)に仰向(あおむ)けに倒れかかって、行燈が倒れると火皿(ひざら)は破(こわ)れてメラメラと紙に燃え移ります。
 蹴倒されたお浜は、むっくりと起き直るや、前に用意して明けておいたと見える表の戸から外の闇へ転(ころ)げ出してしまいました。
「憎い女!」
 お浜の倒した行燈の火はみるみる障子に移ります。これを踏み消しておいて竜之助、刀を取って同じく表の闇へ飛び下りる。
 家の中も真の闇。その中では郁太郎が咽喉(のど)の裂けるばかりに泣いている。
 お浜はどこへ行った。

 闇とは言いながら、もう夜明けに間もない時ですから東の空は白(しら)み渡っていました。神明(しんめい)から浜松町へかけての通り、お浜の駈けて行く後ろ影。
 増上寺三門の松林の前まで追いかけて、
「待て!」
 お浜の襟髪(えりがみ)は竜之助の手に押えられて、同時にそこに引き倒されたのであります。
「放して下さい」
「浜、おのれは兵馬に裏切りをしたな」
「早く殺して下さい――」
 殺したところで功名(こうみょう)にも手柄(てがら)にもならぬ。のぼりつめた時にも冷静になり得る竜之助、お浜の取乱した姿を睨(にら)んでいる。
「竜之助様、わたしを殺して、どうぞお前も殺されて下さい」
 面(かお)と面とを合せれば、いくらか白み渡った空ですから、見てとることもできる通り、お浜はもう放せの助けろのと騒ぐ峠は越して、言葉にも相当の条理がある。
「わたしもお前様におとなしく殺されて上げますから、お前様もどうぞ素直(すなお)に兵馬の手にかかって殺されて下さい、そうすれば、あれもこれも帳消し……罪ほろぼしとやらになりましょうから。ねえ、竜之助様」
 御成門外(おなりもんそと)で人の足音、増上寺の鐘。
「人殺し――」
 竜之助はついにお浜を殺してしまいました。

         十一

「あの声は――」
 今の絶叫を聞咎(ききとが)めたのは、御成門外で駕籠(かご)を捨てた宇津木兵馬の一行です。
「人殺しと聞えた」
 介添(かいぞえ)に来た片柳伴次郎が小首を傾ける。
「たしかにあの松原の中」
 兵馬は松原の木(こ)の下闇(したやみ)を見込む。
「見届けて来ますべえか」
 提灯(ちょうちん)を持った与八が松原の中へと進んで行く。松原の中へ入りこんだ与八、松の木にバッタリ、
「あ痛(いて)え」
 額(ひたい)を押えてみると、ぷんと血の香(か)。
「はて……」
 提灯を差しつけると、そこの松の木の根に人がある。
「えッ、人が――」
 それは女、胸のあたりからベットリと土にまで流れた血。
「皆さん、女が殺されている」
 大事の前、それでも人の一命と聞いて見過ごすわけにはいかない。
「ああ、酷(むご)たらしい殺され方」
「それ、血が袴(はかま)の裾(すそ)に」
「傷はどうじゃ」
「胸を一突き」
「もっと提灯を近く」
「ああかわいそうに。乳の下を突かれたのかね」
 提灯を突きつけてオドオドしていた与八は、
「おや、なんだか見たことのあるような女衆だ」
 与八は死人の面(かお)に自分の面を摺(す)りつけるようにして、
「もし……この女衆は……お浜さま……」
 不安の色で兵馬を見上げて、
「兵馬様……お前様もよくこの女衆の面を見て下さいまし、気のせいか、文之丞様の奥様に似てござる」
「ナニ、姉上に?」
 兵馬は附添の片柳と水島とを押し分けて、
「姿は変れどよう似てござる、念のため与八どの、この女の持物はないか、調べてくりゃれ」
「ここに短い刀が……書付が……あれ、こっちにも」
 与八が拾って兵馬に手渡したのは、意外にも自分の手から机竜之助に送った果し状でありました。
 次に受取った一通、
「なに、宇津木兵馬殿へ、はまより?」
 これはお浜の手ずから書いたもので、そして兵馬に宛てた手紙。

 机竜之助は果し合いの場へ出て来ませんでした。
 果し状をつけられながら逃げるというはこの上もなき恥辱。ことに人を殺せば血を見るはずの竜之助がこの場合に、逃げ去るとは甚だ合点(がてん)のゆかぬことです。
 しかしながら約定(やくじょう)の時刻にも赤羽橋へ来るということもなく、新銭座の家へ行って見れば、家の中はさんざんであるのに、子供が一人、声を涸(か)らして泣いているばかり。手を分けて行方(ゆくえ)をさがしたけれどもわからず、これがためにその日の果し合いは中止。宇津木兵馬は残念の余り、張り詰めた勇気も一時に砕くるの思いでしたが、ここに唯一(ゆいつ)の手がかりというのは、机竜之助が芹沢鴨に宛てた書面一通を発見したことで、その中に、
「兵馬を斬つて後、拙者は予(かね)ての手筈(てはず)の通り京都へ立退き申すべく……」
という文言(もんごん)です。
 この手紙を見れば、竜之助が今日の果し合いに立合う覚悟は勿論(もちろん)のこと、立合えば必ず兵馬を斬ることに自分できめ、兵馬を斬れば京都へ飛ぶその手筈まで整うていたものと見えます。それほどの覚悟が出来ながら逃げるとは何事であろう。これは誰にもちょっとわかり兼ねたところであるが、お浜を殺したのも竜之助であろうとは――誰人にもそのように想像されるのでありました。

         十二

「どうも永らく御無沙汰を致しました」
 妻恋坂のお絹の宅へやって来たのは珍らしくも裏宿七兵衛。
「これは珍らしい七兵衛さん、どうしたかと心配していました」
「つい百姓の方が忙がしいもんでございますから。それに、骨休めを兼ねてお伊勢参りをして来たものでございますから。これはわざっとお土産(みやげ)の印(しるし)」
「それはお気の毒な。お前さん方は、ほんとに羨(うらや)ましい身分ですね、稼(かせ)いでおいてはお伊勢参りだの、江戸見物だのと気晴らしができますから」
「へえ、どう致しまして」
「並(なみ)のお百姓では、そんなにチョイチョイ出て歩けるものではありません」
 お絹にこう言われて七兵衛は苦笑(にがわら)い。
「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か反物(たんもの)でも商(あきな)いをなさるの」
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹(かいき)の上等を少し見せてもらえまいかね」
「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」
 七兵衛は話向きを改めて、
「お松の方はどうでございましょう」
「ああ、その事、その事。それはわたしの方からお前さんに尋ねたい。飛脚(ひきゃく)を立てようかと思っていたところですよ」
「へえ、お松がどうぞ致しましたか」
「あの子はお前、駈落(かけおち)をしてしまいましたよ」
「駈落を?」
「それも御主人の若様と逃げたとか、然(しか)るべき男と逃げたというんならお話にもなりますけれど」
「いったい、誰と逃げました」
「誰といってお前、山出しの馬鹿と逃げたんだもの、話にも何もなりやしない」
「馬鹿と……」
「お前さんには最初から話さないとわからないが、二月(ふたつき)ほど前にあの子を、わたしが四谷の神尾様という旗本のお邸へ御奉公に上げましたところが、そのお邸に与太郎とか与八とかいう馬鹿がいて、どうでしょう、お松はその馬鹿に欺(だま)されて夜逃げをしてしまいました」
「四谷の神尾様というのは、あの伝馬町の神尾主膳様のことでございますか」
「そうです。その神尾様、三千石のお旗本なんだから、首尾よく御奉公して殿様のお気に入ればどんなに出世するかわからないのに、人もあろうに風呂番をしていた与太郎という馬鹿と駈落(かけおち)するなんて、わたしも呆(あき)れ返ってしまった、あんな世話甲斐(せわがい)のない子というはありやしない」
「それほど馬鹿な女とは思いませんでしたが、いったい、どっちの方へ逃げましたか、手がかりはございませんか」
「いっこう知れません、いろいろ手配(てはい)をして探してみましたけれども、どうしてもわかりません。お前さんの方へも飛脚を立ててみようとしましたけれども、殿様がおっしゃるには、そんな腐った奴を騒ぎ立てて探すには及ばないと、それなりにしてありますが、わたしの身になると、殿様には面目がないし、自分では腹が立つし……」
「そういうわけならば、ひとつ私も探してみましょう。あのお松とても生来(しょうらい)が、それほど馬鹿ではなかったはずですから、尋ね出して聞いてみたら何か事情があるかも知れません」

         十三

 七兵衛が最初この家へ入った時から見え隠れについて来て、今まで路地内(ろじうち)や表通りをうろうろしていた一人の紙屑買(かみくずか)いが、いま七兵衛が出かけると、またそのあとをついて行きます。
 七兵衛は妻恋坂から本郷元町の山岡屋の前まで来る。山岡屋は戸が締まって売家の札が斜めに貼られてある。
 暫らく立って見ていると、
「もし旦那」
 後ろから呼びかけたのは紙屑買い。
「私ですかえ」
「へえ、左様で」
「何ぞ御用かえ」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、旦那様はさいぜんからこの店の模様をごらんになっておりまするが……」
 紙屑買いは手拭を畳んで冠(かぶ)った額越(ひたいご)しに七兵衛の面を仰ぎ、
「山岡屋のことで何かお聞きになりたいならば、私がよく知っておりますから」
 妙な差出口(さしでぐち)をする男であるが、べつだん懐中から十手(じって)が飛び出しそうにもないから、これには何か仔細(しさい)があるだろうと七兵衛は、
「それは幸い。山岡屋さんは今どこへお引越しになりました」
「それには長いお話があります。旦那様どちらへおいででございますか、なんなら歩きながらお話を致しましょう」
「私は新宿の方へ行きますが」
「それなら私も四谷の方へ参りますから、御一緒にお伴(とも)をしながら、山岡屋没落の一代記をお話し申すことに致しましょう」
 七兵衛は気味の悪い紙屑買いと思いながらも、まあ何を言い出すか聞くだけ聞いてやろうと、道づれになって歩き出すと、
「今から四年ほど前の夏の盛りのことでございました。或る晩のこと、あの山岡屋へ泥棒が入りましてな」
「ふーむ」
「ちょうど旦那は留守でございました。ところがお内儀(かみ)さんのお滝というのが、眉の毛を剃(そ)り落した若い男を引張り込んでふざけているところへ、その泥棒がお見舞い申したのでございます」
「なるほど」
「その泥棒というのが、ただの物盗(ものと)りばかりではない、意趣返(いしゅがえ)しに来たものと見えて、内儀さんと若い男をずいぶんこっぴどい目に遭(あ)わせて帰りました」
「なるほど」
「とても委(くわ)しくは申し上げられませんが、早い話がお内儀さんと若い男を素裸(すっぱだか)にしましてな」
「ふむ」
「それでお前さん、朝になってからの騒ぎというものは御覧(ごろう)じろ、話にも絵にもなりませんわ」
「なるほど」
「それが忽(たちま)ち評判になる、山岡屋のお内儀(かみ)さんは強盗に裸にされたという噂(うわさ)がパッとひろがったから、とても居堪(いたたま)れません」
「なるほど」
「そこへ御主人が帰って来た」
「ふむ」
「さあ、家は揉(も)める、なんしろお内儀さんというのが家附きの娘ですから、出るの入るの、摺(す)った揉んだのあげく」
「離縁になったのかな」
「ところが騒ぎの真最中(まっさいちゅう)、御亭主殿が急に患(わずら)いついてポクリと死んでしまいました」
「はあ――て」
「それからお内儀さんというものが捨鉢(すてばち)の大乱痴気(だいらんちき)で身上(しんしょう)は忽ちに滅茶滅茶、家倉(いえくら)は人手に渡る」
「ふむ」
「そのまた買った人がどうしても伸立(のだ)たない。なんでもあの土蔵からお化(ば)けが出るという噂で、あれからもう三代目、こうしていまだに売物に出ていますようなわけで」
「それはまあ、なんにしてもお気の毒……そのお内儀さんというのは今どうしていますな」
「さあ、そいつが聞きもので……しかし私ばかりこうベラベラ喋(しゃべ)ってもよいもんですかどうですか。旦那、お前様はいったい山岡屋の何なんでございます」
「お前さんはまた何だえ」
 二人は面(かお)を見合せて、
「実は旦那」
 紙屑買いの言葉が妙に改まって、
「私共の面にはお見覚えがござんすまいが、私共の方には旦那のお面にようく見覚えがござります」
「何だ、私の面に見覚えとは」
「へへ、何を隠しましょう、と大きく出るほどの者ではございませんが、実はあのころ山岡屋に丁稚奉公(でっちぼうこう)をしておりました」
「はあ、山岡屋の番頭さんか、それはお見外(みそ)れ申しました」
「ちょうど、旦那があのお松という子をつれて店前(みせさき)へおいでなすった時、お面をよく見覚えておきました」
「なるほど」
「なるほどだけでは張合いがございません。私もあのドサクサまぎれに店の金を少々持逃げ致しまして、ちっとばかり悪いことをやり、今ではこんな姿に落ちぶれました。旦那をお見かけ申したのは、ほかじゃあございません……」
「何だい」
「もとはと申せば、みんなお前様の蒔(ま)いた種といってもよいのでございますから、どうかいくらか恵んでやって下さいまし」
「お前さんも相当の悪(わる)になったね」
 七兵衛はジロリと紙屑買いの面を見ると、紙屑買いは嫌味(いやみ)な笑い方をして、
「その代り旦那、お前様がつれておいでなすったあのお松という女の子、あの子の行方(ゆくえ)を私がすっかり喋(しゃべ)ってしまいますよ」
「うむ、そうか、ともかくお前さんにこれを上げるから喋れるだけ喋ってごらん」
 七兵衛は懐中から取り出した財布(さいふ)をソックリ紙屑買いに手渡しする。
「どうもこりゃ恐れ入りやした。それでは旦那、これから私がその娘さんのいるところへ御案内をしてしまいましょう」
 それで二人が神楽坂(かぐらざか)のところまで来ると、紙屑買いは足が痛い痛いと言い出す。どうやらおれを蒔(ま)く気だなと悟った七兵衛は、わざと油断(ゆだん)をしていると、ふいと路地を切れて姿を隠す。先廻りをした七兵衛、
「おい大将」
 横の方から御膳駕(ごぜんかご)をつく。
「やあ――」
「何がやあだ」
「旦那は足が早い」
「お前さんも早い」
「御冗談(ごじょうだん)を」
「足の痛いのは癒(なお)ったかね」
「また痛み出してきました」
「そんなら今のように駈け出してごらん」
「もう御免(ごめん)です」
「いったい、わしをどこへつれて行きなさる」
「山岡屋のお内儀さんのところへ」
「山岡屋のおかみさんはどこにおいでなさる」
「新宿に」
「それじゃあ方角が違わあ」
「また出直しましょう」
「今度は屑屋さん先へおいで」
 二人はまた歩み出すと、西の空がポーッと赤くなります。
「あれ、あんなに赤く」
「火事だ」
「新宿の方だね」
「でも、風がないから大したことはありますまい」
 言っているうちに火の赤るみはようやく大きくなる。
「たしかに新宿の方角だ、早く行こう」
「足が痛うございます」
 七兵衛は紙屑買いの手を取って引摺(ひきず)る。紙屑買いは苦しがって、
「旦那、そう引張っちゃいけません、お前様の足は早過ぎる」
「グズグズ言わずに早く歩きなさい」
「まあ待って下さい。それじゃあ旦那、私は白状しちまいます。お前様のお尋ねなさるお松さんという娘は、女郎(じょろう)に売られちまったんですよ」
「ナニ、女郎に? どこへ」
「それがお前様……」
「早く言え」
 七兵衛は紙屑買いの手を捻(ね)じ上げると、
「それが遠くで」
「どこだ」
「京都へ売られて行ってます。痛い!」
 紙屑買いの自白するところによると、お滝はあの晩、与八を出し抜いてお松を欺(あざむ)き、急にこの男の家へつれて来たとのこと、そこへつれて来ると共にお松を人買いの手に売り渡したこと、その売渡し先は京都の島原(しまばら)であること、わざわざ京都へ売ったのは江戸では事の発覚を怖れたからで、折よく京都の方から買手が来ていたので話が纏(まと)まったものだということです。この男の言うことがどのくらいまで信用が置けるか知らないが、前後の話の辻褄(つじつま)はよく合うから七兵衛は、
「さあ、お前の家まで行こう」
「旦那、もうどうか御免なすって」
「お滝という女はお前の家にいるんだろう」
「いいえ、どう致しまして」
「お滝とお前と共謀(ぐる)になってお松を誘拐(かどわか)して売ったに違いない」
「ナニ、そんなことはございません」
「ともかく急げ」
 ちょうどこの時、町の角に自身番があったのを紙屑買いが見かけて、突然に大きな声、
「泥棒!」
「ナニ!」
 七兵衛が首筋(くびすじ)を締め上げると、紙屑買いは苦しい声を張り上げて、
「旦那方、こいつは泥棒でござります、泥棒、泥棒」
 自身番に詰めていたもの、今の火事騒ぎで通りかかったもの、こちらへ飛んで来るから七兵衛は、紙屑買いを突き放して人混(ひとご)みの中へ姿を隠してしまいます。

 お松がはたして京都へ売られたものならば、七兵衛の足は直ぐに京都へ飛ぶであろう、七兵衛がその気で歩き出した時は、朝江戸を出て、その夜は京都の土を踏むことであろう。
 それとは関係なく、机竜之助が落ち行く先もまた京都であるとすれば、宇津木兵馬の追って行くところもまた京都でなければならぬ。
 ことに芹沢、近藤、土方ら、新徴組が数を尽して向うところも京都警護の役目である。

         十四

 青梅街道(おうめかいどう)をトボトボと歩いて行くのは与八です。
 背には郁太郎(いくたろう)をおぶって、手には風呂敷包を紐(ひも)で絡(から)げて提げ、足は草鞋(わらじ)を穿(は)いて、歩きながら時々涙をこぼしています。
 与八の身になっても意外のことばかりで、お松をつれてこの街道を帰るつもりであったのが、一夜のうちにこんなことに変ってしまったのです。
「おお、与八じゃねえか」
「ああ太郎作(たろさく)さん」
 畑の中で仕事をしている知合いの百姓。
「江戸から帰ったのかい」
「うん」
「儲(もう)かったかい」
「儲からねえ」
「そりゃどこの子だい、お前の子じゃあるめえ」
「俺の子じゃあねえよ」
「拾いっ子かい」
「拾いっ子だよ」
「ああお土産(みやげ)を持ってるな与八さん、そのお土産をここへ分けて行けよ」
 与八は情けない面をして包みに眼を落しながら、
「こりゃお土産じゃねえよ」
 この包みにはお浜の遺髪が入っているのです。
「太郎作さん、俺(おら)が水車(くるま)は大丈夫かえ」
「ああ大丈夫だよ」
「水で突(つ)ん流されるようなことはなかったかい」
「うん、そんなことはねえ」
「さよなら」
 与八はスタスタと出かけます。
 御岳(みたけ)の山も沢井あたりの山も大菩薩の方も、眼の前に連(つら)なっています。与八はこれを見るとまた悲しくなって、そっと後ろの郁太郎を振返ると、子供は無心に寝入っている。ぼんやり立ち止まっては、提げていたお浜の黒髪を包んだ風呂敷に眼が落ちると、ひとりでに涙がこぼれます。与八は善いことをしては、いつでもそれが悪い結果になる。あれもこれもみんな自分が馬鹿だから。これからは罪滅(つみほろ)ぼしに多くの人の追善(ついぜん)をはかり、かたわらこの子を育て上げて立派な人にして申しわけを立てねばならぬ。与八には人を怨(うら)むという考えがなくて、一も自分が悪い、二も自分が悪いで通って行くのです。
「俺(おら)の大先生(おおせんせい)に拾われたところはここだ」
 与八はその昔、自分が拾われたというところへ来て一休み。
     ―――――――――――――
ちちははの めくみもふかき こかはてら
ほとけのちかひ たのもしきかな
     ―――――――――――――

         十五

東海道、関(せき)
江戸へ百六里二丁
京へ十九里半
 伊勢の国鈴鹿峠(すずかとうげ)の坂の下からこっちへ二里半、有名な関の地蔵が六大無碍(ろくだいむげ)の錫杖(しゃくじょう)を振翳(ふりかざ)し給うところを西へ五町ほど、東海道の往還(おうかん)よりは少し引込んだところの、参宮の抜け道へは近い粗末な茶店に、七十ばかりになるお爺(じい)さんが火縄(ひなわ)をこしらえながら店番をしていると、
「許せ」
 上りの客はこの宿(しゅく)で、下りの客は坂の下あたりで宿(やど)をきめてしまったと思われる時分、この茶店へ飄然(ひょうぜん)と舞い込んだのは一人の旅の武士(さむらい)であります。
「おいでなさいまし」
 老爺(おやじ)は火縄の手を休めて腰を立てると、武士は肩にかけた振分けの荷物を縁台の上に投げ出して、野袴(のばかま)の裾(すそ)をハタハタと叩(たた)き、
「老爺(おやじ)」
「はい」
「汲みたての水を一杯所望(しょもう)」
「はいはい、汲みたての水、よろしゅうございます、うちの井戸は自慢ものの上水(じょうみず)でございまして」
 老爺が水を汲みに裏へ廻る時、件(くだん)の武士は縁台に腰を下ろしていたが、頭にいただいた竹皮笠(たけかわがさ)は取らず、細く胴金(どうがね)を入れた大刀を取って傍(わき)に置き、伏目(ふしめ)になった面(かお)を笠の下からのぞくと、沈みきった色。
 机竜之助はともかくも、京都をめざしてここまで落ちて来たものです。
 老爺が手桶(ておけ)に汲んで来てくれた水を、竹の柄杓(ひしゃく)で一口飲んで、余水(のこり)を敷居越しに往還へ投げ捨てて、柄杓を手桶に差し込んでホッと息をつく。
「お茶をいかがでございますな」
 老爺が念を押してみると竜之助は首を左右に振る、火鉢をすすめても煙草をふかす様子もないし、詮方(せんかた)なく老爺は再びもとの座に戻って火縄にかかろうとすると、
「草鞋(わらじ)を一足くれぬか」
「はいはい」
 吊(つる)された手づくりの草鞋一足を引き抜いて、
「峠を三度上り下りしても大丈夫、金(かね)の草鞋というのでございます」
 老人の癖(くせ)は自慢である、水を飲ませるにも草鞋を売るにも、すべて自慢がつき纏(まと)う。
「それはそうとお武家様、今から草鞋を穿(は)き換えていずれへござらっしゃる」
 竜之助の穿き換える足許(あしもと)を見ながら、老爺が不審を打ったのは、この宿(しゅく)で泊るにしても、坂下まで行くにしても、まだ持ちそうな草鞋を捨てるのは早い。
 竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は手持無沙汰(てもちぶさた)で、
「降らねばいいに」
 軒端(のきば)から天を仰いで独言(ひとりごと)。

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