大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

         一

「浜(はま)、雪は積ったか」
 炬燵(こたつ)に仮睡(かりね)していた机竜之助は、ふと眼をあいてだるそうな声。
「はい、さっきから少しもやまず、ごらんなされ、五寸も積りました」
「うむ……だいぶ大きなのが降り出した」
「大きなのが降ると、ほどなくやむと申します」
「この分ではなかなかやみそうもない、今日一日降りつづくであろう」
「降っているうちは見事でありますが、降ったあとの道が困りますなあ」
「あとが悪い――」
 竜之助は横になったまま、郁太郎(いくたろう)に乳をのませている差向(さしむか)いの炬燵越しにお浜を見て、
「あとの悪いものは雪ばかりではない――浮世(うきよ)のことはみんなそれじゃ」
 今日は竜之助の言うことが、いつもと変ってしおらしく聞えます。
「ホホ、里心(さとごころ)がつきましたか」
 お浜は軽く笑います。
「どうやら酒の酔(よい)もさめかけたような――」
 竜之助はまた暫らく眼をつぶって、言葉を休めていましたが、
「浜、甲州は山国なれば、さだめて雪も積ることであろう」
「はい、金峰山颪(きんぽうざんおろし)が吹きます時なぞは、わたしの故郷八幡(やわた)村あたりは二尺も溜(たま)ることがありまする」
 こんなことを途切れ途切れに話し合って、雪を外に今日は珍らしくも夫婦の仲に春風が吹き渡るように見えます。
 悪縁に結ばれた夫婦の仲は濃い酒を絶えず飲みつづけているようなもので、飲んでいる間はおたがいに酔(よい)の中に解け合ってしまいますけれども、それが醒(さ)めかけた時はおたがいの胸にたまらないほどの味気(あじき)なさが湧いて来ます。その故に或る時は、二人の間に死ぬの生きるのというほど揉(も)め出すかと思えば、或る時は水も洩らさぬほどの親しみが見えるのです。
「坊は寝たか」
「はい、すやすやと寝入りました」
「酒はまだあるか」
「まだありましょう」
「こう降りこめられては所在がない、また酒でも飲んで昔話の蒸し返しでもやろうかな」
「それが御無事でござんしょう」
 お浜は寝入った郁太郎を、傍(かたえ)にあった座蒲団(ざぶとん)を引き寄せてその上にそっと抱きおろし、炬燵の蒲団の裾(すそ)をかぶせて立とうとすると、表道(おもて)で爽(さわ)やかな尺八の音がします。
「ああ尺八……」
 竜之助もお浜も、にわかに起(おこ)ってそうしてこのしんみりした雪の日、人の心を吸い入れるような尺八の音色(ねいろ)に引かれて静かにしていると、その尺八は我が家のすぐ窓下に来て、冴(さ)え冴(ざ)えした音色をほしいままにして、いよいよ人の心を嗾(そそ)るようです。
「よい音色じゃ、合力(ごうりき)をしてやれ」
 お浜が鳥目(ちょうもく)を包んで出すと、外では尺八の音色がいよいよさやかに聞えます。
 お浜は台所に行っている間、竜之助は寝ころんだままで、その尺八を聞いています。
しおの山
さしでの磯(いそ)に
すむ千鳥(ちどり)
君が御代(みよ)をば
八千代(やちよ)とぞ鳴く
 余音(よいん)を残して尺八が行ってしまったあとで、竜之助は再びこの歌をうたってみました。
しおの山
さしでの磯に
すむ千鳥……
 そこへ銚子(ちょうし)を持って来たお浜が、
君が御代をば八千代とぞ鳴く
と立ちながらつづけて莞爾(にっこ)と笑いましたので、竜之助は、
「よく知っている――」
「故郷のことですものを」
「故郷とは?」
「しおの山とは塩山(えんざん)のこと、差出(さしで)の磯はわたしの故郷八幡村から日下部(くさかべ)へかかる笛吹川の岸にありまする」
「ああ左様(さよう)であったか……」
しおの山、さしでの磯に……
 竜之助は無意識に歌い返してみました。
「ここにいて笛を聞くのは風流でござんすが、この寒空に外を流して歩くお人は、さぞつらいことでしょう」
 お浜も、炬燵に、つめたくなった手を差し入れて、
「それも若い者ならばともかくも、今の虚無僧(こむそう)のように年をとった身では」
「とかく風流は寒いものじゃ――」
 竜之助は起き直り、お浜の与うる盃(さかずき)を取上げて一口飲み、
「親父も尺八が好きであったがな」
「あの弾正様が?」
「そうじゃ、親父は頑固な人間に似合わず風流であった、詩も作れば歌も咏(よ)む」
 竜之助が父の噂をしんみりとやり出したのは、おそらく今日が初めてでしょう。
「この寒さは、さだめて御病気に障(さわ)りましょう」
「うむ――」
 竜之助には、このごろ初めて父のことが気にかかるようになったらしい。島田虎之助を極力ほめていた父の言葉が、昨夜という昨夜、ようやく合点(がてん)が行ってみると、父はやはり眼の高い人であった……それで自然、今までに出なかった父の噂が唇の先に上(のぼ)って来るのです。
「御無事でおられますことやら。世間さえなくば、お見舞に上ろうものを」
 お浜の附け加えたる言葉は竜之助の帰心(きしん)を嗾(そそ)るように聞えたか、
「浜――」
「はい」
「二人で一度、故郷へ帰ってみようか」
「あの、お前様が沢井まで……」
「うむ、最初には甲州筋から、そなたの故郷八幡村へ。あれより大菩薩を越えてみようか」
「それは嬉(うれ)しいことでござんすが――万一のことがありましては」
 お浜の面(かお)には懸念(けねん)の色が浮びます。
「忍んで行けば大事はあるまい」
「お詫びは叶(かな)いませぬか」
「所詮(しょせん)」
「あの沢井のお邸にお住まいになれば、どんなに肩身が広いでしょう」
「あさはかなことを言うな、生涯(しょうがい)あの邸には住まわれぬ」
「もう土地の人とても、大方(おおかた)は昔のことは忘れたでござんしょう」
「いやいや、あのあたりに住む甲源一刀流の人々は、いまだに拙者を根深(ねぶか)く恨んでいるに相違ない」
「もとはと申せば試合の怪我(けが)、そんなに根深く思うものはござんすまい」
 竜之助は答えず、暫らく打吟(うちぎん)じて、思い出したように、
「浜、文之丞には弟があったそうな……」
「文之丞の弟……はい、兵馬と申しまする」
「その兵馬――それは今どこにいる」
「わたしが出るまでは番町の親戚におりました」
「歳はいくつになるであろう」
「左様、数え歳の十七ぐらい」
「その兵馬は、さだめて拙者をよくは思うまい」
「まだ子供でござんすものを」
「怖(おそ)れるというではないが……いささか心がかりになる。今もその番町の親戚とやらにおるか、折もあらば聞き届けておくがよい」
「もし兵馬がお前様を仇(かたき)と覘(ねら)っていたら何となされます」
「仇呼ばわりをしたらば討たれてもやろう――次第によっては斬り捨ててもくれよう」
「それは不憫(ふびん)なこと、兵馬には罪がないものを」
 お浜の本心をいえば、兵馬に憎らしいところは少しもない、兵馬にとっては自分は親切な姉であったし、自分にとっては兵馬は可愛ゆい弟です。その心持はどうしても取り去ることはできないのですから、まんいち兵馬が竜之助を覘(ねら)うようなことがあらば、竜之助のために返り討ちに遭(あ)うは知れたこと、そのことを想像すると、お浜は兵馬が不憫(ふびん)でたまらなくなります。
「拙者を仇と覘うものがありとすれば、それは兵馬一人じゃ。同流の門下などは拙者を憎みこそすれ、拙者に刃向うほどの大胆な奴はあるまいけれど、文之丞には肉親の弟なる兵馬というものがある以上は、子供なりとて枕を高うはされぬ」
 仇を持つ身の心配を今更ここに打明けて、
「兵馬さえなくば、父に詫(わび)して故郷へ帰ることも……」
 兵馬さえなくば……その言葉の下には、兵馬を探し出さば、亡(な)き者にせんとの考えがあればこそです。
 お浜はここに言わん方(かた)なき不安を感じはじめました。
 文之丞を亡き者にさせたのは誰の仕業(しわざ)であったろう、また兵馬をも同じ人の手で同じ運命に送らねばならぬとは――お浜は戦慄しました。その時、
「吉田氏、御在宅か」
 外から呼びかけた声。
「おお、その声は芹沢氏(せりざわうじ)」
 竜之助はくるりと起き上ります。客は新徴組の隊長芹沢鴨。

         二

 芹沢鴨と机竜之助とは一室で話を始めています。さほど広い家でもないから、次の間ではお浜が客をもてなす仕度(したく)の物音が聞える。お浜の方でも、二人の話し声がよく耳に入ります。
「時に吉田氏」
 芹沢の声が一段低くなって、
「昨夜のざまは、ありゃ何事じゃ」
「なんとも面目がない」
「土方(ひじかた)めも青菜に塩の有様で立帰り、近藤に話すと、近藤め、火のように怒り、今朝未明(みめい)に島田の道場へ押しかけたが、やがて這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ帰りおった」
「聞きしにまさる島田の手腕」
 ここにもまた机竜之助の吉田竜太郎が、しおれきっているので芹沢は安からず、
「このうえ島田を斬るものは貴殿のほかにない。是が非でも島田を斬らねば新徴組の面目丸つぶれじゃ」
「しかし、本来を言えば島田にはなんの怨(うら)みもない、落度(おちど)はこっちにあるから自業自得(じごうじとく)じゃ」
「そうでない、我々同志が敵でもあり、公儀にとっても油断のならぬ島田虎之助、ぜひとも命を取らにゃならぬ」
 低く話すつもりでも高くなりがちな芹沢の声音(こわね)。
 次の間で仕度を済ましたお浜は、穏やかならぬ話の様子が心配なので、そっと郁太郎の傍に添寝(そいね)をしながら二人の話を立聞き――いや寝聞きです。
 お浜はこうして次の間の話を盗聴(ぬすみぎき)していると、それから話し声は急に小さくなって聞き取れません。
 お浜は近ごろ竜之助が、夜の帰りも遅くなり、時には酒に酔うて帰ることが多いので、それも心配の一つ。ことにいずれも一癖(ひとくせ)ありそうな浪人者とばかり往来することが、心がかりでなりません。いま来た客というのも浪人組の隊長株であるとやら。さいぜん話の通り故郷へ引込むことができれば、竜之助の心も落着いて、酒を飲むこと、気が荒くなることも止み、浪人者との往来も少なくなるであろう。
 低い声で竜之助と芹沢とが話し合っているうちに、おりおり近藤とか土方とかいう人の名が聞えます。土方歳三という人は剣術の出来る人で、もとの夫、文之丞とは往来のあった人、このごろどうかすると竜之助の口からその名前を聞く。また近藤勇という人も、八王子の天然理心流の家元へ養子になった有名な荒武者であって、これも竜之助が近ごろ懇意(こんい)にしているようです。それらの名前を聞きとがめては、いろいろと気にしていると、
「吉田氏、貴殿は宇津木兵馬という者を御存じか」
 芹沢の口から出た兵馬の名。お浜はハッとしました。
「ナニ、宇津木?」
 竜之助の言葉も気色(けしき)ばむ。
「いかにも。その宇津木兵馬という者が、貴殿を仇と覘(ねら)いおるげな」
「そのような覚えが無いでもない」
 竜之助はさのみ驚かず。
「その宇津木兵馬に、近藤、土方らが助太刀(すけだち)して、近いうち貴殿の首を取りに来るそうじゃ」
 ありありと聞き取ったお浜は、我を忘れて障子際(しょうじぎわ)に耳を寄せようとすると、乳房がよく寝ていた郁太郎の面(かお)を撫(な)でて、子供は夢を破られんとし、むずかって身を動かすので、お浜はあわててかかえて綾(あや)なします。
 それから話はまた小声になって、何だか聞き分けられません。暫くあって、
「しからば拙者はこれでお暇(いとま)を致そう、貴殿もよくよく考えておき召されよ」
 芹沢はこう言い捨てて帰るらしいから、お浜もそこを起きようとすると、
「その宇津木兵馬とやらはどこにいる」
 立つ芹沢に問いかけたのは竜之助です。
「それは明かされぬ、それを明かしてはあったら少年が返り討ちになる。しかし、御用心御用心」
「うむ――」
 竜之助は押返して問うことをしなかったと見えます。

         三

「与八さん、わたしはこのお邸で死ぬか、そうでなければこのお邸を逃げ出すよりほかに道がなくなりました」
 とうとう我慢がしきれずに、お松は夜業(よなべ)をしている与八のところへ来てホロホロと泣きました。仕事の手を休めて聞いていた与八は、
「逃げ出すがよかんべえ」
 突然(いきなり)にこう言い出して、やがてあとをつづけて言うには、
「俺(おら)もお前様に力をつけて辛抱(しんぼう)するように言ってみたあけれど、どっちにしてもこのお邸は為めになんねえお邸だ、いっそのこと、逃げ出した方がいいだ」
「それでは与八さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」
「お前様が逃げ出すなら俺(おら)も逃げ出すから、一緒に逃げべえ」
「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」
 これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。

 与八と、みどりとは、その晩、首尾(しゅび)よく神尾の邸を脱け出して、
「与八さん、どこへ行きましょう」
「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば俺(おら)が知っている人がいくらもあるだ」
 伝馬町を真直(まっすぐ)に、二人は甲州街道を落ちのびようというつもりでした。二人ともあまり地理に慣れないものですから、道を反対に取違えてしまって小石川の水戸殿の邸前(やしきまえ)へ出てしまったのです。
「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」
 お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、
「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」
 昌平橋と筋違御門(すじかいごもん)との間の加賀原(かがっぱら)という淋しいところへ来ると、向うから数多(あまた)の人と提灯(ちょうちん)、どうも役人らしいので与八も困って前後を見廻すと、ちょうど馬場の隅(すみ)のところに屋台店を出しているものがあります。これを幸いに与八はみどりの手を引いて、屋台店の暖簾(のれん)をかぶると、
「いらっしゃいまし、ずいぶんお寒うございます、この分ではまだ雪も降りそうで……」
 お世辞(せじ)を言う中婆(ちゅうばあ)さん。まだどこやらに水々しいところもあって、まんざら裏店(うらだな)のかみさんとも見えないようでした。
「みどりさん、天ぷらを食わねえか」
「与八さん、お前がよければ何でも」
「それでは天ぷらを二人前(ににんまえ)」
 暫くして、
「お待ち遠さま」
 行燈(あんどん)の光で器(うつわ)を出す途端に、面(かお)と面とを見合せた屋台店のおかみさんとみどり。
「おお、あなたは伯母(おば)さん」
 みどりのお松は我を忘れて呼びかけました。
「まあ、お前はお松ではないか」
 屋台店の主婦も呆(あき)れてこう言いました。
「伯母さん、どうしてこんな所に……」
「お前にこんなところを見られて、わたしは恥かしい」
 きまりの悪そうなのも道理、この屋台店の主婦というのが、本郷の山岡屋の内儀(ないぎ)のお滝が成(な)れの果(はて)でありました。
「伯母さん、ほんとに御無沙汰(ごぶさた)をいたしましたが、皆様お変りもござりませぬか」
「変りのないどころじゃない。それにしても、お前もまあよく無事でいてくれたねえ」
「わたしも伯母さんのところからお暇乞(いとまご)いをしてあと、いろいろな目に遭(あ)いました」
「あの時はお前、わたしが留守(るす)だものだからつい……」
 お滝も、あの時の無情な仕打(しうち)を考え出しては多少良心に愧(は)じないわけにはゆかないから、言葉を濁(にご)して、
「まあ、なんにしても珍しいところで会いました、お前、お急ぎでなければ、わたしの家へ来てくれないか、ついそこの佐久間町にいるんだから」
 こう言われてみると、是非善悪にかかわらず、この場合お松にとっては渡りに船です。
「わたしも伯母さんに御相談していただきたいことがありますから、お差支(さしつか)えなければ、お邪魔(じゃま)にあがりましょう。ねえ与八さん、この方はわたしの伯母さんなの」
「そうでしたかえ、今晩は」
 さきほどから二人の有様をながめて怪訝(けげん)な面(かお)をして箸(はし)を取落していた与八、引合わされて取って附けたような挨拶(あいさつ)でした。
 この伯母さんに引張られて、二人は佐久間町の裏へ来て見ると、八軒長屋の、こっちから三つ目の家。伯母は委(くわ)しく身の上を語ることを避けたがっていたが、その話の筋は、山岡屋は最初、泥棒に入られ、それから番頭に使い込まれ、次に商売が大損で、とうとう瓦解(がかい)してしまったということです。それから瓦解と前後して主人の久右衛門が死んだ、残るところは借金ばかり、出入りの親切な人に助けられて、今ではその人と一緒になっているということを伯母が涙ながらに語るものだから、お松もついつい自分の身の上を打明けて、邸を逃げ出して来たことまで隠すことができなくなりました。
「心配をおしでない、これからお前の身の上はわたしが引受けるから」
と伯母が言ったが、これはあまり押しの利(き)いた言葉ではないのですけれども、こうなってみれば、さしあたりこの人を頼りにせねばなりません。
 幸い、一軒置いた隣が明いていたから、与八とお松とはそれを借りて隠れるということに、その夜のうちに相談がきまりました。
 その翌朝になると、お松の頭が重くて熱がある。つとめて起きてみたけれども、ついに堪えられないで、どっと寝込んでしまいました。
 お滝もやって来て心配そうな面(かお)をするが、それよりも与八の心配は容易なものではないのです、医者を呼ぶことはよしてくれと、逃げて来た手がかりを怖れてお松が頻(しき)りに止めるものだから、
「それでは風邪薬(かぜぐすり)でも買って来(く)べえ。それ、蒲団(ふとん)を頭のところからよく被(かぶ)っていねえと隙間(すきま)から風が入る」
 与八はお松に夜具を厚く被せてやって、風邪薬を買いに出かけると、それと行違いのようにやって来たのが伯母のお滝です。
「お松、気分はいいかい、さっき持たしてよこした玉子酒(たまござけ)を飲んでみたかい」
「はい、どうも有難うございました」
「与八さんはどこへ行ったの」
「買物に行きました」
「そうかい――」
 お滝は枕許(まくらもと)へ寄って来て、お松の額(ひたい)に手を当て、
「おお、なかなか熱がありますね、大切にしなくては……それからねお松」
 お滝は言いにくそうに、
「お前、なにかね、お鳥目(ちょうもく)を少しお持ちかね」
「はい」
「お持ちならばね、ほんとに申しにくいけれどね、商売の資本(もとで)に差支えたものだからね、少しばかりでよいから融通してもらえまいかね」
「エエようござんすとも」
 お松は快く承知して、
「済みませんけれども伯母さん、その手文庫を……その中に包みがありますから封を切って、お入用(いりよう)だけお使い下さいませ、たくさんはございませんけれど」
「そうかい、わたしが手をつけていいかい、済まないねえ、それでは調べてみますよ」
 お松が神尾の邸を逃げるとき持って出た自分の手文庫、お滝はその蓋(ふた)を取って、
「まあ、大へん綺麗なものがあるね、これは短刀かえ、錦(にしき)の袋なんぞに入ってさ。これがお金の包み、まあ驚いた小判だね。それではお前、このうちを二両だけ借りておきますよ。ほんとに済まないね、お礼を申しますよ。それから何でもお前、不自由があったら遠慮なくそうお言い、我儘(わがまま)を言い合うようでないと親身(しんみ)の情がうつらないからね」
 お滝がお世辞たらたらで出て行くと、まもなく与八が帰って来ました。

 お松の病気はその翌日になっても癒(なお)りません。与八は大へんな心配で、枕許(まくらもと)を去らずに看病しているところへお滝がやって来て、
「どうだいお松、ちっとはいいかい。医者に診(み)ておもらいよ、長者町の道庵(どうあん)さんに診ておもらい。なあに、道庵先生なら心配はないよ、あの先生の口からお前の身の上がばれるなんということはないよ。与八さん、御苦労だが道庵さんへ行っておいで。この前の大通りを、それ、大きな油屋があるでしょう、あの辺が相生町(あいおいちょう)というのだから、その相生町の角(かど)を真直ぐに向うへ行ってごらん、小笠原様のお邸がある、そのお邸の横の方が長者町だからね、あの辺へ行って道庵先生と聞けば子供でも知っているのだよ……それから、あの先生にお頼み申すにはね、秘訣(こつ)があるのだよ、その秘訣を知らないと先生は来てくれないからね」
 お滝は手ぶり口ぶり忙がしく与八に説いて聞かせる。
「その秘訣というのはね、貧乏人から参りましたが急病で難渋(なんじゅう)しております、どうか先生に診ていただきたいのでございますと、こう言うんだよ。貧乏人と言わないといけないよ、金持から来たようなふうをすると先生は決して来てくれない、いいかね、貧乏人から来ましたと言うんだよ」
「そんなに貧乏が好きなのかい」
「貧乏が好きというわけじゃないだろうけれど、そこが変人なんだよ。それから、いつでも酔っぱらっている先生だからそのつもりで」
 お滝は喋(しゃべ)りつづけて、いわゆる道庵先生のところへ与八を出してやったあとで、またそろそろとお松の枕許に寄り、
「お前ほんとに済みませんがね、今月の無尽(むじん)の掛金に困っているものだから……」
 お松の持っていた金は、もうこの気味の悪い伯母に見込まれてしまったのです。

         四

 どこへ行くのか知らん、机竜之助は七ツさがりの陽(ひ)を背に浴びて、神田の御成街道(おなりかいどう)を上野の方へと歩いて行きます。小笠原左京太夫(さきょうだゆう)の邸の角まで来ると、
「わーっ」
 いきなり横合いから飛び出して竜之助の前にガバと倒れたものがあります。竜之助も驚いて見ると、慈姑(くわい)のような頭をした医者が一人、泥のように酔うて、
「やあ失礼失礼」
 起きようとするが腰に力が入らないおかしさ。やっとのことで起きて面(かお)を上げると、竜之助も吹き出さずにはおられなかったのは、いい年をしたお医者さんが潮吹(ひょっとこ)の面(めん)をかぶって、その突き出した口をヒョイと竜之助の方に向けたからです。
「お起きなさい」
 竜之助は苦笑(にがわら)いしながら医者の手を取って起してやると、
「失礼失礼」
 骨なしのようにグデングデンで、面をかぶったままでお辞儀をするのが、いかにもおかしい。それと見た近所の子供連中がワヤワヤと寄って来て、
「やあ、道庵先生がひょっとこ面をかぶってらあ、おかしいなあ」
「先生、その面をあたいにおくれよう」
「おじさん、あたいにおくれよう」
 医者の周囲(まわり)を取巻くと、
「面(めん)こは一つしかないぞ、お前らみんなに分けてやれない」
「それではおじさん、じゃんけんをして勝ったものにおくれよう」
「じゃんけんでも何でもやれやれ、わーっ」
 また竜之助の前へ倒れかかろうとする、竜之助はまた支える。
「やあ、失礼失礼」
 往来の人は歩みを止めて集まって来る。竜之助は厄介(やっかい)な者につかまったと当惑し、
「これ子供たちや、このおじさんはどこの人じゃ」
「これは道庵先生というて、長者町のお医者さんじゃ」
「このように酔うては難儀じゃ、誰か邸まで沙汰(さた)をしてくれ」
「ナニおじさん、大丈夫だよ、この先生はいつでも酔払(よっぱら)ってるんだから放(ほう)っとけば一人で帰るよ」
「やーい子供、踊れ踊れ、踊りの上手な奴にこの面こをやるぞ、そら、こんなふうに踊れ」
 面をかぶったまま章魚(たこ)のような恰好(かっこう)をして踊り出したので、往来に見ていたものが一度に吹き出します。竜之助はそれをしおに振り切って新黒門の方へ行く。

 竜之助が新黒門を広小路の方へ廻ろうとする時分に、すれちがった人があります。竜之助の方では気がつかなかったが、先方ではふいと歩みをとどめて、二三間行き過ぎた竜之助の姿を見送っている。それは宇津木兵馬でした。
 兵馬は竜之助に会って、「ハテ見たような人」と思います。しかし急に思い出せなかったので、空(むな)しく見送ったばかりでなお思い出そうとつとめたが、一町ほど隔たった後、
「あ、それそれ、いつぞや島田先生の道場で試合をした人」
とようやく考えついて、
「たしか江川太郎左衛門配下というたが……妙な剣術ぶりであった」
 あの時の試合、例の竜之助が音無しの構えの不思議であったことを兵馬は思い返して、
「先の勝ちで籠手(こて)を取られた、いかにも凄い太刀先に見えた、もう一度あの人と立合をしてみたい」
 兵馬は胸にこう考えながら、
「あのくらいに出来る人なれば相当に名ある者に相違あるまい。はて、あの時は何と名乗った……おおそれ、吉田なにがしというたが……吉田なにがしと申す剣客はあまり聞かぬ……仮名(けみょう)ではあるまいか」
 兵馬はうつらうつらと歩みつつ、
「見受けるところ、浪人のようにもあるし……」
 こう考えてきて、何やら穏やかならぬ雲行きが兵馬の胸の中に起り出し、
「待て――机竜之助が得意の手に音無しの構えというのがあると――あの吉田なにがしの手は――あれは音無しの構えではあるまいかしら。音無し、むむ、そう思えばいよいよ思い当る。あの年頃は三十三四、竜之助、竜之助……あれが兄のかたき机竜之助ではあるまいか」
 兵馬の心を貫(つらぬ)く暗示。なんらの証拠(しょうこ)があるわけではないが、こう思い来(きた)ると、今すれ違ったのがどうも竜之助らしい。兵馬は踵(きびす)を廻して黒門の方へ取って返そうとすると、
「わーッ」
 また横合いから飛び出して兵馬の前に倒れたのは、かの道庵先生です。
「やあ失礼失礼」
 そのあとをつづいた子供らが、
「おじさん、面(めん)をおくれよう」
 いい年をした男が、ひょっとこの面をかぶって来たから兵馬も笑い出して、それを避ける途端(とたん)に道庵はころころと往来へ転がってしまいました。
「やあ、先生が倒れやがった、起せ起せ」
 子供らは寄ってたかって道庵を起し、
「お家へ担(かつ)いで行こう、わっしょ、わっしょ」
 この騒ぎで宇津木兵馬は机竜之助の姿を見失って、その日はそれで帰りました。

         五

 お松の病気も大分よくなりました。よくなったとは言うものの、半月あまりも寝たことですから、その間の与八の骨折りというものは大したものでありました。
 伯母のお滝は例の如く空(から)お世辞(せじ)を言っては金を借りて行き、その金を亭主の小遣銭(こづかいせん)にやったり自分らの口へ奢(おご)ったりしてしまったので、お松の病気の癒(なお)った時分には、持っていた金はほとんど借りられてしまったのです。
 お松は蒲団(ふとん)の上へ起き上って乱れ髪を掻(か)きあげていますと、お滝がまたやって来て、
「お前、ようやく癒ってよかったねえ」
「はい、おかげさまで」
「これというのも、わたしが湯島の天神様へ願(がん)がけをして上げたのと、それから道庵先生のおかげだよ」
「はい」
「それから今日はお前、天神様の御縁日(ごえんにち)だからお礼詣(れいまい)りに上らなくては済みませんよ」
「はい」
「近い所だけれども、まだ無理をするといけないから駕籠(かご)をそいって上げるよ」
「いいえ駕籠には及びません、歩いて参りませぬと信心になりますまいから」
「そんなことがあるものかね、歩いて行こうと駕籠で行こうと信心ごころさえ確(たし)かならねえ……それはそうとお前」
 お滝の言葉が改まる時は、そのあとに来るのはいつも金のことですからお松はヒヤリとすると、案(あん)の定(じょう)、
「道庵先生への薬礼(やくれい)はどうなさるつもりだえ」
「伯母さま、実を申し上げれば、今のところ……」
「もうお金は無いのかい」
「ええ……」
 面(かお)を赧(あか)らめていると伯母は、
「わたしの方でも、お前にだいぶ借金がありますが、今々というわけにもいかず、困ったねえ」
 困った面をして、
「道庵先生はああいう変人だから、少しぐらい延びたって何とも思いなさりゃしますまいが、それならそのように、なおさら早くお礼をしないと。それにお前だって、これから身を定めるには物要(ものい)りがつづきますからね、何とかしなければ」
「左様(さよう)でございますね」
「あのね、あんまり立入ったことだけれども、お前なにか金目(かねめ)の物を持っていやしないかね、売るとか質に入れるとかして、纏(まと)まったお金の手に入るようなものを」
「それは、どうも」
「あれは何だね、お前あの手文庫の中にあったもの、錦の袋に包んだ短刀のようなもの、あれはお金になりそうだね」
 お滝が早くも眼をつけたのは、ずっと昔、お松が裏宿(うらじゅく)の七兵衛から貰った藤四郎の短刀です。
 お松は返事に困って、この伯母という人の性根(しょうね)がどこまで卑(いや)しくなったかと、それを悲しむのみであります。
 お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して鞘(さや)を払ってながめました。
 暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に耽(ふけ)っていると、
「これお前様(めいさま)、心得違えをしてはなんねえ!」
 後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。
「飛んでもねえこんだ、刃物(はもの)なんぞを持って」
「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」
 お松は、与八の驚き方があまりに大仰(おおぎょう)なのでおかしくなったのですが、与八はまた、お松が永(なが)の病気から身の上を悲観して自害でもするつもりと勘違いをしているので、お松の手から短刀をもぎ取って、
「危ねえ、こりゃ俺(おら)が預かる」
 与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、
「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」
 お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、
「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」
「お前様これをお売りなさるのか」
「売ってしまいましょう」
「それでも大切の品だんべえ」
「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの入用(いりよう)にしたいと思います」
「そうか」

 与八はお松から頼まれて、御成街道の小田原屋という武具刀剣商の店へ行ってその短刀を見せると、物言わず三十両に価(ね)をつけられました。たかだか二両か三両と思っていたのに、三十両とつけられて与八は暫らく返答ができないでいると、番頭は畳みかけて、三十三両と糶(せ)り上げ、与八に口を開かせないで、その金を押しつけるようにして短刀と引換えてしまいました。
 与八はその金を懐(ふところ)にして佐久間町の裏店(うらだな)へ帰って来て、
「みどりさん、いま帰った」
「おお与八さん、御苦労でした」
 見れば、みどりは、いつのまにか髪を島田に取り上げて、燈火(あかり)の影にこちらを見せた風情(ふぜい)は、今まで永く患(わずら)っていたのとうつり変って、与八の眼をさえ驚かすくらいの美しさに見えました。
「思いのほかいい値(ね)に売れました、この通り三十三両」
「まあ、あの短刀がそんなに」
「あんな短けえもので三十両もするだから、よっぽどいい品に違えねえ」
「それでは与八さん、御苦労ついでに道庵先生まで行ってお礼をして来て下さいな」
「ああいいとも」
「御飯(ごはん)の仕度が出来たから一緒に食べましょう」
「そうかい、お前様が仕度をして下すったかい」
 二人は膳(ぜん)を並べて、
「さあ与八さん、お出しなさい」
「どうも済みましねえ」
 ここで旅費も出来たから、二人はかねての望み通り沢井へ行って、与八はもとの水車番、お松はその傍で襷(たすき)がけで働くこと、その楽しい生活を想像しながら話し合って、食事を終り与八は、
「そんならお医者様へお礼に行って来るだ」

         六

「何だって、薬礼を持って来たって。薬礼を持って来たらそこへ置いて行きな」
 与八が訪ねて行った時、道庵先生は八畳の間に酔い倒れて、寝言(ねごと)半分に与八に返事をしています。
「先生、いくら上げたらいいだ」
「いくら? 十八文(もん)も置いて行きねえ」
「十八文?」
 与八も変な面(かお)をして、
「半月もお世話になって十八文じゃ、あんまり安い」
「生意気なことを言うな、安かろうと高かろうとこっちの売物(うりもの)だ」
「先生、そんなことを言わねえで、本当の値段を言っておくんなさいまし」
「だから十八文でいいのだ」
「先生酔っぱらっていなさるからいけねえ」
「酔っぱらったって商売に抜目(ぬけめ)はねえ、早く十八文おいて帰れ」
「それじゃ済まねえ」
「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」
「それは先生が馬鹿だ、半月も診(み)てもらったり薬を飲ましてもらったりして、そのおかげさまで病人がすっかり癒(なお)って、そうしてお礼が十八文で帰れるか、よく考えてごらんなさい」
「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」
「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」
「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」
「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」
「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」
「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」
 与八はムキになって怒り出しました。
「俺(おら)、人の物を塵(ちり)一本でも盗んだ覚えはねえ、飛んでもねえことを言わねえ方がよかんべえ」
「盗んだに違えねえ」
 道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、
「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺(おら)が面(かお)が立たねえ」
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
 与八は飛びついて道庵の胸倉(むなぐら)を取りますと、
「この馬鹿野郎、わしに喧嘩(けんか)をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」
 道庵先生も与八の頭へ噛(かじ)りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。
 与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振(むしゃぶ)りついてみましたけれども、もともと悪気(わるげ)があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲(なぐ)ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。
 与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

         七

 与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
 呼んでみたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
 これも中ではことりとも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
 さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転(ひっこし)をしておしまいじゃないか」
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆(むすめしゅ)は駕籠でお出かけじゃないか」
「ちっとも知らねえ、俺(おら)そんなことはちっとも知らねえ」
 与八は面(かお)の色を変えて唇を顫(ふる)わせる。
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
 与八は呆(あき)れてホロホロと涙をこぼし、
「四谷のどこへ引越したんべえ」
 声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散(いちもくさん)に表の方へ走り出しました。
 与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
 これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘(ねら)うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。
「ああ兵馬さん」
 せわしい中で立ち止まった与八。

         八

 夜(よ)が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛(とりまぎ)れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感(かん)が嵩(こう)じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過(あやまち)がなかったと立派な口が利(き)けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによく眼を醒(さま)して「それ見ろ」と叱(しか)ります。
 竜之助は夜中になると、きっと魘(うな)されます。
 お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相(ねぞう)を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄(すさま)じい唸(うな)りと歯を噛(か)む音、夜(よ)更(ふ)けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気(さむけ)がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀(あみだ)様か何かが煤(すす)けた表装のままで蜘蛛(くも)の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒(あば)れ廻っているからです。
 それでもあまりにその音が仰山(ぎょうさん)なので、お浜は、
「しっ!」
 嚇(おどか)してみました。
 それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ枕許(まくらもと)へ落ちました。お浜は驚いて枕を上げて打とうとすると、度を失うた鼠は、お浜の乳房と、ちょうど抱いて寝ていた郁太郎の面(かお)の間へ飛びかかったのであります。
「あれ!」
 お浜は狼狽(ろうばい)して払いのけようとする。いよいよ度を失うた鼠は、お浜の腹の方へ飛び込みました。
「あれあれ」
 お浜は寝床からはね起きます。その途端(とたん)に鼠はポンと郁太郎の面の上へ落ちかかると、郁太郎は火のつくように泣き出します。
「おお、坊や、坊や」
 お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に襖(ふすま)を伝わって天井の隅(すみ)の壁のくずれの穴へ入ってしまいましたが、郁太郎の泣き声は五臓から絞(しぼ)り出すようです。
「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」
 お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に一痕(いっこん)の血。
「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」
 お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を抱(かか)えて、片手を伸べて無二無三(むにむさん)に竜之助を突き起します。
「何事だ」
 眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の身体(からだ)の手の触るるところが、水で漬(つ)けたような汗(あせ)であるのにも驚きました。
「よく見て下さいまし、坊やが鼠に噛(か)まれました」
「ナニ、鼠に?」
「はい、大きな鼠があの仏壇から出て、この中に潜(もぐ)りこんで坊やに食いつきました」
「どれどれ」
 竜之助は起き上って、燈心を掻き立てて、郁太郎の身体を調べて見ると咽喉(のど)に一文字の創(きず)。別に深い創ではないが、そこから血がにじんで、蚯蚓(みみず)ぐらいの太さにダラダラと落ちて行くのです。
「咽喉を噛まれました」
 お浜は狂気のように叫びます。
「大事はない、早く血を拭いて創をよく巻いてやれ」
 竜之助はあり合せた晒木綿(さらしもめん)の断切(たちぎ)れを取ってやる。
「針箱の抽斗(ひきだし)に膏薬(こうやく)がありますから早く……早くして下さい」
「焦(せ)くなよ」
「まあ焦(じ)れったい、その右の小さい方の小抽斗(こひきだし)」
「これか」
「水でよく創(きず)を洗ってやりましょう、あなた、お冷水(ひや)を」
 お浜は何もかも夢中で騒いでいます。ようやく水で拭き取った創のあとを洗ってやる、その間も郁太郎は苦しがって身をもがいて泣く。
「いいよ、いいよ、坊や、痛くはないよ、さあもう少し」
 やっとのことで創を洗って、膏薬を貼(は)って晒(さらし)で首筋を巻きました。
「もう泣くのではありません、坊やは強いからね」
 泣き止まぬ郁太郎を膝の上に、お浜自身も半ばは泣き声です。竜之助も、さすがに心配そうに郁太郎の面(かお)をながめていたが、そのうちに痛みが少しは退(ひ)いたのか、または声を泣きつぶしてしまったのか、郁太郎は母の乳房を抱えたなり少し静まってきたので、
「お医者様へつれて参りましょう」
「もう遅い、明朝(あした)のことにせい」
「いけません、手後(ておく)れになると大変ですから。それに、ほかの創と違って鼠に噛まれたのは、ことによれば生命(いのち)にかかわると申しますから」
 お浜はこの真夜中に、郁太郎をつれて医者へ往こうと主張する。
「よし、そんならわしが一走り、医者を迎えに行って来る」

 竜之助が医者を迎えに行ったあとでお浜は、
「にくい畜生(ちくしょう)だ」
 鼠というやつの憎さが骨身に徹(とお)って、取捉(とっつか)まえて噛み切ってやりたい。お浜は鼠を呪(のろ)いつめて仏壇の方を睨(にら)めて歯噛(はが)みをする。
 郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った丑三時(うしみつどき)で、しんしんと更(ふ)けてゆきます。天井ではまたしても鼠が走(は)せ廻る、その足音が「ざまを見ろ」というように聞える。
 お浜は天井をまでも仇(かたき)のように見上げて、見下ろすと、痛々しい繃帯(ほうたい)が泣き疲れた郁太郎の繊細(かぼそ)い首筋を締めつけるもののように見えて、わけもなくかわいそうでかわいそうでたまりません。
「坊や、大切におし、咽喉(のど)はだいじだからね」
 お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の面(かお)を見つめて、
「お前が万一(もしも)のことがあれば、このお母さんは生きていられないよ」
 実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、麻疹(はしか)も軽くて済み、誰が見ても丈夫そうで、他人さえ可愛いらしかったくらいですから、お浜にとって、どうして可愛がられずにいられよう。
「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」
 可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。
 お浜は医者を待つ用意で寝衣を平常着(ふだんぎ)に着換えようとして、ようやく少し静まった郁太郎を、そっと蒲団の上に置こうとすると、郁太郎はまたひーと泣き出す。ハッとしてお浜はまた抱き直すと、さあ、それから、また泣き出して、もう声も涸(か)れきっているのに、涙ばかりをホロホロとこぼし、パッチリとあいた眼に、じっと母親の面(かお)を見据えて五体をわななかせる。
「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな怖(こわ)い面をして母さんを見るものじゃありませんよ」
 お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は瞬(またた)きもせずに母の面のみ見つめていますから、
「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを苛(いじ)めるの、なんという因果だろうねえ」
 お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、
「ああ罰(ばち)だ、罰だ、これがほんとの天罰というのに違いない」
 投げ出すように郁太郎を蒲団(ふとん)の上に差置いたお浜の眼は、物に狂うように光っておりました。
 お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。
 我が子なればこそ、これほどのささやかな創(きず)に気も狂うほど心配するものを、今お浜が、
「ああ怖い」
と言って慄(ふる)え上った瞬間に眼前にひらめいた先(せん)の夫(おっと)文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期(さいご)を遂(と)げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨(うら)んだか。
 お浜とても、今まで寝醒(ねざ)めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面(かお)に文之丞の末期(まつご)の色がある。天井で噪(さわ)ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風(びょうぶ)の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼(あおい)い面をして睨(にら)めている。蒲団の唐草(からくさ)の模様を見ると、その蔓(つる)がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫(な)で廻そうとしている。針箱の抽斗(ひきだし)からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚(さら)って行きそうでならぬ。
 室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐(おそ)ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。
 夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
 郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体(からだ)を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。
 ちょうど有明(ありあけ)の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟(むね)に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
 こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
 医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際(まどぎわ)に立ちつくしているのでありました。

         九

 昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
 枕許(まくらもと)を揺り動かすのはお浜の声。
 頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
 竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封(ぎゃくふう)。
「これは――」
 やや驚いて、表を読んでみると「机竜之助殿」、裏を返せば「宇津木兵馬」。
 竜之助は勃然(ぼつぜん)として半身を起し、封を切って読むと、
「貴殿に対して遺恨あり、武道の習(ならひ)にて果合(はたしあひ)致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻(あかばねばしつじ)まで御越(おこし)あり度」
「うむ、小癪(こしゃく)な果し状」
 竜之助は手紙をポンと投げ出して、夜具を蹴って起き直りました。
「坊やはどうじゃ」
「よく寝ておりまする」
 竜之助はお浜の抱いている郁太郎の面(かお)をのぞき込み、
「医者の申すには、一時(いっとき)物に怖(おび)えたので、格別のこともないそうな」
 起きて面を洗い食事を済ましてから、
「浜、坊やをこれへお貸し」
「それでもよく眠っておりますものを」
「眠っていてもよいわ、抱いてみたい」
「今日に限ってそんなことを」
「いいからお貸し」
「せっかく寝たものを、起すとまたむずかりまする」
「いいから、これへ出せというに」
 竜之助の言葉が強くなりますので、お浜は詮方(せんかた)なく、よく寝ていた郁太郎を、そっと移して竜之助に渡すと、竜之助は抱き上げて、つくづくと郁太郎の面から昨夜の創(きず)を繃帯したあたりなどを見て、今更のように、
「まあ、無事に育つがよい」
「無事に育たなくてどうするものかねえ、坊や」
「親はなくても子は育つというからな」
「両親とも立派にあるものを、縁起(えんぎ)でもない」
 お浜はやや不足顔。竜之助は思い出したように、
「浜、わしも近々京都の方へ行こうと思う」
「京都の方へ?」
 お浜は意外な面(かお)。
「京都へは諸国の浪人者が集まり乱暴を致す故、その警護のためにとて腕利(うでき)きの連中が乗り込んで行く、わしもそれに頼まれて」
「まあ、それはいつのこと」
「近いうち、或いは足もとから鳥の立つように」
「そうして、坊やとわたしは?」
「やはり、こっちに留守(るす)しておれ」
「いいえ、それはいけませぬ」
 竜之助が不意に京都へ行くと言い出したので、お浜は驚いて、力を極(きわ)めてそれに故障を申し入れる。
「それでは、もう一度考えてみよう」
 こう言って竜之助は、やっとお浜を安心させて、自分は次の間へ引込んでしまいました。
 大した創(きず)ではないが容体(ようだい)が思わしくないから、お浜が引続き郁太郎を介抱(かいほう)している間に、竜之助は一室に閉籠(とじこも)ったまま咳(せき)一つしないでいるから、
「あの人は、どうしてああも気が強いのかしら」
 お浜は竜之助が、我が子の大病をよそに、何をしているだろうと、怨めしそうに独言(ひとりごと)をしてみたりしているうちに、竜之助がついと室を出て来ました。
 見れば刀を提(さ)げていますから、
「どこへおいでなさる」
「ちょっと芹沢(せりざわ)まで」
「急の御用でなければ、坊やもこんな怪我(けが)なのですから宅にいて下さい」
「急の用事じゃ、直ぐ帰る」
「早く帰って下さい、そうでないと心細いのですから」
「うむ」
 出て行く竜之助の後ろ影を見送りながら、
「あの人は、情愛というものを知ってかしら」
 何とはなしに、竜之助と添うてからのことが胸に浮んで来ました。愚痴(ぐち)は昔に返るのみで、文之丞との平和な暮しに自分が満足しなかったことの報いを今ここに見るとは思い知っても、まだまだ自分が悪い、自分だけが悪いのだとは諦(あきら)め切れないのです。
 こんなふうに、お浜は人を恨(うら)んだり自分を恨んだりして郁太郎の介抱に一日を暮らしましたが、直ぐ帰ると言った竜之助は、夕方になっても帰って来ないのです。
「ほんとうにどうしたことでしょう、あの人はあんまり情けない」
 お浜は繰返し繰返し竜之助の帰りの遅いことを恨んで、
「どうして現在自分の子にまで、こんなに情愛がないのでしょう」
 いったん悪縁に引かされて、お互いに切っても切れぬようになったればこそ、二人はともかくも無事にここまで暮したけれど、お浜にとっては竜之助の愛情がいつも不足に堪(た)えられなかったのです。お浜はじっさい竜之助から、もっと濃い情愛を濺(そそ)がれたかったはずなのに、それは存外冷(ひや)やかで、時としてはお互いの心と心との間に鉄を挿(はさ)んだような隔てが出て来るように感じ、ついには竜之助の愛し方が足りないばかりでなく、二人の間に出来た子供に対してすら、その愛し方に不満足を感ずるのであります。
「郁太郎はおれの子ではない」
 竜之助はいつぞや腹立(はらだち)まぎれに、お浜に向ってこんなことを言ったことがある。それが今も怖(おそ)ろしい勢いでお浜の耳に反響して来るのでありました。
「あの人は、ほんとにこの子を、自分の子とは思うていないのかしら」
 そこへ飄然(ひょうぜん)と竜之助が帰って来ました。
「いま帰った」
 竜之助の面の色はいつもよりも一層蒼白(あおじろ)く、お浜と郁太郎とをひとめ見たきりで、さっさと次の間へ行こうとする。お浜はこの時、腸(はらわた)の底まで竜之助の憎らしさが沁(し)み込んで、
「あなた、この子は誰の子でござんしょう」
 その声は泣き声でありましたから、竜之助はその切れの長い目でジロリと、
「誰が子とは?」
「坊やは誰の子でしょう」
「何をいまさら」
「郁太郎はお前様の子ではありませぬ」
「何を言うのだ」
「この子は死んでしまいますのに」
「なに?」
 竜之助は、お浜の例の我儘(わがまま)な突っかかりが始まったと思うたが、今日はそんな嚇(おど)し文句(もんく)に対して思いのほか冷淡で、
「寿命(じゅみょう)なら死ぬも仕方がない」
「まあ……」
 お浜は凄(すご)い目をして竜之助を睨みました。竜之助もまた沈み切った眼付でお浜を睨み返す。いつもならばここで癇癪(かんしゃく)が破裂して、生きるの死ぬのと猛(たけ)り立つべき場合であったのに、今日は不思議にも二の句をついで何とも言い張りません。
 竜之助はそのまま次の室へ入って、机に向って暫らく茫然(ぼうぜん)と坐っていましたが、自分で燈火(あかり)をつけて、それから料紙(りょうし)、硯箱(すずりばこ)を取り出して何か書き出したものと見えます。
 まもなくお浜はここへ入って来ました。
「あなた、竜之助様」
「何だ」
「お願いがござりまする」
「言ってみろ」
 竜之助は書きかけた筆を置きもせず、お浜の方を見返りもせず冷やかな返事です。お浜の方も何か深い決心があるらしくて、別にくどいことも言わず、これも眼の中はやっぱり冷やかな光で満ちて、
「離縁をして下さい」
「離縁?」
 竜之助はこの時、ちょっと筆を休めてお浜を見返り、
「離縁、それも面白かろう」
「ええ、面白うござんす、ずいぶんあなたとは永く面白い芝居を見ましたから」
「ここらで幕を下ろそうというのかな」
「離縁状を書いて下さい」
「誰に断(ことわ)った縁でもない、いまさら三行半(みくだりはん)にも及ぶまいが」
「そんなら今から出て行きます」
「それもよかろう」
 竜之助は、いよいよ冷淡な気色(けしき)で、
「しかしここを出てどこへ行く」
「どこへ行きましょうとお差図(さしず)は受けませぬ」
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒(めんどう)は頼みますぞ」
「郁太郎はわたしの子ですもの」
 お浜はついと立って出て行きます。

 お浜は箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白(やがすり)の袷(あわせ)を引張り出しました。
 この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧(きり)の御坂(みさか)で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。
 されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川(ひかわ)へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺(あざむ)いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。
 ここに世帯を持ってから、屑屋(くずや)にも売られずに残っていることが思い出の種(たね)。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切(とりしき)った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫(てぬい)にして下すったもの。
 お浜はそれを思うと自分の我儘(わがまま)であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁(し)みてくるのです。
「甲州へ帰りましょう」
 一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
 お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来(きた)って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:87 KB

担当:FIRTREE