大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 少年は、やや眼を円くして、お角の面(かお)を見上げましたが、その頼みに来たという事情を、さのみ立入って知りたいというほどでもありません。
「ええ、お前さんを頼みに来たのよ、それがために途中で大難に遭って、こうしてお世話になっているの」
「そうですか」
「そうですかじゃない、ほんとに生命(いのち)がけで江戸から、お前さんを尋ねに来たんじゃないか」
 お角ははずむけれども少年は、
「江戸から?」
と言って、前よりは少しく耳を傾けただけのことです。それもお角が無暗に、大難だとか生命がけだとかいうのに引きつけられたのではなく、江戸からと言った地名だけに引っかかったものとしか思われません。
「そうよ」
「江戸には、おばさん、山は無いんでしょう、だから蛇だって、そんなにいやしないでしょう、わたしを頼んで行ってどうするの」
「そりゃね……」
と言って、お角が少しばかり口籠(くちごも)りました。少年は、それに頓着せずに、
「今まで、あたいを頼みに来るのは、山方(やまかた)ばっかりよ。あたいに鳥を追わせたり、蛇をつかまえさせたり、また虫を取って来て天気を占(うらな)わせたりするんだけれど、江戸へ連れて行ってどうするんだろう。それでも、あたい江戸へは行ってみたいよ。お嬢さんとこに、幾枚も江戸の景色の絵があるんだ、それで見て知っているけれどもね、綺麗(きれい)なところだね。おばさん、ほんとうに連れてってくれるなら、あたい行ってもいいよ、おばさんとこに居候になっていてもいいよ」

         八

「それというのはね、まあ、聞いて下さいまし。この間の暴風雨(あらし)の晩のことでした、わたしが毎晩ああやって点(つ)けている高燈籠の火が消えてしまいました、どんなに風が吹いても、雨が降っても、消えないはずの火が消えてしまいました、あの火が消えたばっかりに、海で船が沈んで、多くの人が死にました、まことに申しわけのないことでございます」
 盲法師の弁信はこう言って、その見えない眼から涙をポロポロとこぼして、口が利(き)けなくなりました。
「弁信さん、そりゃ仕方がありませんよ、なにもお前さんが消したというわけじゃあるまいし」
「いいえ、いいえ、わたしが消したんですよ、決して、あの晩の暴風雨(あらし)が消したわけじゃございません」
「だって弁信さん、お前がわざわざ消しに行ったわけじゃありますまい」
「いいえ、わたしの業(ごう)が尽きないから、それで、あの晩に限って火が消えてしまったんですね、わたしが、少しでも人様の眼を明るくして上げようと思ってしたことが、かえって人様の命を取るようになってしまいました、怖ろしいことでございます」
「けれども、そりゃ仕方がありませんよ、善い心がけでしたことも、悪いめぐり合せになるのは運ですからね、なにもあの晩に限って燈火(あかり)が消えて、それがために助けらるべき船が助けられず、救わるべき人が救われなかったといって、誰も弁信さんを恨むわけのものじゃありません、それでは、あんまり取越し苦労というものが過ぎますね」
「いいえ、いいえ、善い心がけでしたことが、悪いめぐり合せになるということは、決してあるものではございません、それが悪いめぐり合せになるのは、徳が足りないからでございます、業が尽きないからでございます」
「そりゃいけませんよ、善いことをすれば、善いめぐり合せになるときまったものじゃなし、かえって善いことをして、悪いめぐり合せになる例(ためし)が世間にはザラにあることなんだから、弁信さん、そんなに取越し苦労をしないで、山へお帰りなさいまし」
「いいえ、そうじゃないのです、善い人の点(つ)けた火は、消そうと思っても消えるものじゃございません。御承知でございましょうが、天竺(てんじく)の阿闍世王(あじゃせおう)が、百斛(ひゃっこく)の油を焚いて釈尊を供養(くよう)致しました時、それを見た貧しい婆さんは、二銭だけ油を買って釈尊に供養を致しました、貧しい婆さんの心は善かったものでございますから、阿闍世王の供えた百斛の油が燃え尽きてしまっても、貧しい婆さんの二銭の油は、決して消えは致しませんでした、消えないのみならず、いよいよ光を増しました、暁方(あけがた)になって目連尊者(もくれんそんじゃ)が、それを消しにおいでになって、三たび消しましたけれど、消えませんでございました、袈裟を挙げて煽(あお)ぐとその燈明の光が、いよいよ明るくなったと申すことでございます。それほどの功徳(くどく)も心一つでございますのに、それに、わたしがああやって心願を立てて、毎晩毎晩点けにあがる高燈籠が、あの晩に限って消えてしまったというのは因果でございます、業でございます、わたしの徳が足りないんでございます。徳の足りないものが、業(ごう)の尽きない身を以てお山を汚していることは、お山に対しても恐れ多いし……わたし自らの冥利のほども怖ろしうございますから、それでわたしは、お山をお暇乞(いとまご)いを致しました、皆様がいろいろにおっしゃって下さいましたけれども、わたしは自分の罪が怖ろしくて、お山に留まってはおられませんでございます。皆様お大切に、これでお別れを致します……これが一生のお別れになるか知れませんでございます」
 こう言って、盲法師の弁信は泣きながら、草鞋(わらじ)ばきで、笠はかぶらないで首にかけ、例の金剛杖をついて清澄の山を下ってしまいました。それは暴風雨(あらし)があってから五日目のことで、誰がなんと言っても留まらず、山を下って行く、その後ろ姿がいかにも哀れであります。

         九

 それとほぼ時は同じですけれども、ところは全然違った中仙道の碓氷峠(うすいとうげ)の頂上から、少しく東へ降ったところの陣場ケ原の上で、真夜中に焚火を囲んでいる三人の男がありました。
 一昨夜の暴風雨(あらし)で吹き倒されたらしい山毛欅(ぶな)の幹へ、腰を卸(おろ)しているものは、南条力(つとむ)であります。この人は曾(かつ)て甲府の牢に囚(とら)われていて、破獄を企てつつ宇津木兵馬を助け出した奇異なる浪士であります。
 その南条力と向き合って、これは枯草の上に両脚を投げ出しているのは、いつもこの男と影の形に添うように、離れたことのない五十嵐甲子雄(いがらしきねお)であります。甲府の牢以来、この二人が離れんとして離るる能(あた)わざる□(ふたご)の形で終始していることは敢(あえ)て不思議ではありませんが、その二人の側に控えて、いっぱしのつもりで同じ焚火を囲んでいるもう一人が碌(ろく)でもない者であることは不思議です。碌でもないと言っては当人も納まるまいが、この慨世憂国の二人の志士を前にしては、甚だ碌でもないというよりほかはない、例のがんりきの百蔵であります。
「その屋敷でござんすか、そりゃこの峠宿(とうげじゅく)から二里ほど奥へ入ったところの美平(うつくしだいら)というところが、それなんだそうでございます。今はそこには人家はございませんが、そこが、碓氷の貞光(さだみつ)の屋敷跡だといって伝えられてるところでございます」
 がんりきの百は、いっぱしの面(かお)をして案内ぶりに話しかけると、
「なるほど」
 南条力はいい気になって頷(うなず)いてそれを聞いている取合せが、奇妙といえば奇妙であります。ナゼならば、南条力は少なくともこのがんりきの百なるものの素行(そこう)を知っていなければならない人です。それは甲州街道で、このがんりきの百が男装した松女(まつじょ)のあとを、つけつ廻しつしていた時に、よそながら守護したり、取って押えたりして、お松を救い出したのはこの人であります。百にしてからが、この人の怖るべくして、狎(な)るべからざる人であり、ともかく自分たちには歯の立たない種類の人であることを、充分こなしていなければならないのに、こうして心安げになって、いっぱしの面をしていることが、前後の事情を知ったものには、どうも奇妙に思われてならないはずです。
 ところが、このがんりき先生は一向、そんなことには頓着なく、
「さあ、焼けました、もう一つお上んなさいまし。南条の先生、こいつも焼けていますぜ、五十嵐の先生、もう一ついかがでございます」
と言って、木の枝をうまく渡して、焚火に燻(く)べておいた餅を片手で摘(つま)み上げ、
「碓氷峠の名物、碓氷の貞光の力餅というのがこれなんでございます」
 得意げに餅を焼いて、二人にすすめ、
「何しろ源頼光の四天王となるくらいの豪傑ですから、碓氷の貞光という人も、こちとらと違って、子供の時分から親孝行だったてことでございますよ。親孝行で、そうして餅が好きだったと言いますがね、親孝行で餅が好きだからようございますよ、間違って酒が好きであってごろうじろ、トテも親孝行は勤まりませんや。どうも酒飲みにはあんまり親孝行はありませんね。俺(わっし)の知ってる野郎にかなりの呑抜(のみぬけ)があって、親不孝の方にかけちゃ、ずいぶん退(ひ)けを取らねえ野郎ですが、或る時、食(くら)い酔って家へ帰ると、つい寝ていた親爺の薬鑵頭(やかんあたま)を蹴飛ばしちまいましてね、あ、こりゃ勿体(もったい)ねえことをしたと言ったもんです、それを親爺が聞いて、まあ倅(せがれ)や、お前も親の頭を蹴って勿体ないと言ってくれるようになったか、それでわしも安心したと嬉しがっていると、野郎が言うことにゃ、おやおや、お爺(とっ)さんの頭か、俺(おり)ゃまた大事の燗徳利(かんどっくり)かと思ったと、そうぬかすんですから、こんなのは、とても親孝行の方には向きませんよ。酒飲みがみんな親不孝と限ったわけじゃございませんが、餅の方が向きがようございます。その碓氷の貞光て人は餅が好きで、自分で搗(つ)いては自分でも食い、お袋様にもすすめてね、自分はその餅を食いながら、あの美平の屋敷から信州のお諏訪様まで日参りをしたというんですから、足の方もかなり達者でした。私共も足の方にかけちゃずいぶん後(おく)れを取らねえつもりだが、ここから信州の諏訪へ日参りと来ちゃ怖れ入りますね。そんなわけで、これがこの土地の名物、碓氷の貞光の力餅ということになっているんでございます」
 がんりきの百蔵は、無駄話を加えて力餅の説明をしながら、しきりにそれを焼いては例の片手を上手に扱って二人にすすめると、それをうまそうに食べてしまった南条は、
「がんりき、時間はどんなものだな」
「そうでござんすね、もうかれこれいい時分でございましょう」
 三人が同時に頭(こうべ)をめぐらして西の方をながめました。この時分、最夜中は過ぎて峠の宿(しゅく)で、たったいま鳴いたのが一番鶏であるらしい。
「いったい、横川の関所は何時(なんどき)に開くのじゃ」
 五十嵐が言いますと、
「やっぱり、明けの六(む)つに開いて、暮の六つに締まるんでございます」
「そうして今は何時(なんどき)だ」
「一番鶏が鳴きました」
 がんりきは何か落着かないことがあるらしく、
「間違いはございませんが、念のためですからこれから私が、もう一ぺん峠の宿を軽井沢まで走って見て参ります」
「御苦労だな」
 こうして、がんりきの百は得意の早足で、峠の宿の方へ向いて行ってしまいました。そのあとで南条は、五十嵐にむかい、
「こんな仕事には誂向(あつらえむ)きに出来ている男だ、何か、ちょっとした危ない仕事がやってみたくてたまらないのだ、小才(こさい)が利いて、男ぶりもマンザラでないから、あれでなかなか色師(いろし)でな、女を引っかけるに妙を得ているところは感心なものだ」
 こんなことを言って笑っていると、五十嵐は、
「女によっては、あんなのを好くのがあるのか知らん、どこかに口当りのいいところがあるのだろう」
「当人の自慢するところによると、あの片一方の腕を落されたのも、女の遺恨から受けた向う創(きず)だと言っている。これと目星をつけた女で、物にならぬのは一人もない、なんぞと言っているところがあいつの身上だ」
 この時分に峠の宿で、また鶏が鳴きましたけれども、夜が明けたというわけではありません。
 いわゆる、碓氷峠(うすいとうげ)のお関所というのは、箱根のお関所と違って、それは山の上にあるのではなく、峠の麓にあるのであります。
 熊(くま)の平(だいら)で坂本見れば、女郎が化粧して客待ちる……というその坂本の宿よりはなお十町も東に当る横川に、いわゆる碓氷峠のお関所があるのであります。
 このお関所を預かるものは安中(あんなか)の板倉家で、貧乏板倉と呼ばれた藩中の侍も、この横川の関所を預かる時は、過分の潤(うるお)いがあったということです。それは参覲交代(さんきんこうたい)の大名の行列から来る余沢(よたく)の潤いであるとのことです。
 けれども、ここを通る参覲交代の大名のすべてを合せても、その余沢は、一加州侯のそれに及ぶものではないとのことであります。
後共(あとども)は霞引きけり加賀守
という百万石の大名行列は、年に二回は行われる。その年に二回の加賀様の行列によって、一年の活計を支えるほどの実入(みい)りを得ている者が、幾人あるか知れないということであります。
 それは大抵、五月と九月との両度に行われ、同勢は約千人もあったろうということで、金沢の城中から、鉄砲百挺、弓百挺、槍百筋を押立てて、ここまで練って来た一行が、鉄砲だけは関所を通すことが許されないから、坂本の宿の陣屋に鉄砲倉を立て、そこに預けておき、帰る時は、それを持ち出して国へ帰るということになっているのだそうです。関所でやかましいのは、鉄砲と、そうして女であることはここも他と変ることはなく、徳川幕府にとって頭痛の種であったこの二つの禁物のうちの一つは、そうして封じ込められて、関所を東へは一寸も動くことを許されないでいるが、東から来て西へ抜けようとする女は、まさか倉を立てて蔵(しま)っておくわけにもゆかない代り、かなり厳しい詮議(せんぎ)の下に、辛(かろ)うじて通過を許されるのであります。それは、たとえ百万石の奥方といえども、関所同心の細君の手によって、一応その乳房をさぐられ、それから髪の毛の中を探された上で、はじめて通行の自由を認められる……それが本来の規則であったそうだけれども、そこにも当然抜け道はあって、表面だけの繕いで無事に通行ができるようになり、それらの余徳として、関所役人の懐ろの潤(うるお)いが増してくるようになったとは、さもありそうなことであります。
 その加州侯の潤わせぶりが、至って寛大で豊富であったから、その行列が宿々のものから喜ばれた持て方は非常のものでしたそうです。それで中仙道を、誰いうとなく加賀様街道と呼ぶようになったのは、名実共にさもありぬべきことと思われます。
 これに反して、嫌われ者は、尾張と薩摩で、これはどうかして三年に一度ぐらい、この関所へかかることがあるが、金は使わないくせに威張り散らすという廉(かど)で、関の上下におぞけを振わせたものだそうです。それで近頃まであの附近では、泣く児をだますのに、それ尾張様が来たといってオドかしたものだそうです。
 そんなようなわけで、碓氷峠の関所、実は横川の関所は、毎日、明けの六(む)つから暮の六つまで、人を堰(せ)いたり流したりしていましたが、これはもちろん、その時刻にしてはあまりに早過ぎることなのであります。
「さあ、やって来たぞ」
「来た、来た」
 南条と五十嵐とは、例の陣場ケ原の焚火から立ち上って、ながめたのは関所の方角ではなくて、やはり熊野の社の鎮座する峠の宿の方面でありました。
 なるほど、何物かがやって来る。耳を傾けると鈴の音が聞えるようです。蹄(ひづめ)の音もするようです。あちらの方から、馬を打たせて来るものがあることは疑うべくもありません。
 まもなくそこへ現われたのは、馬子に曳(ひ)かれた二頭の馬でありました。
 峠を越ゆる馬は、一駄に三十六貫以上はつけられないのだから、荷物の重量としてはそんなに大したものとは思われないが、それに附添っている武士が三人あります。そうして馬の背の上に、梅鉢の紋らしいのが見えるところによって見れば、これは、やはりこの街道の神様である加州家に縁(ちなみ)のある荷馬(にうま)であることも推測(おしはか)られます。
 それと見た南条力は、ズカズカとその馬をめがけて進んで行きました。無論、五十嵐甲子雄もそれに従いました。
 これは、馬子も宰領も、すわやと驚かねばならぬ振舞です。この二人だからよいようなもの、そうでなければまさに山賊追剥の振舞であります。
「待ち兼ねていたわい」
 南条力は低い声でこう言って馬の前に立ち塞がると、不思議なことに馬も人も更に驚く風情(ふぜい)はなく、ハタと歩みをとどめてしまって、
「まず、上首尾」
と言った声は、前なる馬子の口から発せられました。落着いたもので、馬子風情の口吻(くちぶり)ではありません。
 けれど、馬子の口から出たことは間違いがありません。
 その時に、馬に附添って来た三人の武士は、汝(おの)れ狼藉者(ろうぜきもの)! と呼ばわってきってかかりでもするかと思うと、それも微塵(みじん)騒がず、遽(にわ)かに馬の側から立退いて、やや遠く三方に分れて立ちました。この陣場ケ原というところは、昼ならば碓氷峠第一の展望の利くところでありますから、そうして三方にめぐり立てば、どちらの方面から来る人の目を防ぐこともできます。
 ところで南条力は、右の一言を発しただけで、前にいた馬子の傍へ立寄ると、五十嵐甲子雄は二番目の馬子に近寄って、
「お役目御苦労」
と、やはり低い声で言いかけると、
「御苦労、御苦労」
と第二の馬子も、やはり馬子らしくない口調で一言(ひとこと)いったきり。そこで、馬子は提灯(ちょうちん)を鞍へかけて、都合四人が、おのおの己(おの)れの衣裳を脱ぎ換えはじめました。
 南条と五十嵐とは己れの衣類大小をことごとく脱ぎ捨てて、馬子はその簡単な馬子の衣裳を解いてしまうと、この両者は手早くそれを取換えて一着してしまいました。そうして忽(たちま)ちの間に南条力は第一の馬の馬子となり、五十嵐甲子雄は第二の馬の馬子となり、以前の二人の馬子は、雁首(がんくび)の変った南条、五十嵐になってしまいました。
 この時、三方に離れて遠見の役をつとめていた三人の武士は、急に立寄って来て、また馬の左右に附添いました。
 以前に馬子であった二人だけは、その馬の前にも立たず後にも従わず、東へ向いて行く一行を見送って立っているのであります。そうして馬の足音も、全く闇の中に消えてしまった時分に、二人は元の峠の宿の方へ引返してしまったから、そのあとの陣場ケ原には、焚火の燃えさしだけが物わびしく燻(くすぶ)っているだけです。

         十

 その翌日、妙義神社の額堂の下で、なにくわぬ面(かお)をして甘酒を飲んでいるのは、がんりきの百でありました。
 縁台に腰をかけて、風合羽(かざがっぱ)の袖をまくり上げて甘酒を飲みながら、しきりに頭の上の掛額をながめておりましたが、
「爺(とっ)さん、ここに大した額が上ってるね……」
と甘酒屋の老爺(おやじ)に、言葉をかけました。
「へえへえ、なかなか大したものでございます」
 老爺は自分のものでも賞(ほ)められた気になって、嬉しそうに、同じく頭の上の額堂の軒にかかった大きな掛額をながめました。
「甲源一刀流祖逸見(へんみ)太四郎義利孫逸見利泰(よしとしそんへんみとしやす)……」
 筆太に記された文字を、がんりきの百は声を立てて読むと、
「秩父の逸見先生の御門弟中で御奉納になったのでございますが、当国では真庭の樋口先生、隣国では秩父小沢口の逸見先生、ここらあたりは、剣道の竜虎でございます」
 それを聞いて、がんりきの百も何かしら勇み出して、
「知ってるよ、爺(とっ)さん、わしはいったい甲州者なんだがね、その甲源一刀流の秩父の逸見先生というのは、甲州の逸見冠者十七代の後胤(こういん)というところから甲斐源氏を取って、それで甲源を名乗ったものなんだ、だから何となく懐しいような気がして、こうしてさいぜんからながめているんだ」
「左様でございますか、お客様も甲州のお方でございますか、甲州はまことに結構なところだそうでございますね」
「あんまり結構なところでもねえのだが、爺さんよ、こうして、さっきからこの額面をながめているうちに、どうも気になってならねえことがあるんだが……」
「何でございます」
「ほかでもねえが、初筆(しょふで)から三番目のところに紙が貼ってあるだろう、比留間(ひるま)なんとやら、桜井なんとやらという人の名前の次にある人の名前は、何という方だか知らねえが、ああして頭からべっとり紙を貼ってしまったのは、ありゃいったいどうしたわけなんだ」
「あれでございますか、あれはね……」
 老爺(おやじ)は心得て、何をか説明しようとするのを、気の短いがんりきの百は、
「あんまり味のねえやり方をしたもんだね、書き直すんなら書き直すんで、もっと穏かな仕方がありそうなもんじゃねえか、頭から無茶に白紙(しらかみ)を貼りかぶせてしまったんじゃ、見た目があんまり良い気持がしねえ、御当人だって晴れの額面へ持って行って、自分の名前だけ貼りつぶされたんじゃ浮ばれねえだろうじゃねえか。これだけの御門弟のうちに、そこに気のつく人はねえのかな。削り直したところで何とかなりそうなもんだ、刳(く)り抜いて埋木(うめき)をしておいたって知れたもんだろう、なんにしたって、ああして白紙を貼りかぶせるのは不吉だよ」
 しきりに腹を立てて見ている額面には、なるほど、初筆から三番目あたりの門弟の人の名の上に、無惨に白紙が貼りつけてあるのであります。老爺(おやじ)はその時、前の言葉をついで、
「あれはお客様、なんでございますよ、どなたもみんな、あれを御覧になると、そうおっしゃいますんでございますが、皆さん御承知の上で、ああいうことになすったんでございますから仕方がありませんので」
「エ、みんな承知の上だって? 承知の上でああして貼りつぶしちゃったのかい」
「ええ、左様でございます、あの下に、机竜之助相馬宗芳というお方のお名前が、ちゃんと書いてあるんでございます」
「何だって? 机竜之助……」
 がんりきの百は面(かお)の色を変えました。釜の前に立っていた老爺は、わざわざ縁台の方へ歩き出して来て、
「剣道の方のお方が、ここへおいでになってあれを御覧になると、どなたもみんな惜しい惜しいとおっしゃらない方はございません、なかには涙をこぼすほど惜しがって、この下を立去れないでいらっしゃるお方もございます」
「うーん、なるほど」
 がんりきは何に感心したか、面の色を変えて唸(うな)り出し、改めてその紙の貼られた額面を穴のあくほど見ています。
「惜しいお方ですけれども、剣が悪剣だそうですから、どうも仕方がございません」
「悪剣というのは、そりゃ何のことなんだい」
 がんりきは投げ出すような荒っぽい口調で、老爺を驚かせました。
「どういうわけですか、皆さんがそうおっしゃいます、それがために逸見先生の道場から破門を受けて、その見せしめのために、ああしてお名前の上へ、べったりと紙を貼られておしまいになってから、もうかなり長いことでございます」
「なるほど、そりゃありそうなことだ」
「けれどもまた、その御門弟衆のうちでも、惜しい惜しいとおっしゃるお方がございます。他国からこのお山へ御参詣になった立派な武芸者のお方で、この額を御覧になり、ああ、机竜之助は今どこにいるだろう、あの男に会ってみたい……と十人が十人まで、申し合わせたようにそうおっしゃって、あの額を残り惜しそうに御覧になるのが不思議でございますから、私がその仔細(しさい)を一通りお聞き申しておきました。お聞き申してみると、なるほどと思われることがありますんでございますよ」
「ふむ、そりゃそうだろう」
「もとの起りからそれを申し上げると、ずいぶん長くなりますんですが……」
 それでも老爺は、その長きを厭(いと)わずに、ずいぶん話し込んでみようと自分物の縁台に、がんりきと向き合って腰を卸そうとした時に、麓の方から賑(にぎ)やかしい笛と太鼓の音が起ったので、その腰を折られました。
 麓から登って来るのは、越後の国から出た角兵衛獅子の一行であります。その親方が、てれんてんつくの太鼓を拍(う)ち、その後ろの若者が、ヒューヒューヒャラヒャラの笛を吹き、それを取捲いた十歳(とお)ぐらいになる角兵衛獅子が六人あります。
しちや、かたばち、
小桶(こおけ)でもてこい、
すってんてれつく庄助さん
なんばん食っても辛(から)くもねえ
 この思いがけない賑やかな一行の乗込みで、せっかくの話の出鼻をすっかり折られた老爺は、呆気(あっけ)に取られた面(かお)をしているところへ、早くも乗込んだ六人の角兵衛獅子が、
「角兵衛、まったったあい――」
 卍巴(まんじどもえ)とその前でひっくり返ると、てれてんつくと、ヒューヒューヒャラヒャラが、一際(ひときわ)賑やかな景気をつけました。
 ほかにお客というのはないんだから、この角兵衛獅子の見かけた旦那というのは、おれのことだろう。そこでがんりきの百は、どうしても御祝儀を気張らないわけにはゆかなくなりました。
「兄貴に負けずにしっかりやんなよ」
と言って、がんりきは例の左手で懐ろから財布を引き出すと、その中から掴み出した一握りを、鶏の雛に餌を撒くような手つきで、バラッと投げ散らしました。
 がんりきの百は、角兵衛獅子を相手に大尽風(だいじんかぜ)を吹かしていると、妙義の町の大人も子供も、その騒ぎを聞きつけて出て来ました。この見物の半ば最中に、角兵衛獅子の登って来たのとは反対の方角の側から、同じところへ登って来た一行があります。
 この一行は角兵衛獅子のような嗚物入りの一行とは違って、よく山方(やまかた)に見ゆる強力(ごうりき)の類(たぐい)が同勢合せて五人、その五人ともに、いずれも屈強な壮漢で、向う鉢巻に太い杖をついて、背中にはかなり重味のある荷物を背負(しょ)っています。
 大尽風を吹かしていたがんりきの百が、ふとこの五人の同勢の登って来たのを見ると、
「おいおい角兵衛さん、もうそのくらいでいいよ、御苦労御苦労」
 ここへ来た五人の強力の同勢は、さあらぬ体(てい)に、この額堂下の甘酒屋へ繰込んで来ました。
 先に立った強力の一人を、よく気をつけて見れば只者ではないようです。そのはず、この男こそ、碓氷峠の陣場ケ原で一昨夕、焚火をしてなにものをか待っていた南条力でありました。すでにこの男が南条力でありとすれば、その次にいるのが五十嵐甲子雄であることは申すまでもありますまい。そのほかの三人は、あの陣場ケ原のひきつぎの時に、三方に立って遠見の役をつとめていた三人の武士。それが都合五人ともに、いつのまにか申し合せたように強力(ごうりき)姿に身をやつしています。急に、てんてこ舞するほど忙しくなったのは甘酒屋の老爺で、この五人の馬のような新しいお客様と、それから、たった今、一さし舞い済ました小さな角兵衛獅子が改めてこのたびのお客様となったのと、それにつれそう太鼓の親方と、笛の若者とに供給すべく、新しく仕込みをするやら、茶碗に拭(ぬぐ)いをかけるやら、炭を煽(あお)ぎはじめるやら、ここはお爺(とっ)さんが車輪になって八人芸をつとめる幕となりました。
 やがて五人の強力は、一杯ずつの甘酒に咽喉(のど)をうるおすと、卸(おろ)しておいためいめいの荷物を取って肩にかけ、南条力が目くばせをするとがんりきの百が心得たもので、
「爺(とっ)さん、また帰りに寄るよ」
と言って幾らかの鳥目(ちょうもく)をそこへ投げ出して、立ち上ります。
 額堂を出たがんりきを先登に、南条らの一行は白雲山妙義の山路へ分け入ったが、下仁田街道(しもにたかいどう)の方へ岐(わか)れるあたりからこの一行は、急速力で進みはじめました。

         十一

 がんりきを初め南条の一行が、山へ向けてここを去ってしまい、角兵衛獅子の一座もほどなく町の方へ引返してしまい、それから小一時(こいっとき)ほどたって、同じ額堂下の甘酒屋へ、同じような風合羽を着た道中師らしい二人の男が、ついと入って来て、二人向き合って縁台に腰をかけて、
「どっこいしょ」
 杖について来た金剛杖でもない手頃の棒をわきに置いて、脚絆(きゃはん)のまま右の足を曲げて左の方へ組み上げたのは、町人風はしているけれども、決して町人ではありません。
 それと向き合った一方のは、前のに比べると年配であります。これはまあ生地(きじ)が百姓らしい上に一癖ありそうで、前のほど横柄(おうへい)でないところは、主従とも見えないが、たしかに前のに対して一目は置いているようです。
 この二人は甘酒に咽喉をうるおしながら、期せずして頭の上の、例の大きな額面に眼が留まりました。
「ははあ、甲源一刀流、秩父の逸見(へんみ)だな」
と言ったのは、足を曲げていた方の道中師です。
「なるほど、逸見先生の御内(おうち)で、大した額を奉納なさいました」
 前のは言い方が横柄で、後のは幾分か慎(つつま)しやかであります。
「うむ、比留間与助、知ってる、桜井なにがし、あれも名前は聞いている、それから三番目……のはどうしたんだ、白紙(しらかみ)を頭から貼りかぶせたのは不体裁(ふていさい)極まるじゃないか」
 その口調にこそ相異はあれ、たった今、がんりきの百がしきりに憤慨したのと同じ動機に出でているので、心ある人ならば、誰もその無下な仕方を不快に思わないものはないはずです。
「左様でございますな、何とか仕方がありそうなものでございますな、せっかくの結構な額が、あれのためにだいなしになってしまいますでございますね……おやおや、お待ち下さいましよ」
 年配の方の道中師が、やはり、それをながめているうちに面(おもて)が曇ってきました。
「何だ、どうかしたのか」
 横柄(おうへい)の方のが、それを聞き咎(とが)めると、
「その次に記されておいでになるのは、ありゃ何とございます、宇津木……宇津木と書いてあるんじゃございませんか」
「そうそう、宇津木と書いてある、宇津木文之丞……」
「わかりました、わかりました、思いがけないところで、思いがけない人にぶっつかりましたよ、いやどうも、なんだか怖ろしい因縁がついて廻っているようでございますよ、驚きました」
 こう言って、例の白紙に貼りつぶされた無名の剣客の名前を、呪われたもののような眼付でながめ入るのが変でしたから、横柄な方の道中師が、
「貴様、独(ひと)り合点(がてん)で、幽霊のようなことを言ってはいかん」
「先生、この白紙をかぶせられているお方の名前を、私はちゃんと読みました、紙の上から、ちゃあんと見透しました、千里眼ですよ、失礼ながら先生にはそれがお出来になりますまい」
「何を言ってるんだ、そんなことがわかるものか」
 ここに二人の道中師という、その年配の方のは七兵衛であります。そうして横柄な方のは、もと新徴組にいた浪士の一人で、香取流の棒を使うに妙を得た水戸の人、山崎譲であります。
 七兵衛と山崎譲とが、こうして組んで歩くことは、がんりきの百が南条力の手先になっていることよりは、むしろ奇妙な縁と言わなければなりません。
 壬生(みぶ)の新撰組にあって山崎は変装に妙を得ていました。七兵衛が島原の遊廓附近に彷徨(さまよ)うて、お松を受け出す費用のために、壬生の新撰組の屯所(とんしょ)へ忍び入った時に、山崎はたしか小間物屋のふうをして、そのあとを追い、さすがの七兵衛の胆(きも)を冷させたことがあります。
 それがいつのまに妥協が出来たのだろう、こうして主従のような、同行(どうぎょう)のような心安立てで歩いているまでには、相当のいきさつがなければならないことです。
 思うに、七兵衛とがんりきとは、甲府の神尾主膳の屋敷の焼跡を見て、その足で木曾街道を一気に京都までのしたはずであります。山崎譲はその以前、同じく甲府の神尾方へ立寄って、それから道を枉(ま)げて奈良田の温泉に入っている時に、計らず机竜之助――それは新撰組では吉田竜太郎の変名で知られているその人に逢いました。そこで竜之助と別れて後、上方(かみがた)へ馳(は)せつけたはずであります。また南条と五十嵐との両人も、何か上方の変事を聞いて大急ぎで東海道を馳せ上ったはずであるから、彼等は期せずして上方の地で一緒になったものでしょう。そうして、がんりきは南条、五十嵐らにつかまってその用を為すに至り、七兵衛は山崎譲につかまって、何かの手助けをせねばならぬ因縁が結ばれたものと思われます。
「先生、あなたも少々お頭(つむり)を捻(ひね)ってごらんなさい、すぐにそれとおわかりになることじゃございませんか」
「なに、貴様にわかって、拙者にわからんことがあるものか」
と言って、改めて甲源一刀流の開祖、逸見太四郎義利の文字から読みはじめて、門弟席の第一、比留間、桜井、その次の白紙の主を、紙背に徹(とお)るという眼光で見つめていたが、突然、
「ははあ、なるほど」
 小膝を丁(ちょう)と打ちました。
「それごらんなさいまし」
 七兵衛は得意の微笑を浮べると、山崎の面(かお)には一種の感激が浮びました。
「あれだ、あの男だ、そうか、なるほど……いやあの男には、拙者も重なる縁がある、大津から逢坂山(おうさかやま)の追分で、薩州浪人と果し合いをやっている最中に飛び込んだのは、別人ならぬこの拙者だ。壬生や島原では、かけ違って、あまり面会をせぬうちに、組の内はあの通りに分裂する、芹沢が殺されて、近藤、土方が主権を握るということになったが、その後、あの男の行方(ゆくえ)がわからぬ、そうしているうちに、思いがけないにも思いがけない、甲州の白根山の麓、ちっぽけな温泉の中で、あの男を見出した、かわいそうに、目がつぶれていたよ、盲になって、あの温泉に養生しているのにぶっつかったが、その時は涙がこぼれたなあ。あれは甲府の神尾主膳へ紹介しておいたなりで、拙者も忙しいから上方へのぼって、今まで忘れていたようなものだ、ここであの男に会おうとは意外意外」
 山崎譲は額面の上を仰ぎながら、感慨に堪えないような言葉で、こう言いました。
「おや、そうでございましたか。実はあの時分、私共も、あの方を尋ねて富士川口から甲州入りをしていたんでございますが……とうとうお目にかかることができませんでした」
 七兵衛はこう言って、何の気もなしに縁台の薄べりへ手を置いた時に、何か手先にさわるものがありました。
 指の先へ触ったものを、なにげなく眼の前へ抓(つま)んで来て七兵衛は、
「おや」
 物珍しそうに、それをじっと見込みました。
「先生、先生」
「何だ」
「や、こいつはいい物が手に入りましたぜ」
「いい物とは何だ」
「これでございます、こんないい物が手に入るというのは、天の助けでございますな、お喜び下さい」
「何のことだか、拙者にはわからん」
と言って山崎譲が、七兵衛の手に抓(つま)み上げたものを見ると、それは径一寸ばかりの真鍮(しんちゅう)の輪にとおした、五箇(いつつ)ほどの小さな合鍵でありました。
「おいおい、お爺(とっ)さん」
 七兵衛は山崎譲にその合鍵の輪を渡して、自分は甘酒屋の親爺を呼びました。
「はいはい」
「もうちっと先に、これこれのお客が、お前さんのところへ見えなかったかい。これこれではわかるまいが、ちょっと小いきな男で、片腕が一本無えんだ……身なりは、これこれ」
 老爺(おやじ)は慌(あわ)ててそれを引取って、
「ええ、ええ、間違いございません、確かにおいでになりました、たった今でございます、小一時(こいっとき)ほど前のことでございます、ここで甘酒を召上りになって、角兵衛獅子に散財をしておやりなすった親分がそれなんでございます、その通りのお方でございました」
「そうだろう、そうなくっちゃならねえのだ……先生、そいつはがんりきの奴の道具でございます、あいつ、何かに狼狽(あわて)たと見えて、ここへこんなボロを出して行ったのが運の尽きですな」
「なるほど、そうしてみるとよい獲物(えもの)だ」
「爺さん、それからどうしたい。その片腕の男は、角兵衛に散財をして、それからどっちの方へ出て行きました」
「エエ、なんでございます、多分、お山を御見物でございましょう。お帰りにお寄りになるとおっしゃったから、金洞山(こんどうざん)から中(なか)の岳(たけ)の方をめぐって、そのうちには、また私共へお戻りになるでございましょうと思います」
「そうしてその男は、一人っきりだったかね、それとも連れがあったかね」
「左様でございます、おいでになった時はお一人でしたが、お出かけになる時は、どうもあれはお連れでございましょうか、それとも別々なんでございましょうか、よくわかりませんが、強力が五人ほど一緒に連れ立って参りました」
「それだ」
 山崎譲が、その時に足を踏み鳴らしました。
「どうやら、先生のおっしゃった通りの筋書でございますな」
「そうだろう、どのみち、それよりほかにはないんだ」
「それでは、出かけようじゃございませんか」
 七兵衛から促(うなが)されて、山崎譲は、
「まあまあ、待て」
 甲源一刀流の額面を仰いで、何をか一思案の体(てい)に見えました。
 七兵衛が草鞋(わらじ)の紐を結んでいると、額面を仰いでいた山崎は、
「ちょっ、どう見ても癪(しゃく)にさわるなあ」
と舌打ちをしました。
「全く、あいつは、小癪にさわる奴でございますよ。そもそも、私共が、あいつと知合いになったのは、東海道の薩□峠(さったとうげ)の倉沢で鮑(あわび)を食った時からでございますがね、その時から、あいつは無暗に、私に楯(たて)をついてみたがるんで、私が三里歩けば、あいつは五里歩いて見せようという意地っ張りがどこまでも附いて廻って、とうとうあの片腕を落すまでになったんでございます。それでも持って生れた性根(しょうね)というやつは、なかなか直るもんじゃなく、私が先生について一肌脱ごうということになると、あいつが、いい気になって、浪人たちの方へ廻り、ああやって意地を見せようというんですから、全く始末の悪い奴ですよ。ナニ、大した悪党じゃございませんが、ずいぶん小癪にさわるいたずら野郎でございます」
 七兵衛は草鞋(わらじ)の紐を結び換えながら、こんなことを言うと、額面を仰いでいた山崎が、何か四方(あたり)を見廻して、額堂の軒に立てかけてあった二間梯子のあたりへ横目をくれながら、
「そのことを言っているのじゃねえ……七兵衛、ちょっとその手拭を貸してくれ。爺さん、この手桶を、こっちへ出してくれねえか」
「へえへえ」
 甘酒屋の親爺(おやじ)は言われるままに、柄杓(ひしゃく)の入った手桶を取って山崎の前へ提げて来ると、山崎譲は柄杓を右の手に取って、左の手で、七兵衛から借受けた手拭を、少し長目に丸めてザブリと水をかけ、さいぜん横目にながめていた二間梯子のところへ行って、それを右の手に抱え込んで、甲源一刀流の掛額のところに立てかけました。梯子を立てかけた山崎譲は、左手に濡手拭をさげたままでドシドシと梯子を上って行くから、
「旦那、何をなさるんでございます」
 甘酒屋の親爺が仰天すると、梯子を一段だけ踏み残して上りつめていた山崎譲は、背伸びをして、その甲源一刀流の大額の、門弟席の初筆から三番目の張紙の上へ、グジャグジャに濡れていた手拭を叩きつけたから、
「先生、ナ、ナニをなさるんで」
 七兵衛もまた、甘酒屋の老爺と同じように慌(あわ)てました。
「この男をこうしておくのが癪にさわるんだ、開眼導師(かいげんどうし)には、水戸の山崎譲ではちっと不足かも知れねえ」
 濡らしておいた張紙をメリメリと引きめくると、その下に隠れていたまだ新しい木地の上に、ありありと現われたのはなるほど、机竜之助相馬なにがしの文字であります。

         十二

 その前後のことでありました、碓氷峠(うすいとうげ)の横川の関所から始まって、同心や捕手が四方へ飛びましたのは。
 聞いてみると、それはこんなわけです。昨夜、加州家の宰領の附いた荷駄(にだ)が二頭、峠を越えて坂本の本陣まで着いたことはわかっているが、それから以後の行動が明らかでないということです。馬だけは確かにつなぎ捨てられてあるが、馬の背にのせた若干の荷物と、それに附添った侍と馬方との行方(ゆくえ)が、わからないとのことです。
 取調べてみると、たしかに加州家の荷物で、北国筋からかなり長い旅路を送られて来たことも確かです。ただ問題になるのは、そののせられて来た荷物です。或いは金箱をかなり多く、何万というほどの額(たか)を積んで来たものだろうという説もあります。また、それは金子(きんす)ではなく、火薬の類(たぐい)だろうという説もありました。ここには例の加州家の鉄砲倉もあることだから、或いはそれに要する火薬の類を運送して来たのではなかろうかという説によって、鉄砲倉や、煙硝蔵(えんしょうぐら)を調べて見たけれども、そこにはなんらの異状もありません。
 その評定半ばのところへ、上方から飛脚が飛んで来て、はじめてこの事件の性質がわかりました。それは火薬ではなく金。その金額は二万両。それはこういうわけです。
 これより先、水戸の家老、武田耕雲斎が大将となって、正党の士千三百人を率いて京都に馳(は)せ上り、一橋慶喜(ひとつばしけいき)に就いて意見を述べようとして、奥州路から上京の途につきました。その途中を支える諸大名の兵と戦いつつ、ついに加賀藩まで行ったけれど、そこで力が尽きて降参し、耕雲斎をはじめ、重(おも)なる者はことごとく加州領内で殺されることになり、藤田小四郎もその時に斬られた一人であります。ともかくもこれらの志士を、北国の雪の中に見殺しの悲惨な運命に逢わせたその責めは、誰に帰(き)すべきものであるか知れないが……その時に行方不明になった若干の軍用金が、ここの問題になる金なのであります。その以前、筑波(つくば)騒動の時、武田伊賀守(耕雲斎)が幕府へ向けて、騒動を鎮めるための軍用金として借受けた三万両の金がありました。その借用証は伊賀守一人の印で受取って、三万両のうちの一万両は小石川の水戸家の蔵へ納めました。けれども、あと二万両の金の行方が誰にもわからないのであります。或る者はすでに筑波騒動以来の軍用に費(つか)ってしまったとも言い、或る者は北国まで上る長の路用に尽きてしまったとも言い、或る者は、まだ他日に備えるために耕雲斎や藤田の手許(てもと)に最後まで残してあったのを、いよいよ殺されるときまった前に、不意にその金を受渡してどこへか運んで行ったものがある、今となって見ると、その二万両が、たしかにあの二頭の馬の背に積まれて、五人の人に護られて、碓氷峠を越えたのだということが、有力な観察でありました。
 さて、この二万両の金と、ほかに重要な荷物の多少が、ここからどこへ運ばれて何に使用されるのか……問題はそれで、同心や捕方が四方に飛んだのもその探索のためであります。
 その晩、夜通しで、信濃と上野(こうずけ)の境なる余地峠(よじとうげ)の難所を、松明(たいまつ)を振り照らして登って行く二人の旅人がありました。
 前なるは七兵衛で、後のは山崎譲であります。棒を取っては腕に覚えの山崎譲も、足においてはとうてい七兵衛の敵ではありません。一夜に五十里の山路を、平地のように飛ぶ七兵衛が先に立っての案内ぶりは、子供のあんよを気遣っているようなものです。峠の上で、
「七兵衛、一休みやらんことには、もう歩けぬわい」
 山崎が弱い音(ね)を吹くと、
「もう少しお降りなさいまし、いいところを見つけて焚火を致しましょう」
 山間(やまあい)へ来て、枯木を集め、松明の火をうつして焚火をはじめ、
「先生、まだ私にはよくわかりませんがなあ、その五人の強力(ごうりき)というのはいったい何者なんでございます、それほど大事なものを持って、わざわざこんな道を潜(くぐ)り抜けて甲府へ落着こうというのは、何かよくよくの謀叛(むほん)でもあるんでございましょうな、ひとつその辺のところをお聞かせなすっておくんなさいまし」
 七兵衛からこう言って尋ねかけられた時に、山崎は頷(うなず)いて、
「うむ、もっともな不審だ、お前から尋ねられなくても話そうと思っていたところだ。その五人の強力というのは、素性(すじょう)はまだよくわからないのだが、それはたしかに中国から九州辺の浪人だ、なかには容易ならん大望を持った奴がある。容易ならん大望というのは、隙を見て、甲府城を乗取ってしまおうという計画なのだ。甲府の城は名だたる要害の城で、徳川家でも怖れて大名に与えずに天領としておくところだ、それを乗取れば関東の咽喉首(のどくび)を抑えたということになるのだ。その五人の強力に化けた奴は、たしかにその一味の者共だ。そうしてあいつらが、坂本の宿へ馬を置きっ放しにして姿を晦(くら)ましたのは、言わずと知れた妙義の裏山から信州へ出て、山通しを甲府へ乗り込む手順に違いない。それからお前の兄弟分だとかお弟子だとかいう、そのがんりきとやらが甲州者で道案内だと聞いて、いよいよそれを確めてしまったのだ。あいつらの携えている荷物というのは、水戸の武田耕雲斎が幕府から借りた三万両のうち、二万両がそっくりあるはずだ、それがあいつらの事を挙げる軍用金になるのは知れたことだ。ことによると、山通しをいよいよ甲府へ出るまでには、仲間の奴等がどこから出て来るか知れたものじゃない。まあしかし、落着くところは甲府ときまっているんだから、追蒐(おいか)けるにも、そう急ぐことはないや、あいつらに気取られるとかえってことが面倒になるから、気をつけて案内してくれよ」
 それを聞いて七兵衛が、しきりに感心して、
「なるほど、そりゃちっと、こちとらのやる仕事より大きいや、甲府の城を乗取って、お膝元を横目に見ながら、天下をひっくり返そうというんだから、出来ても出来なくっても、仕掛けが小さくはございませんな。よろしうございます、向うがその了見(りょうけん)なら、こっちもそのつもりで、先生の御用をつとめてつとめて、ぶちこわし役に廻るのも面白うございますね、ずいぶんやりましょう」

         十三

 相生町の老女の家の一間で、行燈(あんどん)の下(もと)に、お松は兵馬の着物を畳んでおりました。
 いつも元気で快活なお松が、このごろ、しおれているのが眼に立つほどで、今も着物を畳みながら、眼にいっぱいの涙をたたえております。
 今日も兵馬の留守中、用ありげに来た二人の客があります。その一人は、甲府からついて来たあのいやらしい金助という男で、あれがこの間、兵馬をはじめて吉原へ連れて行った男であります。あの男が来るたびに兵馬さんは落着かなくなって、その都度(つど)、お金の心配をなさるような御様子がありありとわかるのである。夜更けになってお帰りなさることもあるし、また、どうかすると一晩泊ってお帰りになることもあるが、そのお帰りになった後のお面(かお)の色は、打沈んで、太息(といき)をついておいでなさるのが、今までの兵馬さんとはまるっきり違う。
 もう一人の来客は、たしか刀屋であると言っていたが、もしや兵馬さんが御所持の腰の物を、あの刀屋にお払い下げになるつもりではあるまいか……そんならばほんとうに一大事。
 それを思うと、覚えず涙が眼の中にいっぱいになって、幾度も着物を畳み直しているうちに、ふとその袂(たもと)の中から、読み捨てた一封の手紙が、何か物を言うように綻(ほころ)び出しました。
 お松は、はっとして、その手紙を手に取り上げて見ると女文字です。ひろげて見ると、嫉(ねた)ましいほどに手ぎわよく書いてあって、文言(もんごん)は読まない先に、その水茎(みずぐき)のあとの艶(なま)めかしさと、ときめく香が、お松の眼をさえくらくらとさせるようでありました。お松は、一種の口惜(くや)しさがこみ上げて、手紙を取る手がワナワナとふるえました。
 その時に、廊下で人の足音がします。
「お帰りなさいませ」
 そこへ帰って来たのは兵馬であります。お松は慌(あわ)てて、あの艶(なま)めかしい手紙を自分の懐ろへ押入れて、兵馬の前へ丁寧にお辞儀をしながら、そっと涙を隠しました。
「そうしておいて下さい」
「あの、兵馬様、今日はお留守中に、お客様が二人おいでになりました」
「来客が二人、そうしてそれは誰と誰?」
「一人は、いつもの金助さんでございますが、もう一人は、久松町辺の刀屋だとか申しておりました」
「ははあ、刀屋が来ましたか。それから、金助は何と言いました」
「あの方は何とも申しません、ただ、わたしに向って、このごろはさだめてお淋しうございましょうと、笑いながら言いましただけでございます」
 こう言ってお松は、伏目になりました。
「ははあ……何を言うのかあいつの言うことは、取留まったものではない」
 兵馬はやはり、淋しき笑いに紛(まぎ)らわそうとするらしいが、
「兵馬様」
 そのときお松は、屹(きっ)と心を取り直したように面(かお)を上げて、兵馬の名を呼びました。
「何でござる」
「あなた様は、このごろ、どちらの方へ多くお出かけになりまする」
「何を改まって、そのようなことをおたずねなさる」
「いいえ、わたくしは、それをお伺い致さねばならないほど、このごろは、ほんとに気が弱くなってしまいました」
「そなたの言うことが、わしにはよくわかりませぬ。拙者(わし)のこのごろの出先といって、その目的は、そなた存知の通りなれど、出先はやはり今日は東、明日は西、どこときまったことなく江戸の天地を、四角八面に潜(くぐ)り歩いているようなものじゃわい」
「それならよろしうござんすけれど、わたくしのこのごろお見受け申すあなた様は、前のあなた様とは別のお方のようでございます、それが悲しうございます」
「ナニ、拙者(わし)が以前とは別な人のようになった……ははあ、そなたの眼に左様に見えますか」
「ええ、ええ、失礼ながら、これまでのあなた様は、どんな艱難にお逢いになっても、お心の底には強いところが確乎(しっかり)としておいでになりましたけれど、このごろは、それがゆらゆらと動いておいであそばすようにばかり、わたくしの眼には見えてなりませんのでございます、お出ましになる時も、帰っておいでになる時も、あなた様のお面にも、お心持にも、おやつれが見えるばかりで、昔のような落着きというものが、一日一日になくなっておいでなさるように見えますのが、わたくしには悲しくてなりませぬ」
と言ってお松は、涙をこぼしました。

 その晩はお松は、こし方(かた)や行く末のことを考えて、いまさら、人の心の頼みないことを、しみじみと思いわびて眠れませんでした。
 懐ろへ入れて来たあの女文字の手紙を取り出して読み返してみると、舌たるいような言葉で、ぜひぜひ今宵のおいでをお待ち申し上げますというような文言であります。女の名は東雲(しののめ)とあって、宛名は片柳様となっていました。片柳の名は、兵馬が好んで用うる変名であり、東雲というのは、吉原のなにがし楼かにいる遊女の源氏名に違いない。お松はそれが悲しくもなり、腹立たしくもなって、その手紙を引裂いてやろうかと思いました。
 その遊女も憎らしいけれど、兵馬さんほどの人が、どうしてまたそんな狐のような女に、脆(もろ)くも溺れるようになったのか、あの人の心に天魔が魅入(みい)ったと思うよりほかはなく、それが口惜(くや)しくて口惜しくてなりません。といって、よく考えてみれば、こうして自分というものがお傍におりながら、そんな仇(あだ)し女に兵馬さんの心が移るようにしたのは、やはり自分が足りないからだと思うと、どうも残念でたまりません。どうかして、再び兵馬さんの心を、その女から取り戻さなければならないが、あちらは人を誑(たぶらか)すことを商売にしている人。その腕にかけては、とても太刀打ちのできないわたしであるかと思うと、お松は曾(かつ)て知らなかった嫉(ねた)ましさに、身悶(みもだ)えをさえするのでありました。寝られないから、お君の病気の容態を見舞に行って気を紛らそうと廊下へ出ると、兵馬の部屋の中で、
「へえ、それはもうお買戻しになりまする節は、手前共にございまする間は、いつでも仰せに従いまする、また他の品とお取替えになりまする場合にも、せいぜい勉強致しまして、お使いを下さいますれば、早速お伺い申し上げまする」
と言っているのは、刀屋の番頭らしくあります。
 それを耳にした時も、お松は胸を打たれました。それでは、大切のお腰の物をお放しなさる気になったのか、それほどお入用(いりよう)の金ならばわたしの手で……と思いましたけれども、実は、このごろの自分は、もう貯えのお金とても無いし、自分が持っていないのみならず、お君さんにも、また御老女様にも借金までしてある、その借金はみんな、よそながら、あの人の困る様子を見るに見兼ねて融通して上げたお金であるが、今のところ、返さなくてはならないというほどの義理があるのではないけれど、なるべく早く、なんとかして返して上げたいものだと思っているくらいだから、この上、あの人たちに無心ができるものではない。
 といって、あの人が、みすみす武士の魂という腰の物までも手放そうとなさる今の場合、そのお力にもなれない自分の身の意気地のないことが思われてなりません。お松はそこで、もうお君を見舞に行くほどの勇気もなくなって、さあ、なんとかして、たった今あの刀屋を帰さないようにして上げる手段はないものかと、また自分の部屋へ取って返したけれども、もう所持品にしても、さして金目のあるものはなく、ただ蔵(しま)ってあるのは着物だけであるけれど、それとても、今宵の間に合うのではなし、ああ、こんな時にあの七兵衛のおじさんが来てくれたならと、あてのない人を空頼(そらだの)みにして、とうとう夜を明かしてしまいました。

 翌朝になってみるとお松は、また兵馬に対して、どうやら済まない心持になりました。
 それで、廊下を通りがけに兵馬の部屋を訪れてみると、もうその時に兵馬はそこにおりませんでした。お松は、せっかく、しおらしい心に返ったのが、またむらむらと抑えきれない不快の心に襲われて、足早にそこを立去ろうとするところへ、なにげない面(かお)をしてやって来る一人の男に、ハタと行当りました。
「お早うございます」
「おや、お前は金助さんではないか」
「はい、その金助でございます」
 お松も、小面(こづら)の憎いイヤな奴と思いながらも、何か尋ねてみたい気になって、
「金助さん、宇津木さんはおりませんよ、何か御用なら、わたしが承っておきましょう」
「左様でございますね、別に御用ってほどのこともねえでございますがね、それではこれでお暇(いとま)を致しましょうか知ら」
「あの、金助さん、お前さんに御用がなければ、わたくしの方にお聞き申したいことがあるのですけれど、ちょっとあちらまで来て下さいませんか」
「へえ、お松様、あなた様から何か私に御用があるとおっしゃるんですか、よろしうございます、そうおっしゃられるといやと申し上げるわけにも参りませんな、お邪魔を致しましょう」
 金助は恩にきせるような言い方をして、お松のあとに従って、長い廊下の奥へ行く途中で、
「なるほど、結構なお邸でございますな、ははあ、こちらの障子が霞でございますな、欄間(らんま)の蜀江崩(しょっこうくず)しがまた恐れ入ったものでげす、お床の間は鳥居棚、こちらはまた織部(おりべ)の正面、間毎間毎の結構、眼を驚かすばかりでございます、控燈籠(ひかえどうろう)の棗形(なつめがた)の手水鉢(ちょうずばち)、あの物さびたところが何とも言われません、建前(たてまえ)にこうして渋いところを見せ、間取りには贅(ぜい)を凝(こ)らしておいて、茶室や袖垣のあんばいに、物のさびというところをたっぷりとあしらったところなどは実際憎うございますよ。おやおや、大した石燈籠、こりゃ本格ですよ、橘寺形(たちばなでらがた)の石燈籠、これをそのまま据えたところなんぞは、飛ぶ鳥も落すようなものでげす、十万石以上のお大名でもなけりゃ出来ません。全く驚きました、表からお見かけ申したんじゃ、これほどのお住居(すまい)と気のつくものはございません」
 金助は相変らず歯の浮くような追従(ついしょう)を並べて、四辺(あたり)をキョロキョロ見廻しながら、お松に導かれて廊下を歩いて行きます。

         十四

 その時分、お君はムク犬を連れて、奥庭を歩いておりました。
 いつぞやのように打掛(うちかけ)こそ着ていないけれども、寝衣姿(ねまきすがた)のままで、手には妻紫(つまむらさき)の扇子(せんす)を携えて、それで拍子を取って何か小音に口ずさんで歩いて行くと、それでも例によってムクは神妙にあとをついて、築山(つきやま)の前の芝生まで来ました。
「ムクや、お前とここで投扇興(とうせんきょう)をして遊びましょう、わたしが投げるから、お前、取っておいで」
 こう言ってお君は、手にしていた扇子を颯(さっ)と開いて投げました。扇子は流星のように飛んで彼方(かなた)の芝生の上に落ちると、ムクはユラリと身を躍らして一飛びに飛んで行き、要(かなめ)のあたりを啣(くわ)えて、開いたなりの扇子を、再びお君の手に渡します。
「おお、よく持って来てくれました、お前はほんとによい犬だ、わたしのムク犬や、もう一度、投げるから取っておいで、いいかい、今度は、下へ落ちないうちに受けるのですよ」
 開いてあったその扇子を、ピタリと締めて、お君はそれを空中高く投げ上げました。
「さあ、下へ落ちないうちに」

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