大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

 手拭で面を拭いてしまった竜之助は、その手拭を腰にはさんで、盥(たらい)の水を流しへザブリとこぼし、それからまた手探りで釣瓶を探って、重そうに水を釣り上げると、それを盥にあけておいて、縁側の方へ歩いて行く。
「ふーン、ばかにしてやがる」
 米友がその後ろ姿に冷笑を浴びせている間に、竜之助は縁側まで行くと、そこへ絡(から)げて置いた両刀を携えて、井戸端へ帰って来るのであります。そうして、刀の柄(つか)だけをザブリと盥の中へ入れて、それをしきりに洗っているもののようです。柄だけを洗っているのか、或いは中身の血のりでも落しているのか、そこは井戸側の蔭になって、よく見ることができませんけれども、やがて、すっくと立ち上って、両刀を小腋(こわき)にして、憂鬱極まる面(おもて)をうなだれて、悄々(しおしお)と縁側の方に歩んで行く姿を見ると、押せば倒れそうで、いかにも病み上りのような痛々しさで、さすがの米友が見てさえ、哀れを催すような姿なのであります。
「あいつは幽霊じゃねえのか知ら、どうもわからねえ」
 そんな、やつやつしい姿で縁側のところまで辿りついた竜之助は、そこへ両刀をそっとさしおいて、日当りのよいところの縁側へ腰をかけました。だから、ちょうど、米友の覗いている節穴からは正面にその姿を見ることができます。その蒼白(あおじろ)い面(かお)を、うつむきかげんに、見えない目で大地のどこやらを注視しながら、ホッと吐息をついている。その呼吸までが見るに堪えないほどの哀れさであるけれども、日の光は、うららかといっていいくらいのかがやいた色で、この人のすべてを照らしておりました。
「おや?」
 この時に、また米友を驚かせたものがあります。それは、今まで自分の身の辺(まわり)にいたムク犬が、いつのまにどこをくぐってか、もう庭の中へ入り込んでいて、しかも、極めて物慕わしげに、竜之助の傍へ寄って行くことであります。
 ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ跪(ひざまず)きました。
 竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている体(てい)です。
 これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に懐(なつ)くような犬ではない。彼は善人を敵視しない代りに、悪意を持った者に対しては、ほとんど神秘的の直覚力を持った犬であります。まあ、伊勢から始まって、この江戸へ来ての今日、ムクがほんとうに懐いている人は、お君と、おいらと、それからお松さん――その三人ぐらいのものだと思っている。しかるに、いま自分の傍を離れて、かえって、見も知りもせぬ、あの奇怪極まる盲者(もうじゃ)の傍へ神妙に侍(はべ)っているムクの心が知れない。
 米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに惑(まど)わしくなりました。声を立ててムクを呼び立ててみようとして、身を屈(かが)めて、手頃の小石を拾い取るや、右の手をブン廻すと、小石は風を切って庭の中に飛んで行きました。
「誰だ、いたずらをするのは」
「おいらだ、おいらだ」
 米友は百日紅(さるすべり)の枝を伝って、塀を乗り越してやって来ました。米友の投げた小石をそらした竜之助は、刀を抱えて、障子をあけて、家の中へ入ってしまいました。
「ムク」
 そのあとで、徒(いたず)らに眼をパチパチさせた米友は、持っていた杖の先でムクの首のあたりを突いて、
「お前は家へ帰れ」
 そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、
「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」
 それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、
「おい先生、お前、昨夜(ゆうべ)はどこへ行った」
 その言葉は、米友としても突慳貪(つっけんどん)であります。
「どこへも行かない」
「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり手証(てしょう)を見たんだ。お前は、昨夜辻斬をしたな」
「そんなことがあるものか」
「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだから。初めは、どうも本気になれなかったんだが、昨夜という昨夜は驚かされちまった」
「誰がそんなことを言った」
「誰が――呆(あき)れ返っちまうな、あんまり白々しいんで呆れ返っちまうよ、現在、おいらが実地を見届けてるんだ、お前はいったいどういう了見(りょうけん)で、あんなことをやったんだ、さあ、返事を聞かせてくれ、返答によっちゃあ、こっちにも了見があるぜ」
「友造、お前の了見というのは、そりゃどういう了見なのだ」
「どういう了見だってお前、無暗に人殺しをする奴は、そのままには置けねえじゃねえか」
「そのままに置けなければどうするのだ」
「ちぇッ」
 米友は舌打ちをして、足を二つ三つ踏み鳴らしてから、
「俺(おい)らも槍が出来るんだぜ、槍が」
 この時も、その持っていた手槍で、焦(じ)れったそうに畳を突き立てました。
「友造、友造どん」
「何だ」
「お前は先年、甲府にいたことがあるだろうな」
「何を言ってるんだ、甲州へ行っていたことはあるよ」
「その時な」
「うん」
「ある晩のことだ」
「なるほど」
「正月のことだったろうな、寒い晩だ、それに怖ろしく霧の深かった晩なのだ、その晩に甲府の城下に、破牢のあったのを知ってるだろうな、牢破りの」
「知ってる、知ってる、それがどうしたんだ」
「その晩に、お前は甲府の町を、その手槍を担いで一文字に飛び歩いていたろう」
「それに違えねえ」
「その時だ――その時に、お前は命拾いをしているのを忘れやすまいな」
「命拾い? 命拾い?」
 米友は、そう言われて仔細らしく小首を傾けたが、ハタと自分の頬(ほっ)ぺたを打って、
「うむ、あれか」
「友造どん、あの時から、わしはお前を知っている」
 こう言われた時に、米友が再び躍り上って、
「この野郎!」
と一喝(いっかつ)しました。ここでこの野郎と言った意味はなんだかよくわかりませんが、今まで気のつかなかった疑問が、一時に解け出したような狼狽の仕方で、米友が、
「やい、起きてくれ、起きてくれ、ももんじいを煮て酒を飲ませるから、起きてくれ」
 机竜之助は蒲団(ふとん)をかぶって、あちらを向いて寝ました。
 ももんじいと酒とで、米友が誘惑を試みようとしても、起きる気色(けしき)はありません。
「友造どん、甲府でやった辻斬も、このごろ出歩いてやる辻斬も、みんな拙者の仕業(しわざ)だ、あのとき以来、斬ろうとして斬り損ねたのは、お前ぐらいのものだ、このごろもどうかすると、お前を斬ってみたいとも思うが、お前がいないと世話をしてくれるものがないからな」
「冗談じゃない」
 米友は眼を円くして、
「恩に被(き)せなくってもいいやな、斬れるものなら、斬ってもらおうじゃねえか」
と言いながら、米友は枕屏風の上から、そろそろと竜之助の枕許(まくらもと)へ這(は)い寄って来ました。
「おっと、危ない」
 竜之助は寝ていながら、その片手を伸べて、枕許の刀を押えました。
「おい、先生」
「何だ」
「起きてくれ」
 米友は蒲団の上から、寝ている竜之助をゆすぶりました。
「聞きてえことがあるんだから起きてくれ、野暮(やぼ)を言うところじゃねえ、お前ほどの腕の者が、人を斬ったからって、それを今ここでかれこれ言うような俺(おい)らじゃねえんだ。斬っていい奴もあるし、斬られちゃ悪い奴もあるんだ、斬られて浮べねえ奴もあるし、斬られて冥加(みょうが)になる奴もあるんだ、はばかりながら宇治山田の米友も、槍にかけては腕に覚えがあるんだぜ、覚えがあるから、こう言っちゃ悪かろうわけはねえんだ。筋が立つところなら、百人でも千人でも斬りねえな、米友も斬りたくなったらずいぶん斬られて上げましょうさ。もし、筋が立たなけりゃ、おいらは、もうお前と一緒にいるのは御免だ、ことによったら、おいらがお前の命を取るぜ、あったらお前を、一人で、こんなところへ抛(ほう)りっぱなしにして置いて、のたれ死をさせるのも業腹(ごうはら)だからなあ」
 米友はこう言って、竜之助の枕許で腕組みをしました。
「済まない、友造どん、お前にはなんとも済まないことだが、筋が立つの立たぬのというたちの仕事ではないので、拙者というものは、もう疾(と)うの昔に死んでいるのだ、今、こうやっている拙者は、ぬけ殻だ、幽霊だ、影法師だ。幽霊の食物は、世間並みのものではいけない、人間の生命(いのち)を食わなけりゃあ生きてゆけないのだ、だから、無暗に人が斬ってみたい、人を殺してみたいのだ、そうして、人の魂が苦しがって脱け出すのを見るとそれで、ホッと生き返った心持になる。まあ、筋を言えば、そんなようなものだが、このごろはそれさえ、根っから面白くなくなったわい、人を斬るのも、壁を斬るのと同じようにあっけないものじゃ。辻斬が嫌になったら、その時こそ、この幽霊も消えてなくなるだろう、まあ、それまでは辛棒(しんぼう)していてくれ」
 竜之助は寝返りも打たないで、洒然(しゃぜん)としてこう言ってのけました。
「うーむ」
 枕許に腕を組んでいた宇治山田の米友が、それを聞いて深い息をして唸(うな)り出したが、頓着せず、
「友造どん、お前の槍の手筋はどこで習ったか知らないが、まるで格外れで、それで、ちゃんと格に合っているところが妙だわい。拙者の如きは、これでも幼少より正式に剣を学んだのじゃ、先祖以来の剣道の家に生れて、父と言い、師と言い、由緒の正しいものだ。拙者だけは破格だ、師に就いたけれども師がない、型を出でたけれども型が無い、一生を剣に呪われたものかも知れぬ、生涯、真の極意(ごくい)というものを知らずに死ぬのだ、もし、神妙というところがあるなら、それを知って死にたいものだがな」
 竜之助は平然として、こんなことを言い出したが、今日はその述懐に、多少の感慨があるようです。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:202 KB

担当:undef