読書法
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著者名:戸坂潤 

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 10 『日本科学年報』の自家広告


 岡邦雄氏と私とが編集者ということになっている『日本科学年報』一九三七年版(改造社)が今回出版された(三七年六月)。この際多少自家広告をしておきたく思う。一月程前に出る筈だったのを、編集者側と出版者側との夫々の都合でおくれたので、文芸年鑑其の他よりも一月後になったのは残念だったが、来年度からは用意を手回しよくして出版の時期を早めたいと考える。
 初め『年鑑』という名にする心算であったが、経費と時間との関係で便覧風の調査が出来にくかったので、もっとアカデミックな名の『年報』としたわけである。実際に編集に当ったのは唯物論研究会の多数の会員幹事達其の他であって、特に石原辰郎氏の努力を多としなければならぬ。ただ唯物論研究会の第一義的な仕事と銘打っては多少憚りありというので、岡氏と私との編集名義になったのである。すると岡氏や私などは少し割が合わないことになるわけだが、併し又、岡氏と私とだけで編集したらばこの程度のものには決してなれなかったのだから、吾々は(少なくとも私はだ)寧ろ得をしているものだということを告白する。
 ここで科学というのは、独り自然科学だけではなく、社会科学(乃至歴史科学)と哲学とを含み、且つ芸術・文化・理論をも含む。総合的で且つ観点の原則が貫徹している点が、本年報の特色であり、又目新しい処であると考える。こういう特色ある年報の類は、之までまず無かったようだ。併しそれだけに又、杜撰を免れないだろう。特に、出来上るまでどういう調子の本になるのかが、どの執筆者にもピンと来ていなかったことが、弱点の源の一つである。少なくとも私自身の場合がそうだった。
 だがひいき眼で見ると、読み物の部分はまあ何とか退屈しないで読める程度だし、見る部分である「アルバイト総覧」は少なくともその分量から云って、努力だけは充分に買って貰えるかも知れない。校正だけでも並大抵ではないのである。寛厳宜しきを得た批判を受けたいと思う。
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 11 心理と環境


 E. S. Russell の The Behaviour of Animals, London の訳『動物の行動・環境』は色々の点で面白い本だ(訳者は永野為武と石田周三との両氏)。簡単に云って了えば動物心理の本であるが、併し大切なのは、動物の心理を、と云うのは結局動物の行動をということに他ならないが、その環境から説明しようとする点にある。否、説明するというよりも、その環境に於て観察するという研究の方法に面白味があるのである。
 単に実験室でやった実験は動物の正常な生態を蹂躙して了う。それでは動物の本当の習性は判らぬ。何でもトロピズムとかタキシスとか云って片づけられて了うことになる。だが所謂トロピズムとかタキシスの多くは、動物が強制的に置かれた異状生態からノルマルな生態に復帰しようという生活全体の必要からの趨向なのであって、その自然な生態の観察からでなくては、この点がハッキリしないと云うのである。
 この考え方はケーラーのチンパンジーに就いての有名な研究と全く同じやり方だ。所謂形態心理学は全くケーラーのこうしたやり方によって実験的な基礎を置かれたもので、ラッセルのも形態心理学の資料として大きな価値があるのである。チンパンジーが色なら色を記憶するのは決して単独な色のあるものとしてではなくて、之と連関している認識対象の或る全体との対比に於てしか記憶していないのだ、という結論を導き出したケーラーの形態心理学は、同時に動物をその形態上の或る全体に於て見なければならぬという方法の結論でもあるのだ。
 本能とか知能というものの観察も当然こういうやり方で行なわれなくてはならぬ。両者の対比と連関とをこの本では具体的に丁寧に述べている。読者はここで又マクドゥーガルの心理学を思い出さねばならぬだろう。――なお形態心理学の研究が盛んなのは九州帝大の心理学教室で、古典的な文献の集録も出版されているし、研究発表や著述も多い。
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 12 「外国人」への注意書


 板垣鷹穂氏の評論集『現代日本の芸術』は、五年前に出た『観想の玩具』以来の最初の出版である。そう云っても実はこの本は、同氏の十八冊目か十九冊目の本だ。それ程氏は多作な評論家である。だが今度の評論集は恐らく従来のもの以上に面白いものではないかと思う。大変実際的な落ち付いた観察を以て終始していることによって、或る一つの纏まったアトモスフェアをハッキリと醸し出している。練達の士のものしたものであることを思わせる。
 寧ろアトモスフェアが出来上り過ぎてさえいないかということが気にかかる程だ。氏の文章にはもはや青年らしい焦慮も野心もない。文化世間での苦労人らしい坦々たる論調と共に長者らしい鷹揚ささえも備わっているのである。元来氏はアカデミックな気むずかしやの一人である。直子女史のアカデミー振りと琴瑟相和す部分もないではないようだ。併し結局氏は批評的精神ではなくて肯定的精神である。世俗的な権威についての最もよい理解者の一人であることにもそれは現われている。落ちつき払って見えるのもそこに原因しているらしい。
 処でこの評論集は異彩陸離たるものがある。都市、流行、建築、文芸、映画、美術、写真、舞台、放送、教育、という十項目の下に、夫々二三篇から二十篇の文章が収められているが、現代日本人の日常生活に於ける芸術形態を、これ程親切に忠実に、紹介批評し、且つ記録したものは、他に殆んどないと云ってもよい。氏には今日では特別のイデオロギーがあるとは云えない。だから氏は単なる記述者であるとも云うことが出来るかも知れない。併し、この記録者が偽りなく記録した結論は、恐らくこういうことになるらしい。曰く、現代日本人の芸術は、歌舞伎でもなければお能でもなく茶の湯でも生花でもない。所謂近代芸術こそがみずからのものと感じている芸術なのだと。色々な意味に於ける「外国人」――日本主義的エキゾティシストをも含む――にそういうことを教えるに有効な本だ。
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 13 古本価値


 散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科学の将来』という小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買った。『ヤソ伝』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブトルーの『自然法則の偶然性』を訳出していたと思う。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂という出版屋から出ている。叢書形式の内の一冊かも知れない。そうすれば半分だけを訳して出すということも、分量の上から云って止むを得ないことだったかも知れない。
 併しそのために、何と云っても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は、何も隅から隅まで目を通さなければならぬ程大事な内容で充満しているわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合わせに過ぎぬと思われる部分も多いが、それにしても訳者も云っている通り、ルナンの其の後の仕事の方針を宣明したものとして、大いに価値のある文献なのだが、それが半分では、全く雑本としての価値しかない。こう古くなって誰も手にとっても見ないようになると、そういう点が特に目に立つ。惜しいことだ。
 同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『変態心理学』というのがある。之はリボーの有名な『記憶の疾患』、『意志の疾患』、『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。そういう加工だけですでに、古本価値のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだろうこの訳書を、私は割合大事に、蔵っておいている。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
 序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与えている。之は私にとっては興味と同情とに値いする点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払っていい。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬようだ。
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 14 文化が実在し始めた


 ミショオの『フランス現代文学の思想的対立』(春山行夫訳――原文は英語)は私にとっては最初から興味のあった本で、読んで見て勿論失望はしなかった。今日一国の文学を論じる以上、之を思想問題として論じなくてはならないのは、当り前すぎるほど当り前なのに、多くは、ただの「文学」(?)の紹介と云った水準のものが、普通の通り相場である。そういうものに対比して、之見よがしに、之を持ち出して来るのも、一興である。
 内容は少しゴタゴタしすぎている。それというのも、出来るだけ沢山の人について書こうとしたためだろう。ただの報告に近いものさえある。そういうニュース的な興味をもう少し節約したならば、文明評論としても生きて来るし、文化の真の報道としてさえも生きて来るだろう。
 巻末の相当分量の付録「人民戦線以後の文学」という春山氏の筆になる文学と政治とのクロニクルは、この書物の意義をよく見抜いた上での補足というに値いしよう。
 この頃私は、文化問題に関する諸国の評論兼報告と云ったものの、纏った本に関心を持っている。今のミショオのもその代表者であるが、国際作家会議報告の『文化の擁護』、国際連盟のインテリジェンス国際協会の記録『現代人の建設』、ミールスキーの『イギリスのインテリゲンチャ』(之はまだ訳が出ていないが)、ロマン・ローランの『闘争の十五年』(ジードの『ソヴェート旅行記』も入れてよい)、等々の纏まったものを買って読みたいという気持である。
 右の本はまだ全部読んでいるわけではないが、それにつけても思い当るのは、「文化」という問題が本当に吾々民衆、と云って悪ければ吾々インテリ大衆、の生活問題そのものにまで高まって来たということだ。
 文化は民衆の自主的なものでない限り、インチキであるという実感がいつとなく、わが国の思想をも捉え始めている。それは今云った出版の情況からさえも知られる。文化は実在し始めた。文化をゴマかしたりマルめたりするデマゴーグの征伐を、そろそろ始めていい時期である。
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 15 科学主義工業に対して


 理研コンツェルンの言論株式会社ともいうべき「科学主義工業社」から、『科学主義工業』という月刊雑誌がこの頃出ている。社長はよく知らないが、恐らく大河内正敏博士だろう。科学主義工業というのは博士が実施している最近の産業哲学であり、同時に工業経営の国家的大方針であるようだ。科学主義工業とは、資本主義工業に対立するのである。
 この論旨を解明するものとして最も興味のあるのが、同博士の『農村の工業と副業』という小さな本だ。本の体裁は一見時局的際物の感があるが、内容はとにかく価値のあるものである。
 科学主義工業の特徴は、高賃金低コストという処にあるという。資本主義工業は、一方に於て出来るだけ低賃金を求める。と共に他方、工業立地に就いて情実や俗間常識に左右されたり何かして、結局高コストについている。その反対が科学主義工業であるという。
 この際の科学主義とは、工作機械や測定機械の高度の機械化、技術化、によって、職工の熟練に俟つ部分を極度に小さくすることである。之によって如何なる不熟練工も、容易に高度の加工工業や最高の精密工業に極めて短時間で熟達出来る。
 更に又、高度の加工精密部分品工業の如きは運賃が相対的に少ないから、コスト計算上、農村工業として最も適切である。それ故これに科学主義を適用すれば、理想的な農村工業となる。之はすでに方々の理研関係の農村小工作場で実験ずみだという。
 科学主義工業の観点に基いて「熟練工」の観念を批判するなどを含めて、甚だ同感であるが、科学主義的農村工業は、なぜ一体高賃金であり得ねばならぬのか。著者は単調無味な労働に耐え得る「農業精神」なるものが、「能率」をあげるのだとも云っている。そして工業精神の侵入は資本主義工業の個人主義を植えつけることで農業精神の破壊だという。之は余り「科学主義」的な表現ではない、素より高賃金の説明にもならぬ。
 農村は低賃金だから、という博士の数年前までの論拠を、今の博士は恥かしいものだと云っているが、それにしても高賃金とならねばならぬという結論は、どうも必然性を欠いている。思うに、低コストはいいとして、高賃金の方は、「科学主義」以外の問題であったに相違ないのだ。
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 □ 論議




 1 現代文学の主流
「文化擁護」問題の報告書――(レジス・ミショオ著・春山行夫訳『フランス現代文学の思想対立』)


 本書については、私はすでに一二の原稿を書いたから、重複は避けたいと思う。この本を読んでまず第一に気がつくのは、フランスに於ける文学なるものが、如何に直接、文化全般と密接な連関に立っているか、ということである。ここでの文学は、哲学や科学や政治と、或るものは意識的に、或るものは無意識的に、だがいずれにしても直接に、関係を持っている。文学が理想であり文化となっている。云わば、思想や文化が文学から理解されるのではなくて文学が理想や文化から理解されねばならぬように見える。
 だから次のような言葉も意味があるわけだ。「フランスの思想は過剰なフランスの文学によって誤導され、腐敗させられたと人はいうかも知れない。事実数多く思想家達は平穏を求めてリリシズムに逃避して了った。このことがロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、及び『勝利』、『聖なる顔』のエリイ・フォール、『人生について』のアンドレ・シュアレスのごとき知的指導者達の失敗の一部を物語っている」云々。
 文学が思想問題として、従って又文化問題として、全幅の意義を発揮しつつあるのは、現代の世界文学の国際的特色であろう。元来、旧くから文学はそういうものであった筈だが、それをハッキリと自覚しなければ文学として安心出来なくなったのは、現代の世界情勢の特徴だ。外交・政治・さえが一方に於ては思想的な課題となりつつある。文化問題としての資格をさえ持って来ている。そのことはつまり、逆に云うと、文化や思想が、それ自身ですでに政治的・外交的・意義を国際的国内的に持つようになったことを意味するのであるが、そこへ文学を持って行くと、文学は正に思想として、文化として、政治や外交と直接関係を生じるのである。フランスに於ける文学のそうした事情を最もよく告げているのがこの書物だろう。
 併しフランス文学がこの関係に於て、吾々に特別の文化的政治的関心を呼び起こすのは、云うまでもなく「文化擁護」運動を介してである。だが之は勿論、決してフランスだけの問題ではなく、又フランス文学だけの問題でもない。世界文化全般が、「文化擁護」という焦点をめぐって、回転している。フランスはその回転軸の一つとなろうとしつつある点に於て、特に代表的なのだ。
 ミショオはアメリカとフランスとの文学に精通したフランス人であり、本書はアメリカで英語で出版したものだ。大体に於て左翼的な進歩主義者であるが、右翼作家(例えばモーリス・バレースやシャール・モラスなど)に対しても充分な理解を示すことによって、却って最後的な批判を加えているとも見ることが出来る。本書は文化擁護問題の一報告書として記憶に値いする。日本の現代文学・芸術・哲学・科学についても、こうした思想的文化的報告書があっていいと思う。かつて土田杏村は英語でこの種の本を一冊出版した(著者自身による邦訳も出ている)。だがこの文化専門家は残念ながら思想的評尺の然るべきものを持たず、批評家に欠くことの出来ない警抜さと烱眼とを持たなかった。真の思想の力関係を見て取ることが出来なかった。そしてまだ、当時は充分そういう機が熟してはいなかった。
 今や吾々は、「文化問題」なるものが今後有つだろう社会的重大性をより一層立ち入って理解しなければならぬ。本書はそういうための刺激となるだろう。
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 2 哲学書翻訳所見


 この間或る人に会った所、日本で出版された科学史の良いものは何かと尋ねられた。私は即答に窮したので、岩波版のセジウィク・タイラーのものや矢島祐利氏の諸著作などを挙げたのだが、質問した人はなぜかあまり満足しなかったようだ。私は一般の心ある読者がどれ程思想の歴史を書いた纏った書物を欲しているかに、又同時に、そうしたものが日本では如何に数が少ないかに、初めて気がついたような気がするのだ。この点、哲学の歴史に就いても大した変りはないが、併しここでは事情はもう少しはいいだろう。
 この頃はユーベルヴェークの大きな哲学史も翻訳されているようなわけで、この方面の読者は愈々恵まれて来たようだ。K・フィッシャーやエルトマンのものも系統的に訳されていい頃だろう。ところで云うまでもなく、こうした科学的な哲学史はヘーゲルに始まるのであるが、ヘーゲルの哲学史は鉄塔書院と岩波書店とから併行して訳出されている。この二つの訳書の特色の比較は興味のあることだろうが、手元にないので出来兼ねる。その代りにヘーゲル哲学史の後継者の一人であるL・フォイエルバハの『近世科学史』が私の注目を惹く(上巻・松本義雄氏訳・政経書院版)。これはヨードルのフォイエルバハ全集に依ったもので、詳しくは、『ベーコンからスピノザまでの近世哲学史』であるが、主としてフォイエルバハがヘーゲルの完全な影響の下に立っている時期の著作と見做されている。だがそれにも拘らず一種の近世唯物論史の観がある所に現在この書物の大きい価値があるのである。
 ところが訳には遺憾ながら感心しない個所が多い。単に読みにくい許りではなく、何か非常識な感じさえしないではない。エリザベス女王の後継者はジェームス一世とあるべき所をヤコブ一世とあったり、スターチェンバーとすべき所を、わざわざシュテルン・カンマーとルビを振ったり、フランシス・ベーコンで通っているのをフランツ・ベーコンとしたりするのも気にかかる。なぜこうドイツ語から一種の直訳を敢えてするのだろう。読者に不親切な訳文と不注意からくる誤植は眼にあまる。――だがこういっても、こういう本の訳の出ないよりは、とに角出た方がいいということは、素直に一般的に強調しておかねばならぬ点だ。多分訳者は文筆上の経験の深くない人と思うが、もう少し時間が経ってから訳を直して見たらばキッと良くなることと思う。
 こういう場合、世間の自称篤学者達は何かというと訳者の「学的良心」といったようなことを口にしたがる。それも無論必要なことに違いはないが、併し翻訳者なり著者なりの仕事の全体から切り離して、又出版屋の資本上の制約からも抽象して、単に之やあれやの書物の出来栄えで人間の「学的良心」を云々することは、全く世間を見る眼を持たぬ非常識だ。『思想』(一九三四年)七月号で畠中尚志という人が斎藤□氏のスピノザ全集の訳を根拠として、斎藤氏について例の「学的良心」を疑っているのも亦、そういう場合の一種ではないかと疑われる。そこでは旧いオランダ語のテキストが問題になっているので、私には内容については全く何の意見も持てないが、仮に畠中氏の指摘した斎藤氏の誤訳や悪訳が全部畠中氏のいう通りにしても、斎藤氏が次号の『思想』で与えている返答の方に依然「真理」があると思う。『思想』の編集者諸氏はこの点どう考えるか。
 古典の翻訳で一寸注目に値いする毛色の変ったものはJ・S・ミルの『社会科学の方法論』(伊藤安二氏訳・杉森孝次郎氏序・敬文堂版)だろう。これはミルの百科辞典的代表作『論理学体系』のモーラル・サイエンスに関する部分(第六巻全体)を訳出したもので、ブルジョア社会科学論の上では極めて大切な古典の一つであることは能く知られている。この本が現在持つべき意義に就いては、必ずしも杉森氏の序文に同意出来ないとしても、この頃読まれていい本の一つだと私は思う。訳も中々良い。
 やはり部分的な訳出だが、ディルタイの『近世美学史』(徳永郁介氏訳・第一書房版)は甚だ手頃な便宜な好訳である。これは全集の第六巻の内「近世美学の三画期と今日の課題」(一八九二)の全訳で、訳文も嫌味のない達文だし、訳注の親切なのも有難い(なお同氏にはE・ウーティツの『美学史要』の訳もある)。
 訳文が達者だといえば、河上徹太郎氏のシェストーフ『虚無よりの創造』(芝書店版)の訳は流石に名訳だ。同じくシェストーフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎氏・阿部六郎氏・訳・芝書店版)の訳も名文だ。正確かどうかは知るところでないが、とに角翻訳であることを忘れて巻を措かずに読ませるものがある。前者は然し木寺・安土・福島・三氏の訳になる『無からの創造』(三笠書房版)と対比させて見ると興味がある。三氏の訳の方は収められた論文の数も遙かに多く、訳文も場合によっては地味に過ぎて生硬であったりするので、あまり読み良くはない。――だが実をいうと、私にはこういったニュヒテルンな性質の訳の方が所謂「名訳」よりも好ましいのである。なぜなら地味な訳は、概念上の連想が却って豊富なために、読むに骨は折れるが思想上の示唆に富んでいるからだ。尤も三笠書房のはもう一段手を入れるとズッと達意なものとなる余地があるとは思うが。
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 3 世界文学と翻訳


 R・G・モールトンの『文学の近代的研究』(本多顕彰氏訳・岩波書店)を曾て私は読んで、第一に興味を惹かれたのは、文学と哲学との交渉に就いてであった。明治以来わが国では、文学と哲学とが殆んど全く絶縁されたような関係におかれている。それは文学が世界観や思想というものから縁遠くなって了っているからばかりではなく、哲学自身が世界観や思想として何等の積極性も自覚していないことから来るのである。だから偶々文学や哲学が何か世界観や思想を強いて持とうとすると、公式的文学観が生じたり、又その対立物として公式呼ばわり的文学論が発生したり、それから止め度もない体験の哲学や生の哲学が発生したりする。そして偶々文学と哲学とを結びつけたと見えるものには、往々極めてイージーな而もスケールの小さく浅はかな文学めいた哲学や哲学めいた文学が見出される。こうした手先の扮飾では、文学と哲学との根本的な結び付きなど決して浮び上って来るものではない。文学と哲学とが本格的に交渉するのは、クリティシズム(批評・評論)に於いてなのだ。考え方によっては極めて判り切ったこの関係を、克明に講義したものが、モールトンの今の本だ。
 第二に興味を有った点は文学と古来及び近来のジャーナリズムとの関係である。遠くはホーマーや中世の吟遊詩人、降って廿世紀のジャーナリストに至るまで、その文学的役割が割合一貫して問題にされている。文学とジャーナリズムとを結びつける点は、ここでも亦クリティシズムなのである。
 処がクリティシズムという観点から文学を根本的に取り上げるならば、第一に批判されるべきものは、文学研究を語学研究と取りちがえ勝ちな一つのペダンティックな錯覚である。日本でも英文学とか独文学とかいう少し考えて見ると実に変な文学研究が行なわれているようだ。そして之は何も日本に限ったことではないらしい。モールトンはこの弊害を指摘する点に於て可なり徹底的なのである。彼はそこで、こうした国語の制約によって束縛され得ない真に文学的なものを求めて「世界文学」の観念に到着する。『世界文学』(本多顕彰氏訳・岩波書店)は主として、世界文学的な普遍通用性を有った文学的源泉を五つ挙げて、真に文学的なものの世界史的系統樹立を解説している(バイブル・古典叙事詩と古典悲劇・シェークスピア・ダンテとミルトン・ファウスト物語の五つが之である)。
 だが云うまでもなくここですぐ様問題になるのは「翻訳」というテーマである。吾々は之まで、翻訳というものの本当に文学的な或いは哲学的な意義に就いて、充分な注意を払っていないのではないかと思う。併し実は翻訳の問題ほど、今日重大な社会問題は他にないとさえ云ってもいい位いだ。例えば、所謂外来思想は日本へ翻訳され得ないものだとか、日本精神は外国へ翻訳され得ないものだとか、というようなデマゴギーがもし本当ならば、本当の文学や哲学はその日から消えてなくなるからだ。広く翻訳の可能性はクリティシズムに含まれる根本要素の一つであって、文化の紹介や批評のために欠くべからざる要具なのである。モールトンのこの二つの書物は翻訳のこの広範な意義を最もよく明らかにしていると思われる。
 野上豊一郎氏『能の再生』(岩波書店)の出版を見たが、そこでも能を、英文へ翻訳するに就いて翻訳問題が提起されているのを見受けた。氏は翻訳の意義に就いて夙に注目している文学者の一人である。モールトンの著書の発行年度は決して新しいものではない。『世界文学』などは一九一一年に出ている。それから云うまでもなく之は、社会科学的な訓練を経た文芸科学書ではなくて、典型的なブルジョア文学教科書に過ぎない。それにも拘らず実に卓越した多くの主張と強調点とを持っていることは注目に値いするだろう。
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 4 作文の意義
――垣内松三教授の著『国語教育科学概説』について――


 私は国語についても、教育についても、ただの素人に過ぎない。併しかねがね懐いている一つの意見があるのだ。それは所謂作文というものの意義についてである。
 作文というと学校で教える教授課目の一つであるように思われるかも知れないが、併しこれは決してそんな教壇的な学校教育者風な興味からだけ論じられてはならない問題なのだ。われわれの日常生活は毎日社会自身から何かの形で成人教育を受けているものに他ならないが、その内でも今日最も信頼するに足る最も有効なそれからまた最も大規模な成人社会教育の手段は、出版だといっていい(今日のラジオは有効ではあるが併し決して信頼するに足る手段とはなっていない)。
 ところが世間の多くの人達は出版物によって、ただ受動的に教育されているだけで、必ずしも自分では能動的に言論を発表しているとは限らない。ということは、世間一般の人達が、思想を構成しこれを言葉によって表現するというような訓練をあまりやっていないということである。それであるから出版物の多い割合に、一部の執筆業者や研究家を除いては、表現能力や従ってまた思想構成能力が教育されていないので、これは人類の訓練という目的からいうと、全く不経済なことだという他はない。
 ところで作文とはこの表現能力従ってまた思想構成能力の訓練を目的とするものだろうと思うが、これは単に文章を作ることといったような訓練などではないので、実は常識を陶冶し見識を養成するための自発的な訓練方法のことなのである。学校でやる外国語もまたただ英語やドイツ語を覚えて、欧米人の無意味で不必要な真似をすることが目的ではない筈で、凡そ文章なるものに注意を集中させることによって、合理的で進歩的な思想・常識・見識・を養成するための手段としての、作文科に他ならなかった筈だと考える。
 さてこうした作文は無論国語教育の問題に帰着するのだが、実際をいって、大学を出ても満足な「文章」一つ書ける人間が非常に少ないということは、意外な事実なのである。美文などならば元来が殆んど意味のないものだから、それが上手でも下手でも構わないと思うが、少なくとも悪文でなしに、達意の文章を書けるということは、人間の資格に関わる大切な能力である。国語教育というもの、またこれを研究する国語教育科学というものがあるなら、それはこうした人生における作文の意義を闡明する立場に立脚しなくてはなるまい。
 今度、垣内松三教授の『国語教育科学』(全十二巻)の計画が発表されて、その第一巻『国語教育科学概説』が出たが、それを読んで見て、私がかねがねもっているこの作文論が、大した見当違いの思い込みでなく、この専門家によっても立派に認められているのを知ることが出来たのは愉快である。
 氏はその新鮮で独創的な「国語教育科学」という科学(国語教育を取り扱う教育科学)をば言語哲学的考察から出発させる。E・カッシーラーの見解に近いのかと思うが、国語の力を象徴形式としての言語の内に見ようとするのである。氏はそれに因んでW・フンボルトの言語哲学や、ペスタロッチの国語教育説、更にカントやフィヒテの言語論にまで論拠を求めているのである。こうした言語哲学の上に立って、教授はその国語教育科学について、いわば科学論を展開して見せる。国語教育科学は新興教育科学の最前線にあってその主力を形成するものだというのである。例の私の作文論からいってもそれは甚だ賛成出来ることだ。教授は更に国語教育科学の方法論に這入るのであるが、その点になると全く素人の私には説をなす資格がない。
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 5 『本邦新聞の企業形態』に就いて


 東京帝大文学部内の新聞研究室の第二回研究報告『本邦新聞の企業形態』という本が出ている。本年(一九三四)三月の発行。新刊とは云えないが、世間には必ずしも広く知られていないので、紹介傍々問題にして見たいと思う。
 同研究室は殆んど日本に於ける唯一の科学的新聞研究所で、すでに多数の実際の新聞記者を輩出しているばかりではなく、新聞現象に関する基本的な実証的並びに理論的な研究に従事し、相当その成績をあげている。一つには今日の日本の大学が持っている各種の制限のために、この研究室の社会的見解は必ずしも進歩的な社会科学の本筋を辿っているとは云えないかも知れないが、併しそれは無論決して反動的な意図からなどではないのである。寧ろあくまで実地的な基本的研究に精力を集中しようとする学的努力からだと信じる。
 すでに第一回報告として『新聞研究室第一回研究報告』なるものが出版されているが、之は思うに、わが国に於ける理論的な新聞研究の最高水準を略々占めるものだと云っていいだろう。そこでは無論、新聞と云っても所謂新聞紙に限られないので、広く新聞現象・報道現象・ジャーナリズム現象・が取り上げられた。調査的研究としては東京の五大新聞の内容分類があった。処で、今度の第二回報告では、新聞調査の範囲は著しく拡大されたのである。
 序文に云っている、「欧州大戦末期に於ける我邦経済界の好景気以来、我邦に於ける新聞の経営状態は一変して、一般事業と同じく大部分企業的形態をとるに至った。併しながら之に対して調査を行ないたるものなく、研究上不便を感ずること尠からざるにより、本研究室は研究員経済学士鍋島達君に其の調査を命じ、爾後約二ヵ年の日子を費して之を完成することを得た。本調査は各種企業形態の社会的、心理的乃至経済的機能の研究上欠くべからざる根本資料であって、我邦新聞界に稗益する所、蓋し少なからざるべしと信ずる。此の種の調査は独逸ライプチッヒ大学新聞研究が、数年前之を行ないたることあるのみにて、本研究室の如く之を全国的且つ全般的に行ないたるものは欧米諸国を通じて他に類例を見ないのである」云々。――この報告の斯界に於ける意義は右の序文で明らかだろう。
 調査の課題は、各新聞の企業形態、資本金及び収益、新聞企業持分の譲渡性、の三項目を主とし(企業持分の譲渡性というのは、新聞紙がただの商品ではなくて主義主張を持った言論物だからそれがどういう個人又は団体の手にあるか又は移り得るかを問題にするのである)、副項目としては主張乃至政党関係、配当、広告料と購読料、兼営事業、其の他である。範囲は日刊の有保証新聞に限り、地域は内地、北海道、台湾、朝鮮に渡り、満州及び上海に於ける本邦人経営の新聞若干をも含んでいる。一九三一(昭和六)年八月を中心にする調査で、随所に之をドイツ及びアメリカの情勢と対比することを怠っていない。
 内容は資料で以て充満しているから「紹介」の限りではないが、調査方針に一つの意見を□んでいいなら、或いは寧ろ希望を述べていいなら、新聞の読者層をも検べて欲しかったということだ。蓋しここでは、企業形態其の他と並んで、新聞紙という言論的商品に特有な、社会的・階級的・制約が発見されるだろうからである。尤もこの調査は、単に新聞社への問い合わせだけでは出来ないわけで、色々複雑な調査方法を研究してかからなければならないだろうが。
 調査票を送ってやった新聞社は九二一社で、回答が来たのはその四二・九パーセントの三九五社である。新聞社自身この企てにあまり興味を有っていないことはやや意外で、ことに『東京朝日』や『東京日日』は回答をしていないらしい。吾々は新聞業者のこの種の意識に対して多分の不満を表するものだ。一〇以上の発送数のある府県で、五〇パーセント以上の回答率のあったものは、神奈川(五〇%)、茨城(六六・七%)、宮城(六〇%)、富山(一〇〇%)、大阪(六二・二%)、愛媛(六四・三%)、大分(六三%)、樺太(七六・二%)、朝鮮(六三%)である。大阪が六二%以上であるのに、東京は三四・一%にしか過ぎない(発送数は東京四一大阪四五)。――之自身又新聞界調査の一資料となるかも知れない。
 同研究室の実際上の指導者小野秀雄氏は、最近時潮社出版『現代新聞論』を出版した。まだ手にしないが期待を持っている。
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 6 易者流哲学
     ――反動哲学の一傾向――


 私はかつて或る新聞で、阿部次郎教授が『改造』にのせた論文に対して少し悪口を書いたことがある。「文化の中心問題としての教養」というのが教授の論文の題で、私はこれに対して、文化とか教養とかいう一種特別に取りすました概念では、時代の問題は一寸片づかないのではないか、という意味を述べたのである。教授の論文は、それにも拘らず、昔ながら甚だ透徹した、しかも甚だ「阿部次郎」らしい独自のものであったことはいうまでもない。
 所がその後暫くして、学校気付で未知の人から私あての封書が来た。開けて見るとこうである。お前の次郎批判は極めて浅薄である、阿部次郎氏の例の論文は実は、兼子某という人がドイツ文で印刷にした本の焼き直しだということを知らないか。この本は日本でこそ人が注意しないが、ドイツやフランスでは有名なもので、方々で研究会さえ持たれているのだ。今に日本にこれが逆輸入されてくるだろうが、その時はお前は自分の次郎批判が如何に無知で浅薄であったかを恥じなければならぬだろう、というのである。
 ドイツ語の新刊書を有難がってはいない不用意な私は、一時なる程そうかなあと思ったが、この手紙に紹介してあるドイツ語の本のタイトル(ブロークンなドイツ語だったが)に見覚えがあるような気がして考えていると、思い当ったものがある。兼子という篤志の人自身からそれらしい本を送ってもらったことがあったのを思いだしたのだ。家へ帰って戸棚を引っくり返して取りだして見ると果せるかなその本なのである。
 一体何んなことが書いてあるかと思って所々読んで見ると、人間の身体は左側が男性の原理で右側が女性の原理で出来ているから、重心の所在が移行することによって女が男性化したり男が女性化したりするので、そこから起きる色々の病気もあるわけで、これは身体の左右の均衡を回復することによって治療出来る云々、といったようなことが書いてあるのである。
 人間学と治療とが結びついたよく在る種類のもので、偶々それが哲学の名の下に現われたのがこの本なのだ。こういう有難い哲学には必ず信者や道友がいるものだが、阿部次郎氏がこの本を剽竊したと知らせて呉れた未知の人も多分その信者や道友の一人なのだろう。――だが私は遂々フキだしてしまったのである。次郎氏、哲学行者の本を剽竊して『改造』に論文を書く! 何と愉快ではないか。
 ところが問題は笑って済まなくなってくるのである。兼子氏の「道友」は更に今度は日本語で書かれた氏の『哲学概論』めいた本を恵贈して呉れたが、それを見ると、前のドイツ語の方の本に対する「独仏」における大家(?)の賛辞が付録になっている。ブランシュヴィク氏やリッケルト氏は月並の無意味なお世辞を述べているに過ぎないが、O・フィッシャー氏の如きになるとクラーゲスなどを紹介してマンザラでもない賛同の意を表わしている。即ち、東洋思想とか東亜文明とかもっともらしい片言を述べ立てた「サムライ」や「ハラキーリ」式の東洋哲学観なのである。「西洋思想」を軽蔑するらしいこの友達が、欧州人に褒められたからといって喜んでいるのは少し変だが、それはとに角として、もう一つ気にかかるのは、兼子氏がこの本でもっとも興味をもっているらしい哲学的な思想対策と言ったものを見ると、何のことはないもっとも俗物的な国粋ファッショ式な善導案にすぎないという点である。私は折角深遠な「哲学」もこれでスッカリお座がさめはしないかを恐れるのである。
 で、兼子氏のような哲学に何か意味があるとすれば、それは一種の人間学と国粋哲学との結びつきを、相当ハッキリと体現して、現代のファッショ化したブルジョア哲学の漫画的一風景を点出した点にあるのである。
「独仏」ではこの頃色々の意味でのアントロポロギーが流行している。性格学とか人相学とかが、医者や心理学者や哲学者によって担ぎだされている。夜店で手相を見る易者が、哲学博士と名乗っているのは、今日では大いに冗談ではなくなって来たのである。
 この人間学は治療とか開運とかいう手取り早い御利益に結び付いているのだが、これがもっと陰険なのになると、「体験」という範疇に訴える場合が多い。もっとも体験といっても色々あるが、この頃使われるものは、歴史や社会の内部を遍歴する様な科学的な意義を持った体験(ディルタイなどに見られる)のことではなくて、矢張り、手取り早く、身体と結び付いた言葉通りの「体験」でなくてはいけないらしい。「悟り」とか「肚」とか、男がすたるとか男にするとかいう「男」とか、およそ安価なイージーゴーイングな体験がもっとも良いらしい。こうした「体験」の御利益は、世界の問題を、自分の一身上の肉体に集中することによって片づけることが出来る、という点にあるのである。
 こういう「精神的」な肉体主義式体験の専門家又は愛好者を以て自ら任じる人々が、今日では大抵、国粋ファッショ哲学者だという事実は、注目すべき根本公式である。読者はすでに、「精神的な」肉体家倉田百三氏の場合を知っているだろう。それから又、西田哲学を禅的な・スティグマ的な・少女ホルモン文学的な・「体験」の哲学だと考えている男や女は至るところに満ち充ちているが、そういう所から西田哲学で思想善導をやろうと考えている人も決して少なくない。そして、今日では肉体主義式「体験」が、東洋文化や国民思想や日本精神への鍵だというこの点を、最も露骨に組織的に示しているのが兼子氏のような「哲学」なのである。
 私は別に兼子氏の件を問題にしているのではない。之は単に引合いに出しただけなのだから、「道友」達に何とかかんとか云われることは迷惑である。問題はわが国の現在に於ける哲学的イニシャティブの惨めな退行現象にあるのだ。例えばドイツ哲学などはその精神的なペダントリーにも拘らず、今では極めて低級な文化的水準のものだとしか考えられないが、わが国になるとそれがもっと徹底的に露骨に、特有な形で低級なのである。
 もっともわが国のブルジョア哲学の或るものは、ブルジョア哲学としては、国粋家を喜ばせるべく世界最高の水準に達しているようにも見えるだろう。然しそうした哲学は決して、自分の変り種である例の肉体主義式「体験」哲学を粉砕することを欲しないし、又事実それは出来ない相談なのである。けだしファッショ式な悟りや「肚」の哲学は、外でもない、わが国現代ブルジョア哲学そのものの優秀なカリカチュアに外ならないからである。
[#改段]


 7 岩波文庫その他


 現在発行されている文庫版の主なものは岩波文庫(レクラム版の装幀に近い)・改造文庫(ゲッシェン版の装幀にまねて及ばず)・春陽堂文庫などである。春陽堂文庫は本年(一九三〇年)七月現在ではほぼ千種に近いようであり、改造文庫は約三百五十種、岩波文庫は約六百種程あるようだ。他に数の少ないものでは山本文庫(三十種程)などもあるが、今の処まだ問題とするには足りないだろう。読者から見ると文庫版の一般的な特色がその廉価なことと、ありとあらゆる代表的な著作に権威ある選定を与えたものであるということとにあるのは、云うまでもない。なるべく安く、そして出来るだけ代表的な著述の全般的なセットを、なるべく信頼するに足る校訂によって手にしたいということが、読者の希望だ。
 終局に於ける価格の問題から見ると、どの文庫版も大差ないと見ることが出来よう。星一つの値段は違っても、字数からいうとあまり価格の差はないようだ。問題はその内容の区別にある。まずありと凡ゆる著述の中からその代表的なものを選ぶという点になると、つまり、一切の学術文芸について多少とも古典的な意味を有つか、又は著しく大衆的な一般性を認められたものの内の良質なものか、を選ぶことになるわけだが、その範囲が広いという点では、岩波文庫が第一で、改造文庫・春陽堂文庫・の順でこれに次ぐのである。春陽堂文庫は主として文学のものが多く、改造文庫は文学と社会科学に限定されているといってもよいが、岩波文庫は殆んど凡ての文化領域にその関心を拡げている。これは代表的著作のセットとして、一般的な教養のために用意するには、必要な性質なのである。一般に文庫版は研究書や学術書というよりも一般的な教養の書物を提供する任務を持っているからだ。
 校訂の権威については、矢張り岩波文庫を推さねばならぬようだ。他の文庫に権威がないというのではないが、元来校訂に最も細心な注意を払うのが、岩波出版物の特色で、文庫もまたその例にもれない。少なくとも学究的な安心を以て読むことが出来るという点が、この文庫を買い又は所有させる魅力の一つだと思われる。
 だが岩波文庫のもう一種の特色は、現代日本に於て著われた著述を含むこと極めて乏しいということだ。大部分が外国に於ける古典的価値ある歴史的に残る文献の翻訳であり、その次が多少の日本の古典である。例外として、現代作家のものがいくつかあるが、この点到底春陽堂や改造の諸文庫の比ではない。勿論これは営業関係から見ると却って、岩波出版物全般の商業上の堅実さを意味するわけで、つまり自分の処の普通の現代著述の単行本は、文庫版としては安売しないということだが。
 それに事実上今日最も読まれるものは、何れによらず翻訳物であるらしい、これは日本の読書界の或る種の健康さをこそ現わせ、決してその無気力を意味するものではない。実際吾々の摂取する最も良質な知識や見識は、その大半が古典的意義のある外国の書物の翻訳から来るのである。というのは、真に古典的なものは実は世界的なものなので、之を外国の書物であるとか日本の本でないとか云うことが殆ど無意味であるからなのだ。――従って岩波文庫が翻訳物に主力をそそいでいるということは、その営業上の理由を別にして考えて見ても、極めて意味の深いことなので、もし文庫版なるものが一般に、さき程云ったように一般的な教養の糧を提供するという文化的目的を持ち前とするなら、いやより正確に云って、そういう文化的目的を標榜し得るような結果を企業上持ち得るものなら、日本の今日の文庫版は、翻訳物を中心としなければならぬということが、必然であろうと私は考える。私は本多顕彰氏と共に「翻訳家の社会的地位」を尊重するばかりでなく、翻訳そのものの日本文化に於ける地位が、極めて高からざるを得ない、と考えている者なのである。
 岩波文庫が大体に於いて信頼すべき権威ある翻訳を中核としているという事情は、もう一つこの文庫に長所を与えている。それはこの文庫が云わば「岩波的観念」に大して支配されていないということだ。他の岩波出版物は、少なくともその選定に於て、今日では決して高級出版物を全面的に代表しているとは、考えられない。そこには著しく岩波臭い好みがある。文化が好みに堕す時、もはや対社会的な指導力を失う時だ。有態に云って、最近幾年かの岩波出版物は文化指導的なものだと云い切ってしまうことは出来ないのではないかと思う。「講座」や「全書」はなる程、日本文化の最高水準を示し指導力の絶大なものだが、併しアカデミックな技術水準だけで、文化水準を測ることは、アカデミシャンの迷信である。私は岩波出版物に於て、その内容の高さに拘らず、一種低い階級性の感触を有つものだが、古典的な外国文献の翻訳は云わば文化の材料のようなものだから、そういう欠陥が目だたない。岩波文庫が日本の文化に貢献すること大である所以だ。
[#改段]


 8 現代哲学思潮と文学


 古来哲学は思想の科学である。そういうと殊更哲学の領域を制限するように聞えるかも知れないが、恐らく夫は、思想とか哲学とかいう観念をごく便宜的に呑み込んでいる一種の常識のせいだろう。私は今夜(一九三七年三月)偶然横光利一氏の「科学と哲学」というラジオ講演を耳にしたが、その論旨はとに角として、思想とか科学とかいう言葉が甚だ軽薄な使われ方をしているので、寧ろ心外であった。言葉はどうでもいいように見えるが、言葉のルーズなのや軽薄なのは直ちに物の考え方を誤る恐れがあるし、又それ自身物の考え方のルーズさや軽薄さを意味しさえするだろう。――だがこう云って来ると、直ちに、哲学と文学との連関に這入って来るが、それは後にするとして、とに角哲学は古来思想の科学であったし、現在でもそうなのだ。
 自然哲学はでは思想の科学か、と云うかも知れない。だが自然哲学の歴史は、自然を如何に考えるかという問題の解決と共に動いて来たことを忘れてはならぬ(例えばタレスの水から無限定者に来るまで)。形而上学は思想の科学かと云うだろう。所謂形而上学(純正哲学という意味での)は明らかに思想の科学である。例えばベルグソンを見るがよい。世界に就いて物を最も広く深く考える考え方が、ベルグソンなどの形而上学と呼びたいものに他ならぬ。
 思想の科学は常に認識理論乃至論理学であった。勿論新カント派の意味する認識論や論理学、又学校論理学の類に局限されたものの謂ではない。一切の文化領域を貫く認識とそれに必要なカテゴリーの秩序や観念の秩序の検討のことだ。だから思想の科学としての哲学は一切の文化領域を思想内容という媒質により連関関係させる処の観念的技術だと云ってもよい。この思想上の又思潮上の観念的技術に触れない時、どの文化領域も方言を脱することは出来ぬ。方言から批評へ行くことは堂々とした形では不可能だ。この点文学と哲学的思考との関係についてもそのままあて嵌まる。私は先日上田敏の『現代の芸術』という本を読んだが、今から二十年も前に、すでにこの点が詳細に解説されているのを見て敬服したものだ。だが云って見ればこんなことは常識に過ぎない。処がその常識さえが方言の世界では通用しないのだ。
 さて現代の問題にあて嵌めて見ると、例えばアランの『精神と情熱に関する八十一章』(小林秀雄訳)(情熱は情念と訳した方が語弊がないようだ)などは、フランスの現代哲学思想と文学との連関を示す一種類の典型だろう。彼はこの一種の哲学概論で、要素的なテーマから段々高度のテーマに移りながら、極めて手の届いた説明を試みているが、高度の問題はいつか文学の問題に接着して行っている。その思想傾向の特色は今は問題ではないが、とに角、哲学の問題がやがて文学の問題に接着して行くということは、決してアランの場合に限るのではなくて、フランスの文芸評論家や思想家、哲学者には珍しくない。而も之は哲学と文学の間とか、文学的哲学とか、哲学的文学とかいう種類の半パ物ではないのだ。要点は大体モラルの問題にあるようだ。モラリストの云う意味でのモラルに於て、哲学と文学とが接着しているのである。
 勿論現代の哲学思潮の凡ゆる傾向は文学の内に多少とも現われているし、又その逆も真だ。主観的観念論と心理主義又身辺小説とか、客観的観念論と各種ユートピア文学(科学小説も含む)とか色々の一対があるわけだ。特に現代に於ける哲学思潮と文学との特色ある一対は唯物論とプロレタリア文学との一対だ。だがここでもやはり、哲学思想と文学との連関点が今日でもモラルの問題に集中している。唯物論的なカテゴリーとしてモラルが何であるかは別として、とに角、モラルは文学と哲学とにとって、クロスした要点なのだ。というのはつまり、文学的認識に就いての認識論上の最も大切なカテゴリーがモラルにあるというわけなのだ。モラルは認識論上のカテゴリーなのだから、思想の科学としての哲学にとっては、元来、極めて大きな役割を持った概念でなければならなかったわけである。そして、之こそが又文芸界の最大課題なのだ。
[#改段]


 9 デカルトと引用精神


 古くダンテがイタリア語の父であるとされ、又降ってルターがドイツ語の完成者と云われるように、ルネ・デカルトはフランス語の恩人とされている。ダンテの『神曲』、ルターの『新約聖書』の翻訳に、その意味で比較すべきものは、『方法叙説』と呼ばれているあの Discours de la M□thode である(之は屈折光学と気象学と幾何学との後から書かれたものでこれ等の序説の意味をも有っている)。これはデカルトの母国語であるフランス語で書かれた殆んど最初の哲学書である。而も人の知る通り、最も貴重な思想的意義をもった哲学書である。
 それ以前の学術書で、ラテン語で書かれずにフランス語で書かれたものは、一つか二つしかなかったと云われている。学術用語として無条件の権威のあったラテン語を用いずに、日常の俗語であるフランス語を使って哲学の根本問題を論じようとしたことには、吾々が今日想像する以上の重大意義がなければならなかったと共に、又想像以上の決意をも必要としたものであったろうことを、思って見ねばならぬ。古典的な著書を、著述された実際の雰囲気の中にありありと眼に浮べて見ようと試みたことのある人ならば、誰でもこの推定をしないわけには行かないだろう。
 デカルトは『方法叙説』の終りの辺で、みずからこの問題に解答を与えている。「私が私の先生の言葉であるラテン語で書かずに、母国の言葉であるフランス語で書いたのは、自分自身の本来の極めて純粋な理性しか用いない人の方が、古人の書物しか信じない人よりも、私の意見をよく判ってくれるだろうと思うからだ。良識と探求とを結びつける人こそ私の審判官として望ましいのだが、そういう人達は、私が自説を俗語で説いたからと云って、その理解を拒むほどに、ラテン語のひいきではなかろうと信じる」、と云うのである。
 フランス語のよくは読めない私自身は、この『ディスクール』の文章全体が果して純粋な美しいフランス語であるかどうか判定の限りではない。多分良いフランス文であろうとは想像している。だが、デカルトのフランス語に対する功績は、そういう作文問題にあるよりも、勿論もっと根本的な処に横たわる。と云うのは、この俗語を以て最も厳密な思案の道具としたという、フランス語に対するその信任の厚さに、功績があるわけだ。之は一応は言葉や国語の問題ではあるが、だが決してそれだけの問題には止まらない。実を云うと、そういう俗語によって表わされる観念の問題であり、使われる概念の問題であり、運用されるカテゴリーの問題なのである。
 するとこの俗語への信任は、全く伝承的な惰性を脱却した思考法への信頼、ということに他ならないことがわかる。逆に、そういう自分自身の苦心から始まる思案の方法、伝承的な惰性や又学者社会の習慣的な約束から全く独立した思惟、をやる決心、そういう思考態度をみずから例示しなければならぬ筈のこの『叙説』の如きはワザワザ俗語を使うことによって、或いは使いこなして見せることによって、その意義の疑うべからざる所以を実証し得なければならぬという理屈になる。つまり最も日常的な平俗な俗語によればよるほど、わが『ディスクール』の所説自身が、より実地に証拠立てられるわけだ。
 尤も、この点になると、デカルトの恐らく極めて意識的に注意を払った方針にも拘らず、必ずしも極端に徹底しているとは云えない。と云うのは、時々、恐らくやむを得ないというような仕方で、この場合では学術上の寧ろ安易なコンヴェンションであるラテン語をば、説明のために括弧に入れているからだ。俗語ではなお不安だと考えられる個所もあるわけである。だが勿論そんなことは、揚げ足取り以外に、今大した苦情にはならないだろう。
 フランス語で書いたのは、この『ディスクール』と、エリザベト女皇のために書かれた『パッション』論だけだ。尤も『メディタチオネス』や『プリンキピア』(いずれもラテン原文)の仏訳語については、デカルト自身責任を取っているが。処が併し『ディスクール』をフランス語で書いたという根本精神は、即ち「古人の書物」によらずに「生来の最も純粋な理性」によって物を考えるという根本態度は、実はもっと広く、デカルトの著述の全体を一貫する或る一つの特色としても現われているのである。
 彼の著述態度或いは身振り(ポーズ)の著しい特色の一つは、広義に於ても狭義に於ても、引用というものを利用することが極めて少ないという事である。リフェレンス又はアリュージョンという形の引用さえ少ない、ということである。デカルトはこうした引用を極度に避けただけでなく、自分の思想の様々な源泉に通じる要素が、先人に負う所のありそうな個所をば、極力抹殺し、マスクをかぶることに努めている、とさえ批評されている。所がA・コワレ(『デカルトとスコラ哲学』)などのいう所によっても、デカルトは決して古人や先輩の書物を読んでいないのではないのだ。ひそかに大いに読んでいる。必要な本が手に這入るまでは脱稿をのばしたとか、聖トマスの『スンマ・テオロギカ』やスアレスの本を携えて旅行に出たとか、という事実も挙がっている。
 ガリレイの裁判事件を聴いて極度に衝撃を受け、自分の著述活動に恐らく必要以上の政治的要心をしたらしいデカルトの性格と、今述べたこの著述態度との間には、恐らく関係があるのだろう。コワレも云っている。「彼は決して引用をやらない、やってもアルキメデスやアリストテレスの名を挙げるだけである。のみならず例えば明らかにアウグスティヌスやアンセルムスの真似だと思われると、自分がまだ読んだことのない先人と偶然な思いもよらぬ一致を見出したと云って、驚き且つ喜んで見せるという子供らしい又少し滑稽じみた芝居を始めるのだ。そして全くの詭弁や甚だ芳しからぬ説明を用いて、自分の説とその先人の説とが相違しているという苦しい区別を探し出すのである」と。
 だが彼のこういう一面の性格に関するらしいことは今問題でない。実は彼こそ最もすぐれたスコラ哲学の悉知者であった。彼の思想の源泉は、ありと凡ゆる処から来ている。恐らくデカルトは、一般にそういう文献学的な(スコラ的・学校的)知識において甚だ豊富な学者であったと推定される。そして特にスコラ哲学的教養に至っては、彼の「近世的」なそして独創的な哲学そのものの、根本的な素養をなすものだと云われている。彼はただそれをあからさまに、それとは示さないように心掛けたわけだが。
 デカルトの本当のオリジナリティーは、この伝承的な教養をそのまま使う代りに、これを分解しすりつぶして、自分自身の観念と言葉とによって、自分自身気のすむように築き上げ直そう、というその極めて懐疑的であると同時に極めて建設的な決心の内にあったと見ねばならぬ。そう見れば云うまでもなく、さっきから述べて来たような引用抹殺のポーズは、決して虚勢や何かではなかったことがわかる。そしてそれが云わば露骨に、見本のように現われたのが、他ならぬ『ディスクール』であったのだ。
 かくて私はデカルトの俗語によるこの哲学著述において、アレキサンドリア的・スコラ的・(それからもっと一般に種々の)文献学主義に対する最も近代的な批判の精神を見るのである。彼は「引用」というもののもち得る科学上の弱点に対する最も鋭い批判者である。学術的僧侶用語に対する最も大胆な挑戦者である(事実僧侶生活と無関係ではなかったに拘らず)。この文献学主義に対する反対態度は、すでにF・ベーコンの「劇場の偶像」の打倒のモットーとしても現われているし、更に溯れば、ルネサンスにおける「書かれた知恵」に対する「自然の知恵」の高唱としても現われている。だからデカルトはこの意味において最も近代的な哲学者であり従って又近世哲学の祖でもある、と云っていいわけだ。
 普通、デカルトの自我問題を以て、近世哲学は始まると考えられている。私は必ずしもこれに同意することが出来ない。近世哲学はF・ベーコンの「唯物論」を以て始まると見るべき世界史的理由があると思うからだ。しかし唯物論の最も重大な批判的要点である「フィロロギー主義反対」(これはすでに唯名論の形から始まる)をば最も自覚的に意識的に企てた人としては、そしてこれを『ディスクール』という実例を以て実演さえして見せた人としては、デカルトを第一位に推さねばならぬ。デカルトのこの歴史的意義は、単に近世的や近代的であるというだけではない、これこそ正に現代的な意義だというべきだろう。
[#改段]


 □ 「ブック・レヴュー」




 1 森宏一著『近代唯物論』


 唯物論の発展の時代区分は一般の思想史の夫と同じく、ルネサンスを以てすることが出来る。ルネサンス以前の唯物論は主にギリシアのものであり、更には、アラビア哲学に於て見られる。ルネサンス以後は、時期を二つに分けることが出来る。初めの方はルネサンスからフランス唯物論を経て十九世紀の唯物論に至るまで。後の方はマルクス・エンゲルス・以降の弁証法的唯物論。後者は同じく『唯物論全書』の内に這入っている『現代唯物論』に於て永田広志氏が書いている。森氏の本書は之に対して、前者の時期、即ちルネサンス時代(コペルニクス・ティコ=ブラーエ・ケプラー・ガリレイ・ブルーノ)と十七世紀(ベーコン・ホッブズ・ロック)(デカルト・ガッサンディ・ベール・スピノザ)及び十八世紀(コンディヤック・ラ=メトリ・ディドロ・ドルバック・エルヴェシウス)と十九世紀(フォークト・ビュヒナー・モレスコット)を概論したものであり、すでにその主題から云って、日本ではあまり之まで見られなかった処のものである。
 唯物論の歴史的発展の検討は、今日の思想の科学の欠くべからざる一つの課題であるが、唯物論全般に関する歴史的研究は極めて乏しい。
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