読書法
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著者名:戸坂潤 

 文章の書き方、論文の書き方、については、旧くから色々云われている。書き始めはどう、中の処はどう、結尾の辺はどう、という具合に、何かの範型があるように云われて来ている。なる程唐宍八家文などにはそういう手本になるようなエッセイが大分ある。だが私は、韓退之のようなああいう艶っぽいくせに鈍重な「論文」は大きらいなのである。一体、支那の古典文が大方そうなのかも知れないが、あれは作文であって論文ではない。作文には規範めいた定式は考えられるが、論文にそういうものはあり得ないだろう、というのが私の考えである。特に大臣の演説や政治家や軍人の教化的講演をここから連想させられると、もう我慢が出来ない。なぜ日本の支配者達はこんなに考え方が作文的なのかと、味気なくなるのである。
 それはさておき、論文には一定の型式となるようなものはない。内容が一定の文章を要求するのである。書く人は出来るだけの力を自分なりに発揮して、この内容を自分自身に逐一納得の行くように整理し点検して行けばいいのである。それがおのずから、読者にもよく判る論文となるのであって、普通の論文では、人に判らせるために書いたものよりも、書く当人によく判らせるように書いたものの方が、判りがいいのである。尤も判るとか判らないとか、やさしいとかむずかしいとかは、読む人の教養と思考力とによることではあるが、少なくともユックリと丹念に読む場合、専門の特別な論文でもない限り、正しいものなら必ず或る程度、要点は判るものだ。
 一読して、つまりごく不注意に読んで、何だか判ったように思われる論文でも、少し疑問を持ちながら注意して読むと、一向取り止めのない判らない論文がよくあるものである。その人間の云いたいことがさっぱり判らないのは論外としても、云いたいらしいことは大体常識的に見当はついても、さてその云いたいことがその論文によっては一向特別な根拠を与えられないようでは、その論文は要するに何の役にも立っていないのであって、ただ、こうだああだ、と主張だけを書いた方がまだしも正直なことで、論文の体裁などはコケおどしの見せかけに過ぎなくなる。つまり既知の常識を常識として反覆するだけで、その常識を掘り起こすでもなく、糾明するでもなく、高めるでもない。こういう論文はアタマの悪い論文である。そしてアタマの悪い論文は、往々歓迎されるものであるのも忘れてならぬ事実だ。つまり読者の既知の世界に抵抗して行くだけの骨のない論文は、一種の人間的弱さから来る好意を以て迎えられる。――アタマの悪い論文に堕さぬためには、論文は作文でないことを注目してかかる必要があろう。勿論アタマのよい論文で、作文としても修辞的で愁訴力に富んでいたり扇動力を持っていたりすれば、それに越したことはない。
 論文の生命は、あくまで分析を通しての総合という手口にあるのである。分析とは大体区別を明らかにすることだ。同じ言葉や意味の近かそうな言葉を区別して、夫々の通用範囲をハッキリさせ、それを使って事物を解明して行くことである。総合とは之に反して、連関と対立物の統一とを明らかにすることである。お互いに無関係に見えるもの、お互いに違っているものの間に、或る同一性に帰する関係を発見することである。そして、二つの相違し又無関係に見えた事物をこういう風に関係させるためには、二つのものの夫々について、さっき云った分析が予め必要なのである。充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない。充分に分解されて初めて確実な組み立てが出来る。論文の主張はこの時初めて成り立つ。云って見れば、之が論文の書き方の方式の唯一のものであるかも知れない。アタマの悪い論文とは、この方式を実行出来ない論文のことだ。それをゴマ化すために、作文などに努力をする。
 処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏との両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとすれば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティックに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振りまわすように行かなくなる。批評論文にしても、少し気をつけて読むためには、賛成している処に反対しようという用意を見、反対している処に賛成の素地を見出す底の用心がなくてはならぬ。結論は賛否ハッキリ出来る場合が勿論極めて多いわけだが、その結論まで行く迂余曲折が論文の生命で、そうでなければ折角通過した地点も容易に失われねばならぬだろう。論文の進め方は戦線の前進のように考える必要がある。前にさえ行けばいいというわけのものではないのだ。いや、結論ということ自身をもっと慎重に理解すべきであって、ただの結論は何の実力もない独断と同じである。結論は分析と総合とを通して得た行論の結論以外のものではなかった筈だ。
 論文は出来るだけ簡潔に卒直に書かねばならぬ。余計な尾鰭は原則として邪道の因である。だが論文は幼稚であってはならぬ。用意周到に事物の表裏を点検しなければならぬ。その意味では、出来るだけ複雑で皮肉で触角の伸びたものであってほしい。そしてそういう雑多を整理した上での、卒直簡潔が本当の水際立った論文なのである。――だがこういうことが出来るために、最後に最も大切なのは、勘である、感覚である。事物に対して持つ直覚の優秀さである。之は不断の訓練に俟つものだ。
[#改段]


 6 校正


「そのやうな」は「ような」とは書かない。「しようと思ふ」は「しやう」とは書かない。「用ゐる」は「ゐる」又は「ひる」であって、決して「用ふる」や「用ゆる」であってはならない。校正者はこの程度の国文学者であることが必要だ。
 なる程発音通りに仮名を使えという主張がある。之は確かに進歩的な主張だと思う。併し、仮名通りに書かない処の国語の習慣に従った原稿である場合には、少なくとも以上のように校正することが必要だろう。
 それから又、文法的に正しくあろうともなかろうとも、現に大衆的にそう使っている以上、それでいいではないかという反対もあるだろうが、それだけの覚悟があるなら又別だが、併しそれにしてもさっきのような点は、知っていなくてはならぬ、ということに変りはあるまい。之を知らない程度の校正者は何を仕出かすか安心ならぬ。
 校正者は国文法だけではなく、漢字の熟語や、英独仏露、エス、ギリシア、ラテン其の他の語学の素養がなくてはならぬ。だけではなく、諸科学上の常識と、普通の常識とが絶対に必要である。例えば「トロツキー」は「トロッキー」ではなくて「トロツキー」だ。准南子は準南子ではない。其の他幾万の常識。
 校正係りは原稿がそのまま活字になったかどうかを校閲するのではなくて、印刷になったものが文章及び文字として正しいかどうかを検閲するものだ。技術だけではなく、文章の筆者以上の理解と、持ち合わせの大常識とが、絶対に必要である。
 処で、こういう偉い博学者で注意周到な人間は、なかなか校正などという賤しい仕事をやろうとしない。二流以下の出版屋では校正は小僧にさせる場合さえ多い。悲しむべき現象である。
『唯研』や『唯物論全書』にさえ、誤植が少なくないのは、こういう悲しむべき現象の、典型を実現して見せるためである。悪く思わないで読んで欲しい。
 併し原稿渡しがギリギリで、優秀な校正者も手のほどこしようがない場合は、又別に考えねばならぬ。多分之は原稿料や印税が安いからだろう。之亦悲しむべき現象と云わなくてはならない。云いたいことは段々あるが、いずれその内又。
[#改段]


 7 翻訳について


 武田武志氏は『唯物論研究』(一九三七年六月号)のブック・レヴューで、ゴーリキー『文学論』の翻訳三種を比較した序でに、三笠書房版熊沢復六氏訳に関説して云っている。「最後に、この機会にわが国の翻訳について一言したい。ナウカ社版や本間氏訳は大体わかり易い訳であるが、熊沢復六氏のは悪訳である、私は熊沢氏の訳本は大部分通読しているが、あまりにもひどすぎる(例えば『文芸評論』)。ソヴェート文献翻訳の仕事の意義は実に大きい。その任務の大きさにもっともっと自覚して責任ある訳書をどしどし出版していただきたい。ナウカ社版は論文を随分勝手に省略してそれぞれの論文を切りさいなんでいるが、良心ある訳者ならばこれを読者に断わるべきである。吾が国のソヴェート文献翻訳事業に、もっと責任と良心とを要求したい。あえて苦言を呈する」と。
 之では熊沢氏はまるで、無責任と無良心の巨頭であるように見える。果してそう云っていいだろうか。なる程、私も熊沢氏の訳にはあまり感心はしていない。ロシア語の読めない私でもこれは何かの誤りでないかと思われるような氏の訳に出会った経験もある。最近の一例では『文芸学の方法』(清和書店版)の内で、イギリス文明史を書いた「ボークル」云々という言葉が数ヵ所出て来たが、之はバックルでなくてはならぬだろうと思った。処が旧ナウカ社版、白揚社新版のミーチン・イシチェンコの『唯物論辞典』にも矢張りバックルがボークルとなっているから、この誤りは殆んど伝統的なものであるらしく、決して熊沢氏一人の誤りではないのでないかとも考えた。こういうような翻訳検察官になることは誰にでも割合に容易であり、偶々熊沢訳は検察官の目につき易いのが事実であるというにすぎぬのだが、併しそれがすぐ様責任と良心との問題だと云って了っていいだろうか。
 私はかつて斎藤□氏のスピノザ全集訳に対する或る精鋭な(但し当時殆んど無名な)古典学者の非難(『思想』にのった)に就いて、『東朝』紙上でこういう意味のことを書いたことがある(次項を見よ)。著作翻訳其の他を品隲するに際しては、その人の之までの業績全体が持っている社会的功績の程から批評されねばならぬ。それから各種の社会的条件もそこへ入れて計算しなければならぬ。翻訳の云わば内在的な(観念的な)可否だけでその仕事の現実的価値を決定して了ってはならぬ。学的良心というようなものも、出版業者の資本や訳者の経済的社会的生活条件と大いに関係があるのだから、軽々に言及すべきでないと。それに私はひそかに考えるのだが、仕事の分量の大さというようなことも或る程度まで質の良さの代位をするものであって、或る程度の質を備えたものを多量に産出出来るということは、良質なものを極めて稀にしか発表しないアカデミシャニズムよりも、却って客観的価値のあることだと思うのだ。
 熊沢氏の場合についても大体同じことが云えるのではないかと思う。私のようにロシア語を知らぬ読者は、何と云っても熊沢氏の仕事に随分恩を負うていると云わざるを得ない。仮に私が氏の誤訳悪訳を指摘するとすれば、それはとりも直さず氏の訳そのものの社会的余沢(?)であると云う他あるまい。つまり熊沢氏は何も訳さずにどこかの語学の先生でもしていれば、誤訳もしないで済んだわけで、その責任も良心も無事であった筈だ。だから結局、その質の良否は第二段として、翻訳をやらぬよりもやった方が一般に価値があるのだという事実を私は強調したいのである。凡てが欠点で悪い作用一方だというような訳はあり得ないのだから。
 それから今日では、その方が、翻訳の質を段々よくして行くという実際上の効果が一層あるように思われる。特に熊沢氏のようにその仕事の意図が吾々と本質的に一致している時には、こういうやり方の方が却って峻厳な批評の実質を備えるものだ、というのが批評というものの一つの秘密であろう。――批評は峻厳でなければならぬ。不純な手心があってならぬ。だが厚意ある峻厳こそは最も峻厳であり、最大のリアルな苦言なのだ。武田氏自身がゴーリキーの批評家としての態度について云っている、「この愛情は若い作家達に対する彼の指導と、世間一般の『批評家』達が作家・作品・に対する態度とを比較するならばあまりにも明瞭である」。武田・熊沢・両氏の批評者と被批評者としての関係についても(ムタティス・ムタンディに)、同じことが云える筈だ。
[#改段]


 8 篤学者と世間


 斎藤□氏と畠中尚志氏なる人とが、『思想』誌上でスピノザ邦訳に関して喧嘩をしている。初めて攻撃の矢を放ったのは畠中氏の方であって、相当痛烈なものだったが、斎藤氏は之に対して、多少問題の核心を避けながら、一種皮肉な口吻で高踏的な答をした。翻訳に多少の誤訳のあるのは已むを得ないことだが、それをそんなに大騒ぎするのはどういう目的なのか、という口吻である。併しテキストに関する論争としては、素人の眼から見て、勝味は畠中氏の方に多いように見えるのであって、畠中氏は今月号(一九三四年九月)の『思想』では大分落ちついて、斎藤氏に止めを刺そうとしているらしい。
 だが吾々素人の読者にとっては、この種の問題は決してただのテキスト批判の問題には止まらないのである。現に畠中氏も斎藤氏もそれぞれ「学的良心」とか「学者の信用と地位」とかいうものを持ち出して問題にしているが、それが単なるテキスト・クリティックの問題に止まらない証拠である。そこでテキスト・クリティックの観点以上の観点に立つと、どっちの方に理があるか、簡単には決まらなくなる。
 一体『思想』という雑誌は之まで時々この種の学界警備に任じて来た。和辻哲郎氏は東北帝大教授藤岡氏のコーエン翻訳をヤッツケて訳者を馘にしたし、林達夫氏は関根氏のブリュンティエールの旧訳をタタいて凹ませたし、小島喜久雄氏は団氏の西洋美術史の訳書のデタラメを手痛く指摘して東大助教授を止めさせて了った。道徳上の善し悪しなどは少しも問題ではないが、併し注意すべき点は、どの場合にもヤッツケた人自身、大抵それまでに既に相当のアルバイトを世間に向かって客観的に示していた人だったということで、そこで世間はこの春秋子の立場を尤もなものとして承服するのである(それに大抵事前に相手と個人的な折衝を試みている)。本当にインチキなものならば大いにヤッツケるべきだが、併し他方、日本の各種古典学者の通弊は、篤学以て独り潔しとすることである。処が世間は学者の存在理由を、その仕事の客観化された量質で以て計るものである。
[#改段]


 〔付〕 最近のドイツ哲学の情勢を中心として
     ――戸坂潤氏にものをきく会――


中村 本日は雨中を態々お集り下さいまして誠に有難う御座います。「何を読むべきか」について、色々お気付の事をうかがいたいと思いまして、此の様にお集りを願った次第であります。A 今夜は主として最近のドイツの哲学界の情勢とそれの日本の思想界への反映について戸坂氏のお話をうかがい度いと思います。戸坂 独逸の哲学に就いてですが、それも新刊は此の頃余り手にしませんからよくわかりませんが、少しお話致します。 大体、最近の独逸の哲学の傾向と云うのは、恐らく広い意味で生の哲学と云う特色を持って居ると思います。
 生の哲学には、いろんな通俗哲学もある様ですが例えばシュペングラーとか云った連中が非常によく読まれているそうですが、アカデミカルな方面ではハイデッガーの哲学が全盛の様に思われます。ハイデッガーの哲学は、一体ディルタイとフッセルルを結合したものにあたるわけで、フッセルルはよく知られて居るように、非常に科学的な研究方法を採っています。云わば数学的な特色を持っている哲学であって、ディルタイの方は歴史的生活という問題を中心にしているだけに、可なり文学的な、詩的な特色を持っている。ですけれども、此の二つの相反した哲学は、最近の代表的なものとして一般の注目を惹いて居る。
 狭い意味での所謂生の哲学、これはディルタイの方を含むわけですが、しかしフッセルルの哲学と雖も、矢張り体験とか意識とか云う問題が中心になって居るものであって、広い意味では之も生の哲学に入れることが出来ます。
 フランスの生の哲学者として有名なベルグソンの問題の領域と、フッセルルのそれとは非常に似たものを持っているようです。
 ハイデッガーは此の二つの近代哲学の対立物を、両方が生の哲学である点を媒介として結び付け、そして更に其の上「生」と云う概念に特別な色調を与える。其の色調と云うのは、「生」即ち生命、人間の存在と云うものが、本来宗教的な生活を真面目とする筈のところ世俗の生活としては日常的な生活態度として、宗教的な生活態度から離れ落ちてる。そういう生活の分裂を通して、人々が再び真の宗教的生活態度に帰って行かねばならぬという風に人間生活を規定した。そういう風に規定された宗教的人間存在の何よりの特色は、人間の生活が有限である、死が待っているという点で条件づけられている。斯ういう風にライフが死によって条件づけられているのです。ハイデッガーの哲学が現在に於ける最も代表的な、世界を通じて代表的な、生の哲学であることは前に述べた。そして此のハイデッガーの哲学の思想的背景は明らかにカトリックのものであって、其の先生であるフッセルルの哲学は、スコラ哲学の現代的形態とも云うことが出来るでしょう。
 しかし、ハイデッガー哲学の持つもう一つの要素である所のディルタイは、云う迄もなくプロテスタントであり、嘗てのプロテスタントの驍将シュライエルマッハーの後を継ぐものである。従ってそれだけハイデッガーの哲学は、プロテスタント的特色をも兼ね備えていると云われています。
 所がハイデッガーが言わば発見したと云ってよいキールケゴール、此のキールケゴールこそ、ハイデッガーが自分の哲学のやり方の先駆者として見出したのでありますが、恰も、其のキールケゴールは今日の弁証法的神学者達の拠り所となっている。弁証法的神学は言う迄もなく、プロテスタントの甦生運動であるけれども、シュライエルマッハー風のプロテスタンティズムに反対して、もっと古典的なものに帰ろうとして、其の為めにキールケゴールを持ち出す。そういう具合に、一方弁証法的神学が、従来のプロテスタント主義から離れると同時に、他方ハイデッガーは、従来のカトリック主義から多少ずれて来て、其所で、ハイデッガーの哲学と、弁証法的神学とが、例えばキールケゴールと言うようなものによって、一つづきの関係に這入るわけです。ところで最近九州帝大の今中次麿氏などが指摘しているように、弁証法的神学が、全くファシストの哲学体系であるとすれば、ハイデッガーの哲学も亦、ファシスト的哲学への密接なる連絡を持っているということを想像するのは難くない。噂によると、ハイデッガーが最近ナチスに入ったということも耳にしないではない。
 ハイデッガーの哲学をいろいろな方面に使って見ようという運動が方々に行なわれている。そういうものから出て来た一つとして社会哲学というものも既にある。詳しい内容は見ないがレーヴィトの社会哲学は、ハイデッガーの根本概念を使って書かれたものであるのです。
 大体、独逸の最近の哲学がそれであるとして、それが日本の思想界に如何に反映したかの問題に這入ろうと思います。
 第一にハイデッガーを担いだのは、色々ある中でも京都の和辻哲郎博士である。氏の倫理学は、ハイデッガーが人間の存在は日常的な生活としては世の中に於ける存在即ち世間的存在であるという点を借りて来て、之を倫理学の根柢に置こうと考えているのです。之がハイデッガーを真正面から利用したという例で、他の一方は先き程ちょっと触れたハイデッガーに連関のあると考えられる弁証法的神学(危機神学)の思想は、西田幾多郎博士によって自分の哲学体系の相当重大な場所に位置づけられた。西田博士は其の自分の弁証法を、ヘーゲルの観念論的な弁証法であるとか、又、マルクス主義の唯物論的弁証法に対して、自覚の弁証法(即ち自己意識の弁証法)として主張するのであるが、此の場合に持って来られるのが、危機神学の弁証法なのです。西田博士は最近自分の哲学を恰も生の哲学として特色づけて居られるが、それは我々にとって非常に意味のあることです。
B ヘーゲル復興の運動とハイデッガーとの連関については……戸坂 ハイデッガーを動かしている形而上学的な意志は、直接に新カント派の哲学の没落として現われて来ている。だから、ハイデッガーもカント主義であるべきカントの哲学をさえ形而上学であると解釈しようとしている。で、ヘーゲル復興とは、形而上学の復興という意味を持っていると思います。言う迄もなくヘーゲルは国際的にもマルクス主義の連関の下にとりあげられているが、形而上学復興の意味と二つあるというのは改めて云うまでもありません。 我国にもそのままの二つの形が発見される。例えば、国際ヘーゲル連盟の支部は、ヘーゲル復興に属するし、また今日の学生其の他が研究しているヘーゲル研究は左翼に属している。
 先日偶然独逸の雑誌で見かけたのですが、それに日本に於けるヘーゲル連盟日本支部からの報告が載っている。勿論、日本に於けるヘーゲル研究の形の一つとして、左翼側からの研究を見逃がしてはいないが、それよりも興味のあるのは、他の一つの形のヘーゲル研究をヘーゲル哲学と東洋精神との合致に原因していると説明している点です。そういうことは実際には我々から見れば云えないことですが、其の報告者は其の一例として、日本大学に於けるヘーゲル百年忌を指示している。これは噂によるとヘーゲル百年忌として、お経を読んだ由。報告者の説明に拠ると、日大は仏教的な大学であるとある。之は非常はヨタですが。
 話が逆になるが、独逸の国際ヘーゲル連盟に於ける国際的講演会に於て、ソヴェートの学者達が出場を拒まれたことは注目に値いする。
A 独逸でマルクス主義哲学者として重きをなす人々は……戸坂 ウィットフォーゲルとか『バンナー』〔『マルクス主義の旗の下に』誌〕に書く連中でしょうか。……いろいろマルキストにはあるが、……カント主義マルキストなどまで数えれば数は少なくないでしょう。A ザウエルランドの唯物弁証法が最近日本に於て注目され、近く其の第一巻が白揚社から発行されるそうですが、之については……中村 ザウエルランドの唯物弁証法の中にはハイデッガーに対する批判は扱われていましょうか。C ハイデッガーに対する批判はザウエルランドの全巻を通じて出て来ない筈です。それはザウエルランドは唯物弁証法の問題を中心に取り扱ったためでした。しかしその話はあとにして、戸坂氏の述べられた、ドイツの観念論哲学はどういう風に日本に影響したかということの外に、なおドイツの観念論哲学は、どんなものに結び付けられていたかという問題が残っています。ドイツ観念論哲学は戸坂氏の特色づけられた様に非常に宗教的色彩が豊かである。特に哲学に於ても、カトリックの復活が余りに著しいものであって、例えばハイデッガーによれば、真理というものは、科学によっては真に把握されない。何によってかと言うと、感情によって把握される。 そのハイデッガーが言う所の形而上学的実在が、人間にひらかれるところの感情は不安の感情である、そういうことを『形而上学とは何ぞや』と言う本の中で述べている。
 斯う云う風に大体にハイデッガーの根本思想とでも言うものは、一方に於て科学を否定し、不安の感情といった様なものを強調し、これによって結局は宗教に逃れている……
戸坂 なぜ科学の否定が今日必要であると考えられているかが問題でしょう。C 人間の根本的な存在が不安だというような斯ういう哲学が、現代の社会情勢に、どういう連関を持っているか……そういうことがなお重要問題として残されていると思います。B その問題については、例えば、ハイデッガーやヤスペルスが科学的認識の代りに不安の感情という様なものを持ち出したり、シュペングラーが因果性の代りに運命の概念を持って来ると云った様な、そういう一連の最近の生の哲学の傾向……それは一口にいえば資本主義の一般的危機の哲学的表現として規定出来るでしょう。戸坂 一体今日の科学(自然科学を標準として)、自然科学の根本観念は、近世の資本主義の発達と共に与えられた。従って資本主義の一般的危機と言ったもの、それから当然、自然科学的根本概念そのものの一般的危機が出て来るわけだと思います。社会科学と雖も自然科学の根本概念と一定の連帯を持っている自然科学的な諸根本概念が行き詰ったとして、ブルジョア的哲学者から受取られる。そこから資本主義の行詰りを観念的に飛び越えようとして自然科学的概念に拠る認識の代りに、何か他の認識形態を持ち出さねばならない。そこで形而上学という認識の仕方が新しく思い起こされるわけでしょう。 ところが欧州のブルジョア哲学者達によると、そういう形而上学的認識は、最早欧州其のものの中には求めることが出来ず、東洋其の他の文化の中から拾い上げられねばならないと考えられる。
 シェーラーの如きも、形而上学的乃至宗教的な知識というものを……欧州を救う新しい観念的武器だと考えている。
 シェーラーの如きに依れば、飽くまでも自然科学的認識即ち科学的認識に立とうとする態度が、一般に実証主義だというので、マルクス主義なども実証主義と同じに取扱われて居る。
C そこで、ドイツのブルジョア哲学と、それの自然科学との問題が戸坂さんによって触れられたと思います。 なおB君の方からハイデッガーの哲学の社会的基礎として、資本主義の一般的危機という問題が提出されたようです。ハイデッガーの哲学は単に自然科学との連関からばかり説明出来ないと思います。実際、現在の資本主義制度其のものが全く行きつまって、如何にしても逃れ路がない、そういう事実が、直接に感情的に一般に感じられたもの、それがハイデッガーの様な不安の感情というものを神秘的に祭り上げる様な哲学を生んだということが云われると思います。
戸坂 しかし、それと同時に、ハイデッガーの哲学が何故流行し得たかと云えば、それは予め自然科学的認識に対する不信認が、横たわっているからで、現に新カント派に属する哲学などが、ハイデッガーの仕事には何等の注意も払っていないように見える。彼等新カント主義哲学者達は、多少とも自然科学的認識に信用を置いているのである、従って容易にハイデッガー風の超物理学的な即ち形而上学的な考えを受け取ることが出来ない。C しかしハイデッガーが一般に受け入れられた理由は次のような方面からも強調されねばならないと思います。 それは小ブルジョアの生活の窮迫が一方に於ては小ブルジョアを積極的なファッショ運動へと駆り立てる。
 又、一方には小ブルジョアを非常に絶望的気分に陥れます、だからウィットフォーゲルが指摘して居るように、ハイデッガー哲学は、シュパンなどが真正面からファッショを弁護するものとはいくらか異っていますが、結局、小ブルジョアの不安の根源を現実的に説明することなく、超越的な形而上学の問題に祭り上げて、ファッショの御用を勤めるのだと思います。
 なおハイデッガー哲学が非常に宗教的、特にカトリック的な色彩が強いことは、一方に於ては現在ドイツに於て、政党方面ではカトリック中央党の進出なんかを思い合わせることが出来る。また現在ドイツのパーペン政府自身が大体次の様に言っています。
我々はあらゆる私的な世界観を斥ける、そしてキリスト教の永遠の真理を擁護する。
 そう云ってるのでもよくわかる通りに、現在のドイツに於けるファシズムの発展と共に、宗教の役割が非常に重要になって来る。これらはハイデッガー哲学が一般に受け入れられる理由だと思います。
戸坂 ハイデッガーの受け入れられるのは、カトリックの哲学としてよりも、むしろ、資本主義の行詰りの小ブルジョアへの反映として説明された方が一般的ではありませんか。C そういう点もあると思います。しかし先に私が言おうとしたことは、ハイデッガー哲学が非常にカトリック的色彩を持っているということに関して、現在ドイツに於て、カトリックの著しい復興が指摘される、そういうことであります。戸坂 異議ない。B ハイデッガーがプチブルに投ずるからといって、それを主にプチブルの気分の反映として見ることは多少疑問の余地があるでしょう。たしかにそうした方面をモメントとして内包しているとは思うが、やはり本質的にはプチブルでなく、危機に瀕したブルジョアジーの気持の一面を表わしているものじゃないでしょうか。 戸坂氏の言われたように、自然科学に対するブルジョア哲学の多少とも肯定的な態度が新カント主義を以て終ってることは強調さるべきだと思います。
 ブルジョアジーが自然科学や技術を発展させる力がなくなって来た場合に、そうした情勢の下で、ハイデッガー哲学が現われたのは必然的現象であるという点、この点が強調されなければならぬでしょう。
C D君も同様なことを寸時いわれましたが、もっとよく説明して下さい。D それはB君の如し。小ブルジョアの不安に投じているからといって、それを小ブルジョアの生活反映として考えることは間違いではないかと思う。僕は今迄の話を聞いて、思い出していたのは、ドイツの今話された哲学傾向と日本の最近の農本主義のイデオロギーとが非常に密接な関係があるという点である。 農本主義イデオロギーに対しても、山川氏達はそれが農村の独立小生産者のイデオロギーだと言って居る。しかし僕等の考えでは、農本主義イデオロギーは没落過程にある寄生地主のイデオロギーであると思う。一般にファシズム・イデオロギーを評価する場合に、そのイデオロギーに引きずられる階級層というものと、そのイデオロギーを生産し指導する階級層とを区別しなければならない。その意味で、例えばドイツでも人民革命が問題であって、従って小ブルジョアの不安ということから、直ちに反動的な哲学が引き出される様にいうことは疑問と思う。
戸坂 僕もそう思う。C D君によって、その点は明らかにされたと思います。中村 ハイデッガーを知るに、何を読むのが近道でしょうか。戸坂 ハイデッガーの『存在と時間』です。また簡単に知ろうとするには、ハイデッガーの『形而上学とは何ぞや』であります。湯浅氏によって訳されたものが理想社から出版されています。
   結語

戸坂 要するにハイデッガーの哲学は、自然及び社会に対する科学的認識の否定を意味する。 それは一方ブルジョア社会の技術的発展の行詰りを言い表わすと共に、他方自然及び社会をば、いよいよ技術的に把握して行こうとしつつあるマルクス主義に対する反抗を意味する。
 その意味に於て、ハイデッガーの哲学は反ソヴェート・イデオロギーの一つの代表者と見做されるべきだ。
 一つというのは、それ自身には明確にファシズム・イデオロギーを標榜しないが、それにも拘らず、ファシズム・イデオロギーへの準備を与えるという形を言う。
B なおハイデッガー等の哲学が、現実に対する科学的認識の代りに、感情、気分と云った様なものによる非合理的な把握の仕方を強調している点も、政治的アヴァンチュリズムを特色とするファシズムに対して、理論的連関があると云えるでしょう。



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