読書法
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:戸坂潤 

 著者秋沢修二氏(永田氏に就いてはすでに前に書いた)が哲学的教養に富んだ徹底した唯物論者であることは、以前から知られている。そして宗教批判こそは氏の得意の壇場なのである。私はこの書物によって唯物論的に甚だしく啓発されたことを、素直に断わっておく。
[#改段]


 7 『現代哲学辞典』


 三木清氏が編集代表となり、他に甘粕石介、樺俊雄、加茂儀一、清水幾太郎、の四氏を編集委員とする『現代哲学辞典』が、出版の運びに至った。現代哲学研究会という或るグループを中心としての仕事であるが、この研究会のメンバーには文化上の各方面の新鋭な代表者が少なからず含まれている。その各々は夫々の専門領域をば広義に於ける現代哲学へ結びつけることを忘れない人々なのである。現代哲学辞典というようなものの編集執筆には、打ってつけのスタッフだと云わねばならぬ。執筆者は三十二名である。
 この辞典の第一の特色は、序言にもある通り、Vierkandt の Handw□rterbuch der Soziologie の編集方針に倣ったという点にある。即ち比較的少数の項目によって、最も必要な事項を網羅するというのがその建前であり、夫々の項目が比較的に詳しく説明されることによって、項目として現われていない諸問題概念も、おのずから取上げられるという仕組みである。六十七項目の内に含まれた諸事項に就いては、別に邦語及び外国語による索引が与えられていて、検索することが出来るようになっている。人名についても同様である。つまりこの形式の編集による辞書は単に検索を目的とするだけではなく、却って通読又は翻読されることを目標とするものなのだ。引く辞引であると同時に読む辞典である。この点を徹底したものとしては、日本で最初の辞書だろう。
 だから之は単に辞典であるばかりでなく、又一つの総括的な単行本と考えられていいのだ。現代哲学に就いての総括的単行本である。現代哲学という意味は併し、単に現代の哲学を指すだけではない。現代にとって生きた意味を持つ処の哲学を指すのである。そして哲学と云っても学校式な意味に於ける所謂哲学だけを指すのではなく、一切の文化・思想・学術・の根柢を一貫する統一的な脈絡物を意味する。そういう意味での広義の哲学だ。で例えば階級論とかインテリゲンチャとか、経済学・言語学・考古学・ジャーナリズム・新聞・政治学・戦争・地理学・民俗学・及び土俗学・其の他其の他の項目が含まれている。この種の項目を副次的な参照としてでなく、正面からその哲学的ヴァリューに於て評価尊重したことは、この辞典が誇ってよい態度だと思う。こういう編集方針を取ったということは、この辞典の編集が可なり卓越した見識に基いていることを物語っている。
 かかる編集上の見識、それは又執筆者の銘々に共通な見識なのだが、この見識はそれ自身一つの哲学的態度を意味している。そこにこの辞典のもつ哲学的意義の要点があるだろう。少なくともかかる哲学的態度は、諸分科に分れた文化を総括し組織づけ得る処のエンサイクロペディスト的な能力を意味する。それが無意味な、何でも屋主義に陥らぬためには、思想の相当高度の蓄積発達を必要とする。でこの辞書に現われた哲学的態度なるものは、日本の哲学界・思想界・乃至文化圏・が今日相当発達したという事情に照応するものと推定することが出来るだろう。学術の技術的なアカデミックな水準と思想的な水準とを能く接合し得たものが、これを貫く見地である。
 従ってここに一貫する哲学的見地は、勿論相当に進歩的なものなのである。執筆者の顔触れから云っても、その大体の内容から云っても、そう云うことにさし閊えはないだろう。云うまでもなく各執筆者も編集委員達も客観的公正を厳守している。それは辞書として当然であり、又思想・学術・の建前からしても当然なことだ。見解の客観的公正を厳守するが故に、進歩的見地に立たざるを得ないわけだ。
 だが進歩的見地に立つと云ってもその進歩の段階には色々ある。この書物を貫く進歩性は云わば自由主義的乃至社会民主主義的なもののそれに近いだろう。そのことの良し悪しは別問題だが、とにかく今はこの進歩性は尊重されねばならぬ。現にこうした「進歩的」な辞典、総合的見地のハッキリした而も翻読されるべき性質を持つ進歩的辞典は、日本で最初のものなのだから。□図も四十七入っていて、中々手のこんだ注意深い編集振りである。
[#改段]


 8 『人間の世界』を読む


『人間の世界』と清水幾太郎氏が呼ぶものは、社会対個人の世界であり、虚偽対真実の世界である、つまり真の人間は、或いは人間の真実は、個人の世界にあるのであり、之に反して偽った人間界或いは人間の虚偽は、社会の側にあるのである。
 勿論この個人は、社会に先行する社会の要素のようなあの「個人」のことではない。社会の内から生まれ、社会の内に住みながら、なおかつ社会を抜け出で、之をつき抜けた個人のことだ。社会から奪還された個人である。その意味から云う限り、著者の立場は決して所謂個人主義ではない。社会的な個人が人間なのであって、非社会的や社会前的な個人が人間なのではない。
 この「人間」が何であるかはとに角として、清水氏はなぜこうした「人間」や「個人」に到着したのだろうか。同氏は進歩的な社会学者である。社会主義に対する良い理解者である。にも拘らず現代日本の多くのインテリゲンチャと同様に、社会主義に対する良い理解者である以上に出ない。と云うことは、理論上でも之に対する傍観者だということにもなる。社会主義的社会科学が、あまりに多く社会と社会階級とが有つ客観的意義を強調しすぎ、個人が之を主体的に作為するという点を忘れすぎていた、という常識を是認することから、人間的真実を専ら社会ではなしに個人に求めようという結論を導き出したようにさえ、私には思われる。
 清水氏はかつての社会主義的社会科学に、或る宗教的な特徴を見たらしい。処がこの宗教的特徴を洗い流すために、社会主義的社会科学そのものからも手を引いた。その結果、同氏が最も烈しい批判の相手とした処の「社会学」的な或るものに自分自身行きついて了ったようだ。社会学というレッテルは氏にとって多分迷惑だろう。だから私は所謂ゾチオロギーだけを今日の社会学だとは思わない。寧ろ今日の日本で方々に新しく顔を出し始めた社会学は、社会主義的社会科学から手を引いた各種の文化論的社会論のことであるのを注意したい。之は現下の新しい形而上学である、文化的形而上学である。之は日本の思潮に現われ始めた新しい体系だ。
 この新しい何年型かの流線型哲学は、個人を社会から奪還することに情熱的であることを、共通特色とする。だが個人をそこから奪還せねばならぬその社会とは何か。階級的闘争場裏である社会から個人にまで脱却せよというのか、それとも又、ファッショ化乃至アブソリュティズム化しつつあるこの日本の社会から吾々民衆の各個人を防衛せよというのか。清水氏の本書に於ては、恐らくそのどっちでもあるようだ。そしてこの二つの区別が大して問題にならないようなシステムが、正に本書の特徴をなす。氏は今日の文化人の信念である反ファッショ的情緒をこの本の至る処に侵み出させている。だが之は「社会」なるノモス(法則)の世界に個人なるフューシス(自然)を対立させよということで、実地上の効果を期待出来るものだろうか。又理論上の論拠を与えられるものだろうか。
 氏は反ファッショ的な情緒の論理的背景として、合理主義について思いをめぐらしている。だがこの合理主義と個人奪還説とは、どうやって結びついているのだろうか。反ファッショ的論拠が合理的精神にあることは、当然であり又今日の常識だ。だが今日の文化上の根本困難の一つは、この反ファッショ的な合理的精神と人間個人の復活という二つの常識の間に、どういう必然的な繋帯を発見するかにある。今日の日本のヒューマニズム論議が今だに解き得ない要処がここだ。この『人間の世界』も、この点に来るとやはり無力であるようだ。
 だが本書の価値はまず、人間が人間外、人間以上、のものに対する、反逆この反逆一般の精神にあるのである。思えば今日程人間の反逆的精神一般が不足を感じている時はない。反逆精神が減ったからではなく、反逆精神の必要が増したからである。そこで清水氏は、悪を(之は必ずしも神学的なあの悪のことではなくて社会面の記事で云う社会悪に近い)反逆の一つの形式と見る。個人の傲慢不遜も新しい反逆のモラルと考えられる。所謂歴史論風な歴史も亦踏みにじられねばならぬ。ここが著者の本書に於ける結局の覗い処であり、同時にここが本書の結局の価値である。――私はこの点甚だ同感だ。だが依然として、この反逆が反逆一般であることについては心配がなくはないのである。清水氏は、この本を、人間を「強く」し、人間が自己を「幸福」にするために書いている。そのモラリストらしい心情は共感を禁じ得ない。ただ強がることも「強く」なることの具体的な一場合だし、「好い気になる」のも幸福の一種であるということを、清水氏は林首相や文武官僚などに教えねばならなかったのである。
 私はこの本を実は、極めて特色の豊かな、而も時代を象徴するに足る、良書だと思っているのだ。それだけに自分の意見を混えて見たくなるのである。
[#改段]


 9 朗らかな毒舌
       ――『現代世相読本』――


 阿部真之助氏の『現代世相読本』が出た。みずからいうところによると「この二、三年来の私の所謂『毒舌』の集積であって、いい換えると、私の善人振りを証明したものである」という。この言葉は決して嘘ではない。これほど痛快な毒舌を他に求めることが出来ないと共に、これほど善意で朗らかに読み取れる毒舌もまた少ないだろう。阿部真之助氏独特の毒舌タイプである。
 政治論約十六篇、時事論評約五十四篇、人物論大小合せて六十五篇程、他に婦人論その他の雑評九篇からなっているが、見られる通り人物論が比率にして一等多い。そしてこの人物論こそは最も利き目のある毒舌振りなのだ。と共に、又この位い素直さと一種の同情とによって貫かれた人物論を他に見ることが出来ない。氏は見方を誇張もしないがまた遠慮もしない。これは個人的利害関係の介在しない場合にだけありうる批評眼だが、しかしその他に批評家の持つべき確実さともいうべき或るリアリズムがなくては出て来ない風格だ。ところで氏はこのリアリズムに、キビキビとしたユーモアまたは愛嬌で更に一段と磨きをかけている。
 ありとあらゆる分野の人物を、よくもこんなに知り、よくもこんなに調べたものだという感じだ。新聞記者でなければ出来ない仕事だが、またただの新聞記者では書けないものだ。主観めいた観察のポーズなどは遙かに卒業済みであり、下手な人間学に陥ることを避けて、人物をその仕事と客観的な環境とから洗って行くところは、敬服に値いする。生きている人物の評論(棺を覆わぬ内の人物評論)として、上々のものだろう。
 人物論といっても大体において、政治論または時事論評と大して変った内容のものでないことは、寧ろよい特色だと思われる。ところで政治論の一群は言論界の苦労人であることを示すに充分である。時事論評にはやや一応の常識に流れたものも多いが、健康なリベラリストとしての強靱性を示していることに変りはない。婦人論や雑評もまた大体人物論に帰するが、これはうらやましくも最も余裕綽々たるもので、全く面白い。
 阿部氏の最も得意とするところはつまり人物論であるという結論に、私はこの本を読みながら到着した。そしてその人物論が、実に現代世相を物語るそれぞれの短篇作品になっているというわけだ。杉山平助風の文学者的人間論とも違えば、野依秀市式の政治屋流人物観とも異る。正に阿部流人物論の型を確立したものといってよい。
[#改段]


 10 入沢宗寿著『日本教育の伝統と建設』


 日本の伝統の問題、単にこの伝統なるものをかつぎ回ることではなくて、実際問題として之と取組まねばならぬという関係、夫は教育に連関して初めて切実になる問題だ。日本伝統なるものは教育に際して初めて実際問題となると思う。そういう意味で私は本書の書評を引き受けた。割合慎重に読んで見て得た収穫は、或る程度まで私の渇望が充たされたということである。だがそれだけに又、私がこの日本伝統の問題に関して懐いている疑点が、クローズ・アップされたことを意識する。
 本書は四つの部分から成り立っている。第一篇「日本教育の伝統と現代」、第二篇「日本教育と宗教教育」、第三篇「日本教育内容の改善」、それから付録である。本篇三箇を一貫するものは、宗教教育の提唱である。著者は日本教育の伝統を歴史的に叙述することによって(「我が宗教教育の歴史的考察」や「日本教育史に於ける仏教教育」の如き)、日本教育の本質は宗教教育にあることを明らかにし、それが明治維新の誤った排仏毀釈と、キリスト教学校の反国家的教育方針とを縁とする宗教一般の否定、とによって遺憾ながら見失われてしまったことを反復力説する。道徳からさえ宗教的意味を取り捨てて了った。処で最近、学校に於ける宗教教育が説かれるようになった現象は、全くわが意を得たものだと考えている。
 著者の云う宗教教育とは宗教的情操の教育であって成立宗教のものではない。そして夫は日本に於て、祖先崇拝・敬神・等々から始めて、忠君愛国にまで至り得べき国民の宗教意識を指す。一切の教科はここに発しなければいけない。修身・作法・国語・歴史・公民科・等々は云うまでもなく家事や理科に至るまで、専らこの宗教教育に帰着せねばならぬとする。
 処で日本国民の宗教的情操は又、仏教・儒教・神道・と離れてはあり得なかったし、又あり得ないと考えられる。つまりこの三つの「教え」を単に道徳的内容と見ることが誤りで、之を宗教的な内容だと見ねばならぬとする。かくて日本国民の伝統たる例の宗教的情操は、神仏儒を一丸としたような内容を持つことによって、まさに「教学」となり「学問」となるものでなくてはならぬ。日本国民の「宗教的情操」とその東洋的な「教学」とが、どう結びついているのかは、実はあまり明らかにされていないと思うが、とに角之が日本文化の伝統であり従って又日本教育の伝統であるということは、正に大いに首肯すべきだろう。
 だが問題はこの伝統がなぜ明治政府によって断絶せしめられたように見えたかである。夫は単に「誤った」教育政策などに帰することは出来まい。日本の資本主義と夫の基底に横たわる生産技術とを見逃しては、前資本主義的伝統の理解は途方に迷うだろう。著者はこの点についてあまり注目していない。単に、徒らなる排外主義は心ないものだ、大いに西欧的観点をも容れて日本教育の伝統を生かし、以て新日本教育を建設せねばならぬ、と云った種類の気休めに落ちているように見える。
 終局の問題は著者の教学のイデーの内にある。教学は東洋的封建観念論の性格的なもので、生産技術と凡そ無関係なことを一特色としている。それであるが故に、之は科学ではなくて教学であり、学術ではなくて教えなのだ。だから著者が理科教育などについて云い得ることは、自然を通じて神を見ることを教えるのだとか、優れた自然科学者は又宗教家であるとかいう、ナンセンス以上のものではあり得ないのである。教学主義を以て理科教育や科学的精神の教育を企てることが如何に無意味であるかを、吾々はもう少し真面目に省察することが必要だろう。――こう考えるとき、私は日本伝統の問題の困難さを、この書物によって愈々切実に感ぜざるを得ない。
 著者は、教育は「児童より」と称して、児童の要求を出発点とすることを力説するように思われるが、今日の日本の児童の心理がどういう動向をとりつつあるか、之を社会的に観察した結果は何であるか、夫を私は著者から聞きたいと思う。子供は或る種の大人よりも、現代生活のリアルな真実をもっとよく知っていはしないだろうか。処が著者は子供達の社会の現代的動向を洞察するよりも、寧ろ文部省其の他の法令や制度や教員などの方に、より以上の教学的情熱を示しているようである。
 云いたい点は沢山あるが、紙数に制限があるので割愛せねばならぬ。実を云うと私は著者の実際家らしい識見に啓発される処が甚だ大きいのだが、夫と同時に右に述べたような疑点が却って鮮かに私の眼の前に浮び出して来ることを禁じ得ない。なお付録の四つの文章は有体に云ってあまり共感出来ないものだ。
[#改段]


 11 小倉金之助著『科学的精神と数学教育』


 科学的精神は時代の最も重大な課題である。之こそ現代人の建設の課題であると共に、現下の国民にとっての文化的性能の試金石であると云ってもいい。この時現われた本書の意義は、私が改めて説明するまでもないと思われる。
 小倉金之助博士は、数十年来、首尾一貫して科学的精神の提唱と検討とをその文化的目標としていると云っても云いすぎではない。博士が実用数学の権威であると共に数学教育の権威であることは人の知る通りだが、この実用数学についての抱負と云い数学教育の理想と云い、科学的精神問題以外のどこからも発してはいない。
 氏によると科学的精神とは日常生活から科学的認識を導き出すことである。数学も亦そのようで実用性に基いて史的発達を遂げたものであり、従って数学教育の道も亦この数学史の個体発生的に反覆する事になければならぬ。かくして数学教育の目的は科学的精神の獲得にあることとなる。勿論之は単に数学教育に限ったことではないのであるが。
 生活は科学的精神から離れて一刻もあり得ない。それ故科学的精神とヒューマニズムとは離れてはあり得ないと氏は主張する。
 この思想はヒューマニズムを科学的精神の反対物ででもあるかのように妄想している一部の人達に、猛省を与えるのに最も役立つだろう。序篇と本篇とから成り、前者は比較的旧い時代のもの、後者はこの十年あまりのものである。
 序篇から本篇への進歩は、マッハ主義から唯物論への前進と社会科学的省察の徹底とに現われている。本書は『数学教育の根本問題』や『数学史研究』『数学教育史』を貫く根本精神の顕揚に資するために存在する。
[#改段]


 12 社会・思想・哲学・の書籍について


 聞く処によると、今年(一九三六年)の出版界は前年度に較べて多少勢づいて来たということである。尤もここで出版界というのは、文化的に一応承認された水準に達したものの出版をする世界のことで、色々な意味に於てインチキな出版物は計算外においての上であるようだ。つまり云わば真面目なものが、従って亦所謂「固い」ものも、前年度より少しは余計に出版されたと云われている。之は正確な統計によらなければ、何とも云えないことであるが、併し恐らくこの見方は当っているのではないかと思う。
 その本質上の動きはとに角として、所謂右翼(国粋・ファッショ・反動)の華々しさは、昨年の暮から今年の初めにかけて、多分その絶頂にあっただろう。それ以後は、華々しさの点から云えば、夫は下り坂になっている。例えば新聞は昨年頃よりは少しは自由に、日本の政治的動きに対する批評を下し始めることが出来たし、右翼も亦その所謂「右翼小児病」を清算して、観念的な華々しさから転向するようになった。無論その根柢には、右翼団体の戦線統一や大衆化というものが、かくされているのであるが、夫と同時に、今ではすでに、露骨にセンセーショナルな右翼張った口吻は引き潮になった。無論そういう皮相な変化は、一等よくジャーナリズム営業に反映するものである。
 で、機関説問題などがやかましかったに拘らず、そして之に関する多少は形をなした書類も無論少なからず出版されたにも拘らず、出版界の大勢は、もっと真面目に落ち着いて来たと見て好いだろう。流石の宗教物も急速に下火になったようだ。もしこのブルジョア社会に、仮にくだらぬ愚劣なものであるにしても、とに角世論というものがあり、それが少なくともジャーナリズムには直接の関係があるとすれば、この世論は、たしかに今年になってからは、もっと真面目な内容のある読物を要求したと云わねばならぬ。ここに世論とは、文字を読む社会層のその時々の共通感情の発現のことだが。
 読書界の真面目な内容のあるこの落ち付き振りは(但し夫をあまり買い被ることは出来ないが)、二つの方向を取って現われた。一つは左翼的内容を有った出版物の復興であり、而も以前よりは一層落ち付きのある内容を有った出版物の復興であり、もう一つは、広い意味に於ける古典的な文学的著作(必ずしも文芸物には限らぬ)や自然科学的著作などの相当計画的な出版である。この後の方の場合は、おのずから、一見政治的傾向とは関係の薄い、云わばイデオロギー的に見れば中性を帯びたように見えるものの出版で、この出版現象が社会現象として実際に何を意味するかは別として、とに角読書としては一種の落ち付きに基くものと見ねばなるまい。
 所謂左翼出版を行なって来た出版業者は二三年以前までに仕事を抛り出して了ったものが沢山あった。希望閣・共生閣・鉄塔書院・其の他がそうだった。今年の一九三六年の初めまでに残った左翼的出版業者は叢文閣と白揚社とナウカ社位いなものだろう。処が最近では多少そうした種類の出版物に関心を持ち出した書店がなくはない。例えば三笠書房などがその例だろう。そうしてこのいずれの出版業者にしても、その出版書籍の口数は決して他の種類の出版業者に較べて少ないとは云われないようだ。少なくとも今年になってこの種の出版は相当調子づいて来たように思われる。
 社会科学方面では、小林良正、森喜一、相川春喜、永田広志、其の他の諸氏の研究が白揚社から単行本になって出た。野呂栄太郎氏の『日本資本主義発達史』が岩波から再版されたことも注目に値いする。叢文閣は、ヴァルガの年報を続けて翻訳出版していることは別として、ヴィットフォーゲルの『市民社会史』其の他やダットの『ファシズム論』や、ポポフの日本に関する諸研究など読み応えのある翻訳物を続々出版している。
 哲学・自然科学・方面では、白揚社から出た秋沢・永田・両氏の宗教批判講話、巌木勝氏の日本宗教史などがこの方面の開拓者の役目を果したと見てもいい。永田広志氏や私なども、哲学に関したものをここから出版した。岡邦雄氏は自然科学史を出した。アインシュタインの『わが世界観』も出た。考古学や言語学に関する訳も出た。三枝博音氏と戸弘柯三氏とは日本思想史に関する書物を他の書店から出版している。ナウカ社はソヴェートに於ける自然科学的著述の翻訳出版に力を注ぐ。数学や物理学・化学・などに関する中等教程とか、『ソヴェート科学の達成』とかマキシモフの自然科学とレーニンとに関する論集とかも出た。三笠書房は最近『ソヴェート文学全集』を出しているが、之と前後して、『唯物論全書』を続刊している。之は唯物論の視角から見た学術的に根本的な諸テーマを取り上げて研究解説したもので、日本では最初の企てだと云えるだろう。すでに十三巻以上出ている(一九三六年まで)。
 著書の序でに、左翼的な又は建前に於て進歩的な評論乃至学術雑誌を見るとすれば、『経済評論』(叢文閣)、『歴史科学』(白揚社)、『唯物論研究』(唯物論研究会)、『社会評論』(ナウカ社)、其の他の読者の定着を注目しなければならぬ。
 以上は或る意味に於て「左翼的」(?)な、と云うのは、本当の意味に於て進歩性を建前とする、出版界のことだったが、その実質的な内容から云って、到底、所謂右翼出版物の遠く及ぶ処でないことは今更問題ではない。尤も企業的に見て、どっちが儲かっているかは、私の知る限りではないが。
 併し、イデオロギー上の中性を有つ出版物が、著しく盛大になったことは、今年の何よりの特色に数えられるだろう。自然科学関係のもの(例えば『岩波全書』)が多数出版されて重厚な読者層を見出しつつあることは、之も一つの思想上の現象であり、中性に於てサスペンドしようとすると共に、しばらく退いて落ち付いた勉強をしようという、社会意識の現われだろう。でこの種のものは多く教科書の形をとる。そしてこの中性式教科書好みは無論決して自然科学だけではなくて、社会科学に就いてもその通り云われることだ(尤も改造社の『現代金融経済全集』や『統計学全集』などは、評論社や改造社が往年競争して出版した『経済学全集』の類とは較べものにならぬが)。この教科書好みの大規模なものは辞典や古典の全集となって現われる。辞典の方は尤も、勉強を省略しようとする読者にとって魅力を有つが、古典の全集は恐らく勉強するために買われるわけだろう。文芸辞典やゲーテ・ニーチェ・ドストエフスキー(尤も再版)其の他の全集が、出つつある。
 だがイデオロギーの中性を求めるというこの読書界の大きな部分の現象、即ち又それに相応する出版界の現象は、一面に於て地道な手続きを取った探求の精神の現われであると共に、直ちに又他面に於ては、却ってつきつめる底(てい)の探求を放擲するものであるということを、深く注目しなければならぬ。之は左翼運動家の転向現象とも一定の関係があり、左翼思想家の退却とも連りがあり、それから特に文学の世界に於ては、文学主義化の傾向とも連絡があるのである。だから例えば、同じく中性的な哲学でも、普通のコースを取った所謂哲学という形を有つ哲学よりも、文学主義的な立場をハッキリと表面に現わし、従って文学的な内容の豊富なような哲学が主として選ばれた。『ニーチェ全集』やキールケゴールのもの又或る制限の下では『ゲーテ全集』などが夫だ(ニーチェに関する研究書は著書と訳書を加えて三四種に及ぶ)。之に反してプロパーなブルジョア哲学の出版物は、解説風のもの(岩波の『大思想文庫』)を除けば、非常に少ない。
 この中性的イデオロギーによる出版現象の台頭に直接する、哲学・思想・社会・理論・其の他の一種のこの文学化と関係するものに、批評の問題への関心が存する。ティボデ、ファゲ、サント・ブーヴのものなどが訳されている。之は元来、吾々の問題探求の深化でなければならないのだが、下手をするとその皮相化に終る危険があるだろう。
 政治上の自由主義はとに角今日極めて困難に面接している。之に反して、右に見たような意味に於て、文化上の自由主義は中々盛んであり、又根強いものがあると考えられる。もし左翼的な進歩性と、自由主義者の進歩性とがあるとすれば、この両者がいかに結びついて行くかは、一九三六年度の出版界に就いての興味ある観点だろう(私個人の関心が累して遺漏と偏局とがあったと思う。紙数の制限のために省いたものも多い)。
[#改段]


 □ 余論




 1 ブック・レヴュー論


 厳密に考えて行くと、ブック・レヴューというものの意義は意外の処へ連っている。元来「本」という物が、一方に於ては思想の表現物だし、他方では之とは独立的に、一つのジャーナリズム的商品で、印刷や装幀という物質的条件を含む。本に現われた表現報道現象の、表現上又は報道上の価値は、必ずしもそのまま本という商品の交換上の価値であるとは限らない。現に、本という商品はその内容の良さだけで売れるのではなくて、本の名前や著者の有名さや人気や時宜や広告のスペースや広告文の偉力で売れるわけだから。
 本というものがこういう二面を備えたもので、而もこの二面は必ずしもうまくソリの合ったものではない。だから、ブック・レヴューも亦単純なものではない。思想表現物としての本という側からブック・レヴューを試みれば、之は正に評論・レヴューというものであって、単に本自身を批評するのではなく、之によって著者の思想自身を批評するのだ。この種のブック・レヴューは決して珍しくはない。一例を挙げるに止めるが、ライプニツがロックの『エッセイ』を逐条評論した大著『ヌーヴォ・ゼッセイ』は、ブック・レヴューでないとは云えまい。マルクスの『ヘーゲル法律哲学批判』(本文の方)や、エンゲルスの『反デューリング論』などを思い出して見てもそうだ。解説書・注解書・までも考えるなら、この種のブック・レヴューが、文学史や思想史の上などで如何に多すぎるかを、読者は知っているだろう。
 処がそんなものまでをブック・レヴューと呼ぶことは非常識の至りで、アカデミックな愚挙に他ならぬという非難があるかも知れない。だが実際はそうでもないようだ。何となれば、大小の雑誌に載る「ブック・レヴュー」(「新刊紹介」・「新刊批評」・其の他)其の他、は勿論書物の内容に就いての解説・注解・批評・を含んでいるので、単にそれが、原稿用紙にして数枚とか十数枚とかいう短いものに過ぎないのが多い、というまでである。以上は思想の表現物としての側から、本をブック・レヴュー(図書批評)したものであるが、他方之に対立するジャーナル商品としての本をブック・レヴューするという側面を考えてみると、その極端なものは広告文なのである(一二のものを除く大方の新聞の読書欄ブック・レヴューも、出版屋が原稿料を払うのであるから、広告の意味を有っている)。新聞の広告についても、広告主の出版屋や新聞社の営業の方では、記事とは別な「広告」だと考えているかも知れないが、読者の方から云えば之は最も重大な「記事」(時報的なニュース)の一つなのである。東京新聞の第一面出版広告欄がもつ記事としての魅力は、大阪新聞のただ中に置かれたことのあるインテリならば誰でも気づく処だろう。この広告文が意味のない最大級の誇張と、不正確なペテン解説とに終っているという習慣は、一つには出版者の教養の問題にあるが、不都合なことだ。私は著書の広告文は著者みずから自己解説するのが本当だと信ずる。著者たるものはゼルプスト・ダルステルングする権利と義務があると信ずる。序でだが、広告文を自分で書くことによって、例えば無意味で陰険な謙遜という東洋的な著者の悪習も、自然矯正されるだろう。之は自他を公正卒直に評価する風習に貢献するだろう。序文を書く時の著者というものは、多少センチメンタルになっているもので、酒癖の悪い少数の者は徒らに威丈け高になるが、大多数はヤニ下るものだ。例えば経済学の著書の序文に和歌などを入れたくなったり、擱筆の瞬間? の風物を抒したりしたくなる。それもいいだろうが、序文は著書の著者による自己解説であり、最も意味のあるブック・レヴューの一種だ。新聞学芸欄のブック・レヴューが著書の序文だけを材料として新刊紹介を企てるのも、ニュース・センスとしては正確なのである。
 さて普通に漠然と考えられている所謂「ブック・レヴュー」は、一面に於て著書に盛られた著者の思想の原則的な解説・批評・であると共に、他面に於て、出版物としての本に対する公正な読者による時事的な解説・批評・を建前とするものでもある(ブック・レヴューが新刊を選ぶ場合の多いのはこの点から当然である)。後者の意味では出版の体裁、ヴォリューム、定価に至るまで、批評されねばならぬ。処が実際には定価やページ数という商品としての本質をあまり重大視しないブック・レヴューが珍しくない。東京其の他でこそ、店頭で自由に新刊本を手に取って見ることが出来るが、地方読者はこういう風にジャーナリズムずれする機会がないから、地方読者はブック・レヴューを最もよく活用する人だ。読者が一人の経済人として本を買う時の参考になるように書くのが、商品出版物としての著書のブック・レヴューのやり方であるべきだ。――で多くの雑誌がブック・レヴューに、つけ足りのスペースしか割かぬのは考えの不行届きから来る誤りである。一定数以上の本をブック・レヴューするのが、特に評論月刊雑誌の使命の一つである。この際ブック・レヴューが一定数以下では、偶然性に支配されるので殆んど無意味に近い。外国の学術雑誌がブック・レヴューに絶大な意義を置いているのは羨望に堪えないものがある。
[#改段]


 2 読書家と読書


 イギリスの数学教育者であるペリーが書いた有名な『数学教育論』を読むと、アレキサンドリア的な数学教師というような言葉がよく使ってある。丁度古代文学を集大成したアレキサンドリアの学者のように、ペダンティックな教科書を用いて幾何や代数の教育をやることを、何か学者らしい態度だと考えている数学教師のことを指すらしい。
 私はこの言葉が大変気に入ったのである。勿論数学の世界だけではない。一切の科学また芸術の世界に、アレキサンドリア主義者がはびこっているのである。数学とアレキサンドリア式文学とは、あまりに明らかに過ぎる対蹠をなしているから、事情の妙なことはすぐ気がつくけれども、文化に関する科学や文学などとなると、このアレキサンドリア振りは、人の気のつかない内に、思わぬ勢力を張るものである。私は或る冊子をのぞいて見て驚いたが、その本は「科学精神」とかいうものを批判するのに、日本の高貴な方の和歌や、偉くも何ともないようなヨーロッパのあれこれの学究の片言双語などをもって自分の論拠の助けとしているのである。スペンセル氏曰く、の類のモダーン版なのだ。
 また私の曾て勤めていた或る大学の東洋哲学の教授先生は、議論が少し込み入って来ると、やたらに審美的な漢詩を引用して、自分の主張の論拠に代えようとするので、大いに困らされたことがある。こういう誰が見ても妙な滑稽な現象は、歯牙にかけるに値いしないが、しかし考えて見ると、今日の「学問」とか「教養」とか「学殖」とかというものの大半が、これと同じ本質であるといわねばならぬ。
 世に愛書家なるものがある。また蔵書家なるものがいる。いずれも性のよいのと性の悪いのといるが、今は問わぬとしよう。これに因んで読書家というものがいる。大体において物知りで博学な人である。ところが読書家の大半が、恐らくこのアレキサンドリア派なのである。ただそのアレキサンドリアン振りが、比較的馬鹿げていないかいるかの差はある。しかし実は、本を読むことから少しも利口になるのではなくて、却って読めば読むほど、頭が悪くなるという点で、同じ本質のものなのだ。現に今の私自身、この間偶然ペリーの本などを読んだものだから、そんなものを引合いに出さなくてもよいのに、何か文章に色艶でもつけようというような潜在意識で、アレキサンドリア主義などという衒学的な言葉を使って見たくなったのである。私の思想、それはここでは、文献学というものが軌道を脱線すると文化にとってどんなに有害であるかということを指摘論証しようという思想だが、この私の思想は、こういう「読書」によって一見豊富になったとも考えられるが、同時に著しくレディー・メード化して貧弱になったとも思われるというようなわけだ。
 本が如何に人間を馬鹿にするかということについては、昔から色々の人が述べているが、それは決して逆説ではなかったのである。いわゆる読書子には、案外特色のある思想家はいないというのが、事実ではないだろうか。本を読まない人間の無教養は今問題でない。本を読む人間の内で、読書子や「読書家」は決して信頼すべからざる文化人である。彼等は雑誌の投書階級のような特色を、一般文化の上でもっているようにも思われる。一種の謙遜な弥次馬でなければ、不遜な能無しである。
 こういう読書子は決して「読者」の代表者ではあり得ない。真の読者は読書主義には陥らぬものだ。というのは本を読むと同時に、それだけの分量の時間を、自分自身で物を考えるのに使う義務をみずから課しているのが、本当の読者である。本を読んだかどうかを記憶する人ではなくて、本を読むことによって何を考えたか、を記憶する人が、本当の読者である。
 ブック・レヴューが最近盛大であるが、これはこういう「読者」を代表するところの、批評家の大きな仕事の一つなのだ。文芸の出版物を批評することが所謂文芸批評だとすると、一般の出版物を批評するブック・レヴューはクリティシズム一般の仕事の筈である。ブック・レヴューは、本格的な文明批評の一環である。アナトール・フランスなども文芸上のブック・レヴューによって名をなした。古来批評家は書評家である。ということは、批評家は本当の「読者」の代表者だということである。これはアレキサンドリア派の文献主義者なる所謂読書子や「読書家」のよくする所ではあるまい。
[#改段]


 3 論文集を読むべきこと


 大抵の本屋は、書き下しの単行本を書け書けという。一遍雑誌其の他に載ったものはあまり売れないという。論文集や評論集にしても書き下しの論文が這入っていないと売れないと云っている。或る本屋は論文集ならば、仮とじにして簡単に中味のわからぬようにしておく必要があると主張する。蒸し返しの中味をなるべく暴露する機会を少なくしようという魂胆である。なる程之は尤ものことで当然至極な考え方のように見える。一遍読んだものを誰が繰返して読むものか、と考えられるだろう。処が私は、これに大反対なのである。尤も、大反対と云っても、そういう論文集や評論集が売れないということが嘘で、大変売れるものだと主張する心算ではない。多分売れにくいのは事実だろう。だが私はそういう事実が気に入らないのである。そんな事実に不平なのである。事実に不平を云ったって仕方がないと言われるかも知れないが、併し少し不平の声を大きくすれば少しは改まる事実だろうと思うので、云って見れば、読書術の水準がもう少し向上(?)すれば、評論集や論文集がもっとよく読まれるようになって行くに違いないというのが、私の意見だ。
 例をまず他の方面から取れば、私など絵の普通の展覧会は到底見るに耐えないのである。疲れるも疲れるが、テンでわからぬし、テンで興味がわかないのだ。無意味な印象が明滅交替するにすぎない。処がそれが個展となると、実に面白く、注目した絵の印象はいつまでも忘れない。
 短篇小説もそうである。評論雑誌や文学雑誌にのるものを私は一つ一つ読んで行くことに、儚なくなるような苦痛が伴うのだ。勿論私は月々の作品の大部分を読んでいるのではないから、一人一人の作家について充分な用意が出来ていない。だから結局その作品の世界がわからずに終る場合が尠くないのだ。
 評論や論文もやはりそうなのである。或る人の思想は一つや二つの文章を偶然のように読んでもわかるものではない。どうしても或る程度体系的に読まねばならぬのだが、それでは初めから纏めて書いた書き下し単行本が一等いいだろうと考えられるかも知れない。併し事実はそうでない。或る人の考えを最も特徴的に知ろうと思う時、私など最も頼みにするのは、その人の論文集や評論集なのである。之を割合に克明に理解すれば、その人の思想の骨肉ともに比較的早く呑みこむことが出来る。大がかりに書き下した「体系的」な著述の類は、云わば文筆的な儀礼が大部分を占めていて、筆者の本音は仲々伝えられるものではない。
 それに所謂書き下し著書なるものは、一種気合いの抜けた、平均された結論が先に立っているもので、著者の思考の苦心の跡は、お客さんの前に出た主人達の夫婦喧嘩のように、ケロリと片づいて見える。これでは読者は、あたりさわりのない隣人の程度を容易に出られるものではない。どうせ物を書くのは、日記にしても著書にしても、一つのポーズであることは甘受して肯定しなければならぬが、ポーズにも儀礼的なものとそうでないものとがある。所謂体系的な著書は第一公式か第二公式の儀礼に従ったものなのだ。
 評論集や論文集は、併しそうではない。一篇々々の文筆が粒々たる苦心と混乱克服との跡である。遂に混迷に立ち佇んで終っているものさえある。そしてこの文化的に愛嬌さえある文章の一つ二つを丹念に読み、其の他の諸篇を参照しながら行くと、不思議と、或る抜け穴が見えて来るものだ。そうなれば著者の考え方と思想とは、もしも著者が文化的なロクデナシででもない限り見当がつくものだ。これで見当のつかない著者は、よほど独自な難解な人物であるのか、それとも全くナッていない作文屋であると見れば、間違いないようだ。
 かくて私は論文集や評論集の、学術的価値と文化的意義とを、高く尊重すべきであると結論する。夢々無知な本屋などにダマされてはならぬ。――それから序でに云っておくが、私の論文集はいくつか出ているから、以上の根拠により、今後遠慮なく売って欲しいものである! 一九三七年九月二十七日、誕辰の佳日に当って、一筆件の如し。
[#改段]


 4 如何に書を選ぶべきか


 私は学生の頃、数理哲学に関する本を店頭で買ったり注文したりして集めた。この頃は高価くつくので、最近の出版のものは持っていない。次に空間や時間に関係した書物を集めた。之は今でも、外国書のカタログを見た時に、徴しをつけておいて思い出せるようにしている。是非要りそうなものはメモにとっておく(いつか大いに役に立ちそうな本はなるべくメモにしておく)。安いものは早速取り寄せる、取引先は東京にあるのだから。一頃は物質に関する文献や、唯物論に関した文献も機会あるごとに買うことにしたが、前者は近代物理学に関係があるので高価くて買えないし、後者は稀覯本が多くて、一向捗らない。ファシズムに関する日本で出た単行本は今でも注意して買っておくことにしている。一頃新聞乃至ジャーナリズムに関する書物を買うことにしたこともある。之は古本屋に思いがけないものを発見することが珍しくない。
 何も併し、之は私の収集趣味からではない。私はもっと本を実用的に考えている。だからどんな偉い本でも、大切な本でも資料という資格をしか与えない。どんなによごれていても、半ぱでさえなければいいと思っている。どっかの学生が使った仮名で訳を盛んに書き込んだものでも、安価くて資料として役立ちそうなら平気で買うのである。
 私の興味には自分でもよく判らない或るシステムがあるのであって、処々にテーマとなるようなステーションがある。そこのまわりの本を買っておけば、ステーション相互の間に、いつの間にか意外な連関が発見される、とそういう気持ちがするのである。実際そうなった場合もあれば、どうもなりそうもない時もある。つまり私の興味の網の目にひっかかった本を、何はともあれ(安価である限り)買っておく。こういうライブラリーが、まず五千冊にも及べば、少しは役に立つセットになるかと思っている。
 どうしても新刊書を買いたくなるものである。自分には縁遠いと知りつつ、新刊書だというだけで、買って見たくなる本もある。新刊書の魅力というものは不思議なものであるが、一つには時代の動きが私を誘惑するためだろうし、もう一つは他人に負けまいという我慢も知らず知らず働いているようだ。おかげで随分つまらない本を読まされることも少なくないが、併し新しい関心の開拓には、確かに新刊書が最も有効であるように思う。そこは大体好奇心であるが、好奇心はごく新しい新刊と共に、又約十年以上も旧い古本に対しても動く。
 私は古くなった新本よりも、本当の古本がすきで(恐らく安価いことがそういう審美感を産むのだろう)、古本屋で本を眺めながら色々の想念を捉えることが楽しみだ。どうも之は東京堂や丸善では起きて来ない気持ちである。
 本を買うのはすぐ読むためとばかりは考えない。私にとっては買って持っている本は、読んで持っている本の三分の一の価値、読んで今持っていない本の、二分の一位いの価値、があるように思える。本は読むためばかりではなく、見るためのものでもあるし、所有するためのものでもあるというのが、私の持論である。
 皆んなが読むものを、是非自分も読まねばならぬというのは、あまり賢明なこととは思われない。大変価値のある本とか、自分が読んだら特別の意味があるとかいうなら別だが、他人が読むからという理由で、読むのはヤキモチの一種である。本というものはなるべくなら他人に読ませて、その読者にその本を紹介させたり批評させたりして、その要領で大体の見当をつける方が、正しい勉強(?)のように思う。自分は自分の本を読むべきであって、他人の読む本を読むべきではない。
 何でも読んでやるという太肚と野心とが絶対に必要だが、読む順序には自我流の見識がなくてはならぬようだ。一頃猫も杓子も騒ぎ立てた本で、その後全く声も聞かなくなったような本を悠々と読んで見るなどは、中々痛快なものである。之は他人の知らない本をコッソリ読んで、種本にしたりするよりも、公明な心境だろう。読むのは凡てを読め、読む順序は独断的であれ、と私は思う。
 読む順序のシステムは、教程のように初めから人工的には決らない。次から次へと自然に導かれるべきである。次の本を選ばせるだけの暗示を与えない本は、その当座は自分に役に立たぬ身に添わぬ本と思えばよい。そして次のは、割合あてズッポーに選べばよい。問題にひっかかって来ると、本の選択などは本自身が教えて呉れるだろうと思う。
 一定の限られた解決を必要とするような形での研究上の選書法は、恐らくその時々で異るだろう。私が考えて見たのは、半ば研究的で半ば教養のための、選書法のことである。
[#改段]


 5 論文の新しい書き方


 文章の書き方、論文の書き方、については、旧くから色々云われている。書き始めはどう、中の処はどう、結尾の辺はどう、という具合に、何かの範型があるように云われて来ている。なる程唐宍八家文などにはそういう手本になるようなエッセイが大分ある。だが私は、韓退之のようなああいう艶っぽいくせに鈍重な「論文」は大きらいなのである。一体、支那の古典文が大方そうなのかも知れないが、あれは作文であって論文ではない。作文には規範めいた定式は考えられるが、論文にそういうものはあり得ないだろう、というのが私の考えである。特に大臣の演説や政治家や軍人の教化的講演をここから連想させられると、もう我慢が出来ない。なぜ日本の支配者達はこんなに考え方が作文的なのかと、味気なくなるのである。
 それはさておき、論文には一定の型式となるようなものはない。内容が一定の文章を要求するのである。書く人は出来るだけの力を自分なりに発揮して、この内容を自分自身に逐一納得の行くように整理し点検して行けばいいのである。それがおのずから、読者にもよく判る論文となるのであって、普通の論文では、人に判らせるために書いたものよりも、書く当人によく判らせるように書いたものの方が、判りがいいのである。尤も判るとか判らないとか、やさしいとかむずかしいとかは、読む人の教養と思考力とによることではあるが、少なくともユックリと丹念に読む場合、専門の特別な論文でもない限り、正しいものなら必ず或る程度、要点は判るものだ。
 一読して、つまりごく不注意に読んで、何だか判ったように思われる論文でも、少し疑問を持ちながら注意して読むと、一向取り止めのない判らない論文がよくあるものである。その人間の云いたいことがさっぱり判らないのは論外としても、云いたいらしいことは大体常識的に見当はついても、さてその云いたいことがその論文によっては一向特別な根拠を与えられないようでは、その論文は要するに何の役にも立っていないのであって、ただ、こうだああだ、と主張だけを書いた方がまだしも正直なことで、論文の体裁などはコケおどしの見せかけに過ぎなくなる。つまり既知の常識を常識として反覆するだけで、その常識を掘り起こすでもなく、糾明するでもなく、高めるでもない。こういう論文はアタマの悪い論文である。そしてアタマの悪い論文は、往々歓迎されるものであるのも忘れてならぬ事実だ。つまり読者の既知の世界に抵抗して行くだけの骨のない論文は、一種の人間的弱さから来る好意を以て迎えられる。――アタマの悪い論文に堕さぬためには、論文は作文でないことを注目してかかる必要があろう。勿論アタマのよい論文で、作文としても修辞的で愁訴力に富んでいたり扇動力を持っていたりすれば、それに越したことはない。
 論文の生命は、あくまで分析を通しての総合という手口にあるのである。分析とは大体区別を明らかにすることだ。同じ言葉や意味の近かそうな言葉を区別して、夫々の通用範囲をハッキリさせ、それを使って事物を解明して行くことである。総合とは之に反して、連関と対立物の統一とを明らかにすることである。お互いに無関係に見えるもの、お互いに違っているものの間に、或る同一性に帰する関係を発見することである。そして、二つの相違し又無関係に見えた事物をこういう風に関係させるためには、二つのものの夫々について、さっき云った分析が予め必要なのである。充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない。充分に分解されて初めて確実な組み立てが出来る。論文の主張はこの時初めて成り立つ。云って見れば、之が論文の書き方の方式の唯一のものであるかも知れない。アタマの悪い論文とは、この方式を実行出来ない論文のことだ。それをゴマ化すために、作文などに努力をする。
 処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏との両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとすれば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティックに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振りまわすように行かなくなる。批評論文にしても、少し気をつけて読むためには、賛成している処に反対しようという用意を見、反対している処に賛成の素地を見出す底の用心がなくてはならぬ。結論は賛否ハッキリ出来る場合が勿論極めて多いわけだが、その結論まで行く迂余曲折が論文の生命で、そうでなければ折角通過した地点も容易に失われねばならぬだろう。論文の進め方は戦線の前進のように考える必要がある。前にさえ行けばいいというわけのものではないのだ。いや、結論ということ自身をもっと慎重に理解すべきであって、ただの結論は何の実力もない独断と同じである。結論は分析と総合とを通して得た行論の結論以外のものではなかった筈だ。
 論文は出来るだけ簡潔に卒直に書かねばならぬ。余計な尾鰭は原則として邪道の因である。だが論文は幼稚であってはならぬ。用意周到に事物の表裏を点検しなければならぬ。その意味では、出来るだけ複雑で皮肉で触角の伸びたものであってほしい。そしてそういう雑多を整理した上での、卒直簡潔が本当の水際立った論文なのである。――だがこういうことが出来るために、最後に最も大切なのは、勘である、感覚である。事物に対して持つ直覚の優秀さである。之は不断の訓練に俟つものだ。
[#改段]


 6 校正


「そのやうな」は「ような」とは書かない。「しようと思ふ」は「しやう」とは書かない。「用ゐる」は「ゐる」又は「ひる」であって、決して「用ふる」や「用ゆる」であってはならない。校正者はこの程度の国文学者であることが必要だ。
 なる程発音通りに仮名を使えという主張がある。之は確かに進歩的な主張だと思う。併し、仮名通りに書かない処の国語の習慣に従った原稿である場合には、少なくとも以上のように校正することが必要だろう。
 それから又、文法的に正しくあろうともなかろうとも、現に大衆的にそう使っている以上、それでいいではないかという反対もあるだろうが、それだけの覚悟があるなら又別だが、併しそれにしてもさっきのような点は、知っていなくてはならぬ、ということに変りはあるまい。之を知らない程度の校正者は何を仕出かすか安心ならぬ。
 校正者は国文法だけではなく、漢字の熟語や、英独仏露、エス、ギリシア、ラテン其の他の語学の素養がなくてはならぬ。だけではなく、諸科学上の常識と、普通の常識とが絶対に必要である。例えば「トロツキー」は「トロッキー」ではなくて「トロツキー」だ。准南子は準南子ではない。其の他幾万の常識。
 校正係りは原稿がそのまま活字になったかどうかを校閲するのではなくて、印刷になったものが文章及び文字として正しいかどうかを検閲するものだ。技術だけではなく、文章の筆者以上の理解と、持ち合わせの大常識とが、絶対に必要である。
 処で、こういう偉い博学者で注意周到な人間は、なかなか校正などという賤しい仕事をやろうとしない。二流以下の出版屋では校正は小僧にさせる場合さえ多い。悲しむべき現象である。
『唯研』や『唯物論全書』にさえ、誤植が少なくないのは、こういう悲しむべき現象の、典型を実現して見せるためである。悪く思わないで読んで欲しい。
 併し原稿渡しがギリギリで、優秀な校正者も手のほどこしようがない場合は、又別に考えねばならぬ。多分之は原稿料や印税が安いからだろう。之亦悲しむべき現象と云わなくてはならない。云いたいことは段々あるが、いずれその内又。
[#改段]


 7 翻訳について


 武田武志氏は『唯物論研究』(一九三七年六月号)のブック・レヴューで、ゴーリキー『文学論』の翻訳三種を比較した序でに、三笠書房版熊沢復六氏訳に関説して云っている。「最後に、この機会にわが国の翻訳について一言したい。ナウカ社版や本間氏訳は大体わかり易い訳であるが、熊沢復六氏のは悪訳である、私は熊沢氏の訳本は大部分通読しているが、あまりにもひどすぎる(例えば『文芸評論』)。ソヴェート文献翻訳の仕事の意義は実に大きい。その任務の大きさにもっともっと自覚して責任ある訳書をどしどし出版していただきたい。ナウカ社版は論文を随分勝手に省略してそれぞれの論文を切りさいなんでいるが、良心ある訳者ならばこれを読者に断わるべきである。吾が国のソヴェート文献翻訳事業に、もっと責任と良心とを要求したい。あえて苦言を呈する」と。
 之では熊沢氏はまるで、無責任と無良心の巨頭であるように見える。果してそう云っていいだろうか。なる程、私も熊沢氏の訳にはあまり感心はしていない。ロシア語の読めない私でもこれは何かの誤りでないかと思われるような氏の訳に出会った経験もある。最近の一例では『文芸学の方法』(清和書店版)の内で、イギリス文明史を書いた「ボークル」云々という言葉が数ヵ所出て来たが、之はバックルでなくてはならぬだろうと思った。処が旧ナウカ社版、白揚社新版のミーチン・イシチェンコの『唯物論辞典』にも矢張りバックルがボークルとなっているから、この誤りは殆んど伝統的なものであるらしく、決して熊沢氏一人の誤りではないのでないかとも考えた。こういうような翻訳検察官になることは誰にでも割合に容易であり、偶々熊沢訳は検察官の目につき易いのが事実であるというにすぎぬのだが、併しそれがすぐ様責任と良心との問題だと云って了っていいだろうか。
 私はかつて斎藤□氏のスピノザ全集訳に対する或る精鋭な(但し当時殆んど無名な)古典学者の非難(『思想』にのった)に就いて、『東朝』紙上でこういう意味のことを書いたことがある(次項を見よ)。著作翻訳其の他を品隲するに際しては、その人の之までの業績全体が持っている社会的功績の程から批評されねばならぬ。それから各種の社会的条件もそこへ入れて計算しなければならぬ。翻訳の云わば内在的な(観念的な)可否だけでその仕事の現実的価値を決定して了ってはならぬ。学的良心というようなものも、出版業者の資本や訳者の経済的社会的生活条件と大いに関係があるのだから、軽々に言及すべきでないと。それに私はひそかに考えるのだが、仕事の分量の大さというようなことも或る程度まで質の良さの代位をするものであって、或る程度の質を備えたものを多量に産出出来るということは、良質なものを極めて稀にしか発表しないアカデミシャニズムよりも、却って客観的価値のあることだと思うのだ。
 熊沢氏の場合についても大体同じことが云えるのではないかと思う。私のようにロシア語を知らぬ読者は、何と云っても熊沢氏の仕事に随分恩を負うていると云わざるを得ない。仮に私が氏の誤訳悪訳を指摘するとすれば、それはとりも直さず氏の訳そのものの社会的余沢(?)であると云う他あるまい。つまり熊沢氏は何も訳さずにどこかの語学の先生でもしていれば、誤訳もしないで済んだわけで、その責任も良心も無事であった筈だ。だから結局、その質の良否は第二段として、翻訳をやらぬよりもやった方が一般に価値があるのだという事実を私は強調したいのである。凡てが欠点で悪い作用一方だというような訳はあり得ないのだから。
 それから今日では、その方が、翻訳の質を段々よくして行くという実際上の効果が一層あるように思われる。特に熊沢氏のようにその仕事の意図が吾々と本質的に一致している時には、こういうやり方の方が却って峻厳な批評の実質を備えるものだ、というのが批評というものの一つの秘密であろう。――批評は峻厳でなければならぬ。不純な手心があってならぬ。だが厚意ある峻厳こそは最も峻厳であり、最大のリアルな苦言なのだ。武田氏自身がゴーリキーの批評家としての態度について云っている、「この愛情は若い作家達に対する彼の指導と、世間一般の『批評家』達が作家・作品・に対する態度とを比較するならばあまりにも明瞭である」。武田・熊沢・両氏の批評者と被批評者としての関係についても(ムタティス・ムタンディに)、同じことが云える筈だ。
[#改段]


 8 篤学者と世間


 斎藤□氏と畠中尚志氏なる人とが、『思想』誌上でスピノザ邦訳に関して喧嘩をしている。初めて攻撃の矢を放ったのは畠中氏の方であって、相当痛烈なものだったが、斎藤氏は之に対して、多少問題の核心を避けながら、一種皮肉な口吻で高踏的な答をした。翻訳に多少の誤訳のあるのは已むを得ないことだが、それをそんなに大騒ぎするのはどういう目的なのか、という口吻である。併しテキストに関する論争としては、素人の眼から見て、勝味は畠中氏の方に多いように見えるのであって、畠中氏は今月号(一九三四年九月)の『思想』では大分落ちついて、斎藤氏に止めを刺そうとしているらしい。
 だが吾々素人の読者にとっては、この種の問題は決してただのテキスト批判の問題には止まらないのである。現に畠中氏も斎藤氏もそれぞれ「学的良心」とか「学者の信用と地位」とかいうものを持ち出して問題にしているが、それが単なるテキスト・クリティックの問題に止まらない証拠である。そこでテキスト・クリティックの観点以上の観点に立つと、どっちの方に理があるか、簡単には決まらなくなる。
 一体『思想』という雑誌は之まで時々この種の学界警備に任じて来た。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:259 KB

担当:undef