読書法
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著者名:戸坂潤 

 科学主義という言葉が抑々、妙なものである。本当の科学的精神は科学主義などという言葉に本能的な不純さを感じるだろう。それは科学の専門家に特有な或る制限された観念を象徴している。特に自然科学専門家の、専門家なるが故に制限された科学的精神を象徴する様だ。之は文学主義と好一対の仇名として相応わしいだろう。
 だが私は大河内博士の「科学主義工業」の観念の背景をなす社会的地盤を検討出来なかったのを残念に思う。
(博士は雑誌『科学主義工業』十二月号から、「資本主義工業と科学主義工業」という論文を執筆している。今の処まだ要点に触れる処まで議論が進行していない。だがすでに気になるのは、産業革命を単に科学の発達の功績に帰しようとし勝ちな点の見えることだ。その科学の発達自身が、却って技術的社会的な要求に基いて行なわれたという、より根本的な関係にあまり注意を払わないらしいことだ。科学から第一テーゼを出発させるという意味で、ここでも氏が科学主義的な工学者であることを、吾々は忘れてはならぬ。)
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 □ 書評




 1 マルクス主義と社会学
――住谷悦治氏の『プロレタリアの社会学』に就いて――


 元来「社会学」なるものは、近世ブルジョアジーがその市民的生活の自己認識を一般化するために造りだしたところの、ブルジョアジー特有の、一種の告白科学だともいうことが出来る。それは市民生活の理想のための内的闘争と未来への希望とから、始まった。このことは今日に至っても、無論変るはずがない。社会学が今日ありとあらゆる形において、依然一つの歴史乃至社会の哲学として、或いは形式的社会諸関係の本質論として、資本主義社会の保存のために忠誠を誓うことを忘れない。それは歴史哲学としては、ドイツ風の精神哲学(文化社会学・歴史主義・等々)であったりフランス風の社会学主義となって現われたりする。
 この反唯物史観的武器として取り上げられるものは、いうまでもなく史的観念論である。それは又次に、形式社会学としては、歴史的社会における一切の歴史的原理を放逐し、そうしておいて逆に歴史観を指導しようとする。唯物史観は、社会のこの普遍的恒常的な形式に、特殊なしかも偏狭な内容を無批判に□入したものとして、完全に排斥されるか、高々条件つきで市民権を与えられる。武器はこの場合その形式至上主義なのである。
 社会学のこうした武器がどれ程戦闘力を持つか、否どれ程戦闘力を有たないか、は今更問題ではないが、必要なことは、社会学なるものが、一般にいって、いつもこうした反唯物史観的武器の所有者だという点である。――だから、唯物史観を一つの社会学として、仲の好い社会学者達のサロンの食卓につけることは、単に唯物史観にとって馬鹿々々しいばかりではなく、社会学自身にとっても迷惑なことだろう。
 然し社会学が、言葉通り社会の学(社会科学)を意味するならば、そういう言葉をわれわれは何も好き嫌いしなくても好いだろう。
 で唯物史観が一つの社会の学であり、その限り社会学と呼ばれて好いとして、問題は、この社会学と他の社会諸科学(経済学・法律学・政治学・又歴史学・等々)とどう関係するかである。この問題は併し可なり原理的なものから来ている。
 ブハーリンは唯物史観を社会学として規定しながらいっている、それは社会と社会発展法則との一般的理論である、と。それは経済学や政治学という特殊の理論ではなくて一般的理論であり、又それは一般史ではなくて一般的理論である、というのである。――なる程こういう区別が必要であることは誰でも認めなければならない。
 だが問題は、こう区別されたもの同志の連関がどう与えられるかである。社会学を経済学・政治学・史学・等々から区別することこそ、ブルジョア社会学のもっとも戯画的に徹底純化されたもの――形式社会学――の、生命ではなかったか。
 マルクス主義的社会学は、こういう形式社会学との原理的な対立をハッキリさせるためにも、その一般的理論たる所以の一般性の吟味に、意識的でなくてはならぬ。
 ブハーリンは唯物史観が単なる方法には尽きないことを力説している。だが凡そ体系から機械的に区別された単なる方法があり得るだろうか。それが経済学・政治学・法律学・文化理論・歴史学・等々を貫く一貫した方法であればこそ始めて、唯物史観は、体系的理論となることが出来、またならねばならないのである。これを外にしてそれが理論であり得る理由はない。だから唯物史観(マルクス主義社会学)は、他の諸社会科学から単に機械的に区別されない所に、例えば形式社会学などと資格の異った点があるのである。
 さて一体我々は何のためにブハーリンを持ちだしたか。外でもない。住谷悦治氏の『プロレタリアの社会学』を、今いった点について、ブハーリンの『史的唯物論』に比較するためである。ブハーリンの書物の方は相当大きく、これに反して住谷氏の方は小さいから凡そ二つを比較することは無理に見えるかも知れないが、善い意味における内容の通俗性・大衆性・とその総括的性質とからいって、わが国で書かれたものとしては、住谷氏のこの書物を外にしてブハーリンのものに較べるべきものを私はほとんど知らないからである。――そこで氏は、今いった点について、どうブハーリンと異るか。氏もまた少なくとも社会学という概念については完全にブハーリンを採用しているようである。
 氏の書物はブハーリンのものよりも、その視角は遥かに高く、問題を取り上げるにも、より政治的な線に沿うている。この点からだけいっても、プロレタリアのための「入門」として、氏の著書がより有益であることについて注意を喚起しなければならない。
 だが社会学が有つ一般性と他の社会諸科学の有つ特殊性との関係について問題をあまり意識的にしていない点では、ブハーリンと大して隔りがないのではなかろうか。
 もし社会科学への「入門」とか概論とかいう意味において仮に社会学という名を用いるのならば別であるが、そうでないことは氏自身の説明からも知ることが出来る。まことに唯物史観の理論は、自然科学および社会科学の総合を与える発展の理論である。社会学は唯物史観において初めて科学性をかち得たのである。
 無論我々は、住谷氏がその社会学と諸社会科学との弁証法的連関を無視している、というのではない。それどころではなく、事実においてはその豊富な具体的な社会科学的知識内容を唯物史観的方法を以て、見事に弁証法的に貫いている。ただ、今いった一見科学論的な見地からして、社会学と他の諸社会科学との弁証法的連関の問題が吾々の問題として、残されていはしないかというのである。
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 2 非常時の経済哲学
       ――高木教授著『生の経済哲学』――


 経済哲学と云えば誰でもまず故左右田博士を思い出す。左右田博士は新カント派特に西南学派の価値哲学から出発して、その独特な極限概念の「論構」(故博士はそういう言葉を好んだ)を使って、経済学の方法論を問題の中心に齎した。吾々は価値哲学というものの科学論上の権限に就いて根本的な疑問を持つし、又その極限概念というものの論理学的効用に対しても大して期待を有つことは出来ない。なぜなら、論理主義を標榜する所謂価値哲学は、心理主義や発生論の名の下に、歴史的観点を排除するからであり、又極限という範疇も形式論理の最後の切札として使われているに過ぎないからである。で、この経済哲学は独創的で強健な首尾一貫性を有つにも拘らず、実際の歴史社会の経済機構とは殆んど無縁でさえあったと云わねばならぬ。その核心が所謂経済学「方法論」の埒外に出ることの出来なかった理由もここから来たのであった。左右田博士自身の経済哲学の核心に相当する部分は断片的に止まっていたが、仮に左右田経済哲学を体系化しても、今述べた点は殆んど変る処はないだろう。東京商大の杉村助教授の細密な思索によっても、左右田経済哲学は依然として左右田経済哲学に外ならない。歴史的社会の存在を敢えて無視はしなくても、歴史的社会の存在を貫く現実的な原理は見つからないのである。その意味に於て之は「生活」「生」に立脚した経済哲学ではないと云って好いだろう。
 京大の石川興二博士はすでに、ディルタイの方法に倣って「精神科学」としての経済学を書いたが、之は明らかに一種の「生の経済哲学」である。ディルタイの愛好者である博士は、アリストテレスとアダム・スミスの学説史上の意義を明らかにしようとするのであるが、ややたどたどしいその文章によって、ディルタイの水際立った方法がどこまで模倣され得たかは疑わしい。
 法政大学教授高木友三郎氏の学位論文「生の経済哲学」は、今云った二つの経済哲学とその立場を夫々異にした注目すべき著述である。左右田経済哲学に対しては、夫が一般に「生」の経済哲学であることによって、それから石川経済哲学(?)に対してはこの「生」がディルタイの生の概念とは全く別なものだという点に於て、夫々に対する区別は明らかになる。ディルタイの歴史哲学的「生」に対して、生物学的「生」がこの経済哲学の原理となるのである。
 高木博士による生の経済学の何よりもの特色は、人間の歴史的社会的生活が、進化論によって、即ち博士に従えば、生存闘争・自然淘汰・によって、説明出来るとする想定の内に横たわる。人間の生活を統制する規範としての法則(規範法則)も全く生存闘争によって淘汰されて吾々にまで残されたものに外ならない。従って之と経験法則とは元来合流出来る筈のもので、経済法則の如きはその一例なのだと博士は考える。経済法則とは経済価値の実現展開の法則のことであり、之によって生はよりよき善に高められ、かくて文化価値そのものの進展に資することが出来るというのである。之が経済現象に於ける進化の謂である。
 処で普通進化論は生物学主義的な有機体説に結び付き勝ちであるが、博士は進化過程の動力を説明するのに、寧ろ弁証法を以てしようとする。細胞の相互抗争による相互作用(もはや単なる因果関係ではない)を介して生物個体が運動し変化するように社会の運動・変化(進化)・も亦弁証法を介して初めて行なわれると考える。
 だが博士による弁証法の哲学的解明は多分に曖昧のように見受けられる。経済現象に於ける弁証法的展開の過程はあまり原則的な線を踏んで跡づけられてはいない。経済現象の弁証法的発展の動力として需要力(之は人口関係に関する)と生産力との相互関係が挙げられており、前者に関しては衝動と欲望との問題が、後者に関しては合理化の問題が取上げられているが、主体にぞくするこの衝動や欲望と、客体的な経済組織におけるこの合理化との連絡は、一寸見当らないように思われる。自然的衝動乃至欲望と社会的合理化過程とが、進化論のアナロジーによって、同じく弁証法的と呼ばれているに過ぎない。だからこの弁証法は、一体有機体説なのかそれとも又本当に弁証法なのかがハッキリしないのである。
 こういう、最後の限定を残した擬似弁証法につきものであるのは、ブハーリン型の均衡理論であるが、博士も亦均衡論者であるように見える。景気変動論に立脚する博士にとっては均衡の破壊が不況であり、均衡の恢復が好況に向かうということであって、資本主義のサイクルは多分一九四六(?)年度までに上昇期に這入るだろう、と博士は予言している。現在の行きつまった帝国主義的独占資本主義は、統制経済・ブロック経済・の計画経済によって、華々しくその強健な均衡を恢復するだろうというのである。この際博士が興味と期待とを最も大にしているものは所謂「日満ブロック」乃至「東亜モンロー主義」であるように見える。ビジネス・サイクルを仮定することは資本主義の均衡が絶対的には破壊されないと仮定することである。之が博士の非常時的「イデオロギー」なのであり、そして博士によれば、異った立場にある人はその人々で、各々のイデオロギー実現のために、生の激流に投じて抜手を切って進むことが勧められる。
 処で今日、均衡主義の経済哲学の多くは現象主義に立っているようである。之はパレート一派の所謂数理経済学などに於て最も著しい。博士の現象主義は併しその経済価値論に於て最も著しく現われている。客観価値説でも主観価値説でもなく、又二つの折衷でもなくて、最小費用最大効用という経済の理想へ進むことから来る差額剰余の拡大が、価値の唯一の現実的な量だと考えられる。価値が現象する形態はそうだろうが、では価値の客観的な尺度はどこから出て来るのであろうか。――尤も博士によると、価値は一つの経済理念と考えられている。之は現実の差額剰余(価値)や価格に対しては云わば物自体又は本体のようなものに当るだろう。併し博士の理念は現実に対しては当為(ゾルレン)だということになっているから、此の理念の機能は云わば(カントの意味に於て)反省的であって規定的ではないだろう。之はだから無論価値を限定する尺度としての価値ではあり得ない。それにゾルレンの対象としてのイデーは本当は客観的とは云われないから、この理念価値の客観的な尺度では到底ないわけである。一般にこうした現象主義は資本制末期に於ける経済理論の意味ある共通特色ではないだろうか。
 私は紹介しようと思いながらつい下手な感想に終って了ったようである。而も専門的知識のない私が大急ぎで読んだ感想なのだから、恐らく大きな誤解もあることだろう。之は儀礼からではなく陳謝しなければならないことだ。
 実は私は津々たる興味を以てこの学位論文を読むことが出来たのである。一体学位論文というものは普通こんなに退屈しないで読めるものではない。博士の実際家らしい板についた引例や多量の学殖は、後学の徒に学的な野心と刺激とを与えずには置かないだろうと思う。私も亦こういう後学の徒の一人でありたいと願っている。
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 3 新明正道編『イデオロギーの系譜学』


 イデオロギー乃至イデオロギー論という言葉は、少なくとも言葉としては随分広く今日は行なわれているようである。沢山の人が口にするということが必ずしもそのことが理解されていることではなく、ましてそのことの理解を進めることでないのは云うまでもないが、併しそういう、言葉が流行るということは、一つの必然性と客観性とがあってのことである。
 一方に於てはマルクス主義の大衆化に伴う社会意識の進歩がマルクス主義的イデオロギー理論を結果し、従来文化哲学や文明批判や又一種の心理学によって取り扱われて来た対象は、今やイデオロギーとして取り上げられる。処が之は、従来のブルジョア社会理論特にブルジョア社会学、の独自の領域を犯すことになるのだから、そこで第二に、ブルジョア社会学は、之に対抗するために、文化社会学とか知識社会学とかいう名の下に、「社会学的」なイデオロギー論を造り出した。
 今日、イデオロギー乃至イデオロギー論というテーマが流行っているのが、こうした客観的情勢から必然的に出て来たものであることは、誰でも知っている。――処で、この頃は、流行るものは何でも却って評判を悪くする傾きがある。というのは「批判者」達は、何でも盛んに行なわれているものに対して、単に盛んに行なわれているというだけで、批判したくなる傾きがあるようである。そういう理由からかどうか知らないが、イデオロギーやイデオロギー論というテーマは、必要以上に、無理に批判されなければならないように仕向けられている。その癖そういう批判者は、マルクス主義的イデオロギー論をブルジョア社会学のイデオロギー論から擁護する必要がどこにあるかも知らなければ、ましてイデオロギーの歴史的社会的発展展開の姿を分析し得るのでもない。またイデオロギー理論の歴史的発達を跡づけるという仕事を実践しようとするのでもない。
 東北帝国大学の社会学教授新明正道氏は、同教室の陳紹馨・飛沢謙一・の両氏と共に、『イデオロギーの系譜学』(第一部)を公にした。之はイデオロギー理論の近世に於ける発達史を辿る目的のもので、マルクス乃至エンゲルスと直接には関係のない時代を取り扱った部分であり、やがて、公にされる第二・第三・部ではフォイエルバハから始めて、マルクス・エンゲルス、及びその後のイデオロギー理論の発達を追跡しようとするものである。
 新明教授は、正統派的(?)なマルクス主義者ではあるまい。他の二人の共同著者も亦そうだろうと思う。それにも拘らず、イデオロギー理論の歴史的な追跡は、一二の視角の小さな洞察の乏しい文献を外にしては、マルクス主義者によっても組織的に遂行されていないのではないかと思うが、恰もこの書物の著者達は、この欠陥を埋め合わせるために、この仕事に取りかかったように見えるのである。
 だから吾々は之を批判するよりも先に、之を紹介することを先にしなければならないわけで、客観的な必要から云っても、又この仕事の功績に対する敬意から云っても、そういう順序にならなければならないのである。
 私はすでに『東京朝日新聞』でこの書物を紹介した(次項)。だから紹介としてはさし当り夫を繰り返す外はない。――マキャヴェリはその『君主論』に於て、〔君主〕に必要な譎詐・欺瞞・狡知・を分析し、権謀術策の原理を授けているが、その結果は計らずも〔君主〕の陰険な心事を暴露すると共に、一般に人間性の虚偽性を暴露している。之は人間論的虚偽論に外ならない。新明教授はここにイデオロギー論の近世に於ける最初の企てを見て取る。之は同時に一種の心理学的イデオロギー論でもあるわけだ。
 ベーコンになると事情は少し異って来る。F・ベーコンのイデオロギー論は例のイドラの理論に外ならないが、之はマキャヴェリのものなどとは異って、もはや単なる人間論的・心理学的・なイデオロギー論又は虚偽論ではない。四つの偶像がどれも社会的関係から解明されているのである。だから之は、今日行なわれている意味でのイデオロギー・社会意識・の理論の先駆をなすもので、ただ夫が社会の分析の上に積極的な基礎を置いていないために、遂に本当のイデオロギー論にまで展開しないで終ったものだ、というのである。
 フランス啓蒙哲学に就いては、コンディヤックやエルヴェシウス、ドルバックの、認識理論又道徳理論が、一種のイデオロギー論として引かれている。その理由は、こうした意識諸形態を彼等は感覚や欲情や感性などという物質的根拠から説明しようと企てたからである。無論この場合は、イデオロギー論の萌芽とは云っても、殆んどイデオロギー論とは認めなくてもいい位いに不完全な、萌芽でしかない。イデオロギー論だとして、之は全くの心理的なイデオロギー論でしかない。
 イデオロギーという言葉の歴史的発展、否、歴史的変遷、を見るためには、ド・トラシの「イデオロジー」の解説は是非とも必要である。イデオローグの思想をこれ程纏った形で与えて呉れたのは、手近かには一寸ないのではないかと想像する。
 最後にシュティルナーとニーチェとの思想が、イデオロギー論として解明される。自我の内から既成の固定した観念を追放し唯一者の固有な所有に立ち帰らなければならない、というシュティルナー。真理や道徳が権力意志の本能的な創造的な而も功利的な基底に基く一つの上部的成果に外ならぬと考えるニーチェ。この二人の天才は近代に於けるイデオロギー論の(マルクス主義は除くとして)最も影響の大きいものを与えている。シュティルナーのイデオロギーはすでにマルクスによって取り上げられているし、ニーチェの如きは、主人の道徳と奴隷の道徳とを対比させている。
 さて以上挙げた思想家達のイデオロギー論は、彼等の夫々の一般的思想の内から浮き出た姿の下に捉えられている。そしてこの諸イデオロギー論そのものが夫々一つのイデオロギーとして、夫々の時代の経済的・政治的・社会的・文化的・地盤から、合理的に説明されるように、努力が払われている。――新明教授の叙述は各思想家の思想内容の内部的連関を明らかにする点に於て、中々優れた文学的手腕を示している。之に対比して、他の二人の著者は、唯物史観の定石を良心的に定式的に、踏もうと力めているように見受けられる。ただ、思想の根柢をなし背景をなす経済的・社会的・政治的・条件が、如何に思想そのものの機構にまで反映しなければならなかったかの説明に就いて、多少のギャップが気にかからぬでもない。
 各章を通じて見受けられる特色は、著者達がイデオロギー論を人間論との連関に於て捉えているという点にある。というのは、嘘をつき虚偽や誤謬を犯す人間性の一側面を、取り出そうとする人間論が、イデオロギー論として挙げられているのである。そういう意味ではイデオロギー論は「心理的なイデオロギー論」に帰着し、又それに止まらざるを得ない。実際この書物で挙げられた思想家のイデオロギー論は、多少の例外を除けば、どれも心理的なイデオロギー論に外ならないのである。だから、ここで取り扱われたものは、社会意識としてのイデオロギーを論じる本格的なイデオロギー論に対して、云わばイデオロギー論の前史に当る部分と云って好いだろう。第二部第三部に本格的なイデオロギー論の歴史が展開される筈である。
 聞く処によると、この書物は東北帝大の社会学研究室に於ける演習の成果だそうである。吾々はこのように活発な活動をし始めたアカデミーに対して、もう一遍評価のやり直しを試みなければならなくなるかも知れない。
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 4 再び『イデオロギーの系譜学』


 東北帝大社会学教室は今度、新明正道教授外二名の手になる『イデオロギーの系譜学』(第一部)を世に送った。まず最初に取り上げられるものはマキャヴェリの思想、特にその政治学的権謀術策論であって、彼が、君主に権謀術策を献言することによって計らずもその欺まんの機構を暴露する結果となり、イデオロギー論の先駆をなしたゆえんが説かれる。
 ベーコンのイドラの理論がその前後の思想家達のものに較べて如何に社会学上約束に満ちたイデオロギー論を含むかが、次に明らかにされる(第二章)。第三章では、フランスの啓蒙哲学について、コンディヤックの感覚による認識の解明と、エルヴェシウスの自愛による道徳の説明、それからドルバックの感性による道徳の説明が、イデオロギー論の至極不完全な萌芽として見られている。
 第四章として□入されたド・トラシの「イデオロジー」の項目は、イデオロギーという言葉の歴史的淵源を明らかにするためのもので、最後の第五第六の二章はそれぞれシュティルナーとニーチェとの解説に当てられている。前者は自我の内から一切の既成の固定観念を追放し、唯一者の独自の所有に立ち帰れと叫ぶ点において、又後者は、真理や道徳が本能という権力意志の創造的な功利によって評価されねばならぬと主張する点で、不完全ではあるが天才的なイデオロギー論を示すものとして、挙げられているのを見る。
 これ等の思想家達のイデオロギー理論それ自身が、無論ここでは一つのイデオロギーとして、即ちそれぞれの時代の経済的・政治的・文化的・地盤から相当によく説明され又批判されているのである。
 さて、以上挙げた思想家達が特にイデオロギー論の先駆者として選ばれた理由は、多分、彼等が虚偽論乃至誤謬論に対して著しい興味を示しているからだろう。実際イデオロギーという概念のもっとも挑発的な点は、それが虚偽意識を意味するという所に横たわっている。従ってここに展開された思想史は、単に「イデオロギー論の系譜学」であるばかりではなく(『イデオロギーの系譜学』というタイトルよりもこの方が適切ではなかったかと思うが)、うそをつき虚偽を犯し誤謬に陥る限りの、人間性を描きだそうとした人間学の系譜学でもあるように見える。
 所で、マルクス主義的イデオロギー論に先立つこれ等思想家達の「イデオロギー論」は、一つの共通の特色を有っている。それは、ベーコンなどの場合を除けば、どれもこれも、心理学的地盤にだけ立って意識形態を説明しようとする「心理学的イデオロギー論」(著者達はそういう言葉を使っている)だという点にある。それはまだ社会意識の理論にはいる処にまで来ていない。そういう意味で今の場合は、イデオロギー論の前史にぞくするものといって好いだろう。――私はこういう心理学的イデオロギー論に因んで、現在のフランスの一群の心理学者達(リボーやポーラン)を思い起こすのである。
 この書物を読んで私は様々な種類の喜びを感じる。イデオロギーの研究でこれまで一等欠けていたのが、あたかもこうした実質のある歴史的叙述だったからである。又、これによってイデオロギー論の心理学や人間学に対する連関をハッキリと示すことが出来るからである。そして最後に、こういう研究にもっとも便宜を有っているアカデミー社会学の一角から、一流の気むずかしさや萎縮を蹴破って、新鮮な仕事が発表されたのを見るからである。これは三部からなる研究の一部だそうであるが、第二部第三部が早く出版されれば好いと考える。
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 5 『唯物弁証法講話』


 マルクス主義哲学或いはもっと正確にいうならば唯物弁証法を、もっとも入り易い形で与えて呉れる本はないか、とよく私は色々の人から尋ねられる。しかしこれは中々簡単に答えることの出来ない質問なのである。入り易いということは、単に読み易いとか考えずに理解出来るとかいうこととは別なのだ。それは無用なペダントリーがないということだが、それと同時に、濁った信用出来ないような変な命題にぶつからないことの方が理解を容易にするためにはもっと大切である。そればかりではなく、我々の直接に経験している世界へ色々の命題を結びつけて呉れるのでなければ、理解は活きて来ない。
 信用すべき教科書乃至参考書としては、すでにシロコフ・アイゼンベルクの『弁証法的唯物論教程』やミーチン・ラズウモフスキーの『史的唯物論』が翻訳されている。いずれもソヴェートの公認の書物で、国際的な価値を持っているのであるが、併し吾々は又吾々の手になった相当信頼すべき参考書が欲しいと思う。それは日本には日本に特有な特殊の文化的教養の与件があるからで、この与件にシックリと合った叙述を平明な然し澄んだ具体的な形でやって呉れる読み物が欲しいのである。
 最近特にこういう要求に答えるために、少なからぬ人達が色々の唯物弁証法の読本を発表した。代表的なものとしては大森義太郎氏の『唯物弁証法読本』と、徳永直・渡辺順三・両氏の『弁証法読本』とを挙げることが出来ると思うが、永田広志氏の『唯物弁証法講話』は、これ等のものに較べて、今いった点でズット立ち勝ったものだと断言出来るのではないかと思う。
 永田氏はいわば私達の友達仲間だから、あまり褒めることは遠慮するが、元来もっともすぐれたロシア語翻訳者であった。だが優れたロシア語翻訳者は実は今日では優れたソヴェート思想文化の紹介者にならなくてはならない。同氏はその随一者だ。それから永田氏の一般に哲学に対する又特にブルジョア哲学に対する教養も亦注意しなければならない。氏はこの道でも相当確実な理解者である。それから、こういう素養に基いて最近同氏は可なり前進力のある独自の研究家として現われ始めた。それは主に雑誌『唯物論研究』で発表した弁証法の諸研究(認識論・論理学・弁証法・の同一性に関するもの)を見ても判る。
 で以上述べた同氏の三つの特徴がこの書物の内に非常に良く出ている。目次を見ると従来の翻訳された教科書と大同小異だが、叙述の内容は、現在の日本における学問上の又経済上・政治上・の諸問題を取りあげながら説明を進めている。又特に我々が最近問題にした哲学上の諸解決をば思いださせるように触れて行っている。例えば弁証法の根本法則の一つ「量から質への転化及びその逆」の問題とか、形式論理学の問題とか、認識論の問題とか、等々の場合がそれだ。個々の点については私の意見もあるがそれは今書けない。がとにかく、触れるべき問題にはお座狎れでなく触れているのを見て、悪くない気持を我々は有つのである。
 もっとも便利な信頼出来る又甚だ興味に富んだ書物としては、単に初学者の入門書としてばかりではなく、専門家の研究整理用の参考書としても、私はこの本を勧めることが出来る。
[#改段]


 6 『現代宗教批判講話』


 わが国における現在の知能分子の内には、往々にして進歩的言辞を弄しながら、甚だしいのになると左翼的言辞をさえ弄しながら、実際には唯物論と何の関係もない頭脳が甚だ多く見出される。こういう頭脳を甄別するのにもっとも手近かな方法は、彼等が宗教に対してどういう態度を取るかをまず見ることである。もっとも彼等は初めから少なくとも既成宗教の同情者ではない場合が多いし、又その進歩的な模倣によって「宗教批判」をさえし兼ねまじいのだが、そうする裏から、宗教的・神学的・形而上学的・そしてやがて又文学的な信仰を露出して来るのである。そこに着眼すれば間違いはない。
 彼等は宗教批判という、この唯物論の恐らく最も大きな使命の一つを、徹底する意図を決して有つことが出来ない。彼等が気にかけるのは、単に進歩的(?)に見えるかどうか、つまり気が利いているかどうかであって、決して、理論的に唯物論的であるかどうかではない。宗教批判などは、彼等によると、既成宗教の批判としてはバカバカしいものだし、宗教一般に対する批判ならば大した必要のあるものではないと考えられる。
 だがこうした一種のインテリゲンチャの好みなどとは関係なく、わが国の反宗教闘争の運動は決して四年や五年の歴史ではつきない本当の無神論が唯物論の名において展開されるようになってから既に相当の時間が経っている。処で併し、その理論的成果は今度初めて纏って本になったといってもいいと私は考える。なぜなら唯物論に立って、宗教問題を統一的に理論的に取り上げたわが国の書物では、何といってもこれが最初のものなのだから。
 内容は大体三つの部分に分れるといっていい。第一は宗教一般に関する唯物論的研究の綱要的な紹介、第二は日本宗教史の叙述、第三は現代の宗教復興の批判。
 第一では、アニミズム・トーテミズム、から始まって民族宗教・世界宗教・への発展を、実証的に又歴史的に更に又哲学的に解明している。これを貫く何よりも大切な点は、こうした宗教の発展段階がすべて社会の生産の発展段階に相応するものである所以を、組織的に論証して行っていることである。この部分は纏った宗教学教科書として役立つだろうと思う。
 第二の部分が、唯物史観による日本宗教史の唯一のものだという点に就いては、世間は殆んど疑問を挾む余地を持つまい。唯物史観に立たないものでも、こう手短かに且つ体系的に纏った日本宗教史はそんなにザラにはないのではないかと思う。そればかりではなく、唯物史観から行けば当然なことだが、読者はこの部分に実は手短かなそして特徴的な日本社会史のプロフィルを見ることが出来るだろう。著者はこれを書くのに、日本における若い専門家達の新しい業績を可なりの注意を配って採り入れているように見受けられる。これは今後大いに利用されるだろう部分である。
 第三の宗教復興批判は、近頃の快事に数えねばならぬ。現在の宗教論者の論理的ナンセンスと露骨な階級的意図が、見事に裸にされている。これは宗教復興現象に対する総決算になるといっていい。
 併し、この本で欠けているものは宗教思想史である。之亦唯物論にとって見逃すことの出来ない課題である。唯物史観による日本宗教思想史は、処で最近三枝博音氏が手を着けている。尤もその際氏の唯物論はまだ動揺を免れないらしいが、氏が材料を征服し終る時が近い内に来ることを吾々は期待してよいと思う(なお日本宗教史の研究では「日本宗教史研究会」から論文集が出ている――『日本宗教研究』及び最近の『寺院経済史研究』)。
 著者秋沢修二氏(永田氏に就いてはすでに前に書いた)が哲学的教養に富んだ徹底した唯物論者であることは、以前から知られている。そして宗教批判こそは氏の得意の壇場なのである。私はこの書物によって唯物論的に甚だしく啓発されたことを、素直に断わっておく。
[#改段]


 7 『現代哲学辞典』


 三木清氏が編集代表となり、他に甘粕石介、樺俊雄、加茂儀一、清水幾太郎、の四氏を編集委員とする『現代哲学辞典』が、出版の運びに至った。現代哲学研究会という或るグループを中心としての仕事であるが、この研究会のメンバーには文化上の各方面の新鋭な代表者が少なからず含まれている。その各々は夫々の専門領域をば広義に於ける現代哲学へ結びつけることを忘れない人々なのである。現代哲学辞典というようなものの編集執筆には、打ってつけのスタッフだと云わねばならぬ。執筆者は三十二名である。
 この辞典の第一の特色は、序言にもある通り、Vierkandt の Handw□rterbuch der Soziologie の編集方針に倣ったという点にある。即ち比較的少数の項目によって、最も必要な事項を網羅するというのがその建前であり、夫々の項目が比較的に詳しく説明されることによって、項目として現われていない諸問題概念も、おのずから取上げられるという仕組みである。六十七項目の内に含まれた諸事項に就いては、別に邦語及び外国語による索引が与えられていて、検索することが出来るようになっている。人名についても同様である。つまりこの形式の編集による辞書は単に検索を目的とするだけではなく、却って通読又は翻読されることを目標とするものなのだ。引く辞引であると同時に読む辞典である。この点を徹底したものとしては、日本で最初の辞書だろう。
 だから之は単に辞典であるばかりでなく、又一つの総括的な単行本と考えられていいのだ。現代哲学に就いての総括的単行本である。現代哲学という意味は併し、単に現代の哲学を指すだけではない。現代にとって生きた意味を持つ処の哲学を指すのである。そして哲学と云っても学校式な意味に於ける所謂哲学だけを指すのではなく、一切の文化・思想・学術・の根柢を一貫する統一的な脈絡物を意味する。そういう意味での広義の哲学だ。で例えば階級論とかインテリゲンチャとか、経済学・言語学・考古学・ジャーナリズム・新聞・政治学・戦争・地理学・民俗学・及び土俗学・其の他其の他の項目が含まれている。この種の項目を副次的な参照としてでなく、正面からその哲学的ヴァリューに於て評価尊重したことは、この辞典が誇ってよい態度だと思う。こういう編集方針を取ったということは、この辞典の編集が可なり卓越した見識に基いていることを物語っている。
 かかる編集上の見識、それは又執筆者の銘々に共通な見識なのだが、この見識はそれ自身一つの哲学的態度を意味している。そこにこの辞典のもつ哲学的意義の要点があるだろう。少なくともかかる哲学的態度は、諸分科に分れた文化を総括し組織づけ得る処のエンサイクロペディスト的な能力を意味する。それが無意味な、何でも屋主義に陥らぬためには、思想の相当高度の蓄積発達を必要とする。でこの辞書に現われた哲学的態度なるものは、日本の哲学界・思想界・乃至文化圏・が今日相当発達したという事情に照応するものと推定することが出来るだろう。学術の技術的なアカデミックな水準と思想的な水準とを能く接合し得たものが、これを貫く見地である。
 従ってここに一貫する哲学的見地は、勿論相当に進歩的なものなのである。執筆者の顔触れから云っても、その大体の内容から云っても、そう云うことにさし閊えはないだろう。云うまでもなく各執筆者も編集委員達も客観的公正を厳守している。それは辞書として当然であり、又思想・学術・の建前からしても当然なことだ。見解の客観的公正を厳守するが故に、進歩的見地に立たざるを得ないわけだ。
 だが進歩的見地に立つと云ってもその進歩の段階には色々ある。この書物を貫く進歩性は云わば自由主義的乃至社会民主主義的なもののそれに近いだろう。そのことの良し悪しは別問題だが、とにかく今はこの進歩性は尊重されねばならぬ。現にこうした「進歩的」な辞典、総合的見地のハッキリした而も翻読されるべき性質を持つ進歩的辞典は、日本で最初のものなのだから。□図も四十七入っていて、中々手のこんだ注意深い編集振りである。
[#改段]


 8 『人間の世界』を読む


『人間の世界』と清水幾太郎氏が呼ぶものは、社会対個人の世界であり、虚偽対真実の世界である、つまり真の人間は、或いは人間の真実は、個人の世界にあるのであり、之に反して偽った人間界或いは人間の虚偽は、社会の側にあるのである。
 勿論この個人は、社会に先行する社会の要素のようなあの「個人」のことではない。社会の内から生まれ、社会の内に住みながら、なおかつ社会を抜け出で、之をつき抜けた個人のことだ。社会から奪還された個人である。その意味から云う限り、著者の立場は決して所謂個人主義ではない。社会的な個人が人間なのであって、非社会的や社会前的な個人が人間なのではない。
 この「人間」が何であるかはとに角として、清水氏はなぜこうした「人間」や「個人」に到着したのだろうか。同氏は進歩的な社会学者である。社会主義に対する良い理解者である。にも拘らず現代日本の多くのインテリゲンチャと同様に、社会主義に対する良い理解者である以上に出ない。と云うことは、理論上でも之に対する傍観者だということにもなる。社会主義的社会科学が、あまりに多く社会と社会階級とが有つ客観的意義を強調しすぎ、個人が之を主体的に作為するという点を忘れすぎていた、という常識を是認することから、人間的真実を専ら社会ではなしに個人に求めようという結論を導き出したようにさえ、私には思われる。
 清水氏はかつての社会主義的社会科学に、或る宗教的な特徴を見たらしい。処がこの宗教的特徴を洗い流すために、社会主義的社会科学そのものからも手を引いた。その結果、同氏が最も烈しい批判の相手とした処の「社会学」的な或るものに自分自身行きついて了ったようだ。社会学というレッテルは氏にとって多分迷惑だろう。だから私は所謂ゾチオロギーだけを今日の社会学だとは思わない。寧ろ今日の日本で方々に新しく顔を出し始めた社会学は、社会主義的社会科学から手を引いた各種の文化論的社会論のことであるのを注意したい。之は現下の新しい形而上学である、文化的形而上学である。之は日本の思潮に現われ始めた新しい体系だ。
 この新しい何年型かの流線型哲学は、個人を社会から奪還することに情熱的であることを、共通特色とする。だが個人をそこから奪還せねばならぬその社会とは何か。階級的闘争場裏である社会から個人にまで脱却せよというのか、それとも又、ファッショ化乃至アブソリュティズム化しつつあるこの日本の社会から吾々民衆の各個人を防衛せよというのか。清水氏の本書に於ては、恐らくそのどっちでもあるようだ。そしてこの二つの区別が大して問題にならないようなシステムが、正に本書の特徴をなす。氏は今日の文化人の信念である反ファッショ的情緒をこの本の至る処に侵み出させている。だが之は「社会」なるノモス(法則)の世界に個人なるフューシス(自然)を対立させよということで、実地上の効果を期待出来るものだろうか。又理論上の論拠を与えられるものだろうか。
 氏は反ファッショ的な情緒の論理的背景として、合理主義について思いをめぐらしている。だがこの合理主義と個人奪還説とは、どうやって結びついているのだろうか。反ファッショ的論拠が合理的精神にあることは、当然であり又今日の常識だ。だが今日の文化上の根本困難の一つは、この反ファッショ的な合理的精神と人間個人の復活という二つの常識の間に、どういう必然的な繋帯を発見するかにある。今日の日本のヒューマニズム論議が今だに解き得ない要処がここだ。この『人間の世界』も、この点に来るとやはり無力であるようだ。
 だが本書の価値はまず、人間が人間外、人間以上、のものに対する、反逆この反逆一般の精神にあるのである。思えば今日程人間の反逆的精神一般が不足を感じている時はない。反逆精神が減ったからではなく、反逆精神の必要が増したからである。そこで清水氏は、悪を(之は必ずしも神学的なあの悪のことではなくて社会面の記事で云う社会悪に近い)反逆の一つの形式と見る。個人の傲慢不遜も新しい反逆のモラルと考えられる。所謂歴史論風な歴史も亦踏みにじられねばならぬ。ここが著者の本書に於ける結局の覗い処であり、同時にここが本書の結局の価値である。――私はこの点甚だ同感だ。だが依然として、この反逆が反逆一般であることについては心配がなくはないのである。清水氏は、この本を、人間を「強く」し、人間が自己を「幸福」にするために書いている。そのモラリストらしい心情は共感を禁じ得ない。ただ強がることも「強く」なることの具体的な一場合だし、「好い気になる」のも幸福の一種であるということを、清水氏は林首相や文武官僚などに教えねばならなかったのである。
 私はこの本を実は、極めて特色の豊かな、而も時代を象徴するに足る、良書だと思っているのだ。それだけに自分の意見を混えて見たくなるのである。
[#改段]


 9 朗らかな毒舌
       ――『現代世相読本』――


 阿部真之助氏の『現代世相読本』が出た。みずからいうところによると「この二、三年来の私の所謂『毒舌』の集積であって、いい換えると、私の善人振りを証明したものである」という。この言葉は決して嘘ではない。これほど痛快な毒舌を他に求めることが出来ないと共に、これほど善意で朗らかに読み取れる毒舌もまた少ないだろう。阿部真之助氏独特の毒舌タイプである。
 政治論約十六篇、時事論評約五十四篇、人物論大小合せて六十五篇程、他に婦人論その他の雑評九篇からなっているが、見られる通り人物論が比率にして一等多い。そしてこの人物論こそは最も利き目のある毒舌振りなのだ。と共に、又この位い素直さと一種の同情とによって貫かれた人物論を他に見ることが出来ない。氏は見方を誇張もしないがまた遠慮もしない。これは個人的利害関係の介在しない場合にだけありうる批評眼だが、しかしその他に批評家の持つべき確実さともいうべき或るリアリズムがなくては出て来ない風格だ。ところで氏はこのリアリズムに、キビキビとしたユーモアまたは愛嬌で更に一段と磨きをかけている。
 ありとあらゆる分野の人物を、よくもこんなに知り、よくもこんなに調べたものだという感じだ。新聞記者でなければ出来ない仕事だが、またただの新聞記者では書けないものだ。主観めいた観察のポーズなどは遙かに卒業済みであり、下手な人間学に陥ることを避けて、人物をその仕事と客観的な環境とから洗って行くところは、敬服に値いする。生きている人物の評論(棺を覆わぬ内の人物評論)として、上々のものだろう。
 人物論といっても大体において、政治論または時事論評と大して変った内容のものでないことは、寧ろよい特色だと思われる。ところで政治論の一群は言論界の苦労人であることを示すに充分である。時事論評にはやや一応の常識に流れたものも多いが、健康なリベラリストとしての強靱性を示していることに変りはない。婦人論や雑評もまた大体人物論に帰するが、これはうらやましくも最も余裕綽々たるもので、全く面白い。
 阿部氏の最も得意とするところはつまり人物論であるという結論に、私はこの本を読みながら到着した。そしてその人物論が、実に現代世相を物語るそれぞれの短篇作品になっているというわけだ。杉山平助風の文学者的人間論とも違えば、野依秀市式の政治屋流人物観とも異る。正に阿部流人物論の型を確立したものといってよい。
[#改段]


 10 入沢宗寿著『日本教育の伝統と建設』


 日本の伝統の問題、単にこの伝統なるものをかつぎ回ることではなくて、実際問題として之と取組まねばならぬという関係、夫は教育に連関して初めて切実になる問題だ。日本伝統なるものは教育に際して初めて実際問題となると思う。そういう意味で私は本書の書評を引き受けた。割合慎重に読んで見て得た収穫は、或る程度まで私の渇望が充たされたということである。だがそれだけに又、私がこの日本伝統の問題に関して懐いている疑点が、クローズ・アップされたことを意識する。
 本書は四つの部分から成り立っている。第一篇「日本教育の伝統と現代」、第二篇「日本教育と宗教教育」、第三篇「日本教育内容の改善」、それから付録である。本篇三箇を一貫するものは、宗教教育の提唱である。著者は日本教育の伝統を歴史的に叙述することによって(「我が宗教教育の歴史的考察」や「日本教育史に於ける仏教教育」の如き)、日本教育の本質は宗教教育にあることを明らかにし、それが明治維新の誤った排仏毀釈と、キリスト教学校の反国家的教育方針とを縁とする宗教一般の否定、とによって遺憾ながら見失われてしまったことを反復力説する。道徳からさえ宗教的意味を取り捨てて了った。処で最近、学校に於ける宗教教育が説かれるようになった現象は、全くわが意を得たものだと考えている。
 著者の云う宗教教育とは宗教的情操の教育であって成立宗教のものではない。そして夫は日本に於て、祖先崇拝・敬神・等々から始めて、忠君愛国にまで至り得べき国民の宗教意識を指す。一切の教科はここに発しなければいけない。修身・作法・国語・歴史・公民科・等々は云うまでもなく家事や理科に至るまで、専らこの宗教教育に帰着せねばならぬとする。
 処で日本国民の宗教的情操は又、仏教・儒教・神道・と離れてはあり得なかったし、又あり得ないと考えられる。つまりこの三つの「教え」を単に道徳的内容と見ることが誤りで、之を宗教的な内容だと見ねばならぬとする。かくて日本国民の伝統たる例の宗教的情操は、神仏儒を一丸としたような内容を持つことによって、まさに「教学」となり「学問」となるものでなくてはならぬ。日本国民の「宗教的情操」とその東洋的な「教学」とが、どう結びついているのかは、実はあまり明らかにされていないと思うが、とに角之が日本文化の伝統であり従って又日本教育の伝統であるということは、正に大いに首肯すべきだろう。
 だが問題はこの伝統がなぜ明治政府によって断絶せしめられたように見えたかである。夫は単に「誤った」教育政策などに帰することは出来まい。日本の資本主義と夫の基底に横たわる生産技術とを見逃しては、前資本主義的伝統の理解は途方に迷うだろう。著者はこの点についてあまり注目していない。単に、徒らなる排外主義は心ないものだ、大いに西欧的観点をも容れて日本教育の伝統を生かし、以て新日本教育を建設せねばならぬ、と云った種類の気休めに落ちているように見える。
 終局の問題は著者の教学のイデーの内にある。教学は東洋的封建観念論の性格的なもので、生産技術と凡そ無関係なことを一特色としている。それであるが故に、之は科学ではなくて教学であり、学術ではなくて教えなのだ。だから著者が理科教育などについて云い得ることは、自然を通じて神を見ることを教えるのだとか、優れた自然科学者は又宗教家であるとかいう、ナンセンス以上のものではあり得ないのである。教学主義を以て理科教育や科学的精神の教育を企てることが如何に無意味であるかを、吾々はもう少し真面目に省察することが必要だろう。――こう考えるとき、私は日本伝統の問題の困難さを、この書物によって愈々切実に感ぜざるを得ない。
 著者は、教育は「児童より」と称して、児童の要求を出発点とすることを力説するように思われるが、今日の日本の児童の心理がどういう動向をとりつつあるか、之を社会的に観察した結果は何であるか、夫を私は著者から聞きたいと思う。子供は或る種の大人よりも、現代生活のリアルな真実をもっとよく知っていはしないだろうか。処が著者は子供達の社会の現代的動向を洞察するよりも、寧ろ文部省其の他の法令や制度や教員などの方に、より以上の教学的情熱を示しているようである。
 云いたい点は沢山あるが、紙数に制限があるので割愛せねばならぬ。実を云うと私は著者の実際家らしい識見に啓発される処が甚だ大きいのだが、夫と同時に右に述べたような疑点が却って鮮かに私の眼の前に浮び出して来ることを禁じ得ない。なお付録の四つの文章は有体に云ってあまり共感出来ないものだ。
[#改段]


 11 小倉金之助著『科学的精神と数学教育』


 科学的精神は時代の最も重大な課題である。之こそ現代人の建設の課題であると共に、現下の国民にとっての文化的性能の試金石であると云ってもいい。この時現われた本書の意義は、私が改めて説明するまでもないと思われる。
 小倉金之助博士は、数十年来、首尾一貫して科学的精神の提唱と検討とをその文化的目標としていると云っても云いすぎではない。博士が実用数学の権威であると共に数学教育の権威であることは人の知る通りだが、この実用数学についての抱負と云い数学教育の理想と云い、科学的精神問題以外のどこからも発してはいない。
 氏によると科学的精神とは日常生活から科学的認識を導き出すことである。数学も亦そのようで実用性に基いて史的発達を遂げたものであり、従って数学教育の道も亦この数学史の個体発生的に反覆する事になければならぬ。かくして数学教育の目的は科学的精神の獲得にあることとなる。勿論之は単に数学教育に限ったことではないのであるが。
 生活は科学的精神から離れて一刻もあり得ない。それ故科学的精神とヒューマニズムとは離れてはあり得ないと氏は主張する。
 この思想はヒューマニズムを科学的精神の反対物ででもあるかのように妄想している一部の人達に、猛省を与えるのに最も役立つだろう。序篇と本篇とから成り、前者は比較的旧い時代のもの、後者はこの十年あまりのものである。
 序篇から本篇への進歩は、マッハ主義から唯物論への前進と社会科学的省察の徹底とに現われている。本書は『数学教育の根本問題』や『数学史研究』『数学教育史』を貫く根本精神の顕揚に資するために存在する。
[#改段]


 12 社会・思想・哲学・の書籍について


 聞く処によると、今年(一九三六年)の出版界は前年度に較べて多少勢づいて来たということである。尤もここで出版界というのは、文化的に一応承認された水準に達したものの出版をする世界のことで、色々な意味に於てインチキな出版物は計算外においての上であるようだ。つまり云わば真面目なものが、従って亦所謂「固い」ものも、前年度より少しは余計に出版されたと云われている。之は正確な統計によらなければ、何とも云えないことであるが、併し恐らくこの見方は当っているのではないかと思う。
 その本質上の動きはとに角として、所謂右翼(国粋・ファッショ・反動)の華々しさは、昨年の暮から今年の初めにかけて、多分その絶頂にあっただろう。それ以後は、華々しさの点から云えば、夫は下り坂になっている。例えば新聞は昨年頃よりは少しは自由に、日本の政治的動きに対する批評を下し始めることが出来たし、右翼も亦その所謂「右翼小児病」を清算して、観念的な華々しさから転向するようになった。無論その根柢には、右翼団体の戦線統一や大衆化というものが、かくされているのであるが、夫と同時に、今ではすでに、露骨にセンセーショナルな右翼張った口吻は引き潮になった。無論そういう皮相な変化は、一等よくジャーナリズム営業に反映するものである。
 で、機関説問題などがやかましかったに拘らず、そして之に関する多少は形をなした書類も無論少なからず出版されたにも拘らず、出版界の大勢は、もっと真面目に落ち着いて来たと見て好いだろう。流石の宗教物も急速に下火になったようだ。もしこのブルジョア社会に、仮にくだらぬ愚劣なものであるにしても、とに角世論というものがあり、それが少なくともジャーナリズムには直接の関係があるとすれば、この世論は、たしかに今年になってからは、もっと真面目な内容のある読物を要求したと云わねばならぬ。ここに世論とは、文字を読む社会層のその時々の共通感情の発現のことだが。
 読書界の真面目な内容のあるこの落ち付き振りは(但し夫をあまり買い被ることは出来ないが)、二つの方向を取って現われた。一つは左翼的内容を有った出版物の復興であり、而も以前よりは一層落ち付きのある内容を有った出版物の復興であり、もう一つは、広い意味に於ける古典的な文学的著作(必ずしも文芸物には限らぬ)や自然科学的著作などの相当計画的な出版である。この後の方の場合は、おのずから、一見政治的傾向とは関係の薄い、云わばイデオロギー的に見れば中性を帯びたように見えるものの出版で、この出版現象が社会現象として実際に何を意味するかは別として、とに角読書としては一種の落ち付きに基くものと見ねばなるまい。
 所謂左翼出版を行なって来た出版業者は二三年以前までに仕事を抛り出して了ったものが沢山あった。希望閣・共生閣・鉄塔書院・其の他がそうだった。今年の一九三六年の初めまでに残った左翼的出版業者は叢文閣と白揚社とナウカ社位いなものだろう。処が最近では多少そうした種類の出版物に関心を持ち出した書店がなくはない。例えば三笠書房などがその例だろう。そうしてこのいずれの出版業者にしても、その出版書籍の口数は決して他の種類の出版業者に較べて少ないとは云われないようだ。少なくとも今年になってこの種の出版は相当調子づいて来たように思われる。
 社会科学方面では、小林良正、森喜一、相川春喜、永田広志、其の他の諸氏の研究が白揚社から単行本になって出た。野呂栄太郎氏の『日本資本主義発達史』が岩波から再版されたことも注目に値いする。叢文閣は、ヴァルガの年報を続けて翻訳出版していることは別として、ヴィットフォーゲルの『市民社会史』其の他やダットの『ファシズム論』や、ポポフの日本に関する諸研究など読み応えのある翻訳物を続々出版している。
 哲学・自然科学・方面では、白揚社から出た秋沢・永田・両氏の宗教批判講話、巌木勝氏の日本宗教史などがこの方面の開拓者の役目を果したと見てもいい。永田広志氏や私なども、哲学に関したものをここから出版した。岡邦雄氏は自然科学史を出した。アインシュタインの『わが世界観』も出た。考古学や言語学に関する訳も出た。三枝博音氏と戸弘柯三氏とは日本思想史に関する書物を他の書店から出版している。ナウカ社はソヴェートに於ける自然科学的著述の翻訳出版に力を注ぐ。数学や物理学・化学・などに関する中等教程とか、『ソヴェート科学の達成』とかマキシモフの自然科学とレーニンとに関する論集とかも出た。三笠書房は最近『ソヴェート文学全集』を出しているが、之と前後して、『唯物論全書』を続刊している。之は唯物論の視角から見た学術的に根本的な諸テーマを取り上げて研究解説したもので、日本では最初の企てだと云えるだろう。すでに十三巻以上出ている(一九三六年まで)。
 著書の序でに、左翼的な又は建前に於て進歩的な評論乃至学術雑誌を見るとすれば、『経済評論』(叢文閣)、『歴史科学』(白揚社)、『唯物論研究』(唯物論研究会)、『社会評論』(ナウカ社)、其の他の読者の定着を注目しなければならぬ。
 以上は或る意味に於て「左翼的」(?)な、と云うのは、本当の意味に於て進歩性を建前とする、出版界のことだったが、その実質的な内容から云って、到底、所謂右翼出版物の遠く及ぶ処でないことは今更問題ではない。尤も企業的に見て、どっちが儲かっているかは、私の知る限りではないが。
 併し、イデオロギー上の中性を有つ出版物が、著しく盛大になったことは、今年の何よりの特色に数えられるだろう。自然科学関係のもの(例えば『岩波全書』)が多数出版されて重厚な読者層を見出しつつあることは、之も一つの思想上の現象であり、中性に於てサスペンドしようとすると共に、しばらく退いて落ち付いた勉強をしようという、社会意識の現われだろう。でこの種のものは多く教科書の形をとる。そしてこの中性式教科書好みは無論決して自然科学だけではなくて、社会科学に就いてもその通り云われることだ(尤も改造社の『現代金融経済全集』や『統計学全集』などは、評論社や改造社が往年競争して出版した『経済学全集』の類とは較べものにならぬが)。この教科書好みの大規模なものは辞典や古典の全集となって現われる。辞典の方は尤も、勉強を省略しようとする読者にとって魅力を有つが、古典の全集は恐らく勉強するために買われるわけだろう。文芸辞典やゲーテ・ニーチェ・ドストエフスキー(尤も再版)其の他の全集が、出つつある。
 だがイデオロギーの中性を求めるというこの読書界の大きな部分の現象、即ち又それに相応する出版界の現象は、一面に於て地道な手続きを取った探求の精神の現われであると共に、直ちに又他面に於ては、却ってつきつめる底(てい)の探求を放擲するものであるということを、深く注目しなければならぬ。之は左翼運動家の転向現象とも一定の関係があり、左翼思想家の退却とも連りがあり、それから特に文学の世界に於ては、文学主義化の傾向とも連絡があるのである。だから例えば、同じく中性的な哲学でも、普通のコースを取った所謂哲学という形を有つ哲学よりも、文学主義的な立場をハッキリと表面に現わし、従って文学的な内容の豊富なような哲学が主として選ばれた。『ニーチェ全集』やキールケゴールのもの又或る制限の下では『ゲーテ全集』などが夫だ(ニーチェに関する研究書は著書と訳書を加えて三四種に及ぶ)。之に反してプロパーなブルジョア哲学の出版物は、解説風のもの(岩波の『大思想文庫』)を除けば、非常に少ない。
 この中性的イデオロギーによる出版現象の台頭に直接する、哲学・思想・社会・理論・其の他の一種のこの文学化と関係するものに、批評の問題への関心が存する。ティボデ、ファゲ、サント・ブーヴのものなどが訳されている。之は元来、吾々の問題探求の深化でなければならないのだが、下手をするとその皮相化に終る危険があるだろう。
 政治上の自由主義はとに角今日極めて困難に面接している。之に反して、右に見たような意味に於て、文化上の自由主義は中々盛んであり、又根強いものがあると考えられる。もし左翼的な進歩性と、自由主義者の進歩性とがあるとすれば、この両者がいかに結びついて行くかは、一九三六年度の出版界に就いての興味ある観点だろう(私個人の関心が累して遺漏と偏局とがあったと思う。紙数の制限のために省いたものも多い)。
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 □ 余論




 1 ブック・レヴュー論



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