読書法
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著者名:戸坂潤 

 敢えて新刊紹介や新刊批評という意味ではない。また良書推薦という意味でもない。私はそんなに新刊書を片っぱしから読むことは出来ないし、また何が良書であるかというようなことを少しばかりの読んだ本の間で決定することも出来ない相談のことのように思う。もう少し無責任な読書感想の類を時々書いて行きたいと考える。勿論私の身勝手な選択によることになるだろう。或いは妙な本を読む人間だと思う人もあるかも知れない。併し人間というものは、はたで推測するような注文通りの本を読んでいるものではない。意外のものから意外の示唆を受けるものだ。この示唆は私なら私という人間にしか通用しない場合も多い、だがそうかと云って、そんなに非合理なことでもないのである。
 とに角万人必読の良書をえりすぐって評論するというような、第一公式の礼服着用に及んだものではないのだから、御容赦を願いたい。吾々は読書の自由(?)というものを、こういう意味でも亦持とうではないか。旧本、駄本、変本、安本、其の他其の他も恐れないことにしよう。尤も「趣味」本の類ばかりを新刊したがるような一種の新聞的新刊紹介のやり方は、真似したくないものだが。
 さて手始めに私の友人である石川湧君を御紹介しよう。勿論彼はフランス語による評論の翻訳者として相当有名な人物だ。同時に彼は大変な不平家である。自分が訳す本は世間でも文壇論壇でもあまり注目しない、何という莫迦ばかりの世の中だろうというのだ。最近彼の選訳になるレミ・ド・グルモンの『哲学的散歩』(春秋社)が出た。全訳ではなくて彼の手に負えるもので、重大性を有ったもので面白いものだけを選んだのであると云っている。併しグルモンの思想、考え方、哲学、文学意識、其の他其の他、要するに吾々にとって必要なグルモンは、之で立派に紹介されているわけである。グルモンのこの本の訳は、すでにどこからか出版されたこともあるとかいう噂を聞いたが、殆んど知られていないので、この石川訳が最初のものと考えていいだろう。
 訳者も説明しているようにグルモンは一方に於て詩人だ。クラシシズム派の詩人である。けれども吾々にとってもっと直接縁故のあるのは、寧ろ評論家思想家としてのグルモンだろう。そのグルモンは、自分は主観的観念論だというヨーロッパのブルジョア文化人と共通な仁儀を述べているが、併し実際には、唯物論の精神を相当執拗に追求していて、唯物論の根本テーゼの一つ一つについて、可なり心を砕いて考えている。「観念論の根源」、「動物の心理」、「快楽讃」などがそのいい例であり、又ベーコン、メストル、エルヴェシウス、カント、ゲーテ、ダーウィン、ラマルク、ファーブル、ダ・ヴィンチ、ラスキン、サント・ブーヴ、ニーチェ、スタンダール、モネ、などに対する批評もそうだ。彼の生物学者風の知恵が、グルモンの唯物論(?)を要求している。彼はモラリストの中に立って、一つの新鮮な健康な存在である。何らかの唯物論者がデモクリトス以来、笑える哲学者であることを、彼は読者に思い起こさせるだろう。
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 2 譬喩の権限


 六七年前になるかと思うが、現在京都帝大の教授である九鬼周造氏が長年のヨーロッパ滞在の後、帰朝して京都の哲学の先生に任じられたので、訪問したことがある。その時聞かされたのに、フランスの或るリセの先生であるアランという人が、青年の大した人気者だということだった。一遍読んで見たいと思っていたが、外国語の本では買うのが億劫で、手に這入ってからも読むのが時間がかかるからハキハキしなかった。
 その内、この二三年程というもの、フランス語学者や文芸評論家達の書くものに、アランの名がよく出て来るようになった。愈々人気は極東にまで及んで来たなと思った。谷川徹三氏もどこかで「いまの自分はアランで夢中だ」と書いたようだった。で私はアランにめぐり合う(?)のをひそかに期待していたのである。
 処が幸いにして、去年の暮に、小林秀雄氏の訳でアランの『精神と情熱とに関する八十一章』というのが出た。とりあえず読んで見たのである。精神とはエスプリで、情熱とはパッションのことであるが、情熱を情念と訳した方が或いは語弊が少なかったのではないかとも思う。日本の文士の間では情熱というものは、云わば尊敬すべきものになっているようだが、アランがパッションに就いて語る場合は、必ずしもそうではないからで、デカルトの頃からフランス其の他の哲学者が人性論(アントロポロジー)に於て取り扱って来たものが、このパッションに他ならないのである。
 さてこの本は実は一種の哲学入門である。感覚認識・秩序づけられた経験・論証的認識・行為・情念・道徳・儀式の七部に分れて、併せて八十一章からなる。その風格は次の一二の例から知ることが出来よう。一一〇頁、「神が飛翔の為に翼を作った、と言って安心している人の精神にはただ言葉が在るだけだが、もしその人が、どういう工合に翼が飛翔の為に有効かという事を承知しているなら、所謂諸原因を極めて物を理解している事になる。」之は目的論と因果関係とを有効性というもので結びつけた説明で、そんなに平凡な説明でないことは、知る人ぞ知るであろう。
 又一三四頁、「暇の時に人々が出会うと、めいめいの考えを交換するものだが、この交換は言ってみれば、既知の諸公式に依って行なわれるのであって、精神は高々言葉を楽しんでいるだけだ。……様々な記号を確めてみる事に充分幸福を感ずるという人々のこの会話なるものに、古い時代の名残が見える。」会話=暇つぶし=娯楽というものについて反省させるに足る示唆だ。
 併し困るのは「公衆」についてという項の類である。「文字通り服従するとは不正な力を支配し処罰する一つの方法である。」「暴君は許すことが好きなものだ、寛大は王権の最後の手段である、だが厳格な服従によって僕はその高貴なマントを剥いでやる。異議を唱えるという事は大きな阿諛だ、暴君に僕の家を開放してやる事だ。」
 このそれこそエスプリに富んだすぐれた言葉も、もはや前の二つの場合の例のような、健全な科学性を有っていない。ここに「深い管見」とでも云うべき、局処的真理のもつ虚偽、というものに、私は思いあたるのである。つまり多くの所謂「哲学」の書は譬喩の書ではないだろうか。それは人生の或る絵画ではあるが、設計図ではないようだ。
 訳は可なり立派な日本語になっている。いい訳である(最後にどうでもいいことだが一つ気になった個所がある。ハムリンという人名が出て来るが、あれはアリストテレス学者であるアムランのことではないだろうか)。
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 3 耕作農民の小説


 農民作家創作集『平野の記録』という本を寄贈されたので、半分あまり読んで見た。編者鍵山伝史氏の「あとがき」によると、これに収められている六篇の作者は、いずれも農村に在住する耕作農民であるという。私はまずこの点に興味を惹かれた。都会に住んでいる職業的又半職業的な作家でない人達が書いたのだということ、そして恐らくそうした作者の数多の作品の中から選び出された代表作が並べられたものだということ、之は今日注目に値いする。
 編者はいっている、「私は雑誌『家の光』の記者だったが、その記者生活において、農村から送られて来る諸種の投稿に触れる機会を非常に多く持った。それらの大部分は、稚拙であり粗雑であった。誤字や、かな遣いの誤りなどを数えるとほとんどきりがなかった。「仕事」を「任事」と書いてあったり「屡々」という副詞を「暫々」と書いたり「意外」と書くべきを「以外」と書いてあったりするのはその一例だが、このように、およそ「文字」の使用に対してあまりにも無雑作である上に「文章」に対してもまた、放埒なまでに無思慮な原稿を見て、時には腹が立ち、時にはふきだしたくなることがあった。ところが、私はそうした原稿になれるにしたがって、職業作家の作品とはまた、おのずから別種のおもしろさを見出すようになったのである」云々。
 私の読んだのは、小説だけで、戯曲二篇はまだ読んでいない。なぜか、この場合に限らず、私は戯曲を読むことが億劫なのである。多分、戯曲は読むことで感受が完了するものではないという意識が邪魔をするのだろう。で小説だけ読んだのだが、その出来栄えを見て普通の職業的半職業的な作家のものと、大して違いのあるものとは思われないのだ。非常に優れているとも思われないが、勿論劣っているとも考えられない。職業作家とは別種な面白さというよりも、それと共通な面白さの方が感銘を与えるように思った。一体私は今日の小説で、農民小説は大抵面白いように思うのである。野地氏「平野の記録」は小作地管理人の地主への忠勤振りを描き、野原氏の「嵐の村」はバクチ検挙にからむ村の有士の詐欺を取り扱っている。どれも面白く読める中篇である。渡辺氏「山晴れ」は農村青年と売られて行く農村の娘との悲劇を牧歌的に抒した小篇、栗林氏「新学期」は農村学童が先生から貰った学用品を、泥棒したのだと思い込んだ両親にどやされるという短篇、どれも農村の現実的な矛盾を剔出しようとする判然とした思想と意志とを表わしている。余計なものはどうでもよい、面白い要点はここにある。私は重ねて編者ではないが「文学が必ずしも職業作家のみに任せて置かなければならぬ理由はないという確信を抱くに至ったのである。」
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 4 「文化的自由主義者」としてのA・ジード


 ジードの『ソヴェート旅行記』の全訳が出たので、早速読んだ。三分の一程は中央公論で読んだのだったが、新聞などで紹介を見た時教えられたジードの怪しからぬ(?)点は、この三分の一の内にはあまり出ていなかった。寧ろソヴェートへの好意の方が目立っていた位いだ。この感じは、全訳を読み了って多少は修正されはしたが、併し私の根本的な感じには変りがないのである。
 ジードはジードなりにソヴェートを可なり好意的に見ようとしている。元来ジードは決して唯物論者ではなく、そういう立場に立ったコンミュニストでもなかった筈だ。之は誰しも知っていた筈である。彼は個人主義と理想主義とに立脚した「コンミュニスト」に他ならなかったのだ。だから彼がソヴェートに就いて懐いた予備観念が又、極めて理想主義的なものであったことは当然なので、その理想主義がソヴェートの現実に行き当って、一つの動揺に陥った。信頼と共に甚だしい不満を覚えた。ただそれだけのことなのである。
 併しそこから偶々彼の地金である色々の弱点が露出せざるを得なかったのである。彼のようなタイプの進歩的な自由主義者は、私がいつも云うように、一種の文化主義者であり、文化的な自由主義者に過ぎない。素より彼のようなタイプの進歩的文化人は、フランスに於ては一定の政治的な積極的役割を果しているわけだが、ジード自身が云っているように、彼は不思議にあまり政治や経済のことを考えていないのである。そして而もみずからコンミュニストだと云うのである。
 文化主義者の習性の一つとして、彼は政治と文化とを別々に考える。文化は反抗と自由とによるものであり、政治は之を画一主義(コンフォルミスム)に堕落せしめたものだと考える。政治によって文化の新しい誕生が齎されるというような唯物史観的関係は、殆んど眼中にはない。之が彼の一貫したソヴェート文化観の観点なのだ。
 ソヴェート文化に対する善意的同情者が、ソヴェート文化に対する認識の限界につき当らねばならぬ所以が、ここに暗示されていることを知るべきだ。
 だがジードによって指摘されたソヴェート市民の文化的画一主義・独善的自慢主義は、あり得べき事態ではあっても、決してソヴェート文化の自慢にはならぬ点だろう。ただその不満をああいう形で発表することが、トロツキー主義に事実上符節を合わせるものであるという点が、文化問題を政治問題と独立に考えている例の文化主義者たるジードにとって、どこまで行ってもピンと来ないのは当然だ。
 (付記、ジードの『ソヴェート紀行修正』については別に)。
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 5 宮本顕治の唯物論的感覚


 或る意味で近来の待望の書は宮本顕治『文芸評論』と内田穣吉『日本資本主義論争』とだろう。後者については、追って書こうと思っている。宮本顕治は蔵原惟人に並ぶ素質を持った殆んど唯一の文芸評論家である。単に左翼評論家の内でそうだというのでなく、蔵原が日本の一般文芸評論家の内で占めている追随を許さぬ位置を認識した上で、そう呼ぶことが出来ると思う。
 なる程宮本の活動の期間は大へん短い。この『文芸評論』にしてからが決して大部な本ではない。それにまだ年もあまり取ってはいないから善かれ悪しかれ若いものを感じさせる。だがいつでも大切なのは素質――そして社会的な――にあるのだ。その意味で彼の「素質」を高く吾々は買わねばならぬと思うのである。
 彼の素質の良質な点は、有名な「敗北の文学」(芥川竜之介論)と「過渡時代の道標」(片上伸論)とにまず第一段として現われている。之は並々ならぬ良識とそれを裏づける展望ある教養とを示している。若々しさと共に一種初めから出来上った感じを与えるものもこれだ。併しこの点よりもより一層私を動かすものは、彼の感覚、彼の感官そのものが、稀に見る程マテリアリスティックに出来ているという第二段の良質である。「マルクス主義的」乃至左翼的な文芸評論家は沢山あったし沢山あるが、平凡な観念論的感覚の詩人や何かではあっても、良心から云ってマテリアリスティックなセンスやムッドを持った人間は案外少ないのだ。宮本の価値は、その教養ある素質が正にこの唯物的感情によって研ぎ澄まされているように見える点だ。
 この感覚の確実さを見るには、寧ろいくつかの「文芸時評」なる項目を読むといい。彼はマテリアリストでなければ見出せないいくつかの的確な発見をしている。ものの良し悪しを殆んど本能的にピッタリと云い当てているのが判る。人真似や右顧左眄の産物には決してあり得ないことだ。
 ただ彼の素質は理論家ではないようだ。理論的な分析を企てた「評価の科学性について」や「同伴者作家」の項は、やや凡庸である。彼は理論家であるよりも、云って見れば「評論家」というタイプとして、大へん優れているのだと私は思っている。
 中条(宮本)百合子の序文は、日本プロレタリア文学運動に於ける彼の役割を規定することに於て、簡にして要を得ている。中条氏で思い出したが、彼女の『昼夜随筆』という評論集が出た。読んで見たが仲々いい。宮本顕治と並べて彼女の評論家としての独自の価値を、世間はもっとハッキリ認識すべきだろう。
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 6 コンツェルン論の「結論」


『日本コンツェルン発達史』(ワインツァイグ著・永住道雄訳)が出た。菊判ではあるが二百頁を少し越す程度の、手頃の分量の本である。コンツェルンに関する本、しばらく前の習慣で云えば「独占資本」とか「財閥」とかに関する本は、やや分量の大き目のものが多いようだが、この本は之を圧縮したような特色を有っている。日本のコンツェルンの通論として多分最も便利なものだろうと思われる。
 モスコウの世界経済世界政治研究所の監修になるもので、外国人の書いた日本研究だからあまり役には立つまい、などと思う人がもしいるとすれば、勿論そういう人は今日の常識を持たない人間である。日本の事情を国外からの距離、「特に云わばモスコウ的距離」から見ることは、狎れっこになった国内事情に対して新鮮な光をあてることでもあるばかりでなく、之を世界的なスケールから要約することでもある。而もこの本では更に、「日本型コンツェルンの一般的特徴づけ」の章とか、「日本型コンツェルンの政治生活」の章とかで見られるように、コンツェルンに対する着眼点を社会的政治的要約にまで高めることに、努力が払われている。例えば「日本型コンツェルンの特徴の一つは、資本の投下部面が種々様々であり、しかもこの種々様々な資本投下部面が非常に屡々コンツェルンの基本的生産と殆んど何らの依存関係もなく、また結びつきもないという点である。」こういう特色で行けば、当然この「日本型」が社会的に政治的に何を意味するかに注意を向けさせる筈だ。
 勿論資料の点ではセカンドハンドのものが多く、資料的オリジナリティーを期待するのは控えねばならぬ(鈴木茂三郎氏の独占資本に関する数著を最も屡々引用している)。だが私などが最も興味を惹かれるのは、資料のオリジナリティーの如何という、専門家的な一種の業績計算法に基く検討よりも、寧ろそれから出て来る社会的結論・社会的要約・の方である。こういう点で、特に私には大変有用な本だ。
 コンツェルン問題は今日目立って流行している。だが私の希望する処は之をもっと意図的に社会的政治的特色づけにまで高め、且つそういうものとして抽出することだ。だがそれは思うに、ファシズム論、「日本型」ファシズムに関する理論、に転化することに他なるまい。そこで日本に於けるファシズム論議が、もっと意図的に所謂コンツェルン論議の内に現下の資料を求めるべきは勿論のことだ。だが、コンツェルン問題の「結論」が、ファシズム問題でなくてはならぬということは、這般の最後の要点である。
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 7 科学が文章となる過程


 J・ジーンズ卿の『神秘の宇宙』(藪内清氏訳)が重版になった。初め『新物理学の宇宙像』という題で訳されたのだそうだが、今度は原名(Mysterious Universe)の直訳にして出したものである。一九三〇年に原著者がケンブリッジ大学のレード講演に基いて書かれたもので、論文というよりも正に「エッセイ」というべきスタイルにぞくする。
 第一章は「滅び行く太陽」、第二章は「近代物理学の新天地」、第三章は「物質と輻射」、第四章は「相対性原理とエーテル」、第五章は「問題は混沌として」(Into the Deep Waters)というのである。私は最初この原本を開けて見た時に、実を云うと、章題のつけ方のこの流儀にやや反感に近いものを感じた。何か大変俗悪な、素人をおどすような気分で書かれているような予感がしたからである。処が読み始めるとスッカリ感心して了った。実に心憎い程の切れ味を有った叙述なのである。巻を措く間も惜しく、読んで了ったものだ。尤も本はごく小さく四六判一四〇頁程のものであるが(訳本の方も二百頁程だ)。
 ジーンズは物理学的観念論者の典型ともいうべき人であろうが、そういう哲学は勝手にしゃべらしておけばいいだろう。他にも沢山いることだ。併し科学的名文家としてのジーンズは充分に尊重されていいと思う。同じく物理学的観念論者の一人であるエディントンも亦、食い込むような厚みのある説明を与える叙述力を持っているが、ジーンズはこの本で、もっと掌を指すように、又もっと手玉に取るように、対象を生々と転がしている。
 日本にも自然科学者で科学的文章の名文家が少なくない。私の知っている限りでは石原純博士とか仁科芳雄博士などがそうだ。だが英語国民やフランス語国民の自然科学者には、その「科学」が「文章」にまでなって了っている達人(?)が日本よりも多いのではないか、というような気がする。と云うのは、之は単に文章の問題ではない、科学自身の社会的生存に関する問題であるからだ。
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 8 古典の方が却って近代的であること


 ヴォルテールの『カンディード』(池田薫訳)が出た。以前春陽堂文庫であったか、高沖陽造氏の訳が出ているそうだが、今夫と比較する時間がない。この頃フランス文学の紹介翻訳が全盛である。而も之がフランス文学のボンサンス(「ボンサン」の方が正しいのだそうだが)たる知性の輸入ではなくて、非合理主義の上塗りであることは、全く妙だ。あるフランス系文士は、良識をば科学的精神の対立物として礼拝する、何とも挨拶の仕ようがないのだ。
 処でフランス哲学への関心も、次第に盛んになって来る。特に十八世紀の啓蒙家、唯物論者などへの。この『カンディード』もその一つと見ていい。之は「風刺文学」の模範であるが、その盛り上った思想や哲学は実に鮮かに顕著にすけて見える。だが思想が充分肉体化していないなどと、云えるものがあったら会って見たいものだ。思想と文学との結合の仕方には、こういうものがあるのだということを、思い知るべきだろう。ディドローの風刺文学としての哲学書『ラモオの甥』(本田喜代治訳)と、色々の意味で、全く好一対である。
『ラモオの甥』の方は同じ面白くても、少しムズかしい点もあるが、『カンディード』の方は大変やさしく面白い。心情のやさしいカンディードの冒険的な運命物語りで、アラビヤンナイトみたいな処もある。が第一の要点はライプニツ哲学の予定調和説と夫に結びついている神義論と楽天説との、経験的事実による転覆である。経験的事実の世界はありとあらゆる不幸と悲惨とに充ちている。著者は之をまるでモダンな筆致で坦々とリアリスティックに描き出す。第二の要点はその不幸と悲惨との無用な充満に最後の責任を持つものは、坊主と教権組織だという一貫した主張だ。悪いことは皆んな坊主が一役買った結果に他ならない。第三の要点は、この悪魔的ペシミズムの哲学にとって唯一の息抜きである理想郷エルドラドーであり、そこで発見される処の「科学」への信頼と希望とだ。処でどの要点も、まことに近代的に生々しい意識を持っているのだから、不思議である。この古典を読むと、現代人の作品でもあるかのような気がするのだ。
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 9 歴史哲学の一古典


 都合で一回休んだが、続けようと思う。私はこの頃類似アカデミシャンという言葉を使って見ている。本質に於て非大衆的なアカデミシャンであるに拘らず反アカデミーの意識を有つことによって、一応反逆的で進歩的な大衆味を有っている今日の若い優秀な自然科学者などをそれだと考える。併し文化理論家の内にもこのカテゴリーに這入る人が、最近の日本では特に多い。之を私は文化的自由主義者という風に呼んで見たことがある。私はこういう種類の人達には充分の共感を感じるものではないが、現在に於けるその役割のプラスに就いては、充分の尊敬を払うことが出来ると思う。多くの危険を顧みながらではあるが。
 清水幾太郎氏(『人間の世界』をこの間書いた)などはその典型であるかも知れぬ。もう一人挙げるなら樺俊雄氏である。この人達を一種の社会哲学者とか歴史哲学者とか考えてもいいだろう。或いは文化哲学者とも云うべきだろう。今日の思想のポーズとしては、一つの大きな流れにぞくしている。その樺氏がJ・G・ドロイゼンの『史学綱領』(菊判二三〇頁)を翻訳した(刀江書院)。原書が史学方法論の今日に生きている古典として、歴史家にとっても哲学者、思想家、にとっても、必読の文献であることは云うまでもない。だが私が特に興味を有っているのは、之が現代の解釈学及び解釈学的哲学法にとっての最も有力な古典の一つで、現代型観念論の或る一つの秘密を解きあかしている代表的なエッセイだという点だ。現代の観念論は解釈哲学のシステムを以て最後の保塁としているからだ。尤もこういう観点を離れても、それ自身歴史感覚を深めるための貴重な演習教程になるものなのだが。
 この本は樺氏(『歴史哲学概論』其の他の著者である)によって、全く打ってつけの翻訳者を見出した。同氏以上にピッタリとした訳者は今の処得られないものと思う。そういう意味で、この訳書に向かって私は大変爽快な気持ちを覚える。同氏の力の這入った解説文も丁寧で要を得ており、読者の聴きたいことを手回しよく伝えている。最近の編者ロートアッカー版の序文の比ではないようだ。
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 10 『日本科学年報』の自家広告


 岡邦雄氏と私とが編集者ということになっている『日本科学年報』一九三七年版(改造社)が今回出版された(三七年六月)。この際多少自家広告をしておきたく思う。一月程前に出る筈だったのを、編集者側と出版者側との夫々の都合でおくれたので、文芸年鑑其の他よりも一月後になったのは残念だったが、来年度からは用意を手回しよくして出版の時期を早めたいと考える。
 初め『年鑑』という名にする心算であったが、経費と時間との関係で便覧風の調査が出来にくかったので、もっとアカデミックな名の『年報』としたわけである。実際に編集に当ったのは唯物論研究会の多数の会員幹事達其の他であって、特に石原辰郎氏の努力を多としなければならぬ。ただ唯物論研究会の第一義的な仕事と銘打っては多少憚りありというので、岡氏と私との編集名義になったのである。すると岡氏や私などは少し割が合わないことになるわけだが、併し又、岡氏と私とだけで編集したらばこの程度のものには決してなれなかったのだから、吾々は(少なくとも私はだ)寧ろ得をしているものだということを告白する。
 ここで科学というのは、独り自然科学だけではなく、社会科学(乃至歴史科学)と哲学とを含み、且つ芸術・文化・理論をも含む。総合的で且つ観点の原則が貫徹している点が、本年報の特色であり、又目新しい処であると考える。こういう特色ある年報の類は、之までまず無かったようだ。併しそれだけに又、杜撰を免れないだろう。特に、出来上るまでどういう調子の本になるのかが、どの執筆者にもピンと来ていなかったことが、弱点の源の一つである。少なくとも私自身の場合がそうだった。
 だがひいき眼で見ると、読み物の部分はまあ何とか退屈しないで読める程度だし、見る部分である「アルバイト総覧」は少なくともその分量から云って、努力だけは充分に買って貰えるかも知れない。校正だけでも並大抵ではないのである。寛厳宜しきを得た批判を受けたいと思う。
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 11 心理と環境


 E. S. Russell の The Behaviour of Animals, London の訳『動物の行動・環境』は色々の点で面白い本だ(訳者は永野為武と石田周三との両氏)。簡単に云って了えば動物心理の本であるが、併し大切なのは、動物の心理を、と云うのは結局動物の行動をということに他ならないが、その環境から説明しようとする点にある。否、説明するというよりも、その環境に於て観察するという研究の方法に面白味があるのである。
 単に実験室でやった実験は動物の正常な生態を蹂躙して了う。それでは動物の本当の習性は判らぬ。何でもトロピズムとかタキシスとか云って片づけられて了うことになる。だが所謂トロピズムとかタキシスの多くは、動物が強制的に置かれた異状生態からノルマルな生態に復帰しようという生活全体の必要からの趨向なのであって、その自然な生態の観察からでなくては、この点がハッキリしないと云うのである。
 この考え方はケーラーのチンパンジーに就いての有名な研究と全く同じやり方だ。所謂形態心理学は全くケーラーのこうしたやり方によって実験的な基礎を置かれたもので、ラッセルのも形態心理学の資料として大きな価値があるのである。チンパンジーが色なら色を記憶するのは決して単独な色のあるものとしてではなくて、之と連関している認識対象の或る全体との対比に於てしか記憶していないのだ、という結論を導き出したケーラーの形態心理学は、同時に動物をその形態上の或る全体に於て見なければならぬという方法の結論でもあるのだ。
 本能とか知能というものの観察も当然こういうやり方で行なわれなくてはならぬ。両者の対比と連関とをこの本では具体的に丁寧に述べている。読者はここで又マクドゥーガルの心理学を思い出さねばならぬだろう。――なお形態心理学の研究が盛んなのは九州帝大の心理学教室で、古典的な文献の集録も出版されているし、研究発表や著述も多い。
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 12 「外国人」への注意書


 板垣鷹穂氏の評論集『現代日本の芸術』は、五年前に出た『観想の玩具』以来の最初の出版である。そう云っても実はこの本は、同氏の十八冊目か十九冊目の本だ。それ程氏は多作な評論家である。だが今度の評論集は恐らく従来のもの以上に面白いものではないかと思う。大変実際的な落ち付いた観察を以て終始していることによって、或る一つの纏まったアトモスフェアをハッキリと醸し出している。練達の士のものしたものであることを思わせる。
 寧ろアトモスフェアが出来上り過ぎてさえいないかということが気にかかる程だ。氏の文章にはもはや青年らしい焦慮も野心もない。文化世間での苦労人らしい坦々たる論調と共に長者らしい鷹揚ささえも備わっているのである。元来氏はアカデミックな気むずかしやの一人である。直子女史のアカデミー振りと琴瑟相和す部分もないではないようだ。併し結局氏は批評的精神ではなくて肯定的精神である。世俗的な権威についての最もよい理解者の一人であることにもそれは現われている。落ちつき払って見えるのもそこに原因しているらしい。
 処でこの評論集は異彩陸離たるものがある。都市、流行、建築、文芸、映画、美術、写真、舞台、放送、教育、という十項目の下に、夫々二三篇から二十篇の文章が収められているが、現代日本人の日常生活に於ける芸術形態を、これ程親切に忠実に、紹介批評し、且つ記録したものは、他に殆んどないと云ってもよい。氏には今日では特別のイデオロギーがあるとは云えない。だから氏は単なる記述者であるとも云うことが出来るかも知れない。併し、この記録者が偽りなく記録した結論は、恐らくこういうことになるらしい。曰く、現代日本人の芸術は、歌舞伎でもなければお能でもなく茶の湯でも生花でもない。所謂近代芸術こそがみずからのものと感じている芸術なのだと。色々な意味に於ける「外国人」――日本主義的エキゾティシストをも含む――にそういうことを教えるに有効な本だ。
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 13 古本価値


 散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科学の将来』という小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買った。『ヤソ伝』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブトルーの『自然法則の偶然性』を訳出していたと思う。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂という出版屋から出ている。叢書形式の内の一冊かも知れない。そうすれば半分だけを訳して出すということも、分量の上から云って止むを得ないことだったかも知れない。
 併しそのために、何と云っても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は、何も隅から隅まで目を通さなければならぬ程大事な内容で充満しているわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合わせに過ぎぬと思われる部分も多いが、それにしても訳者も云っている通り、ルナンの其の後の仕事の方針を宣明したものとして、大いに価値のある文献なのだが、それが半分では、全く雑本としての価値しかない。こう古くなって誰も手にとっても見ないようになると、そういう点が特に目に立つ。惜しいことだ。
 同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『変態心理学』というのがある。之はリボーの有名な『記憶の疾患』、『意志の疾患』、『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。そういう加工だけですでに、古本価値のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだろうこの訳書を、私は割合大事に、蔵っておいている。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
 序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与えている。之は私にとっては興味と同情とに値いする点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払っていい。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬようだ。
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 14 文化が実在し始めた


 ミショオの『フランス現代文学の思想的対立』(春山行夫訳――原文は英語)は私にとっては最初から興味のあった本で、読んで見て勿論失望はしなかった。今日一国の文学を論じる以上、之を思想問題として論じなくてはならないのは、当り前すぎるほど当り前なのに、多くは、ただの「文学」(?)の紹介と云った水準のものが、普通の通り相場である。そういうものに対比して、之見よがしに、之を持ち出して来るのも、一興である。
 内容は少しゴタゴタしすぎている。それというのも、出来るだけ沢山の人について書こうとしたためだろう。ただの報告に近いものさえある。そういうニュース的な興味をもう少し節約したならば、文明評論としても生きて来るし、文化の真の報道としてさえも生きて来るだろう。
 巻末の相当分量の付録「人民戦線以後の文学」という春山氏の筆になる文学と政治とのクロニクルは、この書物の意義をよく見抜いた上での補足というに値いしよう。
 この頃私は、文化問題に関する諸国の評論兼報告と云ったものの、纏った本に関心を持っている。今のミショオのもその代表者であるが、国際作家会議報告の『文化の擁護』、国際連盟のインテリジェンス国際協会の記録『現代人の建設』、ミールスキーの『イギリスのインテリゲンチャ』(之はまだ訳が出ていないが)、ロマン・ローランの『闘争の十五年』(ジードの『ソヴェート旅行記』も入れてよい)、等々の纏まったものを買って読みたいという気持である。
 右の本はまだ全部読んでいるわけではないが、それにつけても思い当るのは、「文化」という問題が本当に吾々民衆、と云って悪ければ吾々インテリ大衆、の生活問題そのものにまで高まって来たということだ。
 文化は民衆の自主的なものでない限り、インチキであるという実感がいつとなく、わが国の思想をも捉え始めている。それは今云った出版の情況からさえも知られる。文化は実在し始めた。文化をゴマかしたりマルめたりするデマゴーグの征伐を、そろそろ始めていい時期である。
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 15 科学主義工業に対して


 理研コンツェルンの言論株式会社ともいうべき「科学主義工業社」から、『科学主義工業』という月刊雑誌がこの頃出ている。社長はよく知らないが、恐らく大河内正敏博士だろう。科学主義工業というのは博士が実施している最近の産業哲学であり、同時に工業経営の国家的大方針であるようだ。科学主義工業とは、資本主義工業に対立するのである。
 この論旨を解明するものとして最も興味のあるのが、同博士の『農村の工業と副業』という小さな本だ。本の体裁は一見時局的際物の感があるが、内容はとにかく価値のあるものである。
 科学主義工業の特徴は、高賃金低コストという処にあるという。資本主義工業は、一方に於て出来るだけ低賃金を求める。と共に他方、工業立地に就いて情実や俗間常識に左右されたり何かして、結局高コストについている。その反対が科学主義工業であるという。
 この際の科学主義とは、工作機械や測定機械の高度の機械化、技術化、によって、職工の熟練に俟つ部分を極度に小さくすることである。之によって如何なる不熟練工も、容易に高度の加工工業や最高の精密工業に極めて短時間で熟達出来る。
 更に又、高度の加工精密部分品工業の如きは運賃が相対的に少ないから、コスト計算上、農村工業として最も適切である。それ故これに科学主義を適用すれば、理想的な農村工業となる。之はすでに方々の理研関係の農村小工作場で実験ずみだという。
 科学主義工業の観点に基いて「熟練工」の観念を批判するなどを含めて、甚だ同感であるが、科学主義的農村工業は、なぜ一体高賃金であり得ねばならぬのか。著者は単調無味な労働に耐え得る「農業精神」なるものが、「能率」をあげるのだとも云っている。そして工業精神の侵入は資本主義工業の個人主義を植えつけることで農業精神の破壊だという。之は余り「科学主義」的な表現ではない、素より高賃金の説明にもならぬ。
 農村は低賃金だから、という博士の数年前までの論拠を、今の博士は恥かしいものだと云っているが、それにしても高賃金とならねばならぬという結論は、どうも必然性を欠いている。思うに、低コストはいいとして、高賃金の方は、「科学主義」以外の問題であったに相違ないのだ。
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 □ 論議




 1 現代文学の主流
「文化擁護」問題の報告書――(レジス・ミショオ著・春山行夫訳『フランス現代文学の思想対立』)


 本書については、私はすでに一二の原稿を書いたから、重複は避けたいと思う。この本を読んでまず第一に気がつくのは、フランスに於ける文学なるものが、如何に直接、文化全般と密接な連関に立っているか、ということである。ここでの文学は、哲学や科学や政治と、或るものは意識的に、或るものは無意識的に、だがいずれにしても直接に、関係を持っている。文学が理想であり文化となっている。云わば、思想や文化が文学から理解されるのではなくて文学が理想や文化から理解されねばならぬように見える。
 だから次のような言葉も意味があるわけだ。「フランスの思想は過剰なフランスの文学によって誤導され、腐敗させられたと人はいうかも知れない。事実数多く思想家達は平穏を求めてリリシズムに逃避して了った。このことがロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、及び『勝利』、『聖なる顔』のエリイ・フォール、『人生について』のアンドレ・シュアレスのごとき知的指導者達の失敗の一部を物語っている」云々。
 文学が思想問題として、従って又文化問題として、全幅の意義を発揮しつつあるのは、現代の世界文学の国際的特色であろう。元来、旧くから文学はそういうものであった筈だが、それをハッキリと自覚しなければ文学として安心出来なくなったのは、現代の世界情勢の特徴だ。外交・政治・さえが一方に於ては思想的な課題となりつつある。文化問題としての資格をさえ持って来ている。そのことはつまり、逆に云うと、文化や思想が、それ自身ですでに政治的・外交的・意義を国際的国内的に持つようになったことを意味するのであるが、そこへ文学を持って行くと、文学は正に思想として、文化として、政治や外交と直接関係を生じるのである。フランスに於ける文学のそうした事情を最もよく告げているのがこの書物だろう。
 併しフランス文学がこの関係に於て、吾々に特別の文化的政治的関心を呼び起こすのは、云うまでもなく「文化擁護」運動を介してである。だが之は勿論、決してフランスだけの問題ではなく、又フランス文学だけの問題でもない。世界文化全般が、「文化擁護」という焦点をめぐって、回転している。フランスはその回転軸の一つとなろうとしつつある点に於て、特に代表的なのだ。
 ミショオはアメリカとフランスとの文学に精通したフランス人であり、本書はアメリカで英語で出版したものだ。大体に於て左翼的な進歩主義者であるが、右翼作家(例えばモーリス・バレースやシャール・モラスなど)に対しても充分な理解を示すことによって、却って最後的な批判を加えているとも見ることが出来る。本書は文化擁護問題の一報告書として記憶に値いする。日本の現代文学・芸術・哲学・科学についても、こうした思想的文化的報告書があっていいと思う。かつて土田杏村は英語でこの種の本を一冊出版した(著者自身による邦訳も出ている)。だがこの文化専門家は残念ながら思想的評尺の然るべきものを持たず、批評家に欠くことの出来ない警抜さと烱眼とを持たなかった。真の思想の力関係を見て取ることが出来なかった。そしてまだ、当時は充分そういう機が熟してはいなかった。
 今や吾々は、「文化問題」なるものが今後有つだろう社会的重大性をより一層立ち入って理解しなければならぬ。本書はそういうための刺激となるだろう。
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 2 哲学書翻訳所見


 この間或る人に会った所、日本で出版された科学史の良いものは何かと尋ねられた。私は即答に窮したので、岩波版のセジウィク・タイラーのものや矢島祐利氏の諸著作などを挙げたのだが、質問した人はなぜかあまり満足しなかったようだ。私は一般の心ある読者がどれ程思想の歴史を書いた纏った書物を欲しているかに、又同時に、そうしたものが日本では如何に数が少ないかに、初めて気がついたような気がするのだ。この点、哲学の歴史に就いても大した変りはないが、併しここでは事情はもう少しはいいだろう。
 この頃はユーベルヴェークの大きな哲学史も翻訳されているようなわけで、この方面の読者は愈々恵まれて来たようだ。K・フィッシャーやエルトマンのものも系統的に訳されていい頃だろう。ところで云うまでもなく、こうした科学的な哲学史はヘーゲルに始まるのであるが、ヘーゲルの哲学史は鉄塔書院と岩波書店とから併行して訳出されている。この二つの訳書の特色の比較は興味のあることだろうが、手元にないので出来兼ねる。その代りにヘーゲル哲学史の後継者の一人であるL・フォイエルバハの『近世科学史』が私の注目を惹く(上巻・松本義雄氏訳・政経書院版)。これはヨードルのフォイエルバハ全集に依ったもので、詳しくは、『ベーコンからスピノザまでの近世哲学史』であるが、主としてフォイエルバハがヘーゲルの完全な影響の下に立っている時期の著作と見做されている。だがそれにも拘らず一種の近世唯物論史の観がある所に現在この書物の大きい価値があるのである。
 ところが訳には遺憾ながら感心しない個所が多い。単に読みにくい許りではなく、何か非常識な感じさえしないではない。エリザベス女王の後継者はジェームス一世とあるべき所をヤコブ一世とあったり、スターチェンバーとすべき所を、わざわざシュテルン・カンマーとルビを振ったり、フランシス・ベーコンで通っているのをフランツ・ベーコンとしたりするのも気にかかる。なぜこうドイツ語から一種の直訳を敢えてするのだろう。読者に不親切な訳文と不注意からくる誤植は眼にあまる。――だがこういっても、こういう本の訳の出ないよりは、とに角出た方がいいということは、素直に一般的に強調しておかねばならぬ点だ。多分訳者は文筆上の経験の深くない人と思うが、もう少し時間が経ってから訳を直して見たらばキッと良くなることと思う。
 こういう場合、世間の自称篤学者達は何かというと訳者の「学的良心」といったようなことを口にしたがる。それも無論必要なことに違いはないが、併し翻訳者なり著者なりの仕事の全体から切り離して、又出版屋の資本上の制約からも抽象して、単に之やあれやの書物の出来栄えで人間の「学的良心」を云々することは、全く世間を見る眼を持たぬ非常識だ。『思想』(一九三四年)七月号で畠中尚志という人が斎藤□氏のスピノザ全集の訳を根拠として、斎藤氏について例の「学的良心」を疑っているのも亦、そういう場合の一種ではないかと疑われる。そこでは旧いオランダ語のテキストが問題になっているので、私には内容については全く何の意見も持てないが、仮に畠中氏の指摘した斎藤氏の誤訳や悪訳が全部畠中氏のいう通りにしても、斎藤氏が次号の『思想』で与えている返答の方に依然「真理」があると思う。『思想』の編集者諸氏はこの点どう考えるか。
 古典の翻訳で一寸注目に値いする毛色の変ったものはJ・S・ミルの『社会科学の方法論』(伊藤安二氏訳・杉森孝次郎氏序・敬文堂版)だろう。これはミルの百科辞典的代表作『論理学体系』のモーラル・サイエンスに関する部分(第六巻全体)を訳出したもので、ブルジョア社会科学論の上では極めて大切な古典の一つであることは能く知られている。この本が現在持つべき意義に就いては、必ずしも杉森氏の序文に同意出来ないとしても、この頃読まれていい本の一つだと私は思う。訳も中々良い。
 やはり部分的な訳出だが、ディルタイの『近世美学史』(徳永郁介氏訳・第一書房版)は甚だ手頃な便宜な好訳である。これは全集の第六巻の内「近世美学の三画期と今日の課題」(一八九二)の全訳で、訳文も嫌味のない達文だし、訳注の親切なのも有難い(なお同氏にはE・ウーティツの『美学史要』の訳もある)。
 訳文が達者だといえば、河上徹太郎氏のシェストーフ『虚無よりの創造』(芝書店版)の訳は流石に名訳だ。同じくシェストーフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎氏・阿部六郎氏・訳・芝書店版)の訳も名文だ。正確かどうかは知るところでないが、とに角翻訳であることを忘れて巻を措かずに読ませるものがある。前者は然し木寺・安土・福島・三氏の訳になる『無からの創造』(三笠書房版)と対比させて見ると興味がある。三氏の訳の方は収められた論文の数も遙かに多く、訳文も場合によっては地味に過ぎて生硬であったりするので、あまり読み良くはない。――だが実をいうと、私にはこういったニュヒテルンな性質の訳の方が所謂「名訳」よりも好ましいのである。なぜなら地味な訳は、概念上の連想が却って豊富なために、読むに骨は折れるが思想上の示唆に富んでいるからだ。尤も三笠書房のはもう一段手を入れるとズッと達意なものとなる余地があるとは思うが。
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 3 世界文学と翻訳


 R・G・モールトンの『文学の近代的研究』(本多顕彰氏訳・岩波書店)を曾て私は読んで、第一に興味を惹かれたのは、文学と哲学との交渉に就いてであった。明治以来わが国では、文学と哲学とが殆んど全く絶縁されたような関係におかれている。それは文学が世界観や思想というものから縁遠くなって了っているからばかりではなく、哲学自身が世界観や思想として何等の積極性も自覚していないことから来るのである。だから偶々文学や哲学が何か世界観や思想を強いて持とうとすると、公式的文学観が生じたり、又その対立物として公式呼ばわり的文学論が発生したり、それから止め度もない体験の哲学や生の哲学が発生したりする。そして偶々文学と哲学とを結びつけたと見えるものには、往々極めてイージーな而もスケールの小さく浅はかな文学めいた哲学や哲学めいた文学が見出される。こうした手先の扮飾では、文学と哲学との根本的な結び付きなど決して浮び上って来るものではない。文学と哲学とが本格的に交渉するのは、クリティシズム(批評・評論)に於いてなのだ。考え方によっては極めて判り切ったこの関係を、克明に講義したものが、モールトンの今の本だ。
 第二に興味を有った点は文学と古来及び近来のジャーナリズムとの関係である。遠くはホーマーや中世の吟遊詩人、降って廿世紀のジャーナリストに至るまで、その文学的役割が割合一貫して問題にされている。文学とジャーナリズムとを結びつける点は、ここでも亦クリティシズムなのである。
 処がクリティシズムという観点から文学を根本的に取り上げるならば、第一に批判されるべきものは、文学研究を語学研究と取りちがえ勝ちな一つのペダンティックな錯覚である。日本でも英文学とか独文学とかいう少し考えて見ると実に変な文学研究が行なわれているようだ。そして之は何も日本に限ったことではないらしい。モールトンはこの弊害を指摘する点に於て可なり徹底的なのである。彼はそこで、こうした国語の制約によって束縛され得ない真に文学的なものを求めて「世界文学」の観念に到着する。『世界文学』(本多顕彰氏訳・岩波書店)は主として、世界文学的な普遍通用性を有った文学的源泉を五つ挙げて、真に文学的なものの世界史的系統樹立を解説している(バイブル・古典叙事詩と古典悲劇・シェークスピア・ダンテとミルトン・ファウスト物語の五つが之である)。
 だが云うまでもなくここですぐ様問題になるのは「翻訳」というテーマである。吾々は之まで、翻訳というものの本当に文学的な或いは哲学的な意義に就いて、充分な注意を払っていないのではないかと思う。併し実は翻訳の問題ほど、今日重大な社会問題は他にないとさえ云ってもいい位いだ。例えば、所謂外来思想は日本へ翻訳され得ないものだとか、日本精神は外国へ翻訳され得ないものだとか、というようなデマゴギーがもし本当ならば、本当の文学や哲学はその日から消えてなくなるからだ。広く翻訳の可能性はクリティシズムに含まれる根本要素の一つであって、文化の紹介や批評のために欠くべからざる要具なのである。モールトンのこの二つの書物は翻訳のこの広範な意義を最もよく明らかにしていると思われる。
 野上豊一郎氏『能の再生』(岩波書店)の出版を見たが、そこでも能を、英文へ翻訳するに就いて翻訳問題が提起されているのを見受けた。氏は翻訳の意義に就いて夙に注目している文学者の一人である。モールトンの著書の発行年度は決して新しいものではない。『世界文学』などは一九一一年に出ている。それから云うまでもなく之は、社会科学的な訓練を経た文芸科学書ではなくて、典型的なブルジョア文学教科書に過ぎない。それにも拘らず実に卓越した多くの主張と強調点とを持っていることは注目に値いするだろう。
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 4 作文の意義
――垣内松三教授の著『国語教育科学概説』について――


 私は国語についても、教育についても、ただの素人に過ぎない。併しかねがね懐いている一つの意見があるのだ。それは所謂作文というものの意義についてである。
 作文というと学校で教える教授課目の一つであるように思われるかも知れないが、併しこれは決してそんな教壇的な学校教育者風な興味からだけ論じられてはならない問題なのだ。われわれの日常生活は毎日社会自身から何かの形で成人教育を受けているものに他ならないが、その内でも今日最も信頼するに足る最も有効なそれからまた最も大規模な成人社会教育の手段は、出版だといっていい(今日のラジオは有効ではあるが併し決して信頼するに足る手段とはなっていない)。
 ところが世間の多くの人達は出版物によって、ただ受動的に教育されているだけで、必ずしも自分では能動的に言論を発表しているとは限らない。ということは、世間一般の人達が、思想を構成しこれを言葉によって表現するというような訓練をあまりやっていないということである。それであるから出版物の多い割合に、一部の執筆業者や研究家を除いては、表現能力や従ってまた思想構成能力が教育されていないので、これは人類の訓練という目的からいうと、全く不経済なことだという他はない。
 ところで作文とはこの表現能力従ってまた思想構成能力の訓練を目的とするものだろうと思うが、これは単に文章を作ることといったような訓練などではないので、実は常識を陶冶し見識を養成するための自発的な訓練方法のことなのである。学校でやる外国語もまたただ英語やドイツ語を覚えて、欧米人の無意味で不必要な真似をすることが目的ではない筈で、凡そ文章なるものに注意を集中させることによって、合理的で進歩的な思想・常識・見識・を養成するための手段としての、作文科に他ならなかった筈だと考える。
 さてこうした作文は無論国語教育の問題に帰着するのだが、実際をいって、大学を出ても満足な「文章」一つ書ける人間が非常に少ないということは、意外な事実なのである。美文などならば元来が殆んど意味のないものだから、それが上手でも下手でも構わないと思うが、少なくとも悪文でなしに、達意の文章を書けるということは、人間の資格に関わる大切な能力である。国語教育というもの、またこれを研究する国語教育科学というものがあるなら、それはこうした人生における作文の意義を闡明する立場に立脚しなくてはなるまい。
 今度、垣内松三教授の『国語教育科学』(全十二巻)の計画が発表されて、その第一巻『国語教育科学概説』が出たが、それを読んで見て、私がかねがねもっているこの作文論が、大した見当違いの思い込みでなく、この専門家によっても立派に認められているのを知ることが出来たのは愉快である。
 氏はその新鮮で独創的な「国語教育科学」という科学(国語教育を取り扱う教育科学)をば言語哲学的考察から出発させる。E・カッシーラーの見解に近いのかと思うが、国語の力を象徴形式としての言語の内に見ようとするのである。氏はそれに因んでW・フンボルトの言語哲学や、ペスタロッチの国語教育説、更にカントやフィヒテの言語論にまで論拠を求めているのである。こうした言語哲学の上に立って、教授はその国語教育科学について、いわば科学論を展開して見せる。国語教育科学は新興教育科学の最前線にあってその主力を形成するものだというのである。例の私の作文論からいってもそれは甚だ賛成出来ることだ。教授は更に国語教育科学の方法論に這入るのであるが、その点になると全く素人の私には説をなす資格がない。
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 5 『本邦新聞の企業形態』に就いて


 東京帝大文学部内の新聞研究室の第二回研究報告『本邦新聞の企業形態』という本が出ている。本年(一九三四)三月の発行。新刊とは云えないが、世間には必ずしも広く知られていないので、紹介傍々問題にして見たいと思う。
 同研究室は殆んど日本に於ける唯一の科学的新聞研究所で、すでに多数の実際の新聞記者を輩出しているばかりではなく、新聞現象に関する基本的な実証的並びに理論的な研究に従事し、相当その成績をあげている。一つには今日の日本の大学が持っている各種の制限のために、この研究室の社会的見解は必ずしも進歩的な社会科学の本筋を辿っているとは云えないかも知れないが、併しそれは無論決して反動的な意図からなどではないのである。寧ろあくまで実地的な基本的研究に精力を集中しようとする学的努力からだと信じる。
 すでに第一回報告として『新聞研究室第一回研究報告』なるものが出版されているが、之は思うに、わが国に於ける理論的な新聞研究の最高水準を略々占めるものだと云っていいだろう。そこでは無論、新聞と云っても所謂新聞紙に限られないので、広く新聞現象・報道現象・ジャーナリズム現象・が取り上げられた。調査的研究としては東京の五大新聞の内容分類があった。処で、今度の第二回報告では、新聞調査の範囲は著しく拡大されたのである。
 序文に云っている、「欧州大戦末期に於ける我邦経済界の好景気以来、我邦に於ける新聞の経営状態は一変して、一般事業と同じく大部分企業的形態をとるに至った。併しながら之に対して調査を行ないたるものなく、研究上不便を感ずること尠からざるにより、本研究室は研究員経済学士鍋島達君に其の調査を命じ、爾後約二ヵ年の日子を費して之を完成することを得た。本調査は各種企業形態の社会的、心理的乃至経済的機能の研究上欠くべからざる根本資料であって、我邦新聞界に稗益する所、蓋し少なからざるべしと信ずる。此の種の調査は独逸ライプチッヒ大学新聞研究が、数年前之を行ないたることあるのみにて、本研究室の如く之を全国的且つ全般的に行ないたるものは欧米諸国を通じて他に類例を見ないのである」云々。――この報告の斯界に於ける意義は右の序文で明らかだろう。
 調査の課題は、各新聞の企業形態、資本金及び収益、新聞企業持分の譲渡性、の三項目を主とし(企業持分の譲渡性というのは、新聞紙がただの商品ではなくて主義主張を持った言論物だからそれがどういう個人又は団体の手にあるか又は移り得るかを問題にするのである)、副項目としては主張乃至政党関係、配当、広告料と購読料、兼営事業、其の他である。範囲は日刊の有保証新聞に限り、地域は内地、北海道、台湾、朝鮮に渡り、満州及び上海に於ける本邦人経営の新聞若干をも含んでいる。一九三一(昭和六)年八月を中心にする調査で、随所に之をドイツ及びアメリカの情勢と対比することを怠っていない。
 内容は資料で以て充満しているから「紹介」の限りではないが、調査方針に一つの意見を□んでいいなら、或いは寧ろ希望を述べていいなら、新聞の読者層をも検べて欲しかったということだ。蓋しここでは、企業形態其の他と並んで、新聞紙という言論的商品に特有な、社会的・階級的・制約が発見されるだろうからである。尤もこの調査は、単に新聞社への問い合わせだけでは出来ないわけで、色々複雑な調査方法を研究してかからなければならないだろうが。
 調査票を送ってやった新聞社は九二一社で、回答が来たのはその四二・九パーセントの三九五社である。新聞社自身この企てにあまり興味を有っていないことはやや意外で、ことに『東京朝日』や『東京日日』は回答をしていないらしい。吾々は新聞業者のこの種の意識に対して多分の不満を表するものだ。一〇以上の発送数のある府県で、五〇パーセント以上の回答率のあったものは、神奈川(五〇%)、茨城(六六・七%)、宮城(六〇%)、富山(一〇〇%)、大阪(六二・二%)、愛媛(六四・三%)、大分(六三%)、樺太(七六・二%)、朝鮮(六三%)である。大阪が六二%以上であるのに、東京は三四・一%にしか過ぎない(発送数は東京四一大阪四五)。――之自身又新聞界調査の一資料となるかも知れない。
 同研究室の実際上の指導者小野秀雄氏は、最近時潮社出版『現代新聞論』を出版した。まだ手にしないが期待を持っている。
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 6 易者流哲学
     ――反動哲学の一傾向――


 私はかつて或る新聞で、阿部次郎教授が『改造』にのせた論文に対して少し悪口を書いたことがある。「文化の中心問題としての教養」というのが教授の論文の題で、私はこれに対して、文化とか教養とかいう一種特別に取りすました概念では、時代の問題は一寸片づかないのではないか、という意味を述べたのである。教授の論文は、それにも拘らず、昔ながら甚だ透徹した、しかも甚だ「阿部次郎」らしい独自のものであったことはいうまでもない。
 所がその後暫くして、学校気付で未知の人から私あての封書が来た。開けて見るとこうである。お前の次郎批判は極めて浅薄である、阿部次郎氏の例の論文は実は、兼子某という人がドイツ文で印刷にした本の焼き直しだということを知らないか。この本は日本でこそ人が注意しないが、ドイツやフランスでは有名なもので、方々で研究会さえ持たれているのだ。今に日本にこれが逆輸入されてくるだろうが、その時はお前は自分の次郎批判が如何に無知で浅薄であったかを恥じなければならぬだろう、というのである。
 ドイツ語の新刊書を有難がってはいない不用意な私は、一時なる程そうかなあと思ったが、この手紙に紹介してあるドイツ語の本のタイトル(ブロークンなドイツ語だったが)に見覚えがあるような気がして考えていると、思い当ったものがある。兼子という篤志の人自身からそれらしい本を送ってもらったことがあったのを思いだしたのだ。家へ帰って戸棚を引っくり返して取りだして見ると果せるかなその本なのである。

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