読書法
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:戸坂潤 

目次

読書法

  序に代えて

  □ 「読書法日記」
   1 読書の自由
   2 譬喩の権限
   3 耕作農民の小説
   4 「文化的自由主義者」としてのA・ジード
   5 宮本顕治の唯物論的感覚
   6 コンツェルン論の「結論」
   7 科学が文章となる過程
   8 古典の方が却って近代的であること
   9 歴史哲学の一古典
   10 『日本科学年報』の自家広告
   11 心理と環境
   12 「外国人」への注意書
   13 古本価値
   14 文化が実在し始めた
   15 科学主義工業に対して

  □ 論議
   1 現代文学の主流
   2 哲学書翻訳所見
   3 世界文学と翻訳
   4 作文の意義
   5 『本邦新聞の企業形態』に就いて
   6 易者流哲学
   7 岩波文庫その他
   8 現代哲学思潮と文学
   9 デカルトと引用精神

  □ 「ブック・レヴュー」
   1 『近代唯物論』
   2 『小説の本質』
   3 『文学と趣味』
   4 『唯物恋愛観』
   5 『統計学と弁証法』
   6 『ファシズムの諸問題』
   7 『芸術とヒューマニズム』
   8 『日本文学の世界的位置』
   9 『世界哲学史』
   10 『自然弁証法』
   11 『時間意識の心理』
   12 『ソヴェート旅行記』
   13 『昼夜随筆』
   14 『人間の世界』
   15 『ファシズムの社会観』
   16 『日本歴史読本』
   17 『科学的精神と数学教育』
   18 『フランス現代文学の思想対立』
   19 『農村の工業と副業』
  〔付一〕ジードの修正について
  〔付二〕「科学主義工業」の観念

  □ 書評
   1 マルクス主義と社会学
   2 非常時の経済哲学
   3 『イデオロギーの系譜学』
   4 再び『イデオロギーの系譜学』
   5 『唯物弁証法講話』
   6 『現代宗教批判講話』
   7 『現代哲学辞典』
   8 『人間の世界』を読む
   9 朗らかな毒舌
   10 『日本教育の伝統と建設』
   11 『科学的精神と数学教育』
   12 社会・思想・哲学・の書籍について

  □ 余論
   1 ブック・レヴュー論
   2 読書家と読書
   3 論文集を読むべきこと
   4 如何に書を選ぶべきか
   5 論文の新しい書き方
   6 校正
   7 翻訳について
   8 篤学者と世間
  〔付〕最近のドイツ哲学の情勢を中心として
[#改丁]


 序に代えて


「読書法」という題は、本当を云うとあまり適切なものとは思われない。「ブック・レヴュー」という題にしたかったのだけれども、三笠書房主人の意見を容れて、この題にしたのである。私はこの本が、読書術の精神を教訓する本ででもあるかのように受け取られはしないかと心配している。内容は全く、色々の形と意味とに於けるブック・レヴューと、之に関係した少しばかりのエセイとからなっている。
 ではなぜ、こんなやや風変りな書物を出版するのか。簡単に云って了えば、ブック・レヴューというものの意義が可なり高いものでなければならぬということを、宣伝するために、特にブック・レヴューを主な内容とするこういう単行本を少し重々しい態度で、出版して見る気になったのである。ブック・レヴューは之までわが国などではあまり重大視されてはいなかった。評論雑誌は云うまでもなく、学術雑誌に於てさえ、巻末のどこかに、ごく小さく雑録風に載せられているに過ぎなかった。それもごく偶然に取り上げられたものが多くて、ブック・レヴューということの、評論としての価値を、高く評価しているとはどうも考えられなかったのである。
 これはどう考えても間違ったことだと思う。現に外国の学術雑誌では、ブック・レヴューに権威を集中したように思われるものが多く、沢山のスペースを割くとか、或いは巻頭へ持って行くとかいう例さえある。学術雑誌でなくても、ブック・レヴューのジャーナリズムの上に於ける真剣な意義は、高い価値を認められているように見える。それに又、文芸評論家や一般の評論家達の登竜門が、ブック・レヴューであるということ、現代の有名な評論家の多くがブック・レヴューの筆者としてまず世に出たという例、これは相当著しい事実なのである。それから又、わが国でも実際上そうなのだが、ブック・レヴューは同じ雑誌記事の内でも、特に好んで読まれるものであるという現実がある。
 こういう事実を前に、ブック・レヴューの文化上に於ける大きな意義を自覚しないということは、どうしても変なことだと考えられる。ブック・レヴューをもう少し重大視し、尊敬しなければならない、というのが私の気持である。処が偶々、東京の大新聞の若干が、しばらく前ブック・レヴューに或る程度の力点を置くようになった。スペースや回数を増した新聞もあれば、ブック・レヴューの嘱託メンバーを発表した新聞もある。その他一二、ブック・レヴューを主な仕事とする小新聞の企ても始まった。この原因については色々研究しなければならないが、一つは所謂際物出版物に対する反感から、本当に読める書物を、という気持が与って力があったろう。読書が一般に教養というものと結びつけられるような一時期が来たからでもあるだろう。尤もこの気運とは別に、最近の戦時的センセーショナリズムは、新聞紙の学芸欄を圧迫すると共に、ブック・レヴューへの尊敬は編集上著しく衰えたのではあるが。
「ブック・レヴュー」を意識的に尊重し始めたのは、一年半程前からの雑誌『唯物論研究』である。実は之は私たちの提案によるのだ。まず評論される本の数を、毎月(毎号)相当多数に維持することが、最も実質的なやり方だと吾々は考えた。少なくとも十四五冊についてブック・レヴューを掲げるべきだとして、そのためには、紙数の関係から云って、一つ一つのブック・レヴューはごく短かくならざるを得ないが、誰も知っているように、原稿用紙三四枚に見解をまとめることは、実は原稿用紙数十枚の努力をさえ必要とすることである。それだけ質は高いものともなるだろう。
 とに角、分量の上で多いということは、ブック・レヴューに圧力を付与するための最も実質的な手段である。之が実施された上で、質の向上を望むことも困難ではない。それに、或る程度以上に数が多いということは、ブック・レヴューの対象となる本の選択から、その偶然性を取り除く点で、甚だ必要なことなのだ。思いつきのように、ポツリポツリと載るのでは、なぜ之が選ばれたのか、またなぜ他の本が選ばれなかったのか、問題にする気にもならないだろう。注目すべき本は、或る程度、又或る方針の下に、やや網羅的にのるということが、ブック・レヴューの権威を高める所以だ。之にはどうしても、少なくとも数の上で盛り沢山でなくてはならぬ。
 以上のような見解の下に、今日に至るまで雑誌『唯物論研究』は「ブック・レヴュー」尊重主義を引き続き実行している。その内容は別の問題として、編集上の精神は注目されていい。現に『文学界』は多少之に類似したブック・レヴューを試みるようになったし、『新潮』と『文芸』とも亦、ブック・レヴューを正面に押し出すようになった。『科学ペン』亦そうである。文化雑誌としては当然なことであるが、わが意を得たものと云わねばならぬ。
 ではブック・レヴューとは何か、というような抑々の問題になると、本書の「ブック・レヴュー論」という文章もあって、今ここに評説する余裕はないと思うが、要するにブック・レヴューなるものは、クリティシズム(批評・評論)の一つの分野か、一つのジャンル、であると思われるのである。出版物としての本を紹介批評するわけであるが、問題はその本が出版されることの文化上の意義、その本に含まれている思想や見解や研究成果の文化上の意義、というようなことを評論することの内に、横たわるのである。つまり出版された本を手段として、その背景をなす文化的実質を評論する、ということがブック・レヴューの意味で、そういう評論のジャンルや領野が、「ブック・レヴュー」という一つのクリティシズムなのである。決して単に本を紹介するだけが目的ではない。紹介・案内・そして広告・推薦、ということも目的の一部分でなくはないが、最後の目的はもっと広く深い処にあるだろう。だからブック・レヴューを本式にやると、いつの間にか、その本が文芸の本ならば、最も具体的で且つ時事的な文芸評論にもなって来るのだ。時とするとブック・レヴューだと云いながら、その本はそっち除けになって、本とは直接関係のないエセイになったりする場合も、例が多い。又逆に大抵の多少は文献的な扮飾を有った評論やエセイは、要するにブック・レヴューみたいなものであるとも考えられる。
 で私は、「ブック・レヴュー」というものがクリティシズムの一つの重大なジャンルであり、一分野であるということ、そしてわが国では之まであまりその点が世間的に自覚されてはいなかったらしいということ、この二つの条件に基いて、こういう風変りな本を出版することにしたのである。私が右に述べたようなことは、勿論沢山の人が嫌ほど知っていることだ。ブック・レヴューが評論の入口であるというようなことは、クリティシズムに関する常識だろう(本多顕彰氏などいつも之を説いている)。併し個々の文学者や評論家の常識であるということと、世間が之を自覚しているということとは、勿論別だ。世間は之を自覚すること決して充分でなかったというのが、事実ではないだろうか。
 さて、本書を世に送る所以は、右のような次第であるが、併し私が決してブック・レヴューの模範を示そうというような心算でないのは、断わるまでもあるまい。もし万一之が模範にでもなるとしたら、ブック・レヴューを今日の水準から高めるよりも、寧ろ却って低める作用をしないとも限らない。私がここに登録したブック・レヴューは、私の力自身から計っても、決して満足なものではなく、又世間の水準から云えば愈々貧弱なものだということを、卒直に認めざるを得ない。それにも拘らずこういう貧弱な内容のものを敢えて出版するのは、つまり一種の宣伝(「ブック・レヴュー」のための)であり、このまずいものを以て宣伝することが、やや滑稽に見えるとすれば、結局私はこの宣伝のための犠牲者になるわけなのである。私はこの位いの犠牲は忍ぶことが出来る。そういう図々しさを必要な道徳だとさえ思っているから。ただ恐れるのは、之によって逆効果を来たしはしないかという点だけだ。この本のおかげで、ブック・レヴューというもの一般の信用を傷けることになりはしないかが、心配だ。
 模範を示すことは出来ないが、「ブック・レヴュー」というもののサンプルの若干を示すことは出来たかも知れない。「読書法日記」とか「論議」とか「ブック・レヴュー」とか「書評」とかいう類別が、夫々サンプルであり、そうしたサンプルを集めたこの本は、云わばカタローグみたいなものでもあろう。ただ大抵のサンプルは実物よりも良くて他処行きに出来ているものであるが、このサンプルだけは、云わば実物よりも劣っているように思う。つまりブック・レヴューの外交であるこの筆者が、相当の犠牲者である所以である。
「読書法日記」は『日本学芸新聞』にその名で連載したものであり、「ブック・レヴュー」は『唯物論研究』の同欄に載せたものである。「書評」は主に新聞や雑誌に所謂書評として発表されたもの。いずれも特になるべく様式の原型をそのまま保存することにした。サンプルとするためである。「論議」はブック・レヴューに準じたエセイであり、「余論」はブック・レヴューそのものに関する若干の考察からなっている。
[#改ページ]


 □ 「読書法日記」




 1 読書の自由


 敢えて新刊紹介や新刊批評という意味ではない。また良書推薦という意味でもない。私はそんなに新刊書を片っぱしから読むことは出来ないし、また何が良書であるかというようなことを少しばかりの読んだ本の間で決定することも出来ない相談のことのように思う。もう少し無責任な読書感想の類を時々書いて行きたいと考える。勿論私の身勝手な選択によることになるだろう。或いは妙な本を読む人間だと思う人もあるかも知れない。併し人間というものは、はたで推測するような注文通りの本を読んでいるものではない。意外のものから意外の示唆を受けるものだ。この示唆は私なら私という人間にしか通用しない場合も多い、だがそうかと云って、そんなに非合理なことでもないのである。
 とに角万人必読の良書をえりすぐって評論するというような、第一公式の礼服着用に及んだものではないのだから、御容赦を願いたい。吾々は読書の自由(?)というものを、こういう意味でも亦持とうではないか。旧本、駄本、変本、安本、其の他其の他も恐れないことにしよう。尤も「趣味」本の類ばかりを新刊したがるような一種の新聞的新刊紹介のやり方は、真似したくないものだが。
 さて手始めに私の友人である石川湧君を御紹介しよう。勿論彼はフランス語による評論の翻訳者として相当有名な人物だ。同時に彼は大変な不平家である。自分が訳す本は世間でも文壇論壇でもあまり注目しない、何という莫迦ばかりの世の中だろうというのだ。最近彼の選訳になるレミ・ド・グルモンの『哲学的散歩』(春秋社)が出た。全訳ではなくて彼の手に負えるもので、重大性を有ったもので面白いものだけを選んだのであると云っている。併しグルモンの思想、考え方、哲学、文学意識、其の他其の他、要するに吾々にとって必要なグルモンは、之で立派に紹介されているわけである。グルモンのこの本の訳は、すでにどこからか出版されたこともあるとかいう噂を聞いたが、殆んど知られていないので、この石川訳が最初のものと考えていいだろう。
 訳者も説明しているようにグルモンは一方に於て詩人だ。クラシシズム派の詩人である。けれども吾々にとってもっと直接縁故のあるのは、寧ろ評論家思想家としてのグルモンだろう。そのグルモンは、自分は主観的観念論だというヨーロッパのブルジョア文化人と共通な仁儀を述べているが、併し実際には、唯物論の精神を相当執拗に追求していて、唯物論の根本テーゼの一つ一つについて、可なり心を砕いて考えている。「観念論の根源」、「動物の心理」、「快楽讃」などがそのいい例であり、又ベーコン、メストル、エルヴェシウス、カント、ゲーテ、ダーウィン、ラマルク、ファーブル、ダ・ヴィンチ、ラスキン、サント・ブーヴ、ニーチェ、スタンダール、モネ、などに対する批評もそうだ。彼の生物学者風の知恵が、グルモンの唯物論(?)を要求している。彼はモラリストの中に立って、一つの新鮮な健康な存在である。何らかの唯物論者がデモクリトス以来、笑える哲学者であることを、彼は読者に思い起こさせるだろう。
[#改段]


 2 譬喩の権限


 六七年前になるかと思うが、現在京都帝大の教授である九鬼周造氏が長年のヨーロッパ滞在の後、帰朝して京都の哲学の先生に任じられたので、訪問したことがある。その時聞かされたのに、フランスの或るリセの先生であるアランという人が、青年の大した人気者だということだった。一遍読んで見たいと思っていたが、外国語の本では買うのが億劫で、手に這入ってからも読むのが時間がかかるからハキハキしなかった。
 その内、この二三年程というもの、フランス語学者や文芸評論家達の書くものに、アランの名がよく出て来るようになった。愈々人気は極東にまで及んで来たなと思った。谷川徹三氏もどこかで「いまの自分はアランで夢中だ」と書いたようだった。で私はアランにめぐり合う(?)のをひそかに期待していたのである。
 処が幸いにして、去年の暮に、小林秀雄氏の訳でアランの『精神と情熱とに関する八十一章』というのが出た。とりあえず読んで見たのである。精神とはエスプリで、情熱とはパッションのことであるが、情熱を情念と訳した方が或いは語弊が少なかったのではないかとも思う。日本の文士の間では情熱というものは、云わば尊敬すべきものになっているようだが、アランがパッションに就いて語る場合は、必ずしもそうではないからで、デカルトの頃からフランス其の他の哲学者が人性論(アントロポロジー)に於て取り扱って来たものが、このパッションに他ならないのである。
 さてこの本は実は一種の哲学入門である。感覚認識・秩序づけられた経験・論証的認識・行為・情念・道徳・儀式の七部に分れて、併せて八十一章からなる。その風格は次の一二の例から知ることが出来よう。一一〇頁、「神が飛翔の為に翼を作った、と言って安心している人の精神にはただ言葉が在るだけだが、もしその人が、どういう工合に翼が飛翔の為に有効かという事を承知しているなら、所謂諸原因を極めて物を理解している事になる。」之は目的論と因果関係とを有効性というもので結びつけた説明で、そんなに平凡な説明でないことは、知る人ぞ知るであろう。
 又一三四頁、「暇の時に人々が出会うと、めいめいの考えを交換するものだが、この交換は言ってみれば、既知の諸公式に依って行なわれるのであって、精神は高々言葉を楽しんでいるだけだ。……様々な記号を確めてみる事に充分幸福を感ずるという人々のこの会話なるものに、古い時代の名残が見える。」会話=暇つぶし=娯楽というものについて反省させるに足る示唆だ。
 併し困るのは「公衆」についてという項の類である。「文字通り服従するとは不正な力を支配し処罰する一つの方法である。」「暴君は許すことが好きなものだ、寛大は王権の最後の手段である、だが厳格な服従によって僕はその高貴なマントを剥いでやる。異議を唱えるという事は大きな阿諛だ、暴君に僕の家を開放してやる事だ。」
 このそれこそエスプリに富んだすぐれた言葉も、もはや前の二つの場合の例のような、健全な科学性を有っていない。ここに「深い管見」とでも云うべき、局処的真理のもつ虚偽、というものに、私は思いあたるのである。つまり多くの所謂「哲学」の書は譬喩の書ではないだろうか。それは人生の或る絵画ではあるが、設計図ではないようだ。
 訳は可なり立派な日本語になっている。いい訳である(最後にどうでもいいことだが一つ気になった個所がある。ハムリンという人名が出て来るが、あれはアリストテレス学者であるアムランのことではないだろうか)。
[#改段]


 3 耕作農民の小説


 農民作家創作集『平野の記録』という本を寄贈されたので、半分あまり読んで見た。編者鍵山伝史氏の「あとがき」によると、これに収められている六篇の作者は、いずれも農村に在住する耕作農民であるという。私はまずこの点に興味を惹かれた。都会に住んでいる職業的又半職業的な作家でない人達が書いたのだということ、そして恐らくそうした作者の数多の作品の中から選び出された代表作が並べられたものだということ、之は今日注目に値いする。
 編者はいっている、「私は雑誌『家の光』の記者だったが、その記者生活において、農村から送られて来る諸種の投稿に触れる機会を非常に多く持った。それらの大部分は、稚拙であり粗雑であった。誤字や、かな遣いの誤りなどを数えるとほとんどきりがなかった。「仕事」を「任事」と書いてあったり「屡々」という副詞を「暫々」と書いたり「意外」と書くべきを「以外」と書いてあったりするのはその一例だが、このように、およそ「文字」の使用に対してあまりにも無雑作である上に「文章」に対してもまた、放埒なまでに無思慮な原稿を見て、時には腹が立ち、時にはふきだしたくなることがあった。ところが、私はそうした原稿になれるにしたがって、職業作家の作品とはまた、おのずから別種のおもしろさを見出すようになったのである」云々。
 私の読んだのは、小説だけで、戯曲二篇はまだ読んでいない。なぜか、この場合に限らず、私は戯曲を読むことが億劫なのである。多分、戯曲は読むことで感受が完了するものではないという意識が邪魔をするのだろう。で小説だけ読んだのだが、その出来栄えを見て普通の職業的半職業的な作家のものと、大して違いのあるものとは思われないのだ。非常に優れているとも思われないが、勿論劣っているとも考えられない。職業作家とは別種な面白さというよりも、それと共通な面白さの方が感銘を与えるように思った。一体私は今日の小説で、農民小説は大抵面白いように思うのである。野地氏「平野の記録」は小作地管理人の地主への忠勤振りを描き、野原氏の「嵐の村」はバクチ検挙にからむ村の有士の詐欺を取り扱っている。どれも面白く読める中篇である。渡辺氏「山晴れ」は農村青年と売られて行く農村の娘との悲劇を牧歌的に抒した小篇、栗林氏「新学期」は農村学童が先生から貰った学用品を、泥棒したのだと思い込んだ両親にどやされるという短篇、どれも農村の現実的な矛盾を剔出しようとする判然とした思想と意志とを表わしている。余計なものはどうでもよい、面白い要点はここにある。私は重ねて編者ではないが「文学が必ずしも職業作家のみに任せて置かなければならぬ理由はないという確信を抱くに至ったのである。」
[#改段]


 4 「文化的自由主義者」としてのA・ジード


 ジードの『ソヴェート旅行記』の全訳が出たので、早速読んだ。三分の一程は中央公論で読んだのだったが、新聞などで紹介を見た時教えられたジードの怪しからぬ(?)点は、この三分の一の内にはあまり出ていなかった。寧ろソヴェートへの好意の方が目立っていた位いだ。この感じは、全訳を読み了って多少は修正されはしたが、併し私の根本的な感じには変りがないのである。
 ジードはジードなりにソヴェートを可なり好意的に見ようとしている。元来ジードは決して唯物論者ではなく、そういう立場に立ったコンミュニストでもなかった筈だ。之は誰しも知っていた筈である。彼は個人主義と理想主義とに立脚した「コンミュニスト」に他ならなかったのだ。だから彼がソヴェートに就いて懐いた予備観念が又、極めて理想主義的なものであったことは当然なので、その理想主義がソヴェートの現実に行き当って、一つの動揺に陥った。信頼と共に甚だしい不満を覚えた。ただそれだけのことなのである。
 併しそこから偶々彼の地金である色々の弱点が露出せざるを得なかったのである。彼のようなタイプの進歩的な自由主義者は、私がいつも云うように、一種の文化主義者であり、文化的な自由主義者に過ぎない。素より彼のようなタイプの進歩的文化人は、フランスに於ては一定の政治的な積極的役割を果しているわけだが、ジード自身が云っているように、彼は不思議にあまり政治や経済のことを考えていないのである。そして而もみずからコンミュニストだと云うのである。
 文化主義者の習性の一つとして、彼は政治と文化とを別々に考える。文化は反抗と自由とによるものであり、政治は之を画一主義(コンフォルミスム)に堕落せしめたものだと考える。政治によって文化の新しい誕生が齎されるというような唯物史観的関係は、殆んど眼中にはない。之が彼の一貫したソヴェート文化観の観点なのだ。
 ソヴェート文化に対する善意的同情者が、ソヴェート文化に対する認識の限界につき当らねばならぬ所以が、ここに暗示されていることを知るべきだ。
 だがジードによって指摘されたソヴェート市民の文化的画一主義・独善的自慢主義は、あり得べき事態ではあっても、決してソヴェート文化の自慢にはならぬ点だろう。ただその不満をああいう形で発表することが、トロツキー主義に事実上符節を合わせるものであるという点が、文化問題を政治問題と独立に考えている例の文化主義者たるジードにとって、どこまで行ってもピンと来ないのは当然だ。
 (付記、ジードの『ソヴェート紀行修正』については別に)。
[#改段]


 5 宮本顕治の唯物論的感覚


 或る意味で近来の待望の書は宮本顕治『文芸評論』と内田穣吉『日本資本主義論争』とだろう。後者については、追って書こうと思っている。宮本顕治は蔵原惟人に並ぶ素質を持った殆んど唯一の文芸評論家である。単に左翼評論家の内でそうだというのでなく、蔵原が日本の一般文芸評論家の内で占めている追随を許さぬ位置を認識した上で、そう呼ぶことが出来ると思う。
 なる程宮本の活動の期間は大へん短い。この『文芸評論』にしてからが決して大部な本ではない。それにまだ年もあまり取ってはいないから善かれ悪しかれ若いものを感じさせる。だがいつでも大切なのは素質――そして社会的な――にあるのだ。その意味で彼の「素質」を高く吾々は買わねばならぬと思うのである。
 彼の素質の良質な点は、有名な「敗北の文学」(芥川竜之介論)と「過渡時代の道標」(片上伸論)とにまず第一段として現われている。之は並々ならぬ良識とそれを裏づける展望ある教養とを示している。若々しさと共に一種初めから出来上った感じを与えるものもこれだ。併しこの点よりもより一層私を動かすものは、彼の感覚、彼の感官そのものが、稀に見る程マテリアリスティックに出来ているという第二段の良質である。「マルクス主義的」乃至左翼的な文芸評論家は沢山あったし沢山あるが、平凡な観念論的感覚の詩人や何かではあっても、良心から云ってマテリアリスティックなセンスやムッドを持った人間は案外少ないのだ。宮本の価値は、その教養ある素質が正にこの唯物的感情によって研ぎ澄まされているように見える点だ。
 この感覚の確実さを見るには、寧ろいくつかの「文芸時評」なる項目を読むといい。彼はマテリアリストでなければ見出せないいくつかの的確な発見をしている。ものの良し悪しを殆んど本能的にピッタリと云い当てているのが判る。人真似や右顧左眄の産物には決してあり得ないことだ。
 ただ彼の素質は理論家ではないようだ。理論的な分析を企てた「評価の科学性について」や「同伴者作家」の項は、やや凡庸である。彼は理論家であるよりも、云って見れば「評論家」というタイプとして、大へん優れているのだと私は思っている。
 中条(宮本)百合子の序文は、日本プロレタリア文学運動に於ける彼の役割を規定することに於て、簡にして要を得ている。中条氏で思い出したが、彼女の『昼夜随筆』という評論集が出た。読んで見たが仲々いい。宮本顕治と並べて彼女の評論家としての独自の価値を、世間はもっとハッキリ認識すべきだろう。
[#改段]


 6 コンツェルン論の「結論」


『日本コンツェルン発達史』(ワインツァイグ著・永住道雄訳)が出た。菊判ではあるが二百頁を少し越す程度の、手頃の分量の本である。コンツェルンに関する本、しばらく前の習慣で云えば「独占資本」とか「財閥」とかに関する本は、やや分量の大き目のものが多いようだが、この本は之を圧縮したような特色を有っている。日本のコンツェルンの通論として多分最も便利なものだろうと思われる。
 モスコウの世界経済世界政治研究所の監修になるもので、外国人の書いた日本研究だからあまり役には立つまい、などと思う人がもしいるとすれば、勿論そういう人は今日の常識を持たない人間である。日本の事情を国外からの距離、「特に云わばモスコウ的距離」から見ることは、狎れっこになった国内事情に対して新鮮な光をあてることでもあるばかりでなく、之を世界的なスケールから要約することでもある。而もこの本では更に、「日本型コンツェルンの一般的特徴づけ」の章とか、「日本型コンツェルンの政治生活」の章とかで見られるように、コンツェルンに対する着眼点を社会的政治的要約にまで高めることに、努力が払われている。例えば「日本型コンツェルンの特徴の一つは、資本の投下部面が種々様々であり、しかもこの種々様々な資本投下部面が非常に屡々コンツェルンの基本的生産と殆んど何らの依存関係もなく、また結びつきもないという点である。」こういう特色で行けば、当然この「日本型」が社会的に政治的に何を意味するかに注意を向けさせる筈だ。
 勿論資料の点ではセカンドハンドのものが多く、資料的オリジナリティーを期待するのは控えねばならぬ(鈴木茂三郎氏の独占資本に関する数著を最も屡々引用している)。だが私などが最も興味を惹かれるのは、資料のオリジナリティーの如何という、専門家的な一種の業績計算法に基く検討よりも、寧ろそれから出て来る社会的結論・社会的要約・の方である。こういう点で、特に私には大変有用な本だ。
 コンツェルン問題は今日目立って流行している。だが私の希望する処は之をもっと意図的に社会的政治的特色づけにまで高め、且つそういうものとして抽出することだ。だがそれは思うに、ファシズム論、「日本型」ファシズムに関する理論、に転化することに他なるまい。そこで日本に於けるファシズム論議が、もっと意図的に所謂コンツェルン論議の内に現下の資料を求めるべきは勿論のことだ。だが、コンツェルン問題の「結論」が、ファシズム問題でなくてはならぬということは、這般の最後の要点である。
[#改段]


 7 科学が文章となる過程


 J・ジーンズ卿の『神秘の宇宙』(藪内清氏訳)が重版になった。初め『新物理学の宇宙像』という題で訳されたのだそうだが、今度は原名(Mysterious Universe)の直訳にして出したものである。一九三〇年に原著者がケンブリッジ大学のレード講演に基いて書かれたもので、論文というよりも正に「エッセイ」というべきスタイルにぞくする。
 第一章は「滅び行く太陽」、第二章は「近代物理学の新天地」、第三章は「物質と輻射」、第四章は「相対性原理とエーテル」、第五章は「問題は混沌として」(Into the Deep Waters)というのである。私は最初この原本を開けて見た時に、実を云うと、章題のつけ方のこの流儀にやや反感に近いものを感じた。何か大変俗悪な、素人をおどすような気分で書かれているような予感がしたからである。処が読み始めるとスッカリ感心して了った。実に心憎い程の切れ味を有った叙述なのである。巻を措く間も惜しく、読んで了ったものだ。尤も本はごく小さく四六判一四〇頁程のものであるが(訳本の方も二百頁程だ)。
 ジーンズは物理学的観念論者の典型ともいうべき人であろうが、そういう哲学は勝手にしゃべらしておけばいいだろう。他にも沢山いることだ。併し科学的名文家としてのジーンズは充分に尊重されていいと思う。同じく物理学的観念論者の一人であるエディントンも亦、食い込むような厚みのある説明を与える叙述力を持っているが、ジーンズはこの本で、もっと掌を指すように、又もっと手玉に取るように、対象を生々と転がしている。
 日本にも自然科学者で科学的文章の名文家が少なくない。私の知っている限りでは石原純博士とか仁科芳雄博士などがそうだ。だが英語国民やフランス語国民の自然科学者には、その「科学」が「文章」にまでなって了っている達人(?)が日本よりも多いのではないか、というような気がする。と云うのは、之は単に文章の問題ではない、科学自身の社会的生存に関する問題であるからだ。
[#改段]


 8 古典の方が却って近代的であること


 ヴォルテールの『カンディード』(池田薫訳)が出た。以前春陽堂文庫であったか、高沖陽造氏の訳が出ているそうだが、今夫と比較する時間がない。この頃フランス文学の紹介翻訳が全盛である。而も之がフランス文学のボンサンス(「ボンサン」の方が正しいのだそうだが)たる知性の輸入ではなくて、非合理主義の上塗りであることは、全く妙だ。あるフランス系文士は、良識をば科学的精神の対立物として礼拝する、何とも挨拶の仕ようがないのだ。
 処でフランス哲学への関心も、次第に盛んになって来る。特に十八世紀の啓蒙家、唯物論者などへの。この『カンディード』もその一つと見ていい。之は「風刺文学」の模範であるが、その盛り上った思想や哲学は実に鮮かに顕著にすけて見える。だが思想が充分肉体化していないなどと、云えるものがあったら会って見たいものだ。思想と文学との結合の仕方には、こういうものがあるのだということを、思い知るべきだろう。ディドローの風刺文学としての哲学書『ラモオの甥』(本田喜代治訳)と、色々の意味で、全く好一対である。
『ラモオの甥』の方は同じ面白くても、少しムズかしい点もあるが、『カンディード』の方は大変やさしく面白い。心情のやさしいカンディードの冒険的な運命物語りで、アラビヤンナイトみたいな処もある。が第一の要点はライプニツ哲学の予定調和説と夫に結びついている神義論と楽天説との、経験的事実による転覆である。経験的事実の世界はありとあらゆる不幸と悲惨とに充ちている。著者は之をまるでモダンな筆致で坦々とリアリスティックに描き出す。第二の要点はその不幸と悲惨との無用な充満に最後の責任を持つものは、坊主と教権組織だという一貫した主張だ。悪いことは皆んな坊主が一役買った結果に他ならない。第三の要点は、この悪魔的ペシミズムの哲学にとって唯一の息抜きである理想郷エルドラドーであり、そこで発見される処の「科学」への信頼と希望とだ。処でどの要点も、まことに近代的に生々しい意識を持っているのだから、不思議である。この古典を読むと、現代人の作品でもあるかのような気がするのだ。
[#改段]


 9 歴史哲学の一古典


 都合で一回休んだが、続けようと思う。私はこの頃類似アカデミシャンという言葉を使って見ている。本質に於て非大衆的なアカデミシャンであるに拘らず反アカデミーの意識を有つことによって、一応反逆的で進歩的な大衆味を有っている今日の若い優秀な自然科学者などをそれだと考える。併し文化理論家の内にもこのカテゴリーに這入る人が、最近の日本では特に多い。之を私は文化的自由主義者という風に呼んで見たことがある。私はこういう種類の人達には充分の共感を感じるものではないが、現在に於けるその役割のプラスに就いては、充分の尊敬を払うことが出来ると思う。多くの危険を顧みながらではあるが。
 清水幾太郎氏(『人間の世界』をこの間書いた)などはその典型であるかも知れぬ。もう一人挙げるなら樺俊雄氏である。この人達を一種の社会哲学者とか歴史哲学者とか考えてもいいだろう。或いは文化哲学者とも云うべきだろう。今日の思想のポーズとしては、一つの大きな流れにぞくしている。その樺氏がJ・G・ドロイゼンの『史学綱領』(菊判二三〇頁)を翻訳した(刀江書院)。原書が史学方法論の今日に生きている古典として、歴史家にとっても哲学者、思想家、にとっても、必読の文献であることは云うまでもない。だが私が特に興味を有っているのは、之が現代の解釈学及び解釈学的哲学法にとっての最も有力な古典の一つで、現代型観念論の或る一つの秘密を解きあかしている代表的なエッセイだという点だ。現代の観念論は解釈哲学のシステムを以て最後の保塁としているからだ。尤もこういう観点を離れても、それ自身歴史感覚を深めるための貴重な演習教程になるものなのだが。
 この本は樺氏(『歴史哲学概論』其の他の著者である)によって、全く打ってつけの翻訳者を見出した。同氏以上にピッタリとした訳者は今の処得られないものと思う。そういう意味で、この訳書に向かって私は大変爽快な気持ちを覚える。同氏の力の這入った解説文も丁寧で要を得ており、読者の聴きたいことを手回しよく伝えている。最近の編者ロートアッカー版の序文の比ではないようだ。
[#改段]


 10 『日本科学年報』の自家広告


 岡邦雄氏と私とが編集者ということになっている『日本科学年報』一九三七年版(改造社)が今回出版された(三七年六月)。この際多少自家広告をしておきたく思う。一月程前に出る筈だったのを、編集者側と出版者側との夫々の都合でおくれたので、文芸年鑑其の他よりも一月後になったのは残念だったが、来年度からは用意を手回しよくして出版の時期を早めたいと考える。
 初め『年鑑』という名にする心算であったが、経費と時間との関係で便覧風の調査が出来にくかったので、もっとアカデミックな名の『年報』としたわけである。実際に編集に当ったのは唯物論研究会の多数の会員幹事達其の他であって、特に石原辰郎氏の努力を多としなければならぬ。ただ唯物論研究会の第一義的な仕事と銘打っては多少憚りありというので、岡氏と私との編集名義になったのである。すると岡氏や私などは少し割が合わないことになるわけだが、併し又、岡氏と私とだけで編集したらばこの程度のものには決してなれなかったのだから、吾々は(少なくとも私はだ)寧ろ得をしているものだということを告白する。
 ここで科学というのは、独り自然科学だけではなく、社会科学(乃至歴史科学)と哲学とを含み、且つ芸術・文化・理論をも含む。総合的で且つ観点の原則が貫徹している点が、本年報の特色であり、又目新しい処であると考える。こういう特色ある年報の類は、之までまず無かったようだ。併しそれだけに又、杜撰を免れないだろう。特に、出来上るまでどういう調子の本になるのかが、どの執筆者にもピンと来ていなかったことが、弱点の源の一つである。少なくとも私自身の場合がそうだった。
 だがひいき眼で見ると、読み物の部分はまあ何とか退屈しないで読める程度だし、見る部分である「アルバイト総覧」は少なくともその分量から云って、努力だけは充分に買って貰えるかも知れない。校正だけでも並大抵ではないのである。寛厳宜しきを得た批判を受けたいと思う。
[#改段]


 11 心理と環境


 E. S. Russell の The Behaviour of Animals, London の訳『動物の行動・環境』は色々の点で面白い本だ(訳者は永野為武と石田周三との両氏)。簡単に云って了えば動物心理の本であるが、併し大切なのは、動物の心理を、と云うのは結局動物の行動をということに他ならないが、その環境から説明しようとする点にある。否、説明するというよりも、その環境に於て観察するという研究の方法に面白味があるのである。
 単に実験室でやった実験は動物の正常な生態を蹂躙して了う。それでは動物の本当の習性は判らぬ。何でもトロピズムとかタキシスとか云って片づけられて了うことになる。だが所謂トロピズムとかタキシスの多くは、動物が強制的に置かれた異状生態からノルマルな生態に復帰しようという生活全体の必要からの趨向なのであって、その自然な生態の観察からでなくては、この点がハッキリしないと云うのである。
 この考え方はケーラーのチンパンジーに就いての有名な研究と全く同じやり方だ。所謂形態心理学は全くケーラーのこうしたやり方によって実験的な基礎を置かれたもので、ラッセルのも形態心理学の資料として大きな価値があるのである。チンパンジーが色なら色を記憶するのは決して単独な色のあるものとしてではなくて、之と連関している認識対象の或る全体との対比に於てしか記憶していないのだ、という結論を導き出したケーラーの形態心理学は、同時に動物をその形態上の或る全体に於て見なければならぬという方法の結論でもあるのだ。
 本能とか知能というものの観察も当然こういうやり方で行なわれなくてはならぬ。両者の対比と連関とをこの本では具体的に丁寧に述べている。読者はここで又マクドゥーガルの心理学を思い出さねばならぬだろう。――なお形態心理学の研究が盛んなのは九州帝大の心理学教室で、古典的な文献の集録も出版されているし、研究発表や著述も多い。
[#改段]


 12 「外国人」への注意書


 板垣鷹穂氏の評論集『現代日本の芸術』は、五年前に出た『観想の玩具』以来の最初の出版である。そう云っても実はこの本は、同氏の十八冊目か十九冊目の本だ。それ程氏は多作な評論家である。だが今度の評論集は恐らく従来のもの以上に面白いものではないかと思う。大変実際的な落ち付いた観察を以て終始していることによって、或る一つの纏まったアトモスフェアをハッキリと醸し出している。練達の士のものしたものであることを思わせる。
 寧ろアトモスフェアが出来上り過ぎてさえいないかということが気にかかる程だ。氏の文章にはもはや青年らしい焦慮も野心もない。文化世間での苦労人らしい坦々たる論調と共に長者らしい鷹揚ささえも備わっているのである。元来氏はアカデミックな気むずかしやの一人である。直子女史のアカデミー振りと琴瑟相和す部分もないではないようだ。併し結局氏は批評的精神ではなくて肯定的精神である。世俗的な権威についての最もよい理解者の一人であることにもそれは現われている。落ちつき払って見えるのもそこに原因しているらしい。
 処でこの評論集は異彩陸離たるものがある。都市、流行、建築、文芸、映画、美術、写真、舞台、放送、教育、という十項目の下に、夫々二三篇から二十篇の文章が収められているが、現代日本人の日常生活に於ける芸術形態を、これ程親切に忠実に、紹介批評し、且つ記録したものは、他に殆んどないと云ってもよい。氏には今日では特別のイデオロギーがあるとは云えない。だから氏は単なる記述者であるとも云うことが出来るかも知れない。併し、この記録者が偽りなく記録した結論は、恐らくこういうことになるらしい。曰く、現代日本人の芸術は、歌舞伎でもなければお能でもなく茶の湯でも生花でもない。所謂近代芸術こそがみずからのものと感じている芸術なのだと。色々な意味に於ける「外国人」――日本主義的エキゾティシストをも含む――にそういうことを教えるに有効な本だ。
[#改段]


 13 古本価値


 散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科学の将来』という小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買った。『ヤソ伝』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブトルーの『自然法則の偶然性』を訳出していたと思う。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂という出版屋から出ている。叢書形式の内の一冊かも知れない。そうすれば半分だけを訳して出すということも、分量の上から云って止むを得ないことだったかも知れない。
 併しそのために、何と云っても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は、何も隅から隅まで目を通さなければならぬ程大事な内容で充満しているわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合わせに過ぎぬと思われる部分も多いが、それにしても訳者も云っている通り、ルナンの其の後の仕事の方針を宣明したものとして、大いに価値のある文献なのだが、それが半分では、全く雑本としての価値しかない。こう古くなって誰も手にとっても見ないようになると、そういう点が特に目に立つ。惜しいことだ。
 同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『変態心理学』というのがある。之はリボーの有名な『記憶の疾患』、『意志の疾患』、『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。そういう加工だけですでに、古本価値のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだろうこの訳書を、私は割合大事に、蔵っておいている。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
 序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与えている。之は私にとっては興味と同情とに値いする点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払っていい。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬようだ。
[#改段]


 14 文化が実在し始めた


 ミショオの『フランス現代文学の思想的対立』(春山行夫訳――原文は英語)は私にとっては最初から興味のあった本で、読んで見て勿論失望はしなかった。今日一国の文学を論じる以上、之を思想問題として論じなくてはならないのは、当り前すぎるほど当り前なのに、多くは、ただの「文学」(?)の紹介と云った水準のものが、普通の通り相場である。そういうものに対比して、之見よがしに、之を持ち出して来るのも、一興である。
 内容は少しゴタゴタしすぎている。それというのも、出来るだけ沢山の人について書こうとしたためだろう。ただの報告に近いものさえある。そういうニュース的な興味をもう少し節約したならば、文明評論としても生きて来るし、文化の真の報道としてさえも生きて来るだろう。
 巻末の相当分量の付録「人民戦線以後の文学」という春山氏の筆になる文学と政治とのクロニクルは、この書物の意義をよく見抜いた上での補足というに値いしよう。
 この頃私は、文化問題に関する諸国の評論兼報告と云ったものの、纏った本に関心を持っている。今のミショオのもその代表者であるが、国際作家会議報告の『文化の擁護』、国際連盟のインテリジェンス国際協会の記録『現代人の建設』、ミールスキーの『イギリスのインテリゲンチャ』(之はまだ訳が出ていないが)、ロマン・ローランの『闘争の十五年』(ジードの『ソヴェート旅行記』も入れてよい)、等々の纏まったものを買って読みたいという気持である。
 右の本はまだ全部読んでいるわけではないが、それにつけても思い当るのは、「文化」という問題が本当に吾々民衆、と云って悪ければ吾々インテリ大衆、の生活問題そのものにまで高まって来たということだ。
 文化は民衆の自主的なものでない限り、インチキであるという実感がいつとなく、わが国の思想をも捉え始めている。それは今云った出版の情況からさえも知られる。文化は実在し始めた。文化をゴマかしたりマルめたりするデマゴーグの征伐を、そろそろ始めていい時期である。
[#改段]


 15 科学主義工業に対して


 理研コンツェルンの言論株式会社ともいうべき「科学主義工業社」から、『科学主義工業』という月刊雑誌がこの頃出ている。社長はよく知らないが、恐らく大河内正敏博士だろう。科学主義工業というのは博士が実施している最近の産業哲学であり、同時に工業経営の国家的大方針であるようだ。科学主義工業とは、資本主義工業に対立するのである。
 この論旨を解明するものとして最も興味のあるのが、同博士の『農村の工業と副業』という小さな本だ。本の体裁は一見時局的際物の感があるが、内容はとにかく価値のあるものである。
 科学主義工業の特徴は、高賃金低コストという処にあるという。資本主義工業は、一方に於て出来るだけ低賃金を求める。と共に他方、工業立地に就いて情実や俗間常識に左右されたり何かして、結局高コストについている。その反対が科学主義工業であるという。
 この際の科学主義とは、工作機械や測定機械の高度の機械化、技術化、によって、職工の熟練に俟つ部分を極度に小さくすることである。之によって如何なる不熟練工も、容易に高度の加工工業や最高の精密工業に極めて短時間で熟達出来る。
 更に又、高度の加工精密部分品工業の如きは運賃が相対的に少ないから、コスト計算上、農村工業として最も適切である。それ故これに科学主義を適用すれば、理想的な農村工業となる。之はすでに方々の理研関係の農村小工作場で実験ずみだという。
 科学主義工業の観点に基いて「熟練工」の観念を批判するなどを含めて、甚だ同感であるが、科学主義的農村工業は、なぜ一体高賃金であり得ねばならぬのか。著者は単調無味な労働に耐え得る「農業精神」なるものが、「能率」をあげるのだとも云っている。そして工業精神の侵入は資本主義工業の個人主義を植えつけることで農業精神の破壊だという。之は余り「科学主義」的な表現ではない、素より高賃金の説明にもならぬ。
 農村は低賃金だから、という博士の数年前までの論拠を、今の博士は恥かしいものだと云っているが、それにしても高賃金とならねばならぬという結論は、どうも必然性を欠いている。思うに、低コストはいいとして、高賃金の方は、「科学主義」以外の問題であったに相違ないのだ。
[#改ページ]


 □ 論議




 1 現代文学の主流
「文化擁護」問題の報告書――(レジス・ミショオ著・春山行夫訳『フランス現代文学の思想対立』)


 本書については、私はすでに一二の原稿を書いたから、重複は避けたいと思う。この本を読んでまず第一に気がつくのは、フランスに於ける文学なるものが、如何に直接、文化全般と密接な連関に立っているか、ということである。ここでの文学は、哲学や科学や政治と、或るものは意識的に、或るものは無意識的に、だがいずれにしても直接に、関係を持っている。文学が理想であり文化となっている。云わば、思想や文化が文学から理解されるのではなくて文学が理想や文化から理解されねばならぬように見える。
 だから次のような言葉も意味があるわけだ。「フランスの思想は過剰なフランスの文学によって誤導され、腐敗させられたと人はいうかも知れない。事実数多く思想家達は平穏を求めてリリシズムに逃避して了った。このことがロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、及び『勝利』、『聖なる顔』のエリイ・フォール、『人生について』のアンドレ・シュアレスのごとき知的指導者達の失敗の一部を物語っている」云々。
 文学が思想問題として、従って又文化問題として、全幅の意義を発揮しつつあるのは、現代の世界文学の国際的特色であろう。元来、旧くから文学はそういうものであった筈だが、それをハッキリと自覚しなければ文学として安心出来なくなったのは、現代の世界情勢の特徴だ。外交・政治・さえが一方に於ては思想的な課題となりつつある。文化問題としての資格をさえ持って来ている。そのことはつまり、逆に云うと、文化や思想が、それ自身ですでに政治的・外交的・意義を国際的国内的に持つようになったことを意味するのであるが、そこへ文学を持って行くと、文学は正に思想として、文化として、政治や外交と直接関係を生じるのである。フランスに於ける文学のそうした事情を最もよく告げているのがこの書物だろう。
 併しフランス文学がこの関係に於て、吾々に特別の文化的政治的関心を呼び起こすのは、云うまでもなく「文化擁護」運動を介してである。だが之は勿論、決してフランスだけの問題ではなく、又フランス文学だけの問題でもない。世界文化全般が、「文化擁護」という焦点をめぐって、回転している。フランスはその回転軸の一つとなろうとしつつある点に於て、特に代表的なのだ。
 ミショオはアメリカとフランスとの文学に精通したフランス人であり、本書はアメリカで英語で出版したものだ。大体に於て左翼的な進歩主義者であるが、右翼作家(例えばモーリス・バレースやシャール・モラスなど)に対しても充分な理解を示すことによって、却って最後的な批判を加えているとも見ることが出来る。本書は文化擁護問題の一報告書として記憶に値いする。日本の現代文学・芸術・哲学・科学についても、こうした思想的文化的報告書があっていいと思う。かつて土田杏村は英語でこの種の本を一冊出版した(著者自身による邦訳も出ている)。だがこの文化専門家は残念ながら思想的評尺の然るべきものを持たず、批評家に欠くことの出来ない警抜さと烱眼とを持たなかった。真の思想の力関係を見て取ることが出来なかった。そしてまだ、当時は充分そういう機が熟してはいなかった。
 今や吾々は、「文化問題」なるものが今後有つだろう社会的重大性をより一層立ち入って理解しなければならぬ。本書はそういうための刺激となるだろう。
[#改段]


 2 哲学書翻訳所見


 この間或る人に会った所、日本で出版された科学史の良いものは何かと尋ねられた。私は即答に窮したので、岩波版のセジウィク・タイラーのものや矢島祐利氏の諸著作などを挙げたのだが、質問した人はなぜかあまり満足しなかったようだ。私は一般の心ある読者がどれ程思想の歴史を書いた纏った書物を欲しているかに、又同時に、そうしたものが日本では如何に数が少ないかに、初めて気がついたような気がするのだ。この点、哲学の歴史に就いても大した変りはないが、併しここでは事情はもう少しはいいだろう。
 この頃はユーベルヴェークの大きな哲学史も翻訳されているようなわけで、この方面の読者は愈々恵まれて来たようだ。K・フィッシャーやエルトマンのものも系統的に訳されていい頃だろう。ところで云うまでもなく、こうした科学的な哲学史はヘーゲルに始まるのであるが、ヘーゲルの哲学史は鉄塔書院と岩波書店とから併行して訳出されている。この二つの訳書の特色の比較は興味のあることだろうが、手元にないので出来兼ねる。その代りにヘーゲル哲学史の後継者の一人であるL・フォイエルバハの『近世科学史』が私の注目を惹く(上巻・松本義雄氏訳・政経書院版)。これはヨードルのフォイエルバハ全集に依ったもので、詳しくは、『ベーコンからスピノザまでの近世哲学史』であるが、主としてフォイエルバハがヘーゲルの完全な影響の下に立っている時期の著作と見做されている。だがそれにも拘らず一種の近世唯物論史の観がある所に現在この書物の大きい価値があるのである。
 ところが訳には遺憾ながら感心しない個所が多い。単に読みにくい許りではなく、何か非常識な感じさえしないではない。エリザベス女王の後継者はジェームス一世とあるべき所をヤコブ一世とあったり、スターチェンバーとすべき所を、わざわざシュテルン・カンマーとルビを振ったり、フランシス・ベーコンで通っているのをフランツ・ベーコンとしたりするのも気にかかる。なぜこうドイツ語から一種の直訳を敢えてするのだろう。読者に不親切な訳文と不注意からくる誤植は眼にあまる。――だがこういっても、こういう本の訳の出ないよりは、とに角出た方がいいということは、素直に一般的に強調しておかねばならぬ点だ。多分訳者は文筆上の経験の深くない人と思うが、もう少し時間が経ってから訳を直して見たらばキッと良くなることと思う。
 こういう場合、世間の自称篤学者達は何かというと訳者の「学的良心」といったようなことを口にしたがる。それも無論必要なことに違いはないが、併し翻訳者なり著者なりの仕事の全体から切り離して、又出版屋の資本上の制約からも抽象して、単に之やあれやの書物の出来栄えで人間の「学的良心」を云々することは、全く世間を見る眼を持たぬ非常識だ。『思想』(一九三四年)七月号で畠中尚志という人が斎藤□氏のスピノザ全集の訳を根拠として、斎藤氏について例の「学的良心」を疑っているのも亦、そういう場合の一種ではないかと疑われる。そこでは旧いオランダ語のテキストが問題になっているので、私には内容については全く何の意見も持てないが、仮に畠中氏の指摘した斎藤氏の誤訳や悪訳が全部畠中氏のいう通りにしても、斎藤氏が次号の『思想』で与えている返答の方に依然「真理」があると思う。『思想』の編集者諸氏はこの点どう考えるか。
 古典の翻訳で一寸注目に値いする毛色の変ったものはJ・S・ミルの『社会科学の方法論』(伊藤安二氏訳・杉森孝次郎氏序・敬文堂版)だろう。これはミルの百科辞典的代表作『論理学体系』のモーラル・サイエンスに関する部分(第六巻全体)を訳出したもので、ブルジョア社会科学論の上では極めて大切な古典の一つであることは能く知られている。この本が現在持つべき意義に就いては、必ずしも杉森氏の序文に同意出来ないとしても、この頃読まれていい本の一つだと私は思う。訳も中々良い。
 やはり部分的な訳出だが、ディルタイの『近世美学史』(徳永郁介氏訳・第一書房版)は甚だ手頃な便宜な好訳である。これは全集の第六巻の内「近世美学の三画期と今日の課題」(一八九二)の全訳で、訳文も嫌味のない達文だし、訳注の親切なのも有難い(なお同氏にはE・ウーティツの『美学史要』の訳もある)。
 訳文が達者だといえば、河上徹太郎氏のシェストーフ『虚無よりの創造』(芝書店版)の訳は流石に名訳だ。同じくシェストーフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎氏・阿部六郎氏・訳・芝書店版)の訳も名文だ。正確かどうかは知るところでないが、とに角翻訳であることを忘れて巻を措かずに読ませるものがある。前者は然し木寺・安土・福島・三氏の訳になる『無からの創造』(三笠書房版)と対比させて見ると興味がある。三氏の訳の方は収められた論文の数も遙かに多く、訳文も場合によっては地味に過ぎて生硬であったりするので、あまり読み良くはない。――だが実をいうと、私にはこういったニュヒテルンな性質の訳の方が所謂「名訳」よりも好ましいのである。なぜなら地味な訳は、概念上の連想が却って豊富なために、読むに骨は折れるが思想上の示唆に富んでいるからだ。尤も三笠書房のはもう一段手を入れるとズッと達意なものとなる余地があるとは思うが。
[#改段]


 3 世界文学と翻訳


 R・G・モールトンの『文学の近代的研究』(本多顕彰氏訳・岩波書店)を曾て私は読んで、第一に興味を惹かれたのは、文学と哲学との交渉に就いてであった。明治以来わが国では、文学と哲学とが殆んど全く絶縁されたような関係におかれている。それは文学が世界観や思想というものから縁遠くなって了っているからばかりではなく、哲学自身が世界観や思想として何等の積極性も自覚していないことから来るのである。だから偶々文学や哲学が何か世界観や思想を強いて持とうとすると、公式的文学観が生じたり、又その対立物として公式呼ばわり的文学論が発生したり、それから止め度もない体験の哲学や生の哲学が発生したりする。そして偶々文学と哲学とを結びつけたと見えるものには、往々極めてイージーな而もスケールの小さく浅はかな文学めいた哲学や哲学めいた文学が見出される。こうした手先の扮飾では、文学と哲学との根本的な結び付きなど決して浮び上って来るものではない。文学と哲学とが本格的に交渉するのは、クリティシズム(批評・評論)に於いてなのだ。考え方によっては極めて判り切ったこの関係を、克明に講義したものが、モールトンの今の本だ。
 第二に興味を有った点は文学と古来及び近来のジャーナリズムとの関係である。遠くはホーマーや中世の吟遊詩人、降って廿世紀のジャーナリストに至るまで、その文学的役割が割合一貫して問題にされている。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:259 KB

担当:undef