みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

先(せん)にも数年間調布町に住んで伝道し、会堂が建つばかりになって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微(すいび)し、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来ました。本文の初に、私共が初めて千歳村に来て見た会堂がそれです。随分見すぼらしい会堂でした。村住居はしても、会堂の牧師になる事を私が御免蒙ったので、信者の人々は昔馴染(むかしなじみ)の下曾根さんをあらためて招聘(しょうへい)したのでした。下曾根さんは其時もう五十を過ぎ、耳が遠く、招かれても働きは思うように出来ぬと断ったそうですが、養老の意味で、たって来てもらったとの事です。私共が村入りの二月(ふたつき)目に下曾根さんは来て、信者仲間の歓迎会には私共も共々お客として招かれたのでありました。私共に代って貧乏籤(びんぼうくじ)をひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂裏(うら)に自炊(じすい)生活(せいかつ)をつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分(ずいぶん)惨(みじめ)な生活でした。私は個人的に少許(すこし)の出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰(めいせき)な頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道を嗜(たしな)み、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。乏(とぼ)しい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。亡(な)くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書き遺(のこ)し、洗(あら)うが如き貧しさの中から葬式万端(ばんたん)の費用を払うて余剰(あまり)ある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石(さすが)に武士の子らしい嗜(たしなみ)です。下曾根さんは私共の東隣(ひがしどなり)の墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。
 其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野(うえの)の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れに菜(な)を洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕を罷(や)めて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂(い)うて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染(かおなじみ)が追々遠くなるのは淋しいものです。
 村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷(ちょんまげ)の佐平(さへい)爺(じい)さんも亡くなり、好人の幸さんも亡くなりました。文ちゃんの爺(じい)さんも亡くなりました。文ちゃんは稼(かせ)ぎ人(にん)で、苦しい中から追々工面(くめん)をよくし、古家ながら大きな家を建てゝ、其家から阿爺(おやじ)の葬式も出しました。「斯様(こん)な家から葬式を出してもらうなんて、殿様だって出来ねえ事だ」と皆が文ちゃんの孝行をほめました。「腫物」に出た石山の婆さんも本家で亡くなりました。それは大正七年でしたが、其前年の暮(くれ)に「腫物」の女主人公、莫連(ばくれん)お広(ひろ)も亡くなりました。お広さんは石山新家を奇麗に潰(つぶ)して了うた後、馴染(なじみ)の親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居ました。其内親分がある寡家(ごけ)に入り浸(びた)りになって、お広さんが其処に泣きわめきの幕を出したり、かかり子の亥之吉が盲唖学校を卒業して一本立になっても母親を構(かま)いつけなかったり、お広さんの末路は大分困難になって来ました。金に窮すると、石山家に来ては、石山さんの所謂『四両五両といたぶって』行きました。到頭腎臓(じんぞう)が悪くなり、水腫(みずばれ)が出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に往った天理教信者のおかず媼(ばあ)さんを驚かしたものです。離縁になってなかったので、お広さんの体(からだ)は矢張石山さんが引取って、こっそり隣の墓地に葬りました。葬式の翌日往って見ると、新しい土饅頭(どまんじゅう)の前に剥(は)げ膳が据(す)えられ、茶碗の水には落葉が二枚浮いて居ました。白木の位配に「新円寂慈眼院恵光大姉(しんえんじゃくじげんいんえこうだいし)」と書いてあります。慈眼院恵光大姉――其処に現われた有無の皮肉に、私は微笑を禁じ得ませんでした。而して寂(さび)しい初冬の日ざしの中に立って、莫連お広の生涯を思い、もっと良い婦人(おんな)になるべき素質をもちながら、と私は残念に思うのでありました。お広さんが死んで、法律上にもいよいよ※(やもお)[#「環」の「王」に変えて「魚」、下巻-152-1]になった厚い唇の久(ひさ)さんは真白い頭をして、本家で働いて居ます。唖の巳代吉は貧しい牧師の金を盗んだり、五宿の女郎を買ったりして居ましたが、今は村に居ません。盲の亥之吉も、季(すえ)の弟も居ません。一人女(ひとりむすめ)のお銀は、立派に莫連の後を嗣いで、今は何処ぞに活躍して居ます。
 お広さんを愛したり捨てたりした親分七右衛門爺(じい)さんは、今年亡(な)くなり、而してやはり隣の墓地に葬られました。大きな男でしたが、火葬されたので、送葬(そうそう)の輿(こし)は軽く、あまりに軽く、一盃機嫌で舁(か)く人、送る者、笑い、ざわめき、陽気な葬式が皮肉でした。可惜(あたら)男(おとこ)をと私はまた残念に思うたのでありました。
「村入」の条に書いた私共の五人組の組頭(くみがしら)浜田の爺さんも、今年の正月八十で亡くなりました。律義な爺さんの一代にしっかり身上(しんしょう)を持ち上げ、偕白髪(ともしらが)の老夫婦、子、孫、曾孫の繁昌を見とどけてのめでたい往生でした。いつも莞爾々々(にこにこ)して、亡くなる前日まで縄(なわ)を綯(な)うたりせっせと働いて居ました。入棺前、別れに往って見ると、死顔(しがお)もにこやかに、生涯労働した手は節(ふし)くれ立って土まみれのまま合掌して居ました。これは代田(だいだ)街道(かいどう)側(わき)の墓地に葬られました。
 それから与右衛門さんとこのお婆さん、「信心なんかしませんや」と言うて居たお婆さんも亡くなりました。根気のよいお婆さんで、私も妻も毎々(まいまい)話しこまれて弱ったものです。居なくなって、淋しくなりました。「否(いな)と云へど強(し)ふるしひのがしひがたり、ちかごろ聞かずてわれ恋(こ)ひにけり」と万葉(まんよう)の歌人が曰(い)うた通りです。私共が外遊から帰ると、お婆さんは「四国(しこく)西国(さいごく)しなすったってねえ」と感にたえたように妻に云うて居ましたが、今は彼女自身遠く旅立ってしまいました。彼女は文ちゃんの爺さんが葬られて居る北の小さな墓地に葬られました。其処にはお婆さんには孫、与右衛門さんには嗣子(あととり)であったきつい気の忠(ちゅう)さん、海軍の機関兵にとられ、肺病になって死んだ忠さんも葬られて居ます。
 草履作りが名人の莞爾々々(にこにこ)した橋本のお爺さん、お婆さん、其隣の大尽の杉林のお婆さん、亡くなった人人も二三に止まりません。年寄りが逝(ゆ)くのは順ですが、老少不定の世の中、若い者、子供、赤ン坊の亡くなったのも一人や二人でありません。前に言うた忠さん、それから千歳村墓地敷地買収問題の時、反対側(がわ)の頭目(とうもく)となって草鞋(わらじ)がけになって真先に働いたしっかり者の作さんも亡くなりました。半歳立たぬに、作さんの十六になる一人女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒(くさぼうき)持参で掃除に来た時、村の四辻(よつつじ)で女の子を負(おぶ)った色の黒い矮(ちいさ)い六十爺さんに道を教えてもらいました。お爺さんは「村入」で「わしとおまえは六合の米よ、早く一しょになればよい」と中音(ちゅうおん)に歌うた寺本の勘さん、即ち作さんの阿爺(おとっさん)で、背の女児は十六で亡くなった其孫女でした。
 まだ気の毒な亡者(もうじゃ)も、より気の毒な生き残りも二三あります。
 それ等を外にしては、石山さん、勘爺さん、其弟の辰爺さん、仁左衛門さん、与右衛門さん、武太さん、田圃向うの信心家のお琴婆さん、天理教のおかず婆さん、其他の諸君も皆無事です。土の下、土の上、私共の択んだ故郷粕谷は上にも下にも追々と栄えて行きます。都落ちして其粕谷にすでに十七年を過ごして、私が五十六、妻が五十、頭は追々白くなって、気は恒春園の恒に若く、荒れた園圃と朽ち行く家の中にやがて一陽来復の時を待ちつゝ日一日と徐に私共の仕事をすすめて居ます。
 書きたい事に切りがありませんが、其は他日の機会に譲って、読者諸君の健康を祝しつつここに一先(ひとま)ず此手紙の筆を擱(さしお)きます。
大正十二年十二月三十日
東京府 北多摩郡千歳村 粕谷恒春園に於て徳冨健次郎

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    附録



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    ひとりごと

      蝶の語れる

 吾(われ)、毛虫(けむし)たりし時、醜(みにく)かりき。吾、蝶(てふ)となりて舞(ま)へば人(ひと)美(うつく)しと讃(ほ)む。人の美しと云ふ吾は、曩(その)昔(かみ)の醜かりし毛虫ぞや。
 吾、醜かりし時、人(ひと)吾(われ)を疎(うと)み、忌(い)み、嫌ひて避け、見る毎(ごと)に吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、人(ひと)争(あらそ)うて吾を招く。吾れの変れる乎(か)。人の眼(まなこ)なき乎。
 吾、醜しと見られし時、吾(わが)胸(むね)のいたみて、さびしく泣きたることいかばかりぞや。其(その)時(とき)君(きみ)独(ひと)り吾を憐みぬ。
 君、吾が毛虫たりし時、吾を憐みて捨てざりき。故に蝶となれる吾は、今翼(つばさ)ある花となりて、願はくは君が為に君の花園に舞はん。


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    旅の日記から

     熊の足跡

      勿来

 連日(れんじつ)の風雨(ふうう)でとまった東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野(うえの)から海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本(せきもと)駅で下り、車で平潟(ひらがた)へ。
 平潟は名だたる漁場(りょうば)である。湾の南方を、町から当面(とうめん)の出島(でしま)をかけて、蝦蛄(しゃこ)の這(は)う様にずらり足杭(あしくい)を見せた桟橋(さんばし)が見ものだ。雨あがりの漁場、唯もう腥(なまぐさ)い、腥い。静海亭(せいかいてい)に荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿来関址(なこそのせきあと)見物に出かける。
 町はずれの隧道(とんねる)を、常陸(ひたち)から入って磐城(いわき)に出た。大波小波□々(どうどう)と打寄する淋しい浜街道(はまかいどう)を少し往って、唯有(とあ)る茶店(さてん)で車を下りた。奈古曾(なこそ)の石碑(せきひ)の刷物(すりもの)、松や貝の化石、画はがきなど売って居る。車夫(くるまや)に鶴子(つるこ)を負(おぶ)ってもらい、余等は滑(すべ)る足元(あしもと)に気をつけ/\鉄道線路を踏切って、山田の畔(くろ)を関跡(せきあと)の方へと上る。道も狭(せ)に散るの歌に因(ちな)んで、芳野桜(よしのざくら)を沢山植えてある。若木(わかき)ばかりだ。路(みち)、山に入って、萩、女郎花(おみなえし)、地楡(われもこう)、桔梗(ききょう)、苅萱(かるかや)、今を盛りの満山(まんざん)の秋を踏み分けて上(のぼ)る。車夫(くるまや)が折ってくれた色濃い桔梗の一枝(ひとえだ)を鶴子は握(にぎ)って負(おぶ)られて行く。
 浜街道の茶店から十丁程上ると、関の址(あと)に来た。馬の脊(せ)の様な狭い山の上のやゝ平凹(ひらくぼ)になった鞍部(あんぶ)、八幡(はちまん)太郎(たろう)弓かけの松、鞍かけの松、など云う老大(ろうだい)な赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、翠(みどり)の梢(こずえ)に颯々(さっさつ)の音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永(かえい)のものである。茶屋(ちゃや)がけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人(ゆうじん)の影も無く、茶博士(さはかせ)も居ない。弓弭(ゆはず)の清水(しみず)を掬(むす)んで、弓かけ松の下に立って眺める。西(にし)は重畳(ちょうじょう)たる磐城の山に雲霧(くもきり)白く渦(うず)まいて流れて居る。東は太平洋、雲間(くもま)漏(も)る夕日の鈍(にぶ)い光(ひかり)を浮べて唯とろりとして居る。鰹舟(かつおぶね)の櫓拍子(ろびょうし)が仄(ほの)かに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪(はなふぶき)の中を馬で此処(ここ)を通ったのか。歌は残って、関の址と云う程の址はなく、松風(まつかぜ)ばかり颯々(さっさつ)と吟(ぎん)じて居る。人の世の千年は実に造作(ぞうさ)もなく過ぎて了う。茫然(ぼうぜん)と立って居ると、苅草(かりくさ)を背(せ)一(いっ)ぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓(ひゃくしょう)が二人峠の方から下りて来て、余等の前を通って、また向(むこう)の峰(みね)へ上って往った。
 日の暮(くれ)に平潟の宿に帰った。湯はぬるく、便所はむさく、魚は鮮(あたら)しいが料理がまずくて腥(なまぐさ)く、水を飲もうとすれば潟臭(かたくさ)く、加之(しかも)夥(おびただ)しい蚊(か)が真黒(まっくろ)にたかる。早々(そうそう)蚊帳(かや)に逃(に)げ込(こ)むと、夜半(よなか)に雨が降り出して、頭(あたま)の上に漏(も)って来るので、遽(あわ)てゝ床(とこ)を移(うつ)すなど、わびしい旅の第一夜であった。


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      浅虫

 九月九日から十二日まで、奥州(おうしゅう)浅虫(あさむし)温泉滞留(たいりゅう)。
 背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕(まくら)の下で、陸奥湾(むつわん)の緑玉潮(りょくぎょくちょう)がぴた/\言(ものい)う。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津軽(つがる)富士の岩木山が小さく見えて居る。
 青森から芸妓連(げいしゃづれ)の遊客が歌うて曰く、一夜(いちや)添(そ)うてもチマはチマ。
 五歳(いつつ)の鶴子初めて鴎(かもめ)を見て曰く、阿母(おかあさん)、白い烏(からす)が飛んで居るわねえ。
 旅泊(りょはく)のつれ/″\に、浜から拾(ひろ)うて来た小石で、子供一人成人(おとな)二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母に伴(ともな)われて舟で薩摩境(さつまざかい)の祖父を見舞に往った時、唯(たった)二十五里の海上を、風が悪くて天草の島に彼此十日も舟(ふな)がかりした。昔話も聞き尽し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石を拾(ひろ)うておはじきをした。今日(きょう)不器用な手に小石を数えつゝ、不図其事を思い出した。
 海岸を歩けば、帆立貝(ほたてがい)の殻(から)が山の如く積んである。浅虫で食ったものゝ中で、帆立貝の柱の天麩羅(てんぷら)はうまいものであった。海浜随処に□瑰(まいかい)の花が紫に咲き乱れて汐風に香(かお)る。
野糞(のぐそ)放(ひ)る外(そと)が浜辺(はまべ)や□瑰花(まいくわいくわ)


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      大沼

       (一)

 津軽(つがる)海峡を四時間に駛(は)せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であったが、船に弱い妻は到頭酔うて了うた。一夜函館埠頭(ふとう)の朴(きと)旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云う。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。
 函館停車場は極(ごく)粗朴(そぼく)な停車場である。待合室では、真赤に喰(くら)い酔うた金襴(きんらん)の袈裟(けさ)の坊さんが、仏蘭西人らしい髯(ひげ)の長い宣教師を捉(つかま)えて、色々管(くだ)を捲いて居る。宣教師は笑いながら好(い)い加減(かげん)にあしらって居る。
 札幌(さっぽろ)行の列車は、函館の雑沓(ざっとう)をあとにして、桔梗、七飯(なないい)と次第に上って行く。皮をめくる様に頭が軽くなる。臥牛山(がぎゅうざん)を心(しん)にした巴形(ともえなり)の函館が、鳥瞰図(ちょうかんず)を展(の)べた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓(まど)から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮(しゅうちょう)を隔てゝ、遙(はるか)に津軽の地方が水平線上に浮(う)いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧(すいそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠(かぶ)り、小形の緑絨氈(みどりじゅうたん)のカバンを提(さ)げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。江刺(えさし)へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客(ゆうかく)の為に設けた形(かた)ばかりの停車場である。こゝで下車。宿引(やどひき)が二人待って居る。余等は導(みちび)かれて紅葉館の旗(はた)を艫(とも)に立てた小舟に乗った。宿引は一礼(いちれい)して去り、船頭は軋(ぎい)と櫓声(ろせい)を立てゝ漕(こ)ぎ出す。
 黄金色(こがねいろ)に藻の花の咲く入江(いりえ)を出ると、広々とした沼の面(おも)、絶えて久しい赤禿(あかはげ)の駒が岳が忽眼前に躍(おど)り出た。東の肩からあるか無いかの煙(けぶり)が立上(のぼ)って居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末(そまつ)な料理屋が二三軒水際(みぎわ)に立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路(くしろ)まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは旧(きゅう)に仍(よ)って晴々(はればれ)した而して寂(しず)かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓(かえで)はそろ/\染(そ)めかけて居る。処々楢(なら)や白樺(しらかば)にからんだ山葡萄(やまぶどう)の葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島(めおとじま)の方に帆舟が一つ駛(はし)って居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、鴨(かも)が飛び、千鳥(ちどり)が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。夥(おびただ)しくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間(ひとま)に案内された。
 都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨(のぞ)み、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒(さっぱり)とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。薪(まき)を使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼の鯉(こい)、鮒(ふな)の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際(きわ)の静かな夜の眠(ねむり)に入った。
 真夜中(まよなか)にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙(すき)から雷が光った。而して颯(ざあ)と雨の音がした。起きて雨戸を一枚繰(く)って見たら、最早(もう)月が出て、沼の水に螢(ほたる)の様に星が浮いて居た。

       (二)

 明方(あけがた)にはまたぽつ/\降って居たが、朝食(あさめし)を食うと止んだ。小舟で釣(つり)に出かける。汽車の通うセバットの鉄橋の辺(あたり)に来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋の蔭(かげ)に舟を寄せて雨宿(あまやど)りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、目(め)ざす鮒(ふな)はかゝらず、ゴタルと云う□(はぜ)の様な小魚(こざかな)ばかり釣れる。舟を水草(みずくさ)の岸に着(つ)けさして、イタヤの薄紅葉(うすもみじ)の中を彼方(あち)此方(こち)と歩いて見る。下生(したばえ)を奇麗に払った自然の築山(つきやま)、砂地の踏心地(ふみごこち)もよく、公園の名はあっても、あまり人巧(じんこう)の入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚を据(す)えて、十八九の青年が水彩写生(すいさいしゃせい)をして居た。駒が岳に雲が去来(きょらい)して、沼の水も林も倏忽(たちまち)の中に翳(かげ)ったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲(めぐり)八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄(ゆうせい)でもなく、霞が浦の淡蕩(たんとう)でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢(なら)白樺(しらかば)其他の雑木にした松島である。沼尻は瀑(たき)になって居る。沼には鯉、鮒、鰌(どじょう)ほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基(いくつ)も立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生の漕(こ)いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟(ゆさんぶね)も一つ二つ見えた。舟を唯有(とあ)る岸に寄せて、殊(こと)に美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。
 午後は画(え)はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函(とうかん)に往った。軟(やわ)らかな砂地に下駄を踏(ふ)み込んで、葦(あし)やさま/″\の水草の茂(しげ)った入江の仮橋を渡って行く。やゝ色づいた樺(かば)、楢、イタヤ、などの梢(こずえ)から尖(とが)った頭の赭(あか)い駒が岳が時々顔を出(だ)す。寂(さび)しい景色である。北海道の気が総身(そうみ)にしみて感ぜられる。
 夕方館の庭から沼に突き出た岬(みさき)の□(はな)で、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の写生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近(あたり)の林で草花を折ったり。秋の入り日の瞬(またた)く間に落ちて、山影水光(さんえいすいこう)見るが中に変って行く。夕日の名残(なごり)をとゞめて赭(あか)く輝やいた駒が岳の第一峰が灰がかった色に褪(さ)めると、つい前の小島も紫から紺青(こんじょう)に変って、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケッチの筆を動かして居る。黯青(あんせい)に光る空。白く光る水。時々ポチャンと音して、魚がはねる。水際(みぎわ)の林では、宿鳥(ねどり)が物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな声で唸(うな)って居る。
「到頭出来なかった」
 ぱたんと画具箱(えのぐばこ)の葢(ふた)をして、細君は立ち上った。鶴子を負(お)う可く、蹲(しゃが)んで後(うしろ)にまわす手先に、ものが冷(ひ)やりとする。最早露が下りて居るのだ。


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      札幌へ

 九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周(はんしゅう)して、森に下って、噴火湾(ふんかわん)の晴潮を飽(あ)かず汽車の窓から眺める。室蘭通(むろらんがよ)いの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背(うしろ)にして、ずうと噴火湾に沿(そ)うて走る。長万部(おしゃまんべ)近くなると、湾を隔(へだ)てゝ白銅色の雲の様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山(うずさん)です、と同室の紳士は教えた。
 湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車(ていしゃ)蕎麦(そば)を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷(えぞ)富士□□□□と心がけた蝦夷富士を、蘭越(らんごえ)駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏(まと)うて、秀潤(しゅうじゅん)の黛色(たいしょく)滴(したた)るばかり。頻(しきり)に登って見たくなった。車中知人O君の札幌(さっぽろ)農科大学に帰るに会った。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市(よいち)に来て、日本海の片影(へんえい)を見た。余市は北海道林檎(りんご)の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せた。あまり美しいので、売子(うりこ)が持て来た網嚢入(あみぶくろいり)のを二嚢買った。
 O君は小樽(おたる)で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。


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      中秋

 十八日。朝、旭川(あさひがわ)へ向けて札幌を立つ。
 石狩(いしかり)平原は、水田已に黄(き)ばんで居る。其間に、九月中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちに復(か)えった。
 十時、汽車は隧道(とんねる)を出て、川を見下ろす高い崖上(がいじょう)の停車場にとまった。神居古潭(かむいこたん)である。急に思立って、手荷物諸共(もろとも)遽(あわ)てゝ汽車を下りた。
 改築中で割栗石(わりぐりいし)狼藉(ろうぜき)とした停車場を出て、茶店(さてん)で人を雇うて、鶴子と手荷物を負(お)わせ、急勾配(きゅうこうばい)の崖を川へ下りた。暗緑色(あんりょくしょく)の石狩川が汪々(おうおう)と流れて居る。両岸から鉄線(はりがね)で吊(つ)ったあぶなげな仮橋が川を跨(また)げて居る。橋の口に立札がある。文言(もんごん)を読めば、曰く、五人以上同時に渡(わた)る可からず。
 恐(お)ず/\橋板を踏むと、足の底(そこ)がふわりとして、一足毎(ひとあしごと)に橋は左右に前後に上下に揺(ゆ)れる。飛騨(ひだ)山中、四国の祖谷(いや)山中などの藤蔓(ふじづる)の橋の渡り心地がまさに斯様(こんな)であろう。形ばかりの銕線(はりがね)の欄(てすり)はあるが、つかまってゆる/\渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息(ひといき)に渡った。橋の長さ二十四間。渡り終って一息ついて居ると、炭俵(すみだわら)を負うた若い女が山から下りて来たが、佇(たたず)む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋(つりばし)を渡って往った。
 山下道(やましたみち)を川に沿うて溯(さかのぼ)ること四五丁余、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺(こっぱぶき)のきたない家に来た。神居古潭の鉱泉宿である。取りあえず裏二階の無縁畳(へりなしだたみ)の一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄の臭(におい)がする鉱泉に入って、二階にくつろぐ。麦稈帽(むぎわらぼう)の書生三人、庇(ひさし)髪の女学生二人、隣室(となりま)に遊びに来たが、次ぎの汽車で直ぐ帰って往った。石狩川の音が颯々(さあさあ)と響く。川向うの山腹の停車場で、鎚音(つちおと)高く石を割って居る。囂(ごう)と云う響をこだまにかえして、稀(まれ)に汽車が向山を通って行く。寂しい。昼飯に川魚をと注文したら、石狩川を前に置(お)いて、罐詰の筍(たけのこ)の卵とじなど食わした。
 飯後(はんご)神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩(めおといわ)と云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻(さっき)渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手(かみて)には、楢(なら)の大木が五六本川面(かわづら)へ差かゝって居る。其蔭(かげ)に小さな小屋がけして、杣(そま)が三人停車場改築工事の木材を挽(ひ)いて居る。橋の下手(しもて)には、青石峨々(がが)たる岬角(こうかく)が、橋の袂から斜(はす)に川の方へ十五六間突出(つきで)て居る。余は一人尖(とが)った巌角(がんかく)を踏み、荊棘(けいきょく)を分け、岬(みさき)の突端に往った。岩間には其処(そこ)此処(ここ)水溜(みずたまり)があり、紅葉した蔓草(つるくさ)が岩に搦(から)んで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山(ぞうきやま)が、水際から屏風(びょうぶ)を立てた様に聳(そび)えて居る。其中腹を少しばかり切り拓(ひら)いて、こゝに停車場が取りついて居る。檣(ほばしら)の様な支柱を水際の崖(がけ)から隙間(すきま)もなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側(かたかわ)乗って居るのである。停車場の右も左も隧道(とんねる)になって居る。汽車が百足(むかで)の様に隧道を這(は)い出して来て、此停車場に一息(ひといき)つくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道の孔(あな)に吸(す)わるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余(ちょうよ)の上流では白波(しらなみ)の瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝(あおぐろ)い色をなして、其処(そこ)此処に小さな渦(うず)を巻き/\彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋の袂(たもと)から突出た巌(いわ)に礙(さまた)げられてこゝに淵(ふち)を湛(たた)え、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角(こうかく)を摩(す)って、また下手対岸の蒼黒い巌壁(がんぺき)にぶつかると、全川の水は捩(ね)じ曲(ま)げられた様に左に折れて、また滔々(とう/\)と流して行(ゆ)く。去年の出水には、石狩川が崖上(がけうえ)の道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。此(この)窄(せま)い山の峡(かい)を深さ二丈も其上もある泥水が怒号(どごう)して押下った当時の凄(すさま)じさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石(さすが)に凄(すご)い。橋下の水深は、平常(ふだん)二十余尋(ひろ)。以前は二間もある海の鯊(さめ)がこゝまで上って来たと云う。自然児(しぜんじ)のアイヌがさゝげた神居古潭(かむいこたん)の名も似(に)つかわしく思われる。
 夕飯後(ゆうめしご)、ランプがついて戸がしまると、深い深い地の底(そこ)にでも落ちた様で、川音がます/\耳について寂しい。宿から萩(はぎ)の餅を一盂(ひとはち)くれた。今宵(こよい)は中秋(ちゅうしゅう)十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋に逢(あ)うも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎(あいにく)雲をかぶって、朦朧(もうろう)とした谷底を石狩川が唯颯(さあ)、颯(さあ)と鳴って居る。


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      名寄

 九月十九日。朝神居古潭(かむいこたん)の停車場から乗車。金襴(きんらん)の袈裟(けさ)、紫衣(しえ)、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換(のりか)え、名寄(なよろ)に向う。旭川からは生路である。
 永山(ながやま)、比布(ぴっぷ)、蘭留(らんる)と、眺望(ながめ)は次第に淋しくなる。紫蘇(しそ)ともつかず、麻でも無いものを苅って畑に乾(ほ)してあるのを、車中の甲乙(たれかれ)が評議して居たが、薄荷(はっか)だと丙が説明した。
 やがて天塩(てしお)に入る。和寒(わっさむ)、剣淵(けんぶち)、士別(しべつ)あたり、牧場かと思わるゝ広漠(こうばく)たる草地一面霜枯(しもが)れて、六尺もある虎杖(いたどり)が黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地(でいたんち)である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓(したつづみ)うつ。
 余放吟して曰く、
泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖(いたどり)の秋
 士別では、共楽座(きょうらくざ)など看板を上げた木葉葺(こっぱぶき)の劇場が見えた。
 午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐ例(れい)の見物に出かける。
 旭川平原をずっと縮(ちぢ)めた様な天塩川の盆地(ぼんち)に、一握(ひとにぎ)りの人家を落した新開町。停車場前から、大通りを鍵(かぎ)の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗(しんしゅう)の寺、天理教会、清素(せいそ)な耶蘇教会堂も見えた。店頭(みせさき)で見つけた真桑瓜(まくわうり)を買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々(さあさあ)と北へ流れて居る。鉄線(はりがね)を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜を剥(む)いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早(もう)日が入りかけて、薄(うす)ら寒く、秋の夕(ゆうべ)の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二(ふた)たび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中(まんなか)を乗馬の男が野の方から駈(かけ)を追うて帰って来る。馬蹄(ばてい)の音が名寄中(なよろじゅう)に響き渡る。
 宿の主人は讃岐(さぬき)の人で、晩食(ばんめし)の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室(となりま)には、先刻(さっき)馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩(あんま)の笛が大道を流して通る。


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      春光台

 明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊(いちやどまり)の飛脚旅行(ひきゃくりょこう)に来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文(ちかぶみ)に往って、土産話(みやげばなし)にアイヌの老酋(ろうしゅう)の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻(みまわ)して、当年のわびしい記憶を喚起(よびおこ)そうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。
 余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場(れんぺいじょう)を横ぎり、車を下りて春光台(しゅんこうだい)に上った。春光台は江戸川を除いた旭川の鴻(こう)の台(だい)である。上川(かみかわ)原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居(ばんきょ)して居る。丘上(おかうえ)は一面水晶末の様な輝々(きらきら)する白砂、そろ/\青葉の縁(ふち)を樺(かば)に染(そ)めかけた大きな□樹(かしわのき)の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下(がんか)は第七師団である。黒んだ大きな木造(もくぞう)の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩(ある)いたり、赤い旗が立ったり、喇叭(らっぱ)が鳴ったりして居る。日露戦争凱旋(がいせん)当時、此丘上(おかのうえ)に盛大な師団招魂祭(しょうこんさい)があって、芝居、相撲、割れる様な賑合(にぎわい)の中に、前夜恋人(こいびと)の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木(やどりぎ)の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。
 余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\□(かしわ)の葉を揺(うご)かして居る。
春光台腸(はらわた)断(た)ちし若人(わこうど)を
    偲(しの)びて立てば秋の風吹く
 余等は春光台を下(お)りて、一兵卒に問うて良平が親友(しんゆう)小田中尉の女気無(おんなげな)しの官舎を訪い、暫(しば)らく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤(いきどお)って、硝子窓(がらすまど)を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀(いたべい)に囲われた見すぼらしい板葺(いたぶき)の家で、垣(かき)の内には柳が一本長々と枝(えだ)を垂(た)れて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日(のうじつ)の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿(うまごやし)の花が其処此処に叢(むら)をなして咲いて居た。


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      釧路

       (一)

 旭川に二夜(ふたよ)寝て、九月二十三日の朝釧路(くしろ)へ向う。釧路の方へは全くの生路である。
 昨日石狩岳(いしかりだけ)に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川(かみかわ)原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処(そこ)此処(ここ)に焼(や)け残りの黒い木の株(かぶ)が立って居るのを見ると、開(ひら)け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀(かなしみ)が身にしみる様だ。下富良野(しもふらの)で青い十勝岳(とかちだけ)を仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路(やまじ)に入って、空知川(そらちがわ)の上流を水に添(そ)うて溯(さかのぼ)る。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹(ばんじゅ)霜(しも)を閲(けみ)し、狐色になった樹々(きぎ)の間に、イタヤ楓(かえで)は火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄の焔(ほのお)を上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝(かりかつ)駅に来た。石狩(いしかり)十勝(とかち)の境(さかい)である。余は窓から首を出して左の立札(たてふだ)を見た。
狩勝停車場
 海抜一千七百五十六呎(フィート)、一二
狩勝トンネル
 延長参千九呎(フィート)六吋(インチ)
釧路百十九哩(まいる)八分(ぶ)
旭川七十二哩三分
札幌百五十八哩六分
函館三百三十七哩五分
室蘭二百二十哩
 三千呎(フィート)の隧道(とんねる)を、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松の翠(みどり)に秀(ひい)であるいは白く立枯(たちか)るゝ峰を過ぎて、障るものなき辺(あたり)へ来ると、軸物の大俯瞰図のする/\と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯(しもがれ)の萱山(かややま)から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地と空(そら)と融(と)け合う辺(あたり)にとまった。其処(そこ)に北太平洋が潜(ひそ)んで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花(おばな)の白く光る山腹を、波状を描(か)いて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上(きょうじょう)に蟠(わだかま)る連嶺(れんれい)が青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山(こうざん)が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。
 当分は□(かしわ)の林が迎えて送る。追々大豆畑が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広(おびひろ)は十勝の頭脳(ずのう)、河西(かさい)支庁(しちょう)の処在地(しょざいち)、大きな野の中の町である。利別(としべつ)から芸者(げいしゃ)雛妓(おしゃく)が八人乗った。今日網走線(あばしりせん)の鉄道が※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、下巻-175-15]まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点(ぶんぎてん)、球燈、国旗、満頭飾(まんとうしょく)をした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々(おうおう)たる十勝川の流れに暫(しばら)くは添うて東へ走った。時間が晩(おく)れて、浦幌(うらほろ)で太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室(しゃしつ)の電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路断続(だんぞく)海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月(けつげつ)を横目に見ながら、夕汐(ゆうしお)白く漫々(まんまん)たる釧路川に架した長い長い幣舞橋(ぬさまいばし)を渡り、輪島屋(わじまや)と云う宿に往った。

       (二)

 あくる日飯(めし)を食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸に跨(またが)って居る。停車場所在の側(かわ)は平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高い丘(おか)をなして自(おのず)から海風(かいふう)をよけ、幾多の人家は水の畔(はた)から上段かけて其蔭(かげ)に群(むら)がり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋に挾(はさ)まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面(とうめん)には海と平行して長く延(ひ)いた丘(おか)の上、水色に冴えた秋の朝空に間(あわい)隔(へだ)てゝ二つ列(なら)んだ雄阿寒(おあかん)、雌阿寒(めあかん)の秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋には蟻(あり)の様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日(きょう)人を尋(たず)ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は□々(そこそこ)にして宿に帰る。


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      茶路

 北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠(しらぬか)駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路(ちゃろ)に住むと云うM氏の在否(ざいひ)を調(しら)べて貰(もら)うと、先には居たが、今は居ない、行方(ゆくえ)は一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児(さいじ)を宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘(かさ)一柄(いっぺい)、身軽に出かける。時は最早(もう)午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈(かいちゅうでんとう)を入れ、案内者は夜食の握飯(にぎりめし)と提灯(ちょうちん)を提げて居る。
 海の音を背(うしろ)に、鉄道線路を踏切(ふみき)って、西へ槍(やり)の柄(え)の様に真直(まっすぐ)につけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地(でいたんち)で、反魂香(はんごんこう)の黄や沢桔梗(さわぎきょう)の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯(しもが)れかゝった草を彩どって居る。煙草(たばこ)の火でも落すと一月も二月もぷす/\燻(くすぶ)って居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処(そこ)此処(ここ)で人夫がレールや枕木(まくらぎ)を取りはずして居る。
「如何(どう)するのかね」
「何、安田(やすだ)の炭鉱(たんこう)へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰(かげ)になってます。エ、最早廃(よ)しちゃったんです」
 案内者は斯(こう)云って、仲に立った者が此レールを請負(うけお)って、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当な儲(もうけ)をした事を話す。枕木は重にドス楢(なら)で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢(なら)は堅硬(けんこう)にして容易に朽(く)ちず栗にも劣らぬそうである。
 案内者は水戸(みと)の者であった。五十そこらの気軽(きがる)そうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。
「随分(ずいぶん)色々な者が入り込んで居るだろうね」
「エ、其(そ)りゃ色々な手合(てあい)が来てまさァ」
「随分破落戸(ならずもの)も居るだろうね」
「エ、何、其様(そう)でもありませんが。――一人(ひとり)困った奴(やつ)が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時(いつ)ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅(くさか)りに往ってたのを、奴(やつ)が捉(つらま)えましてな。丁度其処に木を伐(き)りに来た男が見つけて、大騒(おおさわ)ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場(りょうば)を稼(かせ)いで居るってことです」
 山が三方から近く寄って来た。唯有(とあ)る人家(じんか)に立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹(はねつるべ)の釣瓶(つるべ)はバケツで、井戸側(いどがわ)は径(わたり)三尺もある桂(かつら)の丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際(みずぎわ)までぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶(すいしょう)である。まだ此辺までは耕地(こうち)は無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類(こんさいるい)は出来るが、地上に育(そだ)つものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。
 鹿の角を沢山背負(せお)うて来る男に会うた。茶路川(ちゃろかわ)の水涸(か)れた川床が左に見えて来た。
 二里も来たかと思う頃、路は殆(ほと)んど直角に右に折れて居る。最早(もう)茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。
 大きな炉(ろ)をきって、自在(じざい)に大薬罐の湯がたぎって居る。煤(すす)けた屋根裏からつりさげた藁苞(わらつと)に、焼いた小魚(こざかな)の串(くし)がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛(かか)って居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗(ちゃわん)、皿(さら)、小鉢(こばち)の類(るい)が多くのせてある。
 額の少し禿げた天神髯(てんじんひげ)の五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。
「茶路は誰を御訪(おたず)ねなさるンですかね」
 余はMの名を云った。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町(にしぬさまいまち)です。葬儀屋(そうぎや)をやってます。エ、エ、俺(わたし)とは極(ごく)懇意(こんい)で、つい先月も遊びに往って来ました」
と云って、主は戸棚(とだな)から一括(いっかつ)した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒(いっしょ)ですかね?」
 実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道(とどう)したきり、音信不通(いんしんふつう)だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲(まんしゅう)に居るとか云うことでしたっけ」
 案外早く埒(らち)が明(あ)いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠(しらぬか)へ引かえした。
「分かってようございました。エ、彼(あの)人(ひと)ですか、たしか淡路(あわじ)の人だと云います。飯屋(めしや)をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。
 白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭(かげ)に妻児(さいじ)が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。


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      北海道の京都

 釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻-181-2]に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。
 往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相(ひそう)を瞥見(べっけん)した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教(やそきょう)信者が八万の都府(とふ)に八百からあると云う。唯(ただ)一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部(みやべ)博士の説明で二三植物標本を見た。樺太(かばふと)の日露国境の辺で採収(さいしゅう)して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草(とうちゅうかそう)、木の髄(ずい)を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣(ふゆう)の生活等につき面白い話を聞いた。楡(にれ)の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好(よ)い都府である。
 余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨(こさめ)に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。


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      津軽

 青森に一夜明(あか)して、十月六日の朝弘前(ひろさき)に往った。
 津軽(つがる)は今林檎(りんご)王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被(き)て目かご背負うた津軽女(つがるめ)も、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎喰(く)い/\歩いて居る。代官町(だいかんまち)の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深(おくぶか)い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑(おがくず)と、荷造りする男女で一ぱいであった。
 古い士族町、新しい商業町、場末(ばすえ)のボロ町を通って、岩木川(いわきがわ)を渡り、城北三里板柳(いたやぎ)村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞(めぐ)って秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続榲□(まるめろ)の黄(き)な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並(やなみ)の揃(そろ)うて豊らしい板柳村に入った。
 板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜厄介(やっかい)になった。文展(ぶんてん)で評判の好かった不折(ふせつ)の「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚(あんぎゃ)して此処にも滞留(たいりゅう)した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑(よりくず)の林檎の可惜(あたら)転(ころ)がるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
林檎朱(あけ)に榲□(まるめろ)黄なる秋の日を
    岩木山下(いわきさんか)に君とかたらふ
 あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑(かっちゅう)の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐(おおわに)まで送って来て、こゝに袂(たもと)を分(わか)った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経(へ)て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。


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     紅葉狩

      紅葉

 嫁(とつ)いで京都に往って居る季(すえ)の女(むすめ)の家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部(なんぶ)から出て来た寄生木(やどりぎ)のお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢(どうぜい)六人京都に往った。松蕈(まつだけ)に晩(おそ)く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。
 京都に着いて三日目に、高尾(たかお)槇尾(まきのお)栂尾(とがのお)から嵐山(あらしやま)の秋色を愛ずべく、一同車を連(つら)ねて上京の姉の家を出た。堀川(ほりかわ)西陣(にしじん)をぬけて、坦々(たんたん)たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人(とうじん)の冠(かむり)を見る様に一寸青黒い頭(あたま)の上の頭をかぶった愛宕山(あたごやま)が、此辺一帯の帝王貌(がお)して見下ろして居る。御室(おむろ)でしばらく車を下りる。株立ちの矮(ひく)い桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門(さんもん)の黄が勝った丹塗(にぬり)と、八分の紅を染めた楓(もみじ)とが、何とも云えぬ趣(おもむき)をなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好(けんこう)が書いた遊びずきの法師達が、児(ちご)を連れて落葉に埋(うず)めて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻(みま)わしたが、人の影はなくて、唯小鳥の囀(さえず)る声ばかりした。
 車は走せて梅が畑へ来た。柴車(しばぐるま)を挽(ひ)いて来るおばさんも、苅田(かりた)をかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装(みなり)をして、手甲(てっこう)かけて、足袋はいて、髪は奇麗(きれい)に撫(な)でつけて居る。労働が余所目(よそめ)に美しく見られる。日あたり風あたりが暴(あら)く、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞(ま)い込(こ)む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯(こ)う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩(どっぽ)嵐山から高尾に来た時、時雨(しぐれ)に降られて、梅が畑の唯有(とあ)る百姓家に□(か)け込んで簑(みの)を借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、婆(ばあ)さんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織(はおり)を裏返えしに着て、其上に簑を被(はお)り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪(ひょうたん)など肩にして芸子と番傘の相合傘(あいあいがさ)で帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平猪打(ししうち)の段か」などゝ囃(はや)した。
 いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫(くるまや)に母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内(じんごじない)の見晴らしに上った。紅葉(もみじ)はまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一に上(あが)って、姉が心尽しの弁当を楽(たの)しく開いた。余等はまた土皿投(かわらけな)げを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返(ちゅうがえ)りして手もとに舞い込む様に此方(こなた)の崖に落ち、中々谷底(たにそこ)へは届(とど)かぬ。色々の色に焦(こが)れて居る山と山との間の深い谷底を清滝川(きよたきがわ)が流れて居る。川下が堰(せ)きとめられて緑礬色(りょくばんいろ)の水が湛え、褐色(かっしょく)の落葉が点々として浮いて居る。
「水を堰(せ)いて如何(どう)するのかな」
「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。
 余は舌鼓(したつづみ)をうった。
 余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡(さかのぼ)り、槇の尾を経て、栂の尾に往った。
 栂(とが)の尾は高尾に比して瀟洒(しょうしゃ)として居る。高尾から唯少し上流に遡(さかのぼ)るのであるが、此処の楓(もみじ)は高尾よりも染(そ)めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青(ろくしょう)で画(か)いた様な杉の幾本(いくもと)に映(うつ)って楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑(ひしょ)して居たので、余は同窓(どうそう)の友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵(かわぶち)に泳(およ)ぎ、三度□□南瓜(とうなす)で飯を食わされた。村から水瓜(すいか)を買うて来て、川に浸(ひた)して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾(ひろ)った。清滝川は余にとりて思出(おもいで)多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流愛宕(あたご)の麓(ふもと)清滝の里に、余は脚気(かっけ)を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
 栂の尾から余等は広沢(ひろさわ)の池を経(へ)て嵐山に往った。広沢の池の水が乾(ほ)されて、鮒(ふな)や、鰌(どじょう)が泥の中にばた/\して居た。
 嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川(かつらがわ)とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸(こなた)には風流に屋根は萩(はぎ)で葺(ふ)いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景(さっぷうけい)なものになり果てた。最早三船の才人(さいじん)もなければ、小督(こごう)や祇王(ぎおう)祇女仏御前(ほとけごぜん)もなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村(ぶそん)の時代は詩趣満々(ししゅまんまん)であった太秦(うずまさ)を通って帰る車の上に、余は満腔(まんこう)の不平を吐(は)く所なきに悶々(もんもん)した。
 斯く云う自分も其仲間だが、何故(なぜ)我日本国民は斯く一途(いちず)になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平(さくへい)して、不忍(しのばず)の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方(かみがた)に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴(どう)をくりぬいて琵琶湖の水を引張(ひっぱ)って見たり、鴨東(おうとう)一帯を煙と響(おと)と臭(におい)に汚(けが)してしまったり、狭(せま)い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込(もちこ)んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻(ま)わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的偏狂人(へんきょうじん)の所為(しょい)を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎(か)。
 京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処(そこ)に煙突の一本も能う可くば設(もう)けたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史の跡(あと)を一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥(こうりょう)たる趣味の燃え屑(くず)を残すに過ぎないのではあるまい乎。
 日本国は譬(たと)えば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様(こん)な馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味の邦(くに)となり果つるを好まぬ。余は京畿(けいき)を愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。


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     義仲寺

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