みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

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 午後散歩、田圃(たんぼ)では皆欣々喜々として晩稲(おくて)を苅って居る。
 甲斐(かい)の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋(ふなばし)の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪(ごむわ)の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡(そうがんきょう)を翳(かざ)した。前なる透(す)かし幌(ほろ)の内は、丸髷に結って真白(まっしろ)に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母(うば)らしいのが友禅(ゆうぜん)の美しい着物に包まれた女の児を抱(だ)いて居る。玩具など幌の扇骨(ほね)に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣(みやもう)でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪(ごむわ)が威勢の好い白法被(しろはっぴ)の車夫に挽(ひ)かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨(がいこつ)が来るのかと思うた。其は一人の婆(ばば)であった。両の眼の下瞼(したまぶた)が悉(ことごと)く朱(あけ)に反(そ)りかえって、椎(しい)の実程の小さな鼻が右へ歪(ゆが)みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸(くび)にかけて、草履(ぞうり)の様になった下駄(げた)を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆(ばあ)さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱(あか)く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍(わき)を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
 余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻(まぼろし)の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
(大正元年 十一月十五日)

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     入営

 辰(たつ)爺(じい)さん宅(とこ)の岩公(いわこう)が麻布聯隊に入営する。
 寸志の一包と、吾れながら見事(みごと)に出来た聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)を三本提(さ)げて、挨拶に行く。禾場(うちば)には祝入営の旗が五本も威勢(いせい)よく立って、広くもあらぬ家には人影(ひとかげ)と人声(ひとごえ)が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺(ちゃん)の辰さんがせっせと饂飩粉(うどんこ)を捏(こ)ねて居る。是非(ぜひ)上(あが)れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
 午後万歳の声を聞いて、遽(あわ)てゝ八幡(はちまん)に往って見る。最早(もう)楽隊(がくたい)を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶(ちゃ)の中折帽(なかおれぼう)と云う装(なり)で、神酒(みき)の所為(せい)もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺(ちゃん)は体格(なり)は小さい人の好い爺(じい)さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
 余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先(まっさ)きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛(ぎんてき)、太鼓(たいこ)、手風琴(てふうきん)なぞピー/\ドン/\賑(にぎ)やかに囃(はや)し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間(なかま)である。次ぎに送入営の幟(のぼり)が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中(よいよなか)小使銭(こづかい)貸せの破落戸漢(ならずもの)に踏み込まれたり、苦労に齢(とし)よりも老(ふ)けた岩公の阿母(おふくろ)が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服(すいへいふく)の丈高(たけたか)い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日母者(ははじゃ)の葬式(そうしき)をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路(こみち)から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲(きょく)が次第に東へ進んで行く。
 今日は何処(どこ)も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に□(あが)って居た。
(明治四十四年 十一月三十日)
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 辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家(うち)は組内だから昨日も何角(なにか)の手伝(てつだい)に行かねばならなかったのであった。
 爺さんは泣声(なきごえ)して、
「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様(てんしさま)も国(くに)を広くなさるだから」と云う。
 誰が教えたのかしら。
(同 十二月一日)

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     生死

 霜無く、風無く、雲無く、静かな寂(しず)かな小春の日。
 昨夜、台所の竈台(へっついだい)の下の空籠(からかご)の中で、犬のピンがうめいたり叫(さけ)んだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色(ちゃいろ)が二疋、黒(くろ)が二疋、あの小さな母胎(ぼたい)からよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫(こねこ)の様な啼声(なきごえ)を出して、勢(いきおい)猛(もう)に母の乳にむしゃぶりつく。
 子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過(ひるす)ぎまで気付(きづ)かなかった。「おや、ミイは?」と細君(さいくん)が不安な顔をして見廻(みま)わした時は、午後の一時近かった。総(そう)がかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。舌(した)が痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所を遍(あま)ねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出(とおで)をする猫ではなし、何時(いつ)居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、葱(ねぎ)とりに往く時私に跟(つ)いて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何(どう)なったのだろう? 烏山の天狗犬(てんぐいぬ)に噛(か)まれたのかも知れぬ。三毛(みけ)は美しい小猫だったから、或は人に抱(だ)いて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽(ひょうきん)な、怜悧(りこう)な小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好(なかよ)くして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。
 夕食の席で、民やが斯様(こん)な話をした。今日(きょう)午後猫を捜(さが)して居ると、八幡下で鴫田(しぎた)の婆さんと辰さん家(とこ)の婆さんと話して居た。先刻田圃(たんぼ)向うの雑木山の中で、印半纏(しるしばんてん)を着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装(なり)をした二十(はたち)前後の女が居た。男はせっせと手で土を掘(ほ)って居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯(じねんじょ)でも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処(そこ)に居た。其前八幡山(はちまんやま)の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分闇(やみ)から闇にと堕(お)りた胎児(たいじ)を埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家(うち)の山に其様(そん)な事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞ杖(つえ)のさきでせゝって居たそうだ。
 其若い男女が、ひょっとしたらまた其処(そこ)へ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。
 箸(はし)を措(お)くと、外套(がいとう)引かけて出た。体(からだ)も魂(たましい)も倔強(くっきょう)な民が、私お供(とも)致しましょう、と提灯(ちょうちん)ともして先きに立つ。
 八幡下の田圃を突切(つっき)って、雑木林の西側を這(は)う径(こみち)に入った。立どまって良(やや)久(ひさ)しく耳を澄(す)ました。人らしいものゝ気(け)もない。
「何処(どこ)に居るかね、不了簡(ふりょうけん)をしちゃいかんぞ。俺(わし)に相談をして呉れんか」
 声をかけて置いて、熟(じっ)と聞き耳を立てたが、吾声(わがこえ)の攪乱(かきみだ)した雑木山の静寂(せいじゃく)はもとに復(か)えって、落葉(おちば)一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気(やき)は池の水の様に凝(こ)って、上半部を蝕(く)い欠(か)いた様な片破(かたわ)れ月が、裸(はだか)になった雑木の梢(こずえ)に蒼白く光って居る。
 立とまっては耳を傾(かたむ)け、答(こたえ)なき声を空林(くうりん)にかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側の径(こみち)を取って返した。提灯は径を歩かして、余は月の光(あかり)を便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆落葉(おちば)して、林の中は月明(つきあかり)でほの白い。櫟(くぬぎ)から楢(なら)と眼をつけ、がさ/\と吾が踏(ふ)み分くる足下(あしもと)の落葉にも気をつけ、木を掘ったあとの窪(くぼみ)を注視し、時々立止って耳を澄ました。
 居(い)ない。終に何者も居ない。土の下も黙(だま)って居る。
(明治四十二年 十二月二日)

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     天理教の祭

 おかず媼(ばあ)さんが、天理教会秋祭(あきまつり)の案内に来た。
 紙の上の天理教(てんりきょう)は見て居るが、教会を覗(のぞ)いた事は未(ま)だ無い。好い機(おり)だ。往って見る。
 下足札(げそくふだ)を出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾(みす)を捲いて、鏡が飾ってある。太鼓(たいこ)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、琴(こと)、琵琶(びわ)なんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手を膝(ひざ)に組んだ白衣(びゃくい)の男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかず媼(ばあ)さんも見えた。米俵が十数俵(ひょう)も神前に積(つ)まれて、奉納者(ほうのうしゃ)の名を書いた奉書紙(ほうしょがみ)が下げてある。
 やがて鳴物(なりもの)が鳴り出した。
 太鼓の白衣氏が撥(ばち)を握(にぎ)って単調な拍子(ひょうし)をとりつゝ
「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」
と唱(とな)え出した。琴が鳴る。篳篥(ひちりき)が叫ぶ。琵琶が和(わ)する。
 黒紋付木綿の綿入に袴(はかま)を穿(は)いた倔強(くっきょう)な若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、裏(うら)むき表(おもて)むき、立ったり蹲(しゃが)んだり、黒紋付の袖からぬっと出た逞(たく)ましい両の手を合掌(がっしょう)したりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨(ぶこつ)で中々愛嬌(あいきょう)がある。「畚(もっこ)かついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚を担(にな)って踊った。
 鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりを眺(なが)める。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆嬉々(きき)として眺めて聴いて居る。

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 天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨(ろうこつ)地に入ってこゝに数十年、其流れを汲(く)む人の数は実に夥(おびただ)しい数を以て数えられる。仮令(たとい)大和の本教会(ほんきょうかい)は立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病に罹(かか)ったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令(たとい)其信仰の為に財産をなくして人の物笑(ものわらい)となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有(も)つ者でない。信ずる彼等は確(たしか)に其信仰に生きて居るのである。
 信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多(ざった)な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾(いかん)なく実現したら、世界は夙(とう)に無事に苦んで居る筈(はず)だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧(ささ)げてしまって、嬉々(きき)として労役者(ろうえきしゃ)の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗(す)って、其報償(むくい)を手あたり次第に徴集(ちょうしゅう)し、助けなき婆さんを窘(いじ)めて店賃(たなちん)をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊(い)ゆれば平気で暴利を貪(むさぼ)って居る者もある。信徒の労力を吸って肥(こ)えて居る教師もある。然し斯(この)せち鹹(から)い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処(ずいしょ)にある。此春妻が三軒茶屋(さんげんぢゃや)から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提(さ)げて歩(ある)いて居ると、畑に働(はたら)いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
 人が平気に踏(ふ)みしだく道辺(みちべ)の無名草(ななしぐさ)の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村山郭(さんかく)の此処其処に人知れず生れて居るのである。

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 斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌(おかぐらうた)一巻を唱(とな)え囃(はや)し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据(す)えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取(ぞうりとり)となって草履を懐(ふところ)に入れて温(あたた)めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰(おりづめ)一個をもらい、正宗(まさむね)一合瓶(ごうびん)は辞して、参拾銭寄進(きしん)して帰った。
 耶蘇教は我(が)強(つよ)く、仏教は陰気(いんき)くさく、神道に湿(しめ)りが無い。彼(かの)大なる母教祖(ははきょうそ)の胎内(たいない)から生れ出た、陽気で簡明切実(せつじつ)な平和の天理教が、土(つち)の人なる農家に多くの信徒を有(も)つは尤である。
(明治四十二年 十二月四日)

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     渦巻

 小春日がつゞく。
 十二月は余の大好(だいす)きな月である。絢爛(けんらん)の秋が過ぎて、落つるものは落ち尽(つく)し、枯(か)るゝものは枯れ尽し、見るもの皆乾々(かんかん)浄々(じょうじょう)として、寂(さび)しいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬ味(あじ)がある。秋に別れて冬になろうと云う此隙(ひま)に、自然が一寸静座の妙境(みょうきょう)に入る其幽玄の趣(おもむき)は言葉に尽くせぬ。
 隣字(となりあざ)の仙左衛門が、根こぎの山豆柿(やままめがき)一本と自然薯(じねんじょ)を持て来てくれた。一を庭に、一を鶏(にわとり)の柵(さく)に植える。今年(ことし)は吾家(うち)の聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)が上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所(きんじょ)に鮭(さけ)が出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊(くびくく)りがあったと云うのである。
 橋本の敬さんが、実弟の世良田(せらだ)某(ぼう)を連れて来た。五歳(いつつ)の年四谷(よつや)に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルスに砂糖(さとう)大根(だいこん)八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。妻(つま)を持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。
 此村から外国(がいこく)出稼(でかせぎ)に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総(しもうさ)の高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。何(ど)の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向(いっこう)新しい竈(かまど)の殖(ふ)える様子もない。如何(どう)なるかと云えば、女は無論嫁(とつ)ぐが、息子(むすこ)の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店(みせ)を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦(おおうず)が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田(せらだ)君なんどは稀有(けう)の例である。
 東京に出て相応(そうおう)に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆(ぼん)に墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早(もう)無縁(むえん)になった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処(どこ)ぞへ往ってしまいたいと口癖(くちぐせ)の様に云う二番目息子の稲公(いねこう)を、阿母(おふくろ)が懸念(けねん)するのも無理は無い。
(明治四十四年 十二月五日)

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     透視

 非常の霜、地皮(ちひ)が全く霜(しも)やけして了うた。
 午(ご)の前後はまた無闇(むやみ)と暖(あたたか)だ。凩(こがらし)も黙(だま)り、時雨(しぐれ)も眠(ねむ)り、乾(かわ)いて反(そ)りかえった落葉(おちば)は、木の下に夢(ゆめ)みて居る。烏(からす)が啼(な)いたあとに、隣の鶏(にわとり)が鳴(な)き、雀(すずめ)が去ったあとの楓(かえで)の枝(えだ)に、鷦鷯(みそさざい)がとまる。静かにさす午後の日に白く光(ひか)って小虫(こむし)が飛ぶ。蜘糸(くものい)の断片が日光の道を見せて閃(ひら)めく。甲州の山は小春(こはる)の空(そら)にうっとりと霞(かす)んで居る。
 落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖か味(み)があって、温(あたた)かい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。
 日曜だが、来客もなくて静(しずか)なことだ。主と妻と女児と、日あたりの好(い)い母屋(おもや)の南縁(なんえん)で、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶(しらちゃ)天鵞絨(びろうど)の様に光る芝生(しばふ)では、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカ爺(おやじ)が、自分の頭程(あたまほど)もない先月生れの小犬の蚤(のみ)を噛(か)んでやったり、小犬が母の頸輪(くびわ)を啣(くわ)えて引張ったり、犬と猫と仲悪(なかわる)の譬(たとえ)にもするにデカと猫のトラと鼻(はな)突(つき)合わして互(たがい)に疑(うたが)いもせず、皆悠々と小春の恩光(おんこう)の下(もと)に遊んで居る。「小春」とか「和楽(わらく)」とかの画(え)になりそう。

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 細君が指輪(ゆびわ)をなくしたので、此頃勝手元の手伝(てつだ)いに来る隣字(となりあざ)のお鈴(すず)に頼み、吉(きち)さんに見てもらったら、母家(おもや)の乾(いぬい)の方角(ほうがく)高い処にのって居る、三日(みっか)稲荷様(いなりさま)を信心すると出て来る、と云うた。
 吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者(とくしんじゃ)、病気が信心で癒(なお)った以来千里眼を得たと人が云う。吉凶(きっきょう)其他分からぬ事があれば、界隈(かいわい)の者はよく吉さんに往って聞く。造作(ぞうさ)なく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんの言(ことば)で病気も癒(なお)り、なくなったものも見出す。此辺での長尾(ながお)郁子(いくこ)、御船(みふね)千鶴子(ちづこ)である。
 裏の物置に大きな青大将(あおだいしょう)が居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんの霊(れい)だと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中(てきちゅう)した例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人(れきしにん)があった処を吉さんが通ると、青い顔の男女(なんにょ)がふら/\跟(つ)いて来て仕方(しかた)がないそうだ。
 余の家にも他の若い者並(なみ)に仕事に来ることがある。五十そこらの、瘠(や)せて力があまりなさそうな無口な人である。
 我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもない筈(はず)だ。
 然しながら我等凡夫(ぼんぷ)は必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明(ゆうめい)、物心(ぶっしん)、死生(しせい)、神人(しんじん)の間を隔(へだ)つる神秘の一幕(いちまく)は、容易に掲(かか)げぬ所に生活の面白味(おもしろみ)も自由もあって、濫(みだ)りに之を掲ぐるの報(むくい)は速(すみ)やかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命を賭(と)しても此帷幕の隙見(すきみ)をす可く努力せずに居られぬ人を哂(わら)うは吾儕(われら)が鈍(どん)な高慢(こうまん)であろうが、同じ生類(しょうるい)の進むにも、鳥の道、魚の道、虫(むし)の道、また獣(けもの)の道もあることを忘れてはならぬ。
 吾儕(われら)は奇蹟を驚異し、透視(とうし)の人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

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 夜、鶴子(つるこ)が炬燵(こたつ)に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習(てならい)をしたあとで、雑記帳の表紙(ひょうし)に「トクトミツルコノデス」と書き、それから
コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス
と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢(とし)をかゝせた。
(明治四十四年 十二月十日)

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     雪

 暮の廿八日は、午食前(ひるめしまえ)から雨になり、降りながら夜に入った。
 夜の二時頃、枕辺(まくらべ)近く撞(どす)と云った物音(ものおと)に、余は岸破(がば)と刎(は)ね起きた。身繕(みづくろ)いしてやゝしばし寝床(ねどこ)に突立(つった)って居ると、忍び込んだと思った人の容子(ようす)は無くて、戸の外(そと)にサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。
「雪だ!」
 先刻(さっき)の物音は、樫(かし)の枝を滑り落ちた雪の響(おと)だったのだ。余は含笑(ほほえ)みつゝまた眠った。
 六時、起きて雨戸をあけると、白い光(ひかり)がぱっと眼を射(い)た。縁先(えんさき)まで真白だ。最早(もう)五寸から積って居るが、まだ盛(さかん)に降って居る。
 去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。
 余は奥書院(おくしょいん)の戸をあけた。西南を一目に見晴(みは)らす此処(ここ)の座敷は、今雪の田園(でんえん)を額縁(がくぶち)なしの画(え)にして見せて居る。庭の内に高低(こうてい)参差(しんし)とした十数本の松は、何れも忍(しの)び得る限(かぎ)り雪に撓(た)わんで、最早払(はら)おうか今払おうかと思い貌(がお)に枝を揺々(ゆらゆら)さして居る。素裸(すっぱだか)になってた落葉木(らくようぼく)は、従順(すなお)に雪の積るに任せて居る。枯萩(かれはぎ)の一叢(ひとむら)が、ぴったりと弓形(ゆみなり)に地に平伏(ひれふ)して居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向(うしろむ)きの石地蔵(いしじぞう)が、看護婦の冠る様な白い帽子を被(き)せられ、両肩(りょうかた)には白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。
 余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下(つくばさんか)の医師(いし)なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国(すいこく)の雪景色と、歳晩(さいばん)の雪の都会の浮世絵が幻(まぼろし)の如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々(だんだん)眩(まぶ)しくなって、時々吃驚(びっくり)する様な大きな響(おと)をさしてドサリ撞(どう)と雪が落ちる。机の傍(そば)では真鍮(しんちゅう)の薬鑵(やかん)がチン/\云って居る。
 午餐(ごさん)の案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺(あたり)は雪ならぬ光を含んで明るく、母屋(おもや)前(まえ)の芝生は樫の雫(しずく)で已に斑(まだら)に消えて居る。
「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」
 斯(か)く罵(ののし)りつゝ食卓(しょくたく)に就(つ)く。黒塗膳(くろぬりぜん)に白いものが三つ載(の)せてある。南天(なんてん)の紅(あか)い実(み)を眼球(めだま)にした兎(うさぎ)と、竜髭(りゅうのひげ)の碧(あお)い実(み)が眼球(めだま)の鶉(うずら)や、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨(ゆきだるま)とが、一盤(ひとばん)の上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。
「此(この)達磨(だるま)さん西洋人(せいようじん)よ、だって眼が碧(あお)いンですもの」と鶴子が曰(い)う。
 雪で、今日は新聞が来(こ)ぬ。朝は乳屋(ちちや)、午後は七十近い郵便(ゆうびん)配達(はいたつ)の爺(じい)さんが来たばかり。明日(あす)の餅搗(もちつ)きを頼んだので、隣の主人(あるじ)が糯米(もちごめ)を取りに来た。其ついでに、蒸(ふ)かし立ての甘藷(さつまいも)を二本鶴子に呉(く)れた。
 余は奥座敷で朝来(ちょうらい)の仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢(ひばち)の炭(すみ)をつぐ。障子がやゝ翳(かげ)って、丁度(ちょうど)好い程の明(あかり)になった。颯(さあ)と云う音がする。轟(ごう)と云う響(ひびき)がする。風が出たらしい。四時やゝ廻(まわ)ると、妻が茶(ちゃ)を点(い)れ、鶴子が焼栗(やきぐり)を持て入って来た。
「雪水(ゆきみず)を沸(わ)かしたのですよ」
と妻が曰(い)う。ペンを擱(さしお)いて、取あえず一碗(わん)を傾(かたむ)ける。銀瓶(ぎんびん)と云う処だが、やはり例(れい)の鉄瓶(てつびん)だ。其れでも何となく茶味(ちゃみ)が軟(やわら)かい。手々(てんで)に焼栗を剥(む)きつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃(たんぼ)向(むこ)うの杉の森を掠(かす)めて、白い風が弗(ふっ)、弗(ふっ)と幾陣(いくしきり)か斜(はす)に吹き通る。庭の内では、蛾(が)の如く花の様な大小の雪片(せっぺん)が、飛(と)んだり、刎(は)ねたり、狂(くる)うたり、筋斗翻(とんぼがえり)をしたり、ダンスをする様にくるりと廻(まわ)ったり、面白そうにふざけ散らして、身軽(みがる)に気軽(きがる)に舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌(あるじがお)した赤松の枝から、時々サッと雪の滝(たき)が落ちる。
「今夜も降りますよ」
 斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。
 余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早(もう)書く文字がおぼろになった。余はペンを拭(ふ)いて、立って障子をあけた。
 蒼白(あおじろ)い雪の黄昏(たそがれ)である。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々(ひひ)また霏々と限りもなく降って居る。良(やや)久(ひさ)しく眺める。不図縁先(えんさき)を黒い物が通ると思うたら、其(それ)は先月来余の家に入込んで居る風来犬(ふうらいいぬ)であった。まだ小供□□した耳の大きな牝犬(めいぬ)で、何処から如何(どう)して来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄(しゆう)二疋(ひき)の犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂(い)って、荻窪(おぎくぼ)から汽車で吉祥寺(きちじょうじ)に送って、林の中に繋(つな)いで置いたら、頸(くび)に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞(ま)い戻(もど)った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖(くさり)を引きずりながら帰って来た。詮方(せんかた)なくて今は其まゝにしてある。余が口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたら、彼女(かのじょ)はふっと見上げたが、やがて尾を垂(た)れて、小さな足跡(あしあと)を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
 雪はまだしきりに降って居る。
 余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮(うか)べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形(かたち)で世界の各所(かくしょ)に現(あら)わるゝ、人心(じんしん)の昂奮(こうふん)、人間の動揺が、眼(め)まぐろしくあらためて余の心の眼に映(うつ)った。
 何処(どこ)に落着く世の中であろう?
 余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
 大正元年暮の二十九日は蒼白(あおじろ)う暮れて行く。
おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
    世は一色(ひといろ)の雪の夕暮
(大正元年 十二月二十九日)

[#改丁]



   読者に


       (一)

読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙(つつが)なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
 まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
 大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷(ひい)やりとした歩(あゆ)みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。□(のが)れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月(みつき)を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿(けいき)とぶらついた旅行は、近づく運命を躱(かわ)そうとてののたうち廻りでした。然し盃(さかずき)は否応(いやおう)なしに飲まされます。私は阿容□□(おめおめ)とまた粕谷の旧巣(ふるす)に帰って来ました。
 大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
 其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍(あらそ)えません。早速妻が瀕死の大病に罹(かか)り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
 世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩(おうのう)は気も狂うばかりです。傍(かたわら)に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
 すべてには限(きり)があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪(も)が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉(わた)って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
 世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が□ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後(あと)で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡(シンガポオル)まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚(なお)西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
母なしとなどかは嘆くわれを生みし
    国土(こくど)日本(にっぽん)とこしへの母
 日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。
 帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。
 中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱(いしょく)を果したのであります。
 それから九月一日の大震にもお蔭で恙(つつが)なく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿(は)いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

           *

 世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。
世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。
諸君が手を拍(たた)いて喝采(かっさい)しました。
 お世辞ではありません。全然(まったく)です。
 私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒(いっしょ)になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。私は自分の幼稚な吾儘(わがまま)と頑固な気まぐれから、思うようにならぬと謂(い)うては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己を脱(ぬ)けたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何(どう)する? だらしなく無為に朽(く)ちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的には謙(へりくだ)ってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己を核(かく)にして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本(なんぞそのもとにかえらざる)」で、畢竟(ひっきょう)其本に、自己に、わが衷(うち)に在(いま)す神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に
西、東、北の果までたづねても
    みなみ(南、――皆身(みなみ))にかへる地獄極楽
というのがありますが、正(まさ)にそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周(ひとめぐり)して来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。
 十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。
「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」
「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心(かいしん)のさざめきを以て酬(むく)うてくれました。
 いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。
 泊(とまり)がきまると、行手(ゆくて)を急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩の楽(たのしみ)です。父は九十三、母は九十一、何卒(どうか)私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様(てんとうさま)が中々殺さぬよ」。私も夥(おびただ)しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺(いんごうおやじ)が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗(むやみ)に重(かさ)ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気(しょげ)た時期もあります。わが借金は棚(たな)にあげ、他(ひと)の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮(しょせん)払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸(わるどきょう)を据(す)えた時もあります。然しもう潔(いさぎよ)く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総(そう)じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面(じゅうめん)つくって、さっさと返えしては曲(きょく)が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目(まじめ)に計算しましょう。笑顔(えがお)で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

       (二)

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯(おおまた)に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷(ひ)やかしに往って帰る位何の造作(ぞうさ)もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉(うれ)しいような、また恐(こわ)いような気がします。隣字(となりあざ)の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴(ヴァイオリン)の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧(きぬた)村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼(か)わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々(もうもう)程農村を長閑(のどか)にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮(うしお)の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
 台湾を取り、樺太の半を収(おさ)め、朝鮮を併(あわ)せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型(ひながた)ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創(はじ)めた私共の住居(すまい)も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺(かやぶき)の四棟(よむね)もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋(おもや)の南面に風よけの杉籬(すぎかき)を結(ゆ)いました。西の端に唯一本木鋏(きばさみ)を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹(みき)の太(ふと)さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世(かくせい)の感があります。私共の村住居(むらずまい)の年標(ねんひょう)として、私は毎々(まいまい)お客に此杉の木を指(ゆびさ)します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗(うかが)われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名(がめい)が欲(ほ)しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園(こうしゅんえん)と命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜(えんぎ)が好(よ)いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木と萱(かや)、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気(ひとけ)がないので野兎(のうさぎ)が安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多(めった)に鍬(くわ)は取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園は零(ぜろ)です。毎年堆肥(たいひ)温床用(おんしょうよう)の落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟(ひとむね)なぞは、萱沢山(かやたくさん)の厚さ二尺程にも屋根を葺(ふ)いて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体(からだ)でも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補を促(うなが)します。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前から碌(ろく)に和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。古家ばかり買い込んで、小人数には広過ぎ、手長足長、血のめぐりの悪い此住居を取毀(とりこわ)し、しっくりとした洋式住宅を建てよう心算は夙(とく)に出来て居ますが、実現がまだ出来ません。畳の上に椅子テエブル、障子を硝子にしたり、井を米国式軽快なポンプにしたり、書斎に独逸暖炉を据えたり、室内電話を使ったり、心ばかりの進出をして居ます。先頃の地震でいっそ一思いに潰(つぶ)れるか、焼けるかしたら、借金してもバラック位新築せねばならなかったでしょうが、無理さすまいとてか、地震は御愛想に私共の壁を崩し戸障子の建てつきを悪くしただけで往ってしまったので、当分現状維持です。然し新造が見えすいて居る住居に、大工左官を入れるも馬鹿らしいので、地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩れに板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いで居ます。書斎も母屋(おもや)も壁の亀裂(ひわれ)もまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックを偲(しの)んで居ます。

       (三)

 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道筋(すじ)には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転(ころ)んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途(かえり)に立寄って、廊下の壁の大破(たいは)を片づけたり、地蔵様を抱(だ)き起したりしてくれました。後(あと)は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株(かぶ)立ちの山楓(やまもみじ)の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の□(かしわ)の木に提灯(ちょうちん)つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者(りさいしゃ)です。九月一日、二日、三日と三宵に渉(わた)り、庭の大椎(おおしい)を黒(くろ)く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦(こが)す猛火の焔(ほのお)は私共の心魂(しんこん)を悸(おのの)かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷(いた)めます。関心する人人の安否を確(たしか)むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃(ふ)を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然(そう)です。世界戦に日本は手(た)ずさわるとは云う条(じょう)、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱(くげん)を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処(どこ)の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝(つ)かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭(むち)は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲(こ)らしめざる子あらんや」と云う筆法(ひっぽう)から云えば、災禍(さいか)の受け様(よう)にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥(おびただ)しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇(まっくら)に逆上(ぎゃくじょう)します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞(はず)かしい事です。
 斯様(こん)な中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍(とうもろこし)、茄子(なす)、夏大根、馬鈴薯(じゃがいも)などを牛車十一台に満載(まんさい)して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装(なり)をして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷から練(ね)り出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截(き)り、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々に頒(わか)ち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。
 中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼(よじん)の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働の果(み)ではありません。金にして弐拾円です。
 東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分繃帯(ほうたい)した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根(こん)竭(つ)きて首を縊(くく)ったり、倒れて死んだ者もあります。寿永(じゅえい)の昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路を偲(しの)ぶ光景です。村の何(ど)の家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸(やしき)の旦那は、平生権高(けんだか)で、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、と拝(おが)むように頼んだものです。ある避難の家族は、麦(むぎ)がまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女(やといめ)が水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様(こんな)にうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然の懐(ふところ)のうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都の頭(ず)を自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。
 それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて暮らす村落住者の相違は、斯様な時に顕(あら)われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の家族は、夫妻に、朝鮮から遊びに来て居た二十歳(はたち)になる妻の姪(めい)、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋でした。丁度収穫を終えたばかりの馬鈴薯と畑に甘藷があるので、差迫っての餓死は兎に角、粒食(りゅうしょく)は直ぐ危くなりました。私共夫妻は朝夕パンで、米飯は午食だけです。パンが切れる。ふかしパンをつくる。メリケン粉は二升以上売ってはくれず、それも直ぐ尽きました。砂糖も同様です。ついでに蝋燭も同断です。朝は粥にして、玉蜀黍(とうもろこし)で補(おぎな)い、米を食い尽し、少々の糯米(もちごめ)をふかし、真黒い饂飩粉(うどんこ)や素麺(そうめん)や、畑の野菜や食えるものは片端(かたっぱし)から食うて、粒食の終はもう眼の前に来ました。いよ/\馬鈴薯、甘藷に落ちつく外ありません。其処に前顕(ぜんけん)のS女が見舞に来ました。彼女は本文「次郎桜」の主人公には季(すえ)の妹で、私共の外遊帰来三年間恒春園に薪水の労を助けた娘です。其長姉Y女も、私共の外遊前二年足らず私共の為に働いてくれたのでした。S女に相談すると、翌日の夕、彼女の長兄のI君が一担(いったん)の食糧を運んでくれました。I君は「次郎桜」の兄者(あにじゃ)で、十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に「角田(つのだ)勘五郎(かんごろう)の息子(むすこ)」とあるのがそれです。其頃は十六七のにこにこした可愛い息子でした。それが適齢になって兵役に出で、満洲守備に行き、帰って結婚してもう四人の子女の父、郷党(きょうとう)のちゃきちゃきです。I君が担(にな)うて来てくれたは、白米一斗、それは自家の飯米(はんまい)を分けてくれたのでした。それから水瓜、甘藍(キャベツ)、球葱(たまねぎ)、球葱は此辺ではよく出来ませんが、青物市場であまり廉(やす)かったからI君が買って来たその裾分(すそわ)けという事でした。玄米でも饂飩粉でもよかった、「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然(こうぜん)と応(こた)えました。これは確に一本参りました。全くです。働くから自ら養い他を養う事が出来るのです。私共は唯二つ残って居た懐中汁粉(かいちゅうじるこ)をI君に馳走して、色々話しました。千歳村移転当時の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる、だから私は都を出でて田舎に移る」と申した事を私に想い出さしてくれました。兎に角私共はよくぞ其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、此処(ここ)に斯く在(あ)る事は、本当に感謝です。I君の贈物は肝腎(かんじん)な時に来て、大切なツナギになりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋の途(みち)も開けました。
 私は最初「みみずのたはこと」の広告に、斯様な告白をしました。
『著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心窃(ひそか)に都会と田舎の間に架する橋梁(きょうりょう)の其板の一枚たらん事を期す。』
 不徹底な言い分のようですが、それが私の実情でした。今とても同然です。私は土を愛し、田舎を愛し、土の人なる農を愛しますが、私の愛は都市にも海にもあらゆる人間と其営(いとな)みとを忘るゝ事は出来ません。私は慾張りです。私は一切を愛します。総(そう)じて血のめぐりの好い生体(せいたい)は健全です。病は偏(へん)です。不仁が病です。脳貧血のわるいは、脳充血のわるいに劣りません。私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷(いちる)となったと思えば、自ら慰むるところがあります。「みみずのたはこと」は自嘲気分を帯びた未熟な産物ですが、大正二年以来十年間に版を改むる百〇七、拾余万部を売り尽し、私共の耳目に触るゝ反響から見るも、農村を自愛させ、すべてに農村を愛さす上に幾分の効があったと知る事は、私共にとって大なる悦喜であります。
 私も以前は農村に住んで農になり切れず、周囲に同化しきれぬきまり悪さを「美的百姓」などと自から茶かして居ました。然し其懊悩(おうのう)はもう脱(ぬ)けました。私共は粕谷に腰を据えました。私共は農村に骨を埋(うず)めます。然し私共は所謂農ではありません、私共の鍬はペンです。土は米麦も、草木もそだてます。畑の真中にだって、坊主にされながら赤松が立って居たり、碌に実が生(な)らぬ柿の木さえ秋は美しく紅葉し、裸になっては平気に烏(からす)をとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生の樹です。随分長い間ぐらついて居ましたが、到頭根づきました。もうちっとやそっとの風雨が来ても、びくともする事ではありません。あたりの邪魔にならぬ限り伐(き)って薪(まき)にもされず成長をつづける事が出来ようと思います。

       (四)

 村の寄合などに稀(たま)に出て、私は諸君の頭の白くなったに毎々(まいまい)驚かされます。驚く私自身が諸君に驚かるゝ程齢(とし)をとりました。全く十七年は短い月日でありません。私共が引越当年生れた赤ン坊が、もう十七になるのです。赤ン坊が青春男女になり、青年が一人前になり、男女ざかりが初老になり、老人が順繰(じゅんぐ)り土の中に入るも自然の推移(うつり)です。「みみずのたはこと」が出てから十年間に、あの書に顔を出して居る人人も、大分(だいぶ)故人になりました。
 今年の六月には、村の牧師下曾根(しもぞね)信守(のぶもり)君を葬りました。六十九歳でした。下曾根さんは旧幕名家の出、伊豆韮山(にらやま)の江川太郎左衛門と相並んで高島秋帆門下の砲術の名人であった下曾根金之丞は父でした。砲術家の三男に生れた下曾根さんは、夙(つと)に耶蘇教信者となり、父とは違った意味の軍人―耶蘇教伝道師になりました。
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