みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

       下

 今日(きょう)余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田(きゅうでん)に買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。
 品川堀に沿うて北へ歩(あゆ)む。昨日連判状を持って来た仲間(なかま)の一人が、かみさんと甘藷(さつま)を掘って居る。
「此処(ここ)らも予定地(よていち)の内ですか」
「え、彼(あの)道路からずっとなんですよ。彼処(あすこ)に旗(はた)が立ってますだ」
 成程余が書窓(しょそう)から此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松の梢(こずえ)にヒラヒラして居る。東北の方にも見える。彼(あの)旗が敗北の白旗(しろはた)に変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。
 余は麦畑に踏込む犬を叱(しか)り、道草(みちくさ)摘(つ)む女児を促(うなが)し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍(みちばた)の尾花は霜枯れて、かさ/\鳴って居る。丁度(ちょうど)七年前の此月である。余は妻と此(この)世(よ)の住家(すみか)を探(さ)がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲(つか)れた足を曳(ひ)きずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花(かれおばな)、何処(どこ)やらに鳴く夕鴉(ゆうがらす)の声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯黙(だま)って歩いた。我儕(われら)の行衛は何処(どこ)に落ちつくのであろう? 余等は各自(てんで)に斯く案じた。余は一個の浮浪(ふろう)書生(しょせい)、筆一本あれば、住居は天幕(てんまく)でも済(す)む自由の身である。それでさえ塒(ねぐら)はなれた小鳥の悲哀(かなしみ)は、其時ヒシと身に浸(し)みた。土から生れて土を食(く)い土を耕(たがや)して終に土になる土の獣(けもの)の農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何(どう)であろう!
 品川堀が西へ曲る点(とこ)に来た。丸太を組んだ高櫓(たかやぐら)が畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓(たいこやぐら)を見るようだ。北表面(きたおもて)へ廻(まわ)ると、墨黒々と筆太(ふでぶと)に
霊場敷地展望台
と洋紙(ようし)に書いて張ったのが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻(はちまき)をした禿頭(はげ)の爺(じい)さんが堆肥(つくて)の桶(おけ)を担(かつ)いで、□(よめ)か娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔(むぎまき)をして居る。爺さんは桶を下(お)ろし、鉢巻をとって、目礼(もくれい)した。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部買収地(ばいしゅうち)の真中(まんなか)に取こめられ、仮令(たとい)収用法(しゅうようほう)の適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなれば袋(ふくろ)の鼠(ねずみ)の如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧(ゆうぐ)し、殆(ほとん)ど仕事も手につかず、昨日訪(た)ずねて来た時もオド/\した斯老人の容子は余の心(むね)を傷(いた)ましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨(へいげい)して立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢に魘(おそ)わるゝことであろう。爺さんの寿命を日々(にちにち)夜々(やや)に縮(ちぢ)めつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。茶(ちゃ)と桑(くわ)と二方を劃(しき)った畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄(しゅろなわ)素縄(すなわ)で丸太(まるた)をからげ組み立てた十数間の高櫓(たかやぐら)に人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟□(ちちゅう)したが、終(つい)に女児(じょじ)と犬を下に残して片手欄(てすり)を握りつゝ酒樽の薦(こも)を敷いた楷梯(はしご)を上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三重(じゅう)の楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。頂(いただき)は八分板を並べ、丈夫に床(ゆか)をかいてある。
 余は思わず嗟嘆(さたん)して見廻(みま)わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形(だいえんけい)をなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞(みどりじま)、甘藷(さつま)を掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青(ろくしょう)をなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑(はくさいばたけ)、白っぽい黄色の晩陸稲(おくおかぼ)、入乱れて八方に展開し、其周囲には霜(しも)に染(そ)みた雑木林、人家を包む樫(かし)木立(こだち)、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻(とりま)いて居る。北を見ると、最早(もう)鉄軌(れえる)を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方(こなた)のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人鶴嘴(つるはし)を振(ふ)り上げて居る。西を見れば、茶褐色に焦(こが)れた雑木山の向うに、濃い黛色(たいしょく)の低い山が横長く出没して居る。多摩川(たまがわ)の西岸を縁(ふち)どる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れの筋(すじ)は分明(ぶんみょう)に指さゝれる。少し西北には、青梅(あおめ)から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜(ひそ)んで見えない。唯藍色(あいいろ)の雲の間から、弱い弱い日脚(ひあし)が唯一筋斜(はす)に落ちて居る。
 やゝ久しく吾を忘れて眺(なが)め入った余は、今京王電鉄が建てた墓地敷地展望台の上に立って居ることに気がついた。余は更に目をあげてあたりを見廻わした。此望台を中心として、二十万坪六十余町歩の耕地宅地を包囲して、南に東に北に西に規則正しく間隔(かんかく)を置いて高く樹梢に翻って居る十数流の紅白旗は、戦わずして已に勝を宣する占領旗(せんりょうき)かと疑われ、中央に突立ってあたり見下(みお)ろす展望台は、蠢爾(しゅんじ)としてこゝに耕す人と其住家(すみか)とを呑(の)んでかゝって威嚇(いかく)して居る様で、余は此展望台に立つのが恥かしくなった。
 雪空の様に曇りつゝ日は早や暮(くる)るに間(ま)もなくなった。何処(どこ)かに鴉(からす)が鳴く。余はさながら不測の運命に魘(おそ)われて悄然(しょうぜん)として農夫の顔其まゝに言(ものい)わぬ哀愁に満ちた自然の面影にやるせなき哀感(あいかん)を誘(さそ)われて、独望台(ぼうだい)にさま/″\の事を想うた。都会と田舎の此争は、如何に解決せらるゝであろう乎。京王は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。資本の吾儘(わがまま)が通るであろう乎。労力の嘆(なげ)きが聴かるゝであろう乎。一年両度緑(みどり)になり黄(き)になり命(いのち)を与うる斯二十万坪の活(い)きた土は、終古(しゅうこ)死の国とならねばならぬのであろうか。今憂(うれい)の重荷(おもに)を負(お)うて直下(すぐした)に働いて居る彼爺さん達、彼処(あち)此処(こち)に鳶色に焦(こが)れた欅(けやき)の下樫(かし)の木蔭に平和を夢みて居る幾個(いくつ)の茅舎(ぼうしゃ)、其等(それら)は所謂文明の手に蠅(はえ)の如く簑虫(みのむし)の宿(やど)の如く払いのけられねばならぬのであろうか。数で云うたら唯(たった)二十万坪の土地、喜憂(きゆう)を繋(か)くる人と戸数と、都の場末の一町内にも足らぬが、大なる人情の眼は唯統計(とうけい)を見るであろうか。東京は帝都(ていと)、寸土(すんど)寸金(すんきん)、生が盛(さか)れば死は退(の)かねばならぬ。寺も移らねばなるまい。墓地も移らずばなるまい。然しながら死にたる骨(ほね)は、死にたる地(ち)に安(やす)んずべきではあるまい乎。寺と墓地とは縁もゆかりもない千歳村の此耕さるべき部分の外に行き得る場所はないのであろう乎。都会が頭なら、田舎は臓腑(ぞうふ)ではあるまい乎。頭が臓腑を食ったなら、終(つい)には頭の最後ではあるまい乎。田舎はもとより都会の恩(おん)を被(き)る。然しながら都会を養い、都会のあらゆる不浄を運(はこ)び去り、新しい生命(いのち)と元気を都会に注(そそ)ぐ大自然の役目を勤むる田舎は、都会に貢献する所がないであろう乎。都会が田舎の意志と感情を無視して吾儘(わがまま)を通すなら、其れこそ本当の無理である。無理は分離である。分離は死である。都会と田舎は一体(いったい)である。農が濫(みだり)に土を離るゝの日は農の死である。都(みやこ)が田舎を潰(つぶ)す日は、都自身の滅亡(めつぼう)である。
 彼旗を撤(てっ)し、此望台を毀(こぼ)ち、今自然も愁(うれ)うる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如く覆(おお)うて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日の光(ひかり)射(さ)す復活の春を齎(もた)らすを得ば、其時こそ京王の電鉄も都と田舎を繋(つな)ぐ愛の連鎖、温(あたた)かい血の通(かよ)う脈管(みゃくかん)となるを得るであろう。
(大正元年 十一月八日)

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     暮秋の日

 竜田姫(たつたひめ)のうっとりと眼を細(ほそ)くし、またぱっと目を□(みひ)らく様な、曇りつ照りつ寂しい暮秋の日。
 暦(こよみ)の冬は五六日前に立った。霜はまだ二朝(ふたあさ)三朝(みあさ)、しかも軽いのしか降(ふ)らない。但先月の嵐が累(るい)をなしたのか、庭園の百日紅、桜、梅、沙羅双樹(さらそうじゅ)、桃、李、白樺、欅、厚朴(ほう)、木蓮の類の落葉樹は、大抵葉を振うて裸になり、柿やトキワカエデの木の下には、美しい濶(ひろ)い落葉(おちば)が落葉の上に重(かさ)なって厚い茵(しとね)を敷いて居る。菊はまだ褪(うつろ)わずして狂うものは狂いそめ、小菊、紺菊の類は、園の此処彼処にさま/″\な色を見せ、紅白の茶山花(さざんか)は枝上地上に咲きこぼれて居る。ドウダン、ヤマモミジ、一行寺、大盃、イタヤ、ハツシモ、など云う類(たぐい)の楓(かえで)や銀杏(いちょう)は、深く浅く鮮やかにまた渋(しぶ)く、紅、黄、褐(かち)、茜(あかね)、紫さま/″\の色に出で、気の重い常緑木(ときわぎ)や気軽な裸木(はだかぎ)の間を彩(いろ)どる。常緑木の中でも、松や杉は青々とした葉の下に黄ばんだ古葉(ふるは)を簇々(むらむら)と垂(た)れて、自ら新にす可く一吹(いっすい)の風を待って居る。菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながら虻(あぶ)の様に、庭から園、園から畑と徘徊(はいかい)する。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。梅の小枝に妙な物がと目をとめて見ると、蛙(かわず)の干物(ひもの)が突刺してある。此はイタズラ小僧の百舌鳥(もず)めが食料に干(ほ)して置(お)いて其まゝ置き忘れたのである。園を歩く時、大半は種になったコスモスの梢(こずえ)に咲き残った紅白の花が三つ四つ淋(さび)しく迎える。畑には最早大麦小麦が寸余に生えて居る。大根漬菜が青々とまだ盛んな生気(せいき)を見せて居る。籬(かき)の外の畑では、まだ晩蒔(おそまき)の麦を蒔いて居る。向うの田圃では、ザクリ/\鎌の音をさして晩稲(おくて)を苅(か)って居る。
 今は午後の四時である。先程からぱっと射(さ)して色と云う色を栄(は)えさして居た日は、雲の瞼(まぶた)の下に隠れて、眼に見る限りの物は沈欝(ちんうつ)な相(そう)をとった。松の下の大分黄ばんだ芝生に立って、墓地の銀杏(いちょう)を見る。さまで大きくもあらぬ径(けい)六寸程の比較的若木(わかぎ)であるが、魚の背骨(せぼね)の一方を削った様に枝は皆北方へ出て、南へは唯一本しか出て居ない。南の枝にも梢にも、残る葉はなくて、黄葉(こうよう)は唯北方に密集して居る。其裸になった梢に、嘴(はし)の大きな痩鴉(やせがらす)が一羽とまって居る。永く永くとまって居たが、尾羽で一つ梢をうって唖々(ああ)と鳴きさまに飛び立った。黄いろい蝶の舞う様に銀杏の葉がはら/\と飄(ひるが)える。
 廻沢の杉森(すぎもり)のあなたを、葬式が通ると見えて、「南無阿弥陀ァ仏、南無阿弥陀ァ仏」単調な念仏(ねんぶつ)が泣く様に響いて来る。
(大正元年 十一月十日)

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     二つの幻影

 北風が寒く、冬らしい日。
 然し東京附近で冬を云々するのは烏滸(おこ)がましい。如何に寒いと云っても、大地が始終真白(まっしろ)になって居るではなし、少し日あたりのよい風よけのある所では、寒中(かんちゅう)にも小松菜(こまつな)が青々(あおあお)して、崖(がけ)の蔭では菫(すみれ)や蒲公英(たんぽぽ)が二月に咲いたりするのを見るのは、珍らしくない。
 北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太(かばふと)、乃至(ないし)大陸の露西亜(ろしあ)とか西比利亜とかでなければ、本当の冬の趣味は分からぬ。秋日々(ひび)に老いて近づく冬の気息が一刻々々に身に響く頃の一種の恐怖(おそれ)、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死である国土でなければ、秋の暮の淋し味も、また春の復活の喜も十分には分からぬ。
「おゝ神よ、吾をしてこの春に会うを得せしめ給うを感謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。
 否(いや)でも応(おう)でも境遇に我等は支配される。我々の邦(くに)では一切の事が兎角徹底せぬわけである。

           *

 午後散歩、田圃(たんぼ)では皆欣々喜々として晩稲(おくて)を苅って居る。
 甲斐(かい)の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋(ふなばし)の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪(ごむわ)の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡(そうがんきょう)を翳(かざ)した。前なる透(す)かし幌(ほろ)の内は、丸髷に結って真白(まっしろ)に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母(うば)らしいのが友禅(ゆうぜん)の美しい着物に包まれた女の児を抱(だ)いて居る。玩具など幌の扇骨(ほね)に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣(みやもう)でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪(ごむわ)が威勢の好い白法被(しろはっぴ)の車夫に挽(ひ)かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨(がいこつ)が来るのかと思うた。其は一人の婆(ばば)であった。両の眼の下瞼(したまぶた)が悉(ことごと)く朱(あけ)に反(そ)りかえって、椎(しい)の実程の小さな鼻が右へ歪(ゆが)みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸(くび)にかけて、草履(ぞうり)の様になった下駄(げた)を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆(ばあ)さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱(あか)く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍(わき)を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
 余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻(まぼろし)の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
(大正元年 十一月十五日)

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     入営

 辰(たつ)爺(じい)さん宅(とこ)の岩公(いわこう)が麻布聯隊に入営する。
 寸志の一包と、吾れながら見事(みごと)に出来た聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)を三本提(さ)げて、挨拶に行く。禾場(うちば)には祝入営の旗が五本も威勢(いせい)よく立って、広くもあらぬ家には人影(ひとかげ)と人声(ひとごえ)が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺(ちゃん)の辰さんがせっせと饂飩粉(うどんこ)を捏(こ)ねて居る。是非(ぜひ)上(あが)れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
 午後万歳の声を聞いて、遽(あわ)てゝ八幡(はちまん)に往って見る。最早(もう)楽隊(がくたい)を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶(ちゃ)の中折帽(なかおれぼう)と云う装(なり)で、神酒(みき)の所為(せい)もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺(ちゃん)は体格(なり)は小さい人の好い爺(じい)さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
 余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先(まっさ)きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛(ぎんてき)、太鼓(たいこ)、手風琴(てふうきん)なぞピー/\ドン/\賑(にぎ)やかに囃(はや)し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間(なかま)である。次ぎに送入営の幟(のぼり)が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中(よいよなか)小使銭(こづかい)貸せの破落戸漢(ならずもの)に踏み込まれたり、苦労に齢(とし)よりも老(ふ)けた岩公の阿母(おふくろ)が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服(すいへいふく)の丈高(たけたか)い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日母者(ははじゃ)の葬式(そうしき)をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路(こみち)から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲(きょく)が次第に東へ進んで行く。
 今日は何処(どこ)も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に□(あが)って居た。
(明治四十四年 十一月三十日)
           *

 辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家(うち)は組内だから昨日も何角(なにか)の手伝(てつだい)に行かねばならなかったのであった。
 爺さんは泣声(なきごえ)して、
「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様(てんしさま)も国(くに)を広くなさるだから」と云う。
 誰が教えたのかしら。
(同 十二月一日)

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     生死

 霜無く、風無く、雲無く、静かな寂(しず)かな小春の日。
 昨夜、台所の竈台(へっついだい)の下の空籠(からかご)の中で、犬のピンがうめいたり叫(さけ)んだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色(ちゃいろ)が二疋、黒(くろ)が二疋、あの小さな母胎(ぼたい)からよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫(こねこ)の様な啼声(なきごえ)を出して、勢(いきおい)猛(もう)に母の乳にむしゃぶりつく。
 子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過(ひるす)ぎまで気付(きづ)かなかった。「おや、ミイは?」と細君(さいくん)が不安な顔をして見廻(みま)わした時は、午後の一時近かった。総(そう)がかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。舌(した)が痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所を遍(あま)ねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出(とおで)をする猫ではなし、何時(いつ)居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、葱(ねぎ)とりに往く時私に跟(つ)いて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何(どう)なったのだろう? 烏山の天狗犬(てんぐいぬ)に噛(か)まれたのかも知れぬ。三毛(みけ)は美しい小猫だったから、或は人に抱(だ)いて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽(ひょうきん)な、怜悧(りこう)な小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好(なかよ)くして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。
 夕食の席で、民やが斯様(こん)な話をした。今日(きょう)午後猫を捜(さが)して居ると、八幡下で鴫田(しぎた)の婆さんと辰さん家(とこ)の婆さんと話して居た。先刻田圃(たんぼ)向うの雑木山の中で、印半纏(しるしばんてん)を着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装(なり)をした二十(はたち)前後の女が居た。男はせっせと手で土を掘(ほ)って居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯(じねんじょ)でも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処(そこ)に居た。其前八幡山(はちまんやま)の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分闇(やみ)から闇にと堕(お)りた胎児(たいじ)を埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家(うち)の山に其様(そん)な事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞ杖(つえ)のさきでせゝって居たそうだ。
 其若い男女が、ひょっとしたらまた其処(そこ)へ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。
 箸(はし)を措(お)くと、外套(がいとう)引かけて出た。体(からだ)も魂(たましい)も倔強(くっきょう)な民が、私お供(とも)致しましょう、と提灯(ちょうちん)ともして先きに立つ。
 八幡下の田圃を突切(つっき)って、雑木林の西側を這(は)う径(こみち)に入った。立どまって良(やや)久(ひさ)しく耳を澄(す)ました。人らしいものゝ気(け)もない。
「何処(どこ)に居るかね、不了簡(ふりょうけん)をしちゃいかんぞ。俺(わし)に相談をして呉れんか」
 声をかけて置いて、熟(じっ)と聞き耳を立てたが、吾声(わがこえ)の攪乱(かきみだ)した雑木山の静寂(せいじゃく)はもとに復(か)えって、落葉(おちば)一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気(やき)は池の水の様に凝(こ)って、上半部を蝕(く)い欠(か)いた様な片破(かたわ)れ月が、裸(はだか)になった雑木の梢(こずえ)に蒼白く光って居る。
 立とまっては耳を傾(かたむ)け、答(こたえ)なき声を空林(くうりん)にかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側の径(こみち)を取って返した。提灯は径を歩かして、余は月の光(あかり)を便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆落葉(おちば)して、林の中は月明(つきあかり)でほの白い。櫟(くぬぎ)から楢(なら)と眼をつけ、がさ/\と吾が踏(ふ)み分くる足下(あしもと)の落葉にも気をつけ、木を掘ったあとの窪(くぼみ)を注視し、時々立止って耳を澄ました。
 居(い)ない。終に何者も居ない。土の下も黙(だま)って居る。
(明治四十二年 十二月二日)

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     天理教の祭

 おかず媼(ばあ)さんが、天理教会秋祭(あきまつり)の案内に来た。
 紙の上の天理教(てんりきょう)は見て居るが、教会を覗(のぞ)いた事は未(ま)だ無い。好い機(おり)だ。往って見る。
 下足札(げそくふだ)を出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾(みす)を捲いて、鏡が飾ってある。太鼓(たいこ)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、琴(こと)、琵琶(びわ)なんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手を膝(ひざ)に組んだ白衣(びゃくい)の男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかず媼(ばあ)さんも見えた。米俵が十数俵(ひょう)も神前に積(つ)まれて、奉納者(ほうのうしゃ)の名を書いた奉書紙(ほうしょがみ)が下げてある。
 やがて鳴物(なりもの)が鳴り出した。
 太鼓の白衣氏が撥(ばち)を握(にぎ)って単調な拍子(ひょうし)をとりつゝ
「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」
と唱(とな)え出した。琴が鳴る。篳篥(ひちりき)が叫ぶ。琵琶が和(わ)する。
 黒紋付木綿の綿入に袴(はかま)を穿(は)いた倔強(くっきょう)な若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、裏(うら)むき表(おもて)むき、立ったり蹲(しゃが)んだり、黒紋付の袖からぬっと出た逞(たく)ましい両の手を合掌(がっしょう)したりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨(ぶこつ)で中々愛嬌(あいきょう)がある。「畚(もっこ)かついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚を担(にな)って踊った。
 鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりを眺(なが)める。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆嬉々(きき)として眺めて聴いて居る。

           *

 天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨(ろうこつ)地に入ってこゝに数十年、其流れを汲(く)む人の数は実に夥(おびただ)しい数を以て数えられる。仮令(たとい)大和の本教会(ほんきょうかい)は立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病に罹(かか)ったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令(たとい)其信仰の為に財産をなくして人の物笑(ものわらい)となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有(も)つ者でない。信ずる彼等は確(たしか)に其信仰に生きて居るのである。
 信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多(ざった)な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾(いかん)なく実現したら、世界は夙(とう)に無事に苦んで居る筈(はず)だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧(ささ)げてしまって、嬉々(きき)として労役者(ろうえきしゃ)の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗(す)って、其報償(むくい)を手あたり次第に徴集(ちょうしゅう)し、助けなき婆さんを窘(いじ)めて店賃(たなちん)をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊(い)ゆれば平気で暴利を貪(むさぼ)って居る者もある。信徒の労力を吸って肥(こ)えて居る教師もある。然し斯(この)せち鹹(から)い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処(ずいしょ)にある。此春妻が三軒茶屋(さんげんぢゃや)から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提(さ)げて歩(ある)いて居ると、畑に働(はたら)いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
 人が平気に踏(ふ)みしだく道辺(みちべ)の無名草(ななしぐさ)の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村山郭(さんかく)の此処其処に人知れず生れて居るのである。

           *

 斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌(おかぐらうた)一巻を唱(とな)え囃(はや)し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据(す)えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取(ぞうりとり)となって草履を懐(ふところ)に入れて温(あたた)めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰(おりづめ)一個をもらい、正宗(まさむね)一合瓶(ごうびん)は辞して、参拾銭寄進(きしん)して帰った。
 耶蘇教は我(が)強(つよ)く、仏教は陰気(いんき)くさく、神道に湿(しめ)りが無い。彼(かの)大なる母教祖(ははきょうそ)の胎内(たいない)から生れ出た、陽気で簡明切実(せつじつ)な平和の天理教が、土(つち)の人なる農家に多くの信徒を有(も)つは尤である。
(明治四十二年 十二月四日)

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     渦巻

 小春日がつゞく。
 十二月は余の大好(だいす)きな月である。絢爛(けんらん)の秋が過ぎて、落つるものは落ち尽(つく)し、枯(か)るゝものは枯れ尽し、見るもの皆乾々(かんかん)浄々(じょうじょう)として、寂(さび)しいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬ味(あじ)がある。秋に別れて冬になろうと云う此隙(ひま)に、自然が一寸静座の妙境(みょうきょう)に入る其幽玄の趣(おもむき)は言葉に尽くせぬ。
 隣字(となりあざ)の仙左衛門が、根こぎの山豆柿(やままめがき)一本と自然薯(じねんじょ)を持て来てくれた。一を庭に、一を鶏(にわとり)の柵(さく)に植える。今年(ことし)は吾家(うち)の聖護院(しょうごいん)大根(だいこ)が上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所(きんじょ)に鮭(さけ)が出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊(くびくく)りがあったと云うのである。
 橋本の敬さんが、実弟の世良田(せらだ)某(ぼう)を連れて来た。五歳(いつつ)の年四谷(よつや)に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルスに砂糖(さとう)大根(だいこん)八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。妻(つま)を持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。
 此村から外国(がいこく)出稼(でかせぎ)に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総(しもうさ)の高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。何(ど)の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向(いっこう)新しい竈(かまど)の殖(ふ)える様子もない。如何(どう)なるかと云えば、女は無論嫁(とつ)ぐが、息子(むすこ)の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店(みせ)を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦(おおうず)が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田(せらだ)君なんどは稀有(けう)の例である。
 東京に出て相応(そうおう)に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆(ぼん)に墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早(もう)無縁(むえん)になった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処(どこ)ぞへ往ってしまいたいと口癖(くちぐせ)の様に云う二番目息子の稲公(いねこう)を、阿母(おふくろ)が懸念(けねん)するのも無理は無い。
(明治四十四年 十二月五日)

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     透視

 非常の霜、地皮(ちひ)が全く霜(しも)やけして了うた。
 午(ご)の前後はまた無闇(むやみ)と暖(あたたか)だ。凩(こがらし)も黙(だま)り、時雨(しぐれ)も眠(ねむ)り、乾(かわ)いて反(そ)りかえった落葉(おちば)は、木の下に夢(ゆめ)みて居る。烏(からす)が啼(な)いたあとに、隣の鶏(にわとり)が鳴(な)き、雀(すずめ)が去ったあとの楓(かえで)の枝(えだ)に、鷦鷯(みそさざい)がとまる。静かにさす午後の日に白く光(ひか)って小虫(こむし)が飛ぶ。蜘糸(くものい)の断片が日光の道を見せて閃(ひら)めく。甲州の山は小春(こはる)の空(そら)にうっとりと霞(かす)んで居る。
 落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖か味(み)があって、温(あたた)かい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。
 日曜だが、来客もなくて静(しずか)なことだ。主と妻と女児と、日あたりの好(い)い母屋(おもや)の南縁(なんえん)で、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶(しらちゃ)天鵞絨(びろうど)の様に光る芝生(しばふ)では、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカ爺(おやじ)が、自分の頭程(あたまほど)もない先月生れの小犬の蚤(のみ)を噛(か)んでやったり、小犬が母の頸輪(くびわ)を啣(くわ)えて引張ったり、犬と猫と仲悪(なかわる)の譬(たとえ)にもするにデカと猫のトラと鼻(はな)突(つき)合わして互(たがい)に疑(うたが)いもせず、皆悠々と小春の恩光(おんこう)の下(もと)に遊んで居る。「小春」とか「和楽(わらく)」とかの画(え)になりそう。

           *

 細君が指輪(ゆびわ)をなくしたので、此頃勝手元の手伝(てつだ)いに来る隣字(となりあざ)のお鈴(すず)に頼み、吉(きち)さんに見てもらったら、母家(おもや)の乾(いぬい)の方角(ほうがく)高い処にのって居る、三日(みっか)稲荷様(いなりさま)を信心すると出て来る、と云うた。
 吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者(とくしんじゃ)、病気が信心で癒(なお)った以来千里眼を得たと人が云う。吉凶(きっきょう)其他分からぬ事があれば、界隈(かいわい)の者はよく吉さんに往って聞く。造作(ぞうさ)なく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんの言(ことば)で病気も癒(なお)り、なくなったものも見出す。此辺での長尾(ながお)郁子(いくこ)、御船(みふね)千鶴子(ちづこ)である。
 裏の物置に大きな青大将(あおだいしょう)が居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんの霊(れい)だと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中(てきちゅう)した例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人(れきしにん)があった処を吉さんが通ると、青い顔の男女(なんにょ)がふら/\跟(つ)いて来て仕方(しかた)がないそうだ。
 余の家にも他の若い者並(なみ)に仕事に来ることがある。五十そこらの、瘠(や)せて力があまりなさそうな無口な人である。
 我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもない筈(はず)だ。
 然しながら我等凡夫(ぼんぷ)は必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明(ゆうめい)、物心(ぶっしん)、死生(しせい)、神人(しんじん)の間を隔(へだ)つる神秘の一幕(いちまく)は、容易に掲(かか)げぬ所に生活の面白味(おもしろみ)も自由もあって、濫(みだ)りに之を掲ぐるの報(むくい)は速(すみ)やかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命を賭(と)しても此帷幕の隙見(すきみ)をす可く努力せずに居られぬ人を哂(わら)うは吾儕(われら)が鈍(どん)な高慢(こうまん)であろうが、同じ生類(しょうるい)の進むにも、鳥の道、魚の道、虫(むし)の道、また獣(けもの)の道もあることを忘れてはならぬ。
 吾儕(われら)は奇蹟を驚異し、透視(とうし)の人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

           *

 夜、鶴子(つるこ)が炬燵(こたつ)に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習(てならい)をしたあとで、雑記帳の表紙(ひょうし)に「トクトミツルコノデス」と書き、それから
コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス
と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢(とし)をかゝせた。
(明治四十四年 十二月十日)

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     雪

 暮の廿八日は、午食前(ひるめしまえ)から雨になり、降りながら夜に入った。
 夜の二時頃、枕辺(まくらべ)近く撞(どす)と云った物音(ものおと)に、余は岸破(がば)と刎(は)ね起きた。身繕(みづくろ)いしてやゝしばし寝床(ねどこ)に突立(つった)って居ると、忍び込んだと思った人の容子(ようす)は無くて、戸の外(そと)にサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。
「雪だ!」
 先刻(さっき)の物音は、樫(かし)の枝を滑り落ちた雪の響(おと)だったのだ。余は含笑(ほほえ)みつゝまた眠った。
 六時、起きて雨戸をあけると、白い光(ひかり)がぱっと眼を射(い)た。縁先(えんさき)まで真白だ。最早(もう)五寸から積って居るが、まだ盛(さかん)に降って居る。
 去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。
 余は奥書院(おくしょいん)の戸をあけた。西南を一目に見晴(みは)らす此処(ここ)の座敷は、今雪の田園(でんえん)を額縁(がくぶち)なしの画(え)にして見せて居る。庭の内に高低(こうてい)参差(しんし)とした十数本の松は、何れも忍(しの)び得る限(かぎ)り雪に撓(た)わんで、最早払(はら)おうか今払おうかと思い貌(がお)に枝を揺々(ゆらゆら)さして居る。素裸(すっぱだか)になってた落葉木(らくようぼく)は、従順(すなお)に雪の積るに任せて居る。枯萩(かれはぎ)の一叢(ひとむら)が、ぴったりと弓形(ゆみなり)に地に平伏(ひれふ)して居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向(うしろむ)きの石地蔵(いしじぞう)が、看護婦の冠る様な白い帽子を被(き)せられ、両肩(りょうかた)には白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。
 余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下(つくばさんか)の医師(いし)なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国(すいこく)の雪景色と、歳晩(さいばん)の雪の都会の浮世絵が幻(まぼろし)の如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々(だんだん)眩(まぶ)しくなって、時々吃驚(びっくり)する様な大きな響(おと)をさしてドサリ撞(どう)と雪が落ちる。机の傍(そば)では真鍮(しんちゅう)の薬鑵(やかん)がチン/\云って居る。
 午餐(ごさん)の案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺(あたり)は雪ならぬ光を含んで明るく、母屋(おもや)前(まえ)の芝生は樫の雫(しずく)で已に斑(まだら)に消えて居る。
「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」
 斯(か)く罵(ののし)りつゝ食卓(しょくたく)に就(つ)く。黒塗膳(くろぬりぜん)に白いものが三つ載(の)せてある。南天(なんてん)の紅(あか)い実(み)を眼球(めだま)にした兎(うさぎ)と、竜髭(りゅうのひげ)の碧(あお)い実(み)が眼球(めだま)の鶉(うずら)や、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨(ゆきだるま)とが、一盤(ひとばん)の上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。
「此(この)達磨(だるま)さん西洋人(せいようじん)よ、だって眼が碧(あお)いンですもの」と鶴子が曰(い)う。
 雪で、今日は新聞が来(こ)ぬ。朝は乳屋(ちちや)、午後は七十近い郵便(ゆうびん)配達(はいたつ)の爺(じい)さんが来たばかり。明日(あす)の餅搗(もちつ)きを頼んだので、隣の主人(あるじ)が糯米(もちごめ)を取りに来た。其ついでに、蒸(ふ)かし立ての甘藷(さつまいも)を二本鶴子に呉(く)れた。
 余は奥座敷で朝来(ちょうらい)の仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢(ひばち)の炭(すみ)をつぐ。障子がやゝ翳(かげ)って、丁度(ちょうど)好い程の明(あかり)になった。颯(さあ)と云う音がする。轟(ごう)と云う響(ひびき)がする。風が出たらしい。四時やゝ廻(まわ)ると、妻が茶(ちゃ)を点(い)れ、鶴子が焼栗(やきぐり)を持て入って来た。
「雪水(ゆきみず)を沸(わ)かしたのですよ」
と妻が曰(い)う。ペンを擱(さしお)いて、取あえず一碗(わん)を傾(かたむ)ける。銀瓶(ぎんびん)と云う処だが、やはり例(れい)の鉄瓶(てつびん)だ。其れでも何となく茶味(ちゃみ)が軟(やわら)かい。手々(てんで)に焼栗を剥(む)きつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃(たんぼ)向(むこ)うの杉の森を掠(かす)めて、白い風が弗(ふっ)、弗(ふっ)と幾陣(いくしきり)か斜(はす)に吹き通る。庭の内では、蛾(が)の如く花の様な大小の雪片(せっぺん)が、飛(と)んだり、刎(は)ねたり、狂(くる)うたり、筋斗翻(とんぼがえり)をしたり、ダンスをする様にくるりと廻(まわ)ったり、面白そうにふざけ散らして、身軽(みがる)に気軽(きがる)に舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌(あるじがお)した赤松の枝から、時々サッと雪の滝(たき)が落ちる。
「今夜も降りますよ」
 斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。
 余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早(もう)書く文字がおぼろになった。余はペンを拭(ふ)いて、立って障子をあけた。
 蒼白(あおじろ)い雪の黄昏(たそがれ)である。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々(ひひ)また霏々と限りもなく降って居る。良(やや)久(ひさ)しく眺める。不図縁先(えんさき)を黒い物が通ると思うたら、其(それ)は先月来余の家に入込んで居る風来犬(ふうらいいぬ)であった。まだ小供□□した耳の大きな牝犬(めいぬ)で、何処から如何(どう)して来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄(しゆう)二疋(ひき)の犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂(い)って、荻窪(おぎくぼ)から汽車で吉祥寺(きちじょうじ)に送って、林の中に繋(つな)いで置いたら、頸(くび)に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞(ま)い戻(もど)った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖(くさり)を引きずりながら帰って来た。詮方(せんかた)なくて今は其まゝにしてある。余が口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたら、彼女(かのじょ)はふっと見上げたが、やがて尾を垂(た)れて、小さな足跡(あしあと)を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
 雪はまだしきりに降って居る。
 余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮(うか)べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形(かたち)で世界の各所(かくしょ)に現(あら)わるゝ、人心(じんしん)の昂奮(こうふん)、人間の動揺が、眼(め)まぐろしくあらためて余の心の眼に映(うつ)った。
 何処(どこ)に落着く世の中であろう?
 余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
 大正元年暮の二十九日は蒼白(あおじろ)う暮れて行く。
おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
    世は一色(ひといろ)の雪の夕暮
(大正元年 十二月二十九日)

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   読者に


       (一)

読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙(つつが)なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
 まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
 大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷(ひい)やりとした歩(あゆ)みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。□(のが)れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月(みつき)を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿(けいき)とぶらついた旅行は、近づく運命を躱(かわ)そうとてののたうち廻りでした。然し盃(さかずき)は否応(いやおう)なしに飲まされます。私は阿容□□(おめおめ)とまた粕谷の旧巣(ふるす)に帰って来ました。
 大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
 其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍(あらそ)えません。早速妻が瀕死の大病に罹(かか)り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
 世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩(おうのう)は気も狂うばかりです。傍(かたわら)に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
 すべてには限(きり)があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪(も)が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉(わた)って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
 世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が□ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後(あと)で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡(シンガポオル)まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚(なお)西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
母なしとなどかは嘆くわれを生みし
    国土(こくど)日本(にっぽん)とこしへの母
 日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。
 帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。
 中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱(いしょく)を果したのであります。
 それから九月一日の大震にもお蔭で恙(つつが)なく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿(は)いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

           *

 世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。
世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。
諸君が手を拍(たた)いて喝采(かっさい)しました。
 お世辞ではありません。全然(まったく)です。
 私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒(いっしょ)になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。私は自分の幼稚な吾儘(わがまま)と頑固な気まぐれから、思うようにならぬと謂(い)うては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己を脱(ぬ)けたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何(どう)する? だらしなく無為に朽(く)ちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的には謙(へりくだ)ってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己を核(かく)にして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本(なんぞそのもとにかえらざる)」で、畢竟(ひっきょう)其本に、自己に、わが衷(うち)に在(いま)す神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に
西、東、北の果までたづねても
    みなみ(南、――皆身(みなみ))にかへる地獄極楽
というのがありますが、正(まさ)にそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周(ひとめぐり)して来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。
 十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。
「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」
「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心(かいしん)のさざめきを以て酬(むく)うてくれました。
 いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。
 泊(とまり)がきまると、行手(ゆくて)を急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩の楽(たのしみ)です。父は九十三、母は九十一、何卒(どうか)私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様(てんとうさま)が中々殺さぬよ」。私も夥(おびただ)しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺(いんごうおやじ)が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗(むやみ)に重(かさ)ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気(しょげ)た時期もあります。わが借金は棚(たな)にあげ、他(ひと)の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮(しょせん)払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸(わるどきょう)を据(す)えた時もあります。然しもう潔(いさぎよ)く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総(そう)じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面(じゅうめん)つくって、さっさと返えしては曲(きょく)が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目(まじめ)に計算しましょう。笑顔(えがお)で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

       (二)

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯(おおまた)に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷(ひ)やかしに往って帰る位何の造作(ぞうさ)もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉(うれ)しいような、また恐(こわ)いような気がします。隣字(となりあざ)の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴(ヴァイオリン)の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧(きぬた)村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼(か)わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々(もうもう)程農村を長閑(のどか)にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮(うしお)の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
 台湾を取り、樺太の半を収(おさ)め、朝鮮を併(あわ)せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型(ひながた)ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創(はじ)めた私共の住居(すまい)も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺(かやぶき)の四棟(よむね)もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋(おもや)の南面に風よけの杉籬(すぎかき)を結(ゆ)いました。西の端に唯一本木鋏(きばさみ)を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹(みき)の太(ふと)さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世(かくせい)の感があります。私共の村住居(むらずまい)の年標(ねんひょう)として、私は毎々(まいまい)お客に此杉の木を指(ゆびさ)します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗(うかが)われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名(がめい)が欲(ほ)しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園(こうしゅんえん)と命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜(えんぎ)が好(よ)いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木と萱(かや)、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気(ひとけ)がないので野兎(のうさぎ)が安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多(めった)に鍬(くわ)は取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園は零(ぜろ)です。毎年堆肥(たいひ)温床用(おんしょうよう)の落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟(ひとむね)なぞは、萱沢山(かやたくさん)の厚さ二尺程にも屋根を葺(ふ)いて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体(からだ)でも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補を促(うなが)します。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前から碌(ろく)に和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。
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