みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨(ようしゃ)もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛(しば)られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床(ゆか)が跳(おど)る。それに樫の直ぐ下まで一面(いちめん)の麦畑(むぎばたけ)である。武蔵野固有の文言通(もんごんどお)り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年蘇士(スエズ)運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣(おと)る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入(おしいれ)、箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)の中まで会釈(えしゃく)もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内(やうち)に引越すのである。
都をば塵の都と厭(いと)ひしに
    田舎も土の田舎なりけり
 あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴(さ)える、水が荒い。四拍子揃(そろ)って、妻の手足は直ぐ皸(ひび)、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油(ゆ)やリスリンを塗(ぬ)った位では、血が止まらぬ。主人の足裏(あしうら)も鯊(さめ)の顋(あご)の様に幾重(いくえ)も襞(ひだ)をなして口をあいた。あまり手荒(てあら)い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟(つ)いて来た糟糠(そうこう)の御台所(みだいどころ)も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留(とうりゅう)に来て見ては、零落(れいらく)と思ったのであろ、台所の隅(すみ)で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       二

 主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益(みやます)の興農園から柄(え)の長い作切鍬、手斧鍬(ちょうなぐわ)、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌(しばかりがま)など百姓の武器と、園芸書類(えんげいしょるい)の六韜三略(りくとうさんりゃく)と、種子と苗(なえ)とを仕入れた。一反五畝(せ)の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地(あきち)と云っては畑の中程に瘠(や)せこけた桑樹と枯れ茅(かや)枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝(うね)を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様(ああ)するのかと眼を瞠(みは)って眺(なが)めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂(いわゆる)賭博(とばく)の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔(じゃま)になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆(ひゃくしょうしゅう)に、棕櫚縄(しゅろなわ)を蠅頭(はえがしら)に結ぶ事を教わって、畑中に透籬(すいがき)を結い、風よけの生籬(いけがき)にす可く之に傍(そ)うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役(ぞうえき)をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸(つかど)の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞(ごようき)きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をした。
 手脚を少し動かすと一廉(いっかど)勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌(いっぱいきげん)で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担(かつ)いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革(あずきかわ)の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破(うちこわ)してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広(せびろ)で、北海道にも此れで行き、富士(ふじ)で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、トルストイの家でも持参(じさん)の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石(さすが)無頓着(むとんちゃく)な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物(しろもの)である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹(あおだけ)で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆(しゅう)がドッと笑った。引越後(ひっこしご)間(ま)もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪(わる)いので、矢張此洋服で甲州(こうしゅう)街道(かいどう)まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃(はや)し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広(つばびろ)の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢(す)を買いに往ったら、小学校中(じゅう)の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物(こうぶつ)の中に、雪花菜汁(おからじる)がある。此洋服着て、味噌漉(みそこし)持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石剛(ごう)の者も髯と眼鏡(めがね)と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人(とうきょうじん)珍(めず)らしいので、妻なぞ出かけると、女子供(おんなこども)が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾(めかけ)の居た家(うち)に越して来た東京のおかみさんが通(とお)るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚(わめ)き立てゝ大騒(おおさわ)ぎしたものだ。
 東京客が沢山(たくさん)来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取(たねと)りに来た。遠足半分(えんそくはんぶん)の学生も来た。演説依頼の紳士(しんし)も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶(あいさつ)でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突(けんつく)を喰(く)わした。芝居気(しばいげ)も衒気(げんき)も彼には沢山にあった。華美(はで)の中に華美を得為(せ)ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑(そもそ)もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小(ちい)さな草屋のぬれ縁(えん)に立って、田圃(たんぼ)を見渡す時、彼は本郷座(ほんごうざ)の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴(ふ)き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾(しゅゆ)も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町(ふちゅうまち)へ買った地所と家作の登記(とうき)に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘(さそ)うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介(しょうかい)して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々(つくづく)彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何(どう)して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多(めった)に欠員(けついん)があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪(しゃく)に障(さわ)り、斯(こ)う見えても憚りながら文字の社会では些(ちっと)は名を知られた男だ、其様な喰詰(くいつ)め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大(おおい)に啖呵(たんか)を切ったが、虫を殺して彼は俯(うつむ)いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其(その)家(うち)をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然(ごうぜん)として「大尽(だいじん)さんの家(うち)だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様(どんな)に威張(いば)っても、東京の喰詰者であった。但(ただ)字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵(たくわん)の二三本、小松菜の一二把(わ)礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫(さいほう)の師匠をやれと勧められた。自身(じしん)上州(じょうしゅう)の糸屋から此村の農家に嫁(とつ)いで来た媼(ばあ)さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕(ようさん)をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。

       三

 東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州(こうしゅう)街道(かいどう)に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀(まれ)であった。彼等が千歳村(ちとせむら)に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷(しぶや)から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義(とほしゅぎ)を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋(わらじ)、ある時は高足駄(たかあしだ)をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便(たよ)りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした。丸(まる)の内(うち)三菱(みつびし)が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原(くさはら)に足投げ出して、悠々(ゆうゆう)と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時(いつ)も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍(たけのこ)を二本担(にな)って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄(はなすすき)を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷(いも)を洗ったり、外竈(そとへっつい)を焚(た)いて見たり、実地の飯事(ままごと)を面白がったが、然し東京の玄関(げんかん)から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負(せお)うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都(みやこ)の子女(しじょ)として至って平民的な彼等も流石に羞(はず)かしそうな笑止(しょうし)な顔をした。
 彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切(いっさい)の角(つの)を隠して、周囲に同化す可く努(つと)めた。彼はあらゆる村の集会(しゅうかい)に出た。諸君が廉酒(やすざけ)を飲む時、彼は肴(さかな)の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番(つきばん)になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参(じさん)した。村の耶蘇教会にも日曜毎(にちようごと)に参詣して、彼が村入して程なく招(まね)かれて来た耳の遠い牧師の説教(せっきょう)を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵(こしら)えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突(けんつく)喫(く)わすことはある共、田舎の客に相手(あいて)にならぬことはなかった。誰(たれ)にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽(しりがる)に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈(そとへっつい)の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分(だいぶ)話(はな)せる」と良人にほめられた。
 玉川に遠いのが毎(いつ)も繰り返えされる失望であったが、井水が清(す)んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸(わ)かしては入(はい)り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢(がまん)して入った。夏になってから外で立てた。井(いど)も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井(あおてんじょう)の下の風呂は全く爽々(せいせい)して好い。「行水(ぎょうずい)の捨て処なし虫の声」虫の音(ね)に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸(つか)る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降(ふ)り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休(なつやすみ)に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興(きょう)じて傘風呂(からかさぶろ)に入った。

       四

 彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白(まっしろ)な富士を見て居た武蔵野(むさしの)は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日□□其月□□の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物(まきもの)の如くのべて見せた。彼等は周囲(あたり)の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋(げや)をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室(よくしつ)を建(た)て、井筒(いづつ)も栗の木の四角な井桁(いげた)に更(か)えることにした。畑も一反(たん)四畝(せ)程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的(かんけつてき)だが、小婢(こおんな)も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初(つかいぞめ)をして、「日々新」と父が其(その)板壁(いたかべ)に書いてくれた。
 斯くて千歳村(ちとせむら)の一年は、馬車馬の走る様(よう)に、さっさと過ぎた。今更(いまさら)の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令(たとえ)此(この)創業(そうぎょう)の一年が、稚気乃至多少の衒気(げんき)を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁(からさわ)ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。


[#改丁]



   草葉のささやき

     二百円

 樫(かし)の実が一つぽとりと落ちた。其幽(かすか)な響が消えぬうちに、突(つ)と入って縁先に立った者がある。小鼻(こばな)に疵痕(きずあと)の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物(しまもの)ずくめの小商人(こあきんど)と云う服装(なり)。眉から眼にかけて、夕立(ゆうだち)の空の様な真闇(まっくら)い顔をして居る。
「私(わたし)は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻(かない)に不幸な者でして……斯(こう)申上げると最早(もう)御分かりになりましょうが」
 最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈(み)ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
 彼は埼玉(さいたま)の者、養子であった。繭(まゆ)商法に失敗して、養家の身代を殆(ほと)んど耗(す)ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫(しばらく)暮らして居たが、思わしい事もないので、大連(だいれん)に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭(まんざくさ)い裏町にころがって居る内に、子供を亡(な)くしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳(いつつ)でした、女児(おんなのこ)でしたがね、其(そ)れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻(かない)は無愛想でしても、女児(やつ)が阿爺(とうさん)、阿爺と歓迎して、帽子(ぼうし)をしまったり、其(そ)れはよくするのです。私も全(まった)く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンです。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様(そん)な事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾(かつ)て斯々の事をした、それで斯様(かよう)な罰を受けたと懺悔(ざんげ)したそうですがね」
 彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将の家(うち)に奉公に住み込みました。何(なに)しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢(ぜいたく)なもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんは好(い)い方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何(どう)も妻の容子(ようす)が変(かわ)って来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、些(ちっと)も好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。
「妻の容子がドウも変(へん)になりました。私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒(びいる)を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼(わきめ)に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃(そっ)と主人の書斎の扉(どあ)の外に抜足(ぬきあし)してじいッと聴いたり、鍵(かぎ)の穴からも覗(のぞ)いて見ました。が、厚い厚い扉(どあ)です。中は寂然(ひっそり)して何を為(し)て居るか分かりません。私は実に――」
 彼は泣き声になった。一つに寄(よ)った真黒(まっくろ)い彼の眉はビリ/\動いた。唇(くちびる)は顫(ふる)えた。
「妻の眼色(めいろ)を読もうとしても、主人の貌色(かおいろ)に気をつけても、唯(ただ)疑念(ぎねん)ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様(こん)な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様(そう)妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出(いで)なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出(おいで)なさい、と突慳貪(つっけんどん)に云うンです。最早(もう)私も堪忍出来なくなりました」
「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原(かわら)です。種々と妻を詰問しましたが、如何(どう)しても実を吐(は)きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状(はくじょう)するなら宥(ゆる)す、嘘(うそ)を吐(つ)くなら命を貰(もら)うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責(せ)めつけると、到頭(とうとう)悉皆(すっかり)白状してしまいました」
 彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺(わし)が斯(こ)う手をついてあやまるから、何卒(どうぞ)内済(ないさい)にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度(きっと)成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様(よう)な十円札(さつ)でした、二百円呉れました」
「君は其二百円を貰ったンだね、何故(なぜ)其(その)短刀で其男を刺殺さなかった?」
 彼は俯(うつむ)いた。
「それから?」
「それから一旦(いったん)内地に帰って、また大連に行きました。最早(もう)主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而(そう)して今は?」
「今は東京の場末(ばすえ)に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君(さいくん)は?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。
「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸(むね)がむしゃくしゃして仕様(しよう)がないものですから、それで今日(こんにち)は――」

           *

 忽然(こつぜん)と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。


[#改ページ]



     百草園

 田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中(ふちゅう)から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
 大麦小麦はとくに刈(か)られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑(みどり)ならぬ処もない。其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。二人はさッさと歩いた。太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝(せんでん)の為、平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、中々健脚である。主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。一日に十里も歩けば、二日目は骨である。二人は大胯(おおまた)に歩いた。蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。
 府中に来た。千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。玉川の渡(わたし)を渡って、また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、大樹に日をよけた恰好(かっこう)の観望台(かんぼうだい)がある。二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。
 東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、筑波も野州上州の山も近い秩父(ちちぶ)の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。「好(い)い喃(なあ)」二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。
 やゝ眺(なが)めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。唯(と)見(み)ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」
 二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
 人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々□々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」
 彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。
 府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。
 府中の町を出はなれたかと思うと、追(おい)かけて来た黒雲が彼の頭上(ずじょう)で破裂(はれつ)した。突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。本能的に彼は奔(はし)り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ□□ドウ□□と漲(みなぎ)り落ちた。彼の頬被りした海水帽(かいすいぼう)から四方に小さな瀑が落ちた。糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。其れは美(うつく)しくない半生であった。妻に対する負債(ふさい)の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。最早(もう)今度(こんど)は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
 調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
 雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
 家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。それは妻(つま)であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

 翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。


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     月見草

 村の人になった年(とし)、玉川の磧(かわら)からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖(ふ)えた。此頃は十数株、少(すくな)くも七八十輪宵毎(よいごと)に咲いて、黄昏(たそがれ)の庭に月が落ちたかと疑われる。
 月見草は人好きのする花では無い。殊(こと)に日間(ひるま)は昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹(みき)に付いた態(ざま)は、見られたものではない。然し墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、尼(あま)の様に冷たく澄んだ色の黄、其(その)香(か)も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
 八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家(うち)から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来(こらい)の死刑場(しおきば)、一方が墓地の其中間(ちゅうかん)を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳(こふん)新墳(しんふん)累々(るいるい)と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間(ひるま)通る時、彼は毎(つね)に赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見た。斯(か)くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
 其墓場の一端には、彼が甥(おい)の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父(おじ)甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸(じく)を甥に与えて、犬の如く啣(くわ)えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉(ふ)った。憎さげに甥を睨(にら)んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬(ほお)をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)いた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。
 墓地は一方大川に面(めん)し、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近く葬(ほうむ)られた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇り貌(が)に告げて、彼は友達を引張って、甥の墓に詣(まい)った。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した。
 彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。


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     腫物

       一

 人声が賑(にぎ)やかなので、往って見ると、久(ひさ)さんの家は何時(いつ)の間にか解き崩(くず)されて、煤(すす)けた梁(はり)や虫喰(むしく)った柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹(すすたけ)、それ/″\類(るい)を分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。件(くだん)の古家(ふるや)を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、其(そ)れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々壁土(かべつち)が撞(どう)と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木(にわき)や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。
 家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳(ふるだたみ)を敷いて、眼の少し下って肥(こ)え脂(あぶら)ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろの剥(は)げた歯を桃色の齦(はぐき)まで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出(つきだ)したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\藁(わら)を打って居る。婆さんや唖の巳代吉(みよきち)は本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。
 一切の人と物との上に泣く様な糠雨(ぬかあめ)が落ちて居る。
 あゝ此(この)家(うち)も到頭(とうとう)潰(つぶ)れるのだ。

       二

 今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿(むこ)と舅の折合が悪い為に、老夫婦(としよりふうふ)は息子を連れて新家に出た。今(いま)解(と)き崩されて片々(ばらばら)に売られつゝある家(うち)が即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦(としよりふうふ)は家財道具万端好いものは皆(みな)引(ひき)たくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。
 痴(おろか)な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広(ひろ)と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入(むこいり)の時、肝腎(かんじん)の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。
 久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林(くぬぎばやし)に棄児(すてご)があった。農村には人手が宝(たから)である。石山の爺さんが右の棄児を引受(ひきう)けて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎(いねじろう)と云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子(むすこ)が行(ゆ)く/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。
 ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家(うち)を出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺(きちじょうじ)、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死(こごえし)んだのを物取りが来て剥(は)いだか、それとも追剥(おいはぎ)が殺して着物を剥いだか、死骸(しがい)は何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。
 主翁(おやじ)が死んで、石山の新家は□(よめ)の天下(てんか)になった。誰も久(ひさ)さんの家(うち)とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応(そうおう)に久さんを可愛(かあい)がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟(ぎてい)稲次郎の子を二人まで生(う)んだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂即座師(そくざし)、繭買(まゆかい)をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子(おうじ)で首を縊(くく)って死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字(となりあざ)の大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

 背後は雑木林、前は田圃(たんぼ)、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰(たつ)爺(じい)さんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事(ないしょうごと)には誂向(あつらえむ)きの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎の胤(たね)と分ったが、彼(あの)二人(ふたり)は久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某(なにがし)の子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑(にがわらい)した。Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖(ふ)えた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還(かえ)って往った。新家は博徒破落戸(ならずもの)の遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己(わ)が不断(ふだん)の住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯(ごましおひげ)の短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十爺(じじい)の彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦(むこふうふ)を其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。昼(ひる)は炉辺(ろべた)の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並(なら)べた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵(たくわん)で早飯食わして、僕(ぼく)かなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節(かつぶし)かいて甘(うま)い汁(しる)をこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。
「俺(おら)ァ嬶(かか)とられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人(やど)が正直(しょうじき)だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼(ばあ)さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝(けげん)な眼を上げて、「え?」と頓狂(とんきょう)な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜(まくわ)を食(く)ってたて事よ、ふ□□□」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆(ばあ)さんは□の乱行(らんぎょう)家の乱脈(らんみゃく)に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液(めしる)たらして竈(へっつい)の下を焚(た)いたり、海老(えび)の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃(は)いたり、杖にすがって□(よめ)の命のまに/\使(つか)いあるきをしたり、其(そ)れでも其(その)無能(むのう)の子を見すてゝ本家に帰ることを得(え)為(せ)なかった。それに婆(ばあ)さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭(しらがあたま)の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切(しりきれ)草履突かけて竹杖(たけづえ)にすがって行く婆さんの背(うしろ)から、鍬(くわ)をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、□に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広(ひろ)、断わるがいゝ」と啖呵(たんか)を切った。

       四

 死んだ棄児(すてご)の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書(ほん)を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮(にら)や野菜菊は内で作ったの、其炉縁(ろぶち)は自分のだの、と物毎に争(あらそ)うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其値(ね)を争うた。買主は戯談(じょうだん)に「無代(ただ)でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者(やそきょうしんじゃ)じゃありませんか。信者が其様(そん)な事を云うてようござンすか」とやり込(こ)めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其素行(そこう)について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹(きっ)と向き直り、あべこべに義兄に喰(く)ってかゝり、老人と正直者を任(まか)せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張(よくば)ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖(くちぐせ)であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語(がた)りの勢込(いきおいこ)んでまくしかけ、「如何(いか)に兄が本(ほん)が読めるからって、村会議員(そんかいぎいん)だからって、信者だって、理(り)に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「□(うん)、□(うん)、ふん、ふん」と鼻(はな)を鳴(な)らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者(ばくれんもの)で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太(ぶた)さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨(やぶにらみ)で、気が少し変である。ピイ/\声(ごえ)で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負(おぶ)っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女(むすめ)もなくなっただァ」と云いかけて、斜視(やぶ)の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原(はぎわら)の武太郎は、五宿へ往って女郎買(じょろうかい)ばかしするやくざ者(もの)で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙(おりがみ)つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久(ひさ)さんのおかみばかりである。「彼様な女房(にょうぼ)持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎(ごと)に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼(ばあ)さんばかりは、久さんのおかみを済度(さいど)す可く彼女に近しくした。
 稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱(むぎこ)きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆(えんどう)や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金(こがね)を借(か)りに来たり張板を借(か)りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集(つど)う博徒(ばくと)の若者が、夏の夜帰(よがえ)りによく新村入の畑に踏(ふ)み込(こ)んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家(うち)に往く毎に胸を悪くして帰った。障子(しょうじ)は破れたきり張ろうとはせず、畳(たたみ)は腸(はらわた)が出たまゝ、壁(かべ)は崩(くず)れたまゝ、煤(すす)と埃(ほこり)とあらゆる不潔(ふけつ)に盈(みた)された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此(この)中(なか)で蚕に桑をくれたり、大肌(おおはだ)ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響(おと)をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡(めがね)をかけて縁先(えんさき)で襤褸(ぼろ)を繕(つくろ)ったりして居た。

       五

 新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家(うち)で、今一つは品川堀の側にある店(みせ)であった。其店には賭博(ばくち)をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰(つぶ)れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己(わ)が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩(わずろ)うた。色々の「我」が寄って形成(けいせい)して居る彼家は、云わば大(おお)きな腫物(はれもの)である。彼は眼の前に臭(くさ)い膿(うみ)のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
 ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色(こうもりいろ)の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧(わ)いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退(しざ)り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀(かみそり)で殺害した事を、彼女は何処(どこ)からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己(わ)が肉(にく)にうけたかの様に切ない声で云った。
 聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁(ささや)いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊(き)いた。おかみは、巳代が三歳(みっつ)までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言(いちごん)にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃飼(か)った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟(たた)りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公(いのこう)が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯(うつむ)くおかみに向うて、此(この)家(うち)の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届(ふとどき)の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
 それから二三日経(た)つと、彼は屋敷下を通る頬冠(ほおかむり)の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張(ひっぱ)った。満地の日光を樫の影が黒(くろ)く染(そ)めぬいて、あたりには人の影(かげ)もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒(ふらち)を責め最早(もう)六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花(しにばな)を咲かせろと勧めた。親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

 然しながら彼(かの)癌腫(がんしゅ)の様な家の運命は、往く所まで往かねばならなかった。
 己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩(あんま)の弟子にした。家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻(まわ)った勝気の亥之吉は、按摩の弟子になってめき/\上達し、追々(おいおい)一人前の稼ぎをする様になった。おかみは行々(ゆくゆく)彼をかゝり子にする心算(つもり)であった。それから自身によく肖(に)た太々(ふてぶて)しい容子をした小娘(こむすめ)のお銀を、おかみは実家近くの機屋(はたや)に年季奉公に入れた。
 二人の兄の唖の巳代吉(みよきち)は最早若者の数に入った。彼は其父方の血を示(しめ)して、口こそ利けね怜悧な器用な華美(はで)な職人風のイナセな若者であった。彼は吾家に入り浸(びた)る博徒の親分を睨(にら)んだ。両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様(こんな)だと眼色を変えて人に訴えた。親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。母を窃(ぬす)む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。巳代公を入れるより彼(あの)二人(ふたり)を入れろ、と村の者は罵った。巳代吉は本家から願下(ねがいさ)げて、監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。然し親分は中々其居馴れた久さんの家(うち)の炉(ろ)の座(ざ)を動こうともしなかった。親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合(にらみあい)の姿となった。或日巳代吉は手頃(てごろ)の棒(ぼう)を押取って親分に打ってかゝった。親分も麺棒(めんぼう)をもって渡り合った。然し血気の怒に任(まか)する巳代吉の勢鋭く、親分は右の手首を打折(うちお)られ、加之(しかも)棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂(さ)かれ、大分の痛手(いたで)を負うた。隣家の婆さんが駈(か)けつけて巳代吉を宥(なだ)めなかったら、親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。繃帯(ほうたい)して右手(めて)を頸(くび)から釣って、左の手で不精鎌(ぶしょうがま)を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後(あと)の事だった。喧嘩の仲入(なかいり)に駈けつけた隣の婆さんは、側杖(そばづえ)喰(く)って右の手を痛めた。久さんのおかみは、詫(わ)び心に婆さん宅の竈(へっつい)の下など焚(た)きながら、喧嘩の折節(おりふし)近くに居合わせながら看過(みすぐ)した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

 田畑は勿論(もちろん)宅地(たくち)もとくに抵当(ていとう)に入り、一家中日傭(ひやとい)に出たり、おかみ自身(じしん)手織(ており)の木綿物(もめんもの)を負って売りあるいたこともあったが、要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。「お広さん、大層(たいそう)精(せい)が出ますね」久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、「天狗様(てんごうさま)の様に働くのさ」とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。おかみは一切稼ぎを廃(よ)した。而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装(なり)をして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前(きまえ)を見せて素手では帰さなかった。彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵(ふてき)であった。

           *

 到頭腫物(しゅもつ)が潰(つぶ)れる時が来た。
 おかみは独で肝煎(きもい)って、家を近在(きんざい)の人に、立木(たちき)を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻(とりもど)して隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、一人残った腫れぼったい瞼(まぶた)をした末の息子を近村の人に頼み、唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉(いのきち)と間借(まが)りして住む可く東京へ往って了うた。
 酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。
 嬶(かか)に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰(く)って一人木小屋に踏み留まった久さんも、是非なく其姉と義兄の世話になるべく、頬冠(ほおかむり)の頭をうな垂れて草履(ぞうり)ぼと/\懐手(ふところで)して本家に帰った。
 屋敷のあとは鋤(す)きかえされて、今は陸稲(おかぼ)が緑々(あおあお)と茂って居る。


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     わかれの杉

 彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡(ちんじゅはちまん)である。型の通りの草葺の小宮(こみや)で、田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る。
 月の朔(ついたち)には、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞(のりと)を上げ、氏子(うじこ)の神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山(たくさん)入(はい)った神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭(ひょうまつり)、秋の風祭(かざまつり)は毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽(ひるかぐら)が一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事(よりあいごと)があれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿(はいでん)でしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸(こうしど)を立て、締(しま)りをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併が兎(と)の、風致林(ふうちりん)が角(こう)のと、面倒な事だ。先頃も雑木(ぞうき)を売払って、あとには杉か檜苗(ひのきなえ)を植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾(かいこん)させ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々(そうそう)木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋から脅(おど)されたので、村は遽(あわ)てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。
 粕谷八幡はさして古(ふる)くもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのは梢(うら)の枯(か)れた杉の木で、此は社(やしろ)の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。烏がよく其枯れた木末(こずえ)にとまる。
 宮から阪の石壇(いしだん)を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃(たんぼ)がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋(いしばし)を渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干(らんかん)無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐(ぶんき)して、直な方は人家の木立の間を村に隠(かく)れ、一は人家の檜林に傍(そ)うて北に折れ、林にそい、桑畑(くわばたけ)にそい、二丁ばかり往って、雑木山の端(はし)からまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山の曲(まが)り角(かど)に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。
 村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送(もくそう)した人も少くはなかった。中には生別(せいべつ)即(そく)死別(しべつ)となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢(あ)うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送(みおくり)の杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
 其は小説寄生木(やどりぎ)の原著者篠原良平の小笠原(おがさわら)善平(ぜんぺい)である。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝(ほうてんけっしょう)の三週年。
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