みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

一 買物は前以て価(ねだん)を聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着(つねぎ)は木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具は錆(さび)ぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人(ひと)の子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品(しなもの)を借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
    明治四十三年

 翁はもと/\我利(がり)から広大の牧場地を願下げたと思わるゝを心(しん)から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
 午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯(こくぜん)蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療(せりょう)を受けに利別(としべつ)から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故(なぜ)もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚(はだ)を見せろ、と翁が云う。体(からだ)が臭(くさ)いからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身が露(あら)われた。正に熊だ。腹毛(はらげ)胸毛(むなげ)はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\渦(うず)まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々(つくづく)感嘆して見惚(みと)れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶(やくびん)が並んだ次の間に調剤(ちょうざい)に入った。
 河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗(きれい)な縞栗鼠(しまりす)が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
 四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥(かゆ)二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水(かんすい)して床に入るのが、翁の常例だそうな。
 夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後哈爾賓(ハルピン)で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕(あばた)ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函(ぜにばこ)の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞(あぐら)かき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶ頬(ほお)の殺(そ)げたきかぬ気らしい細君は、モンペ袴(はかま)をはいて甲斐□□しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-296-11]は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄(わな)にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭(さけ)、鱒(ます)、□(やまべ)なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例(ためし)にもなる山鳥の塩焼にも□(あ)いて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避(さ)くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先(はさき)にはさまった豆粒(まめつぶ)を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提(さ)げると重たい開墾(かいこん)鍬(ぐわ)がぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人(おっと)の留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡本別村(ほんべつむら)の役場までの十余里はまだ可(いい)として、釧路の白糠(しらぬか)村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙(さしがみ)が来てものこ/\出かけて行かねばならなかった話。珍(ちん)な話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒(せきれい)が鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦が妬(ねた)ましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
 九月廿六日。霽(はれ)。
 翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-297-11]の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺(こっぱぶき)の此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯(きびめし)を食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪(わりまき)が山のように積んである。此辺は蕨(わらび)を下草にした楢(なら)の小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐ傍(そば)を流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角(やまはな)をめぐって少し往くと、山際(やまぎわ)に草葺のあばら舎(や)がある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側(かわはた)に移ったそうな。何時の間にか※別谷(りくんべつだに)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-3]別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓(えきてい)から十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-4]別川クンボベツ川斗満川の相会する※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-5]を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川(としべつがわ)の谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大(いちだい)鎌状(かまなり)をなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、※別駅(りくんべつえき)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別停車場及※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-8]となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅(かわはば)六七間もあろうか。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別橋から瞰(なが)むる※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別川の川床荒れて水の濁れるに引易(ひきか)え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺(あざむ)く礫(こいし)の上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影(ひかげ)紊(みだ)して駛(はし)り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満(とまむ)の水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-14]別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。然(さ)もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水(しみず)が山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣(ゆかた)一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、斧(おの)で氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
 駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場(こまば)出(で)の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕(てんまく)を張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
 昨夕来泊した若年(じゃくねん)の測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめ/\しく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だと賞(ほ)める。
 午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内(らちない)に入る。東向きの山腹、三囲(みかかえ)四囲(よかかえ)もある楢(なら)の大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水が湧(わ)いたりして居る。馬牛の群の中を牛糞を避(よ)け、馬糞を跨(また)ぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠(くろぬか)の様にたかる。関翁が牧場記事の一節も頷(うなず)かれる。左程大くはないと云っても長(たけ)六尺はある蕗(ふき)や、三尺も伸びた蓬(よもぎ)、自然生の松葉独活(アスパラガス)、馬の尾について殖(ふ)えると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いの径(こみち)を通って、斗満橋の袂(たもと)に出た。一坪程の小さな草舎(くさや)がある。屋後(うしろ)には熊の髑髏(あたま)の白くなったのや、まだ比較的生(なま)しいのを突き刺(さ)した棹(さお)、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩(くまがり)に雇(やと)って置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。覗(のぞい)て見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
 駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸(おおのこ)や嚢を背負い薬鑵を提(さ)げた男女が、幾組も/\西へ通る。三井の伐木隊(ばつぼくたい)である。富源の開発も結構だが、楢(なら)の木(き)はオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃(くるみ)は銃床に、ドロはマッチの軸木(じくぎ)になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌(さいき)の眼を以て彼等を見送った。
 夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋(ほうかいや)の家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴(げっきん)を弾いて盛(さかん)に踊(おど)った。
 夕食に鮪(まぐろ)の刺身(さしみ)がつく。十年ぶりに海魚(うみざかな)の刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
 要するに斗満も開けたのである。
 九月二十七日。美晴。
 今日は斗満の上流ニオトマムに林学士(りんがくし)の天幕(てんと)を訪(と)う日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君が負(おぶ)ってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜(とうなす)、真桑瓜(まくわうり)、玉蜀黍(とうもろこし)、甘藍(きゃべつ)なぞを駄馬(だば)に積み、其上に打乗って先発する。仔馬(こうま)がヒョコ/\ついて行く。又一君も馬匹(ばひつ)を見がてら阪の上まで送って来た。
 阪を上り果てゝ、囲(かこ)いのトゲ付(つき)鉄線(はりがね)を潜(くぐ)り、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、群(む)れ離れ寝たり起きたり自在(じざい)に遊んで居る。此処(ここ)はアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦(へいたん)な高原(こうげん)の意。やゝ黄ばんだ楢(なら)、□(かしわ)の大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方(あち)此方(こち)に矮(ひく)い叢(むら)をなす萩(はぎ)はすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとから/\音(おと)を立てる。此萩の花ざかりに駒(こま)の悠遊する画趣(がしゅ)が想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬に劣(おと)らじと鼻孔(びこう)を開いて初秋高原清爽の気を存分(ぞんぶん)に吸(す)いつゝ、或は関翁と打語らい、或は黙(もく)して四辺(あたり)の景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬(ぐんば)補充部(ほじゅうぶ)の山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋を染(そ)めて居る。ふりかえって東を見れば、※別谷(りくんべつだに)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-6]を劃(しき)るヱンベツの山々を踏(ふ)まえて、釧路(くしろ)の雄阿寒(おあかん)、雌阿寒(めあかん)が、一は筍(たけのこ)のよう、他は菅笠(すげがさ)のような容(なり)をして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休(ひとやすみ)してまた行く。高原漸く蹙(せま)って、北の片岨(かたそば)には雑木にまじって山桜(やまざくら)の紅葉したのが見える。桜花(さくら)見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
 やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下(めした)に白樺(しらかば)の簇立(ぞくりつ)する谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹(しんようじゅ)を語る印度藍色(インジゴーいろ)の山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色(すみれいろ)の微笑(えみ)を浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚(こうこつ)として眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、彼(あの)奥にあるのだ。而(しか)して関翁の夢魂(むこん)常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南(カナン)は其処(そこ)にある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-16]別なんぞは最早(もう)久恋(きゅうれん)の地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心(ゆうしん)はとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢(かいびゃく)以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服に駛(は)せて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中(きょうちゅう)の秘(ひ)をほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満(とまむ)上流の山谷(さんこく)を望んだ時、余は翁が心絃(しんげん)の震(ふる)えを切(せつ)ないほど吾心(むね)に感じた。
 鉄線(はりがね)を潜(くぐ)って放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児(むすこ)と各裸馬(はだかうま)に乗って来た。関翁が声をかける。路作りかた/″\※別(りくんべつ)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-302-7]まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼(すみやき)をする人そうな。やがて小さな流れに沿(そ)う熊笹葺(くまざさぶ)きの家に来た。炭焼君の家である。白樺(しらかば)の皮を壁(かべ)にした殖民地式の小屋だが、内は可なり濶(ひろ)くて、畳(たたみ)を敷き、奥に箪笥(たんす)柳行李(やなぎごうり)など列(なら)べてある。妻君(かみさん)も善(よ)い顔をして居る。囲炉裏側(いろりばた)に腰かけて渋茶(しぶちゃ)の馳走(ちそう)になって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
 茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙(はりがみ)に、彼岸会(ひがんえ)説教(せっきょう)、斗満寺(とまむじ)と書いてある。斗満寺! 此処(ここ)に其様(そん)なお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本を抱(かか)えて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂(いわゆる)お寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造(そぞう)な熊笹葺き、手際悪(てぎわわる)く張った壁の白樺赤樺(あかかば)の皮は反(そ)っくりかえって居る。関翁を先頭(せんとう)にどや/\入ると、形(かた)ばかりの床(ゆか)に荒莚(あらむしろ)を敷いて、汚(よご)れた莫大小(めりやす)のシャツ一つ着(き)た二十四五の毬栗頭(いがぐりあたま)の坊さんが、ちょこなんと座(すわ)って居る。後(うしろ)に、細君であろ、十八九の引(ひっ)つめに結(ゆ)って筒袖(つつそで)の娘々(むすめむすめ)した婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形(ふくべがた)南瓜(かぼちゃ)や、馬鈴薯(じゃがいも)を堆(うずたか)く積んである。奥の壁つきには六字名号(みょうごう)の幅(ふく)をかけ、御燈明(おとうみょう)の光ちら/\、真鍮(しんちゅう)の金具(かなぐ)がほのかに光って居る。妙(みょう)に胸(むね)が迫(せま)って来た。紙片(しへん)と鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係世並(よなみ)信常(しんじょう)、と書いてくれた。朝露の間(ま)は子供に書(ほん)を教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱(ごしんぼう)なさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云って別(わかれ)を告げる。戸外(そと)に紫の蝦夷菊(えぞぎく)が咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者(えちごもの)なる炭焼小屋の主人(あるじ)が招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家(だんか)一軒のお寺もゆかしいものである。
 樺林(かばばやし)を拓(ひら)いて、また一軒、熊笹と玉蜀黍(とうもろこし)の稈(から)で葺(ふ)いた小舎(こや)がある。あたりには樺(かば)を伐(き)ったり焼いたりして、黍(きび)など作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何(どう)したかい、何故(なぜ)薬取りに来ない?」と怒鳴(どな)る。爺(じい)さんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児(むすこ)が出て来る。翁は其肩をたゝき顔を覗(のぞ)き込むようにして「如何(どう)だ、関(せき)の爺(じい)を識(し)ってるか。ウム、識ってるか」子供がにこ/\笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生(やせい)松葉独活(アスパラガス)の実(み)が紅玉を鏤(ちりば)めて居る。不図白木の鳥居(とりい)が眼についた。見れば、子供が抱(かか)えて行って了(しま)いそうな小さな荒削(あらけず)りの祠(ほこら)が枯草の中に立って居る。誰が何時(いつ)来て建てたのか。誰が何時来て拝(おが)むのか。西行(さいぎょう)ならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、崖(がけ)の下、小さな流(ながれ)に沿(そ)うてまた一つ小屋がある。これが斗満最奥(さいおく)の人家(じんか)で、駅逓(えきてい)から此処(ここ)まで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹(ろうじゅ)が一株、大分紅葉(もみじ)した枝を、振(ふり)面白くさし伸(の)べて居る小高い丘(おか)に来た。少し早いが此処で昼食(ちゅうじき)とする。人夫が蕗(ふき)の葉や蓬(よもぎ)、熊笹(くまざさ)引かゞってイタヤの蔭(かげ)に敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君の背(せなか)から下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干(うめぼし)菜(さい)で握飯(にぎりめし)を食う。流れは見えぬが、斗満(とまむ)の川音(かわおと)は耳爽(さわやか)に、川向うに当る牧場内(ぼくじょうない)の雑木山は、午(ご)の日をうけて、黄に紅に緑に燃(も)えて居る。やがてこゝを立って小さな渓流(けいりゅう)を渡る時、一同石に跪(ひざまず)いて清水(しみず)をむすぶ。
 最早(もう)人気(ひとけ)は全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。鷹(たか)の羽(は)なぞ落ちて居る。径(みち)は稀(まれ)に渓流を横ぎり、多く雑木林(ぞうきばやし)を穿(うが)ち、時にじめ/\した湿地(ヤチ)を渉る。先日来の雨で、処々に水溜(みずたまり)が出来て居るが、天幕(てんと)の人達が熊笹を敷き、丸木(まるき)を渡(わた)しなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終(しじゅう)一行(いっこう)の殿(しんがり)として、股引(ももひき)草鞋(わらじ)尻(しり)引(ひき)からげて杖(つえ)をお伴(とも)にてく/\やって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、後(あと)見るな/\と手をふって、一本橋にも人手を仮(か)らず、堅固(けんご)に歩いて来る。斯くて四里を歩(あゆ)んで、午後の一時渓声(けいせい)響く処に鼠色(ねずみいろ)の天幕(てんまく)が見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
 斗満川辺の少しばかりの平地を拓(ひら)いて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。林(はやし)林学士を統領(とうりょう)として、属員(ぞくいん)人夫(にんぷ)アイヌ約二十人、此春以来此処(ここ)を本陣(ほんじん)として、北見界(きたみざかい)かけ官有針葉樹林(しんようじゅりん)の調査をやって居るのである。別天地の小生涯(しょうせいがい)、川辺(かわべ)に風呂(ふろ)、炊事場(すいじば)を設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄(あさなわ)を張って洗濯物を乾(ほ)し、少しの空地(あきち)には青菜(あおな)まで出来て居る。
 茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態(せいたい)を見に行く。濶(はば)五間(けん)程の急流に、楢(なら)の大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、梢(こずえ)を踏み、終に枝を踏む軽業(かるわざ)、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際(みぎわ)の雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐(とうばつ)をやったな」と林学士が云う。胡桃(くるみ)が伐(き)ってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身を包(つつ)む。蝦夷松(えぞまつ)や椴松(とどまつ)、昔此辺の帝王(ていおう)であったろうと思わるゝ大木倒(たお)れて朽ち、朽ちた其木の屍(かばね)から実生(みしょう)の若木(わかぎ)が矗々(すくすく)と伸びて、若木其ものが径(けい)一尺に余(あま)るのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄(やまぶどう)が絡(から)んだり、其(それ)自身(じしん)針葉樹林の小模型(しょうもけい)とも見らるゝ、緑(りょく)、褐(かつ)、紫(し)、黄(おう)、さま/″\の蘚苔(こけ)をふわりと纏(まと)うて居るのもある。其間をトマムの剰水(あまり)が盆景(ぼんけい)の千松島(ちまつしま)と云った様な緑苔(こけ)の塊(かたまり)を□(めぐ)って、流るゝとはなく唯硝子(がらす)を張った様に光って居る。やがて麓(ふもと)に来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松峯(みね)へ峰(みね)へと弥(いや)が上に立ち重なって、日の目も漏(も)れぬ。此辺はもう関(せき)牧場(ぼくじょう)の西端になっていて、林(りん)は直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明(うすあかり)の一端に佇(たたず)んで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝に跨(またが)る針葉樹の処女林(しょじょりん)には、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方(とほう)に暮るゝことがある、其様(そん)な時には峰を攀(よ)じ、峰に秀(ひい)ずる蝦夷松椴松の百尺もある梢に猿(ましら)の如く攀じ上(のぼ)り、展望して方向をきめるのです、と。突然銃声(じゅうせい)が響いた。唯一発――あとはまた森(しん)となる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖など伐(き)ってもらって、天幕に帰る。
 勝手元(かってもと)は御馳走(ごちそう)の仕度(したく)だ。人夫が採(と)って来た茶盆大(ちゃぼんだい)の舞茸(まいたけ)は、小山の如く莚(むしろ)に積(つ)まれて居る。やがて銃を負(お)うてアイヌが帰って来た。腰には山鳥(やまどり)を五羽ぶら下げて居る。また一人川下(かわしも)の方から釣棹(つりざお)肩に帰って来た。□(やまべ)釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、唯(たった)一羽か」と云う。此も山鳥。先刻(さっき)聞いた銃声(じゅうせい)の果(はて)なのであろう。火を焚(た)く、味噌(みそ)を摺(す)る、魚鳥(ぎょちょう)を料理する、男世帯(おとこじょたい)の目つらを抓(つか)む勝手元の忙しさを傍目(よそめ)に、関翁はじめ余等一同、かわる/″\川畔(かわばた)に往って風呂の馳走(ちそう)になる。荒削(あらけず)りの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客(おんなきゃく)の為め、天幕(てんまく)のきれを屏風(びょうぶ)がわりに垂(た)れてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外は樺(かば)の篝火(かがり)が真昼(まひる)の様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかん/\炭火(すみび)を熾(おこ)して、ブツ/\切りにした山鳥や、尾頭(おかしら)つきの□(やまべ)を醤油(したじ)に浸(ひた)しジュウ/\炙(あぶ)っては持て来(き)、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸(まいたけ)の味噌汁(みそしる)が来る。焚き立ての熱飯(あつめし)に、此山水の珍味(ちんみ)を添(そ)えて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖(けんたん)思わず数碗(すうわん)を重(かさ)ねる。
 日はもうとっぷり暮れて、斗満(とまむ)の川音が高くなった。幕外(そと)は耳もきれそうな霜夜(しもよ)だが、帳内(ちょうない)は火があるので汗ばむ程の温気(おんき)。天幕の諸君は尚(なお)も馳走に薩摩(さつま)琵琶(びわ)を持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興(ごうきょう)である。弾手(ひきて)は林学士(りんがくし)が部下の塩田君(しおだくん)、鹿児島(かごしま)の壮士(そうし)。何をと問われて、取りあえず「城山(しろやま)」を所望(しょもう)する。今日(きょう)は九月二十七日、城山没落(ぼつらく)は三十三年前の再昨日(さいさくじつ)であった。塩田君はやおら琵琶を抱(かか)え、眼を半眼(はんがん)に開いて、咳(がい)一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「夫(そ)れ――達人(たつじん)は――」声はいさゝか震(ふる)えて響きはじめた。余は瞑目(めいもく)して耳をすます。「大隅山(おおすみやま)の狩(かり)くらにィ――真如(しんにょ)の月(つき)の――」弾手は蕭々(しょうしょう)と歌いすゝむ。「何を怒(いか)るや怒(いか)り猪(い)の――俄(にわか)に激(げき)する数千騎(き)」突如(とつじょ)として山崩(くず)れ落つ鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)し、四絃(しげん)を奔(はし)る撥音(ばちおと)急雨(きゅうう)の如く、呀(あっ)と思う間もなく身は悲壮(ひそう)渦中(かちゅう)に捲(ま)きこまれた。時は涼秋(りょうしゅう)九月(げつ)、処は北海山中の無人境、篝火(かがりび)を焚く霜夜の天幕、幕(まく)の外(そと)には立聴くアイヌ、幕の内には隼人(はやと)の薩摩(さつま)壮士(おのこ)が神来(しんらい)の興(きょう)まさに旺(おう)して、歌断(た)ゆる時四絃続き、絃黙(げんもく)す時声(こえ)謡(うた)い、果ては声音(せいおん)一斉(いっせい)に軒昂(けんこう)嗚咽(おえつ)して、加之(しかも)始終(しじゅう)斗満川(とまむがわ)の伴奏(ばんそう)。手を膝(ひざ)に眼を閉(と)じて聴く八十一の翁(おきな)をはじめ、皆我を忘れて、「戎衣(よろい)の袖(そで)をぬらし添(そ)うらん」と結びの一句低(ひく)く咽(むせ)んで、四絃一撥(ばつ)蕭然(しょうぜん)として曲(きょく)終るまで、息もつかなかった。讃辞(さんじ)謝辞(しゃじ)口を衝(つ)いて出る。天幕の外もさゞめいた。興(きょう)未だ尽きぬので、今一つ「墨絵(すみえ)」の曲を所望する。終って此興趣(きょうしゅ)多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
 それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召(おめし)につれて髭顔(ひげがお)二つランプの光に現(あら)われ、天幕の入口に蹲踞(そんこ)した。若い方は、先刻(さっき)山鳥五羽うって来た白手(しらで)留吉(とめきち)、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯(ごましおひげ)胸に垂(た)るゝ魁偉(おおき)なアイヌ、名は小川(おがわ)ヤイコク、これはあまり口が利(き)けぬ。アイヌの信仰(しんこう)、葬式(そうしき)の事、二三風習(ふうしゅう)の質問などして、最後に、日本人(シャモ)に不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人(シャモ)のゴロツクがイヤだ」と吐(は)き出す様に云った。ゴロツクは脅迫(きょうはく)の意味そうな。乳呑子(ちのみご)連れた女(メノコ)が来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味(すごみ)があるばかり、例(れい)の刺青(いれずみ)もして居らず、毛繻子(けじゅす)の襟(えり)がかゝった滝縞(たきじま)の綿入(わたいれ)なぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語を交(まじ)えて、何もないので紫(むらさき)メレンスの風呂敷(ふろしき)をやった。
 惜しい夜も更(ふ)けた。手を浄(きよ)めに出て見ると、樺の焚火(たきび)は燃(も)え下(さが)って、ほの白い煙(けむり)を□(あ)げ、真黒な立木(たちき)の上には霜夜の星爛々(らんらん)と光って居る。何処(どこ)かの天幕でぱっと火光(あかり)がさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入って了(しま)った。川音が颯々(さあさあ)と嵐の様に響(ひび)く。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き/\趣(おもむき)深い天幕の夢を結んだ。
 九月二十八日。微雨。
 関翁は起きぬけに川に灌水(かんすい)に行(ゆ)かれた。
 朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路に就(つ)く。成程(なるほど)ニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満(とまむ)を去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚遺憾(のこり)多かった。
 帰路(きろ)余は少し一行に後(おく)れて、林中(りんちゅう)にサビタのステッキを伐(き)った。足音がするのでふっと見ると、向(むこ)うの径(こみち)をアイヌが三人歩いて来る。真先(まっさき)が彼(かの)留吉(とめきち)、中にお花さんが甲斐□□(かいかい)しく子を負(お)って、最後に彼ヤイコクがアツシを着(き)、藤蔓(ふじづる)で編(あ)んだ沓(くつ)を穿(は)き、マキリを佩(は)いて、大股(おおまた)に歩いて来る。余は木蔭から瞬(またた)きもせず其行進(マアチ)を眺めた。秋寂(さ)びた深林(しんりん)の背景(はいけい)に、何と云う好調和(こうちょうわ)であろう。彼等アイヌは亡(ほろ)び行く種族(しゅぞく)と看做(みな)されて居る。然し此森林(しんりん)に於て、彼等は正(まさ)に主(あるじ)である。眼鏡(めがね)やリボンの我等は畢竟(ひっきょう)新参(しんざん)の侵入者(しんにゅうしゃ)に過ぎぬ。余は殊(こと)に彼ヤイコクが五束(いつつか)もある鬚髯(しゅぜん)蓬々(ぼうぼう)として胸(むね)に垂(た)れ、素盞雄尊(すさのおのみこと)を見る様な六尺ゆたかな堂々(どうどう)雄偉(ゆうい)の骨格(こっかく)と悲壮(ひそう)沈欝(ちんうつ)な其眼光(まなざし)を熟視(じゅくし)した時、優勝者と名のある掠奪者(りゃくだつしゃ)が大なる敗者(はいしゃ)に対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄(やまぶどう)などちぎると猿(さる)に対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワを採(と)っては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊一変(いっぺん)せばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人(シャモ)に到らん、日本人(シャモ)一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
 天幕を出る時ぽと/\落ちて居た雨は止(や)み、傘(かさ)を翳(さ)す程にもなかった。炭焼君(すみやきくん)の家で昼の握飯(にぎりめし)を食って、放牧場(ほうぼくじょう)の端(はし)から二たび斗満上流(じょうりゅう)の山谷(さんこく)を回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子を抱(だ)いて駄馬(だば)に乗った。貢君(みつぎくん)が口綱(くちづな)をとって行く。後から仔馬(こうま)がひょこ/\跟(つ)いて行く。時々道草を食って後(おく)れては、遽(あわ)てゝ駈(か)け出し追(おっ)ついて母馬(はは)の横腹(よこはら)に頭(あたま)をすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時駅逓(えきてい)に帰った。
 関翁は過日来足痛(そくつう)で頗(すこぶる)行歩(ぎょうぶ)に悩(なや)んで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子(ようす)も見せず、若い者並(なみ)に四里の往復は全く恐れ入った。
 此夕台所(だいどこ)で大きな甘藍(きゃべつ)を秤(はかり)にかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植(いしょく)もせぬのだから驚く。関翁が家の馳走(ちそう)で、甘藍の漬物(つけもの)に五升藷(ごしょういも)(馬鈴薯(じゃがいも))の味噌汁(みそしる)は特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆(えだまめ)、玉蜀黍(とうもろこし)、馬鈴薯、南瓜(とうなす)、蕎麦(そば)、大根(だいこ)、黍(きび)の餅(もち)、何れも中々味が好い。唯真桑瓜(まくわうり)は甘味が足らぬ。
 九月二十九日。晴。
 今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外(らちそと)を南へ下り、ニタトロマップの細流(さいりゅう)を渡り、斗満殖民地入口と筆太(ふでぶと)に書いた棒杭(ぼうぐい)を右に見て、上利別(かみとしべつ)原野(げんや)に来た。野中(のなか)、丘(おか)の根(ね)に、ぽつり/\小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭(ふしここたん)の教授所を見る。代用小学校である。型(かた)の如き草葺(くさぶき)の小屋、子供は最早帰って、田村(たむら)恰人(まさと)と云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別(としべつ)川辺(かわべ)に模範(もはん)農夫(のうふ)の宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となく潤(うるお)うて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中蔬菜(そさい)を囲(かこ)う窖(あなぐら)を設け、農具(のうぐ)漁具(ぎょぐ)雪中用具(せっちゅうようぐ)それ/″\掛(か)け列(なら)べて、横手(よこて)の馬小屋には馬が高く嘶(いなな)いて居る。苦(にが)い茶(ちゃ)を点(い)れて、森永(もりなが)のドロップスなど出してくれた。余等は注文(ちゅうもん)してもぎ立ての玉蜀黍を炉(ろ)の火で焼いてもらう。主(あるじ)は岡山県人、四十余の細作(ほそづく)りな男、余作君に過日(こないだ)の薬(くすり)は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無(いちもんな)しで渡道(とどう)し、関家に奉公中貯蓄(ちょちく)した四十円を資本とし、拓(ひら)き分(わ)けの約束で数年前此原野を開墾(かいこん)しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入(みいり)があろうと云うことであった。細君の阿爺(ちゃん)が遙々(はるばる)讃岐(さぬき)から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜(まくわうり)が蔓(つる)の上に沢山ころがり、段落(だんお)ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆(だいず)は畝(うね)から畝に莢(さや)をつらねて、試(こころみ)に其一個を剖(さ)いて見ると、豆粒(つぶ)の肥大(ひだい)実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰(く)い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘(うま)い。先年皇太子殿下(今上(きんじょう)陛下(へいか))が釧路(くしろ)で玉蜀黍を召(め)してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤(もっとも)である。
 午後は又一君の案内で、アイヌの古城址(こじょうし)なるチャシコツを見る。※別川(りくんべつがわ)[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-15]に臨んだちょっとした要害(ようがい)の地、川の方は断崖(だんがい)になり、後(うしろ)はザッとしたものながら、塹濠(ざんごう)をめぐらしてある。此処から見ると※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-17]別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠(しょうし)を建(た)てゝ斃死(へいし)した牛馬の霊(れい)を祭(まつ)るつもりで居る。
 夕方三人で又一君宅の風呂(ふろ)をもらいに行く。実は過日来往返(おうへん)の毎(たび)に斗満橋(とまむばし)の上から見て羨(うらや)ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端(かわばた)で、露天(ろてん)に据(す)えてある。水に強いと云う桂(かつら)の径(わたり)二尺余の刳(く)りぬき、鉄板(てっぱん)を底(そこ)に鋪(し)き、其上に踏板(ふみいた)を渡したもので、こんな簡易(かんい)な贅沢(ぜいたく)な風呂には、北海道でなければ滅多(めった)に入られぬ。秋の日落ち谷蒼々(そうそう)と暮るゝ夕(ゆうべ)、玉の様な川水を沸(わか)した湯に頸(くび)まで浸(ひた)って、直ぐ傍(そば)を流るる川音を聴いて居ると、陶然(とうぜん)として即身成仏(そくしんじょうぶつ)の妙境(みょうきょう)に入(い)って了う。
 夜上利別(かみとしべつ)のマッチ製軸所(せいじくしょ)支配人久禰田(くねだ)孫兵衛(まごべえ)君に面会。もと小学教師をした淡路(あわじ)の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終(しじゅう)関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下駅逓(えきてい)の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩(こ)むる碧(あお)い朝霧(あさぎり)の中に、関翁は此方に向い、杖(つえ)の頭(かしら)に両手を組(く)んで其上に額(ひたい)を押付(おしつ)けて居られた。
 ※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-311-12]別で余作君に別れ、足寄駅(あしょろえき)で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅(たかしまえき)で又一君に別れ、池田駅で旭川行(あさひかわゆき)の汽車に乗換え、帯広(おびひろ)で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮(ゆうぐれ)に十勝(とかち)国境(こっきょう)の白茅(はくぼう)の山を石狩(いしかり)の方へと上(のぼ)った。此処の眺望(ながめ)は全国の線路に殆(ほと)んど無比である。越し方(かた)を顧(かえり)みれば、眼下(がんか)に展開する十勝の大平野(だいへいや)は、蒼茫(そうぼう)として唯雲(くも)の如くまた海の如く、却(かえっ)て北東の方を望めば、黛色(たいしょく)の連山(れんざん)波濤(はとう)の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁(しょうへき)の如く取囲(とりかこ)む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭(よ)って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯(いっぽう)特立(とくりつ)頗(すこぶる)異彩(いさい)ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川(とまむがわ)の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢(ろうれい)已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西(モーゼ)の如く、遙(はるか)に迦南(カナン)を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体(からだ)を仮(か)って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓(ひら)くであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影(ひかげ)は消え、蒼々(そうそう)と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶(なお)窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃(ひら)めく。はっと思って見れば、老木(ろうぼく)の梢(こずえ)である。年久しく風霜(ふうそう)と闘うて皮(かわ)は大部分剥(は)げ、葉も落ちて、老骨(ろうこつ)稜々(りょうりょう)たる大蝦夷松(おおえぞまつ)が唯一つ峰に突立(つった)って居るのであった。
 余の胸は一ぱいになった。
君に別れ十勝の国の国境(くにざかひ)
    今越(こ)ゆるとてふりかへり見し
かへり見(み)れば十勝は雲になりにけり
    心に響く斗満(とま)の川音(かはおと)
雲か山か夕霧(ゆふぎり)遠く隔(へだ)てにし
    翁(おきな)が上(うへ)を神(かみ)護(まも)りませ
 斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩(いしかり)の鹿越駅(しかごええき)で関翁宛(あて)に投函(とうかん)した。」

       三

 武蔵野の彼等が斗満を訪(と)うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度粕谷(かすや)の茅廬(ぼうろ)に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人(あるじ)は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構(かま)わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達(た)して戻(もど)りかけると、馬車はすれ違(ちが)いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽(なかおれぼう)をかぶって、例(れい)の癖(くせ)で下顋(したあご)を少し突出し、濡(ぬ)れ手拭を入れた護謨(ごむ)の袋(ふくろ)をぶら提(さ)げながら、例の足駄(あしだ)でぽッくり/\刻足(きざみあし)に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼無地(むじ)の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉(ふ)る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意(こんい)の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
 翁は斗満に帰ってから、実桜(チェリー)の苗(なえ)二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済(す)んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其翌日(よくじつ)も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
去年(こぞ)の今日(けふ)も斯(か)くは降(ふ)りきと秋(あき)の雨
    眺めて独君をしぞおもふ
 程なく翁から其雑著(ざっちょ)出版(しゅっぱん)の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁(かり)がまた武蔵野の空に来(き)鳴(な)く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期(かくご)をした様であったが、年と共に玉(たま)の緒(お)新(あらた)に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水(かんすい)をはじめ、例の細字(さいじ)の手紙、著書の巻首(かんしゅ)に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布(はいふ)す可き二百幾名の住所姓名を一々明細(めいさい)に書いて来た。翁にとりては此が形見(かたみ)のつもりであったのである。
「命(いのち)の洗濯(せんたく)」「命(いのち)の鍛錬(たんれん)」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満(とまむ)漫吟(まんぎん)」をまとめて一冊(さつ)とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店(けいせいしゃしょてん)から発行された。翁は其出版を見て聊(いささか)喜(よろこび)の言を漏(も)らしたが、五月初旬には愈(いよいよ)死を決したと見えて、逗子(ずし)なる老父の許(もと)と粕谷(かすや)の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝(いわい)に出来た関牧場の画模様(えもよう)の服紗(ふくさ)と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々歌(うた)及(および)俳句(はいく)を自署(じしょ)したものであった。両家族の者残らずに宛(あ)てゝ、各別(かくべつ)に名前を書いてあった。「人並(ひとなみ)の道は通(とお)らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊(たんざく)には、
辞世 一 諸(もろ)ともに契(ちぎ)りし事は半(なかば)にて
         斗満(とまむ)の露と消えしこの身は八十三老白里辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
         永く祈らん斗満(とま)の賑(にぎはひ)八十三老白里死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
         落れば土と飛んでそらまで八十三老白里死後希望 死出(しで)の山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根(たかね)を目の下に見て八十三老白里と書いてあった。

           *

 七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末(しょまつ)に左の三首の歌があった。
  寄川恋
我恋は斗満(とまむ)の川の水の音
    夜ひるともにやむひまぞなき
  病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三(やそみ)とせ
    尽きざる罪になほ悩(なや)みつゝ
  死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
    十勝石狩両たけのかひ
翁の絶筆(ぜっぴつ)であった。

       四

 翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流(にのみやりゅう)に与えんと欲し、子は米国風(べいこくふう)に富まんことを欲した。其(その)為(ため)関家の諍(あらそい)は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起(ひきおこ)した。翁は其為に心身の精力を消磨(しょうま)した。然し翁は自(みずか)ら信ずること篤(あつ)く、子を愛すること深く、神明(しんめい)に祈り、死を決して其子を度(ど)す可く努めた。
 最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満(とまむ)を訪(おとず)れた其二周年が来た。雁(かり)は二たび武蔵野の空に来(き)鳴(な)いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御(ほうぎょ)、乃木翁(のぎおう)の自刃(じじん)、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁(びょうおう)に如何に響(ひび)いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移(おしうつ)って居る内に、突然翁の訃報(ふほう)が来た。
 翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終(りんじゅう)には、形(かたち)に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何(いず)れにもない苦しみがあった。然し今は詳(つまびらか)に説く可き場合でない。
 翁の歌に、
遠く見て雲か山かと思ひしに
    帰ればおのが住居(すまひ)なりけり
 遮莫(さもあらばあれ)永い年月(としつき)の行路難(こうろだん)、遮莫(さもあらばあれ)末期(まつご)十字架の苦(くるしみ)、翁は一切(いっさい)を終えて故郷(ふるさと)に帰ったのである。


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     次郎桜

 朝、珍らしく角田(つのだ)の新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷(ざしき)に請(しょう)じた。新五郎さんは耶蘇(やそ)信者(しんじゃ)で、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠(そえん)の挨拶(あいさつ)にややしばし時間を移(うつ)した。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――隣(となり)の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処(とこ)の次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
 青山(あおやま)学院(がくいん)で最早(もう)試験前の忙(せわ)しくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、嘘(うそ)の様な話だ。
 新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺(おとっさん)も、間(ま)に合わなかったそうである。夜にかけて釣台(つりだい)にのせて連れて来て、組合中(くみあいじゅう)の都合(つごう)で今日(きょう)葬式(そうしき)をすると云うのである。
 新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
 次郎さんは、千歳村(ちとせむら)で唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷(かすや)の夫妻が千歳村に移住(いじゅう)した其春、好成績(こうせいせき)で小学校を卒業し、阿爺は師範(しはん)学校(がっこう)にでも入れようかと云って居たのを、勧(すす)めて青山学院に入れた。学資不足なので、彼は牛乳を配達(はいだつ)したり、学校食堂の給仕をしたりして勉強して居た。斯(こ)うして約一年過ぎ、最初の学年試験も今日明日(あす)と云う際(きわ)になって、突然病死したのである。彼は父の愛子であった。
 連日(れんじつ)の雪や雨にさながら沼(ぬま)になった悪路に足駄(あしだ)を踏み込み/\、彼等夫妻は鉛(なまり)の様に重い心で次郎さんの家に往った。
 禾場(うちば)には村の人達が寄って、板を削(けず)り寝棺(ねがん)を拵(こさ)えて居る。以前(もと)は耶蘇教信者と嫌われて、次郎さんのお祖父(じい)さんの葬式の時なぞは誰も来て手伝(てつど)うてくれる者もなかったそうだ。土間には大勢(おおぜい)女の人達が立ち働いて煮焚(にた)きをして居る。彼等夫妻は上(あが)って勘五郎さんに苦しい挨拶した。恵比須(えびす)さまの様な顔をしたかみさんも出て来た。勧めて無理な勉強をさして、此様(こん)な事になってしまって、まことに済(す)みません、と詫(わ)ぶる外に彼等は慰(なぐさ)めの言を知らなかった。
 奥座敷(おくざしき)に入ると、次郎さんは蒲団(ふとん)の上に寝て居る。昨日雨中を舁(か)いて来たまゝなので、蒲団が濡(ぬ)れて居る。筒袖(つつそで)の綿入(わたいれ)羽織(ばおり)を着て、次郎さんは寝入った様に死んで居る。額(ひたい)を撫(な)でると氷(こおり)の様に冷(つめ)たいが、地蔵眉の顔は如何にも柔和で清く、心の美しさも偲(しの)ばれる。次郎さんをはじめ此家の子女(むすこむすめ)は、皆小柄(こがら)の色白で、可愛げな、而(そう)して品(ひん)の良(よ)い顔をして居る。阿爺(おとっさん)は、亡児(なきこ)の枕辺(まくらべ)に座(すわ)って、次郎さんの幼(おさ)な立(だち)の事から臨終前後の事何くれと細(こま)かに物語った。勘五郎さんはもと気負肌(きおいはだ)で、烈(はげ)しい人、不平の人であったが、子の次郎さんは非常に柔和な愛の塊(かたまり)の様な児(こ)であった。次郎さんの小さな時、縁(えん)の上から下に居る弟を飛び越し/\しては遊んで居ると、偶(たまたま)飛び損(そこ)ねて弟を倒し、自分も倒れてしたゝか鼻血(はなぢ)を出した。次郎さんは鼻血を滴(た)らしつゝ、弟の泣く方(かた)へ走せ寄って吾を忘(わす)れて介抱(かいほう)した。父は次郎さんを愛してよく背(せなか)に負(おぶ)ったが、次郎さんは成丈(なるたけ)父の背(せな)を弟に譲(ゆず)って自身は歩いた。次郎さんは到る処で可愛がられた。学課の出来も好かった。両三日前の大雪に、次郎さんは外套(がいとう)もなく濡(ぬ)れて牛乳を配達したので、感冒(かぜ)から肺炎(はいえん)となったのである。彼は気分の悪いを我慢(がまん)して、死ぬる前日迄働いた。死ぬる其朝も、ふら/\する足を踏みしめて、苦学仲間の某(なにがし)の室(へや)に往って、其日の牛乳の配達を頼んだりした。病気は早急(さっきゅう)であった。医師が手を尽した甲斐もなかった。次郎さんは終に死んだ。屍(しかばね)を踏み越えて進む乱軍(らんぐん)の世の中である。学校は丁度試験中で、彼の父が急報(きゅうほう)に接して駈(か)けつけた時、死骸(しがい)の側(そば)には誰も居なかった。次郎さんは十六であった。
 やがて納棺(のうかん)して、葬式が始まった。調子はずれの讃美歌(さんびか)があって、牧師(ぼくし)の祈祷(きとう)説教(せっきょう)があった。牧羊者(ひつじかい)が羊の群(むれ)を導(みちび)いて川を渡るに、先ず小羊(こひつじ)を抱(だ)いて渡ると親羊(おやひつじ)が跟(つ)いて渡ると云う例をひいて、次郎少年の死は神が其父母生存者(せいぞんしゃ)を導(みちび)かん為の死である、と牧師は云うた。
 日が短(みじか)い頃で、葬式が家を出たのは日のくれ/″\であった。青山(あおやま)街道(かいどう)に出て、鼻欠(はなかけ)地蔵(じぞう)の道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗(うすぐら)い墓地に入った。大きな松が枝を広げて居る下に、次郎さんの祖母(ばば)さんや伯母(おば)さんの墓がある。其の祖母さんの墓と向き合いに、次郎さんの棺は埋(う)められた。
「祖母さんと話(はなし)してる様だァね」
と墓掘(はかほり)の人が云う。
「祖母さんが可愛がって居たからナ」
と次郎さんの阿爺(おとっさん)が云う。
 自身(じしん)子が無くて他人(ひと)の子ばかり殺して居る夫妻は、荒(すさ)んだ心になって、黙って夜道を帰った。

           *

 一月(ひとつき)あまり過ぎた。
 梅から桜、八重桜と、園内(えんない)の春は次第に深くなった。ある朝庭を漫歩(そぞろある)きして居た彼は、
「吁(ああ)、咲(さ)いた、咲いた」
と叫んだ。其は庭の片隅(かたすみ)に、坊主(ぼうず)になる程伐(き)られた若木(わかぎ)の塩竈桜(しおがまざくら)であった。昨年次郎さんが出京入学して程なく、次郎さんの阿爺が持って来てくれたのである。其時は満開であった。惜しい事をしたものだ、此花ざかりを移し植えて、無事につくであろうか、枯れはしまいか、と其時は危(あや)ぶんだ。果して枯枝(かれえだ)が大分出来たが、肝腎(かんじん)の命(いのち)は取りとめて、剪(き)り残されの枝にホンの十二三輪(りん)だが、美しい花をつけたのである。彼はあらためてつく/″\と其花を眺めた。晩桜(おそざくら)と云っても、普賢(ふげん)の豊麗(ほうれい)でなく、墨染(すみぞめ)欝金(うこん)の奇を衒(てら)うでもなく、若々(わかわか)しく清々(すがすが)しい美しい一重(ひとえ)の桜である。次郎さんの魂(たましい)が花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
 清い、単純な、温(あたた)かな其花を見つめて居ると、次郎さんのニコ/\した地蔵顔(じぞうがお)が花心(かしん)から彼を覗(のぞ)いた様であった。
(明治四十一年)

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     きぬや

 明治四十三年十二月二十六日。
 書院前(しょいんまえ)の野梅(やばい)に三輪の花を見つけた。年内に梅花を見るは珍(めず)らしい。霜(しも)に葉を紫(むらさき)に染(そ)めなされた黄寒菊(きかんぎく)と共に、折って小さな銅瓶(どうへい)に插(さ)す。
 例年(れいねん)隣家(となり)を頼んだ餅(もち)を今年(ことし)は自家(うち)で舂(つ)くので、懇意(こんい)な車屋夫妻が臼(うす)、杵(きね)、蒸籠(せいろう)、釜(かま)まで荷車(にぐるま)に積んで来て、悉皆(すっかり)舂いてくれた。隣(となり)二軒に大威張(おおいばり)で牡丹餅(ぼたもち)をくばる。肥後流(ひごりゅう)の丸餅(まるもち)を造る。碁石(ごいし)程のおかさねは自分で拵(こさ)えて、鶴子(つるこ)女史(じょし)大得意である。
 逗子(ずし)の父母から歳暮(せいぼ)に相模(さがみ)の海の鯛(たい)を薄塩(うすじお)にして送って来た。
 同便(どうびん)で来た手紙はがきの中に、思いがけない報知が一つあった。二十二日にとめやのきぬやが面疔(めんちょう)で死んだ、と云う知(しら)せである。
 彼女は粕谷草堂夫妻の新生涯に絡(から)んで忘れ難い恩人の一人(ひとり)である。
 明治三十九年美的百姓が露西亜(ろしあ)から帰って、青山(あおやま)高樹町(たかぎちょう)に居(きょ)を定むると間(ま)もなく、ある日銀杏返(いちょうがえ)しに白い薔薇(ばら)の花簪(はなかんざし)を插した頬(ほお)と瞼(まぶた)のぽうと紅(あか)らんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中(じょちゅう)になると云う。名はとめと云って江州(ごうしゅう)彦根在(ひこねざい)の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、自(みずか)ら推薦(すいせん)して案内もなく女中に来たのであった。使(つか)って見ると、少し愚(おろ)かしい点(とこ)もあるが、如何にも親切な女で、毎(いつ)も莞爾々々(にこにこ)して居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締(とじま)りをつけてやると、安心して寝た。
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