みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

       二

 農は神の直参(じきさん)である。自然の懐(ふところ)に、自然の支配の下に、自然を賛(たす)けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰(しゅさい)を神とすれば、彼等は神の直轄(ちょくかつ)の下に住む天領(てんりょう)の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。

       三

 農は人生生活のアルファにしてオメガである。
 ナイル、ユウフラテの畔(ほとり)に、木片で土を掘って、野生の穀(こく)を蒔(ま)いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲(けみ)した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草(あおひとぐさ)の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命(いのち)は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン、維廉(ヰルヘルム)、シシルローヅをして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド、モルガンをして勝手に其弗(ドル)法(フラン)を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン、ホルランドをして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン、メチニコフ、ヘッケルをして盛んに論議せしめ、幾多のショウ、ハウプトマンをして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン、ロダンをして盛に塗(ぬ)り且刻(きざ)ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作(ひいでてさくし)、日入而息(ひいってやすみ)、掘井而飲(いどをほってのみ)、耕田而食(たをたがやしてくら)うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟(くつ)となり、世は終に近づく時も、サハラの沃野(よくや)にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃(きら)めくであろう。

       四

 大なる哉土の徳や。如何なる不浄(ふじょう)も容(い)れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇(さくき)の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣(や)ることが出来る。あらゆる放浪(ほうろう)を為尽(しつく)して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
 あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底(ちてい)の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣(だいかく)の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚(はだ)の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日(れつじつ)の下(もと)に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯(むぎめし)を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽(あわ)てず恚(いか)らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱(ひでり)、水、雹(ひょう)、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日(あす)乞丐(こじき)となる市井(しせい)の投機児(とうきじ)をして勝手に翻筋斗(とんぼ)をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。

       五

 農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒(ふんびょう)に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫(さもあれ)農をオロカと云うは、天網(てんもう)を疎(そ)と謂(い)い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃(いっせん)する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕(われら)に届かぬ星の存在を否(いな)むは僻事(ひがごと)である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。

       六

 農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博(はく)した事がある。然し乾(けん)を父と称し、坤(こん)を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受(にんじゅ)し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
 農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙(じゅうりん)される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具(そな)えて居る。

       七

 農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上(おかみ)の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜(ずいき)の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納(ほうのう)の小金(こがね)を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮(あき)らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如(どんより)した農の顔を見れば、限りなく蹂躙(じゅうりん)してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷(じすべ)りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸(わ)く水もあり、清(すず)しい命の水もあり、燃(も)せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜(ひそ)んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土に□(ひと)しい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜(ろしあ)の強味は、農の強味である。莫斯科(モスクワ)まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤(じばん)の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?

       八

 農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容(い)れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何(どう)なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床(おんしょう)たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正(まさ)しく一の大農夫である。神は一切を好(よし)と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。

       九

 土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。


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     蛇

       一

 虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂(かまきり)、蠑□(いもり)、蛞蝓(なめくじ)、尺蠖(しゃくとり)。
 蠑□の赤腹を見ると、嘔吐(へど)が出る。蟷螂はあの三角の小さな頭、淡緑色の大きな眼球に蚊の嘴(はし)程の繊(ほそ)く鋭い而してじいと人を見詰むる瞳(ひとみ)を点じた凄(すご)い眼、黒く鋭い口嘴(くちばし)、Vice の様な其両手、剖(さ)いて見れば黒い虫の様に蠢(うごめ)く腸を満たしたふくれ腹、身を逆さにして草木の葉がくれに待伏(まちぶせ)し、うっかり飛んで来る蝉の胸先に噛(か)みついてばた/\苦しがらせたり、小さな青蛙の咽(のど)に爪うちかけてひい/\云わしたり、要するに彼はこれ虫界の Iago 悪魔の惨忍(ざんにん)を体現した様なものである。引捉えてやろうとすれば、彼は小さな飛行機(ひこうき)の如く、羽をひろげてぱッぱた/\と飛んで往って了う。憎いやつである。それから、家を負う蝸牛(かたつむり)の可愛気はなくて、ぐちゃりと唯意気地なさを代表した様で、それで青菜甘藍(キャベツ)を何時の間にか意地汚なく喰い尽す蛞蝓と、枯枝の真似して居て、うっかり触(さわ)れば生きてますと云い貌にびちりと身を捩(もじ)り、あっと云って刎(は)ね飛ばせば、虫のくせに猪口才(ちょこさい)な、頭と尾とで寸法とって信玄流に進む尺蠖とは、気もちの悪い一対(いっつい)である。此等は何れも嬉しくない連中だが、然しまだ/\蛇には敵(かな)わぬ。

       二

 蛇嫌いは、我等人間の多数に、祖先から血で伝わって居る。話で聞き、画で見、幼ない時から大蛇は彼の恐怖の一であった。子供の時から彼はよく蛇の夢を見た。今も心身にいやな事があれば、直ぐ蛇を夢に見る。現(うつつ)に彼が蛇を見たのは五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明(ありあけ)の海辺(うみべ)の小天(おあま)の温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家で、寝ながら上を見て居ると、真黒に煤(すす)けた屋根裏の竹を縫うて何やら動いて居た。所謂青大将(あおだいしょう)であったが、是れ目に見ていやなものと蛇を思う最初であった。
 彼の兄は彼に劣らぬ蛇嫌いで、ある時家の下の小川で魚を抄(すく)うとて蛇を抄い上げ、きゃっと叫んで笊(ざる)を抛(ほう)り出し、真蒼(まっさお)になって逃げ帰ったことがある。七八歳の頃、兄弟連れ立っての学校帰りに、川泳ぎして居た悪太郎が其時は一丈もあろうと思うた程の大きな青大将の死んだのを路の中央に横たえて恐れて逡巡する彼を川の中から手を拍(う)って笑った。兄が腹を立て、彼の手を引きずる様にして越えようとする。大奮発して二足三足、蛇の一間も手前まで来ると、死んで居る動かぬとは知っても、長々と引きずった其体、白くかえした其段だらの腹(はら)を見ると、彼の勇気は頭の頂辺(てっぺん)からすうとぬけてしもうて如何しても足が進まぬ。已むを得ず土堤(どて)の上を通ろうとすれば、悪太郎が川から上って来て、また蛇を土堤の上に引きずって来る。結局如何して通ったか覚えぬが、生来斯様な苦しい思をさせられたことはなかった。彼の従弟(いとこ)は少しも蛇を恐れず、杉籬(すぎがき)に絡(から)んで居るやつを尾をとって引きずり出し、環(わ)を廻(まわ)す様に大地に打つけて、楽々(らくらく)と殺すのが、彼には人間以上の勇気神わざの様に凄(すさま)じく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇(あそ)の温泉に行く時、近道をして三里余も畑の畔(くろ)の草径(くさみち)を通った。吾儘(わがまま)な兄は蛇払(へびはらい)として彼に先導(せんどう)の役を命じた。其頃は蛇より兄が尚恐(こわ)かったので、恐(お)ず/\五六歩先に立った。出るわ/\、二足行ってはかさ/\/\、五歩往ってはくゎさ/\/\、烏蛇、山かゞし、地もぐり、あらゆる蛇が彼の足許(あしもと)から右左に逃げて行く。まるで蛇を踏分けて行くようなものだ。今にも踏(ふ)んで巻きつかれるのだと観念し、絶望の勇気を振うて死物狂(しにものぐるい)に邁進(まいしん)したが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識(し)って居た其処の息子が、先日川端の湯樋(ゆどい)を見に往って蝮(まむし)に噛まれたと云って、跛をひいて居た。彼の郷里では蝮をヒラクチと云う。ある年の秋、西山に遊びに往って、唯有(とあ)る崖(がけ)を攀(よ)じて居ると、「ヒラクチが居ったぞゥ」と上から誰やら警戒を叫んだ。其時の魂も消入る様な心細さを今も時々憶い出す。

       三

 村住居をする様になって、隣は雑木林だし、墓地は近し、是非なく蛇とは近付になった。蝮はまだ一度も見かけぬが、青大将、山かゞし、地もぐりの類は沢山居る。最初は生類御憐みで、虫も殺さぬことにして居たが、此頃では其時の気分次第、殺しもすれば見□(みのが)しもする。殺しても尽きはせぬが、打ちゃって置くと殖(ふ)えて仕様がないのである。書院の前に大きな百日紅(さるすべり)がある。もと墓地にあったもので、百年以上の老木だ。村の人々が五円で植木屋に売ったのを、すでに家の下まで引出した時、彼が無理に譲ってもらったのである。中は悉皆(すっかり)空洞(うろ)になって、枝の或ものは連理(れんり)になって居る。其れを植えた時、墓地の東隣に住んで居た唖の子が、其幹を指して、何かにょろ/\と上って行く状(さま)をして見せたが、墓地にあった時から此百日紅は蛇の棲家(すみか)であったのだ。彼の家に移って後も、梅雨(つゆ)前(まえ)になると蛇が来て空洞(うろ)の孔(あな)から頭を出したり、幹(みき)に絡(から)んだり、枝の上にトグロをまいて日なたぼこりしたりする。三疋も四疋も出て居ることがある。百日紅の枝其ものが滑(すべ)っこく蛇の膚(はだ)に似通うて居るので、蛇も居心地がよいのであろう。其下を通ると、あまり好い気もちはせぬ。時々は百日紅から家の中へ来ることもある。ある時書院の雨戸をしめて居た妻がきゃっと叫(さけ)んだ。南の戸袋に蛇が居たのである。雀が巣くう頃で、雀の臭(におい)を追うて戸袋へ来て居たのであろう。其翌晩、妻が雨戸をしめに行くと、今度は北の戸袋に居た。妻がまたけたゝましく呼んだ。往って繰り残しの雨戸で窃(そっ)と当って見ると、確に軟(やわ)らかなものゝ手答(てごたえ)がする。釣糸に響く魚の手答は好いが、蛇の手応(てごた)えは下(くだ)さらぬ。雨戸をしめれば蛇の逃所がなし、しめねばならず、ランプを呼ぶやら、青竹を吟味(ぎんみ)するやら、小半時(こはんとき)かゝって雨戸をしめ、隅に小さくなって居るのを手早くたゝき殺した。其れが雌(めす)でゞもあったか、翌日他の一疋がのろ/\と其(その)侶(とも)を探がしに来た。一つ撲(う)って、ふりかえる処をつゞけざまに五六つたゝいて打殺した。殺してしもうて、つまらぬ殺生をしたと思うた。
 彼が家のはなれの物置兼客間の天井(てんじょう)には、ぬけ殻(がら)から測(はか)って六尺以上の青大将が居る。其家が隣村にあった頃からの蛇で、家を引移(ひきうつ)すと何時の間にか大将も引越して、吾家貌(わがいえがお)に住んで居る。所謂ヌシだ。隣村の千里眼に見てもらったら、旧家主(もとやぬし)の先代のおかみの後身(こうしん)だと云うた。夥しい糞尿をしたり、夜は天井をぞろ/\重い物曳(ひ)きずる様な音をさせてあるく。梅雨(つゆ)の頃、ある日物置に居ると、パリ/\と音がした。見ると、其処(そこ)に卵の殻(から)を沢山入れた目籠に、彼ぬしでは無いが可なり大きな他の青大将が来て、盛に卵の殻を食うて居るのである。見て居る内に、長持の背(うしろ)からまた一疋のろ/\這い出して来て、先のと絡(から)み合いながら、これもパリ/\卵の殻を喰いはじめた。青黒い滑々(ぬめぬめ)したあの長細い体(からだ)が、生(い)き縄(なわ)の様に眼の前に伸びたり縮んだりするのは、見て居て気もちの好いものではない。不図見ると、呀(あっ)此処(ここ)にも、梁(はり)の上に頭は見えぬが、大きなものが胴(どう)から下(した)波うって居る。人間が居ないので、蛇君等が処得貌に我家と住みなして居るのである。天井裏まで上ったら、右の三疋に止まらなかったであろう。彼は其日一日頭が痛かった。
 ある時栗買いに隣村の農家に往った。上塗(うわぬり)をせぬ土蔵(どぞう)の腰部(ようぶ)に幾個(いくつ)の孔(あな)があって、孔から一々縄が下って居る。其縄の一つが動く様なので、眼をとめて見ると、其縄は蛇だった。見て居る内にずうと引込んだが、またのろ/\と頭を出して、丁度他の縄の下って居ると同じ程(ほど)にだらりと下がった。何をするのか、何の為に縄の真似をするのか。鏡花君の縄張に入る可き蛇の挙動と、彼は薄気味悪くなった。
 勇将の下に弱卒なし。彼が蛇を恐れる如く、彼が郎党(ろうとう)の犬のデカも獰猛(どうもう)な武者振をしながら頗る蛇を恐れる。蛇を見ると無闇(むやみ)に吠(ほ)えるが、中々傍へは寄らぬ。主人(あるじ)が勇気を出して蛇を殺すと、デカは死骸の周囲(まわり)をぐる/\廻って、一足寄ってはワンと吠(ほ)え、二足寄っては遽(あわ)てゝ飛びのいてワンと吠え、ワンと吠え、ワンと吠え、廻り廻って、中々傍へは寄らぬ。ある時、麦畑に三尺ばかりの山かゞしが居た。山かゞしは、やゝ精悍(せいかん)なやつである。主人が声援(せいえん)したので、デカは思切ってワンと噛みにかゝったら、口か舌かを螫(さ)されたと見え、一声(いっせい)悲鳴(ひめい)をあげて飛びのき、それから限なく口から白泡(しらあわ)を吐いて、一時は如何(どう)なる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥(ねとり)を捕(と)ってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対(あいたい)し貌(がお)に、芝生に座(すわ)って居るので、覗(のぞ)いて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らば撃(う)たんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足を揃(そろ)えて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿(さお)をとりに往った間に、トラも蛇も物別(ものわか)れになって何処かへ往ってしもうた。

       四

 斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情は除(と)れぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早(もう)園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭を擡(もた)げて、上ろうか、と思う様子をして居た。遽(あわ)てゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はては額(がく)の裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝(ひるね)も出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうと泡(あわ)の様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇(はぶ)、響尾蛇(ラッツルスネーキ)、蝮蛇(まむし)の毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼の敵(かたき)に殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故(なぜ)斯様(こんな)に彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧(ちえ)に適(かな)う事が多い。
 奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽(このめ)を食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
 悪戯(いたずら)に蛇を投げかけようとした者を已に打果(うちはた)すとて刀(かたな)の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣(す)と云わるゝ竹生島(ちくふじま)に庵(いおり)を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴(さいかく)の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷(たすき)と間違(まちが)えて何より嫌いな蛇を握(にぎ)り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿(ふんにょう)にも道あり、蛇も菩提(ぼだい)に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入(はいり)かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜(みにく)い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地(いんち)にのたくり、弱きを窘(いじ)めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化(な)って居る彼自身ではあるまいか。己(わ)が醜(みに)くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
 生命は共通である。生存は相殺(そうさつ)である。自然は偏倚(へんい)を容(ゆる)さぬ。愛憎(あいぞう)は我等が宇宙に縋(すが)る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
 好きなものが毒になり、嫌いなものが薬(くすり)になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命(いのち)は斯くして有(たも)たるゝのである。
 好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕(われら)の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
 本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。


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     露の祈

 今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅(いちぐう)に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩(かれはぎ)の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時(いつ)撒(ま)いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆(さたん)してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触(さわ)ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々(こうこう)と輝く朝日を見た。
あゝ朝日!
爾(なんじ)の無限大を以てして一滴(いってき)の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾(しゅゆ)の命(いのち)を小枝(さえだ)に托するはかない水の一雫(ひとしずく)、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄(さかえ)を現わさん為に、爾の子の栄を顕(あら)わし玉え」
の祈は彼の口を衝いて出た。
天つ日の光に玉とかがやかば
    などか惜まん露の此の身を


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     草とり

       一

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱(ぜいじゃく)な五穀蔬菜は、野草(やそう)に杜(ふさ)がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導(さいせいほどう)は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
 老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗(じゅうのう)でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈(もうれつ)に攻め寄する。飯焚(めした)く時間を惜んで餅(もち)を食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治(たいじ)せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
 唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈(はげ)しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭(ゆうかげ)にとる。取りきれないで、日中(にっちゅう)にもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴(ぐち)をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草(くさとり)器械(きかい)にならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方に貰(もら)えば済む。というても、実際眼前に草の跋扈(ばっこ)を見れば、除(と)らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種(たね)を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
 そこでまた勇気を振起(ふりおこ)して草をとる。一本また一本。一本除れば一本減(へ)るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田(しんでん)の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕(われら)の心も草だらけである。四囲(あたり)の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草に埋(う)もれて了う。そこで草を除る。己(わ)が為に草を除るのだ。生命(いのち)の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落(だらく)して了う。
「爾(なんじ)我言に背いて禁菓(きんか)を食(く)いたれば、土は爾の為に咀(のろ)わる。土は爾の為に荊棘(いばら)と薊(あざみ)を生(しょう)ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食(くら)わん」
 斯く旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。

       二

 美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除(と)るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料(こやし)にしてしまう。馴付(なつ)けた敵は、味方である。「年々や桜を肥(こや)す花の塵」美しい花が落ちて親木(おやき)の肥料になるのみならず、邪魔の醜草(しこぐさ)がまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土(せきど)になるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其懐(ふところ)に多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
 畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種の芳(かんば)しい香(か)を放つ草もある。此辺で鹹草(しょっぱぐさ)と云う、丈(たけ)矮(ひく)く茎(くき)紅(あか)ぶとりして、頑固らしく□(わだかま)って居ても、根は案外浅くして、一挙手に亡ぼさるゝ草もある。葉も無く花も無く、地下一尺の闇を一丈も二丈も這いまわり、人知れず穀菜に仇なす無名草(ななしぐさ)もある。厄介なのは、地縛(じしば)り。単弁(たんべん)の黄なる小菊の様に可憐な花をしながら、蔓延又蔓延、糸の様な蔓は引けば直ぐ切れて根を残し、一寸の根でも残れば十日とたゝずまた一面の草になる。土深く鍬を入れて掘り返えし、丁寧に根を拾う外に滅(ほろぼ)す道は無い。我儕は世を渡りて往々此種の草に出会う。
 草を苅るには、朝露の晞(かわ)かぬ間(ま)。露にそぼぬれた寝ざめの草は、鎌の刃を迎えてさく/\切れて行く。一挙に草を征伐するには、夏の土用(どよう)の中、不精鎌(ぶしょうがま)と俗に云う柄(え)の長い大きなカマボコ形の鎌で、片端からがり/\掻(か)いて行く。梅雨中(つゆうち)には、掻く片端からついてしまう。土用中なら、一時間で枯れて了う。
 夏草は生長猛烈でも、気をつけるから案外制し易い。恐ろしいのは秋草である。行末短い秋草は、種がこぼれて、生えて、小さなまゝで花が咲いて、直ぐ実になる。其遽(あわただ)しさ、草から見れば涙である。然し油断してうっかり種をこぼされたら、事である。一度落した草の種は中々急に除(と)り切れぬ。田舎を歩いて、奇麗に鍬目(くわめ)の入った作物のよく出来た畑の中に、草が茂って作物の幅(はば)がきかぬ畑を見ることがある。昨年の秋、病災(びょうさい)不幸(ふこう)などでつい手が廻らずに秋草をとらなかった家の畑である。
 草を除(と)ろうよ。草を除ろうよ。


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     不浄

       上

 此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取(ふじょうと)り」を意味する。
 東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除(そうじ)」を取る。荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。ずッと昔は、細長い肥桶(こえおけ)で、馬に四桶附け、人も二桶担(にな)って持って来たが、後、輪の大きい大八車で引く様になり、今は簡易な荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重(おも)で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷(おもに)だ。あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。
 股引草鞋、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底(かまぞこ)の帽(ぼう)を阿弥陀(あみだ)にかぶり、焦茶(こげちゃ)毛糸の襟巻、中には樺色の麁(あら)い毛糸の手袋をして、雨天には簑笠姿(みのかさすがた)で、車の心棒に油を入れた竹筒(たけづつ)をぶらさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯(じゃがいも)、甘薯(さつまいも)の二籠三籠、焚付(たきつけ)疎朶(そだ)の五把六束、季節によっては菖蒲(あやめ)や南天小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、前俛(まえかが)みになって、揉(も)みあげに汗(あせ)の珠(たま)をたらして、重そうに挽いて帰って来る。上荷には、屋根の修繕に入用のはりがねの二巻三巻、棕櫚縄(しゅろなわ)の十束二十束、風呂敷かけた遠路籠の中には、子供へみやげの煎餅の袋も入って居よう。かみさんの頼んだメリンスの前掛も入って居よう。或は娘の晴着の銘仙も入って居よう。此辺の女は大抵留守ばかりして居て、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。娘の婚礼着すら男親が買うことになって居る。「阿爺(おとッつぁん)、儂(おら)ァ此(この)縞(しま)ァ嫌(やァ)だ」と、毎々阿娘(おむす)の苦情が出る。其等の車が陸続として帰って来る。東京場末の飯屋(めしや)に寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置いて、木蔭(こかげ)で麦や稗(ひえ)の弁当をつかう。夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、杉の木蔭に□々(ぐうぐう)焉と寝て居る。荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。里道にきれ込むと、砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが、路が悪い悪いとこぼしつゝ、格別路をよくしようともせぬ。其様な暇も金も無いのである。
 甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、時々肥料車が怪我(けが)をする。帰りでも晩(おそ)いと、気が気でなく、無事な顔見るまでは心配でならぬと、村の婆さんが云うた。水の上を憂うる漁師の妻ばかりではない。平和な農村にも斯様な行路難(こうろだん)がある。
 東京界隈(かいわい)の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様(どんな)に困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日隣家(となり)の御隠居(ごいんきょ)婆(ばあ)さんが、「一ぱいになってこぼるゝ様になってるものを、せっせと来てくれンじゃ困るじゃないか」と疳癪声(かんしゃくごえ)で百姓を叱る声を聞いた。其(それ)は権高(けんだか)な御後室様の怒声よりも、焦(じ)れた子供の頼無(たよりな)げな恨めしげな苦情声(くじょうごえ)であった。大君の御膝下(おひざもと)、日本の中枢(ちゅうすう)と威張る東京人も、子供の様に尿屎(ししばば)のあと始末をしてもらうので、田舎の保姆(ばあや)の来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。叱られた百姓は黙って其糞尿(ふんにょう)を掃除(そうじ)して、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。「吾父は農夫なり」と神の愛子は云ったが、実際神は一大農夫で、百姓は其型(かた)を無意識にやって居るのである。
 衆議院議員の選挙権位は有って居る家の息子や主人(あるじ)が掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除人(そうじにん)の家に往ったら、土蔵の二戸前もあって、喫驚(びっくり)する様な立派な住居に魂消(たまげ)ることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時(ひるめしどき)に掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶(こえおけ)を並べたと云っては怒鳴(どな)ったりしたものだ。園芸を好んだので、糞尿(ふんにょう)を格別忌むでも賤(いやし)むでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉の輩(やから)として居た。来て其人達の中に住めば、此処(ここ)も嬉(うれ)し哀(かな)しい人生である。息子を兵役にとられ、五十越した与右衛門さんが、甲州街道を汗水滴(た)らして肥車を挽くのを見ると、仮令(たとい)其れが名高い吾儘者の与右衛門さんでも、心から気の毒にならずには居られぬ。而(そう)して此頃では、むッといきれの立つ堆肥(たいひ)の小山や、肥溜(こえだめ)一ぱいに堆(うずたか)く膨(ふく)れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田(ちまちだ)の垂穂(たりほ)を眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。

       下

「新宿のねェよ、女郎屋(じょうろうや)でさァ、女郎屋に掃除(そうじ)を取りに行く時ねェよ、饂飩粉(うどんこ)なんか持ってってやると、そりゃ喜ぶよ」
 辰爺さんは斯(こ)う云うた。
 同じ糞(くそ)でも、病院の糞だの、女郎屋の糞だのと云うと、余計に汚ない様に思う。
 不潔を扱うと、不潔が次第に不潔でなくなる。葛西(かさい)の肥料屋(こやしや)では、肥桶(こえおけ)にぐっと腕(うで)を突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥(しもごえ)の濃薄(こいうすい)従って良否を験するそうだ。此辺でも、基肥(もとごえ)を置く時は、下肥を堆肥に交ぜてぐちゃ/\したやつを盛(も)った肥桶を頸(くび)からつるし、後ざまに畝(うね)を歩みつゝ、一足毎に片手に掴(つか)み出してはやり、掴み出してはやりする。或は更に稀薄(きはく)にしたのを、剥椀(はげわん)で抄(すく)うてはざぶり/\水田にくれる。時々は眼鼻に糞汁(ふんじゅう)がかゝる。
「あっ、糞が眼(め)ン中(なけ)へ入(はい)っちゃった」と若いのが云う。
「其れが本当の眼糞(めくそ)だァ」爺(おやじ)は平然たるものだ。
 平然たる爺が、ある時三四歳の男の子を連れて遊びに来た。誰のかと云えば、お春のだと云う。お春さんは爺さんの娘分(むすめぶん)になって居る若い女だ。
「お春が拾って来たんでさァ」と爺(じい)さんがにや/\笑いながら曰うた。
「拾って来た? 何処(どこ)で?」
 野暮(やぼ)先生正に何処かで捨子を拾って来たのだと思うた。爺は唯にや/\笑って居た。其(それ)は私生児であった。お春さんの私生児であった。
 お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分になり、近所に奉公に出て居る内に、丁度母の芸者が彼女を生んだ十六の年に、彼女も私生児を生んだ。歴史は繰(く)り返えす。細胞の記憶も執拗(しつよう)なものである。十六の母は其私生児を負(おぶ)って、平気に人だかりの場所へ出た。無頓着な田舎でも、「ありゃ如何(どう)したンだんべ?」と眼を円(まる)くして笑った。然し女に廃物(すたり)は無い。お春さんは他の東京から貰(もら)われて来た里子の果(はて)の男と出来合うて、其私生児を残して嫁に往った。而して二人は今幸福に暮らして居る。
 ある爺さんのおかみは、昔若かった時一度亭主を捨てゝ情夫と逃げた。然し帰って来ると、爺さんは四の五の云わずに依然かみさんの座(ざ)に坐(すわ)らした。太公望(たいこうぼう)の如く意地悪ではなかった。夫婦に娘が出来て、年頃になった。其娘が出入の若い大工と物置の中に潜(ひそ)む日があった。昔男と道行の経験があるおかみは頻(しきり)と之を気にして、裏口から娘の名を呼び/\した。爺さんの曰く、うっちゃっておけやい、若ェ者だもの、些(ちった)ァ虫(むし)もつくべいや。此は此爺さんのズボラ哲学である。差別派からは感心は出来ぬが、中に大なる信仰と真理がある。
 甲吉が嬶(かか)をもらう。其は隣村の女で、奉公して居る内主人の子を生んだのだと云う。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下(お)り物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするのだ。此辺の村でも、風儀は決して悪くない。甲州街道から十丁とは離れて居ぬが、街道筋の其れと比べては、村は堅いと云ってよい。男女の間も左程に紊(みだ)れては居らぬ。然し他の不始末に対しては概して大目である。だから疵物(きずもの)でもずん/\片づいて行く。尤も疵物は大抵貧しい者にやられる。潔癖は贅沢だ。貧しい者は、其様な素生調(すじょうしらべ)に頓着しては居られぬ。金の二三十両もつければ、懐胎(かいたい)の女でももらう。もと誰の畑であっても、自分のものになればさっさと種(たね)を蒔(ま)く。先(せん)の蒔き残りのものがあっても、仔細なしに自分のにして了う。種を蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎が拭(ぬぐ)う。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻(あとしり)を拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
 神は一大農夫である。彼は一切の汚穢(おかい)を捨てず、之を摂取し、之を利用する。神程吝嗇爺(けちおやじ)は無い。而して神程太腹(ふとっぱら)の爺も無い。彼に於ては、一切の不潔は、生命を造る原料である。所謂不垢不浄、「神の潔めたるものを爾浄(きよ)からずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。自(おのずか)ら神心に叶う農の不浄観について、我等は学ぶ所なくてはならぬ。
 生命は共通である。潔癖は吾儘者の鄙吝(けち)な高慢である。


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     美的百姓

 彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。
 北米の大説教家ビーチアルは、曾て数塊の馬鈴薯を人に饗(きょう)して曰くだ、此は吾輩の手作だ、而して一塊一弗(ドル)はかゝって居るのだ、折角食ってくれ玉えと。美的百姓は憚りながらビーチアル先生よりも上手だ。然し何事にも不熱心の彼には、到底那須野(なすの)に稗(ひえ)を作った乃木さん程の上手な百姓は出来ぬ。川柳氏歌うて曰く、釣れますか、などと文王傍(そば)へ寄り、と。美的百姓先生の百姓も、太公望の釣位なものだ。太公望は文王を釣り出した。美的百姓は趣味を掘り出さんとして手に豆をこさえる。
 百姓として彼は終に落第である。彼は三升の蕎麦(そば)を蒔(ま)いて、二升の蕎麦を穫(え)たことがある。彼が蒔く種子は、不思議に地に入って雪の如く消えて了う。彼が作る菜(な)は多く苦(にが)い。彼が水瓜は九月彼岸前にならなければ食われない。彼が大根は二股三股はまだしも、正月の注連飾(しめかざり)の様に螺旋状(らせんじょう)にひねくれ絡(から)み合うたのや、章魚(たこ)の様な不思議なものを造る。彼の文章は格に入らぬが、彼の作る大根は往々芸術の三昧に入って居る。
 彼は仕事着にはだし足袋、戦争(いくさ)にでも行く様な意気込みで、甲斐々々しく畑に出る。少し働いて、大に汗を流す。鍬柄(くわづか)ついて畑の中に突立(つった)った時は、天も見ろ、地も見ろ、人も見てくれ、吾れながら天晴見事の百姓振りだ。額の汗を拭きもあえずほうと一息(ひといき)入れる。曇った空から冷やりと来て風が額を撫でる。此処(ここ)が千両だ、と大きな眼を細くして彼は悦(えつ)に入る。向うの畑で、本物の百姓が長柄の鍬で、後退(あとしざ)りにサクを切るのを熟々(つくづく)眺めて、彼運動に現わるゝリズムが何とも云えぬ、と賞翫する。小雨ほと/\雲雀(ひばり)の歌まじり、眼もさむる緑の麦畑に紅帯(あかおび)の娘が白手拭を冠って静に働いて居るを見ては、歌か句にならぬものか、と色彩(いろ)故に苦労する。彼自身肥桶でも担(かつ)いで居る時、正銘の百姓が通りかゝれば、彼は得意である。農家のおかみに「お上手ですねえ」とお世辞(せじ)でも云われると、彼は頗る得意である。労働最中に美装(びそう)した都人士女の訪問でも受けると、彼はます/\得意である。
 稀に来る都人士には、彼の甲斐々々しい百姓姿を見て、一廉(いっかど)其道の巧者(こうしゃ)になったと思う者もあろう。村の者は最早(もう)彼の正体(しょうたい)を看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦那は外にお職がおありなすって、お銭(あし)は土用干なさる程おありなさるから、と。一度百円札の土用干でもしたいものと思うが、兎に角外にお職がおあんなさる事は、彼自身欺(あざむ)く事が出来ぬ。彼は一度だって農事講習会に出たことは無い。
 美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲(どん)も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光(あかり)が紅(あか)く空に反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋(おもや)の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居(すまい)の方向の如く、彼方(あっち)にも牽(ひ)かれ、此方にも牽かれる。
 彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。
 真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。


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   過去帳から

     墓守
     
       一

 彼は粕谷(かすや)の墓守(はかもり)である。
 彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
 墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培(さいばい)して置く。花の盛季(さかり)は、大抵農繁の季節に相当するので、悠々(ゆうゆう)と花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀(ちょうぎ)に行く。少し念を入れる場合には、花環(はなわ)などを拵(こさ)えて行く。
 墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生(ふだん)草を茂(しげ)らして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪(よしあし)である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程周囲(まわり)の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓(ひら)いてしもうた。いまに□(かなめ)の生牆(いけがき)を遶(めぐ)らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。

       二

 彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
 墓地は約一反余、東西に長く、背(うしろ)は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻-241-12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所(よそ)から持って来たのである。以前小さな閻魔堂(えんまどう)があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖(ほおづえ)をついて居る幾基の静思菩薩(せいしぼさつ)、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵(ろくじぞう)や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育(こそだて)地蔵、其等(それら)が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字(ぼんじ)を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也(ここについふくするものはだちゅうのれいぼだいをはっせんがためなり)」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂(さび)しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒(しきみ)や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅(さるすべり)があったのは、村の飲代(のみしろ)に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英(たんぽぽ)が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊(しゅうめいぎく)が咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想に耽(ふけ)る。

       三

 田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、また傷(いた)い気の子供もあった。
 ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。羨(うらや)ましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱(しんぼう)しぬいて本家分家それ/″\繁昌(はんじょう)し、孫(まご)曾孫(ひこ)大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途(かえりみち)、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、杖(つえ)を忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室(ゆどの)の心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同(みんな)困り者にして居た。杉苗(すぎなえ)でもとられると、見附次第黙って持戻(もちもど)ったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、齢(とし)は其様(そん)なでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆俛(かが)んで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまで□(おまえ)に世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱(かいほう)も待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑(うりばたけ)に誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜の心(しん)をとめてくれて居たのであった。よく楢茸(ならたけ)の初物だの何だの採(と)っては、味噌漉(みそこ)しに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑の畔(くろ)の草を苅ってやると云って鎌(かま)を提(さ)げて来た。其畑の畔には萱(かや)薄(すすき)が面白く穂に出て、捨て難い風致(ふうち)の径(こみち)なので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早(もう)楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。

       四

 燻炭(くんたん)肥料(ひりょう)と云う事が一時はやって、芥屑(ごみくず)を燻焼(くんしょう)する為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児(むすめ)と六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷(おおやけど)をした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児(むすめ)は叱(しか)られるが恐(こわ)さに、火傷した女児を窃(そっ)と自家(うち)へ連れて往って、火傷部に襤褸(ぼろ)を被(かぶ)せて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅(せんべい)の袋なぞ枕頭に置いて、アアン□□□幽(かす)かな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早牛乳(ちち)は不用(いらん)と云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒(みき)に酔うて、赤い顔をして頭を掉(ふ)る癖(くせ)がある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒(おおさわ)ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙に霑(うる)んだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
 牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。体(からだ)を二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中(まんなか)で、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久(ひい)ちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然(あんぜん)として云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立(ぜんだて)競走(きょうそう)で一着になり、名を呼ばれて褒美(ほうび)を貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助(てだすけ)をした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕(しき)を拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
 去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚(びっくり)した。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様な凄(すご)い黯(くら)い顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫(さいほう)の稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴(さかな)を買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母の背(うしろ)に立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母(おっかさん)は少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭(まくらもと)の土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父を揺(ゆ)り起し、「わたしが快(よ)くなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱(くげん)だから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母(おっかさん)は赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道(しんどう)禊教(みそぎきょう)の信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃(としごろ)になった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手(かしわで)を打って、「下田安子の命(みこと)が千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣を拵(こさ)えてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙の袷(あわせ)が覆(おお)うてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水を盈(み)たした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓に插(さ)した。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車に轢(ひ)かれ、已に危い一命を纔(わずか)にとりとめて先日めでたく除隊(じょたい)になって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、懇(ねんごろ)に弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。

       五

 墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏(されこうべ)を見せて、
「御覧なさい、頬の格好が斯(こ)う仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物(ばけもの)とも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことを為(し)ない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子(むすこ)の一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気で頷(うなず)いて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光(あかり)が見える。やゝ紅(あか)い火である。立とまってじいと見て居た彼は、突(つ)と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰(やいん)に墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。

       六

 古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習(えんしゅう)に来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪(うはつ)の僧の気もちがせぬでも無い。
 然し此れが寺だとすれば、住持(じゅうじ)は恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴(どんじんち)の三悪を立派に具足した腥坊主(なまぐさぼうず)である。彼は好んで人を喰(く)う。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人(しびと)を喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
 無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、毎(つね)に良いものがなる。耶蘇は「吾は天より降(くだ)れる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道に堕(だ)したのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚(しんい)の焔とでも云うのか、剖(さ)いた腹から一団のとろ/\した紅(あか)い火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏の嘴(くちばし)をした異形(いぎょう)の人間に化(な)った。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足(てあし)胴体(どうたい)は人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、鯊(さめ)の頭、蟒蛇(うわばみ)の頭、蜥蜴(とかげ)の頭、鷲の頭、梟(ふくろ)の頭、鰐(わに)の頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚(たかあし)の盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗に浸(ひた)って寤(さ)めた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。現(うつつ)の中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
 彼は粕谷の墓守である。
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