みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

       三

 変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間(ひるま)は百度近い暑さで、夜も油汗(あぶらあせ)が流れてやまぬ程蒸暑(むしあつ)い夜が少くない。蒲団(ふとん)なンか滅多に敷かず、蓙(ござ)一枚で、真裸に寝たものだ。此様(こんな)でも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼(ちょうりょう)、岐阜(ぎふ)提灯(ちょうちん)の火も消えがちの風の晩冷(ばんれい)、涼しさを声にした様な蜩(ひぐらし)に朝涼(あさすず)夕涼(ゆうすず)を宣(の)らして、日間(ひるま)は草木も人もぐったりと凋(しお)るゝ程の暑さ、昼夜の懸隔(けんかく)する程、夏は好いのである。
 ヒマラヤを五(いつつ)も積み重ねた雲の峰が見る間に崩(くず)れ落ちたり、濃(こ)いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空(ぜんてんくう)を鼠色に包んだり、電を閃(ひらめ)かしたり、雹(ひょう)を撒(ま)いたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、虹(にじ)を見せたり。而(そう)して急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸を獲(う)れば寸と云う信玄流(しんげんりゅう)の月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流(けんしんりゅう)の一気呵成(いっきかせい)を作物の上に味(あじ)わうことが出来る。生憎(あいにく)草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましく繁(しげ)る。煙管(きせる)啣(くわ)えて、後手(うしろで)組んで、起きぬけに田の水を見る辰(たつ)爺(じい)さんの眼に、露だらけの早稲(わせ)が一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子(なす)が、明日はもうもげる。瓜の蔓(つる)は朝々伸びて、とめてもとめても心(しん)をとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷(さつまいも)の蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時には斯様(こん)なはき/\した成績(せいせき)を見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。而(そう)して此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処(ここ)らの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。

       四

 夏の命(いのち)は水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠い斯(この)野の村では、水の楽(たのしみ)が思う様にとれぬ。
 昨年(さくねん)の夏、彼は大きな甕(かめ)を買った。径(わたり)三尺、深さは唯(たった)一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生の端(はし)に据えて、毎朝水晶の様な井(いど)の水を盈(み)たして置く。大抵大きなバケツ八はいで溢(あふ)るゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕(ひとかめ)の水も琵琶(びわ)洞庭(どうてい)である。太平洋大西洋である。書斎(しょさい)から見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲(しらくも)が浮く。空を飛ぶ五位鷺(ごいさぎ)の影も過(よ)ぎる。風が吹くと漣(さざなみ)が立つ。風がなければ琅□(ろうかん)の如く凝(こ)って居る。
 日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線(こうねつせん)が悉く此径三尺の液体(えきたい)天地に投射(とうしゃ)せらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温(なまぬる)くなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。
 午後二時三時の交(あいだ)は、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸(すっぱだか)で薩摩下駄をはき、手拭(てぬぐい)を持って、突(つ)と庭に出る。日ざかりの日は、得たりや応(おう)と真裸の彼を目がけて真向から白熱箭(はくねつせん)を射かける。彼は遽(あわ)てず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。先(まず)眼鏡(めがね)をとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎに褌(したおび)をとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯(おおまた)に片足を甕に踏み込む。呀(あ)、熱(あつ)、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞(どう)と尻餅(しりもち)搗(つ)く様に坐(す)わる。甕の縁(ふち)を越して、水がざあっと溢(あふ)れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡(ぬ)らして、頭から面(つら)、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻(あり)や螻(けら)が泡(あわ)を喰(く)って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開(あ)いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸(あかはだか)の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓(かえで)の枝に曝(さ)らして置く。五分間で火熨斗(ひのし)をした様に奇麗に乾く。
 十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭(ぬれてぬぐい)を頭にのせたまゝ、四体は水の滴(た)るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩(だいとうほ)して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮(ひとかわ)脱(ぬ)いだ様で、己(わ)が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減(へ)った甕の水がまだ揺々(ゆらゆら)して居る。其れは夕蔭に、乾(かわ)き渇(かわ)いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児(さいじ)が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水(ぎょうずい)するも、田舎住居のお蔭である。
 夏は好い。夏が好い。


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     低い丘の上から

       一

 彼は毎(つね)に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末(ばすえ)で、景が小さく、豪宕(ごうとう)な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼(もうそう)の気を領(りょう)することが出来ず、且居常(きょじょう)流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
 彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷(かすや)の南耕地(みなみこうち)と云って、昔は追剥(おいはぎ)が出たの、大蛇が出て婆(ばば)が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林(おはやし)を、明治近くに拓(ひら)いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前株(かぶ)を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊(こと)に疎(まばら)な方面である。就中(なかんずく)彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸(せど)の方へ唯一軒、加之(しかも)小一丁からある。田圃(たんぼ)向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞(ふさ)がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。

       二

 三鷹村(みたかむら)の方から千歳村を経(へ)て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝(えだ)が、入江(いりえ)の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築(つ)き上げた品川堀の堤(つつみ)の藪(やぶ)だたみになって、其上から遠村近落の樫(かし)の森や松原を根占(ねじめ)にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡(あわ)く、秋の夕(ゆうべ)は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈(くさり)を突破(とっぱ)して居る。
 此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠(かん)した相州連山の御国山(みくにやま)から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林(ぼうふうりん)の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦(じ)らす様にちら/\透(す)いて見えるのが、却て懊悩(おうのう)の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝(したえだ)を払った百尺もある杉の八九十本、欝然(うつぜん)として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨(はるさめ)の明けの朝、秋霧(あきぎり)の夕、此杉の森の梢(こずえ)がミレージの様に靄(もや)から浮いて出たり、棚引く煙を紗(しゃ)の帯の如く纏(まと)うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨(うすずみ)の画になったり、梅雨には梟(ふくろう)の宿、晴れた夏には真先に蜩(ひぐらし)の家になったり、雪霽(ゆきばれ)には青空に劃然(くっきり)と聳(そび)ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉(からす)をとまらして見たり、秋の入日の空(そら)樺色に□(くん)ずる夕は、濃紺(のうこん)濃紫(のうし)の神秘な色を湛(たた)えて梢を距(さ)る五尺の空に唯一つ明星を煌(きら)めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。

       三

 彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重(おも)で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足(はだし)の女の子が、小目籠(めかい)と庖刀を持って、芹(せり)、嫁菜(よめな)、薺(なずな)、野蒜(のびる)、蓬(よもぎ)、蒲公英(たんぽぽ)なぞ摘みに来る。紫雲英(れんげそう)が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾(たにしひろ)いに来る。簑笠(みのかさ)の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突(どじょうつ)きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜(くぐ)って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹(めだけ)の藪の中を流れ、それから稀に葭(よし)を交えた萱(かや)の茂る土堤(どて)の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切(よしきり)、水鶏(くいな)の棲家(すみか)になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂(ひとだま)を真似て、時々は彼が家の蚊帳(かや)の天井まで舞い込む。夏は翡翠(ひすい)の屏風(びょうぶ)に光琳(こうりん)の筆で描いた様に、青萱(あおかや)まじりに萱草(かんぞう)の赭(あか)い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤(つつみ)に立つ。それから日に/\秋風(あきかぜ)をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜(つけな)を洗う七ちゃんが舌鼓(したつづみ)うつ程、小川の水は浅くなる。行く/\年(とし)闌(た)けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様に響(ひび)く。其内ある日近所の辰さん兼さんが※々(さくさく)[#「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]※[#「「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]々と音さして悉皆堤の上のを苅(か)って、束(たば)にして、持って往って了(しま)う。あとは苅り残されの枯尾花(かれおばな)や枯葭(かれよし)の二三本、野茨(のばら)の紅い実まじりに淋(さび)しく残って居る。覗(のぞ)いて見ると、小川の水は何処へ潜(くぐ)ったのか、窪(くぼ)い水道だけ乾いたまゝに残される。

       四

 谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重(げんじゅう)になったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博(とばく)が流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面(ましょうめん)に彼が七本松と名づけて愛(め)でゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめた丘(おか)の頂(いただき)は、隣字の廻沢(めぐりさわ)である。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木の櫟(くぬぎ)を伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷(かすや)に住んだ六年の間に、目通りに木羽葺(こっぱぶき)が一軒、麦藁葺(むぎわらぶき)が一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障(きざ)に見えたが、数年の風日は一を燻(くす)んだ紫に、一を淡褐色(たんかっしょく)にして、あたりの景色としっくり調和して見せた。此(この)丘(おか)を甲州街道の滝阪(たきざか)から分岐(ぶんき)して青山へ行く青山街道が西から東へと這(は)って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車(こやしぐるま)が通う。馬士(まご)が歌うて荷馬車を牽(ひ)いて通る。自転車が鈴を鳴(な)らして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。座(すわ)って居て行路の人を眺(なが)むるのは、断片(だんぺん)の芝居を見る様に面白い。時々は緑(みどり)の油箪(ゆたん)や振りの紅(くれない)を遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀(なむあみだ)ァ仏(ぶつ)の音頭念仏に導かれて葬式が通る。
 街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へ都(みやこ)へと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋(ふなばし)で、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃の遙(はるか)東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留(とうりゅう)に来た幼(おさ)ない姪(めい)が、二三日すると懐家病(ホームシック)に罹って、何時(いつ)も庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨(さみだれ)で田圃が白くなり、雲霧(くもきり)で遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出る岬(みさき)と、南から北へと差出る□(はな)とが、宛(さ)ながら入江を囲(かこ)む崎の如く末は海かと疑われる。廻沢(めぐりさわ)と云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海か湖(みずうみ)かであったろうと思われる。

       五

 谷から向うの丘(おか)にかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度の栄(さかえ)を見せる。常見てはありとも見えぬ辺(あたり)に、春来れば李(すもも)や梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木(ぬるで)紅葉(もみじ)、山紅葉が眼ざましく栄(は)える。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇(さつきやみ)に草舎(くさや)の紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰(しゅんいん)も好い。秋晴も好い。降(ふ)る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎(まむか)えて見送るに好い。向うの村の梢(こずえ)に先ず訪(おと)ずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点(してん)するに好い。翳(かげ)ったり、照ったり、躁(さわ)いだり、黙(だま)ったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉(しろこい)の鱗(うろこ)を以て包んだり、蜘蛛(くも)の糸を以て織りなした縮羅(しじら)の巾(きぬ)を引きはえたり、波なき海を縁(ふち)どる夥(おびただ)しい砂浜を作ったり、地上の花を羞(は)じ凋(しぼ)ます荘厳(そうごん)偉麗(いれい)の色彩を天空に輝(かがや)かしたり、諒闇(りょうあん)の黒布を瞬く間に全天に覆(おお)うたり、摩天(まてん)の白銅塔(はくどうとう)を見る間に築き上げては奈翁(なぽれおん)の雄図よりも早く微塵(みじん)に打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術(げんじゅつ)天象(てんしょう)の変化を、出て見るも好い。
 四辺(あたり)が寂(さび)しいので、色々な物音が耳に響く。鄙(ひな)びて長閑(のどか)な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛(むぎぶえ)。うなりをうって吹く二百十日の風。音(おと)なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙(しじま)。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺(もみず)りの響(おと)。凱旋の爆竹(ばくちく)を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋(あめや)の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨(しぐれ)のさゝやき。東京の午砲(どん)につゞいて横浜の午砲。湿(しめ)った日の電車汽車の響(ひびき)。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家(となり)で井汲(いどく)む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音(くつおと)や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉を辷(すべ)る露の滴(したた)りを聴くのである。
 夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘(かね)。真言宗の安穏寺(あんのんじ)。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音(ね)は聞こえる。東覚院(とうがくいん)、これも真言宗、つい向うの廻沢(めぐりさわ)にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺(ほうしょうじ)、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡(とち)の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
 大木は地の栄(さかえ)である。彼の周囲に千年の古木(こぼく)は無い。甲州の山鏈(さんれん)を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑を隔(へだ)てゝ欅(けやき)の杜(もり)の大欅が亭々と天を摩して聳(そび)えて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其鳶色(とびいろ)は秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。

       六

 家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼の有(もの)ではないが、千金啻(ただ)ならず彼に愛される。彼が家の背(うしろ)に、三角形をなす小さな櫟林(くぬぎばやし)と共に、春夏の際は若葉青葉の隧道(とんねる)を造る。青空から降る雨の様に落葉(おちば)する頃は、人の往来(ゆきき)の足音が耳に立つ。蛇の巣(す)でもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡(われもこう)、竜胆(りんどう)などが取々(とりどり)に咲く。ヨツドヽメの実も紅(くれない)の玉を綴(つづ)る。楢茸(ならたけ)、湿地茸(しめじだけ)も少しは立つ。秋はさながらの虫籠(むしかご)で、松虫鈴虫の好い音(ね)はないが、轡虫(くつわむし)などは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯(ちょうちん)つけて見る眼を働かすれば、弟(おとうと)が聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採(むしとり)をしたものだ。最早(もう)其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩(あんま)になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音に溺(おぼ)れる様な宵(よい)がある。


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[#201ページ、地蔵尊の写真]


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大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。

  大正十三年 春彼岸の中日


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   ひとりごと

     地蔵尊

 地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭(かげ)に南向きに据(す)えてくれた。八王子の在(ざい)、高尾山下浅川附近の古い由緒(ゆいしょ)ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌(がっしょう)してござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉(きょくび)豊頬(ほうきょう)ゆったりとした柔和(にゅうわ)の相好(そうごう)、少しも近代生活の齷齪(あくせく)したさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔(ひごけ)が真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかり欠(か)けがあるが、情(なさけ)の中に何処か可笑味(おかしみ)を添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初一瞥(いちべつ)して寛永と見たが、見直すと寿永(じゅえい)に見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時好古癖(こうこへき)の甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支(えと)も合って居る。そこで地蔵様の年齢(とし)も五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりした頬(ほお)に愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山(ほうえいざん)が一夜に富士の横腹を蹴破って跳(おど)り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被(かぶ)られたことであろう。如何(いかが)でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか? 何と云うても返事もせず、雨が降っても、日が照りつけても、昼でも、夜でも、黙って只合掌してござる。時々は馬鹿にした小鳥が白い糞をしかける。いたずらな蜘(くも)めが糸で頸(くび)をしめる。時々は家の主が汗臭い帽子を裏返しにかぶせて日に曝(さ)らす。地蔵様は忍辱(にんにく)の笑貌(えがお)を少しも崩さず、堅固に合掌してござる。地蔵様を持て来た時植木屋が石の香炉を持て来て前に据えてくれた。朝々其れに清水を湛えて置く。近在を駈け廻って帰ったデカやピンが喘(あえ)ぎ/\来ては、焦(こが)れた舌で大きな音をさせて其水を飲む。雀や四十雀(しじゅうから)や頬白(ほおじろ)が時々来ては、あたりを覗(うかが)って香炉の水にぽちゃ/\行水をやる。時々は家の主も瓜の種なぞ浸(ひた)して置く。散(ち)り松葉(まつば)が沈み、蟻や螟虫(あおむし)が溺死(できし)して居ることもある。尺に五寸の大海に鱗々の波が立ったり、青空や白雲が心(こころ)長閑(のどか)に浮いて居る日もある。地蔵様は何時も笑顔で、何時も黙って、何時も合掌してござる。
 地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立(かぶだ)ちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と紅の蓋(がい)をさし翳(かざ)す。家の主(あるじ)は此山もみじの蔭に椅子テーブルを置いて、時々読んだり書いたり、而して地蔵様を眺めたりする。彼の父方の叔母(おば)は、故郷(ふるさと)の真宗の寺の住持の妻になって、つい去年まで生きて居たが、彼は儒教実学の家に育って、仏教には遠かった。唯乳母が居て、地獄、極楽、剣(つるぎ)の山、三途(さんず)の川、賽(さい)の河原(かわら)や地蔵様の話を始終聞かしてくれた。四(よつ)五歳(いつつ)の彼は身にしみて其話を聞いた。而して子供心にやるせない悲哀(かなしみ)を感じた。其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうす闇(ぐら)い六畳の煤(すす)け障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
 賽(さい)の河原は哀(かな)しい而して真実な俚伝(りでん)である。此世は賽の河原である。大御親(おおみおや)の膝下から此世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日を過(すご)す。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦蒔(ま)くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。而して我儕(われら)が折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図(ゆうと)を築(きず)くと、ヲートルルーが打崩す。人間がタイタニックを造って誇り貌(が)に乗り出すと、氷山(ひょうざん)が来て微塵(みじん)にする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、雹(ひょう)が降(ふ)って十分間に打散らす。蝶よ花よと育てた愛女(まなむすめ)が、堕落書生の餌(えば)になる。身代を注(つ)ぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んで了う。蜀山(しょくさん)を兀(は)がした阿房宮が楚人(そびと)の一炬(いっきょ)に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりなら猶(まだ)可(よ)い。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、狂(きちがい)になる。世の中が思う様にならぬでヤケを起し、太く短く世を渡ろうとしてさま/″\の不心得(ふこころえ)をする。鬼に窘(いじ)められて鬼になり、他の小児の積む石を崩してあるくも少くない。賽の河原は乱脈(らんみゃく)である。慈悲柔和(じひにゅうわ)にこ/\した地蔵様が出て来て慰めて下さらずば、賽の河原は、実に情無(なさけな)い住(す)み憂(う)い場所ではあるまいか。旅は道づれ世は情(なさけ)、我儕(われら)は情によって生きることが出来る。地蔵様があって、賽の河原は堪(た)えられる。
 庭に地蔵様を立たせて、おのれは日々(ひび)鬼の生活をして居るでは、全く恥かしい事である。


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     水車問答

 田川の流れをひいて、小さな水車(すいしゃ)が廻って居る。水車のほとりに、樫(かし)の木が一本立って居る。
 白日(まひる)も夢見る村の一人の遊び人が、ある日樫の木の下の草地に腰を下して、水車の軋々(ぎいぎい)と廻るを見つゝ聞きつゝ、例の睡るともなく寤(さ)むるともなく、此様な問答を聞いた。
 軋(ぎい)と一声長く曳張(ひっぱ)るかと思えば、水車が樫の木を呼びかけたのであった。
「おい樫君、樫君。君は年が年中其処(そこ)につくねんと立って居るが、全体何をするのだい? 斯忙しい世の中にさ、本当に気が知れないぜ。吾輩を見玉え。吾輩は君、君も見て居ようが、そりゃァ忙しいんだぜ。吾輩は君、地球と同じに日夜(にちや)動いて居るんだぜ。よしかね。吾輩は十五秒(びょう)で一回転する。ソレ一時間に二百四十回転。一昼夜に五千七百六十回転、一年には勿驚(おどろくなかれ)約(やく)二百十万○三千八百四十回転をやるんだ。なんと、眼が廻るだろう。君は吾輩が唯道楽に回転して居ると思うか。戯談じゃない、全く骨が折れるぜ。吾輩は決して無意味の活動をするんじゃない。吾輩は人間の為に穀(こく)も搗(つ)くのだ、粉(こな)も挽(ひ)く。吾輩は昨年中に、エヽと、搗いた米がざっと五百何十石、餅米が百何十石、大麦が二千何百石、小麦が何百石、粟が……稗(ひえ)が……黍(きび)が……挽いた蕎麦粉(そばこ)が……饂飩粉(うどんこ)が……まだ大分あるが、まあざっと一年の仕事が斯様(こん)なもんだ。如何だね、自賛じゃないが、働きも此位やればまず一人前はたっぷりだね。それにお隣に澄まして御出(おいで)の御前(ごぜん)は如何(どう)だ。如何に無能か性分か知らぬが、君の不活動も驚くじゃないか。朝から晩までさ、年が年中其処(そこ)にぬうと立ちぽかァんと立って居て、而して一体お前は何をするんだい? 吾輩は決してその自ら誇るじゃないが、君の為に此顔を赧(あこ)うせざるを得ないね。おい、如何(どう)だ。樫君(かしくん)。言分(いいぶん)があるなら、聞こうじゃないか」
 云い終って、口角沫(こうかくまつ)を飛ばす様に、水車は水沫(しぶき)を飛ばして、響も高々と軋々(ぎーいぎーい)と一廻り廻った。
 其処に沈黙の五六秒がつゞいた。かさ/\かさ/\頭上に細い葉ずれの音がするかと思うと、其れは樫君が口を開いたのであった。
「然(そう)つけ/\云わるゝと、俺(わし)は穴(あな)へでも入りたいが、まあ聞いてくれ。そりゃ此処に斯うして毎日君の活動を見て居ると、羨(うらや)ましくもなるし、黙(だま)って立って居る俺は実以て済まぬと恥かしくもなるが、此れが性分だ、造り主の仕置だから詮方(しかた)は無い。それに君は俺が唯遊んで昼寝(ひるね)して暮らす様に云うたが、俺にも万更仕事が無いでもない。聞いてくれ。俺の頭(あたま)の上には青空がある。俺の頭は、日々(にちにち)夜々(やや)に此青空の方へ伸びて行く。俺の足の下には大地(だいち)がある。俺の爪先は、日々夜々に地心へと向うて入って行く。俺の周囲(ぐるり)には空気と空間とがある。俺は此周囲に向うて日々夜々に広がって行く。俺の仕事は此だ。此が俺の仕事だ。成長が仕事なのだ。俺の葉蔭で夏の日に水車小屋の人達が涼(すず)んだり昼寝をしたり、俺の根が君を動かす水の流れの岸をば崩れぬ様に固めたり、俺のドングリを小供が嬉々と拾うたり、其様な事は偶然の機縁で、仕事と云う俺の仕事ではない。俺は今一人だが、俺の友達も其処(そこ)此処(ここ)に居る。其一人は数年前に伐(き)られて、今は荷車(にぐるま)になって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄(げた)の歯(は)になって、泥濘(どろ)の路石ころ路を歩いて居る。他の一人は鉋(かんな)の台になって、大工の手脂(てあぶら)に光って居る。他の友達は薪(まき)になって、とうに灰になった。ドブ板になったのもある。また木目が馬鹿に奇麗だと云って、茶室(ちゃしつ)の床柱(とこばしら)なンかになったのもある。根こぎにされて、都の邸(やしき)の眼かくしにされたのもある。お百姓衆の鍬(くわ)や鎌(かま)の柄(え)になったり、空気タイヤの人力車の楫棒(かじぼう)になったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何(どう)にかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
 云い終って、一寸唾(つば)を吐(は)いたと思うと、其(それ)はドングリが一つ鼻先(はなさき)に落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。而(そう)して唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。


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     農

我父は農夫なり  約翰(ヨハネ)伝第十五章一節

       一

 土の上に生れ、土の生(う)むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕(われら)は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択(えら)み得た者は農である。

       二

 農は神の直参(じきさん)である。自然の懐(ふところ)に、自然の支配の下に、自然を賛(たす)けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰(しゅさい)を神とすれば、彼等は神の直轄(ちょくかつ)の下に住む天領(てんりょう)の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。

       三

 農は人生生活のアルファにしてオメガである。
 ナイル、ユウフラテの畔(ほとり)に、木片で土を掘って、野生の穀(こく)を蒔(ま)いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲(けみ)した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草(あおひとぐさ)の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命(いのち)は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン、維廉(ヰルヘルム)、シシルローヅをして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド、モルガンをして勝手に其弗(ドル)法(フラン)を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン、ホルランドをして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン、メチニコフ、ヘッケルをして盛んに論議せしめ、幾多のショウ、ハウプトマンをして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン、ロダンをして盛に塗(ぬ)り且刻(きざ)ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作(ひいでてさくし)、日入而息(ひいってやすみ)、掘井而飲(いどをほってのみ)、耕田而食(たをたがやしてくら)うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟(くつ)となり、世は終に近づく時も、サハラの沃野(よくや)にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃(きら)めくであろう。

       四

 大なる哉土の徳や。如何なる不浄(ふじょう)も容(い)れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇(さくき)の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣(や)ることが出来る。あらゆる放浪(ほうろう)を為尽(しつく)して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
 あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底(ちてい)の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣(だいかく)の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚(はだ)の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日(れつじつ)の下(もと)に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯(むぎめし)を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽(あわ)てず恚(いか)らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱(ひでり)、水、雹(ひょう)、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日(あす)乞丐(こじき)となる市井(しせい)の投機児(とうきじ)をして勝手に翻筋斗(とんぼ)をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。

       五

 農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒(ふんびょう)に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫(さもあれ)農をオロカと云うは、天網(てんもう)を疎(そ)と謂(い)い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃(いっせん)する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕(われら)に届かぬ星の存在を否(いな)むは僻事(ひがごと)である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。

       六

 農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博(はく)した事がある。然し乾(けん)を父と称し、坤(こん)を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受(にんじゅ)し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
 農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙(じゅうりん)される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具(そな)えて居る。

       七

 農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上(おかみ)の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜(ずいき)の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納(ほうのう)の小金(こがね)を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮(あき)らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如(どんより)した農の顔を見れば、限りなく蹂躙(じゅうりん)してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷(じすべ)りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸(わ)く水もあり、清(すず)しい命の水もあり、燃(も)せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜(ひそ)んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土に□(ひと)しい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜(ろしあ)の強味は、農の強味である。莫斯科(モスクワ)まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤(じばん)の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?

       八

 農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容(い)れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何(どう)なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床(おんしょう)たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正(まさ)しく一の大農夫である。神は一切を好(よし)と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。

       九

 土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。


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     蛇

       一

 虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂(かまきり)、蠑□(いもり)、蛞蝓(なめくじ)、尺蠖(しゃくとり)。
 蠑□の赤腹を見ると、嘔吐(へど)が出る。蟷螂はあの三角の小さな頭、淡緑色の大きな眼球に蚊の嘴(はし)程の繊(ほそ)く鋭い而してじいと人を見詰むる瞳(ひとみ)を点じた凄(すご)い眼、黒く鋭い口嘴(くちばし)、Vice の様な其両手、剖(さ)いて見れば黒い虫の様に蠢(うごめ)く腸を満たしたふくれ腹、身を逆さにして草木の葉がくれに待伏(まちぶせ)し、うっかり飛んで来る蝉の胸先に噛(か)みついてばた/\苦しがらせたり、小さな青蛙の咽(のど)に爪うちかけてひい/\云わしたり、要するに彼はこれ虫界の Iago 悪魔の惨忍(ざんにん)を体現した様なものである。引捉えてやろうとすれば、彼は小さな飛行機(ひこうき)の如く、羽をひろげてぱッぱた/\と飛んで往って了う。憎いやつである。それから、家を負う蝸牛(かたつむり)の可愛気はなくて、ぐちゃりと唯意気地なさを代表した様で、それで青菜甘藍(キャベツ)を何時の間にか意地汚なく喰い尽す蛞蝓と、枯枝の真似して居て、うっかり触(さわ)れば生きてますと云い貌にびちりと身を捩(もじ)り、あっと云って刎(は)ね飛ばせば、虫のくせに猪口才(ちょこさい)な、頭と尾とで寸法とって信玄流に進む尺蠖とは、気もちの悪い一対(いっつい)である。此等は何れも嬉しくない連中だが、然しまだ/\蛇には敵(かな)わぬ。

       二

 蛇嫌いは、我等人間の多数に、祖先から血で伝わって居る。話で聞き、画で見、幼ない時から大蛇は彼の恐怖の一であった。子供の時から彼はよく蛇の夢を見た。今も心身にいやな事があれば、直ぐ蛇を夢に見る。現(うつつ)に彼が蛇を見たのは五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明(ありあけ)の海辺(うみべ)の小天(おあま)の温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家で、寝ながら上を見て居ると、真黒に煤(すす)けた屋根裏の竹を縫うて何やら動いて居た。所謂青大将(あおだいしょう)であったが、是れ目に見ていやなものと蛇を思う最初であった。
 彼の兄は彼に劣らぬ蛇嫌いで、ある時家の下の小川で魚を抄(すく)うとて蛇を抄い上げ、きゃっと叫んで笊(ざる)を抛(ほう)り出し、真蒼(まっさお)になって逃げ帰ったことがある。七八歳の頃、兄弟連れ立っての学校帰りに、川泳ぎして居た悪太郎が其時は一丈もあろうと思うた程の大きな青大将の死んだのを路の中央に横たえて恐れて逡巡する彼を川の中から手を拍(う)って笑った。兄が腹を立て、彼の手を引きずる様にして越えようとする。大奮発して二足三足、蛇の一間も手前まで来ると、死んで居る動かぬとは知っても、長々と引きずった其体、白くかえした其段だらの腹(はら)を見ると、彼の勇気は頭の頂辺(てっぺん)からすうとぬけてしもうて如何しても足が進まぬ。已むを得ず土堤(どて)の上を通ろうとすれば、悪太郎が川から上って来て、また蛇を土堤の上に引きずって来る。結局如何して通ったか覚えぬが、生来斯様な苦しい思をさせられたことはなかった。彼の従弟(いとこ)は少しも蛇を恐れず、杉籬(すぎがき)に絡(から)んで居るやつを尾をとって引きずり出し、環(わ)を廻(まわ)す様に大地に打つけて、楽々(らくらく)と殺すのが、彼には人間以上の勇気神わざの様に凄(すさま)じく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇(あそ)の温泉に行く時、近道をして三里余も畑の畔(くろ)の草径(くさみち)を通った。吾儘(わがまま)な兄は蛇払(へびはらい)として彼に先導(せんどう)の役を命じた。其頃は蛇より兄が尚恐(こわ)かったので、恐(お)ず/\五六歩先に立った。出るわ/\、二足行ってはかさ/\/\、五歩往ってはくゎさ/\/\、烏蛇、山かゞし、地もぐり、あらゆる蛇が彼の足許(あしもと)から右左に逃げて行く。まるで蛇を踏分けて行くようなものだ。今にも踏(ふ)んで巻きつかれるのだと観念し、絶望の勇気を振うて死物狂(しにものぐるい)に邁進(まいしん)したが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識(し)って居た其処の息子が、先日川端の湯樋(ゆどい)を見に往って蝮(まむし)に噛まれたと云って、跛をひいて居た。彼の郷里では蝮をヒラクチと云う。ある年の秋、西山に遊びに往って、唯有(とあ)る崖(がけ)を攀(よ)じて居ると、「ヒラクチが居ったぞゥ」と上から誰やら警戒を叫んだ。其時の魂も消入る様な心細さを今も時々憶い出す。

       三

 村住居をする様になって、隣は雑木林だし、墓地は近し、是非なく蛇とは近付になった。蝮はまだ一度も見かけぬが、青大将、山かゞし、地もぐりの類は沢山居る。最初は生類御憐みで、虫も殺さぬことにして居たが、此頃では其時の気分次第、殺しもすれば見□(みのが)しもする。殺しても尽きはせぬが、打ちゃって置くと殖(ふ)えて仕様がないのである。書院の前に大きな百日紅(さるすべり)がある。もと墓地にあったもので、百年以上の老木だ。村の人々が五円で植木屋に売ったのを、すでに家の下まで引出した時、彼が無理に譲ってもらったのである。中は悉皆(すっかり)空洞(うろ)になって、枝の或ものは連理(れんり)になって居る。其れを植えた時、墓地の東隣に住んで居た唖の子が、其幹を指して、何かにょろ/\と上って行く状(さま)をして見せたが、墓地にあった時から此百日紅は蛇の棲家(すみか)であったのだ。彼の家に移って後も、梅雨(つゆ)前(まえ)になると蛇が来て空洞(うろ)の孔(あな)から頭を出したり、幹(みき)に絡(から)んだり、枝の上にトグロをまいて日なたぼこりしたりする。三疋も四疋も出て居ることがある。百日紅の枝其ものが滑(すべ)っこく蛇の膚(はだ)に似通うて居るので、蛇も居心地がよいのであろう。其下を通ると、あまり好い気もちはせぬ。時々は百日紅から家の中へ来ることもある。ある時書院の雨戸をしめて居た妻がきゃっと叫(さけ)んだ。南の戸袋に蛇が居たのである。雀が巣くう頃で、雀の臭(におい)を追うて戸袋へ来て居たのであろう。其翌晩、妻が雨戸をしめに行くと、今度は北の戸袋に居た。妻がまたけたゝましく呼んだ。往って繰り残しの雨戸で窃(そっ)と当って見ると、確に軟(やわ)らかなものゝ手答(てごたえ)がする。釣糸に響く魚の手答は好いが、蛇の手応(てごた)えは下(くだ)さらぬ。雨戸をしめれば蛇の逃所がなし、しめねばならず、ランプを呼ぶやら、青竹を吟味(ぎんみ)するやら、小半時(こはんとき)かゝって雨戸をしめ、隅に小さくなって居るのを手早くたゝき殺した。其れが雌(めす)でゞもあったか、翌日他の一疋がのろ/\と其(その)侶(とも)を探がしに来た。一つ撲(う)って、ふりかえる処をつゞけざまに五六つたゝいて打殺した。殺してしもうて、つまらぬ殺生をしたと思うた。
 彼が家のはなれの物置兼客間の天井(てんじょう)には、ぬけ殻(がら)から測(はか)って六尺以上の青大将が居る。其家が隣村にあった頃からの蛇で、家を引移(ひきうつ)すと何時の間にか大将も引越して、吾家貌(わがいえがお)に住んで居る。所謂ヌシだ。隣村の千里眼に見てもらったら、旧家主(もとやぬし)の先代のおかみの後身(こうしん)だと云うた。夥しい糞尿をしたり、夜は天井をぞろ/\重い物曳(ひ)きずる様な音をさせてあるく。梅雨(つゆ)の頃、ある日物置に居ると、パリ/\と音がした。見ると、其処(そこ)に卵の殻(から)を沢山入れた目籠に、彼ぬしでは無いが可なり大きな他の青大将が来て、盛に卵の殻を食うて居るのである。見て居る内に、長持の背(うしろ)からまた一疋のろ/\這い出して来て、先のと絡(から)み合いながら、これもパリ/\卵の殻を喰いはじめた。青黒い滑々(ぬめぬめ)したあの長細い体(からだ)が、生(い)き縄(なわ)の様に眼の前に伸びたり縮んだりするのは、見て居て気もちの好いものではない。不図見ると、呀(あっ)此処(ここ)にも、梁(はり)の上に頭は見えぬが、大きなものが胴(どう)から下(した)波うって居る。人間が居ないので、蛇君等が処得貌に我家と住みなして居るのである。天井裏まで上ったら、右の三疋に止まらなかったであろう。彼は其日一日頭が痛かった。
 ある時栗買いに隣村の農家に往った。上塗(うわぬり)をせぬ土蔵(どぞう)の腰部(ようぶ)に幾個(いくつ)の孔(あな)があって、孔から一々縄が下って居る。其縄の一つが動く様なので、眼をとめて見ると、其縄は蛇だった。見て居る内にずうと引込んだが、またのろ/\と頭を出して、丁度他の縄の下って居ると同じ程(ほど)にだらりと下がった。何をするのか、何の為に縄の真似をするのか。鏡花君の縄張に入る可き蛇の挙動と、彼は薄気味悪くなった。
 勇将の下に弱卒なし。彼が蛇を恐れる如く、彼が郎党(ろうとう)の犬のデカも獰猛(どうもう)な武者振をしながら頗る蛇を恐れる。蛇を見ると無闇(むやみ)に吠(ほ)えるが、中々傍へは寄らぬ。主人(あるじ)が勇気を出して蛇を殺すと、デカは死骸の周囲(まわり)をぐる/\廻って、一足寄ってはワンと吠(ほ)え、二足寄っては遽(あわ)てゝ飛びのいてワンと吠え、ワンと吠え、ワンと吠え、廻り廻って、中々傍へは寄らぬ。ある時、麦畑に三尺ばかりの山かゞしが居た。山かゞしは、やゝ精悍(せいかん)なやつである。主人が声援(せいえん)したので、デカは思切ってワンと噛みにかゝったら、口か舌かを螫(さ)されたと見え、一声(いっせい)悲鳴(ひめい)をあげて飛びのき、それから限なく口から白泡(しらあわ)を吐いて、一時は如何(どう)なる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥(ねとり)を捕(と)ってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対(あいたい)し貌(がお)に、芝生に座(すわ)って居るので、覗(のぞ)いて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らば撃(う)たんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足を揃(そろ)えて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿(さお)をとりに往った間に、トラも蛇も物別(ものわか)れになって何処かへ往ってしもうた。

       四

 斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情は除(と)れぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早(もう)園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭を擡(もた)げて、上ろうか、と思う様子をして居た。遽(あわ)てゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はては額(がく)の裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝(ひるね)も出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうと泡(あわ)の様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇(はぶ)、響尾蛇(ラッツルスネーキ)、蝮蛇(まむし)の毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼の敵(かたき)に殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故(なぜ)斯様(こんな)に彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧(ちえ)に適(かな)う事が多い。
 奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽(このめ)を食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
 悪戯(いたずら)に蛇を投げかけようとした者を已に打果(うちはた)すとて刀(かたな)の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣(す)と云わるゝ竹生島(ちくふじま)に庵(いおり)を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴(さいかく)の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷(たすき)と間違(まちが)えて何より嫌いな蛇を握(にぎ)り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿(ふんにょう)にも道あり、蛇も菩提(ぼだい)に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入(はいり)かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜(みにく)い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地(いんち)にのたくり、弱きを窘(いじ)めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化(な)って居る彼自身ではあるまいか。己(わ)が醜(みに)くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
 生命は共通である。生存は相殺(そうさつ)である。自然は偏倚(へんい)を容(ゆる)さぬ。愛憎(あいぞう)は我等が宇宙に縋(すが)る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
 好きなものが毒になり、嫌いなものが薬(くすり)になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命(いのち)は斯くして有(たも)たるゝのである。
 好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕(われら)の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
 本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。


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     露の祈

 今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅(いちぐう)に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩(かれはぎ)の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時(いつ)撒(ま)いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆(さたん)してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触(さわ)ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々(こうこう)と輝く朝日を見た。
あゝ朝日!
爾(なんじ)の無限大を以てして一滴(いってき)の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾(しゅゆ)の命(いのち)を小枝(さえだ)に托するはかない水の一雫(ひとしずく)、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄(さかえ)を現わさん為に、爾の子の栄を顕(あら)わし玉え」
の祈は彼の口を衝いて出た。
天つ日の光に玉とかがやかば
    などか惜まん露の此の身を


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     草とり

       一

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱(ぜいじゃく)な五穀蔬菜は、野草(やそう)に杜(ふさ)がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導(さいせいほどう)は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
 老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗(じゅうのう)でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈(もうれつ)に攻め寄する。飯焚(めした)く時間を惜んで餅(もち)を食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治(たいじ)せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
 唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈(はげ)しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭(ゆうかげ)にとる。取りきれないで、日中(にっちゅう)にもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴(ぐち)をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草(くさとり)器械(きかい)にならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方に貰(もら)えば済む。というても、実際眼前に草の跋扈(ばっこ)を見れば、除(と)らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種(たね)を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
 そこでまた勇気を振起(ふりおこ)して草をとる。一本また一本。一本除れば一本減(へ)るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田(しんでん)の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕(われら)の心も草だらけである。四囲(あたり)の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草に埋(う)もれて了う。そこで草を除る。己(わ)が為に草を除るのだ。生命(いのち)の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落(だらく)して了う。
「爾(なんじ)我言に背いて禁菓(きんか)を食(く)いたれば、土は爾の為に咀(のろ)わる。土は爾の為に荊棘(いばら)と薊(あざみ)を生(しょう)ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食(くら)わん」
 斯く旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。

       二

 美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除(と)るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料(こやし)にしてしまう。馴付(なつ)けた敵は、味方である。「年々や桜を肥(こや)す花の塵」美しい花が落ちて親木(おやき)の肥料になるのみならず、邪魔の醜草(しこぐさ)がまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土(せきど)になるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其懐(ふところ)に多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
 畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種の芳(かんば)しい香(か)を放つ草もある。
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