みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

       二

 ランプの明(あか)りで見れば、男は五分刈(ごぶがり)頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷(まるまげ)に結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物(みやげもの)を取出し主人夫妻(しゅじんふさい)の前にならべた。葡萄液一瓶(ひとびん)、「醗酵(はっこう)しない真の葡萄汁(ぶどうしる)です」と男が註を入れた。杏(あんず)の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出(とりだ)したのは、十七八ずつも実(な)った丹波酸漿(たんばほおずき)が二本。いずれも紅(あか)いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事(みごと)な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母(うば)が丹精(たんせい)して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇(ほこ)り貌(が)に口を添えた。二つ三つ語を交(か)わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者(やそしんじゃ)、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日(あした)は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
 兎に角飯(めし)を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂(うれ)わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好(いけな)かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊(わがままぼっ)ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉(かいろ)を入れてやった。大分(だいぶ)落(おち)ついたと云う。晩(おそ)くなって風呂が沸(わ)いた。まあお客様からと請(しょう)じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝(ね)ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組(しゅじんぐみ)は此方(こち)、客は彼方(あち)と頭(あたま)突(つ)き合わせである。無い蒲団を都合(つごう)して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

 明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯(あさめし)を十時にやります。あなた方はお構(かま)いなく」と何方(どち)が主やら客やら分(わ)からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
 畠仕事(はたけしごと)をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼(かれ)は生活の闘烈しい雪の山国(やまぐに)に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当(かんどう)同様(どうよう)の身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖(さしづえ)を取ると、突然(いきなり)劇(はげ)しく先生たる彼の背(せなか)を殴(なぐ)った。彼は徐(しずか)に顧みて何を為(す)ると問うた。其(その)生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下(ごめんくだ)さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪(ひざまず)いて詫(わ)びた。彼は其生徒を賞(ほ)めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美(ほうび)にやった。
 斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙(い)れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
 女は甲州の釜無川(かまなしがわ)の西に当る、ある村の豪家の女(むすめ)であった。家では銀行などもやって居た。親類内(しんるいうち)に嫁に往ったが、弟が年若(としわか)なので、父は彼女夫妻を呼んで家(うち)の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目(よそめ)には模範的夫婦と見られた。良人(おっと)はやさしい人で、耶蘇(やそ)教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州(しんしゅう)の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼(うご)かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時(いつ)となく彼女と彼の間に無線電信(むせんでんしん)がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻(つま)に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若(としわか)ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭(とうとう)家(うち)を脱け出して信州の彼が許(もと)に奔(はし)ったのである。

           *

 朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした。
 彼は尻をからげて、莫大小(めりやす)の股引(ももひき)白足袋(しろたび)に高足駄をはき、彼女は洋傘(こうもり)を杖(つえ)について海松色(みるいろ)の絹天(きぬてん)の肩掛(かたかけ)をかけ、主婦に向うて、
「何卒(どうぞ)覚(おぼ)えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

 一年程過ぎた。
 此世から消え失せたかの様に、二人の消息(しょうそく)ははたと絶えた。
「如何(どう)したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
 主人夫妻は憶(おも)い出(だ)す毎(たび)に斯く云い合った。
 丁度(ちょうど)満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日(いちにち)一夜(いちや)を忘れなかった、と書いてある。
 吁(ああ)彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言(いちごん)を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中(ひゃっかえんちゅう)のそゞろあるきではあるまい、とは期(ご)して居たが、彼女は早くも死んだの乎。
 聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である。

           *

 あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。
 彼等夫妻は千曲川(ちくまがわ)の滸(ほとり)に家をもち、養鶏(ようけい)などやって居た。而して去年(きょねん)の秋の暮、胃病(いびょう)とやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加(つけくわ)えた。

           *

 某氏はまた斯様(こん)な話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類(きるい)を質入(しちい)れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫(ぜんふ)は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇(やそ)を信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通(もんくどお)り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸(ならずもの)等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家(うち)に時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母が瞋(いか)ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々(おいおい)に金を信州へ送り、千曲川の辺の家(うち)も其れで建てたと云うことであった。

           *

 彼夜彼女が持(も)て来てくれたほおずきは、あまり見事(みごと)なので、子供にもやらず、小箪笥(こだんす)の抽斗(ひきだし)に大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にか其(その)小箪笥を背(うしろ)から噛破って喰ったと見え、年(とし)の暮(くれ)に抽斗をあけて見たら、中実(なかみ)無しのカラばかりであった。
 年々(ねんねん)酸漿(ほおずき)が紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女を憶(おも)い出すと云うて居る。


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     碧色の花

 色彩の中で何色(なにいろ)を好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情な彼(かれ)は答に迷うた。
 吾墓の色にす可き鼠色(ねずみいろ)、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑(わかみどり)、春雨を十分に吸うた紫(むらさき)がかった土の黒、乙女の頬(ほお)に匂(にお)う桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬(れもん)月見草(つきみそう)の冷たい黄、銀色の翅(つばさ)を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯(ねったい)の海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉を泛(うか)べ或時は底深く日影金糸を垂(た)るゝ山川の明るい淵(ふち)の練(ね)った様な緑玉(エメラルド)、盛り上り揺(ゆ)り下ぐる岩蔭の波の下(した)に咲く海アネモネの褪紅(たいこう)、緋天鵞絨(ひびろうど)を欺く緋薔薇(ひばら)緋芥子(ひげし)の緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色(きつねいろ)、春の伶人(れいじん)の鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠(はとはねずみ)、高山の夕にも亦やんごとない僧(そう)の衣にもある水晶にも宿(やど)る紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にも樺(かば)の膚(はだ)にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白(しろ)、数え立つれば際限(きり)は無い。色と云う色、皆(みな)好(す)きである。
 然しながら必其一を択(えら)まねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、度(ど)として濃碧(のうへき)を択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川(のがわ)の面(おも)に宿るあるか無きかの浅碧(あさみどり)から、深山の谿(たに)に黙(もだ)す日蔭の淵の紺碧(こんぺき)に到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊(こと)に鮮(あざ)やかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力を有(も)って居る。
 高山植物の花については、彼は呶々(どど)する資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花(せいようくさばな)にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆(はるりんどう)、勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃草も可憐な花である。紫陽花(あじさい)、ある種の渓□(あやめ)、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆(りんどう)がある。牧師の着物を被た或詩人は、嘗(かつ)て彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花を摘(つ)み、熟々(つくづく)見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露の乾(ひ)ぬ間(ま)の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素(ようそ)とする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだ我(わが)邦土(ほうど)には何処やら居馴染(いなじ)まぬ花だが、はらりとした形も、深(ふか)い空色も、涼しげな夏の花である。これは園内(えんない)に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄(き)ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイ翁(おう)のヤスナヤ、ポリヤナに赴(おもむ)く時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮(こうふん)とで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息(いこい)を与えた。
 夏には更(さら)に千鳥草(ちどりそう)の花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状(さま)をして居る。園養(えんよう)のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞(しま)のもあるが、野生の其(そ)れは濃碧色(のうへきしょく)に限られて居る様だ。濃碧が褪(うつろ)えば、菫色(すみれいろ)になり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途(かえり)だった。七月下旬、莫斯科(もすくわ)を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目(とおかめ)にチタを過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツクで乗換(のりか)えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。チタでは殊(こと)に支那人が多く、満洲(まんしゅう)近い気もち十分(じゅうぶん)であった。バイカル湖(こ)から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗(のぞ)いて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色(へきしょく)がさっと眼に映(うつ)った。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥(こうりょう)を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧(のうへき)の其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫(むらさき)がかったり、まだ蕾(つぼ)んだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓に凭(もた)れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。
 然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優(ま)した美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草(ほたるぐさ)、鴨跖草(おうせきそう)なぞ云って、草姿(そうし)は見るに足らず、唯二弁より成(な)る花は、全き花と云うよりも、いたずら子に□(むし)られたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色の蝶(ちょう)の唯(ただ)かりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉(きんふん)を浮べた花蕊(かずい)の黄(き)に映発(えいはつ)して惜気もなく咲き出でた花の透(す)き徹(とお)る様な鮮(あざ)やかな純碧色は、何ものも比(くら)ぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うは誤(あやま)りである。花では無い、あれは色に出た露の精(せい)である。姿脆(もろ)く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那(せつな)の天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下(あしもと)などに、さま/″\の他の無名草(ななしぐさ)醜草(しこぐさ)まじり朝露を浴びて眼がさむる様(よう)に咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆(りんどう)を讃(ほ)めた詩人の言を此にも仮(か)りて、青空の□気(こうき)滴(したた)り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦(よみがえ)らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よと讃(たた)えずには居られぬ。「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間(ま)に蹂(ふ)みにじる。
 碧色の草花として、つゆ草は粋(すい)である。


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     おぼろ夜

 早夕飯のあと、晩涼(ばんりょう)に草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、
「あゝM君(くん)ですか」
と声(こえ)をかけた。
 其は浴衣の着流(きなが)しで駒下駄を穿(は)いたM君であった。M君は早稲田(わせだ)中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書く料(りょう)に彼の新生活を見に来た。丁度(ちょうど)樫苗(かしなえ)を植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君は慍(いか)る容子もなく徐(しずか)に待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の好(い)い一夜(いちや)、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島(つなしま)梁川(りょうせん)君(くん)の言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩(おうのう)を述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲(ほうてき)して先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。
 其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。
 君の所要は、先月茅(ち)ヶ崎(さき)で物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局(へんしゅうきょく)に可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜(ざんしんけいばつ)、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚(うぐ)、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹を披(ひら)いて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑(ぶべつ)あり、彼の方には多少の嫉妬(しっと)羨望(せんぼう)あり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家(じか)の路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命を閲(けみ)して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓(ざっとう)の中に故人を見出した。何処(どこ)ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折(なかおれ)をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒(さっぱり)した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅(かたすみ)に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔(そかく)を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始(さいし)の接近で、また最後の面会であった。
 M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
 彼等は久しく芝生の縁代(えんだい)で話した。M君が辞(じ)し去ったのは、夜も深(ふ)けて十二時近かった。
 彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧(ぼんやり)とうち煙り、田圃(たんぼ)の蛙(かわず)の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
 駒下駄の音も次第(しだい)に幽(かすか)になって、浴衣(ゆかた)姿(すがた)の白いM君は吸わるゝ様に靄(もや)の中に消えた。

           *

 其後ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年(よくとし)ある日の新聞に、M君が安心(あんしん)を求む可く妻子を捨てゝ京都山科(やましな)の天華香洞(てんかこうどう)に奔(はし)った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。
 見神の一義に君は到頭(とうとう)精力(せいりょく)を傾注(けいちゅう)せずに居られなくなったのである。而(しか)して生涯の大事(だいじ)、生存の目的を果したので、君は軽く肉の衣(ころも)を脱いだのであろう。


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     ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ

       一

 夫人(おくさん)。
 私は夙(とく)に手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回(いくたび)も幾回もペンを執(と)ったのでした。ペンを執りは執りながら、如何(どう)しても書くことが出来なかったのです。今日(きょう)、ビルコフさんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去(せいきょ)六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々(つくづく)見て居る内に、私の眼は霞(かす)んで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早(もう)霊です。私の拙(まず)い言葉を仮(か)らずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底(しんそこ)から申すことを容(ゆる)して下さるだろうと思います。

       二

 何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議(ふかしぎ)な遽(にわ)かの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫(さしせま)って来た事を知りました。それで先生の訃(ふ)に接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故(なぜ)先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱(かいほう)の中に、其一片と雖も先生を吾有(わがもの)と主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、穏(おだやか)に死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景(ばんけい)になって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かな巣(す)からさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故(せこ)を経尽(へつく)し人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、否(いや)墓に片脚(かたあし)下(おろ)しかけて、釈迦牟尼(しゃかむに)の其生の初に為(せ)られた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚き怪(あやし)みました。不相変主我的(しゅがてき)だと非難した者も少なくありませんでした。一風(いっぷう)変(かわ)った天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人(おくさん)、悲痛の重荷は偏(ひとえ)にあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生と棲(す)んで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭(ゆうかげ)に、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! 而(そう)してトルストイの邪魔物は此であると云った様に白昼(ひるひなか)世界の眼の前に曝(さら)しものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者(かとうど)でも、如何程苦(にが)り切ったあなたの敵対者(てきたいしゃ)でも、堪え難いあなたの苦痛と断腸(だんちょう)の悲哀(かなしみ)とは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池の滸(ほと)りの一刹那(いっせつな)を思うては、戦慄(せんりつ)せずには居られません。

       三

 然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイと云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作(しょさ)は、万人の具(つぶさ)に瞻(み)る所、批評の的(まと)であります。そこで先生の哀(かな)しい最期前後の出来事は、如何様(どのよう)な微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起(ひきおこ)しました。私は漏らさず其記事を見ました。無論誤報(ごほう)曲説(きょくせつ)も多かったでしょう。針小棒大(しんしょうぼうだい)の記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心を痛(いた)むる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白が弥(いや)白くなれば、鼠色(ねずみいろ)も純黒(まっくろ)に勢(いきおい)なる様なもので、故先生があまりに物的(ぶってき)自我(じが)を捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束の下(もと)にあるのです。先生が産(さん)を治(おさ)むる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫(じそん)の為に利益を計り権利を主張し、切々(せっせ)と生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰も然(そう)申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満を懐(いだ)かれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々仁人(じんじん)としても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳(そんげん)を第一位に置く霊活不覊(れいかつふき)なる先生の心を傷(いた)むるのは知れ切った事まで先生に強(しい)られたのは、あまりと云えば無惨(むざん)ではありますまいか。あなたはトルストイの名を其様(そんな)に軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人(ぎじん)の裔(すえ)の物乞いあるくを見し事なし」とソロモンは申しました。トルストイの妻は其(その)夫(おっと)をルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイの子女は、其父を食わねば生きられぬ程(ほど)腑甲斐(ふがい)ないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的に為(せ)られたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科(モスクワ)の小店なぞに切々(せっせ)と売溜(うりだめ)の金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイの夫人の挙動(ふるまい)としては、よく云えばあまりに謙遜(けんそん)な、正(まさ)しく云えばあまりに信仰がない鄙(さもし)い話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけて惚(ほ)れられた美しい素直なソフィ嬢は、斯様(こん)な心の香(か)の褪(うつろ)った老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生逝去(せいきょ)後の御家の挙動(ふるまい)は如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故(なぜ)先生は彼様な烈しい最後(さいご)の手段を取らずに、犠牲となって穏(おだやか)に家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強(がづよ)い先生であると。然し此は先生がトルストイである事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人相応(そうおう)の生き様(よう)があり、また其人相応の死に様があります。トルストイの様な人でトルストイの様な境遇にある者は、彼様な断末魔(だんまつま)が当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様(ああ)でなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾(じんよく)、一切の理想が恐ろしい火の如く衷(うち)に燃えて闘(たたこ)うた先生には、灰色(はいいろ)にぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対する真(しん)の愛から云うても、理想に対する操節(そうせつ)から云っても、出奔(しゅっぽん)と浪死(ろうし)は必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸に畳(たた)んで、所謂家庭の和楽(わらく)の犠牲となって一個の好々翁(こうこうおう)として穏にヤスナヤ、ポリヤナに瞑目(めいもく)されたとして、先生は果してトルストイたり得たでしょう乎。其死が夫人(おくさん)、あなたをはじめとして全世界に彼様(あん)な警策(けいさく)を与えることが出来たでしょう乎。彼(あの)最後(さいご)彼臨終(りんじゅう)あるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜(がりゅう)の睛(せい)を点(てん)じたのではありますまい乎。確に然です。トルストイは手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイは理想を賞翫(しょうがん)して生涯を終(おわ)る理想家で無い、トルストイは一切の執着(しゅうちゃく)煩悩(ぼんのう)を軽々に滑(すべ)り脱(ぬ)ける木石人で無い、然しトルストイは最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰(ほんとう)する火の如き霊であると云う事が、墨黒(すみぐろ)の夜の空に火焔(かえん)の字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬ檻(おり)の中で獅子吼(ししく)をしたり、毬(まり)を弄(もてあそ)んだり、無聊(むりょう)に悶(もだ)えたりして居ましたが、最後に身を跳(おど)らして一躍(いちやく)檻外(らんがい)に飛び出で、万里の野に奔(はし)って自由の死を遂げました。惨(いた)ましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶(はんもん)も、御家の沸騰(ふっとう)も起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙って哀(かな)しんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故の彼(あの)諍論(そうろん)? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾(ばくれつだん)を投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙も夥(おびただ)しいと云った様なもので、傍眼(わきめ)には醜態(しゅうたい)百出トルストイ家の乱脈(らんみゃく)と見えても、あなたの卒直(そっちょく)一剋(いっこく)な御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵(ふくぞう)なき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場(たちば)から云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難(べんなん)論諍(ろんそう)も致方はもとよりありますまい。苟且(かりそめ)の平和より真面目の争はまだ優(まし)です。但(ただ)私は先生の彼(あの)惨(いた)ましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上(ぼじょう)涙(なみだ)未(いま)だ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩(けんか)さるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼死様(しによう)をされた。而(そう)して偽(いつわ)ることを得(え)為(せ)ぬトルストイ家の人々なればこそ、彼争(あらそい)もあったのでしょう。加之(それに)、承われば此頃では諸事(しょじ)円滑(えんかつ)に運んで居るとやら、愚痴(ぐち)は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因(よ)り御一同の大小(だいしょう)浅深(せんしん)さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且祷(いの)るのみであります。

       四

 勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈(はず)。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否(いや)、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為(せ)られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度(さいど)にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛(なげう)つ場合もあります。獅子は子を崖(がけ)から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝(たから)なのです。先生にとって人の象(かたち)をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言(うわごと)にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様(あん)な死をされた。あなたは衷心(ちゅうしん)に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下(もと)に頭を低(た)れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊(ふき)独立(どくりつ)なもの、肉体一世の結合は彼若(もし)くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路(みち)を別々に辿(たど)られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣(ころも)を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式(こんごうせきこんしき)でもなく、第二の真の結婚が御両人(おふたり)の間に成就されん事を祈って已(や)まないのであります。悲哀(ひあい)を通して我々は浄(きよ)められるのです。苦痛を経由(けいゆ)して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御出(いで)でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ小王国(しょうおうこく)の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識(し)る程の者の母君となられるのである事をお忘(わす)れなすってはなりません。夫人、御安心なさい、あなたにお目にかゝった程の者は、誰かあなたの真面目な而(そう)して勇敢な霊魂(たましい)を尊敬せぬ者がありましょう乎。誰かあなたの故先生に対する愛の助勢によって、人類に貢献された働(はたらき)を知らない者がありましょう乎。あなたがお出(いで)でなかったら、先生が果して彼(あの)偉大なトルストイと熟された乎、否乎(いなか)、分かりません。先生が不朽(ふきゅう)である如く、あなたも不朽です。あなたは曾(かつ)て自伝を書いて居ると云うお話でした。あれは著々(ちゃくちゃく)進行しつゝあることゝ思います。私は其面白かる可き頁(ページ)が覗(のぞ)きたくてなりません。出版されたら、種々分明する事があろうと思います。我々一同に対してあなたは楯(たて)の一面を示される義務があります。何卒(どうぞ)独得の真摯(しんし)と気力とをもてあなたの御言(おい)い分(ぶん)をお述べ下さい。我々一同其一日も早く出版されんことを待って居る者であります。

       五

 今日(きょう)は七月の三日です。七年前の丁度(ちょうど)今日は、ヤスナヤ、ポリヤナで御厚遇(ごこうぐう)を享(う)けて居ました。其折お目にかゝった方々や色々の出来事を、私は如何様(どんな)にはっきりと記憶して居るでしょう。正に今日でした、私は彼(あの)はなれからペンとインキを持ち出して、彼楓(かえで)の下の食卓に居られる皆さんの署名を記念の為に求めました。其手帳は今私の手近にあります。私は開(あ)けて見ました。皆(みな)在(ある)焉。先生のも、あなたのも、其他皆さんの手によって署せられた皆さんの名が歴々(れきれき)として其処にあります。インキもまだ乾かないかと思われるばかりです。然るに、想(おも)えば先生の椅子(いす)は最早(もう)永久に空しいのです。此頃は楓(かえで)の下の彼食卓も嘸(さぞ)淋(さび)しいことでしょう。私はマウド氏の先生の伝を見て、オボレンスキー公爵夫人マリーさんも、私がお目にかゝって間もなく死去された事を知りました。私はマリーさんが大好(だいす)きでした。最早あの方もホンの記憶になってしまわれたのです。先頃莫斯科(モスクワ)から帰って来られた小西君に面会しました。小西君は彼哀(かな)しい出来事の少し前に先生に会われ、それから葬儀にも出られたそうです。然しあなたや御家族の事については、あまり知って居られないのでした。多分伯アンドリゥ君は御同居だろうと思います。ドウかよろしく、私は時々アンドリゥ君の事を思うて居るとお伝(つた)え下さい。レオ君の御一家は聖彼得堡(サンペテルブルグ)にお住いですか。ヤスナヤ、ポリヤナの園でトチ/\歩みをして居られたお孫達も、最早大きなむすこさん達になられたでしょう。伯令嬢(はくれいじょう)アレキサンドラは如何して居られますか。私は折々あの□ロンカの川辺で迷子になって、令嬢を煩(わずら)わして探しに来ていたゞいた事を憶(おも)い出します。ミハイル君は如何です。私は唯一度、それもホンの一寸会ったゞけですが、大層好きな方と思いました。ジュリヤ嬢はとくにヤスナヤ、ポリヤナを去られたとか。マコ□ィッキー[「マコ□ィッキー」に傍線]君は今何処に居られるでしょう? スホーチン君は矢張(やはり)ヂュマの議員でお出ですか。オボレンスキー公爵と、鼻眼鏡をかけて居られる其母堂(ぼどう)とは、御息災ですか。イリヤはまだ勤めて居ますか。曾て其人を私も手伝って牧草を掻(か)いた料理番の老細君は達者にして居ますか。
 嗚呼彼の楓の下の雪白(まっしろ)の布を覆(おお)うた食卓、其処(そこ)に朝々サモ□ルが来り喫(の)む人を待って吟(ぎん)じ、其下の砂は白くて踏むに軟(やわらか)なあの食卓! 先生は読み、あなたは縫(ぬ)うて居られた彼露台(バルコニー)の夕(ゆうべ)! 家の息達と令嬢とマンドリンを弾(ひ)いて歌われた彼□ランダの一夜! 彼□ロンカの水浴! 彼涼(すず)しい、而(そう)して木の葉の網目(あみめ)を洩(も)る日光が金の斑点(はんてん)を地に落すあの白樺(しらかば)の林の逍遙(しょうよう)! 先生も其処に眠って居られる。記憶から記憶と群がり来って果しがない。嗟(ああ)今一度なつかしいヤスナヤ、ポリヤナに往って見たい!
 敬愛する夫人よ。私は長い手紙を書いてしまいました。最早こゝでペンを擱(さしお)かねばなりません。願わくば神あなたの寂寥(せきりょう)を慰めて力を与え玉わんことを。願わくばあなたの晩年が、彼露西亜(ろしあ)の美(うる)わしい夏の夕(ゆうべ)の様に穏に美しくあらんことを。終(おわり)に臨(のぞ)み、私の妻もあなたの負(お)われ負わるゝ数々(かずかず)の重荷に対し、真実御同情申上げる旨、呉々(くれぐれ)も申しました。
一九一二年 七月三日
ヤスナヤ、ポリヤナと其記念を永久に愛する
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[#改ページ]



     安さん

 乞食(こじき)も色々のが来る。春秋(しゅんじゅう)の彼岸、三五月の節句(せっく)、盆なンどには、服装(なり)も小ざっぱりした女等が子供を負(おぶ)って、幾組も隊をなして陽気にやって来る。何処(どこ)から来るのかと聞いたら、新宿(しんじゅく)からと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具(おもちゃ)など持て来るほンの申訳(もうしわけ)ばかりの商人実際のお貰(もら)いも少からず来る。喰(く)いつめた渡り職人、仕事にはなれた土方、都合(つごう)次第で乞食になったり窃盗(せっとう)になったり強盗(ごうとう)になったり追剥(おいはぎ)になったりする手合も折々(おりおり)来る。曾てある秋の朝、つい門前(もんぜん)の雑木林(ぞうきばやし)の中でがさ/\音がするので、ふっと見ると、昨夜此処に寝たと見えて、一人(ひとり)の古い印半纏(しるしばんてん)を着た四十ばかりの男が、眠(ねむ)たい顔して起き上り、欠伸(あくび)をして往って了うた。
 一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子(ふたひょうし)揃(そろ)って都合よくやる時もあり、ふかし甘藷(いも)二三本新聞紙に包(つつ)んで御免を蒙る場合もある。然し斯様(こん)な特別のは別にして、彼が村居(そんきょ)六年の間に懇意(こんい)になった乞食が二人ある。仙(せん)さんと安(やす)さん。
 仙さんは多少(たしょう)富裕(ゆたか)な家の息子の果であろう。乞食になっても権高(けんだか)で、中々吾儘である。五分苅頭(ごぶがりあたま)の面桶顔(めんつうがお)、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺(たんでき)を語って居る。仙さんは自愛家である。飲料(いんりょう)には屹度(きっと)湯をくれと云う。曾て昆布(こんぶ)の出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油(しょうゆ)を損した上に下痢(げり)までした、と嗔(いか)った。小婢(こおんな)一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請(ねだ)って、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生(すじょう)を尋ねかけたら、「乃公(おれ)に喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干(うめぼし)をやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然(むっ)として、貰う者の分際(ぶんざい)で好悪(よしあし)を云う者があるか、と叱(しか)りつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林(ぞうきばやし)に投げ棄てゝ往った。追かけて撲(ぶ)ちのめそうか、と思ったが、やっと堪(こら)えた。彼は此後仙さんを憎(にく)んだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗(とんと)姿(すがた)を見せぬ。
 我強(がづよ)い仙さんに引易(ひきか)え、気易(きやす)の安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒(あさぐろ)い、眼のしょぼ/\した、何処(どこ)やらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着(なつぎ)冬着ありたけの襤褸(ぼろ)の十二一重(じゅうにひとえ)をだらりと纏(まと)うて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染(あかじ)みた手拭を頬冠(ほおかむ)りのこともある。下駄を片足、藁草履(わらぞうり)を片足、よく跛曳(ひ)いてあるく。曾(かつ)て穿(は)きふるしの茶の運動靴(うんどうぐつ)をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早(もう)跣足(はだし)で来た。
 江戸の者らしい。何時(いつ)、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀(そり)の磨(と)ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯(ひげ)は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪(はさみ)で苅(か)るばかりだし、主婦は嫁(か)して来て十八年来一度も顔を剃(す)ったことがないので、家には剃刀(かみそり)と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀(そり)があった処で、あの安さんの清潔(きれい)な手では全く恐れ入る。
 いつも門口(かどぐち)に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵(ごみ)を掃く真似をする。其響(おと)を聞いたばかりで、安さんと分(わか)った。「おゝそれながら……」と中音で拍子(ひょうし)をとって戸口に立つこともある。「春雨(はるさめ)にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉(つらま)えて、笊(ざる)で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家(うち)では喫(の)まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋(いっこく)で向張りが強く、智慧者(ちえしゃ)の安さんは狡獪(ずる)くて軟(やわらか)な皮をかぶって居た。
 夏は乞食の天国である。夏は我儕(われら)も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻(まわ)りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯蚊(か)だけが疵(きず)だが、至る処の堂宮(どうみや)は寝室(ねま)、日蔭(ひかげ)の草は茵(しとね)、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川(たがわ)の側に跪(ひざまず)いて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
 声(こえ)をかけると、安さんは寝惚(ねぼ)けた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽(むぎわらぼう)の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
 冬は惨(みじめ)だ。小屋かけ、木賃宿(きちんやど)、其れ等に雨雪を凌(しの)ぐのは、乞食仲間でも威張(いば)った手合で、其様な栄耀(えいよう)が出来ぬやからは、村の堂宮(どうみや)、畑の中の肥料(こやし)小屋、止むなければ北をよけた崖(がけ)の下、雑木林の落葉の中に、焚火(たきび)を力にうと/\一夜を明(あか)すのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地(ぼち)にはもと一寸した閻魔堂(えんまどう)があったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火(たきび)から焼けて了うて、木の閻魔様は灰(はい)になり、石の奪衣婆(だつえば)ばかり焼け出されて、露天(ろてん)に片膝立てゝ恐(こわ)い顔をして居る。鎮守(ちんじゅ)八幡でも、乞食の火が険呑(けんのん)と云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所(しんじょ)が一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。
「安さんは如何したろ?」
 彼等はしば/\斯く噂(うわさ)をした。
 昨日婢(おんな)が突然安さんの死を報じた。近所の女児(むすめ)が斯く婢に云うたそうだ。
「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前(ちょっとまえ)に、は、死んじまったとよ」
 近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。
 安さんは大抵(たいてい)甲州街道南裏の稲荷(いなり)の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何(どん)な臨終(りんじゅう)であったやら。
「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、皆(みんな)が云ってました」
と婢が云うた。
 安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。
「死んで安心な様な、可哀想(かあいそう)な様な気もちがしますよ」
 主婦が云うた。
 秋の野にさす雲の翳(かげ)の様に、淡(あわ)い哀(かなしみ)がすうと主人(あるじ)の心を掠(かす)めて過ぎた。


[#改丁]



   麦の穂稲穂

     村の一年

       一

 都近い此(この)辺(へん)の村では、陽暦陰暦を折衷(せっちゅう)して一月晩(おく)れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽(かぐら)の心得ある若者連が、松の内の賑合(にぎわい)を見物かた/″\東京に獅子舞(ししまい)に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾(かざ)り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋(きし)らしたり、黒の帽子に紫の袈裟(けさ)、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄(もえぎ)の大風呂敷包を頸(くび)からつるして両手で抱(かか)えた草鞋(わらじ)ばきの寺男を連れて檀家(だんか)の廻礼をしたりする外は、村は餅搗(もちつ)くでもなく、門松一本立つるでなく、至極(しごく)平気な一月である。唯農閑(のうかん)なので、青年の夜学がはじまる。井浚(いどざら)え、木小屋の作事(さくじ)、屋根の葺(ふ)き更え、農具の修繕(しゅうぜん)なども、此隙(すき)にする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、啣(くわ)え煙管(ぎせる)の背手(うしろで)で、ヒョイ/\と野らの麦踏(むぎふみ)。若い者の仕事は東京行の下肥(しもごえ)取(と)りだ。寒中の下肥には、蛆(うじ)が涌(わ)かぬ。堆肥(たいひ)製造には持て来いの季節、所謂寒練(かんねり)である。夜永の夜延(よな)べには、親子兄弟大きな炉側(ろばた)でコト/\藁(わら)を擣(う)っては、俺ァ幾括(いくぼ)だ卿(おめえ)は何足(なんぞく)かと競争しての縄綯(なわな)い草履(ぞうり)草鞋(わらじ)作り。かみさんや娘は、油煙(ゆえん)立つランプの傍(はた)でぼろつぎ。兵隊に出て居る自家(うち)の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入(よめいり)車(ぐるま)の話もあろう。
 都では晴(はれ)の春着も夙(とう)に箪笥の中に入って、歌留多会の手疵(てきず)も痕(あと)になり、お座敷(ざしき)つゞきのあとに大妓(だいぎ)小妓のぐったりとして欠伸(あくび)を噛(か)む一月末が、村の師走(しわす)の煤掃(すすは)き、つゞいて餅搗(もちつ)きだ。寒餅(かんもち)はわるくならぬ。水に浸(ひた)して置いて、年中の茶受(ちゃうけ)、忙(せわ)しい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者(えんじゃ)親類加勢し合って、歌声(うたごえ)賑(にぎ)やかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜(しんや)の眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までも舂(つ)く。陽暦で正月を済(す)ましてとくに餅は食うてしもうた美的(びてき)百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅(ぼたもち)を持て来てくれる。辰爺(じい)さん家(とこ)のは大きくて他家(よそ)の三倍もあるが、搗(つ)きが細かで、上手(じょうず)に紅入の宝袋(たからぶくろ)なぞ拵(こさ)えてよこす。下田の金さん処(とこ)のは、餡(あん)は黒砂糖だが、手奇麗(てぎれい)で、小奇麗な蓋物(ふたもの)に入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重(ひとじゅう)よこす。礼に往って見ると、奥(おく)は正月前らしく奇麗に掃(は)かれて、土間(どま)にはちゃんと塩鮭(しおざけ)の二枚もつるしてある。

       二

 二月は村の正月だ。松立てぬ家(うち)はあるとも、着物更えて長閑(のどか)に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居(しばい)が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会(げんとうかい)がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒(まめま)き。七日が七草(ななくさ)。十一日が倉開き。十四日が左義長(さぎちょう)。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父(ちちぶ)颪(おろし)の乾風(からっかぜ)と霜解(しもど)けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀(まれ)で、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊(いい)掃部(かもん)さん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜(しも)の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥(おびただ)しい霜解けで、草鞋か足駄(あしだ)長靴でなくては歩かれぬ。霜枯(しもが)れの武蔵野を乾風が□々(ひゅうひゅう)と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚(はだ)も、悉く皹(ひび)赤(あか)ぎれになる。乾いた畑の土は直ぐ塵(ちり)に化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見れば正(まさ)に火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺(わらぶき)の家は、此(この)上(うえ)も無い火事の燃料、それに竈(へっつい)も風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのが寧(むしろ)不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処(どこ)だンべか、――火事だよゥ」と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方(あち)此方(こち)で消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事(かじ)袢纏(ばんてん)を着て、村の真中(まんなか)の火の番小屋の錠(じょう)をあけて消防道具を持出し、わッしょい/\駈(か)けつける頃は、大概の火事は灰(はい)になって居る。人家が独立して周囲に立木(たちき)がある為に、人家(じんか)櫛比(しっぴ)の街道筋を除いては、村の火事は滅多(めった)に大火にはならぬ。然し火の粉(こ)一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子(むすこ)の家の目ぼしい着物を悉皆(すっかり)預って丸焼にした家もある。
 梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下(がけした)の暖かい隈(くま)なぞには、ドウやらすると菫(すみれ)の一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀(ひばり)が鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令(たとえ)遠山(とおやま)は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木(らくようぼく)は皆裸(はだか)で松の緑(みどり)は黄ばみ杉の緑は鳶色(とびいろ)に焦(こ)げて居ようとも、秩父(ちちぶ)颪(おろし)は寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。冴(さ)えかえる初春の空に白光(しろびか)りする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜(よろこび)は聞く人の心に涌(わ)いて来る。雲雀は麦の伶人(れいじん)である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

       三

 武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞(かす)む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺(あたり)に耳珍しくも藪鶯(やぶうぐいす)の初音が響く。然しまだ冴(さ)え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午(はつうま)には輪番(りんばん)に稲荷講の馳走(ちそう)。各自(てんで)に米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったり驩(かん)を尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\畑(はた)の用が出て来る。落葉(おちば)掻(か)き寄せて、甘藷(さつま)や南瓜(とうなす)胡瓜(きゅうり)の温床(とこ)の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯(じゃがいも)も植えねばならぬ。
 彼岸前(ひがんまえ)の農家の一大事は、奉公男女の出代(でがわ)りである。田舎も年々人手が尠(すく)なく、良い奉公人は引張り合(あい)だ。近くに東京と云う大渦(おおうず)がある。何処へ往っても直ぐ銭(ぜに)になる種々の工場があるので、男も女も愚図□□(ぐずぐず)云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代(さくだい)は今年も勤続(つづく)と云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様(あん)な好い作代なら廉(やす)いもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守(こもり)に月五十銭で雇(やと)われて行く。下唇(したくちびる)の厚い久(ひさ)さんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さん処(とこ)で、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘が駈(か)けて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんは遽(あわ)てゝ葬式の場から尻(しり)引(ひ)っからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子(あととり)の作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。些(ちと)好(よ)さそうな養蚕(かいこ)傭(やとい)の女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟(はんえり)一かけ、足袋の一足、窃(そっ)と他(ひと)の女中の袂(たもと)にしのばせて、来年の餌(えさ)にする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。
 線香、花、水桶なぞ持った墓参(はかまいり)が続々やって来る。丸髷(まるまげ)や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂(さび)しい墓場にも人声(ひとごえ)がする。線香の煙が上る。沈丁花(ちんちょうげ)や赤椿が、竹筒(たけづつ)に插(さ)される。新しい卒塔婆(そとば)が立つ。緋(ひ)の袈裟(けさ)かけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請(みちぶしん)。遊び半分若者総出で、道側(みちばた)にさし出た木の枝を伐り払ったり、些(ちっと)ばかりの芝土を路の真中(まんなか)に抛(ほう)り出したり、路壊(みちこわ)しか路普請か分からぬ。

       四

 四月になる。愈(いよいよ)春だ。村の三月、三日には雛(ひな)を飾る家もある。菱餅(ひしもち)草餅(くさもち)は、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年まで碌(ろく)に口も利(き)けなかった近所の喜左坊(きさぼう)が、兵隊帽子に新らしいカバンをつるし、今日(きょう)から小学第一年生だと小さな大手を振って行く。五六年前には、式日(しきじつ)以外(いがい)女生の袴(はかま)など滅多に見たこともなかったが、此頃では日々の登校にも海老茶(えびちゃ)が大分殖(ふ)えた。小学校に女教員が来て以来の現象である。桃之(ももの)夭々(ようよう)、其葉蓁々(しんしん)、桃の節句は昔から婚嫁(こんか)の季節だ。村の嫁入(よめいり)婿取(むことり)は多く此頃に行われる。三日三晩村中呼んでの飲明(のみあか)しだの、「目出度(めでた)、□□□(めでた)の若松様(わかまつさま)よ」の歌で十七荷(か)の嫁入荷物を練込(ねりこ)むなぞは、大々尽(だいだいじん)の家の事、大抵は万事手軽の田舎風、花嫁自身髪結の家から島田で帰って着物を更(か)え、車は贅沢(ぜいたく)、甲州街道まで歩いてガタ馬車で嫁入るなぞはまだ好い方だ。足入れと云ってこっそり嫁を呼び、都合(つごう)の好い時あらためて腰入(こしいれ)をする家もある。はずんだところで調布(ちょうふ)あたりから料理を呼んでの饗宴(ふるまい)は、唯親類縁者まで、村方(むらかた)一同へは、婿は紋付で組内若くは親類の男に連れられ、軒別に手拭の一筋半紙の一帖も持って挨拶に廻るか、嫁は真白に塗って、掻巻(かいまき)程(ほど)の紋付の裾(すそ)を赤い太い手で持って、後見(こうけん)の婆(ばあ)さんかかみさんに連れられてお辞儀(じぎ)をして廻れば、所謂顔見せの義理は済む。村は一月晩(ひとつきおく)れでも、寺は案外陽暦(ようれき)で行くのがあって、四月八日はお釈迦様(しゃかさま)の誕生会(たんじょうえ)。寺々の鐘(かね)が子供を呼ぶと、爺(とう)か嬶(かあ)か姉(ねえ)に連れられた子供が、小さな竹筒を提(さ)げて、嬉々(きき)として甘茶(あまちゃ)を汲みに行く。
 東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥(しもごえ)ひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それでも桃が咲く、李(すもも)が咲く。野はすみれ、たんぽゝ、春竜胆(はるりんどう)、草木瓜(くさぼけ)、薊(あざみ)が咲き乱るゝ。「木瓜薊、旅して見たく野はなりぬ」忙(せわ)しくなる前に、此花の季節(きせつ)を、御岳詣(みたけまいり)、三峰かけて榛名詣(はるなまいり)、汽車と草鞋(わらじ)で遊んで来る講中の者も少くない。子供連れて花見、潮干に出かける村のハイカラも稀にはある。浮かれて蝶(ちょう)が舞いはじめる。意地悪(いじわる)の蛇も穴を出る。空では雲雀(ひばり)がます/\勢よく鳴きつれる。其れに喚(よ)び出される様に、麦(むぎ)がつい/\と伸びて穂(ほ)に出る。子供がぴいーッと吹く麦笛(むぎぶえ)に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎(あゆ)が、密漁者の手から窃(そっ)と旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さん宅(とこ)の大欅(おおけやき)が春の空を摩(な)でて淡褐色(たんかっしょく)に煙りそめる。
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