みみずのたはこと
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280


 三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。
「彼(あれ)が叡山(えいざん)です。彼が比良です。彼処(あすこ)に斯(こ)う少し湖水に出っぱった所に青黒(あおぐろ)いものが見えましょう――彼が唐崎(からさき)の松です」
 余は腰(こし)かけを離れて同行の姉妹(しまい)に指(ゆびさ)した。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見で済(す)まして、三井寺を下り、埠頭(はとば)から石山行の小蒸汽に乗った。
 丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好の呪(まじない)と云って誰でも探すと笑いつゝ、松に攀(よ)じ上り、松葉の二対(つい)四本一頭に括(くく)り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際(みぎわ)の宿で鰉(ひがい)と蜆(しじみ)の馳走になり、相乗車で義仲寺(ぎちゅうじ)に立寄って宿に帰った。秋雨(あきさめ)の降ったり止んだり淋しい日であった。
 斯様(こん)な事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所(ぜぜ)の城を掠(かす)め、川となるべく流れ出した湖(みずうみ)の水と共に鉄橋をくゞり、瀬田(せた)の長橋を潜(くぐ)り、石山の埠頭(はとば)に着いた。
 手荷物を水畔(すいはん)の宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石を拾(ひろ)い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣(まい)った。うど闇(くら)い内陣の宝物も見た。源氏之間(げんじのま)は嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂(かんげつどう)に上った。川を隔てゝ薄桃色に禿(は)げた□冠山を眺め、湖水の括(くく)れて川となるあたりに三上山(みかみやま)の蜈蚣(むかで)が這(は)い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良(やや)久(ひさ)しく立去りかねた。
 秋の日は用捨なく傾(かたむ)いた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔(かわばた)の宿にも憩(いこ)わず、車を雇うた。二人乗(ににんのり)が二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。
 姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川(せたがわ)の岸に沿(そ)いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色(かばいろ)に□(くん)じた雲が一つ湖天に浮(う)いて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。鴉(からす)が鳴く。粟津(あわづ)に来た時は、並樹の松に碧(あお)い靄(もや)がかゝった。
「此れがねえ、木曾(きそ)義仲(よしなか)が討死した粟津が原です」
と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。
 車は一走(ひとはし)りして、燈火(ともしび)明(あか)るい町の唯有(とあ)る家の前に梶棒(かじぼう)を下ろした。
「何だ」
「義仲寺どす」
 余は呆気(あっけ)にとられた。八年前秋雨(あきさめ)の寂しい日に来て見た義仲寺は、古風な巷(ちまた)に嵌(はさ)まって、小さな趣ある庵(いおり)だった。
 余は舌鼓(したつづみ)うって、門をたゝいて、強(しい)て開けてもらって内に入った。内は真闇(まっくら)である。車夫に提灯(ちょうちん)を持て来させて、妻や姉妹に木曾殿(きそどの)とばせをの墓を紹介(しょうかい)した。
 外には汽関車の響や人声が囂々(ごうごう)と騒いで居る。


[#改ページ]



      宇治の朝

 宇治(うじ)に着いたのが夜の九時。万碧楼(まんぺきろう)菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人の額(がく)がかゝって居る。
 此処(ここ)は余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家(たいしょくか)で、維新の初年こゝに泊って鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)を散々に食うた為、勘定に財布(さいふ)の底をはたき、淀川の三十石に乗る銭(ぜに)もないので、頬冠(ほおかむり)して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩(も)れぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時(しもがれどき)の客で過分の扱いを受け、紫縮緬(むらさきちりめん)の夜具など出された。御馳走(ごちそう)も伯父の甥たるに恥(は)じざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口(がまぐち)を覗(のぞ)いて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫(おっくう)だし、黙って打置(うちお)き、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃(くいに)げが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発(ふんぱつ)したに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独笑坪(えつぼ)に入った。
 腰硝子(こしがらす)の障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台(しょくだい)の百目蝋燭の火は瞬(またた)かぬが、白い障子越しに颯々(さあさあ)と云う川瀬の響(おと)が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬(はやせ)に九日位の月がきら/\砕(くだ)けて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥(ちどり)が鳴(な)いて居る。

           *

 朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍(どてら)を引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様な霜(しも)だ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔太閤様(たいこうさま)は此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間(らんま)によりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面(かわづら)からは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟(しばぶね)が、見る/\橋の下を伏見(ふしみ)の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋(つうえんぢゃや)の横手から東へ切れ込み、興聖寺(こうしょうじ)の方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子(ゆず)が小山と積んである。何と云う種類(しゅるい)か知らぬが、朱欒(ざぼん)程もある大きなものだ。旅先(たびさき)ながら看過(みすご)し難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。
 興聖寺の石門(せきもん)は南面して正に宇治の急流(きゅうりゅう)に対して居る。岩を截(き)り開いた琴阪とか云う嶝道(とうどう)を上って行く。左右の崖(がけ)から紅に黄に染みた槭(もみじ)が枝をさしのべ落葉を散らして、頭上は錦(にしき)、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風(からふう)の小門に来た。此処から来路(らいろ)を見かえると、額縁(がくぶち)めいた洞門(どうもん)に劃(しき)られた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山(ほんざん)に趺座(ふざ)して、下界流転(るてん)の消息は唯一片、洞門を閃(ひら)めき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎(こころにく)い結構の寺である。
 □駝師(うえきや)が剪裁(せんさい)の手を尽した小庭を通って、庫裡(くり)に行く。誰も居ない。尾の少し欠(か)けた年(とし)古(ふ)りた木魚と小槌(こづち)が掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つ破(わ)れよと敲(たた)く。無作法の響(おと)がやっと奥に通じて、雛僧(すうそう)が一人出て来た。別に宝物(ほうもつ)を見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。
 雲上(うんじょう)から下界に降る心地して、惜しい嶝道(とうどう)を到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟が繋(つな)いである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。
「如何(どう)だ、舟で渡って見ようか」
「えゝ、渡りましょう」
 一同舟に乗った。
 川上を見ると、獅子飛(ししと)び、米漉(こめかし)など云う難所に窘(いじ)められて来た宇治川は、今山開け障(さわ)るものなき所に流れ出て、弩(いしゆみ)をはなれた箭(や)の勢を以て、川幅一ぱいの勾配(こうばい)ある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、碧(あお)い朝靄(あさもや)を被(き)て、山蔭の水も千反(せんたん)の花色綸子(はないろりんず)をはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日が射(さ)すあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々(れいれい)と光り渡って、滔々(とうとう)と推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面(かわつら)一面に響く。
「好いなァ」思わず声をあげる。
 船頭は軋々(ぎいぎい)と櫓の響(おと)をさせて、ほゞ山形(やまなり)に宇治川を渡す。
「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側(ふなばた)の水を両手に掬(すく)い上げて川を讃(ほ)める。鶴子が真似(まね)る。
 平等院(びょうどういん)の岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島を蔽(おお)う枯葭(かれよし)の中から十三層の石輪塔(せきりんとう)が見える。
「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」
「近頃掘り出したンどす。宝塔(ほうとう)たら云うてナ、あんたはん」
と船頭が説明する。水は早し、川幅(かわはば)は一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院上手(かみて)の岸についた。
 舟賃(ふなちん)を払うて、其処(そこ)に三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、美(うつく)しい紅葉を拾(ひろ)いつゝ余等は平等院に入った。


[#改ページ]



      嫩草山の夕

 奈良は奠都(てんと)千百年祭で、町は球燈(きゅうとう)、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年(おうねん)泊(とま)った猿沢池(さるさわのいけ)の三景楼に往ったら、主が変(かわ)って、名も新猫館(しんねこかん)と妙なものに化(ば)けて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。
 茶一碗(わん)、直ぐ見物に出かける。
 上方客(かみがたきゃく)、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙(じゅうりん)して、鹿も驚いた顔をして居る。其雑沓(ざっとう)の中を縫(ぬ)うて、先ず春日祠(かすがし)に詣(もう)でた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽(おかぐら)をあげて、ねじり廊(ろう)の横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木(やどりぎ)、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平(りょうへい)さんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾(にっこり)した。お新さんは窃(そっ)と其内の椿の葉を記念の為にちぎった。
 嫩草山(わかくさやま)の麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履(ぞうり)をはいた娘子供が五六人、たら/\と滑(すべ)る様に山から下りて来た。
「如何(どう)だ、上って見ようか」
「え、上りましょう」
 足の悪いお新さんと鶴子を茶店(ちゃみせ)に残して、余は靴(くつ)のまゝ、二人の女は貸草履に穿(は)き更(か)えて上りはじめた。
 名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来た夕(ゆうべ)、三景楼の二階から紺青(こんじょう)にけぶる春日山に隣りして、貂(てん)の皮もて包んだ様な暖かい色の円満(ふっくら)とした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様(どんな)に躍(おど)ったであろう。丁度誂(あつら)えたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時は遽(あわ)たゞしい旅、山に上るも果(はた)さなかった。今はじめて其懐(ふところ)を辿(たど)るのである。
 霜枯(しもが)れそめた矮(ひく)い薄(すすき)や苅萱(かるかや)や他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条(いくすじ)か麓(ふもと)から頂(いただき)へと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、額(ひたい)も背(せな)も汗(あせ)ばんで居た。頂はやゝ平坦(へいたん)になって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になって背(うしろ)に控(ひか)えて居る。唯一つある茶店は最早(もう)店をしまいかけて、頂には遊客(ゆうかく)の一人もなかった。
 余等(よら)は額の汗を拭(ぬぐ)うて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼を放(はな)った。
 夕(ゆうべ)である。
 日はすでに河内(かわち)の金剛山(こんごうせん)と思うあたりに沈んで、一抹(いちまつ)殷紅色(あんこうしょく)の残照(ざんしょう)が西南の空を染めて居る。西生駒(いこま)、信貴(しぎ)、金剛山、南吉野から東多武峰(とうのみね)初瀬(はつせ)の山々は、大和平原をぐるりと囲(かこ)んで、蒼々(そうそう)と暮れつゝある。此暮山(ぼざん)の屏風(びょうぶ)に包まれた大和の国原(くにはら)には、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総(すべ)てが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。
 余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台(えんだい)をはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子を負(お)うた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。
 余等は更に眺(なが)めた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。
 直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空(ゆうぞら)に映(うつ)って大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。
 足の下で、奈良(なら)の町の火が美しくつき出した。蜂(はち)の群(む)れの唸□(つぶやき)の様な人声物音が響く。
 ぼうン!
 麓の方で晩鐘(いりあい)が鳴り出した。其鐘の音(ね)に促(うな)がさるゝかの如く、鴉(からす)が唖□□(あああ)と鳴いて、山の暮から野の黄昏(たそがれ)へと飛んで行く。
 余等は今一度眼を平原(へいげん)に放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものは蒼(あお)い靄(もや)に包まれた。
 大和は今暮るゝのである。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:664 KB

担当:undef