みみずのたはこと
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著者名:徳冨健次郎 URL:../../index_pages/person280

   故人に

       一

 儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満六年になった。暦(こよみ)の齢(とし)は四十五、鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。
 元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。如何して分(わ)かるかときいたら、眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
 東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、□(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂□甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、何、程度(ていど)の問題だ、これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。

       二

 畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵籾(もみ)で六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
 時の経(た)つは速いものだ。越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが二合瓶(ごうびん)二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、中一年を置いてまた庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた二尺八寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。

       三

 少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省(かえりみ)ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。
 東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。東京を西に距(さ)る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨□□(むざむざ)拓かるゝのは、儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、儂は眉を顰(ひそ)めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。村人も寝(ね)ては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。儂が越して来た当座(とうざ)は、まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

       四

 儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴(つる)と云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、此の頃は中々強健(きょうけん)になった。もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量(たいりょう)四貫余。友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、本当に惨(みじめ)なものだ。雨にぬれて跣足(はだし)で□(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等(わしら)親子(おやこ)三人の外に、女中が一人。阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯三里、加之(しかも)二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、最早(もう)五歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味(いみ)したのでは無い。獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも□(のが)れぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつきあの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園(でんえん)の猫である。来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度飼(か)って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢(ひ)かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
 猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治四十二年の春、塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進(しょうじん)、云わば昔の我に対する三年の喪(も)をやったようなものだ。以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会(とかい)に溢るゝ□(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。

       五

 書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着(しゅうちゃく)がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間孜々(しし)として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
 堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居(いなかずまい)の後、いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。己(おのれ)を以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。
 然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。

大正元年十二月二十九日
都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕武蔵野粕谷の里にて徳冨健次郎

[#改丁]



   都落ちの手帳から

     千歳村

       一

 明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家(すみか)を探すべく東京から玉川(たまがわ)の方へ出かけた。
 彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇(やそ)の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居(そんきょ)にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為(す)るのか分からぬが、兎(と)に角(かく)田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往(い)ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日(なんにち)に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
 約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓(したつづみ)をうって、案内者なしに妻と二人(ふたり)西を指して迦南(カナン)の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村(ちとせむら)だと大束(おおたば)に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込(こ)んで、例の如くぶらりと出かけた。

       二

「家を有つなら草葺(くさぶき)の家、而して一反でも可(いい)、己が自由になる土を有ちたい」
 彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
 東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳(わけ)である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑(たはた)を有って居たが、其土は銭に化けて追々(おいおい)消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早一撮(ひとつまみ)の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
 彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後(ひご)の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺(かわらぶき)の一棟が建増されたが、母屋(おもや)は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫(しずく)の様に、昔(むかし)のなつかし味が彼の頭脳に滲(し)みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末(すえ)で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生(ごうせんせい)をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女(むすめ)を製糸場の模範工女にしたり、自家(じか)でも養蚕(ようさん)製糸(せいし)をやったり、桑苗販売(そうびょうはんばい)などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛(ほう)り出して、柄(え)の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌(いや)になり、疳癪(かんしゃく)を起してやめてしまうが例であった。
 父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹(しんじゅ)などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗(さとうきび)など標本的に試作(しさく)した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹(かじゅ)は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効(こう)があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木(わかき)の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵(たてきず)をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻(まわ)り、甘蔗と間違えて西洋箒黍(ほうききび)を噛(か)んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃(そっ)と拳固で打破って川に投げ込んで素知(そし)らぬ顔して居たり、悪戯(いたずら)ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古(げいこ)もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌(てのひら)の拇指(おやゆび)の根にざっくり切り込んだ其疵痕(きずあと)は、彼が養蚕家としての試みの記念(きねん)として今も三日月形に残って居る。
 斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       三

 青山高樹町の家(うち)をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸(ようや)く小さな流れに出た。流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
 会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、かみさんはふッと噴(ふ)き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
 尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴(みはら)しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦(おんな)が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺(ぶき)の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵(どぞう)など見えた。暫(しばら)くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山(いしやま)八百蔵(やおぞう)と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分禿(は)げかゝり、猩々(しょうじょう)の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして居るが、政争の劇(はげ)しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜(くぐ)って来た男であった。推参(すいさん)の客は自ら名のり、牧師の紹介(しょうかい)で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白(かすり)の筒袖羽織、禿(ち)びた薩摩下駄(さつまげた)、鬚髯(ひげ)もじゃ/\の彼が風采(ふうさい)と、煤竹(すすたけ)色の被布を着て痛そうに靴(くつ)を穿(は)いて居る白粉気も何もない女の容子(ようす)を、胡散(うさん)くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐(じゅっかい)を聞いて、やゝ小首を傾(かし)げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰(もら)い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚(おうよう)な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井(てんじょう)の低い鮓詰(すしづめ)にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋(へや)があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距(さ)る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
 会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
 晩秋の日は甲州(こうしゅう)の山に傾き、膚寒い武蔵野(むさしの)の夕風がさ/\尾花を揺(ゆ)する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処(どこ)やらで夕鴉(ゆうがらす)が唖々と鳴き出した。我儕(われら)の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
 甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有(とあ)る店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。


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     都落ち

       一

 二月ばかり経(た)った。
 明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼(かれ)が僑居(きょうきょ)に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘(しょうへい)されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
 彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川(たまがわ)は一里の余もあると云う。風景も平凡(へいぼん)である。使って居た女中(じょちゅう)は、江州(ごうしゅう)彦根在の者で、其郷里地方(きょうりちほう)には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、□(うそ)の様に廉(やす)い地面家作の売物(うりもの)があると云う。江州――琵琶湖東(びわことう)の地、山美しく水清く、松茸が沢山(たくさん)に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会(しょうかい)してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込(ひきこ)む者があろうか、戯談(じょうだん)に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇(むやみ)と乗地(のりじ)になって、幸(さいわ)い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
 一は上祖師ヶ谷で青山(あおやま)街道(かいどう)に近く、一は品川へ行く灌漑(かんがい)用水の流れに傍(そ)うて居た。此等(これら)は彼が懐(ふところ)よりも些(ちと)反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所(じしょ)で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑(むぎばたけ)になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。其大工の妾(めかけ)とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
 石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
 手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障(ばんしょう)一排(いっぱい)して二月二十七日を都落(みやこおち)の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、東京から掃除(そうじ)に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀(ひばり)の歌が纔(わずか)に一同の心を慰めた。
 来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住(せんじゅう)の人々はまだ仕舞(しま)いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士(そうし)をしたと云う家主(やぬし)の大工とも挨拶(あいさつ)を交換した。其妾と云う髪(かみ)を乱(みだ)した女は、都の女等を憎(に)くさげに睨(にら)んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩(いこ)うた。小さな墓場一つ隔てた東隣(ひがしどなり)の石山氏の親類だと云う家(うち)のおかみが、莚(むしろ)を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座(すわ)って、持参の握飯を食うた。
 十五六の唖に荷車を挽(ひ)かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家(あきや)は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有(もの)になった家(うち)のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根(むぎわらやね)、ぼろ/\崩(くず)れ落ちる荒壁、小供の尿(いばり)の浸(し)みた古畳(ふるだたみ)が六枚、茶色に煤(すす)けた破れ唐紙が二枚、蠅(はえ)の卵(たまご)のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈(へっつい)と、糞壺(くそつぼ)の糞と、おはぐろ色した溷(どぶ)の汚水(おすい)と、其外あらゆる塵芥(ごみ)を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然(ふんぜん)として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床(ゆか)の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭(てぬぐい)かぶって、襷(たすき)をかけた。
 二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。今日(きょう)も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、女連はへと/\になって居た。

       二

 明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日(びじつ)であった。
 村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田(うすだ)氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食(ひる)過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸(えんげい)が好きで、原宿五年の生活に、借家(しゃくや)に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立(かぶだち)の榛(はん)の木まで、駄々を捏(こ)ねて車に積んでもろうた。宰領(さいりょう)には、原宿住居の間よく仕事に来た善良(ぜんりょう)な小男の三吉と云うのを頼んだ。
 加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其細君(さいくん)は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別(わかれ)を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札(かしやふだ)が張られてあった。
 彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻(てまわ)りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者(ぎょしゃ)に教えてもらって、上高井戸(かみたかいど)の山谷(さんや)で下りた。
 粕谷田圃に出る頃、大きな夕日(ゆうひ)が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色(こんじき)の光明を浴(あ)びた。都落ちの一行三人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家(すみか)の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車(くるま)の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道(りょうはなみち)から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。
 昨日(きのう)掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工(だいく)が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏(やねうら)を隠す可く粗末な天井を張って居た。
 日の暮れ/″\に手車(てぐるま)の諸君も着いた。道具(どうぐ)の大部分は土間に、残りは外に積(つ)んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃(おはち)ごと持参(じさん)の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
 明治の初年、薩摩近い故郷(こきょう)から熊本に引出で、一時寄寓(きぐう)して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家(わがいえ)が好い」と喜んで踊ったそうである。
 生れて四十年、一反(たん)五畝(せ)の土と十五坪の草葺のあばら家(や)の主(ぬし)になり得た彼は、正に帝王(ていおう)の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。


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     村入

 引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速(さっそく)田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木(うえき)を植えて了うて、「到底一年とは辛抱(しんぼう)なさるまい」と女中に囁(ささ)やいて帰って往った。昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、今日も来て井戸を浚(さら)えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物(もらいもの)の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻(まわ)った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両(りょう)角田君(つのだくん)は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家(うち)は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下(お)りたり、富士大山から甲武連山(こうぶれんざん)を色々に見る原に上ったり、霜解(しもどけ)の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字(あざ)の外、船橋(ふなばし)、廻沢(めぐりさわ)、八幡山(はちまんやま)、烏山(からすやま)、給田(きゅうでん)の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子(むすこ)が教えてくれた。
 期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講(いなりこう)の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更(あらた)めて、午後石山氏に跟(つ)いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
 其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤(どて)を流るゝ品川堀(しながわぼり)と云う玉川浄水の小さな分派(わかれ)に沿うて居た。村会議員も勤むる家(うち)で、会場は蚕室(さんしつ)の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕(かいこ)は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷(し)いて、大きな欅の根株(ねっこ)の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京から来(き)されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某(なにがし)さんで」
と紹介(しょうかい)する。其尾について、彼は両手(りょうて)をついて鄭重(ていちょう)にお辞儀(じぎ)をする。皆が一人□□(ひとりひとり)来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代(たるだい)壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼(れい)を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入(はい)ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯(ただ)一人チョン髷(まげ)に結った腫(は)れぼったい瞼(まぶた)をした大きな爺(じい)さんが「これははァ御先生様(ごせんせいさま)」と挨拶した。
 やがてニコ/\笑って居る恵比須顔(えびすがお)の六十許(ばかり)の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
 二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草(たばこ)の烟(けむり)。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合(てあい)もある。米の値段の話から、六十近い矮(ちいさ)い真黒な剽軽(ひょうきん)な爺さんが、若かった頃米が廉(やす)かったことを話して、
「俺(わし)と卿(おまえ)は六合の米よ、早くイッショ(一緒(いっしょ)、一升(しょう))になれば好い」
 なんか歌ったもンだ、と中音(ちゅうおん)に節(ふし)をつけて歌い且話して居る。
 腰の腫物(はれもの)で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛(くつう)の石山氏の注意で、雑談会(ざつだんかい)はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題(しゅっきんもんだい)、此は隣字から徴兵(ちょうへい)に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
 其れから衛生委員(えいせいいいん)の選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆(ちゃぼん)で集めた投票(とうひょう)を、咽仏(のどぼとけ)の大きいジャ/\声(ごえ)の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉(けいきち)さんと立って投票の結果を披露(ひろう)する。彼が組頭の爺さんが、忰(せがれ)は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得(なっとく)さす。
 此れで事務はあらかた終った。これからは肝心(かんじん)の飲食(のみくい)となるのだが、新村入(しんむらいり)の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末(しまつ)なので、一座(いちざ)に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達(だち)に遠(とお)ながら目礼して引揚げた。

           *

 日ならずして彼は原籍地(げんせきち)肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張(いば)って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨(す)てぬ先(さ)きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深(ろちしん)の髯(ひげ)ではないが、些(ちと)惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早浪人(ろうにん)では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。


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     水汲み

 玉川に遠いのが第一の失望で、井(いど)の水の悪いのが差当っての苦痛であった。
 井は勝手口(かってぐち)から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根(むぎわらやね)が通路と井を覆(おお)うて居る。上窄(うえすぼま)りになった桶(おけ)の井筒(いづつ)、鉄の車(くるま)は少し欠(か)けてよく綱がはずれ、釣瓶(つるべ)は一方しか無いので、釣瓶縄(つるべなわ)の一端を屋根の柱に結(ゆ)わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨(いかり)を下ろして見たら、渇水(かっすい)の折からでもあろうが、水深(すいしん)が一尺とはなかった。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚(いどさら)えをやってくれた。鍋蓋(なべぶた)、古手拭(ふるてぬぐい)、茶碗のかけ、色々の物が揚(あ)がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁(にご)り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座(とうざ)は貰(もら)って使ったが、何れも似寄(によ)った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗(のぞ)いたら芥(ごみ)だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙(しか)めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処(そこ)の息子が、此(この)家(うち)の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
 使い水は兎に角、飲料水(いんりょうすい)だけは他に求めねばならぬ。
 家(うち)から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水(ながれ)がある。玉川上水(たまがわじょうすい)の分派で、品川方面の灌漑専用(かんがいせんよう)の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓(おしめ)の洗濯もする、肥桶も洗う。何(な)ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲(みずく)む役を引受けた。起きぬけに、手桶(ておけ)と大きなバケツとを両手に提げて、霜を□(ふ)んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦(まさつ)をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面(めん)籠手(こて)かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚(はだ)を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々(なみなみ)と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐(こら)えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分(ぶ)に減って居る。其れから半丁に一休(ひとやすみ)、また半丁に一憩(ひといこい)、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱(ぬ)ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君(さいくん)女中(じょちゅう)によって金漿(きんしょう)玉露(ぎょくろ)と惜(おし)み/\使われる。
 余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂(どうげんざか)で天秤棒(てんびんぼう)を買って来た。丁度(ちょうど)股引(ももひき)尻(しり)からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止(しょうし)な顔で笑われた。買って戻(もど)った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担(にの)うて、汐汲(しおく)みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何(いくら)か優(まし)だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳(えい)やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折(お)れそうに、体は顛倒(ひっくりかえ)りそうになる。□(うん)と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉(ひょろひょろ)とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷(に)を下(お)ろす。尻餅舂(つ)く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞(どう)と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担(かつ)ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風(あらし)の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄(せきずい)から後頭部にかけ強直症(きょうちょくしょう)にかゝった様に一種異様の熱気(ねつけ)がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後(のち)は、失神した様に暫くは物も言われぬ。
 早速右の肩が瘤(こぶ)の様に腫(は)れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手(かって)が悪いが、痛い右よりまだ優(まし)と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩(りょうかた)の腫瘤(こぶ)で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日(あす)は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜(よ)の明(あ)くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒(てんびんぼう)の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体(ぜんたい)誰に頼まれた訳でもなく、誰誉(ほ)めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様(こんな)事(こと)をするのか、と内々愚痴(ぐち)をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面(じゅうめん)作って朝々通う。度重(たびかさ)なれば、次第(しだい)に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力(ちから)が出来(でき)、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日(きょう)は八分だ、今日は九分だ、と成績(せいせき)の進むが一の楽(たのしみ)になる。
 然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛(おおじかけ)に井浚(いどさらえ)をすることにした。赤土(あかつち)からヘナ、ヘナから砂利(じゃり)と、一丈(じょう)余(よ)も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚(さら)ってしまって、井筒にもたれ、井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水(しみず)の湧く音を聴いた時、最早(もう)水汲みの難行苦行(なんぎょうくぎょう)も後(あと)になったことを、嬉(うれ)しくもまた残惜しくも思った。


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     憶出のかず/\

       一

 跟(つ)いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
 意気地の無い亭主に連添(つれそ)うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯(びんぼうじょたい)は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方(ひとかた)ならず悩(なや)まされた。一番近い隣(となり)が墓地に雑木林(ぞうきばやし)、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母(おば)は「若い女なぞ、一人で留守(るす)は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣(す)があって、破落戸漢(ならずもの)が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻(さっき)帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子(ようす)であったが、調子を更えて「宮前(みやまえ)のお広さん処へは如何(どう)参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸(びた)る其賭博(とばく)の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪(こら)え、素知らぬ振(ふり)して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍(そ)うて、ずッと往(い)って、と馬鹿叮嚀(ばかていねい)に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸(もんこ)あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向(そむ)けて読書して居ると、後(うしろ)に撞(どう)と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将(あおだいしょう)を見た。葺(ふ)きっぱなしの屋根裏の竹に絡(から)んで衣(から)を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正(まさ)しく彼が頭上に蛇が降(ふ)るところであった。
 人烟稀薄な武蔵野(むさしの)は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗(なかぬり)もせぬ荒壁は恣(ほしいまま)に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子(からかみしょうじ)も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉(ろ)が命(いのち)である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火(たきび)、自在(じざい)の鍋は、彼が田園生活の重(おも)なる誘因(ゆういん)であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲(あたり)が狭(せま)くて三人とは座(すわ)れなかった。加之(しかも)其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾(さかん)な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月(ひとつき)ばかりして面白くない此(この)型(かた)ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋(ふるどうぐや)で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車(こえぐるま)の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃(すすほこり)にまみれた古葭簀(ふるよしず)で、腐(くさ)れ屋根から雨が漏(も)ると、黄ろい雫(しずく)がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥(たらい)やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫(かし)の木にしばりつけてあるので、風当(かぜあた)りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。
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