登山の朝
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著者名:辻村伊助 

 小屋を発って、ちょうど八時間目に、やっと雪の山稜の直下に達した、考えてみると、あまり大事をとりすぎて、よほどグロース・ラウテラールホルンの方に片寄って登ったように思われる、そしてそれと、グロース・シュレックホルンとをつなぐ山稜の上は、あぶなくて通れないから、クーロアールに臨んだ崖に沿うて、はいずっておったのである。
 山稜の上に残った雪の上に、荷をおろして一休みした、後ろはひどくえぐられた深い崖の底に、ラウテラール・グレッチェルがのぞかれる。それの向こうはベルクリシュトックから、左に並んで、ウェッテルホルンの三山、ここから見るとむろん、立派なのはまん中のミッテルホルンで、左のハスリ・ユンクフラウは、頂上の岩がこぶのように見おろされる。
 朝の一時から何にも食べないんで、ちょっと休んだらもうがまんがしきれない、頂上は頭の上だが、そこにつづく鋭い山稜は切っ立てになってるから、ずいぶん骨が折れそうだ、四人とも言い合わせたように、リュックサックとにらめっこをしていたが、やせがまんなんかするやつは、ばかだということに評議一決して、氷の角によりかかって、一同早昼の食事にありつく。ところが、昨日今日雪の上で思い切りよくさらしぬいた顔の皮は、もとより尋常な皮膚のことで、ほてってほてってびりびりするし、こうなるとグレッチェル・クレームなどに至っては、いやが上にもきたなく見せるだけで、何の役にもたたない、それはいいが、件の顔で、肉をかじると、厚く切ったベイコンなんか、ほおばるほどには口が開けないし、無理にすると顔が火のつくように熱く□(や)ける。
 お茶がわりにコニャックと雪をかじって、一息入れた後、いよいよここを発って、急な鋭い氷の山稜にとっついた。左はシュレック・フィルンまで切っ立ての崖で、右には深い深い底の方に、ラウテラール・グレッチェルがのぞかれる、このアレトは、千八百六十九年の夏、ここからすべり落ちて微塵になったと伝えられる、かのエリオットの名をとって、エリオット・ウェンドリと呼ばれておる。
 私たちは氷に足形を刻んで、静かにそのアレトをよじ登った。グロース・シュレックホルンの頂上は、氷柱が無数にたれ下がった岩で、もうすぐ頭の上になったが、時間はなかなかかかって、氷から柔らかい雪に変わった山稜を、胸をおどらせてかけ登った時、腕時計は、ちょうど午前十一時三十分を示しておった。
 絶頂の氷の上に、近藤君と抱き合って喜んだのはこの時である、グリュッセを叫んで、ガイドたちと互いに堅く握手して、日の強い最高点に、躍り上がって喜んだのはこの時であった。
 八月一日の、昼に近い太陽は、グロース・シュレックホルンの絶頂に、私たちの影をはっきりと描き出した。影はアレトに立ちきられて、三段に雪の上にすべっている。




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