石ころ路
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著者名:田畑修一郎 

 と叫んで、後は「ぶるん、ぶるん」というような音を吐きだしながら、背負枠も牛の綱もそこらに放うりだして、その小柄な肩をすさまじくいからせながら、ちょうど僕は庭先きにいたが、こっちへは眼もくれずに小屋へ入って行った。奥さんは苦(に)が笑いをしていた。
 民さんと昌さんとは仲よしだとばっかり思っていたが、日がたつにつれそうでないことがわかった。時々、夜になってあたりの寝しずまったころ、ふいに庭の向うの小屋から、二人の争う声が聞えた。民さんが力ずくで昌さんを苛(いじ)めるらしい。何か揉(も)み合うような音も聞える。昌さんが「あーア、あーア」という引っ張った悲しげな声をたてる。昌さんは何かといえば、たとえば牛の綱を持たせられたりすると、よほど牛が恐いとみえてこの声をたてる。彼の唯一(ゆいいつ)の抗議のしかただし、また防禦でもあるらしい。
 一度、僕はこの二人が放牧に出かけるのについて山へ上ったことがある。それはずいぶん高い場所だった。そこでも二人の争いを見た。昌さんは隙を見て脱けてかえろうとする、民さんはそうさせまいとする。あげくは揉み合いになったが、民さんは小柄だが力があるのだろう、くるりと昌さんを足でからみ倒して馬乗りになり、いきなり昌さんの肩から衣物を脱がせて、むやみとその胸のあたりを抓(つね)るのか引っ掻くのか妙な折檻(せっかん)をする。昌さんの胴の皮膚にはみるみるみみず腫れができた。それは、ただ帰えさないための動作というよりは、もっと執拗なつかみ合いだった。
 後で聞くと、昌さんは例の正代の母親にあたる白痴が来ると、ひる間でも近くの社(やしろ)の絵馬(えま)なんかのある建物の中に二人で寝るという。それをまた民さんが気狂いのように怒鳴りつけるということだった。僕は何とも言えない妙な気がした。あの白痴の女にも選ぶということがあり、そして昌さんの方が民さんよりも選ばれたのだろうか。昌さんが民さんを苦が手なのはそういういろんなことがあるのだ、と思われた。昌さんは自分に害を与える者とそうでない者とを敏感に見分ける。害を与えない者には全然の無関心を示す。はじめのうちは、僕を遠くから見るようにしていたが、今は傍にいてもまるで気にとめない風で、僕の見ている前だと、平気で、喰物の桶なんかに手をつっこむ。それでいて、あたりをじつに警戒してさっとやるのだが。

 四十日近くいるうちに、僕はだんだん自分のことを忘れて行った。家からは妻の手紙が来て、早く帰ってもらわないと困る、と言ってきた。どの手紙にも、僕がどうしているかということはほとんど書いてなく、困るということだけが書いてあるので、今さらのようにあいつらしいと思った。だが、彼女も憐れむべきやつだと重ねて思った。僕も憐れむべきやつにちがいないが――。神着の檜垣からも手紙をよこした。
「貴兄にくらべると、僕の生活はまるで芝居をしているようなものです」とあった。それはたぶん、毎日村の青年たちを集めて喋っている、それを指すのだろうと思った。しかし、僕のだって芝居だ。どこまでほんとうなのか、ちっともわからない。いったい、おれは何をしてるんだ。何もありゃしないじゃないか。これはこれだけのもの、いくら騒いだってどうにもなりゃしない。眼をつむって歩くだけがほんとうだ、そうも思った。
 ちょうど、檜垣の母方の祖父が亡くなったので、お悔(くや)みをのべがてら遊びに神着村へ行った。そのとき、檜垣は何を思ったのか、彼の身の上をしみじみと語り、
「僕はこれで、時々やりきれなくなることがありますよ。島の者だからね、島で死ぬつもりだが、島でなれる限りの幸福なことを考えてみてもやっぱりだめですな」
 と、言った。
 金も乏しくなったし、ぼつぼつ帰ろうという気も起きたので、一度は上ってみたいと思っていた雄山へ行くことにした。案内人をつけないと路がわからないだろうと言われたが、かまわずに一人で出かけた。七百メートルくらいの山だから平気だと思った。いつか民さんたちと放牧に行ったことのある、そこらからまた急な坂路になって、しばらくすると広い平坦なところへ出た。林と草地が入れ代り現われる。だいたいの路は聞いたのだが、何分広い原っぱみたいなので路がわからなくなった。
 ふと気づくと、中腹にあたる林の中からうすい煙が立っていて、よく見ていると、なんだかそこいらの林を切っているらしく、林の上っ葉が一所ずつ揺れて、そこだけ空所ができていくようだ。目あてにして行くと、四五人の男が炭材を伐採(ばっさい)していた。訊くと路はすぐわかった。
 今度はうんと急な路だ。そんなところも牛が上るらしく、ところどころに牛の踏みこんだ跡が段になってついている。水こそないが、石ころだらけの沢みたいな路だ。また、広っぱに出る。そこいらはすっかり灌木の原で、間々に柔かい芝草が生えている。そこをぐるっと廻るように行くと、もう小さな内輪山の下だ。いつの間にか外輪の中へ入ったのだ。熔岩の細かく砕けた原をまっすぐに、ちょうど上ったところとは反対側へ行って山の向う側の部落を見ようと思った。外輪の縁が凹んだところまで行ってみると、そこは眼のくらむような崖だった。ずっと真下までどれくらいか見当もつかない。岩の間に小さな路が匐(は)って下りているのが上から見える。崖の真下の岩場から下方はしだいに拡がった草地で、それはだんだんと林になり森になりして、一帯の山裾がごく小さいながらに、海ぎわまで手にとるように見える。海に近い方にはぽつりぽつり人家が見えた。
 海は真青で、海岸が白く泡立っている。眺めているうちにだんだん前へ吸いこまれそうになる。この辺から思いきって飛んだらどの辺に落ちるだろうか。そう見当をつけてみると、そこいらはごろごろした岩ばかりだ。手足のこわれた人形のように、ほうりだした瞬間から不恰好な形をして、やがて岩の上にグシャリとなる、そういうものが一瞬頭の中を走った。僕は立ち上って、崖縁から少し遠のき、また縁まで歩いてみ、その次にはもう後を見ないで内輪山の方へ立ち去って行った。しばらく指の先きのしびれるような感じがのこっていた。




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