医師高間房一氏
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著者名:田畑修一郎 

 今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつてゐるのを感じた。それはまだ形ができてはゐなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつてゐなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。
 今、彼の目の前には大石医院の塀づくりの家が立つてゐた。その家は彼が借り受けたあの古びた家とふしぎに似通つてゐた。ちがふのはもつと大きやかで、手入れのよく届いてゐることだつた。築地の壁土は淡黄色の上塗りが施され、一様に落ちついた艶を帯びてゐた。そして、玄関に向ふ石畳は途中二つに分れ、右手は別建の洋風な診察所につづいてゐた。房一は瞬間どちらへ行つたものかと思つたが、左手によく拭きこまれた玄関の式台を見ると、まつすぐその方に進んだ。
 二三度声をかけたが返事がなかつた。すると植込みの向ふの診察所の入口に白い服を着た看護婦の紅らんだ顔がのぞいて、すぐに引きこんだ。と思ふと、どんな風に廻つたのかしれないが、同じ顔が思ひがけなく今度はひよいと突きあたりの壁の横から現はれた。
 房一は来意を告げた。やがて、軽い足どりが聞えたので、さつきの看護婦だとばかり思つて目を上げた房一の前に、頭髪の真白な、稍(やや)猫背の、ぎよろりとした眼つきの老人が立つてゐた。一瞬、房一はこの老医師と目を合はせた。何か剥(む)き出しな、噛みつくやうな眼が房一をぢつと見下してゐた。が、次の瞬間には、それとはおよそ反対な気軽るな声が、
「や、さあお上り下さい。さあ――」
 と、房一を誘つてゐた。

 房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いてゐるやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
「さうですか、さうですか。それは、いや、ごていねいなことで」
 坐につくとすぐ固苦しい挨拶をはじめた房一に向つて、その気重い調子を払ひのけでもするやうに、老医師の正文は口早やに云つた。
 彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つてゐた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいてゐるやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でゐることは房一の目にも見てとれた。
「え、何です、前期と後期とをつゞけさまにうかりましたつて。――ふうん、それやえらいもんですな。なかなか、あの検定試験といふやつは、医学校なんかの年限さへ来ればずるずるに医者になつてしまふのとはちがつて、相当な目に合はされますからな」
 正文は顎をつき出しては一寸笑つて、ふむ、ふむ、とひとりでうなづいてゐた。
 房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出してゐる自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いてゐたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へてゐるやうに思はれた。
 だが、そのとき、この野心の塊(かたま)りのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれてゐたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
 口を切つたものの房一は頭の中でとまどつてゐた。あんなに考へてゐた言葉が今急にどこかへ消えてしまひ、何を云ひ出したのか後をどう云つたものか判らなくなつてしまひさうに感じた。彼はかすかに汗ばみ、そのどちらかと云へば醜いむくれ上つた眉肉や厚い唇が力味を帯び紅ばんで来た。
「それに、永い間この土地をはなれてゐたもんですから、土地の事情にもすつかり疎(うと)くなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つてゐる次第ですが――」
「はあ、はあ」
 正文は黙つて聞いてゐたが、このときふいに今まで前屈みに折りたゝんでゐた背をぐつと伸したやうに思はれた。そして、あの噛みつくやうな眼がぎろりと房一を一瞥した。
 房一は無意識に微笑しながらその眼を迎へた。正文はそこに、医者といふよりはまだ世間慣れのしない弁護士のやうな男が、土饅頭を思はせるやうな円まつちい顔を一種恭々(うやうや)しげな面持でかしこまつてゐるのを、その厚いふくれた唇が不器用な微笑を浮べてゐるのを見た。それは何となく可笑(をか)しみのあるものだつた。
 思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。
 房一は手答へのないのを感じた。
「どうぞよろしくお願ひします」
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
 向きなほつて云つた正文の声音は穏かではあつたが、その言葉とは不似合な強(し)たゝかな調子があつた。
「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」
「はゝあ」
 房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
「さやうさ。当今では大分世智辛(せちがら)くなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」
 房一は苦笑した。
 そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしてゐた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。
「ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「はあ、見て参ります」
 彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」
「往診? ふむ、ふむ」
 正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いてゐた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
 稍意地の悪い、きびしい調子であつた。

 房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでゐるのを見つけた。
「おい、今高間君が来てゐたんだよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋(おもや)の方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安心したやうに引つこんだが、しばらくすると又のぞいた。
「ねえ。はやく」
 今度はかるく甘えた、羽毛でくすぐるやうな調子があつた。房一はざぶりと水を顔にぶつかけただけで立上つた。
 診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つてゐた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
「やあ。――こちらへ」
 房一は熱心に愛想よく椅子をすゝめた。
「どこか悪いですかな」
「へえ。ちよつとばかし――」
 男は力なげに口をあけてゐた。
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は? いや、字(あざ)はどこでしたかな――ふむ、ふむ」
 このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
「さあ、一つ拝見しませう」
 房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでゐる、――
「ふむ、ふむ」
 房一は男の前膝部をたゝいた。脚気でもない。心臓は弱つてゐた。単音でなく、微弱な重音があるので弁膜症の気味があるとも診られた。呼吸器に異状はなかつた。一応の診察を終ると、房一は患者の顔から、胴体にかけて、熱心に眺めた。皮膚は弛緩して、生気がなかつた。だが、その極端な貧血と一般的な衰弱とは典型的な寄生虫の症状らしいことにさつきから気づいてゐた。
 尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。ゐる、ゐる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
 房一は患者の前にもどつて来た。
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
 と、ゆつくりはじめた。
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
 男は、びつくりしたやうに房一を見た。
「心臓は多少弱つてゐるが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
 男は面喰つて何を云はれてゐるかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでゐた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「ね、どこも悪くない。だが、その丈夫な身体の中に虫が巣をつくつとる。いゝかね、心臓病とか腎臓病とかいふやうなものではない。虫を駆除する、つまり身体から出してしまへばあんたの身体はもと通りぴんぴんして来る。悪い虫だが、とつてしまへばよいのだから、他の病気よりは性質はいゝと云ふことになる。――判つたかね」
 男は始めにびつくりさせられて、今さう聞くと多少のみこめて来た様子であつた。どこも悪くないと云はれたこともうれしかつたらしい。房一はその腕をひつぱつて顕微鏡の前につれて行き男にのぞかせた。
「ほらね、かういふ形のと、又別にかういふのがあるだらう」
 と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
 患者は満足してかへつて行つた。だが、房一は患者以上に満足してゐた。おれの云ひ方はあれでよかつたかな。もつと噛んでふくめるやうに話して聞かせるんだつたかなと、たつた今自分が云つたり、したことを、もう一度目の前に思ひ描きながら、房一は永い間廻転椅子の中に身をうづめてゐた。
 彼には、何の縁故もないその男が医者としての自分をたよつて来たのが何よりうれしかつた。あの男はおれの一番最初の患者と云つてもいゝ位だ。それがありがたいことにうまく行つたのだ。何しろ、寄生虫にはやく気がついてよかつた。あんな風だと、前に大石医院で診察をうけてゐたのかもしれない。塔の山と云ふのはたしか下の半里ばかりの所から山に入つたあたりだつた、――さう考へてゐるうちに房一はふと昨夜往診をたのまれたことを思ひ出した。
 それは杉倉といふ所から来た。塔の山とは反対に、ずつと上手に河原町を出外れて、それから更に急坂を一里ばかり上つた所の、相沢といふ家だつた。相沢と云へばこの近所では誰も知らぬ者はない、そんな不便な土地でありながら大きな酒造家である。使ひの者が来て、急ぎはしないが明日あたりにでも往診してほしい、と云ふことだつた。房一にはそんな相沢みたいな家から往診をたのまれやうとは意外であつた。

 河原町の上手を出外れると、やはり一帯は桑畑の中を、路はだんだん上り勾配をましながら川から遠ざかつて行くのだが、左手に迫つてゐる山腹の下方にとりつくと、そこから急に路面も赤土になつて、途中でいくつも屈折した坂路が山を越えて杉倉の方につゞくのである。
 夏蚕(なつご)で下葉からもぎとられて行つた桑は、今頭の方だけに汚ならしい葉をのこして、全体に透きながら間の抜けた形で風にゆらいでゐた。その間を房一の乗つた真新しい自転車のハンドルがきらきら日に光つた。
 坂路にかゝると、房一は自転車から降りて、押しながら登りはじめた。房一の恰好が円まつちく、不器用な図体であるだけに、自転車にとりついた姿はいかにも重たさうに見えた。十月に入つて間もない日は、自転車の金具の上だけでなく、下方の桑畑の透いて見える根つこにも路のわきの削りとつた赤土の肌の上にも一面にふりそゝいでゐた。
 山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついてゐた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいてゐた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めてゐると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせゐか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつてゐた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つてゐる。
 それがふしぎに思はれた。
 さう、とりとめもない感慨にふけつてゐた房一は、ふと、坂路のずつと上の方でごく小さいピカリと光るものを感じた。自転車で誰かが降りて来るのであつた。それはかなりな速さで茂みの間に現れ、又見えなくなり、やがてまつすぐに見通しのきく曲り角のところに、はつきりと大きく現はれた。銀鼠色のかなりにいゝ品らしいソフト帽が見えた。その下に光る眼鏡、面長な白い顔、ペタルの上で、ブレーキを踏んでゐるチョコレート色の短靴。――
 向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしてゐた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。
 他に通る人とてはない、この広濶な坂の一本路で、二人はいやでも顔を見合はさずにはゐられなかつた。近づいて来る自転車の車体には房一の往診用の黒革の鞄と同じ格好のものがとりつけられてゐた。房一には相手が誰かといふ見当が今は疑ひなくついてゐた。恐らく、先方にも房一が判つたにちがひない。
 二人は間近かで眩(まぶ)しげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「失礼ですが、もしか、あなたは高間さんではありませんか」
「さうです」
 二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。
「あなたは、多分――」
 房一が云ひかけると
「大石練吉です」
 神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つてゐたんですが、失礼しました」
「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出てゐたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つてゐたんですが」
 練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでゐた。
 練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀(かみそり)があてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出てゐた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
 それは房一がこれまでに漠然と想像してゐた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつてゐたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
「わたしの方でも、もう一度こちらから上つて、お目にかかりたいと思つてゐたところなんですよ。――今日はこんな所で、じつさいいゝ案配でした」
 房一は持前の人慣れた愛想のいゝ微笑をうかべてゐた。それは水面にできた波紋がゆるく輪をひろげるやうに、彼の厚い醜い唇からはじまつてしだいに、顔全体をつゝみ、つひに容貌の醜さを消してしまふものであつた。
「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」
 練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がゐるな、と思つたくらゐですからな」
 練吉は今更のやうに、あらためて房一の様子を、その新調の自転車や医者らしい鞄などに目をやつた。すると、それらは今新しく練吉の前に彼の持物と同じものを感じさせ、更に、今まで耳にしてゐたものの、つひぞ気にもとめずにゐた医師高間房一といふ人物がそこに忽然と姿を現してゐるのをいやでも見なければならぬと感じさせた。それは何故かどこかで練吉の自負心を傷つけ気を苛立たせるものだつた。
 じつさいに、房一が練吉のことを想像してゐたのと反対に、練吉はたつた今坂路の上から見慣れない、何となく不様なだがともかく彼の注意を惹かずには居れない種類の男がゐるのを目に入れるまでは、全く房一のことは毛ほども考へたことはなかつた。したがつて彼はひどく驚かされた。次には興味を持つた。練吉はその甘やかされ、順調に育つた境遇からして、他人との手厚いつき合ひの心持などは持たうとしたことがなかつた。大石医院の若医師としての境遇は、彼が望んでなつたものでもなければ、苦心して得たものでもなかつた。彼はたゞさうなるやうに生れついた。それをさまたげる事情は何一つなかつた。この自分では大して好んでもゐないし、やむを得ずなつて、やむを得ずまはりから、尊敬を受けてゐる位に考へてゐる医師としての職業は、しかし内実は彼の虚栄心を無意識のうちに支へてゐるものだつた。何故なら他の誰でもがこの町で医者になることはできなかつたし、彼自身は大して好んでゐなくつてもなれたのだ。
 だが、さういふことは練吉は今まで考へたことがなかつた。その必要もなかつた。それは単に一つの習慣、彼自身のと云ふより、河原町に張りわたされてゐるあの根深い習慣のおかげだつた。
「これからどちらへ?」
「杉倉まで――」
「往診ですか」
 ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
「さうです、一寸」
 房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞(は)にかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
 と、思はず房一の微笑に釣りこまれて、練吉は気がるな笑顔になつた。いつのまにか、かた苦しい「わたし」から「僕」といふ云ひ方になつたのも気づかないで。
「それでは、又あらためて伺ひます」
「どうぞ」
「や、失礼、おさきに」
 練吉は軽く頭を下げながら、相手の房一がいきなり直立不動のやうに足をそろへたのを見た。
 彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつてゐた。
「をかしな男だな」
 練吉はふつと思ひ出し笑ひをした。それは微笑と云ふよりは、気の好い、何だかすべつこい、いくらか相手を軽蔑したやうな表情だつた。
 房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀(あみだ)に被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つてゐるところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳(かん)の強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
 さうだ、あれは見覚えがある。練吉は幼(ちい)さい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼を磧(かはら)のまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしてゐる青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞(やまひだ)にうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さうになつた懸命な眼や、多勢に追ひつめられて溝をとび越さうとして思はず泥の中に足をつゝこんだりしたこと、敵方のはやし立てる明るい声や逃げて行く弱い子の背中にぴよんぴよん動く小さな帯の結び目や若葉のきらめき、河魚の手ざはりと匂ひ――それらの記憶が一瞬のうちに現在の房一の胸に生き生きとよみがへつて来た。それは遠くてつかまへられさうもなく、又すぐ傍にあるやうにも感じられた。

     四

 坂を上り切ると、路はしばらくごたごたした小山の裾を曲り曲りして、やがて房一の乗つた自転車が心持下り勾配(こうばい)のために次第に速力がついた頃、突然前方に平地が開けて来た。それは河原町から急坂の路を見上げたときに上方にこんな場所があらうとは想像もできなかつたほどの、明い、開濶な平地だつた。房一は一瞬、路をまちがへて全然見当ちがひの所へ出たやうな気がしたほどである。
 下方であんなに急峻に眺められた山地は、今この高台盆地の周囲を低いなだらかな松山や雑木山となつて縁どり、その稜線は一種特別に冴えて、空とすぐくつついてゐた。奥地の方にはるかな山並みが盛り上つてゐるほか、何も邪魔物がないことは、宛(あた)かもこの場所が地上にたゞ空とこゝだけしかないといふ感じを起させた。あたりは名状しがたい明さが満ちあふれてゐた。立木の一本一本、点在する人家の白壁や荒土の壁には、まるであたりの明るさを際立たせようとするかのやうにくつきりと濃い形がついて、それは遠くになるだけ鋭くはつきりしてゐるやうであつた。そして、ぢつと見てゐると、その黒い影は黄ばんだ山の斜面に少しづつ動いて喰ひこんでゆくやうに思はれた。
 それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつてゐる静寂とそれを支へてゐる平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。
 気がつくと、ふしぎな位人影がちつとも見えなかつた。よく乾いた路がのんびりとした曲り工合を見せて前方を走つてゐた。部落のとつつきの石垣の突き出た農家の先を曲ると急に家並びが見えて来た。
 房一は昨夜の使ひの者から聞いてゐたので、目指す相沢の家はすぐ判つた。部落に入つて間もなく、路傍に空地があつて古い酒樽が二つ三つころがつてゐたり、恐らく雨時にできたのだらう荷馬車の轍(わだち)の跡が深くいくつも切れこんだまゝ固まつてゐた。空地の奥には下部を石垣で築いた大きい酒庫の壁が上方に四角な切窓を並べて立つてゐた。空地からは爪先上りの地面がそのまゝ酒庫の横から屋敷の中につゞいて、その突きあたりには大きな材木を使つた酒造家らしい店間口が見えた。住居(すまひ)はそこから右手へかけての棟つゞきであるらしく、前面からは塀と樹木とのためによく見えないが、この地方特有の赤黒い釉薬(うはぐすり)をかけた屋根瓦のぎつしりした厚みがその上に覗いてゐた。
 不案内なまゝに漠然と店土間の方へ向けて中庭を入つて行つた房一は、右手の塀の内側に一頭の馬がつながれてゐるのを見て思はず足をとめた。一瞥した瞬間場所柄荷馬車馬でもゐるのかと思つたのだが、よく見ると、それは鮮かな染色の黄羅紗の掛布の上にぴかぴかする乗馬用の革鞍が置いてあり、おまけに鹿毛の首筋から両脚にかけて汗が黒くしみ出てゐるところを見ては馬はたつた今さつきまでかなり駆けさせられたものらしい、四脚は軽くひきしまり、下腹部が小気味よく切れ上つて、胸の深いところだけでも、この辺には珍しい良い馬であることが判つた。房一はすぐ、こんな片田舎で誰がかういふ馬を乗り廻してゐるのだらうかと思つた。陸軍の演習でもなければこんなものが民家につながれてゐることはなかつた。それとも物好きな旅行者でもあつたのだらうか。
 だが、その不審は間もなく答へられた。房一が来た用を忘れてしばらく見恍(みと)れてゐる間に、小柄な、鼠のやうに小粒な円い眼の、額の禿げ上つた男の顔が店土間からのぞいたかと思ふとすぐに下駄を突つかけて出て来た。房一が気づいた時には、その男はもう房一の真後(まうしろ)に立つてゐた。黒い背広のお古にズボンだけは新しさの目立つカーキ色の乗馬用をはいて、赤銅縁の眼鏡をかけたその男は、
「やあ、おいでなさい。わたし、相沢です」
 と、その小柄な身体から出るとはとても思へない、幅のある、濁(だ)み声で云つた。
「どうも遅くなりまして――」
 答へながら、房一は少からず面喰つてゐた。声をかけられるその瞬間まで、彼は酒造家の相沢を何となくでつぷり肥つて、木綿縞の袷(あはせ)の袖口から肉づきのいゝ手首を喰(は)み出させた、紺の前掛でもした男を想像してゐたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。
 ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」
 と云つた。
 それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにゐた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。
 職業柄人見知りなんかはしてゐられないし、又さういふことにかけては密(ひそ)かに自信を持つてゐた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
 殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見てゐる間中、ちつとも目瞬(またゝ)きをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはゐられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつてゐるのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えてゐたわけではないが、その眼玉は一体何を考へてゐるのか判らないやうな気が房一にはした。
「お噂はうけたまはつてゐます」
 その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。
「いや、どうも。恐縮です」
 突然だつたので、房一は思はずその醜い顔に紅味をうかべながら、軽く頭を下げた。その拍子にごく自然に眼玉と真向ひになる位置を外した房一は、さつきから気を引かれてゐた馬の方をちよいちよい眺めやつた。
「なんですよ、あんまり貴方(あなた)の評判がいゝもんですから、さういふ方ならぜひ一度自宅(うち)でも診ていたゞきたいと思ひましてね」
 どういふ加減からか、それを云ふ時、相沢はぐつと又相手の顔をのぞきこんだ。それは何となくもつたい振つた、重々しい様子だつた。
「はあ、どうも」
 もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めてゐた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けてゐた。
 いつもはその不器用な容貌の蔭に眠つてゐる不敵さ、だが何か圧迫を加へられると忽ち跳ね起きて来る反撥する房一の気質は、同時に圧迫しようとかゝるものを嗅ぎつける点でも敏感であつた。その敏感さで房一は相沢が一方では彼を賞(ほ)め上げながら逸早く往診を求めたのはその恩恵と好意によるものだと知らせたがつてゐるのを見抜いた。こんなことになると、房一はふだんよりなほ茫(ばう)とした眠たげな眼つきになる。その目でちらりと相沢を眺めたのである。動物達の間でよく起る出会つた瞬間に相手の方を見究めようとする、あの本能的なすばやい判断力の点では、房一は生れつき得手だつたが、困苦の暮しの間にそれはなほ鋭く力あるものとして育つた。理性といふよりはむしろ動物的なこの嗅ぎつける力のお蔭で、今房一はたゞ鼠のやうな眼をした小柄な男を見ただけであつた。それで十分であつた。房一は前より落ちついて相沢を気にかけなくなつた。
「御病人はどちらで?」
 房一はふと自分に返つて訊いた。
「あ、さうでしたな。一つ診ていたゞきませう」
 相沢は釣られて思ひ出したやうに愛想よく答へたが、その歩き出した足は家の方へではなく、馬の方に近づいて行くといきなり親しげに平手で軽く馬の首を叩いた。驚いたやうに二三度首を振つた馬は、すぐ目をつむつて、快げにその光沢のある首を伸ばしぢつと愛撫をうけた。相沢はふりかへつて房一を得意さうに眺めた。彼はさつきから、房一がこの馬に気をとられてゐるのを、そして馬を見るときの房一の目が一種の特別な光りを帯びてゐるのに気がついてゐたので、どうしてもかういふ光景を演じて見せたいといふ子供染みた欲望を押へることができなかつたのである。
 これでは房一も後もどりしないではゐられない。馬は今片耳を後に立て、時々それを動かせてゐた。それは見てゐるだけでも美しい生き物だつた。房一にはしなやかなだが強い張りのある首が疾駆の時にどんなに強く前傾し、どんなに直線的になるか、どんなに風を切り、どんなに躍動するか、まざまざと目に浮ぶやうであつた。
「これはあなたがお乗りになるので――?」
「さうです、さうです。さつきも少し遠乗りをやりましてね。帰つて来たばかりなんです。どうしてもこの辺は馬ででもないと、用達しが不便でしてね。町へもこれで出かけます」
 相沢は満足さうに馬の首を叩きつゞけてゐた。房一は思はず微笑した。彼にはこの時の相沢がひどく愛嬌あるものとも見えたからである。けれども、房一自身の顔にさつきから現れてゐるものも、ちやうど子供が好きな物を前にしたときに見せるあの熱心さと同じ表情だつた。
 注意深い読者はすでにお気づきだつたらうが、この二人の人物の間で若しどちらか相手の御機嫌をとらねばならない立場にあるとすれば、それはさしづめ房一である筈なのにどうも反対に相沢がさうであるやうに見える。彼が馬の所へ歩みよつたのも、房一の気に入りさうなことへ先潜りして行つたところがないでもない。ちよいちよい顔を出すをかしな傲慢さの他に、相沢には何か理由があつてのことか、それとも誰との場合にも相手に取入らうとする性癖があるのか、それはまだ吾々には不分明であるが、相沢が若し房一の気に入らうとつとめてゐるとすれば、それは第一歩に於いて稍成功したと見るべきである。

 病人は十七になる相沢の一人息子で、県庁のある市の中学寄宿生だつたが、軽い肋膜炎でかなり前から家でぶらぶらしてゐるといふことは、昨夜来た使ひの者から聞いてゐた。
 間もなく相沢に案内されて、房一は病室へ通つた。外で見るよりはよほど広い家と見えて、廊下を何度か曲つた末に暗い突きあたりの襖が相沢の手で開かれて、房一がそこに踏みこんだとき、庭の向ふに立つ白壁の方から反射する逆光線の中で、かなりに広い部屋のまん中には床が敷きつ放しにされ、その上にごろ寝したまゝ雑誌を読んでゐた息子の市造が、足音で気づいたのだらう、半ば起きかけて、入つて来る者をぢつと眺めてゐるのを見た。
 市造は医者だと知つてすぐに起きなほつた。そして、房一が折鞄の中からまだ真新しい聴診器をとり出すのをたゞ無意味に眺めてゐた。誰に似たのか、市造は恐しく輪郭の整つた顔立ちだつた。あまりきつちりしてゐるのでどこか寸がつまつて見え、硬い大人の面をかぶつた子供といふちぐはぐな感じにも見えた。たゞ、眼だけは紛れもない父親ゆづりの黒味のひろがつたあれだつた。
 病症は大体察してゐた通りの単純な乾性肋膜炎であつた。熱の工合を見ても進行性ではないし、他の部分にも異状はなかつた。だが、房一は念入りに診察した。この病気は念入りに診察するだけで患者にとつてもはたの者にとつても少なからぬ気休めになるものだといふことを承知してゐたからである。そして、今まで医者にかゝらずにゐたわけはない筈だから、多分大石練吉に診てもらつてゐたにちがひないが、いつ診ても目立つて変化のないこの病気は医者にとつてもかなり退屈なものだし、あの練吉が終ひにはいゝ加減で切上げるやうになつて、患者側の不興を招いたとも想像された。だが房一はそんなことには一切触れなかつた。彼はたゞ綿密に診察を終へ、二三の注意を与へ、更に一週間に一回の割で今後も往診に出向くことを約した。多少意外に感じたのは、一人息子がこの種の病気になつた場合の大抵の父親は、ひどく神経質になつて病状を根掘り葉掘り訊くものだが、相沢は房一が説明する以上のことは知らうともしないことであつた、だが、発病以来すでに幾人もの医者にかゝつたのは明かで、誰が診ても同じやうな症状を聞かされて、今では慣れつこになつてゐるのだらう、と思はれた。
 診察がすむと、房一は別の客座敷へ案内された。そこには、床柱の前にお寺さんに出すやうな厚ぽつたい綸子(りんず)の座蒲団だの、虎斑(とらふ)の桑材で出来た煙草盆などが用意されてあつた。都会地では一時間もかゝらないやうな往診が、この田舎では小半日もつぶされてしまふ、そのくどいもてなしの習慣を知り抜いてゐる房一は、無下(むげ)にも断りかねてそのまゝ坐ると、間もなく和服に着換へた相沢が現れ、その後から銚子を持つた夫人が入つて来た。
 このあいと云ふ名の夫人は一度房一にお酌をすると、すぐ呑み乾されるのを待つやうに銚子を両手で抱へて持つてゐた。その様子は、何となく一方を向いたらそれしかできないやうな或る単純な性質を現してゐた。容貌から云つても、彼女は主人の相沢とは正反対であつた。肩が張り、腕も太く、顔も四角だつた。だが、そのごつごつした外形を蔽ふ何かしら間の抜けた感じが彼女の印象を一種親しみ易いものにしてゐた。はじめ、房一が玄関を入つたときもさうだつたが、今も彼女は一言も口を利かなかつた。その代りにすこぶる叮重なお辞儀をしただけである。
 房一は酒が不得手だつた。ところが、相沢も家業に似合はず呑めない口と見えて、二人の間には手もつけないまゝで生温くなつた銚子が二三本も置かれてゐた。こゝでも房一はもう会ふ人ごとに聞かれてうんざりしてゐる医者となるまでの経歴を、相沢の問ひに答へてぽつりぽつり話さねばならなかつた。
「あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね」
「まあ、生れ故郷ですから」
「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つてゐたもんです」
「はあ、それは――」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
「それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし」
「いや、それが――」
 と、相沢は口ごもつた。
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
「時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつてゐたと聞いてゐましたが」
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
「分家の当主は今は、若い人の代で、たしか喜作といふ筈ですが、あれも随分永いこと県外に出てゐるさうですな」
「さうです。農林学校の先生だとかをしてゐられると聞きましたが」
「もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると」
「さあ、くはしいことは判りませんね」
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
「いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが」
「はあ、なるほど」
 この時ふと、房一は、何故こんなに相沢が立入つて訊くのか、といふ疑ひを持つた。だが知り合ふとすぐまるで親類か何かのやうに世話を焼きたがる河原町の人達の癖は、房一も家の造作のときにも、その後にも一再ならず見て知つてゐた。
 間もなく房一は別れを告げ、庭前で又馬の前に立つて二三の話をし、相沢の家を立去つて行つた。相沢のやうな家を患家に持つことは、十軒もの小患家を得たに匹敵すると、ひそかに満足しながら。そして、今日のもてなし方から考へると、医者として十分好意を与へたにちがひない、といふことにも満足しながら。

   第二章

     一

 河原町の部落がそれに沿つて長く伸びてゐるあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれてゐるが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつてゐるので、それにも各々ちがつた名がついてゐたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。
 大した川でもないのにこんな風に所々でいろんな名があるのは、もとより必要があつて生じたのであらうが、一面に於てはそれぞれの水域に住む人達の生活がどんなに川と密接に結びついてゐるものかを語り、同時に、吾々が自分の子供に思ひ思ひの愛称をつけるやうに、それぞれの呼び方の中に彼等の川に対する愛情を示してゐると考へられる。で若し誰か川好きな男、たとへば徳次などに向つてこの川をつまらぬとでも云はうものなら大変である。
「水はこんなにきれいでたつぷりしてゐるだらう。鯉だつて鮒だつて、鯰(なまず)も、ハヤも、鰻(うなぎ)、アカハラ、それに鮎は名物だらう。こんなに沢山魚のゐる河が他にありますかい」
 その通り、近くに似たやうな河はいくつもあつたが、それは鮒がたくさんとれると思ふと鮎がさつぱり駄目だし、うす濁りがしてゐるし、ずつと先の木ノ川は河幅こそ広く水もたつぷりしてゐるがあんまり大きすぎてよほど上流まで行かないと鮎をとる手立てがない、してみるとやはり、この吉賀川は彼等の口にするごとく「名うて」の川にちがひなかつた。
 徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つてゐるのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついてゐる時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つてゐるのを認めるだらう。水に隠れてゐる円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでゐる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中でも本流は時々気まゝに路を変へるのだ。そいつに乗つてゐないかぎりはいつまでたつても河口へ着きはしない。
 だが、急な流れを乗り切ると、ちよいと前方の水面を見ただけで、当分御無事だな、とすぐに見抜いてしまふ。そこで、徳次は舳(へさき)にどつかりと腰を下し、普通とは反対に前にとりつけた舵棒を握るのだ。どぶ、どぶ、どんぶり、ど、といふ風に水が船縁(ふなべ)りをたゝく。それに合せて、徳次は力を抜いてゆつくりと舵を動かす。いゝ気持になつてゐると、やがて、水は「もうお前さんを楽にさせるのはごめんだ」といふみたいに、急にとろんとして、のろ臭く、浮いた藁ゴミを御叮寧にゆつくりゆつくりと廻して遊んだりする。徳次は今度は艫(とも)にもどる。そこで、櫓を下してぎいつぎいつと漕ぎはじめる。
 こんな風にして、徳次は河原町に集つた荷を船に積んで、河口の吉賀まで運んで行くのである。だが、遡(さかのぼ)るのは十倍も厄介だつた。空荷なのがせめてものことで、手伝ひの船頭を二人はどうしても雇ひ入れなくてはならない。一人を舟にのこして、後の二人は肩に綱をかけて岸に沿つて曳き上るのである。下りが四時間たらずで行けるところを、まる一日、水でも増えると朝早く出て夜に入ることがある位だ。これが徳次の父親の、その又前の祖父の代からの家業だつた。足場の悪かつた昔なら、これでもれつきとした、又実入りも悪くない商売だつたにちがひない。だが、国道ができてからは荷馬車といふやつがごろごろ大きい音をたてて通るし、おまけに鉄道が西と東と両方から伸びて来て、もう少しでこの附近もすつかりくつついてしまひさうだつたから、先の心細い商売になつてゐた。
 徳次がまだ若僧で父親の手伝ひをしてゐた時分には、帰るとすぐ夜通し積荷をして、明け方又下る、といふことも珍しくはなかつたが、今では荷出が一週間に一度あるかないかである。だから、三四軒あつた同業もすつかり足を洗つて、徳次が一人のこつてゐるわけだが、彼は目先の利く他の連中のやうに先の心配なんかはちつともしなかつた。荷がない時には筏師になつた。流木を筏に組んで下るあれである。それもない時には河漁をやつた。
 もともと彼は先きの目あてがあつて河船頭になつたのではない。親父がさうで、お前もやれ、と云はれながら、うんと答へたまでである。いや、ろくに返事をしないでなつた。それは徳次にしてみれば、朝になればお陽様が東に出るのと同じ位にあたり前のことだつた。だが、実を云ふと、徳次は生れ落ちるとからと云つていゝほど徹頭徹尾「河育ち」だつたのである。彼は、どの淵にはどんな魚の巣があるかも知つてゐた。魚の通る路も、その休憩場所も知つてゐた。鮎の寝床も知つてゐて、夜河で岩から岩へつたひながら、手づかみする位は造作もないことだつた。夏場になると朝から日暮方まで川につききりなので、大抵の子供も町を中心にして一里位の川の様子はすつかりのみこんでゐたが、徳次は早くから親父の船頭を手伝つてゐたお蔭で、河口まで七八里の間のそれこそ川底まで知りつくしてゐた。そんな風だから、先の見込があらうとなからうと、彼は河から離れる気はなかつたのである。さういふことを考へる才覚もなかつた。したがつて貧乏だつた。子供はたくさんゐた。彼の妻は河より他に稼ぎ場所を知らない夫の代りに、手ごろの畑地を借り受けて百姓仕事を働いた。だが、河から上つてゐるときの徳次は、金があつてもなくても破れ畳の上に悠然とあぐらをかいて、垢だらけの子供を肩にしがみつかせたり足にからませたりしながら酒を飲んだ。
 酔つぱらふと家にぢつとしてゐられない性分だ。ひる間だらうと、夜ふけ近からうと、ふらりと表に出かける。たまに、子供が、
「おとうちやん、どこへ行くの」
 と後を追ふと、徳次は
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
 と、ふしぎに叮寧な言葉使ひになりながら、鼻汁と埃とがごつちやになつて真黒になつた子供の方にしやがみこんで、家の方へ向きを変へてやる。
 それから、ゆらりと歩き出すのだ。どこへと云ふことはない。足の向く方へ、と云ふよりは身体の揺れる方へ歩いて行く。背は恐しく高かつた。それに、両腕と肩から胸にかけては著しい筋肉の発達を示してゐた。その美事な身体にもかゝはらず、全体としての印象には、貧しい境涯に生ひ育つた者に特有な、一眼で相手を信じこむやうな単純さと同時に、絶えず自分の居場所を気に病んでゐるやうな臆病さが雑居して感じられた。酔ふと、それが極端に目立つて来る。つまり、誰彼となく話しかけたくて仕様がなくなるし、同時に、相手に莫迦(ばか)にされてゐるやうな気がして仕方がないのである。いきほひ、彼は思ひもよらない時に傲然となつたり、挑(いど)みかゝるやうに人前に立ちはだかつたりする。その癖を知つてゐても、大抵の人は面倒がつて避けるやうになる。すると、徳次は寂しくなつて、どこまでもふらついて行くのである。時には小料理屋の土間に入りこんで又一杯やる。通りすがりの時計店にふらつと入る。それから床屋に寄る。
「やあ、今晩は」
 威勢よくやつて、相手にされると腰を落ちつけて、人の好さがまる出しになつて、大声で喋りまくる。と云つても、彼自身には何の話の種もないので、多くは人の相槌を打つたり、今他人から聞いた通りのことを彼の声音で何か別の話のやうに見せながら話すだけなのである。

 冬近い冴えた日ざしが午過(ひるす)ぎの河原町の長い、だが人気のない通り一杯に溢れてゐた。一体みんな何をしてゐるんだらう、まさか軒並みに夜逃げしたわけでもあるまいのに、と呟(つぶや)きたくなるほど人の子一人ゐなかつた。そして、冴えてゐるがしだいに温(ぬ)くもりの増して来る日は、何だかのうのうと、つまり誰もゐないので日そのものが路一杯にひろがつて日向(ひなた)ぼつこをしてゐるみたいであつた。
 その時、ふいに或る戸口から一人のひよろ長い男が、一度敷居につまづいてそのはずみで飛び出した工合に、明い路上に出て来た。帯がほどけてる、と見えたが、さうではなかつた。あんまり着物の前がはだかつて、したがつて腰から後裾にかけて長く引きずつたやうになつてゐたせゐだらう。
 彼は眩しさうに眼をしかめた。それから、酔つて居なくても同じやうにふらりとした足つきで河の方へつゞく露地の間へ入らうとした。そのとき、何を思つたか足をとめて、路上に突立つたまゝ上手の方を眺めた。
 今さつきまで誰もゐなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へてゐる、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。
 徳次と今泉とはふだん滅多に顔を合はさなかつた。と云ふのは、徳次は河商売で、今泉は彼がいつも口にするやうに「役所」づとめだつたからである。今泉は二軒置いた隣りに住んでゐた。徳次の家は汚かつたが自分の家だつた。今泉のは借家で、ぐつと小さい家だつたが、小綺麗に住んでゐた。徳次は何となくそれが気に入らなかつた。その上、今泉のいつも剃り立てみたいに青々した四角な顎だの、鋏でつまみ立てたやうな鼻髭だのを一分とは永く見てゐられなかつた。何だか胸がむづむづして来るのである。だから、たまに行き会ふと、徳次は
「あん」
 と、敬遠するとも小莫迦にするとも見える頭の下げ方をして、さつさと行つてしまふのであつた。
 だが、今日は徳次の方でめづらしく今泉の近づいて来るのを待つてゐた。といふのは、今泉の方でも遠くから徳次を見つけるや否や、声にこそ出さなかつたが、何か話すことがありさうな様子で、急ぎ足になつたからである。
 今泉は元陸軍の下士官であつた。退役後彼は河原町に帰つて役場につとめた。生れは河原町の在で、そこに帰れば自作農程度の田地があつたが、どういふものか野良仕事がすつかり嫌ひになつてゐた、彼は聯隊か、師団司令部の表札がいつまでも好きだつた。彼の話の中には聯隊長だとか師団長だとかがよく出て来た。又、自分の下士官時代の上長官の名をよく覚えてゐて、時々異動の発表されるごとに新聞紙を丹念に読み、「ほう、少将進級か」とか、「ふむ、アメリカ大使館附か」とか、しばしば感嘆の声を洩すのであつた。
 かういふことになると、彼の話振りには一種の無邪気さが現れて釆る。
「えゝ、さうですとも、あれは傑(え)ら物(もの)ですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつと顫(ふる)へましたよ」
 彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀が眩(まば)ゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはゐるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えてゐる彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めてゐるもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つてゐるのだらう。
「今日はえらい早いお帰りだね」
 と、徳次は足を踏ん張つたまゝ今泉に云ひかけた。こんなに彼の方から話しかけるなんてことは滅多になかつたので、よほど虫のゐどころがよかつたのだらうが、それでもいつものあの愚弄するやうな色は争はれなかつた。
「うむ」
 今泉は一寸いやな顔になりかけたが、
「今日は士曜日で、半休だからね」
 それは、やつぱり何となく「役所」臭かつた。
「ふうん。気楽な身分だね」
 徳次はすつかり感心したとも、又その反対ともとれる云ひ方だつた。
「フム」
 今泉はかすかに鼻のあたりを不満げにふくらませた。
 だが、急に機嫌をとり直した。そして、徳次が彼の口から聞くことでどんな表情になるかを期待しながら、ゆつくり相手の顔を見て云つた。
「さつき着いたばかりの新聞で見たんだがね、――堀内将軍がいよいよ凱旋されるさうだ」
 徳次は新聞なんかはとつてゐなかつた。ところが、町のずつと上手にある町役場では、すぐ近くのバスの発着所からいの一番に配達されるし、又県庁からの示達があるので、いろんな特種(とくだね)が入つた。今泉は早耳好きだつた。それに堀内将軍は聯隊長時代に今泉の上長だつた。その年の夏青島攻略がはじまつて、新聞に堀内将軍の記事が出て以来、今泉は何度河原町でこの「信水閣下」のことを話したものだらう。彼は夢中になつてゐた。その情熱のおかげで、今泉は町中の人が彼と同じ位に「信水閣下」を知つてゐるやうにさへ思ひこんでゐたのである。だから、新聞で凱旋の記事を見たとき、今泉はもうどんなにしてもそのことを知るかぎりの人に、誰でもいゝ、報(しら)せたくてたまらなかつたのだ。
 ところが、徳次はぽかんとした表情を浮かべたきりだつた。
「ホリウチ?」
「うん。青島陥落の、ほら、旅団長閣下だよ」
「あゝ、さうか。ふうん」
 やつと、徳次は感心した。青島陥落はついこなひだのことで、その時は徳次も提灯(ちやうちん)行列に出たのである。
 今泉は調子づいた。
「神尾司令官閣下と同列なんだよ。宇品から東京駅着。それから直ちに参内上奏されたんだよ。どうも、すばらしいね。目に見えるやうだね」
 今泉の読んだのは予定記事だつた。だが、早のみこみと、簡単な熱中家が造作もなくつくり上げる本当らしさ、それによつてなほ熱中するといふあの癖とによつて、彼はそれをすでにあつたことのやうに話しこんだ。若し、他にまだ話したくてたまらないことがなかつたら、この報告はもつとくはしく、もつと飛躍しただらう。
「それからね」
 と、今泉は一寸声をひそめた。
「捕虜が内地へ送られるさうだよ」
「ホリョ?」
「うん、ドイツ兵の捕虜だ」
「へーえ」
 今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでゐた。
「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩(てく)で通るんかね」
 徳次はさきほど今泉が姿を現したずつと先の稍持上つて見える路面の白い輝きの方を、今にもドイツ兵達がぞろぞろ群をなして出て来るかのやうに眺め、それから熱心に今泉の眼の中をのぞきこんだ。
「え、何だつて、徒歩(てく)で通るかつて?」
 今泉は面喰つてこれも徳次の眼の中をのぞきこんだ。二人の間には恐しく判りにくいものが突然はさまつたやうに思はれた。
 徳次はしばらく考へてゐた。
「それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね」
「あ、ちがふ、ちがふ。さういふんぢやないんだよ。この辺へ来るわけぢやないよ。船は船だらうが、四国の松山といふ所へ収容所ができるらしいんだな。そこへ運ばれるんだ。――こんな所を通るわけぢやないよ」
 今泉にはやつと徳次の考へてゐることが判つたので、熱心に説明した。
「さうかよ。おれは又、河原町を通るんだとばつかり思つた」
 徳次はきまり悪げに、しかし、又あのきよろりとした眼つきにかへりながら云つた。
 対島(つしま)沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれてゐると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げてゐるとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにゐる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋(わらぢ)ばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。
 彼は今泉からドイツ兵の捕虜と聞いたとき、かつて若い単純な頭にはげしい印象を灼(や)きつけられた、ロシア兵達の驚くべき腕の長さ、のろい大まかな身振り、何とも解しがたい瞬時に大きく開かれたり又縮まつたりする碧い眼や唇の動き、――それらは今徳次の目の前に突然鮮明な記憶をよび起したのである。
 だが、それがこの土地には縁がなく、遠い四国のことだと知ると同時に、彼の興味は消えてしまつた。彼は又、「あん」と小莫迦にした風に頭を下げて、わきへ行つてしまひかねない時の徳次にもどつてゐた。そして、今泉も話すべきことはもう話してしまつた。彼は次の聴手を探す必要がある。
 で、この二人の間に交されたとんちんかんな立話は終りを告げた。

     二

 低地になつた野菜畑の間を抜けて、まるでどこかの城跡の石垣めいた、頑丈な円石を積み重ねた堤防の上に次第上りに出ると、いきなり目の前に、日を受けて白く輝き、小山のやうに持上り、凹み、或る所では優しげになだらかな線を引いた、だゝつ広い河原の拡がりが現れて来る。
 そこへ降りた時から徳次はもう帯をほどきはじめて、肩にかけただけの衣物を着茣蓙(きござ)のやうにはたつかせながら、誰憚ることもなしに大股で歩いた。日にぬくめられた石ころからは、生暖い、乾いた空気が立ち上つて、足から胸へつたはつて行き、それから思ひがけないときに頬のあたりにぱつと快く触つた。
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