医師高間房一氏
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著者名:田畑修一郎 

彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつてゐるやうであつた。
 小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つてゐた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩(はうたう)は由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつてゐるが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠とした捉(つか)みがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行き交(か)ひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。
 突然はじまつたこの二人の親密な往来を、小谷は苦笑しながら、半ば無関心で眺めた。女といふものは妙なことから仲よくなるものだ、と思つた。が、由子の口から盛子のことを聞くにしたがつて、彼は高間医院について満ざら他人でもないやうな気に自然となつた。
 あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭に灼(や)きつけられた。何かしら挑(いど)むやうな、強(し)たゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つてゐて誹難することはできなかつた。
 町の一部では房一が「席を蹴立てて帰つた」といふ評判だつた。それが何か乱暴でも働いた、といふやうに伝つて、噂を聞いた老父の道平は河場からわざわざ様子を聞きに来た。
 庄谷はあの冷笑するやうな白眼で、物好に訊きたがる人に答へた。
「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」
 が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
 小谷の店では実にあらゆる品を売つてゐたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつてゐる。

 房一の竿に最初のやつが掛つた。
「おつ」
 といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、撓(しな)つた竿をしつかりと引きつけはじめた。
 荒々しい鮎の走りが竿から腕に、腕から身体の隅々まで伝はつて、それは彼の胸いつぱいに快い感動をひき起した。糸をひきよせるにしたがつて、二つの鮎のひらめきもつれる形が見えた。この二つの生き物は、まるでその持つ力以上の力といふやうなものに駆(か)られてゐる風に、走り、浮き、旋回し、沈みしつゞけてゐた。手早く網ですくふ。パシヤパシヤ水が跳ねて、獲物は房一の手の中で強くビクビクと動きやまない。追鮎はまだ元気で、背の色も濃い。ふたゝびそいつを放すと、追鮎は又以前よりもはげしく流れの中央に向つて走り出す。まだすつかりさめ切らない興奮の快さに、ぢつと竿を見まもつたまゝ何か忘れたやうになつてゐると、やがて又あの強い引きがいきなり彼の腕を胸を荒々しくよびさます。
 房一はすつかり夢中になつてゐた。
 はじめの中は房一の傍で指南顔に見てゐた徳次も、やゝ下手の流の中につゝ立つて、身動きもしない。ほつそりした身体つきの小谷は、いつのまにか対岸に渡つてゐて、これも深い黙想に似た形に稍首をかしげて凝然(ぎようぜん)としてゐる。獲物はちよつと途絶えたが、しばらくすると又掛りはじめた。
 房一は何もかも忘れてゐた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれてゐたが、それは却つて或る夢中な輝きを示してゐた。彼は何ものかに捕へられてゐた。何かが胸の奥深くでよびさまされてゐるやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つてゐる沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確(し)つかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
 ふいに、彼は頭を上げた。
 はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
「ふむ、トンネルのハッパだな」
 さう呟きながら、下手を眺めた。
 手前の方では音もなく縞をつくつて速く流れてゐる河は、ずつと先の方で細い、ちらちらした、絶え間なく動く縮緬皺(ちりめんじわ)となつて見え、そこに素晴しい高さの岩がによつきりと宛(あた)かも河を受とめた工合に立つてゐた。その蔭にあたる河縁(かはぶち)には急ごしらへのバラック建が点々としてゐた。それは工夫小屋だつた。鉄道工事がつい二三ヶ月前からはじまつたのである。
「おーい。渡つてもいゝかね」
 小谷が対岸から流れを指しながら叫んでゐた。房一の竿の前を渡渉(とせふ)するので承諾を求めたのだ。
 房一は大きくうなづいて見せた。もう獲物は大分前からとまつてゐた。

     二

 日は高く上つて、噎(む)せるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠(びく)を中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
「やつぱり徳さんが多いね」
 小谷は疳高い声で云つた。
「それあ、あんた」
 云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦(こばか)にした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つてゐるので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
 その時、又あの鈍い重量のある音が下流の方からどよめいて来た。それは前のよりもはるかに大きく、つゞけさまだつた。
「何だらう?」
 小谷は不安げに呟いた。
「ハッパさね」
 と、ちやうど追鮎箱のところへ立つて行きかけた徳次は、事もなげに云つた。彼はその水際のところでいきなりシャツをはぎとると、バシヤバシヤツと水洗ひをして、それを日に焼けた石の上に乾した。そのまゝ房一と小谷の前に来ると、美事な半裸体のまゝ腕組みをして突立つた。一種単純な、力づくといつた様子が現れてゐた。
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
「さうだつてねえ」
 小谷は仰山(ぎやうさん)な表情になつた。
「うん、おれもこないだ通り合せたんだが、前を山支度の娘が寵をかついで歩いてゐるんだな、するとやつぱり大声でからかつとつたよ」
 房一は苦が笑ひをした。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
「困つたもんだね」
「何しろ、わや苦茶だ」
 徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」
 と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
「ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない」
「へえ。――ズブツとね」
 徳次は指で真似をした。
「そんなことができるもんかねえ」
 半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。
「眼が潰(つぶ)れちまふ――ねえ、先生」
「ふうん、潰れるだらうな」
 房一は笑つてゐた。
「鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか」
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和(おとな)しくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在(ざい)の者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄(こづか)みたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
「ふうん。ひどい奴だねえ」
 小谷の話で、徳次はすつかり興奮したらしかつた。そのきよろりとした眼はすつかり開けひろげられ、一種上(う)はずつた色が動いてゐた。何となく落ちつかない様子で上半身をぐらりとさせ、無意識に片腕を振り降した。そのはずみにひよろ長く生えた雑草に手を伸して引き□(むし)り、それを口にくはへた。
 その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭(ちなまぐさ)いことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現してゐた。
「わしは反対だ!」
 何となく、彼はさう云ひたげであつた。実際それは咽喉まで出かゝつてゐた。若し彼が理窟といふものを知つてゐたら、日常の些細(ささい)な事柄からでも尤もらしく意見をすぐに云ひ立てるあの「町の衆」のやうな頭があつたら、彼は勢ひこんで口にしたであらう。だが、彼はさういふ小むつかしいことは面倒臭かつたし、又下手だつた。彼はたゞ感じた。そして暖昧な身振りをしただけだつた。

 遠くの方で誰かが呼んでゐた。
 河原の端にある高い築堤の上で、白い割烹着(かつぽうぎ)を着た女が、口に手をあてて何か叫んでゐた。
 それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしてゐた。
 聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つてゐたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
「患者さんですよう」
 近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にゐる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括(くゝ)られてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれてゐた。
「うん、今帰るところだ」
 と房一が答へた。
「獲(と)れましたか」
 盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。
「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」
「さうですか。それは――」
 心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確(し)つかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。
「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
 房一の魚籠(びく)をのぞいて、盛子はびつくりしたやうに叫んだ。
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
 房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
「いゝ恰好で!」
 盛子は笑ひながら顔を紅らめた。
「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」
 房一はズボン下を円めて魚寵といつしよにぶら下げながら、丸出しの肥つた足でぴよいぴよい河原石の上を先に立つて歩いた。

 ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいてゐるので速い。盛子は空(か)らになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
「ねえ!」
 築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
「うん」
 生返事をしてそのまゝ登つて行く。
 が、登り切つた所で、ふりかへつて盛子を待つた。そして、何となく様子のちがつたゆつくりさで登つて来る盛子の、上(う)は目になつた、意味ありげに笑つてゐる顔を見た。
「ねえ」
 盛子は妊娠してゐた。
 もう一月あまり前から気づいてゐたのだが、はつきりしなかつた。云はうか云ふまいかと迷つてゐた。たつた今、大きな麦藁帽子の縁で半ば隠されてはゐるが、むくれ上つた幅の広い肩がぴよいぴよい目の前を歩いてゆくのを見てゐるうち、突然云ひやうのない親しさの感覚に捕へられた。打ち明けてみたくなつた。何にも如らないで、こんなに変な風に脚を丸出しにして、私にはおかまひなしに先を歩いてゐる!
 並んで立つと、いきなり
「わたし、あれらしいのよ」
 云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯(いたづら)つ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
 房一は面喰つて、ぽかんと口を開けた。
「いつから――?」
 やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いてゐる生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知してゐる筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いてゐるのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つてゐる盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑してゐる切れの長い眼つき、悪戯(いたづら)つぽさと羞(はにか)みとのまざり合つてゐる様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。
「ふむ、さうか」
 感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。

     三

 裏口から家の中へ入らうとした時、房一はそこの小路つづきの先きの方に彼の帰りを待ち構へてゐたらしい様子で突立つたまゝこちらを眺めてゐる二人の男に気づいた。
 二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏(しるしばんてん)を着てゐた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つてゐた。
 房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。
 そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされてゐた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出してゐた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めてゐた。
 房一がそこへ出るのと、さつきの二人が表から入つて来るのと同時だつた。
 半シャツの男が進み出た。
「せんせいですか」
 関西訛(なまり)の特長のある呼び方で、彼はちよつと頭を下げた。それはお辞儀といふよりも、何か強談を持ちかけるといつた工合の、一種の身構への感じられる強(き)つい調子だつた。
「さうです。――どうかなさつたかね」
 房一はその時逸(いち)早く、横に寝かされてゐる男の投げ出した手首に血がかすりついてゐるのを、そして寝ながら立ててゐる片足のズボンの膝のあたりにもどす黒い斑点の沁みてゐるのを見てとつた。
「へえ。――わし達は小倉組の者ですが、ちよつと怪我人ができましたよつて、せんせいに御面倒かけに上つたんですが」
 口を利くのは半シャツの男だけだつた。恐らく四十前後だらうが、前額のひどく禿げ上つた、痩せ身の、鼻下にちよつぴりした髭をつけてゐる、がそれらを貫いてゐる表情は何か殺気のある精悍さといつたものだつた。口をきく度に、彼の眼は喰ひこむやうに相手を一瞥した。
「小倉組といふと、下の工事場の方ですな」
 房一は、これは煩(うるさ)い相手だなと思ひながら、わざとゆつくり構へてゐた。実は、さつき裏口から二人を見かけた時に、すでにぴんと感じてゐた。こんな風体の連中は河原町には他にない。それに、今しがた川岸で話に出たばかりの所だつたので、房一にはよけい強く頭に来た。
「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」
 彼は男の顔を蔽つてゐる手拭をとりのけながら云つた。
 男の顔は泥と血で汚れ、かすり傷が一面についてゐた。顎の所にかなりひどい裂傷があり、血糊が固くこびりついてゐた。どこか打撲傷をうけたらしく、一見したところ気息奄々(きそくえんえん)としてゐたが、房一が手拭をとり除いたときに、男はかすかに眼を開けて房一の顔を見た。
 二人が男を抱き起して、レザア張りの診察台へつれて行つた。男は殆どされるまゝになつてゐたが、身体は案外自由が利くらしく片手をつかつて横になつた。そして又もやぱつちりと眼を開け、不安さうに房一を見上げた。
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
 と、房一は訊いた。
 男は眼を閉ぢた。何も答へなかつた。
 印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。
 男は病人から房一へぎろりと眼を移すと、
「せんせい!」
 と、いきなり云つた。
「何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます」
「ふうむ。いや、よからう」
 房一は傷を調べにかゝつた。後頭部にもあつた。身体にへばりついたシャツをはぎとると、背部に最もひどい傷があつた、それは紛(まが)ふところのない刃物による刺傷だつた。新しい血がはぎとられたシャツの下から、瞬(またゝ)く間にふき出し、滴(したゝ)り落ちた。
「おつ! こりあいかん」
 房一は急いで膿盆をひきよせた。
「ひどい傷だねえ!」
 思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭に閃(ひらめ)いた。
 房一のまはりには三人の男が立ちかこんで、黙つて治療の様子を見まもつてゐた。背中をむき出しにして横向きに寝た男は、傷を洗はれるときに呻(うめ)いた。血の気の引いたその顔にはどす黒い蒼白さが現れた。
「痛むか?」
 男は眼を閉ぢたまゝだつた。
 傷は三箇所を縫つた。
 顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。
 真黒い顔の男が傍によつて訊いた。
「どうだ。起きられるか」
 その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。
「どうも、済んまへんでした」
 半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
「――?」
 房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
「なあに、後から来るのんはほんの擦(かす)り傷みたいなもんやから、大事ありません。――時にせんせい、何んぼ差上げたらえゝでせう?」
 云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでゐた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。
「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
 男はうむを云はせなかつた。
「よし、それでは預つとかう」
 房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、
「たゞし、預かるだけだよ。この分が残つてゐる間はいくら後から来ても貰はんよ。いゝかね」
 男はじろじろと房一を見てゐた。
「それは、せんせいのお考へに任せますわ。――ですが、今日のことは、ほんの内輪の間違ひやさかい、そのことは含んどいてもらはんと困ります。よろしいな。――内輪のことや」
 男は語尾に力を入れて、房一の眼の中をのぞきこんだ。
 房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけてゐた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。
「よからう」
 男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持してゐた。
「よろしい。承知した」
 男は一歩下つた。
「大きに。ありがたうござんす。よろしう頼んます」
 さう云ふと、男は入口に待つてゐた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。

 房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めてゐた。
 それは六月も末のかつと輝いた午(ひる)近い一つ時だつた。いや、正午はもう廻つてゐるかもしれない。畑地には道路のすぐ傍にあまり大きくない柿の木がぽつんと一本だけ立つてゐた。その葉はまだ新芽の柔かさを保つてゐた。日にきらきらしてゐる。さうやつてひとりでに自分を磨いてゐるみたいだつた。誰も表の道路を通らなかつた。
 何となく身体が倦(だ)るかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中に蘇(よみがへ)り、一列になつて通つて行つた。
 房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残してゐた。
 が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでゐることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
「あれらしいのよ」
 さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つてゐた。
 房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつてゐるのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしてゐる、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つてゐた。が、今彼の感知してゐるものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしてゐるが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしてゐる、温い、柔い、――
 房一は椅子から立ち上つた。
 膿盆だの鋏、脱脂綿の袋などがまだ散らかつたまゝになつてゐるのを片づけはじめた。
 ふと気づくと、玄関に人が立つてゐた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
 が、それは徳次であつた。
 きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
「もう帰つたんかね」
「――?」
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」
「うん、もうさつき帰つたよ」
「さうか、惜しかつたな」
 徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはしてゐた。房一はちらりとその顔を見たが、黙つて片づけてゐた。
「なあ、先生」
「うん?」
「怪我人ができたのかね」
「さうだ。大したことはない」
「ふうむ」
 徳次はいつのまにか腕組みをしてゐた。あのあてずつぽうな、そゝつかしい、力(りき)んだ様子が現れてゐた。
 房一はそれに目をとめてゐたが、急に強い口調で、
「君に云つとくが、何んだぜ、小倉組の者なんかにかゝり合ひをつけちやいかんぜ」
 徳次は慌てた。
「何かね、わしがどうしたといふんかね」
「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」
「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」
「あいつらと来たら、すぐこれ! だからね」
 房一は刃物で突く恰好をしてみせた。
 徳次は一種くさめをする前のやうな、煙(けむ)たげな表情になりながらわき見をしたり、房一を眺めたり、どぎまぎして答へた。
「いや、――わしはそんなこたあ嫌ひだ」

     四

 八月も末だつた。十日あまり思ひがけない涼しさがつゞいたので、このまゝ九月に入るのかと思はれたが、暑さは又ぶり返して、がまんがならないほどだつた。
 大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。
 入るなり、
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
 と、大声で訊いた。
 出て来たのは紅い手をした看護婦だつた。台所の方へ行つて何やらまごまごし、しばらく立つてから、
「はい、あの、切れて居りますが」
 と、おづおづ答へた。
「なに、切れてるつて?」
 見る見る癇癪(かんしやく)を起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。
 彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはゐないのである。
「あゝ、さうだつた。なあんだ!」
 さう云ひたげに、練吉は近眼鏡の奥で切れの長い目をぱちぱちさせ、ちよつとあたりを見まはした。一種気楽げな表情がたちまちその顔に浮かんだ。
 それは何となく不思議なことだつた。家にゐたところで別に賑かに喋(しやべ)り立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしてゐる茂子が、今この家にゐないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そこらにある家具までが何となく気楽さうに見えるとは!
 それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついてゐたのである。もう慣れつこになつてゐる。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
「坊は?」
 と訊くと、遊び友達と河へ行つたといふ返事であつた。
 母家の方には父親の正文がゐるのだらうが、ひる寝でもしてゐるのか物音がなかつた。練吉は井戸端へ出て身体を拭くと、居間になつてゐる診察所の二階へ上つて来た。その途中で、看護婦に自転車の鞄を外して、中にある処方の薬をこしらへて置けと云ひつけた。そして、さつき配達されたばかりの前日の新聞をつかむと、腹ばひになつて読みはじめた。
 看護婦がそつと上つて来た。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
「笹井?――御隠居さんが云つたのかい」
 それは正文にかゝりつけの患家だつた。
「はい、若先生に代りに行つてもらへとおつしやいました」
 練吉は永い間黙つてゐた。それから、いかにもいやいやな調子で、
「うん、行くよ。――だが、夕方でいゝだらう」
 云ふなり、ごろりと仰向けにひつくり返へると、新聞を持ち上げ、眼をぱちぱちさせ、やがてうとうとしはじめた。すると、面長な、普通よりもよほど大きい練吉の寝顔には、年に似合はない駄々児のやうな表情が浮んだ。

 その塗りの色の落ちついた外まはりの築地塀、よく拭きこまれた廊下、塵一つ落ちてゐない部屋々々、渋い雅致のある床の置物だの掛軸、これらすべての上に現れてゐるどこか神経質でさへあるよい趣味と堅固さ――さういふ外見にかかはらず、大石医院では年来をかしなごたごたが繰り返されてゐた。
 結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返してゐる茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出てゐるので、練吉の方は吾不関焉(われくわんせずえん)といつた風があることだつた。
 たしかに、「家」に関するかぎり、正文老夫婦が口を利くべきだつた。おかげで、練吉はかういふことにつきもののいざこざの矢面に立たなくてもいゝわけであつた。それから、どうなつたにしても練吉自身の責任は免れるといふものだつた。――「まさに、おれはこの年になつても子供だ。子供は親の云ふことを聞くものだ」と、練吉はいくらか小狡(こず)るく又いくらか皮肉げに傍観してゐた。
 ――「それに、おれは今まで散々したい放題のことはして来た。そろそろ、親の云ふことは聞いてもいゝ頃だ」
 その住居の端々(はしばし)にまで行きわたつてゐる潔癖さは、同時に大石正文夫妻の年来の好み、その生活の信条といつた風なものをも漠然と現はしてゐた。
 節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和(おとな)しい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落(かけおち)した。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせゐもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。
 練吉は卒業するとすぐ医専附属の病院に勤務した。今度は正文の指金で、釣合のとれた家から正式に嫁を迎へてやつた。男の子が生れたし、これで落ちつくかと思はれた。が、その三年間にも練吉の女狂ひはやまなかつた。おしまひには遊び人と内縁関係にある、子供まである酒場の女にひつかゝつた。しかも、その女を得たいために、その女と前夫とを別れさすための手切金まで出すといふ始末だつた。その間のごたごたでごく普通のお嬢さん育ちだつた嫁はたまりかねて出て行つた。その後で女とも別れた。出て行つた嫁の実家との交渉が永びいた。すると、その最中に又もや隣家の寡婦と関係ができたのが、先方に知れて、たうとう破談になつた。こんな風に別れる度に、手切金だの慰藉料だのいふ名目で、結局渋(しぶ)りながら正文の手もとから金が出た。
 正文はもう練吉に大した望みはつないでゐなかつた。ただ一人前の医者にさへなつてくれたらそれでいゝと思つてゐるらしかつた。それでも、目にあまるので何かと云ふと廃嫡といふ言葉を口にするのだつたが、効き目はなかつたやうである。そして、あんなに厳格だつた正文がこんなに度重る息子の不始末に、一々尻ぬぐひをしてやるのもふしぎであつた。
 だが、さう云へば、一歩(いちぶ)非の打ちやうのない正文に練吉のやうな息子ができたこともふしぎにちがひない。事実、当人の練吉さへ、自嘲めいて時々さう口にするのであつた。
 ――「おれみたいな息子ができるとは、全くどうかと思ふよ」
 だが、練吉のひきつゞく不身持にはたつた一つの取柄があつた。それは隠し立てのないことだつた。どんな場合でもおほつぴらだ。そして、彼は云ふのだつた。――「おれは初恋の女がどうしても忘れられないんだ。親父やおふくろは、年の若い者の浮気位に考へてろくに相手にもしなかつたんだが、あの時頭ごなしに叱りつけないでいゝやうに舵をとつてくれたら、おれもこんな風にだらしなくはならなかつたんだ。あの女が忘れられないために、かうして次々とふしだらを重ねるんだよ。おれは子供の時から何でもかんでも、あれしてはいかん、これしてはいかんと圧へつけられて、まるで息がつけなかつた。それあ親父やおふくろは立派なきちんとした人達なんだ。それはそれでいゝが、僕は性質がちがふんだ。だらしないけれども、僕は僕なりに向きもあるし、考へもあるんだ。それをやかましく、やかましく押へつけられて、ぎうぎうにされて、おれは全くどうしていゝか判らなかつたよ。口に云へないほど辛かつたよ。そして、こんな風に変な人間ができたんだ。今さら、それを怨んだりはしない。だけど、おれは自分が思つた通りのことをどうしてもするんだ。これが真実だと思つたことは誰が何と云つたつて聞かないんだ。それが駄目なら死んだ方がいゝですよ。あゝ死にますとも。僕は何度もその決心をして来たんだ。たゞこの上迷惑をかけて、親父の名に泥を塗るやうなことになると困るからしないだけだ。いざとなつたらいつでもやつてみせますよ」
 この云ひ分はいつでも何かあるごとに、練吉の口に上つた。正文の前でも云つた。何年かの間繰り返された練吉の云ひ分だづた。
 それはまさに、多くの矛盾、手前勝手を含んでゐたにかかはらず、たつた一つの調子は常に変ることなく、何となく相手の耳に沁みこむ響を持つてゐた。それは、両親に絶えず圧迫され、理想化され、重荷を負はされて来た弱い子供の魂だつた。事実、彼は子供の頃から機械だの細工物だのいふ方面に特色のある才能を現してゐた。さういふ物をほしがつた。写真機、蓄音機、機関車の模型、それらをせがみ、片つぱしからこはし、次々と倦きて行つた。その倦きつぽさが正文を不安がらせた。殊に、そんな高価な玩具だの遊び道具は正文にとつて一種の贅沢物だつた。或る時、正文は思ひ切つて、それらの物を練吉から取上げた。造る物を見つけるとこはしてしまつた。抑圧した方がいゝと考へたものか、又欲しがる通りに与へて果していゝ結果になつたかどうかわからないが、いづれにしてもこの事は深く練吉の子供心を悲しませた。
 今や、それらのことは遠くなつてしまひ、他愛のない子供の日の思ひ出でしかなかつた。練吉は両親の希望通り医者になつてゐた。しかも、事あるたびに、この幼時に押へつけられた日の悲しみが突然、練吉の中に溢れ、それは永い間に積つた憤りのごとく、彼の運命の唯一の手違ひだつたごとく、彼の不身持の云ひわけにもなり、又正文への訴へといふ一種矛盾した形となつて現れるのだつた。
 一方、正文はこの大人と子供と混(ま)ざり合つたやうな、身体だけは大振りな、女にかけては強(したゝ)かな息子を前にして途方に暮れた。彼はあれほど自分の思ひ通りに仕立てようとしたにかゝはらず、思ひもよらぬ息子として現れた練吉に対し、今遅蒔(おそまき)ながらその心底に立つて理解してやらうと試みてゐた。だが、何といふ支離支滅な、性懲(しようこ)りもないふしだらだつたらう、どういふ風に彼の云ひ分に耳を傾け、どんな風に彼を認めてやればいゝのだらう――そこには何一つ彼の型にはまつた見方にあてはまるものはなかつた。ぐらぐらした、手に負へない、いたづらに父親である彼の胸を暗くし、息をつかせない思ひをさせる、愚かな、口の達者な、だが何となく見捨て切れないもののある、それは彼自身の息子にちがひないが、あれほど入念に手塩にかけたつもりでゐながら、彼の手などは一つと云へども加つてはゐないといふ気のする、得体のしれないものだつた。
 これが若し他人だつたら、或ひはかけがへのない一人息子でなかつたら、正文もいさぎよく結着をつけてしまつたらう。「道楽息子」――その一言で済むわけだつた。
 だが、道楽息子にはちがひなかつたが、それだけでは済まないものがあつた。正文はそのはつきりと理解できないこみ入つた或る物が、単にあらゆるものを切りすててもなほ残る、あの単純な愛情だといふことには気がつかなかつたが、漠然とそれに惹かれた。
 正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石(さすが)に親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和(おとな)しく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へ赴(おもむ)きもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連(ゐつゞけ)するのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでゐたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。
 今や事情は一変してしまつた。かつて御(ぎよ)し易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつてゐる正文は殆ど息子の意のまゝになつてゐるのだつた。
 しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられてゐるなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許(こゝろもと)なかつた。だが、手を焼いてゐる。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。
 練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染(なじ)まなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめてゐた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめてゐた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられてゐた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
 練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしてゐた。そこと正文夫婦の住む母家(おもや)との間には一見して判る気風の相違が現れてゐた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられてゐた。
「ふうん、それもよからう」
 練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つてゐた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認してゐたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れてゐた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意してゐた。
 だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げてゐた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしてゐた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情も宛(あたか)もとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。

「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
 練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでゐた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老(とし)よりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
「ふむ、ふむ」
 練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いてゐた。
 房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
「いや、危険はまづない見込だ。だが、何と云つたらいゝか――」
 その時、突然練吉は、房一がさう云ひかけたまゝ当惑した表情になつたのを見た。
「なにしろ、迷ふんだな」
 房一はいかにもそれがやり切れない、と云つた風に吐き出すやうに云つた。つゞけて、
「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」
 実際、練吉の滑つこい気持よくふくらんだ頬には、その時ちらりとした微笑の影がさしてゐた。
「いや、さういふことは人によつてはあるんだよ」
 と、練吉は急いで云つた。
「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」
「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
 練吉は立ち上つた。正文の代りに往診をたのまれてもあんなにいやいやだつたにもかゝはらず、今の彼はまるで打つて変つた気軽るさだつた。

     五

 風はすつかり途絶えてゐた。
 もう日盛りの時刻はとつくに過ぎてゐたとは云へ、半ば傾いてそのためによけい濃くなつた日ざしは河原町の上に、それに沿つてゆるく曲つた川、周囲の山地の上に、こゝぞといふ風に照りつけてゐた。
 そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめてゐるやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしてゐた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来てゐる九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
 練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせてゐた。
「ドイツの潜航艇が又イギリスの商船をやつつけたさうですね。――なにしろ海の底をもぐつてゐて、ぽかつと出てくるんだからねえ、やられた方ぢやさぞおつたまげるだらうなあ」
 練吉はさつきから一人で喋つてゐた。
 ドイツ潜航艇の英商船撃沈はその年の一月頃からはじまつてゐた。日本も交戦国の中に入つてゐたにちがひないが、商船の被害も大したことはなく、日本の艦隊は太平洋方面に出動してゐるらしかつたが、南洋占拠をのぞいては格別報道されることもなく、したがつて欧洲大戦による日に上昇する好景気の他には、戦争をしてゐる気分は殆どなかつた。
 とにかく、それは遠い向ふで起つてゐることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒(あ)ばれまはつてゐるんだつてね。それがちつとも捉(つか)まらないと云ふから面白いねえ」
「うむ、うむ」
「それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君」
 練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
「――さうだな」
 房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられてゐた。

 老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めてゐる農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしてゐたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。
 しかし、さういふ身体の忙しさより何よりこたへたものは、房一にとつては肉親の大病を診察するといふはじめての経験だつた。
 彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つてゐた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつてゐることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察してゐる間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしてゐる道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つてゐた。
 だが、房一はそれを感ずれば感ずるほど、何かしら云ひがたい不安を覚えた。それは、病症の不明な患者に対するときに間々あるやうな技術的な不安ともちがつてゐた。一種肉体的な恐怖、とでも云ふやうなものだつた。
 父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつてゐる、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めてゐるのを感ずる。はだけた胸に生えてゐる一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥してゐるために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色の痣(あざ)のやうにぽつりとひろがつてゐる乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れてゐる「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れてゐたもの、隠れてゐたもの、眠つてゐたもの、この露(あら)はになつた肉体と房一との間に結ばれてゐるあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だか後(うしろ)めたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。
 彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。
 盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでゐた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはりだつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意してゐる様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではゐないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはゐないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。
 房一は慌てて、診察にかゝつた。その後で彼は云つた。
「どうもおれは、身近かな者だと平気で診られないんだね」
 済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべてゐた。それは何だか、嫌な仕事をさせられた子供のよくやるやうな表情だつた。突然、盛子は了解した。そして、笑ひ出した。――このいかつい、頑丈な、むくむくした房一の中には、こんなに気の弱い、やさしい、何だか可愛げなものがあるのだつた。それは全く、彼には不似合なものだつた。それだけに、可笑(をか)しみのある、又親しい――。
 だが、盛子の場合とちがつて、道平のそれはもつと重かつた、そして、もつと直接だつた。これが普通の患者に対するときだと、たゞ聴診器を持つて坐つただけでよかつた。何も考へないで、感じないで済んだ。ところが、道平を診るとなると、この医者らしさがどつかへふつ飛んでしまふのであつた。判断ができないわけではない、だが、判断以上の何かしら得体の知れないものが彼の自信を失はせるのだつた。できることなら、医者としてではなく、単に息子として父親の傍に坐つてゐたかつた。医者の仕事は誰か他の人に任せてしまひたかつた。
 房一はすぐと、大石練吉のことを思ひ浮かべた。大事をとるといふ名目で、彼の対診を求めることにしたのである。

「え、御老人、どうしました? 苦しいですか」
 さう声をかけながら、練吉は近眼鏡の下から切れ目をぱちぱちさせ、気安げに、眠つてゐる道平の顔の上にのぞいた。
 病人は眼を開けて、しばらくこの息子とはちがふ医者を眺めた。軽い不審と失望の色が浮かんだやうに見えたが、すぐに閉ぢて、かすかにうなづいた。
「うむ、判る?――ね?」
 と、練吉は房一の方をふりむいた。
 それから上着を脱ぐと、ワイシャツの袖をまくり上げて、診察にかゝつた。無造作にひよいと病人の瞼をつまみ上げ、めくつて、眼の色を調べた。半裸体のむき出しになつた腕をつかんで静かに屈伸させた。顔面の皮膚をひつ張る、足を立てさせる、今度は足の裏を見る、――それはまさに手慣れた、素速い、注意深い動作だつた。まさしく、医者といふものだつた。
 恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
 練吉は時々、「うむ、うむ」と呟き、房一の方をふりかへつては「ね?」と、同意を求めるやうに云つてゐた。
 一わたり済むと、練吉は最後にもう一度注意深く病人の顔をぢつと眺め、
「すみましたよ。さあ。何でもありませんなあ。ぢき起きられますよ。ごく軽いんですからね」
 と、大声で云ひ聞かせた。
 間もなく二人は来た時と同じに、つれ立つて、いくらか日蔭のできた路を、どういふものかどちらも自転車に乗らうとはしないで、押しながら歩いてゐた。
「どうも御苦労さま、暑いところを」
 と、房一はほつとした面持になつて云つた。
「いや、なに」
 練吉は、癖だと見えて、折角きちんとかぶつて出たカンカン帽をいきなり指で突き上げて阿弥陀(あみだ)にすると、いかにもだらりとした様子で歩き出した。それは、さつき別人の観があつた、てきぱきした、俊敏な医者らしい練吉から、もとの彼に逆もどりした風であつた。
 しばらく黙つてゐた後で、房一は
「それで、――どうかね?」
 と訊いた。
「それで――? あゝ」
 練吉は眠気から覚めたやうに、
「何でもないぢやないかね、君から聞いたとほりだ。心配することはないと思ふな」
「血圧は少し下つたしね」
「さうだ」
「脚気の方は?」
「うん、あの程度だと別に影響はないんだらう」
「ふむ」
 房一はまだ考へ深さうにしてゐた。
 練吉はちらりと眺めた。そして、彼のところへ対診を頼みに来た時にも気づいた、あの当惑したやうな小心な表情が今も房一の上に現はれるのを認めた。それはたしかに観物だつた。この男に、こんな気の小さいところがあらうとは! そして、こんなに丸出しにして見せるとは!
 ――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。
 彼は、医師検定試験といふものが実際は医専を出ることなんかよりはるかにむつかしいものだと知つてはゐたが、しかし、正規な教室で得るところのものは難易にかゝはらない何か別の正統さといつたやうなもの、より科学的な、――つまり、医者らしさだといふことを、心のどこかで信じてゐた。それが、房一には欠けてゐる、といふ風に思はれた。
 しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしてゐたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つてゐた。
 彼は近来今日ほど熱心に注意深く患者を診たことはなかつた。今までは単に顔見知りだといふにすぎなかつた高間道平といふ一介の老人、しなびた、日焼けのした肉体を、たゞそれだけでない、ふしぎと一脈のつながりあるものとして見た。それは又、この紅黒い、むくむくした房一にもつながつてゐるものだつた。そのどこから来たとも知れない、ぐつと身体を近づけたやうな親しさを、今、練吉は隣りを歩いてゐる房一に感じてゐた。
 二人はなほ専門的なことを二三話し合つた。それから、どちらからともなく自転車に乗つた。ペタルに足をかけるときに、突然、練吉は心に浮かんだことを押へかねて、叫んだ。
「あれだね、君は見かけによらない――親思ひなんだね!」

     六

 途中で練吉と別れた房一は、道平の病気のために手の廻りかねてゐた患家先きへ二三軒立ち寄つてゐるうちに、案外時間を喰つて、帰途についた時はもう暮れ方であつた。
 最後に行つた家は河上の小一里るある辺で、そこいらは人家は数へるほどしかなく、河つ縁(ぷち)に沿つた段々畑の中を幅の広い国道だけがほの白く浮いて、次第下りに河原町の方へつゞいてゐた。軽くペタルを踏むだけで、彼の乗つた自転車は半ばひとりでに快い同じ速度で走つた。
 暑さはもうなかつたが、生温いぬくもりが時々顔を打つた。房一は空腹を覚えた。それにぼんやりとした疲労があつた。道平が卒倒してからは、まだ一週間になるかならぬかであつた。だのに、もう半年も前から、こんな気忙(きぜは)しい状態がつゞいてゐるやうに思はれた。
 一方には盛子の妊娠があつた。それは気を痛めるやうなものではなかつたが、やはり房一の存在の奥深く喰ひこみ、そこに微妙な、ふしぎな目に見えない点を植ゑつけた。道平の病気は彼を動揺させた。この二つは房一にとつては切つても切れないものだつた。そして、そこには或る一つの脈絡と対比が、生れるものと去つてゆくものとが、今や動かしがたい明瞭な兆候となつて現れてゐた。それは今までたゞ一方的に無我夢中だつた房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでゐる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでゐるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつてゐるのを感じた。

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