医師高間房一氏
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著者名:田畑修一郎 

「いや、そのうち又ゆつくり話さう」
 さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えてゐた草を片手で□(むし)りとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでゐる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
 房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにゐることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。
「先生!」
 それは初めて口に出す言葉だつた。
 房一はふりかへつた。
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
 房一は目顔で笑ひながら何度もうなづいた。やつと安心したやうに、徳次はしばらく見送つてゐた後で、大股に自分の船の所へもどつて行つた。

     三

 川沿ひから分れた路は段々になつた切株だらけの乾田に沿つて、次第上りに、両側はゆるやかな山合ひに切れこんでゐた。
 房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つてゐた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明(あかる)く、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
「ジョン、そら! ウシ!」
 房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。
「ウシ! ウシ!」
 又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
 犬は横へとびこんだ。だが、匂も嗅がず、草の中から頭を出して、房一の方をしきりと眺めながら同じ方向に歩いてゐる。
「はゝ、知つてゐるな。よし、よし何もゐやしない」
 だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら行く。
「ふむ。悧巧者だな、お前は」
 房一は満足げに、かへつて来た犬の頭をかるくたゝいた。
 このポインタアの雑種は、房一の往診にはどこへでもついて来た。いゝ路づれだつた。

「なあ、ジョン!」
 と、房一はひとり言を云つた。
 彼はもう少しで最も善い友人に向ふやうに考へごとを打ち明けるところだつた。
「おれはまだ一本立ちの医者といふわけにはいかない」
 さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。
「さうだよ、ジョン」
 それから、房一は歩きながら漠然とした沈思に落ちた。
 ――彼は医者である。免状もある。開業もした。患者もどうにかつきはじめた。職業的には立派に医者としての条件を具へつゝある。だが、河原町ではそんなことは通用しないのだ。何か別のものが、職業上の条件以上のものがここでは必要だつた。
 患者の脈を見たり、舌を出させたり、背部を指で押し、打診し、薬を与へたりすること、そんなことは誰にだつて出来る。それからあの、開業医にはぜひとも必要だと云はれてゐる社交的な才能、お世辞を云つたり、砕けた気の置けない態度で抜かりなく会ふ人ごとの心をつかむ――「ふん」と、房一は独言のときに自然と目の前につくり上げるもう一人の自分に向つて冷笑してみせた。
「そんなこと位は造作もない。おれにとつては小指の先の芸当だ」
 もつと別なものが、医者以上の或る者が必要だつた。房一は全身でそれを感じてゐた。たとへ彼が自分を高く持してゐたところで、河原町の人は彼を高間道平の息子としてより以上にはあまり見てゐないことは、房一にはよく判つてゐた。彼には免状もあるし、開業するのを誰もとめ立てすることはできなかつた。それだけの話だつた。それは町の人達がこれまで抱いて来た「お医者」の観念とはまるきり別だつた。だから、彼等はいまだに房一が往診鞄などを提げて歩いてゐるのにぶつかると、何となく半信半疑な面持を、時には曖昧なうすら笑ひを浮べたりする。
 今それを思ひ浮べたとき、房一はふいに一種の怒気を感じた。それは疾(や)ましさのないはげしい敵意、何かしらぐつと相手を地面まで押しつぶしてしまひたいほどの、腹の底からこみ上げて来る得体のしれない力だつた。
 犬が何を見つけたのか、その時さつと身を躍らして傍の草地にとびこんだ。二三度そこらをぐるぐると廻ると、鼻の先に真新しい土をくつつけてまた房一の傍にもどつて来た。
 前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭(せば)まつて来た山合ひにぐつととつついてゐるのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでゐた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気(うんき)のある靄(もや)に包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。

 高間医院では房一の帰りが遅いので盛子が一人で気を揉んでゐた。ほかでもない、房一はその日の夕方から鍵屋の法要(ほふえう)に案内を受けてゐたのである。
 これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつてゐたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいてゐる家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味してゐた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いてゐた。
 盛子は房一からさういふことを聞かされてゐたので、往診に出掛ける時には彼女の方から念を押したほどだつた。房一は四時までには帰ると答へた。だが、もう五時過ぎだつた。そして、日が落ちてからの空気は、まるでわざと盛子の気を落ちつかせまいとするかのやうにどんどん暗くなり、冷えて行つた。
 広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。
 房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つてゐた。そして葉の落ちた無花果(いちじく)の木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つてゐる中空に張つてゐた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつてゐる台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土(たたき)の上に一種きは立つた明さで流れてゐた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場の煤(すゝ)けた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいてゐた。
 ふいに冷気が盛子の咽喉もとから胸の中へしみこんだ。その時、夢の中でよくつかめないながらも何か急に閃(ひらめ)き過ぎる考へのやうに、これが結婚といふものか、これが仕合せといふものか、といふ思ひがどこからともなくやつて来た。しかもそれは考へた瞬間にさつと身をひるがへして去り、だが印象だけは強くのこる、あの微妙な閃きだつた。
 今まで曾(か)つてそんなことを考へたことはなかつた。いや、今の瞬間だつて考へたとは云へまい。たゞ、それは閃いて、捉へにくい影を落して通り去つただけだつた。――盛子は退職官吏の切りつめた地味な家庭で、ありきたりの厳しい、だが単純な躾(しつけ)を受けて従順に育つた。娘の頃に、一体どんな形の結婚が自分を待つてゐるのか考へないではなかつたが、それはいつも漠然としたとりとめもないもので、又それ以上に空想するほどの材料は何一つなかつたと云つてもよい。したがつて彼女の頭に浮ぶ結婚生活はをかしい位に家事向きのことで一杯になつてゐた。お裁縫だの、洗ひ張りだの、糠味噌の塩加減、野菜の煮方、その他細(こ)ま細(ご)ましたことが彼女の空想を刺戟した。
 そして、事実その通りだつた。盛子にはさういふ才能があつたのだ。房一と結婚して今の家に世帯を持つや否や、彼女の綺麗好きと器用さはすぐさま形を現した。入つた許りの時には黴(かび)臭く古ぼけてゐたこのだゝつ広い家が、ひと月かふた月たつうちに廊下も柱も戸棚もすべて拭きこまれるべき所はまるで見ちがへるほどぴかぴかして来た。はじめは家具が少いためにがらんとして見えた部屋々々もどことなくまとまりを感じさせるやうになつた。今でも、盛子は朝から晩まで何かしら細ま細ました用事を見つけ出しては働いてゐた。まるで彼女の行つた所、指で触れた所から片づけたり繕(つくろ)つたりする仕事がぴよこりぴよこり起き上つて来るやうに見えた。押入れを開ける、すると襖紙の小さな破れが目についた。そいつをすぐに切り貼りする。台所の土間に降りると、床下から薬品を詰めて来た空箱がいくつも縄切れをはみ出させたまゝ押しこんであつたのに気づく。風呂の焚口(たきぐち)の所に行くと、造作に使つた木材の余りがそのまゝになつてゐるのを思ひ出して焚きつけの分と燃料用の太いのとを撰り分けて置くと云つた案配である。
 こんな風でありながら、盛子は小ざつぱりと身ぎれいで、いつの間にそんな雑用を片づけるのかと思はれるほどだつた。いくらか背高ではあつたが、その身体つきにはふしぎな柔味が感じられた。それは娘の頃のまとまりのない柔さではなく、成熟した靱(しな)やかな柔味だつた。彼女自身はさういふ結婚後の肉体上の変化に気づかなかつたが、それは無意識のうちに感じてゐる房一との結婚生活の幸福さを意味するものだつた。

 足が冷えて来たので、風呂の火でも見ようと立ち上つた時だつた、裏口の戸がゆつくりと外から開いた。
「あ、お帰んなさい」
 と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つてゐるのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
「先生お帰りになりましたかね」
 見たことのない顔だつた。患者なら玄関から来る筈だ。
「えゝ、まだですが――何か御用?」
 張りのある、いくらか甘えやかな、跳ね上るやうな盛子の声を、その男はいかにも耳珍しげに一つ一つとつくりと聴いてゐるやうな様子でゐたが、そして台所からさす電燈の明みの中に立つた盛子をまじまじと眺めながら、その遠慮深い調子の中に急に溢れるやうな親しみを浮べた。それは何だかこの男が幼い時分の盛子をよく世話してくれて、何十年かたち、今ふたゝび盛子を前にして昔を思ひ出した、とでも云つた様子だつた。
「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」
 今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいてゐた。
 若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つてゐるも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。
 が、一方盛子もまさに自分の幼時を知つてゐると云ふ見知らぬ人から声をかけられた時のやうに、目をぱちくりさせ、好意のまじつた当惑と云つたものを感じてゐた。
「わたしやア――」
 と、徳次は叮寧にならうとして一種奇妙な言葉づかひになりながら、
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
 徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。
「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」
「さうなんですよ。まあだ帰らないの」
 盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つてゐるやうな調子を含んでゐた。
「もうこんなに暗くなつてゐるのにね、何してるんでせう」
 と、彼女は半ば問ふやうに、まじまじと徳次の顔を眺めた。彼はいつの間にか戸口から少し家の中へ入りこんでゐた。だが、その奇妙な遠慮深さのために片手で入口の柱をつかまへたまゝ、宛(あたか)もまだ家の中へはすつかり入り切つてはゐませんや、と云つてゐるやうな恰好をしてゐた。その時盛子は男が今一方の手で平つたい笊を抱へてゐるのに気づいた。その中には笹の葉のやうなものがのせられ、下では魚の腹らしいものが光つて見えた。
 間もなく房一が帰つて来たらしい。
「おい」と盛子を呼ぶ声がした。
「おい、早く早く」
「早く早くつたつて、もうお支度はちやんとできてますわ。あなたが遅くかへつて来といて――」
「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」
 実際盛子をせき立てることは何もなかつた。房一は上着だのズボンだのを脱ぎながら一人で慌ててゐた。何かしら騒ぎだつた。ネクタイがうまくとけなかつた。カラアが外れにくかつた。靴下から足が抜けなかつた。これらの物を畳の上にまき散らかせ、足にひつかけしながら、房一はそこらを高麗鼠(こまねずみ)のやうにぐるぐる舞ひをした。それは図体が大きく不器用なだけに恐しく滑稽だつた。盛子は笑ひながら房一について歩き、その腕からワイシャツを巧みにはぎとり、散らかつた物を手早く始末した。
「袴はそこですよ。足袋を先きにはくのよ」
「うん、うん。あ、さうだ、顔を一寸洗はなくちや」
 上下のシャツだけといふ奇妙な恰好で房一が台所に降りかけた時、はじめて彼はそこに誰か立つてゐるのに気づいた。
 黒い影はぴよこりとお辞儀をした。それから台所から射す光りの中に全身を現すと、それを眩しがつてゐるとも照れたとも見える表情を浮べながら近づいた。
「やあ、君か」
 徳次は口のあたりをもごもごさせた。
「これから又お出掛けかね」
「さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れてゐたが――まあ、上りたまへ」
 徳次は房一が顔を洗ふ間傍に立つて眺めてゐた。それからふいに訊いた。
「あんたは鮒をたべなさるかね」
「鮒?――それあ喰べるとも」
 徳次は笊を差出した。
「あれから――あんたに鮒をとつて上げようと思つて、今さつきまで淵に附いとつたんだが、たつたこれつぽちきり獲れなくてね。上げるといふほどの物ぢやないけんど――」
 それは一尺近い美事な鮒だつた。だが、三匹きりなかつた。いかにも少いと徳次は路々思つて来た。さう思ふと、この鮒が本当よりもずつとちつぽけにさへ見えて来たのである。
「ありがたう。――あ、大きいね」
 笹の葉の下から現れたのは頭から尾まで黒々と廻り、全体に円味がつき、所々の鱗が金色に光つてゐた。
「大きいやつだねえ」
 と、房一はもう一度感心した。
「大きいかね」
「大きいとも、こんなのを見たのは久し振りだ」
 徳次はやつと安心した。さう云はれてみると、なるほどちつとは大きいかなと思つた。持つて来た甲斐があるといふものだつた。

     四

「千光寺さんに使ひをやつたのかい。――誰もまだ行かないつて? ――何あんて間抜けだのう。庄どん、お前一つ行つて来とくれ。提灯(ちやうちん)を忘れるなよ。もう皆さんがお集りですからお迎へに上りました、つて云ふんだよ。うん、うん、さうよ。いつしよにお伴をしておいで」
 鍵屋の隠居神原直造は老来なほ矍鑠と云つた様子だつた。
 彼はもう三時間も前から紋附羽織に袴といふ恰好で、八畳と十畳とを合せた広さの上り店の間に控へてゐた。彼の坐つてゐる場所は大きな欅(けやき)の塗り柱の前で、そこには以前古風な帳場格子がどつしりと据ゑられ、当主の文太郎に家督を譲るまでの何十年間をこゝに坐り通し、帳つけをし、入つて来る人達の挨拶を受けたものだつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられてゐたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それは正(まさ)しく一種の死だつた。
 が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、眩(まぶし)いほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気で温(ぬく)もつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つてゐた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せてゐたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでゐた。それは恐らく提灯を蔵(しま)つてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つてゐた。ふだんは日中でもほの暗く、したがつて一様にうすい埃を被つて沈んでゐるこれらの物が、今やいつせいに生き返つたやうに見えた。
 そして、これと全く同じ活気が、あの燃え残りの蝋燭の発する佗びしい、だが、ゆらめくやうな活気が今夜の法事で主人役をつとめてゐる神原直造にもあつた。
 彼は年に似合はず厚く生えた白髪まじりの頭を短か目に刈り上げ、多少猫背になりながら袴の両脇から手を差しこみ、心持肱を張つて坐つてゐた。それは何々翁肖像といふ掛軸を思はせるやうな古風な律義さと端正さを現はしてゐた。
「さやうで御座りますか。お忙しいところを御苦労さまで」
 銹(さび)のある低い声で入つて来る客に叮重に挨拶しながら、その度に手を袴の下から出して奥の間へ誘つた。この「さやうで御座ります」といふのが直造の口癖だつた。しかも、その言葉を口にするごとに、彼の痩身なだが骨太な身体は慇懃(いんぎん)に前こゞみになつた。それはこの身動きと言葉とがぴつたりとくつつき、いやそれ以上に全く同一物と化したやうな趣があつた。
 徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つてゐた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せてゐなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実は巨(おほ)きな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木は薙(な)ぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然に確(し)つかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点(しみ)ができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしてゐる苔(こけ)のついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。
 家督を継いだ文太郎が間もなく酒造業をやめた時に、直造は少からず不満だつた。文太郎は種々の理由から説得した。が、最大の理由は法学士だつた文太郎が帳付よりも地方政治に興味を持つてゐたことにあるらしい。果して、文太郎の濫費のために一時は不動産の大半が銀行担保に入つたことがある。直造は不機嫌だつた。しかし、欧洲大戦が始つて以来の好景気が鍵屋の財政を持ち直しはじめてゐた。
 今その文太郎が県会の視察旅行に出てゐたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでゐなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。
「さあ、どうぞ。ずつとお通り下さい」
 あまり立てつゞけに挨拶したので、疲(くた)びれ、いくらか器械的にだが形だけは実直に頭を下げた直造は、稍かすんだ眼で今迎へたばかりの客を見た。
 それは直造が案内状を出す間際になつて心づき、入念に考へたあげくに呼ぶことにした高間房一だつた。
 読経(どきやう)はまだ始まらなかつた。
 三間つゞきの奥座敷では蝋燭だの燈芯の明りで照し出された仏壇を前に、来客達が思ひ思ひの所にかたまつて坐つてゐた。
「さうですよ、あんた。銅の値が上つたさうですね、昨日も九州の方から礦山師が赤山を見に来たんです。あの山ぢあね、随分家屋敷をなくした者があるんですがね」
 恐らくその一かたまりでは赤山廃坑の話がさつきから賑かだつたのだらう。さう勢ひこむやうな調子で喋つてゐたのは富田といふ仲買だつた。
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
 傍にゐた赭(あか)ら顔の老人が低い声で云つた。
「三人どころぢやない、五人も十人もある」
 富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。
「それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね」
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
 横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦(こばか)にするやうに閃いてゐた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つてゐたのだつた。
「いやネ、誰か赤山のことに精(くわ)しい者はゐないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」
「何だらう、山師を煽(おだ)てて又一儲けしようてんだらう」
 わきから又誰かが冷かした。
「とんでもない、わたしの持山ぢやあるまいし、こつちは間で口を利いても礦山のことは素人(しろうと)だし、向ふは専門家でさあね。そんな煽てにのるやうな連中ぢやないよ」
 富田の仲買は表向きの商売ではなかつた。彼には小造りではあつたが格子戸の入つたしもたや風な家もあるし、山林や田地も人並みには持つてゐた。だが、それも地主として納るほどではない。用があつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得てゐた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つてゐたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでゐたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふ類(たぐい)にいたるまで通暁してゐた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへてゐたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然と獲(か)ち得てゐた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れてゐた。
「何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな」
「さあね、そいつは今のところ何とも判らんでせうな。何しろこの前に手をつけたのは十年前だつたでせうかね、その時の礦石のかけらも残つちやゐませんよ」
「坑には入つてみたんかね。あすこはもう何年も入つた人がないちふことだが」
「入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ」
 その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
「や、皆さんどうも遅くなりまして――」
 この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
 坐りなり、あたりを見まはした。眉の強い、眼の切れ目な、短いつまみ立てたやうな鼻髭を生やした今泉の稍冷い顔つきは、それだけで云ふなら確かに整つた立派な顔だつた。苦味走(にがみばし)つて男らしかつた。たゞ何か大切なものが欠けてゐた。彼は身近かに、皆から稍(やゝ)はなれて手持無沙汰にぽつねんと坐つてゐる房一を見つけた。
「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
 房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
「はあ、はあ」
 急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
 向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もゐた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返してゐた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つてゐた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしてゐた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せてゐた。
 房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「や、先日はどうも――」
 練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせてゐた。突嗟(とつさ)に房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つてゐるのかを了解した。
「いや、どうも」
 房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでゐるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
 練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
 と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「相沢さんも見えないな」
「誰? 相沢の知吉さんかね」
 さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、
「あの人は来まいて」
「どうして? 血はつゞいてゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「へえ、どういふわけでせう」
 一瞬、まはりの者は皆黙つてゐた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めてゐた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
 声をひそめて、富田が訊いた。
「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」
「相手は誰です? こゝの御隠居ですかい」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
「だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう」
「居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね」
 その時、彼等は近くに坐つてゐる房一に気づいた。話に出てゐる鍵屋の分家とは、まさに房一の借りてゐる家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」
 富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
「あなたは御存知ないんですかね」
「どういふことです、わたしにはさつぱり――」
 房一はさつきから自然と聞いてはゐたが、事は初耳だつた。
「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」
 富田は庄谷の方に向きなほつた。
「さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね」
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」
「どうして又今まで黙つてゐたのかね」
「相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」
「それあ、しかし、何だな、知吉さんも今まで不服だつたのをこらへてゐたんだな、何分かの理窟はあるわけだね」
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つてゐたさうぢやありませんか」
「理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね」
「知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな」
「まあ、それあ――」
 その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつき剃(そ)つたばかりのやうな青いつるつるな頭をしてゐた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大な反(そ)つ歯(ぱ)がのぞいてゐた。
 読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。
 それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れてゐた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしてゐた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めてゐたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできてゐるのを発見し、しきりとそれを見つめてゐた。
 あの坊主は前からあんな頭をしてゐたのかしらん。――さう云へば、子供の時分いつしよに遊んでゐるとき見たやうに思つた。――練吉はそんなことを考へてゐた。
 今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つてゐる庄谷の背中を見つめてゐた。するとその肩に一本の糸屑がくつついてゐるのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。

 房一は庄谷の後で時々目を開けてゐたが、間もなくすつかりつむつてしまつた。ゆるく尻をひつぱる読経の声、時々ふいに高くなり、途切れ、又ゆるやかにつゞくその倦(だ)るい音は、それにつれて聞いてゐる者に次々ととりとめもない考へを追ひかけさせ、立ちどまらせ、又流れさせた。
 ――「やあ、おいでなさい。わたし相沢です」
 はじめて往診に行つたときの相沢の濁(だ)み声が耳に蘇(よみがへ)つて来た。それから、あの粗末な黒い上着と、カーキ色の目立つ乗馬ズボンと、又あの鼠を思はせるやうな黒味の拡がつた、ちつとも目瞬(またゝ)きをしないふしぎな眼玉とが、房一のつむつた瞼の中に現れて来た。
 房一はあれから相沢の息子を診(み)に五六度行つた。殆どその度ごとに会つてゐるので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つてゐるつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知してゐた。
 知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にゐた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質(むかしかたぎ)の一克(いつこく)な性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和(おとな)しさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺(てこ)でも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つてゐたが、あいはそこへ奔(はし)つた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へてゐたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしてゐた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へてゐたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つてゐたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌(い)み嫌つてゐた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。
 ――房一がさういふことを耳にしたのはごく最近である。しかし、いづれにしても房一には直接関係のないことだつた。

「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
 銹(さび)のある鍵屋の隠居の声が響いた。しかし誰もすぐに立たうとはしなかつた。身内の者が済んだ後でも順位は自(おのずか)らきまつてゐるのだつた。房一のうしろの方で誰か低い声で何か云つてゐた。見ると、そこには遅れてやつて来た老医師の大石正文がまはりの者からすゝめられてゆつくり立上るところだつた。猫背の痩せて尖つた肩つきは坐つた人達の間を分けて行く時、弱々しげではあつたが、舞台で出場(でば)を心得てゐる老優に見られるやうな落ちつきと確信があつた。次には堂本が立つた。それから大石練吉が眼鏡の下でふしぎな生真面目さを現しながら立上つた。

     五

「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」
 盛子はたつた今さつき一人きりの夜食をすませたところだつた。房一を送り出した後で、一人では別に支度もいらないし、あり合せの物で間に合はせた。餉台(ちやぶだい)の上に並べた食器類もほんの一二枚だつた。いつもは房一と二人なのだが、それは二人が一人になつたのではなく五六人が一人になつたやうな感じだつた。冷えたお惣菜を長火鉢で温めた。それは静かな家の中でたゞ一つの物音のやうにかたことと音を立てて煮えた。何となく、盛子は小さい娘時分のおまゝ事を思ひ出した。そして近来そんなことを一度もしたことはなかつたのだが、小娘のやうな気になつて、煮え上るのを待つ間横坐りに足を投げ出して煮える音を聞いてゐた。
 ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
 一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑(をか)しがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。
 そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。
「随分早いのね」
 さう云ひながら、盛子はゆつくりと喰べてゐた物がまだ口の中に残つてゐるような無邪気な顔をした。
「ふん」
 房一は怒つたやうな嘲(あざ)けるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついてゐた。
「どうしたんですの? 何かあつたんですか」
 盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつてゐるやうな無邪気さは消えてゐた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
「途中から帰つて来たんだよ」
 房一はむつつりとしたまゝ答へた。
「途中から――?」
 房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
 肉が部厚に盛り上つてゐるために自然と深くできた額の横皺、稍(やゝ)動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出してゐる円い確(し)つかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へてゐたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
 盛子は時々半ば無意識に呟いた。
「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」
 こんな風に「円い」――のだらうか。いや、それはどうでもよかつた。盛子はそこに房一を感じてゐた。それは房一の醜い他の部分を忘れさすに足るものだつた。
 が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。
 今、房一の顔に現れてゐるのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられてゐるのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしてゐる、それから来る圧迫感だつた。――

 鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めてゐた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見てゐるかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いてゐた。
 それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
 そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。
 若しさうだつたら、そのまゝおとなしく坐つてはゐられまい。それは、皆の前で公然と頭を押へられた所を自認するやうなものだ。前例にもなるだらう。一度きまつたとなつたら又打破るのは容易ではあるまい。それは、河原町で今後医者として立つて行けないことを意味する。頭を押へられたきり、ついには逃げ出すより他はないといふ破目に陥るだらう。彼は思つた。
「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」

 不幸なことに房一の予測はあたつた。いや、それ以下とも云へた。
 焼香が済むと別室へ案内された。だが、こゝでも各自に大体自分の坐らせられる席を心得てゐながら、すぐには通らうとしなかつた。で、神原直造が一々その人の前に行つてそれぞれの席へ順に案内した。正面の床柱の前には大石正文が猫背のまゝ顎を突き出した恰好で坐つた。その次は上町の醤油屋の主人だつた。正文と等位置の左手へかけては堂本が坐つて居り、大石練吉がその隣にゐた。二三人置いて庄谷の顔が見えた。その辺りが上座だつた。
 ざつと四十人近い客数であつた。その半ばあたりへ来ると、直造は一々前まで行くのを止めて、ふりかへつては「山下さん、お次へどうぞ」と云ふ風に名を呼びはじめた。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。
 膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべてゐた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つてゐるのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗(どんぐり)のやうに何かむくむくした男を見た。
 が、房一をよく知つてゐる者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻してゐるうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈(ゑしやく)しようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。
 何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついてゐた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつてゐた。
 間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃(いんぎん)な荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つてゐた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつてゐるが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞(ひだ)と同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音(こわね)の中にも響いた。
「お粗末ではござりまするが、どうぞごゆるりと」
 云ひ終ると、直造は叮重(ていちよう)に頭を下げた。
 来客の間にほつと寛(くつろ)いだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
「折角のところを、突然でまことに失礼でありますが」
 聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出てゐたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
 一座はしづまり返つてゐた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つてゐなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いてゐなければならぬとは!
 その直造の耳には、次のやうな言葉が響いて来た。
「本日は、私ごとき者までお招きに預りまして」
 房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
 言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、その挑(いど)むやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つてゐた。効果は覿面(てきめん)だつた。
「はア」
 と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つてゐた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはゐるが練(ね)れた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めてゐた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでゐるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつてゐた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。
「さやうでござりますか」
 直造は、然し、突嗟(とつさ)のうちに考へをまとめることができなかつた。彼はあの慇懃な荘重さをとりもどしてゐた。が、何となく悄(しを)れた所のある物腰で、房一の挨拶を受けたのだつた。

   第三章

     一

 日々は平凡に単調に過ぎて行つた。
 それは、開業当時のあの身体が自然と弾(はず)んで来るやうな、患者に向ふと必要以上に診察したり、相手が求める以上にくはしい説明を長々と熱心に云つて聞かせたり、忙しげに薬局と診察室の間を往来しながら待つてゐる人達に声をかけたり、さういふ房一の活気にみちた様子が見る人ごとに快い気持を惹き起させた、そんな張り切つた頃にくらべると、今はまるで時間が急にその歩みをとめて、のろのろと動いてゐるやうに感じられた。
 患者の多くは近在の農夫達であつた。それは大体に於いて、開業以前に予想してゐた通りだつた。鈍(の)ろい、ゆつくりした口調で声をかけながら、彼等はおづおづと高間医院の玄関を入つて来る。彼等は医者に診てもらふためにわざわざ河原町へ出て来るのではなかつた。農具とか種物とかを買ひに出て、ついでに立寄るのであつた。それで、彼等の病気はすでに治療の時期を失してゐるか、でなければ手のつけられない慢性のものが多かつた。
 さうかと思ふと、朝早くから農婦たちが背中に子供を負ぶつてやつて来る。それが唯一の目的のときには恐しく早朝に出かけて来るのであつた。さういふ場合にかぎつて、房一は彼女等の背中に、熱ばんだ小さな顔を上向きにして喘(あへ)ぐやうな呼吸をしてゐる幼児を見、その手遅れであることを認めるのであつた。
 高間医院の待合室で、彼等は馴れない薬の香を嗅ぎ、一様に重たい、沈んだ表情を浮かべて、或る者は黙つて放心したやうに戸外を眺め、或る者は低いゆつくりした声でぽつりぽつり話し合ふのであつた。汗ばんだ匂ひや土の香、洗ひざらしの紺の野良着、熱の気配――それらは或るたとへやうもない倦怠と肉体的な不快を呼び起させる何物かによつてみちみちてゐた。それは農夫達の生活の一部が方々からこの待合室に持ちこまれて、この一所に、陰鬱な空の気配や、石塊(いしくれ)の多い山合ひの畑での労苦や、長い畦(あぜ)の列や、それらのいつしよくたになつた重々しい雰囲気を再現してゐるやうに思はれた。
 だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診(み)てもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾(か)しげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びてゐた)彼の持牛についた虱(しらみ)をとる薬はやはり人間にも同じ効(き)き目(め)があるのかね、と訊いたりするのであつた。
 かういふ場合によく現れてゐるやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じてゐるらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、この懶(ものう)げな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけてゐるもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。

 川では鮎漁がはじまつてゐた。
 河原町の人達は皆自家の仕事をはふり出して川に出てゐた。彼等の悉くがこの時期には漁師になつたかのやうであつた。まるで諜(しめ)し合せたやうに同じ麦藁の大きな帽子をかぶつて、白いシャツを着こみ、魚籠(びく)と追鮎箱とをガタつかせながら、めいめいの家の裏口から河原に現れるのだつた。
 何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしてゐる彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つてゐるのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つてゐる爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫(な)で上げられてでもゐるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つてゐる彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでゐるのを感じてゐるやうに見えた。
 誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉(とせふ)しながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌(はつらつ)とした又しなやかな腹の捻(ひね)りやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きく撓(しな)つたまゝで力強く顫へてゐる竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべてゐたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちてゐる。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつてゐるのに、後者は明かにそれと知つてゐて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々(いまいま)しい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いてゐる。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしてゐる。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配してゐるのを感ずる。
 房一も彼等の仲間であつた。だが、彼はその不器用な竿の操り方と、首の短い、肩幅のむやみと広い、上半身にくらべて不釣合に短い両脚や、ぐつと突き出してゐる下腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様(ぶざま)な身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでゐた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細(しさい)らしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。

 房一には連れが二人あつた。
 一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳(くろめ)がちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍(やや)肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つてゐた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳(かん)の強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感(をかん)を覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つてゐた。
「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」
 小谷はしばらく放つてゐた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
 朝早くから徳次が探し歩いてくれたので、房一には追鮎の素晴しいのが手に入つた。浅瀬につけた追鮎箱の中で、肥つた生きのいゝそいつは青黒い美しい背をたえまなく左右に動かしながら、きれいな水に洗はれて、たとへやうもなく靱(しな)やかに強く見えた。鼻先に短い針を通して糸につけて放すと、そいつはいきなり激しい力をもつて水の深みに走つて行つた。
「どうもこれぢや――」
 と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つてゐた方がいいかもしれませんね、これは」
 小谷は房一に話しかけた。
「うむ、――え?」
 房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはゐなかつた。
 小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
「どうですか、掛りさうかね」
「いや、まだ」
「あなたの追鮎は元気らしいなあ」
「さう。――いゝやうだ」
 房一は前の方を向いたまゝだつた。
「どうも、やつぱりねえ。調子が悪い」
 さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。
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