踊る地平線
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著者名:谷譲次 

スウプのなかへ麺麭(パン)を千切(ちぎ)って浮かすことの好きなミドルエセックス州の代言人(ソリシタア)や、絶えず来年度の鉄道延長線の計画を確かな筋から聞き込んだと吹聴しているプラハの土地利権屋や、コルセットの留金(とめがね)が引き釣ってきっと靴下の上部に筋切れがしてるに相違ない巴里(パリー)下りのマドモアゼル――でみ・もんでん――や、南仏蘭西(フランス)の汽車中に英語の掲示がある・ないで今大議論を戦わしている亜米利加(アメリカ)の老嬢たちや、こういう夜と昼をはき違えた群集がめいめい他人の言葉を押し返してそれに勝つ必要上ほとんど絶叫に近い大声を出しあっていた。そこにはまた交通巡査のように冷静な猶太(ユダヤ)人の給仕長があった。通路に屯営(とんえい)して卓子(テーブル)の空(あ)くのを狙っている伊太利(イタリー)人の家族伴(づ)れがあった。そのなかの娘は待ってる時間を利用して立ちながら絵葉書を書いていた。銀盆に電報を載せたボウイが「いつものテエブルにいるいつものムッシュウ」のところへ走っていた。伊太利(イタリー)人の娘と衝突して両方が笑った。ここから一つの恋が噴出すべきはずだと私は観察した。這入って来る人ばかりで誰も出て行く人はなかった。ちょうど今日から明日になろうとしていることを私は歯科医の腕時計で読んだ。
 そして独逸(ドイツ)人に言った。
『僕はオテル・エルミタアジュのあなたの部屋の番号を知っています。三十六号でしょう? 自分は妻と別々の部屋を取る習慣だなどとは仰言(おっしゃ)らないでしょうね。』
 ところが彼の驚愕が私を驚愕させたのである。しかも彼のは覚えのない罪を責められる人が不思議そうに示す種類の驚愕だった。
『妻ですって? あなたは人違いをしている。悲しいことだ。私は結婚するほど旧式でもないし、オテル・エルミタアジュはちょっと外部から見たことがあるだけです。』
 私はじぶんが単なる即席の思いつきでこの個人的な会話を切り出したのではないという立場を守護するために、すこしばかり顔を赤くして粘着(パアシスト)した。
『あなたに関する僕の知識はそれだけではないのです。僕はあなたがコロンの製鋲(せいびょう)会社の社長であることも、亜米利加(アメリカ)から妻楊子(つまようじ)を輸入した本人であることも、そしてそのために何艘の英吉利(イギリス)貨物船を傭船(チャアタア)しなければならなかったか――すっかり知っているつもりです。』
『じつに恐るべき独断だ!』
 独逸(ドイツ)人は卓子(テーブル)を叩いて酒杯(グラス)にシミイを踊らせた。
『私は単なる正直な映画技師です。』
 私は黙った。これ以上主張をつづけることはこの肥大漢と私とのあいだの決闘に終りそうだったから。しかし、それにもかかわらず私は、自分のほうが正しいことを確信していた。なぜなら、現に今夜の若い時間に、彼の妻のいが栗頭の波斯(ペルシャ)猫がわざわざ私に指示してこの男が良人(おっと)であると証言したではないか。
 ヴィクトル・アリ氏の大笑いが一同の注意を要求した。
『解ってる、わかっている!』
 彼は眼と眼の中間で両手を泳がせていた。それは明かに可笑(おか)しさのあまり駈け出して来ようとする泪(なみだ)を睫毛(まつげ)の境いで追い返すための努力を示していた。ばらばらの言葉でアリ氏は唱え出したのである。
『――あの人はハンブルグの荷上(にあげ)人夫ではないのです――あの人は毎朝熱湯の風呂へ這入って自分の身体と一しょに茹(ゆ)で上った玉子をそのお湯のなかで食べるのです――それから、あの人のそばへ寄るとリンボルグ、じゃなかった、ラックフォルト乾酪(チイズ)のにおいがする、と言いましたね。それから、それから――あの人の足の小指は赤い蘇国毛糸の靴下のなかで下へ曲っている――こうでしたね?』
『それはどういうお話しでしょう!』
 フランシス・スワン夫人が将校のようにずぼんのポケットへ手を入れて訊いた。

     7

 ちょうどそこへ、髪油(かみあぶら)を手の序(ついで)に顔へも塗ったような、頬の光った楽長が近づいて来て何かお好みの曲はございませんでしょうかと質問したので、私が一同を代表して「ハリファックスへ行くように」と勧告した。すると突然私の鼻さきに菫(すみれ)の花が咲いた。それは安価香水のにおいと田園の露を散らして私の洋襟(カラア)を濡らした。曲馬団の少女のようなモナコの風土服を着た花売女がわざと平調な英語でその一束をすすめていた。これは私にすこし考えるところがあって買うことにした。私は女の残して行った菫の花を嗅(か)いでみた。それにはアルコウルの疑いがあった。そして不自然にまで水をかぶって重かった。私は巴里(パリー)モンマルトルのキャバレLA・FANTASIOを思い出した。そこでは売った花束を、酔った所有者が席を離れて踊ってるあいだに、その花売娘が廻って来てこっそり持って行ってしまうのである。そしてそれに水をかけ、香水を振ってまた売りに来るのだ。こうして同じ花が一晩に何べんとなく新装して売りに出される。そして人は自分の買った花束を朝までに何度買わされるか知れないのだ。
 ここのもそれではないかと私は思った。で、私は花売女に盗まれないように卓子(テーブル)の上で菫の束を握っていることにした。が、それでも不安だったので、私は妻の口紅棒(リップ・ステック)を借りて花を結んである紫のりぼんの端へX(クロス)をつけた。そしてようよう安心することが出来た。
 みんながヴィクトル・アリ氏の口を見詰めていた。そこからは露西亜(ロシア)煙草のけむりと一しょに言葉がぞろぞろ這い出していた。それらが空中でいろいろに繋(つな)がって、こういう一つのモンテ・カアロ風景を作り出していた。しかし、これは私があんまりロンシャン競馬場の泥みたいな土耳古珈琲(トルココーヒー)にコニャックを入れ過ぎたので、その御褒美(ごほうび)に、キャフェ・ドュ・パリの空気が私にだけ見せてくれた蜃気楼(しんきろう)だったかも知れないのである。
 私は菫を逃がさないように注意しながら、アリ氏の物語に追いついた。
『――それはまだあのルイという貨幣――二十五法(フラン)――が仏蘭西(フランス)にあった頃ですから、大戦前のことでした。
 いつの間にかシリア生れのひとりの若い男が、暇な時のキャジノの役員たちのあいだに話題に上っていました。その男は流行上履(うわばき)のような皮膚に端麗な眼鼻をもった美青年でした。が、彼が評判になったのはそのためではありません。毎晩決まったルウレット台のきまった椅子に坐り込んで、最小額の十法(フラン)ばかり賭けつづけていたからでした。いや、きまっていたのはそればかりではありません。彼の賭ける数も一つに限られていました。それは二十三でした。なぜ彼が23を選んでそんなに固執したかというと、その理由は彼にとって到って簡単です。当時かれは二十三歳だったからです。一体博奕場へ出入りするもののあいだには、数に関する妙な脅迫観念のようなものがあって、銘々がめいめいの「数」を大事に持って守っています。それは或る人にとっては生れた日であったり、または名前の綴りの字数であったり、その由(よ)って来たるところは千差万別ですが、みな自分の数字を限りなく神聖なものとして、それに絶対の信を置いていることは同じです。で、「23」もそういうわけで、いつも二十三へばかり賭けていたのでした。こうしてキャジノの内部で「23」が彼の代名詞にまで有名化した時です。
 その晩かれは例によって「自分のルウレット台」で十法(フラン)の最小限度を二十三に張り抜いていましたが、ふと気がつくと、何かしら異状に冷たい固いものがかれの大腿(ふともも)を横から押しているのです。何だろう?――「23」は下を覗きました。御存じの通りルウレット台の下には何の仕掛けもありません。が、彼はそこに無意識らしく迫っている隣の女の脚を発見したのです。
 その女というのは、高級売春婦以外の何者にも踏めない、三十あまりの、それでも、見たところはたしかにパリジェンヌのようでした。彼女は鋼鉄色の薄い夜会服を着て、廻転盤と「白い丸薬」との機会的な接吻に眼を据えているだけで、たといもう一度あの大戦がぶり返して来ても、自分だけはこのままにしておいてもらいたいと言った様子でした。ですから、もちろん無意識でしょうが、女の脚は夢中のあまり椅子から乗り出して、「23」の大腿部にしっかり触れているのです。ここで若いシリア人は、盤面の二十三に対する愛着以上の興味を感じなければならなかったはずです。なぜ? 地下鉄(メトロ)の雑沓で女の脚が押して来る。押された男は、それが地下鉄会社が乗客へのお礼に出している景品であるかのように、特権としてその接触を享楽するのがつねではないですか。近代都市の交通機関内では、朝夕どれだけ多量にこの擬似性慾が消費されていることでしょう。時としてそれは立派な情事でさえあると私は思います。しかし、言うまでもなくそのためには、押して来る女の脚が飽くまでも忍びやかに、そして両方の着物をとおしてふっくらと暖かい体温が通い、血のときめきが感じられる――といったような条件が必要でしょう。だからこの「乗物のなかの相手」には処女よりも人妻のほうが面白いと今アレキサンドリアへ書記生になって行っている私の悪友が言ったことがあります。とにかく、これほど議論の多い「都会的交渉」をその未知の女と持つことになったのですから、「23」はこの先方から向いて来た幸運に感謝すべきだったかも知れません。かれは挨拶のために自分の膝でそっと隣りの女を小突いてみました。そして驚くべき発見に出会ったのです。
 はじめに彼の注意を惹いた冷たい固いものは、他ならぬその女の脚だったのです。じつに彼女の脚は、鉄板のように冷徹でした。岩石のように堅固でした。そして、コンクリイトのように細かくざらざらに固形化している表面が、「23」にも明かに感じられたといいますから、彼の興味は一時にほかの方角をとりました。岩のような脚をしている女! 好奇心が「23」を打ったのです。彼はシリア人らしい物静かさでその女のスタディを開始しました。
 ゲイムが進むにつれて、女の脚はますます圧迫して来ます。彼も脚でそれに答えながら、それとなく席の横へハンケチを落して、拾い上げる拍子に手で触ってみました。たしかに鉄です。石です。コンクリイトです。彼はだんだん大胆になって、腿で押し返したり、公然と手で撫でてみたりしましたが、女は気がつく風もありません、しかし、これは無理もありますまい。女にしてみれば、まるで部屋の外壁へ微風が当っているようにしか感じなかったことでしょうから。
 長い話を短くするために――それから二、三日経った夜更けでした。
「23」はその晩の二十三に見限(ミキ)りをつけてキャジノを出ようとしていました。あれから「岩のような脚をもった女」が一度も姿を現わさなかったので、彼はそれを内心不満に感じていたところでした。キャジノの正面の階段を下りると、芝生と椰子と月夜の公園(ジャルタン)が一面にゆるい登りになっています。そのオテル・ドュ・パリヘ近いほうの角に、人影が固まっていました。何か罵(ののし)るような声も聞えます。「23」はそばへ駈け寄って、人混みのうしろから首を伸ばしました。
 あの女でした。地上に倒れているのです。蒼い顔に歯を食いしばって、半分閉じた眼に月が光っていました。そして、もっと異常なことには、彼女の片手が、同伴者である中老の英吉利(イギリス)紳士の燕尾服の裾をしっかりと押えていることでした。
 紳士は、女の手を振り離そうとして威厳のうちに□(もが)いていました。見物人は夫婦喧嘩を見るような眼で立っていました。そこを分けて「23」が前へ出ました。
『どうしたのです?』
 すると紳士は、待っていた救助船が現われたように、そしてまた悪いところを見られたように、何かわけのわからないことを呶鳴(どな)りながら、いきなり力まかせに女の手を振り解いて、あわてて横町の闇黒(あんこく)へ逃げ込んでしまいました。が、走り出す前に、彼は「23」のポケットへ何か量(かさ)ばったものを押込んで行ったのです。女はただ卒倒していただけでしたから、「23」がその鉄板のような脚を抱いて自分の部屋へ担ぎ込むと、間もなく意識を快復しました。そして同時に、救護者の若いシリア人に恋を感じたと言います。いや、すくなくとも、そう彼女は宣言したのでした。
 女はコカイン中毒患者でした。謎の脚は、長年そこへ注射針を刺して来たためにそんなにも皮膚が固化した現象でした。これは、どの医者に訊いてもよくある、さして珍らしくない事実ですが、よりいけないことは、彼女はこの博奕場の幽霊の一つで、あの低音のルウレットの唸(うな)りを聞くことなしには生きて往けない組なのです。彼女にとって、ゲイムに勝つことはコカインを買うための必要事でした。が、それがどうにもならない時は、売春の目的でキャジノで客を探しました。その夜もそうでした。しかし、思いどおりに紳士をつかまえることの出来た彼女は、安心で気がゆるんだせいか、それともコカイン注射の有効期間が切れて彼女の有機が一時的に分散したのか、とにかく、彼女は、ホテルへ行く途中でああして意識を失って倒れたのです。が、彼女の職業本能が、紳士を捉えている片手だけは離させませんでした。掛り合いになって名の出ることを恐れた紳士は、「23」の出現を何よりの好機会に、地上の彼女を「23」に押しつけて、雲隠れしたわけでした。同伴の動機があまり紳士的でないので、或いは彼は、「23」を探偵とでも思ったのかも知れません。これで気がついて、「23」がポケットから先刻(さっき)紳士の押し込んで行ったものを取り出して見ると、それは書物のようなルイの紙幣束でした。
 この時からです。ふたりが新しい共同の商売をはじめたのは。
 つまり、この偶然事から思いついたのですが、彼らは、何らの資本なしにこのモンテ・カアロで「白い丸薬」と「緑色の羅紗」とを相手に一生遊び暮すだけの財政を、しごく容易に二人のあいだで保ち得ることに気が付きました。それは、その晩の過程(プロセス)を忠実に反復するだけの労力でいいのです。女が売春を装ってキャジノから男を啣(くわ)え出す。そして町角で気絶を真似る。そこへ「23」が現われる。オテル・ドュ・パリあたりの名流の客は、自分の名前に対してだけは恐ろしく潔癖ですから、例外なしに、みんな「23」を警官と間違えて金を押しつけて逃げるのです。それはまるで、万人が万人印刷したような行動だそうです。
 二人はオテル・エルミタアジュの三六号室に同棲していて、今でもときどきこの手を用いています。公然の秘密のようなものですが、個人の生計に関与するほど、モナコの警察は暇ではないと言います。これで彼女は要求するだけのコカインを楽しみ、「23」はまた毎晩の「二十三」の軍資にこと欠かないわけでしょう。
 忘れました! それ以来、女は「七夫人」として知られているのです。何でもその最初の晩が七日だったそうで、彼女は若い燕(つばめ)の「23」に倣って、それから7にばかり賭けることにしたのです。が、どうせゲエムはニの次ぎで、腕を掴んで倒れるための男を物色しに、一月に二、三度キャジノに出現するだけのことですが――。
 コロン製鋲会社の社長・亜米利加(アメリカ)の妻楊枝・ハングルグの荷揚人夫・朝の入浴と玉子・下へ曲っている足の小指――これは誰でも未知の人に話しかける時の、彼女の有名な外交文書です。
「7夫人と23氏」は、私の知る限りにおいてモンテ・カアロの最善の産物ですよ。今度キャジノで教えて上げますから、見て御覧なさい。「23」はちょいと故ルディといった感じの、中婆さんには持って来いの玩具(おもちゃ)です。もっとも、シリア人ですから、小鳥のような円い眼にすこし落ちつきがありませんがね――。』
 気がつくと私の手は空(から)だった。菫はやっぱり紫のりぼんにX(クロス)をつけたまま逃げたのだ。




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