踊る地平線
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著者名:谷譲次 

     1

 葡萄牙(ポルトガル)のリスボンで、僕はリンピイ・リンプと呼ぶびっこの英吉利(イギリス)人と仲よしになった。
 リンピイは海から来た男で、そしてPIMPだった――あとで解る――それはいいが、ついうっかりしてるうちに僕も捲(ま)き込まれて、その跛足(リンピイ)リンプの助手みたいな仕事をしなければならないことになった。これも詳しくは「後章参照」だが、早く言えば、毎晩僕が夜の埠頭(ふとう)へ出かけて古いINKの海を眺めてるあいだに、いつからともなくこのリンピイと知り合いになったというだけなのだ。
 ほるつがる――種が島と煙草と社交病を日本へ紹介した国。
 日本――葡萄牙(ポルトガル)。
 東の果てと西のはずれ。
 地理的には遠く、歴史的には近い。
 両国共通の言語でちょっとこんな判じ物みたいな小景(スナップ)が出来るくらいだ。
 彼は Raxa(ラシャ) の「まんと」の「ぼたん」をかけていた。彼女は「石鹸(さぼん)」で洗ったばかりの「かなきん」の襦袢(じゅばん)「Jib□o」に、「びろうど」Veludo の着物をきていた。「びょうぶ」の前に、ふたりは「さらさ」Caraca の座ぶとんを敷いて、Carta「歌留多(かるた)」をしながら飲んだり食べたりしていた。が、彼はあんまり「ふらすこ」のお酒を「こっぷ」で呑んだし、彼女が Pao「ぱん」と「こんぺいとう」を Tanto「たんと」食べ過ぎるので、お互いに嫌(いや)になって離婚した。FINIS といったように、これだって君、あの、この頃産業的に需用の多い「朝飯(あさめし)の食卓で焼麺麭(トウスト)・卵子・珈琲(コーヒー)と一しょに消化してあとへ残らない程度の退屈で幸福な近代結婚生活の小説」の作例には、ちゃんとなってるじゃないか。BAH!
 で、とにかくリンピイの Who's Who へかかる。
 彼の商売は三つから成り立っていた。
 第一にリンピイは、マルガリイダという五十近い妻と一しょに、市の山の手(バイロ・アルト)に独特の考案になる魔窟(まくつ)をひらいていた。マルガリイダは、CINTRAの古城のように骨張った、そして、不平で耐(たま)らない七面鳥みたいに絶えず何事か呪い喚(わめ)いてる存在で、リンピイの人生全体に騒々しく君臨していたと言っていい。そのうえ彼女は恐ろしくけちだったし、自分の思いつき一つで家(ハウス)が流行(はや)ったので、しぜん稼業のことはすっかり一人で支配していて、リンピイは more or less そこの居候(いそうろう)みたいに、波止場(カイス)の客引きだけを専門にしていた。それも、実際マルガリイダ婆さんに言わせると、リンピイなんか居てもいなくてもいいんだけれど、商売の性質上、男のにらみの必要な場合もあったし、それに、リンピイは跛足のくせに素晴しく喧嘩が上手(ハンディ・アト・フィスト)だったから、お婆さんも重宝がって、格別追い出そうともせずにただ顎(あご)だけ預けとくがいいよと言った程度に置いてやっていたのだ。この「マルガリイダの家」の呼び物は、テレサという白熊のような仏蘭西(フランス)女の一夜の身体(からだ)を懸賞に博奕(ばくち)をさせるのだった。だから、いつ行っても寄港中の船員がわいわいしてて、マルガリイダ婆さんの靴下は紙幣束(さつたば)でふくれてた。が、このリンピイとマルガリイダは、お互いにどまでも経済的独立を厳守する夫婦関係――何と近代的な!――だった。と言うより、つまりそれは、彼女が彼に充分な儲けを別(わ)けて与(や)らなかったからだが、そこで当然リンピイは、妻の一使用人として以外に自分だけの内職を持っていた。ここに企業家リンピイ・リンプの非凡な着眼が窺われる。すなわち、第二に彼は、一種の「船上出張商人(ヴェンデドゥル・デ・アポルド)」――英語で謂(い)う―― ship-chandler「しっぷ・ちゃん」――を開業していたのだ。
 夜のりすぼん波止場で、僕は一つの不思議を見た――。
 AYE! 闇黒(あんこく)がLISBOAの海岸通りを包むとき!
 各国船員の行列(パレイド)にあるこほるが参加し、林立するマストに汽笛がころがり、眠ってる大倉庫のあいだに男女一組ずつの影がうろうろし、どこからともなく出現するこの深夜の雑沓・桟橋の話声・水たまりの星・悪臭・嬌笑・SHIP・AHOY!
 この腐ったインクの海は、何かしら異常な事件を呑んでるに相違ない。波止場の夜気は、僕の秘有(チェリッシュ)する荒唐無稽趣味(ワイルド・イマジネイション)をいつも極度にまで刺激するに充分だ。それが僕の全 being を魅了してすぐに僕を「夜の岸壁」の自発的捕虜にしてしまった。もちろんそこには、何とかして変った話材に come across したいという探訪意識が多分に動いていたことも事実だが、とにかくリスボンでは、今日のつぎに明日が来るのと同じ確実さと連続性において、毎夜の波止場(カイス)が浮浪人としての僕をその附近に発見していた。一晩として僕は夜の波止場を失望させることはなかった。
 が、これには単なる探険心以上に、僕を駆り立てる理由があったのだ。
 それは、こうして毎晩「夜の波止場」に張り込んでた僕へ、僕の熱心な好奇癖を燃焼させるに足る一現象が run in したからだ。
 Eh? What?
 きまって真夜中だった。暗いなかに人影がざわざわして、その黒い一団がしずかに桟橋を下りていく。桟橋の端には、物語めいた一そうの短舟(ボウテ)が、テイジョ河口の三角浪に擽(くすぐ)られて忍び笑いしていた。訓練ある沈黙と速度のうちに一同がそれに乗り移ると、そのままボウテは漕ぎ出して、碇泊(ていはく)中の船影のあいだを縫って間もなく沖へ消える。そして暫らく帰ってこない。が帰って来るとその一団の人かげが、同じ沈黙と速度をもって小舟(ボウテ)から桟橋へ上り、僕の立ってる前を順々に通り過ぎて、今度は町へ消えてしまう。夜なかに海を訪問する一隊! ははあ! 奇談のいとぐちには持って来いだ。しかも、believe me, それがみんな女で、引率してるのはびっこの小男だった。
 これが毎晩である。桟橋と沖を往復する謎の女群。熟練を示すその沈黙と速度。At last, 大MYSTERYは僕のまえに投げられた。何のための毎夜のとりっぷ? 女漁師? Absurd, 密輸団? Maybe.それにしても、何と祝福すべき小説――作者ライダア・ハガアド卿――的効果とシチュエイション!
 山(サスペンス)もある。「はてな(バッフル)!」もある。大通り(ポロット)も小みち(カウンタ・プロット)も充分ある。こいつにちょいと「予期しない捻り(アンエクスペクテド・タアン)」さえ与えれば、ジョウンス博士主宰通信教授文士養成協会――名誉と財産への急飛躍! はじめて万人に開かれた成功の大秘門! 変名で有名になって親類知己をあっと言わせ給え!――の「必ず売れる小説を作る法」の講義録にぴったり当てはまって、どうだ君、そろそろ面白くなって来たろう。NO?
 まだまだこのあとが大変なんだ。
 YES。港だから、そら、毎日船がはいるだろう。船乗りってやつは、女を要求して――たとえばマルガリイダの家のテレサなんかを目的(めあ)てに――やたらに上陸をいそぐものだ。が、上陸させちまっちゃあ話にならない。いたずらに老七面鳥マルガリイダをほくほくさせるばかりで、何らわが新事業家リンピイの利得にはならないから、そこで彼らの上陸の前夜か、もしくは過半上陸しても不幸な当番だけ居残ってるところへ、暗いいんくの海を桟橋から一艘(そう)の小舟(ボウテ)がこいで来て横づけになる。女肉を満載したボウテ! すると、訓練ある沈黙と速度をもって、五、六人の女隊が、アマゾン流域特産のぽけっと猿みたいにするすると船腹(サイド)の縄梯子(ジャコップ)を這い上って甲板へ現れる。これが真夜中の船の女客――船上商人(シップ・チャン)リンピイがひそかに駆り集めて来た「商品」だ。が、これも、昼間の市民としては、女中や場末の売子をしてる女達――相当若いの・かなり若いの・ほんとに若いの・少女めいたの・肥ったの・瘠(や)せたの・丸顔の・面長(おもなが)なの・金毛の・黒髪の――。
 それらが次ぎつぎに船の手すりを跨(また)ぎながら、細い、太い、円い、めいめい色のかわった声を発する。
今晩は(ボア・ノイテ)!
今晩は(ボア・ノイテ)!
今晩は(ボア・ノイテ)!
 と思うとすでに、長い海によごれ切った水夫と火夫のむれが、この呼吸する商品のまわりにぐるり素早く輪を作ってる。にやにやと殺気立つ選択眼。その、天候と粉炭と余剰精力とで黒い層の出来てる彼らの首根っこへ、女たちの白い腕がいきなり非常な自信をもって巻きついていく。最初に視線を交換した船員と売春婦――これほど直截(ちょくさい)な相互理解はまたとあるまい。港の挨拶はこれだけでたくさんだ。何という簡潔な「恋の過程(プロセス)」! 何て出鱈目(でたらめ)な壮観! そこここの救命艇のかげ、船艙(ハッチ)の横が彼らにとって船上の即席らんで□うだ。そして、星くず・インクの海・町の灯(ひ)・夜風。五、六人の女と、時として五、六十人もの海の野獣と――こうして、それらの全場面に背中を向けて忍耐ぶかく待ってるあいだに、毎晩リンピイは一たい何本の煙草をじゅっと水へ投げ込むことか?――GOD・KNOWS。

     2

 畏友リンピイ・リンプの驚嘆に値する発明的企業能力は、これだけでも充分以上に合点が往ったろうと思う。加うるに、この出張売春婦のPIMPをつかさどるかたわら、第三にそして最後に、彼はほんとの「しっぷ・ちゃん」をも兼ねていた。ほんとのしっぷ・ちゃんてのも変だが、実はこれも、一つの準備行動として彼にとっては必要だったのだ。と言うのはつまり、いよいよ生きた商品を持ちこむに先立ち、まず斥候といった形で、無害でゆうもらすな海の人々の日用品――それも陸での概念とは大分違うが――を詰めた鞄(ケイス)と、何食わぬ顔(フェイス)とをぶら提げて、あたらしく入港して来た船へ、検疫が済むが早いか最初の敬意を払いにゆく。こうしてその船の徳規(デサイプリン)や乗組員の財布の大きさを白眼(にら)んでおいて、いわゆる「岸に無障害(コウスト・イズ・クリア)」と見ると、そこではじめて、夜中を待って本業の女肉しっぷ・ちゃん船を漕ぎ寄せる――とこういう手順だが、どうせこのほうは、まあ、小手調べのつもりだし、こっちでも幾らかの利を見たいなんてそんなリンピイでもないから、持ってく日用品なんかちっとも売れなくても困らないんだけれど、それが妙なことには飛ぶように売れて、リンピイはいつも空(から)の鞄と、反比例に充満したぽけっととを伴(つ)れて陸へ帰るのがつねだった。じゃあどうしてそうリンピイの商品に限って捌(さば)けが早かったかというと、それは何も彼の小売的商才の致すところではなく、現在あとで僕がこの役目を受持つようになってからも、品物だけは何らの渋滞なくどんどん売れてった事実に徴しても判るとおりに、商品それ自体に、「これに羽が生えて売れなければベイブ・ルースは三振してカロル親王殿下がルウマニアの王位に就く」と言ったふうな、リンピイ一流の狙い(ヒット)と仕掛(卜リック)が潜ませてあったからだ。では、その手品の種は?――となると、これが本筋の「何か袖の奥に(サムシング・アップ・イン・ゼ・スリイヴ)」の重要な一部なんだから、手法の教えるところに従い、僕としてはもうすこし取っておかなければならない。
 じっさいリンピイは、ついこないだまで、この両方の「しっぷ・ちゃん」を一人で兼ねて来ていたんだが、比較的繊細――何と貴族的に!――な彼の体質と健康がその激労を許可しなかったし、それに、幾分財政的余裕も出来かけたので、誰か「鳩の英語(ピジョン・イングリシ)」が話せて自分の片腕になるやつがあったら、はじめの日用品のしっぷ・ちゃんだけそいつに任せて船の探りを入れさせることにしてもいい――ちょうどこう考えてたリンピイの眼前へ、幸運にも僕という「夜の波止場(カイス)の常習浮浪犯」が現れたのだ。
 この、リンピイと僕――ジョウジ・タニイ――との最初の劇的面会はあとの頁に入れるつもりだが、一口には、彼が好機――僕にとって――を提出(オファ)して、僕が即座にそれを把握(グラブ)したほど、それほど勇敢で利口(スマアト)だったというだけのことだ。じゃ、一たい何だってそんなことが「好機」かと言うと、これなしにはこの話も存在しなかったろうし、第一、僕としちゃあ得がたい冒険(アドヴェンチュア)を実行したわけで、全くのところ、さんざ歩き廻った末やっと棒にぶつかったDOGのよろこびが僕の感情だった。
 さきへ進むまえ、忘れるといけないからちょっとここで断っておきたいのは、リンピイと彼の周囲に、僕が支那人(チンキー)ロン・ウウとして知られていたことだ。これは何も、ことさら僕が国籍を誤魔化(ごまか)したわけではなく、全体、はじめて口を利いたとき、リンピイが頭からお前は支那公(チンク)だろうと決めてかかって来たので、正誤するのも面倒くさかったし、その要もあるまいと思って黙っていたら、リンピイが勝手にそう信じこんで、同時に僕も、いい気になって出放題(でほうだい)な名乗りを上げてしまったのだ。Long Woo ――支那にそんな名があるかどうか。なくたって僕は困らない。要するにリンピイのそそっかしいのが悪いのだ。で、このとおり、支那人なるアイデアは彼が思いついたことで、僕はただ、極力否定するかわりに、無言によってごく受働的にそれを採用したに過ぎないから――。
 だからリスボンの波止場では、全的にそう受け入れられていた支那公(チンキイ)ロン・ウウの僕だった。一つの社会を下から見るのに、これはかえって好都合だったかも知れない。と同時に、ある集団生活を知るためには、どうしてもいくぶん密偵的なこころもちでそこへ這入り込んで、現実に何かの役割(ファンクション)を持たなければ駄目だ。この意味で、リンピイ・リンプと彼の仕事は、僕の上に、じつに歓迎すべきLUCKの微笑だったと言ってよかろう。
 YES。港だから、毎日船がはいる。その入港船のどれもへ、間もなく支那人のしっぷちゃんロン・ウウが、商品鞄と無表情な顔を運び上げるようになった。支那人は恐ろしく無口だった。ものを言う必要がなかったのだ。いつも黙って鞄を拡げて、眠そうにハッチの端に腰かけていさえすればあとは品物自身が饒舌(スピイク)して面白いように売れて往った。ほんとに面白いように売れていった。海の住民――それは不具的に男だけだが――また、その男だけのために悦(よろこ)ばれる種々の他愛ない日用品――タオル・しゃぼん・歯みがき・小刀(ナイフ)・靴下・その他・それぞれにリンピイの細工がほどこしてある――それから、好運のお守りTALISMANの数かず――すべていずれ後説――そして、このしっぷ・ちゃんの支那人の訪問した船へは、必ずその夜中にリンピイのおんな舟が出張して、これも帰りには海のむこうのお金でふな脚(あし)が重かった。
 それがつづいて、何ごともなく日が滑って行った。
 が、いつまで経(た)っても何事もないんじゃ約束が違う気がするから、そこで物語のテンポのために手っ取り早くもうその「何事」が突発したことにして、ここへ、このりすぼんの水へ、問題の怪異船ガルシア・モレノ号を入港させる。
 Mind you,「がるしあ・もれの」は、一見平凡な「海の通行人」よたよた貨物船(トランプ・フレイタア)のひとつだった。
 しかし、もしあの時、運命がこの船をリスボンの沖で素通りさせたら?
 そうしたら、リンピイはいまだにぽるとがるりすぼん港の満足せるリンピイだったろうし、ことによると僕も、今なお支那公(チンキイ)ロン・ウウの嗜眠病的仮人格のままでいたかも知れない。
 思えば、十字路的な現出であった―― That ガルシア・モレノ、
 なぜって君、一つも売れないのだ。
 何がって君、僕の「しっぷ・ちゃん」がさ。だって変じゃないか。あれだけ「羽が生えて」売れてた、そしてほかの船ではやはり立派に売れてる――その売れるわけはあとでわかるが――同じ品物が、このガルシア・モレノ号でだけはうそのようにちっとも売れないのだ。
 すこしも売れない。奇体じゃないか。船乗りという船乗りが狂喜して手を出すことを、僕は経験によって知ってる。それだのに君、この船では、誰ひとり手に取って見ようとする者もない。振り向くものもない。船中てんで相手にしないのだ。ここをリンピイの好んで使用する表現で往くと、「がるしあ・もれの」でベイブは始めて三振し、カロルはようようルウマニアの王様になった。というところだが、売れないのは僕のほうばかりじゃなく、リンピイの「商品」なんか何度押しかけて征服しようとしても、その度にみんな綺麗に撃退されて、いつも完全な失敗におわった。お金を費(つか)おうとしない船員、女を失望させて帰す水夫や火夫なんて、これはとても信じられないお伽話(とぎばなし)だ。奇蹟? 不可能。道心堅固! べらぼうな! では何だ! At last 僕とリンピイのまえに投げ出された一大MYSTERY――これを満足にまで解くところに、この物語の使命があるのだ、BAH!
 はじめて僕がガルシア・モレノ号を手がけようとして――一つの暗転。
 SHIP・AHOY!
 血だらけな晩め(デ・ブラッディ・ノウイト)! God damn it!
 船尾の綱板梯子(ジャコブス・ラダア)に揺られてる僕の眼は、すぐ鼻っ先の大きな羅馬(ローマ)字を綴ってた。この船にはアマゾンのにおいがする。船名、がるしあ・もれの号。船籍、ブエノス・アイレスと白ぺいんとが赤錆(あかさび)で消えかかって、足の下の吃水線(きっすいせん)には、南あめりかからくっ附いて来た紫の海草が星と一しょに動いていた。
 火夫の油服(あぶらふく)に、真黒なタオルで頭を結んだ僕だ。この、紙に革を張ったすうつけいすは「しっぷ・ちゃん」の商品を満腹して黒人の頭蓋のように重かった。片手にその鞄――手が切れそうに痛い――をぶら下げて、ほかの手で縄梯子(ジャコップ)を掴んで攀(よ)じ登るのだから、ビスケイ湾の貨物船みたいに身体(からだ)が傾いて、ジャコップが足に絡んで、それを蹴(け)ほどいて一歩々々踏み上るのが骨(ハード)だった。梯子(はしご)と僕と鞄が、すっかり仲よく船尾(スタアン)の凹(へこ)みへへばりついて、ぜんたい斜めに宙乗りしていた。陸から漕いで来た僕のはしけ(ボウテ)は梯子(ジャコップ)の下に結び着けてある。それがテイジョ河口の三角波に擽(くすぐ)られて忍び笑いしていた。
 ――God damn!
 LO! 国際的涜神(とくしん)語がまた僕の嘴(くちばし)を歪(ゆが)めた。なぜって君、夜の港は一めんのインク――青・黒(ブルウ・ブラック)―― だろう。そこにぴちぴち跳(は)ねてるのは鰯(いわし)の散歩隊だろう。闇黒(くらやみ)のなかの雪みたいに大きく群れてるのは恋の鴎(かもめ)たちだろう。むこうにちかちかするのは、羅馬(ローマ)七丘に擬(なぞら)えて七つの高台に建ってるリスボンの灯だろう。しっぷ・あほうい! と波止場(カイス)のほうから声がするのは、きっとまた、急に責任と威厳を感じ出したどこかの酔っぱらい船長が女から船へ帰ろうとして艀舟(ランシャ)を呼んでるのだろう。
 Ship Ahoy! ――そして僕はいま、うす汚ない商品鞄をさげてこのガルシア・モレノ号へ這いあがるべく努力してる最中だ。何て「血だらけ(ブラッディ)」な! O! でいむ!
 さっきから言うとおり、りすぼん港だった。葡萄牙(ポルトガル)の首府 LISBON ――土地の人は、何かしら異を立てなければ気の済まない、土地の人らしい一見識をもってLISBOAと書いて「リスボア」と読んでる―― anyhow, ふるい水に沿った古い開港場に、喚(わめ)く人間と恐るべき言語と、日光と雨と売春と、疾病と夕陽の壁と水夫の唾と海の道徳とがごっちゃになって歴史的市場をひらいていた。そこへ、今日の夕方、この The Garcia Moreno が大西洋を撫でて入港して来たのだ。植民地の男が植民地の物産と何十日も同居して――だから、こうして植民地の船がはいると、港いっぱいに植民地的臭気(エア)が充満して、女達は昨夜の顔へまた紅をなすり、家々の窓へさわやかな異国の風が吹き込み、猶太人(ジュウ)の両替屋に不思議な貨幣があふれ、船員の棄(す)てた灰色猫を船員が拾ったり、三年前の海岸通り(ウォタ・フロント)の赤ボイラのかげの女が、まだその同じ赤ボイラの陰に白く蹲踞(しゃが)んで待っていたりして、あはあ! いろいろな笑いごとに何と古めかしく派手な LISBOA !
 この週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめきによって早くからきょうガルシア・モレノの入船(いりふね)を感づいた僕は、仲間(パル)のリンピイから預ったしっぷ・ちゃん鞄(ケイス)をすっかり用意して、それでも、マストの先の青い星がともるまでぼんやり待っていた。それは、かねての契約どおりに、僕がひとりでリンピイの鞄を下げてその新入港の船へ乗りこみ、甲板に品物を拡げて、当番の乗組員(クルウ)相手に商売する。リンピイはリンピイで例のほかの種類の商品を積んで、僕が呼ぶと、あとから船へ上ってこようというのだ。そこで僕は、リンピイの鞄と暗黒と一しょにがるしあ・もれの号へ漕ぎ寄せてみると、長い大西洋(アトランチコ)を済ました船員達は、上陸番なんか無視して誰もかれも「七つの丘の灯」へ逃げてったあととみえて、船尾(スタアン)の綱梯子(ジャコップ)が公然の秘密のようにこんなにぶらぶらしていた。ボウテをつないで、僕と鞄がそのじゃこぷを上り出したのだ。がっでいむ!
 はろう! せいの高い船だ。昇っても昇っても上へ届かないから、僕は、出張船商人(シップ・チャンドラア)としての僕の到来を宣言して、now, 潮風にひとつ唄った。誰か聞きつけて出て来るだろう。
Carrrry mee
Cheerfulliee
Over de sea !
『誰だ地獄(フウダ・ヘル)――!』
 果たしてらんかんから植民地英語の声が覗いた。
『船上出張商人(ヴェンデドル・デアポルド)!』
『EH? WHAT?』
『支那公(チンキイ)Long Woo。』
『Well, 俺は呪われた。その支那的(チンキイ)ロン・ウウがまた何の用で上船しようてんだ。HEY?』
『船商人(シップチャン)――旦那(サア)?』
『いよいよ俺は呪われた。何を持って来た一体?』
『AYE! いろんな物、sir,色んなもの。あなたを悦(よろこ)ばすべきたくさんの品。私はたしかにあなたを、たった六片(ペンス)で冷たく打ち倒すことも可能でしょう。ただちょっと実物さえ御覧になれば――。』
『よし(ライ)。上って来て、見せろ。』
 だから、じゃこっぷの中途から救われて、僕と鞄がガルシア・モレノに甲板(アポウルド)した。
 仮死したような大煙突が夜露の汗をかいて、その下で、船のお医者(シップス・ダクタア)――と言うのはつまり料理番(クック)だ――が、愛玩(ペット)のポケット猿に星を見物させていた。洋隠猿(パケツ・マンキー)はアマゾン流域に特産する小さな小さな猿だ。手に握ると全身すっかり隠れて苦しいもんだから騒ぐし、胸のぽけっとへ入れてやると顔だけ出してあちこち眺めてる。夜は、君の脱いだ靴の奥へ潜り込んでぐっすり眠るだろう。そのぽけっと猿が、肥った料理人(ダクタア)の手の平から星へ向って小粒な皓歯(こうし)を剥(む)いていた。ほかに、僕を「一体誰だ(フウダ・ヘル)」した無電技師は、士官(オフィサ)らしく船尾を往ったり来たりしていた。こつ・こつ・こつ。Again, こつ・こつ・こつ。鉄板の跫音(あしおと)と自分の重大さに彼は酔っていたのだ。しっぷ・ちゃあん! と喜んだ料理番の大声で、下級員口(ギャングウェイ)が四、五人の水夫や火夫を吐き出した。このXマス近い海の夜中に、上半身裸の彼らが、赤白く光って浮かんだ。やっぱりみんな錨(いかり)を下ろすが早いか女のところへ上陸したに相違ない。ガルシア・モレノ号は僕の前にたったこれだけの人数(にんず)だった。が、勿論このポケット猿の連中が、総がかりで星を白眼(にら)み、暴風雨のなかで左舷(ポウト)・右舷(スタボウド)と叫び交し、釜を焚(た)き、機関を廻して来たのではないと、who could tell? 地球の色んな隅々(コーナアス)から旧大陸の端のはし「ほるつがる・りすぼん港」へこうして次ぎつぎに触(タッチ)していく貨物船の大商隊――ここには、あらゆる華やかさと恥と不可解がごく自然に存在し、事実、それらの堆積が鬱然(うつぜん)し醗酵してLISBOAを作ってるのだ。という証拠には、この「しっぷ・あほうい!」の物語も、前言のごとく僕じしんの経験(アンダゴウ)したその一つに過ぎない。Eh? What?

     3

 そもそもの葡萄牙(ポルトガル)入りから出直そう――。
 水は、一度低いところへ下りたが最後、どうしても上へあがらないものと決定的に思われていた。羅馬(ローマ)人がそう考えていたというのだ。だから彼らは、不必要にも山から山へべらぼうに巨大な水道の橋を築いて渡したもので、この、可愛らしい人智幼年時代のあとが、連々たる大石柱の遺蹟として車窓に天を摩(ま)している。すると葡萄牙(ポルトガル)だ。何という真正直なろうま人の努力!――なんかと感心してる僕の視線を、ほるとがる荒野の石塀とコルクの樹とゆうかりと橄欖(かんらん)と禿山と羊飼いとその羊のむれが、瞬間に捉えて離した。石塀は崩れかけたまま重畳(ちょうじょう)する丘の地肌を縫い、コルクの木は近代工業の一部に参与している重大さを意識して黒く気取り、ゆうかり樹は肺病を脅退(スケア・アウェイ)するためにお化けのように葉と枝を垂らし、かんらんは葡萄牙(ポルトガル)国民唯一の食品オリヴ油を産すべく白く威張って並び、禿山は全国を占領し、羊飼いは定住の家を持たずに年中草と羊と好天候を追って国境から国境の野原をうろうろしてるもんだから、よく殺されて有金(ありがね)と三角帽と毛皮付きいんばねすを奪われ、その殺したやつがまた直ぐに三角帽をかぶりいんばねすを着て、草と好天気と羊を追ってぶらぶらしてるうちにやっぱり誰かに殺され、こんどの第三人目は、やっと三角帽を戴き毛皮つきいんばねすに手を通そうとしているところで、第四人目に楽しく殺害されて往き、この第四人目は――どうも限(き)りがないが、つまり、その度に飼主が変るんだけれど、羊のむれは羊の群らしくそんなことに関係なく、しじゅう汽車に驚いて集(かた)まってみたり、池に直面して凝議(ぎょうぎ)したりなんかばっかりしてる。
 SAY! 古く粗雑に幸福な影絵の国ほるつがる。
 お前は「欧羅巴(ヨーロッパ)のKOREA」だ。絢爛の色褪(いろあ)せた絵画織物(テベストリー)だ。Poogh !
大地のおわるところ(オンデ・テルミナ・ア・テアラ)
大海の始まるところ(オンデ・ア・コミエンサ・ウ・マアル)
 ――若いころ香水の朝風呂へ這入って金の櫛(くし)で奴隷に髪を梳(す)かせた史上の美女が、いま皺(しわ)くちゃの渋紙に白髪(しらが)を突っかぶって僕のまえによろめいてる。Why should I not take my hat off to thee?
 そうしたら「大地の終るところ(オンデ・テルミナ・ア・テアラ)大海の始まるところ(オンデ・ア・コミエンサ・ウ・マアル)」にこの海港リスボンだった。
今日は(ボタアル)!
 その古趣と不潔と野蛮と俗臭の小首府、神様と文明に忘れられたLISBOAが、こうおりぶ油くさい嗄(か)れ声を発して僕の入市に挨拶した。
こんちは(ボタアル)!
こんちは(ボタアル)!
 何と感謝すべきこの放浪性! その瞬間から僕はりすぼんとリスボンの古趣・不潔・無智・野蛮・神秘・俗悪のすべてを呼吸して、雑音と狭い曲りくねった街路(ワインディング・ストリイツ)の迷宮へ深くふかく分け入った。そして当分出て来なかった。だから君、さっきから何度も保証したとおり、これはみんな、そのあいだにおける僕――ジョウジ・タニイ――のまんだりん仮装舞踏曲であることが一層うなずけよう。BAH!
 年老いた両棲動物がリスボンだ。かれは海と陸に跨(また)がって、いつも口いっぱいオゾンを呑吐(どんと)している。その土と水の境界に、石で畳んだ波止場(カイス)があった。「太陽の岸(コスタ・デ・ソル)」と呼ばれる海岸線ゆき郊外電車発着所(カイス・デ・ソウドレ)の近くに、入江を抱くように手を拡げてる広場の一方が、ゆるい石段になってひたひたと水に接していた。昼は、空と港が一つに煙って、へんに甘酸(あまず)っぱい大気のなかを黄塗りの電車がことこと揺れて通った。その警鈴は三分の一ほど東洋的に儚(はかな)かった。濡れた赭土(あかつち)の盛られたそばで、下水工事の人夫達が路傍に炭をおこして鰯(いわし)を焼いていた。そのまま塩を振りかけてお弁当に食べるのだ。赤や青の原色の洋袴(スカート)をはいた跣足(はだし)の女たちが、何人も何人も、頭へぶりき張りの戸板を載せて続いていた。魚売りだ。元帥のような八字髭(ひげ)を生やした女が多い。見つけた工夫達は黙っていなかった。
OHOY!
苦痛のまりあ(マリア・ドス・ドウレス)!
その髯を俺にくんろ!
 ひげの女らは、思いきり淫猥な言葉で応酬しながら、男たちの爆笑をうしろにお尻で調子を取っていく。その声が、片側の郵便局の前から、お爺さんの笑顔を振り向かせた。この老人は、その妻の、跛足で唖の女と、吹出物だらけの男の子と、ぼろぼろの一個の手提げとを全財産に終日陽(ひ)あしを探してそこらを移り歩いては、しゃがんでるのだ。僕は、彼らと並んで何日も日向ぼっこをしたから、この一家族の生活はよく知ってる。老家長は代書人だった。きたない手さげのなかに、汚い紙と封筒と、きたないぺんとインクが驚くべき整頓さをもって這入っていた。書留用の封蝋や押印も揃っていた。AHA! 綺麗な花文字入りの封印まで! 蝋を垂らして印をするのが金一エスクウドだった。たまに客があると、非常な自尊と不愛想(ぶあいそ)とに口びるを曲げた老人が、ふるえる手でその大変な事業に着手した。何一つするにも恐ろしく時間がかかった。で、ときどき八字髭の女や、霜降りの木綿軍服を着た兵隊が田舎の恋人に手紙を書いてもらうくらいのもので、たいがい老爺(おやじ)と妻と息子と手提げが、四つぽかんとして通行人の膝から下を眺めてることが多かった。子供は痴呆らしかった。なぜなら、猫を発見すると正確に石を投げる習慣だった。そして、十か十一のくせに、しじゅう地べたに寝ころんで母親の乳房とばかり遊んでた。この一家を引率して、老人は一日じゅう陽の当るところを転々していた。が、稼業だけは忘れなかった。だから彼らは、海底のような夕方の建物の影が落ちて来ても、郵便局からはあんまり遠くへ離れようとしなかった。お昼御飯にはやはり七輪の炭火に直(じ)かに鰯と塩を抛り出して、焼きながら頬張っていた。その黄白い魚臭が冬晴れの日光に波紋して、修築中の郵便局の屋根へ、鎖で縛った瓦(かわら)の束がするすると捲き上って行った。
 向う岸はカシイアスの要塞だ。正午(ひる)はそこにも鰯を焼く煙りがあった。蒼ぞらでは、ほるつがる国陸軍爆撃機の生意気な二列縦隊だった。その真下の沖に、鋼鉄色に化粧した木造巡洋艦が欠伸(あくび)していた。これは領海に出没する隣国すぺいんの海老(えび)採り漁船を追っ払うための勇敢な海軍である。洗濯物が全艦を飾って、ここにも鰯をやくけむりが大演習の煙幕のようにMOMOと罩(こ)めわたっていた。

     4

 こういうりすぼんの波止場だ。
 この、表面白っぽく間の抜けた底に、どこか田舎者めいた強情な狡猾さがぷうんと香(にお)って、決してこれだけが全部でないことを暗示(ヒント)していた。果して夜! You know, 闇黒は桟橋を物語化し、そして夜の波止場は紳士を排斥する。昼間の Seemingly に平和な自己満足のかわりに、そこには一変して酒精分の暴動(ライオト)だ。平(たいら)な地面に慣れない水夫達の上陸行列だ。海の口笛と、白い女の顔だ。しなりのいいマニラ帆綱(ロウプ)のさきに、鉄鋲(ナッツ)を結びつけた喧嘩用武器の大見せ場(デスプレイ)だ。放尿する売春婦(プウタ)と暗い街灯の眼くばせだ。船員の罵声と空地の機械屑だ。飛行する酒壜と、人に肩をぶつけて歩く海の男たちの潮流。問題(トラブル)を求めて血走ってる彼らの眼。倉庫うらに並立する四十女の口紅。いつからともなく棄てられたまま根が生えてる赤汽缶(ボイラ)のかげに、銀エスクウド二枚で即座に土に外套を敷く人妻。草に隠れてその張り番をする良人(おっと)。SO! あらゆる無恥と邪悪(ヴァイス)と騒擾(そうじょう)の湾(ガルフ)――毎晩徹夜して、「黄色い貨物」のように忠実に僕はその渦紋の軸に立ちつくしたものだ。
 そうすることによって、僕は完全にLISBON港のお客(ゲスト)になってたのだ。波止場のお客さんと言えば、いでたちも君、大概きまってよう。何世紀か前には地色の青だった、油で黒い火夫の仕事着に、靴は勿論片ちんばでなければならない。それに、桐油引(とうゆび)きの裾長(すそなが)外套――岬町(ケイプ・タオン)印し――しかし君、煙草だけはどうも他のは喫(の)めない。なんて、Perfumes de Salon, 亜弗利加(アフリカ)あるじぇりあ製のあれだ。あいつを茶色紙にこぼして、指先で巻いて端を舐(な)めながら、桟橋のでこぼこ石垣に腰かけた僕の視野は、蔑晩もつづいて「古いインクの展開」とその上の植民地風だった。
 SHIP・AHOY!
 夜も煙りを吹いて船が出はいりして、何本もの航路が縦横に光っていた。波止場のそばのテイジョの河口は、青く塗った大帆前船(パルコ・デ・ヴェイラ)の灯で賑(にぎや)かだった。この船は、「大西洋の真珠(ペルラ・ド・アトランチコ)」と俗称されるアゾウレスとマデイラの南島から、材木やバナナを積んでくる。昔この国の人は、リスボアから船出して三日も往くと、暗黒の海(マアル・テネプロウゾ)があって、船が断崖から闇黒のなかへどかんと落ち込むように信じられていた。だから、こんな浪漫的な暗黒の海が商業的にすっかり明るくなって、この、全山花にうずもれた二つの無人島が発見されたのは、海洋史上比較的近代のことに属する。何と少年的な海の時代さであろう? りすぼんはその過去性で一ぱいだ。現にこの、夜の僕の行きつけの波止場カイス・デ・テレレ・ド・パソも、バスコダガマが印度(インド)航路への探険に出るとき祈った聖ジェロニモの寺院――いまはそこに彼の遺骸が安置してある――や、何年となく毎日国王が頂上から手をかざして、東洋からの帰船とその満載してるはずの珍奇な財宝とを待ちあぐんだというベレンの古塔に遠くない。じっさい僕が踏んでる波止場の階段も、その黄金治世の印度(インド)の石材で出来てるのだ。僕の心の眼(マインズ・アイ)を、光栄ある発見狂時代のリスボンの半熱帯的街景がよぎる。フェニキア人の頃から、何とたくさんの黒人と赤人と黄人の異装徒が、それぞれ何と夥(おびただ)しい金銀・香料・海陸の物産を貢(みつ)ぎものに捧げて、このテイジョの河口をはいって来たことだろう! 大理石の膚(はだ)の各国女奴隷・その売買所と仲買人の椰子(やし)の鞭(むち)・宗教裁判と火刑広場の野次馬・海賊来(きたる)の銅鑼(どら)と吊橋の轆轤(ろくろ)を捲く大男の筋肉――そして今は、不潔と無智と猥雑と、海犬(シイ・ドッグス)の群と考古学的価値のほか何一つ近代文明への関点を有(も)たないりすぼあ!
 世界の隅っこに、これほど地球の進展から隔離された塵埃(じんあい)棄て場が現存し得ようとは、たしかに何人(なんぴと)も想像しない一驚異であろう! その雑然たる廃頽(はいたい)詩と、その貧窮への無神経と、その戦慄すべき alien banality と――。
 SHIP・AHOY!
 こうして改めてあたりを見廻しながら、その晩も僕は波止場附近に張りこんでいた。何か turn up するのを待つこころで。
 真夜中だった。暗いなかに急に人影がざわざわして、一団の女がしずかに桟橋を下りて行った。桟橋の端には、物語めいた一艘の短舟(ボウテ)が、テイジョ河口の三角浪に擽(くすぐ)られて忍び笑いしていた。訓練ある静寂と速度のうちに、一同がそれに乗り移ると、そのままぼうては漕ぎ出して、碇泊中の船影のあいだを縫って間もなく海へ消えた。そして暫く帰ってこなかった。が、帰って来ると、その女群が同じ沈黙と速度をもってボウテから桟橋へ上り、僕の立ってるまえを順々に通りすぎて町のほうへ消えていった。いつものびっこの小男が隊長している。今夜も沖を訪問してきた女たち――大きな「?」のなかから一行のあとを見送ってる僕へ、最後に小舟をあがったその小男が接近して来た。
『がた・らい?』
 上海(シャンハイ)英語だ。紳士語では、「燐寸(マッチ)をお持ちでしたらどうぞ」――僕が応じた。
『YA。』
 そしてまっち(アモルフォス)を突き出した。
 すると跛足(リンピイ)リンプ――これはあとから酒場で自己紹介し合って判ったのだが、男は、Limpy Limp なる呼名(よびな)に自発的に返事して、つまりびっこだった――は、ここで一そう、ぴょこんと僕の胸へ飛びつくように現れて、それから、もう一度手を伸ばした。
『ガタ・エネ・セガレツ? HEY?』
 今度は煙草だ。はじめはマッチ、つぎにたばこと逆なところに、これも後日追々(おいおい)判然したんだが、愛すべきリンピイの狡才があった。仕方がないし、それに僕は、すこしでも長くこいつと会話して、出来ることならその「夜のおんな舟」の秘密へ一吋(インチ)でも近づきたかったから、さっそく「客間の香気(パフュウム・ドュ・サロン)」のふくろを提出しながら、
『取れ。但し一本。』
『勿論(コース)!』
 と燐寸(まっち)を擦(こす)って、そこで彼は、その火の輪のむこうから僕の顔に驚いた。
『HUM! いよう! お前は毎晩ここらをうろついてる支那公(チンキイ)だな!』
『YA。ロン・ウウって名だ。』いいことにして僕が答えた。『お前はまた、いつも夜中におおぜい女を連れて海へ出るじゃないか。何しに行くんだ?』
『U-hum !』
 リンピイはただ頷首(うなず)いた。が、彼が、いぎりす生れの「決して帰らない迷児(まよいご)」のひとりであることは、その語調で直ぐにわかった。とにかく、ふたりの港の客人ロン・ウウとリンピイ・リンプは、こうしてそこの、波止場(カイス)の夜露と「客間の香気(パフュウム・ドュ・サロン)」のなかではじめての握手を交したのだ。
 ぱふ・ぱふ・ぱふ――暫らく黙ってたのち、煙草のあいだからリンピイが訊いた。
『何してる今。』
『ME?』
『YEA。』
『なんにもしてない――煙草をふかしてる。』
 ぱふ・ぱふ・ぱふ―― and then,
『どこから来た。』
『ME?』
『YEA。』
『支那から。』
『英語は?』
『波止場(カイス)の英語なら、YEA。』
『GOOD! どうせお前なんかどこへ行ったっておんなじなんだろう。どうだ、俺んとこへ来て手伝(ヘルプ)しないか。』
『ME?』
『YEA。』
『何を――?』
『しっぷ・ちゃん。船上出張商人(シップ・チャンドラア)だ。知ってるだろう?』
 ぱふ・ぱふ・ばふ――何と便利に自分から持ち上りかけた大MYSTERYのふた! 眼の眩む喜望(ダズリング・ホウプ)が僕の発声機能をまごまごさせて、ちょっと口が利けない。それをリンピイはさっさと承諾にきめて、早速踊るように歩き出した。僕はついてく。桟橋の話声・深夜の男女の雑沓・眠ってる倉庫の列・水溜りの星・悪臭・嬌笑。Eh? What?

     5

 窒息しそうな濃いけむりのなかに、海の陽(ひ)やけで茶褐に着色された無数の顔が、呶鳴(どな)って笑って呪語していた。鋼鉄の指金具(ナックル)とあき壜は星形の傷痕をのこす。頬へ受けた刃(ナイフ)は、古くなると苦笑に見えるものだ。マラガ生れの水夫長(ボウシン)、パナマ運河コロン市から来た半黒(はんぐろ)の三等火夫、濠州ワラルウの石炭夫(コウル・バサア)、ジブロウタの倉番(ストッキ)、聖(サン)ジャゴの料理人、ロッテルダムの給仕、各国人種から成る海の無産者と、大きな喧嘩師(ブルウザア)と敏捷なちび(ラント)と、留索栓(ビレイング・ピン)の打撲傷と舵手甲板の長年月と、そしてそれに、荒天の名残の遠い港のにおい、強い顎(あご)と蕈(きのこ)のような耳、桐油(とうゆ)外套に赤縞のはんけち――海岸通りサン・ジュアン街の酒場(アベニダ)は、深夜の上陸船員で一ぱいだった。
 そこへ、リンピイと僕が半扉(ドア)を押したのだ。
 すると一度にこの異国語の tenor crescendo だ。どこの貨物船の乗組員にも特有な、ストックホルム産炭油(タアル)の香(におい)だ。それが S57 の感情的な水平線と、snappy な岬(ケイプ)ホウンの雲行きを思わせて、この狭い酒場(タベルナ)内部の色のついた空気を滅茶苦茶に掻き乱していた。
 呵々大笑するふとった酒神(バッカス)、習慣的に一刻も早く給料袋をからにしなければ安心出来ない船員たちのむれ!
 正面にずらりと瓦斯(ガス)タンクのような大樽(バリイル)が並んでる。その金具の輪が暗い電灯に光って、工場地帯行きの朝電車みたいな混み方だ。数人の酒場男(タベルネイロ)と酒場女(タベルネイラ)が、この、戦時そのままの騒ぎを引き受けて、酒をつぐ・グラスを抛(なげ)る・金をひったくる・お釣りを投げる・冗談を言い返す・悪口もかえす・喧嘩の相手もする・自分も呑む。酒はきまってる。燃える水(アグワルデンテ)。言わば、ほるつがる焼酎。一ばい金2仙(セント)――どいす・とすとんえす――也。
 壁は、十九世紀末葉の雑誌の口絵で張り詰めてある。何といううら悲しい明け方の夢の展覧会! 蜂(はち)のような腰の馬上貴婦人と頬ひげの馬上紳士。乳を出して笑ってるボンネット。大帆前船(バアカンテン)難航の図。花の代りに美人の顔が咲いてる絵――これは仏蘭西(フランス)しゃぼんの広告――寝台の脚とそばに脱いである男女二足の靴だけを大きく出した写真――靴屋の広告――「OH!」と題したのは、女が向い風に裾(すそ)を押さえて困却してるところ。豚とダンスしてる坊さん。錨(いかり)をあしらった老船長の像。万国国旗一覧表。隣りはあめりか煙草 111 の広告画。
 郵便棚も置いてある。この酒場へ頼んで、ここを郵便の宛所(アドレス)にしてる各国の船乗りが大分あるとみえる。寄港のたびに立ちよって受け取る仕組なんだろう。手紙や葉書がたくさん挟んである。混雑に紛れて、僕は郵便棚へ近づいて二、三枚手に取ってみた。古いのばかりだ。手垢(てあか)とごみで薄黒くよごれてる。が、これは一たいどうしたというのだ?――酒場の常連はきまってるはずだ。酒番の主人に顔の知れた船員ばかりで、あす出港という晩なんか、「おい、これからちょっと地中海まわりだ。今度はひと月ぐらいだろう。手紙が来たら頼むぜ。」「承知しました。気をつけて行って来なさい。よそであんまり変な酒(やつ)を呑(や)らねえようにね。」なんかと別れて、そして帰港するや否や、不恰好な既制服に、新しい安靴で久しぶりの固い土に足を痛めた彼らが、若いのも年寄りも、みんなどんなに期待に燃えてこの酒場(タベルナ)の郵便棚のまえに犇(ひしめ)くことであろう! すると、来てる来てる! 恋人から妻から娘から老母から! 眼白押(めじろお)しに立って、一枚々々熱心に自分への宛名を探す海獣たち――僕もこうしていまその一人を装(よそお)ってるんだが――この時は、彼らも完全に良人(おっと)であり、父であり、息子であるだろう! それだのに、みんなに捜し残されて、ここにこれだけ溜ってるのはどういうわけだ? これらの宛名の主は、船出したきり帰って来ないのか? 何と、船乗りへ届かない手紙の不気味さ! 暗い海底(マアル・テネブロウゾ)へは転送のしようもあるまい。
 が、港の酒場はすべての不可能を信じてる。じっさい、七年前に笑って地中海へ出て行ったきりのあの男、一八九三年のXマスの晩に最後に見た彼――それらがひょっこりいつあらわれないとは who could tell? だからこうして、そっくり保管して待ってるんだろうが、封筒も葉書も、それから毎日、一応出入りの客の調べを受けて真っくろだ。
 何といろいろな人生を黙示する、この、受取人のない酒場の郵便! 陸の声が、ここ「大地の果て」でぷっつり切れてるのだ。素早く僕は宛名に眼を通し出したが、急いでるのと、何しろどれもこれも非道(ひど)い悪筆のうえに、おまけに得態(えたい)の知れない外国語がおもなので、名前だけでも容易に読めない。ジョセフ何とかいう男へ、白耳義(ベルギー)アントワアプのKCN――これだけでは差出人の性別はわからないが、「御存じより」と言ったところだからまず女とみてよかろう――から三通来ている。三つとも1926年で、これはわりに新しい。ほかに「サルデニア島トルトリ」と投函地名だけ判読出来たのが一本、他は書体がくしゃくしゃしててどうにも手に負えない。そのうちに、英吉利(イギリス) Hull 港の絵葉書がひとつ出て来た。Mr.Arthur W.Cole へ宛てたもので、差出人の名は書いてないが、なくても解る間柄なんだろう。文言も、男の字で大きく Souvenir と走り書きしてあるだけだった。
 入口の横に、黒板が一枚立てかけてある。下級船員専門の桂庵(けいあん)の募集広告だ。が、ちっとも希望者がないとみえて、貼り出してあるのは、求人の部ばかりである。水夫・水夫・石炭夫。なになに号・なになに号・なになに号・高給・高給・高給・別待・特遇・履歴不要。なかに一つ「大工をもとむ」と特別大書してある。この黒板面はいつも変らないとみえる。何年にもこのとおりで、消すこともないらしい。あきを埋めて、一めんに船乗りの楽書きだ――。
 リンピイの声が、僕を酒台へ呼び戻す。
けれ・うま・ぴんぎにあ!
「一ぱい飲まねえか(ケレ・ウマ・ピンギニア)」――一杯てのは「ぴんが」なんだが、そのピンガに愛称をあたえてぴんぎにあ――みんな仲よくこの燃える水(アグワルデンテ)のピンギニアをあおりつけてる。
お! いっぺえやりねえな。
けれ・うま・ぴんぎにあ!
けれ・うま・ぴんぎにあ!
ありがてえ!
おぶりがど!
おぶりがど!
おぶりがど!
 節(ふし)くれ立った指に、幾つも並べて嵌(は)めた十八金の大指輪――これは伊達(だて)ばかりじゃない。めり拳を喰(くら)わす時の実用のため――が、あちこちに毒々しくちらついて、ぺっと唾をして靴でこすりながら――。
えっ! 腹の虫を殺してやれ(パラ・マタアル・ウ・ビッショ)!
 誰もかれも、この呪文を合図に、威勢よく「燃える水」を流しこむのだ。そうだ! この強いやつで腹の虫を殺せ!
えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
 とん、とんと酒台に鳴るからこっぷの音。
 ――こう明るいところへ出てみると、リンピイ・リンプは若いくせに老人(オウルド・マン)だった。全く、ちょっと年齢のはっきりしないリンピイだった。ひどく老(ふ)けても見えたし、そうかと思うとかなり若いようでもあったが、たぶん四十五、六らしかった。よれよれの茶の背広を着て、洋襟(カラア)のかわりに首のまわりに青い絹を結んで端をだらりと垂らしてるのが、恐らく前世紀的でもあったし、また観察によっては、領地巡視中の英吉利貴族(イギリスロウド)といった場外れの効果がないでもなかった。じっさい、いささか「ゴルフ・乗馬・午後の茶」の筆触(タッチ)をつけて古風に気取ってみたいのが、この潮臭い無頼漢びっこ(リンピイ)・リンプの趣味らしかった。しかし、その不幸な歩行機関の支障と、あまぞん特産のポケット猿みたいな小さな顔と、鼻からロへかけて間歇的にひくひくする筋肉痙攣(けいれん)と、悪疾のため舌の絡む語調とが、可哀そうな彼の努力のすべてを裏切って、親愛なリンピイ・リンプを、やっぱりただの「りすぼん埠頭の幽霊」びっこ(リンピイ)・リンプ以上の何ものにも買わせていなかった。つまり事実は、彼リンピイは「港の Old Man」に過ぎなかったのだ。
 船でおやじ(オウルド・マン)と言うと船長のことだ。そして、船から上って陸(おか)でおやじさん(オウルド・マン)といえば、それは直ちにわがリンピイのような港の売春宿の御亭主(オウルドマン)を意味する。だから、リンピイは若いくせに老人(オウルド・マン)だった。
 PIMPという一つの職業がある。
 リンピイはそれに従事していた。
 何かと言うと、これは、不思議に女性の肉だけを食べる人喰い人種のことで、妻だの娘だの情婦だのの肉を切売りして衣食している。もっとも、こんな身辺の女肉だけじゃあ需要に応じ切れないから、そこで、あらゆる方法で女を駆りあつめるんだが、この、専門の売春婦を養成して一定の契約のもとに各地へ配給する問屋制度に、昔から有名ないわゆる白奴交易路(ホワイト・スレイヴ・トラフィク)なる秘密工業がある。と言うと、莫迦(ばか)に十九世紀的にひびくが、この事実は、いまも国際的「底の社会(アンダアワウルド)」の暗黒を貰いて立派に存在している。現に、国際聯盟の「世界悪」退治運動の重要項目の一つに上げられてるくらいで、パンフレットを発行したりして妨止に努めてるけれど、いくら国際聯盟あたりが躍起になって騒いだって、それは単にその暗流の実在を公表するにとどまり、何ら直接刷掃(さっそう)の資にはなるまい。と思われるほど、欧羅巴(ヨーロッパ)中の都会、ことに港町における売春婦の跳梁(ちょうりょう)はおびただしいものだ。が、これも古今東西を通じて、人間の集まってるところには厳然たる一つの必要らしいからまず仕方があるまいとして、個人的動機から落ちるところへ落ちてく女はそれでいいだろうが、そもそも白奴交易なるものは、PIMPの元締(もとじめ)が映画的に活躍して、夜のピキャデリなんかを迂路(うろ)ついてるぽっと出の女や、ボア・ドュ・ブウロウニュを散策中の若奥さまや、学校帰りにそこらを歩いてる女学生などを甘言をもって誘拐し、気のついた頃は、すでに輸出向き商品として南あめりかあたりへ運送の途にあったりするんだから、これはどうも社会的におだやかでない。だいぶ赤本めいた話だけれど、知ってる人は知ってる事実である。だからこの白奴交易網に引っかかった女の多くは、新大陸の植民地でその売春婦としての教育を卒業する。それがまた市場(マアケット)へ出て欧羅巴(ヨーロッパ)へ逆輸入される頃には、いかに彼女らが海一〇〇〇山一〇〇〇の物凄い莫連(ばくれん)になってるかは想像に難くあるまい。僕はこの間(カン)の大音潮に多少 look into する機会を捉えたことがあるから――リスボンでのびっこ(リンピイ)リンプとの交渉もその一つだが――この歴史的潜在白奴交易路に関する多くのえぴそうどを所有している、が、それらは本篇「しっぷ・あほうい!」とは些少の接続しかないから略すとして――日本でだって君、不良の相場といえば「飲む・打つ・買う」の三拍子とちゃんとちょん髷(まげ)時代から決定してる。この酒・ばくち・女は、欧羅巴でも同じく社会悪の三頭目だが、この頃ではもう一つDOPEというのが殖(ふ)えて来て、四つの脅威をなして文明と道徳を襲撃している。そこで坊さん・社会教育家・職業的慨世家――これはどこにでもある――がしじゅう何だかんだと喧(やかま)しく言うんだけれど、これらの邪悪(イヴルス)のかげには「史的に約束された一つの大きな手」が動いてるので、目下急にはどうすることも出来ない形だ。事実、すべての社会的破壊作業は国際的に共同戦線を張ってる。近くはこの白奴交易路(ホワイト・スレイヴ・トラフィク)にしても、これは世界的に組織された well known 売春団で、リンピイ・リンプのごとき、彼じしんの自覚と無意識を問わず、その有機網の末梢神経を構成するほんの一細胞に過ぎなかった。
 それにしても、女肉を常食とする点で、リンピイもPIMPはぴんぷだった。
 で、彼がどんな猛悪な――あるいは罪のない――「ピンプ」だったかは、その女のしっぷ・ちゃんの手腕を見ただけでもおよそ判断のつくことだが、そのうえ彼は、妻のマルガリイダ婆さんから振り当てられてる手引人としての仕事も、決して忘れてるわけではなかった。
 が、どうしてリンピイが「客を引」いたのか、僕は知らない。とにかく、僕と彼のあいだに支那公(チンキイ)ロン・ウウのしっぷ・ちゃん契約が目出度(めでた)く成立して、二人が酒場(タベルナ)を出たとき、おどろいたのは、六、七人の船員たちが自進的に燃焼水(アグワルデンテ)に別れを告げて僕らといっしょに歩き出したことだ。
 だから、リンピイを先に妙に黙りこくった一行がどんどん山の手(バイロ・アルト)――高い区域――の坂を登って行った。マルガリイダの家へ。
 あとが大変なんだ。Eh,What?

     6

「マルガリイダ」の家の red hot stuff がテレサという仏蘭西(フランス)女であることは前にも言った。テレサは、北極熊みたいな白い大きな身体(からだ)と、いつもいま水から上ったばかりのような、濡れた感じの顔とをもっていた。その、安ホテルの二人用寝台(ダブル・ベッド)のように大々的に広漠としたところが荒っぽい船員達の好みに投じたとみえて、ばいろ・あるとのマルガリイダの家は、いつ行っても、まるであの聖(サン)ジュアン街の酒場のように、そこには、7seas からの男たちと、その留索栓(ビレイング・ピン)の打撲傷と、舵手甲板の長年月と、難航の名残りと遠い国々のにおいと、怒声と罵声と笑声とがたのしく満潮していた。バイロ・アルトは、りすぼんの街が羅馬(ローマ)の真似をして七つの丘――いまは八つにふえてるが――の上に建ってるその一つで、ちょうどテイジョ河口の三角浪が大西洋の水と争う港のうずまきを眼下に見下ろしていた。夜など、しつぷ・ちゃんの僕がすこし沖へ漕ぎ出ると、この山の手(バイロ・アルト)――「山の手」と当て字してみたところで、いわゆる山の手のもつ閑寂な住宅地気分とは極端に縁が遠いが――にちかちかする devil-may-care の紅灯と、河港をへだてて、むこう側の山腹、慈悲(ピエダアレ)の村に明滅する静かな、家庭的な漁村の灯とが、高台同士で中空に一直線にむすびついて、へんに泪(なみだ)ぐましい人生的対照をつくり出していた。こんなふうに、桟橋広場の一ぽうが胸を突く急坂になって、そこを昇り詰めた一帯がバイロ・アルトの私娼区域――と言っても、定期的に非公式の健康診断があるんだから、政府の黙許を得てる半公娼と称すべきかも知れないけれど、それがひどく不徹底なものだったし、その半公娼に伍して倍数以上の私娼が混入してごっちゃになっていたので、やはり大きな意味では、そこら全体を私娼窟と呼んでよかった。じっさい一くちにばいろあるとといえば、それは直ちに「坂の上の娼家横町」を語意していた――そして、そこの白っ茶けた建物の窓から、朝夕の出船入船の景色が、まるで大型活字の書物の一頁を読むように詳細に一眼だった。つまり、リスボンの出入港は、海事局・水上警察・税関よりも先に、逐一この女魔が丘(バイロ・アルト)の窓に知れてしまった。地獄(ダン・ビロ)の釜に火がはいると煙突のけむりが太くなって、出帆旗は女たちも心得てる。すると、あのNAJIMIの男がまた闇黒の海(マアル・テネブロウゾ)へ出てくるところだというんで、ばいろ・あるとの一つの窓で、ひとりの女(プウタ)が、ひょっと浮んだ彼の体臭の追憶のなかで思い出し笑いにふけっていようというものだ。船乗りはみんな恋巧者である。一度会った女に決して忘れさせはしない。だから、黒地に白の出港旗を見つめる女たちの眼には、めいめいの恋人を送るこころもちがあった。が、出帆の時は、これでまだいい。新入港の船がテイジョ河口の三角浪を蹴立(けた)てて滑りこんで、山の手(バイロ・アルト)の家々の窓掛けを爽やかな異国の風がなぶると、週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめきが坂の上の町一帯に充満して、彼女らはゆうべの顔へまた紅をなすり、七面鳥マルガリイダ婆さんは一そうがんがん喚(わめ)いて家じゅうを駈けめぐり――さあ! お部屋の用意は出来てるかい? 何でもいいから花を取り変えてお置きって言うのに! お船の人は家庭らしい空気が好きなものだから。それから掃除! リンピイ! おや! リンプ! どうしたんだろうまああの人は――しかし、テレサにだけは急に眼立って御機嫌を取り出して――テレサや、今夜も強い好い人がわざわざ海を越えてお前んとこへ来るんだよ。テレサや、お前は一たい、帆桁(ほげた)のような水夫さんか、手の白いボウイさんか、それとも黒輝石みたいな印度(インド)の釜たき(ファイアマン)さん? どんなのが一番好きでしたっけ? わたしの可愛いお猫さんのように、さ、お湯をつかって支度をしましょう――といった調子なので、テレサはテレサですっかりふくれ返って、その巨大な北極熊みたいな全身へ万遍なくおしろいを叩きはじめる。この裸体のお化粧は、何もテレサひとりの個人的趣味ばかりではなく、「マルガリイダの家の」一 attraction として大いに事務的必要があったのだ。
 テレサは、僕の知る限りにおいてすこし「二階がお留守(ノウバディ・アップステアス)」――頭がからっぽ――だった。さもなくて、ああのべつ幕なしに甘いもの――名物こんぺいとう・乾し無花果(いちぢく)・水瓜(すいか)の皮の砂糖煮・等等等――を頬ばっていられるわけがなかったし、そのため、今にもぱちんと音がして破けそうに肥っていたが、そのうえ、恐ろしいまでにあらゆる無恥と醜行に慣れ切っていて、いかに同情をもって見ても、この女にはいささか病的に欠如しているものがあった。それでも、港々の売春婦(プウタ)なみに彼ら社会の常識だけは心得ていて、自分ではちゃあんと仏蘭西(フランス)生れと名乗っていた。そして、何と素晴しいふらんす語をこのふらんす女の白熊テレサが話したことよ! 「めあすい」とジョンティ・ミニョンとこむさと「ねすぱ?」と! これでも判るとおり、彼女は生え抜きの――流行雑誌のもでると、一九二七年度の巴里(パリー)の俗歌以外には仏蘭西なんかその smell も知らない――ほるつがる人で、現に、「太陽の岸(コスタ・デ・ソル)」サン・ペドロの村はずれで馬の爪へ鉄靴をはかせる稼業をいとなんでる父親が、二週間に一度のわりで小遣いをせびりに出市していた。
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