踊る地平線
著者名:谷譲次
残りのイダルゴの演出は白熱的だった。力強い大声の台詞(せりふ)が劇場中に鳴り響いた。高々と笑う彼女の声が楽屋の人の胸を衝いた。このいつもに倍したイダルゴの舞台に、見物はアンコオルを叫んで果てしがなかった。それにもイダルゴは一々答えて、何度も何度も舞台へ現れて接吻(キス)を投げた。微笑を送った。そして、そのあいだ中イダルゴの全身には、瀕死の恋人を思う涙血が沸々(ふつふつ)と煮え立っていたのである。
マドリッドに近いトレドのむこうに、Talavera de la Reina という、陶器を産する町がある。
ホウセリトが角にかかったのは、ここの闘牛場だった。
芝居が終るまえから、イダルゴの命令で劇場の横町に二台の自動車がエンジンの音を立てていた。それに、外科医と応急手当ての必要品一式が積まれて、イダルゴを待っていた。二台の自動車を揃えたのは、一台パンクした時の用意だった。最後の幕が下りると同時に、イダルゴは楽屋口からその一台へ飛び移った。ヴェルサイユ宮殿の王子として、巻毛の鬘(かつら)をかぶり、金色燦然(こんじきさんぜん)たる着物に白タイツ、装飾靴という扮装のままだった。
全速力で疾走する自動車の中で、イダルゴはとうとう足踏みをして泣き出した。
が、遅かった。彼女が自動車から転がり出たとき、タラヴェラ・デ・レイナの闘牛場で、ホウセリトは血と砂にまみれて息を引き取った。
大通りを驀進していく自動車とそのうえの「ヴェルサイユの王子」――マドリッドの人はいまだにこの南国的な town's talk を熱愛している。
この「闘牛士ホウセリトの死」に関聯して一つの法律違反問題まで起った。その前年、保守党の首領ダアトが、上院の帰途、一無政府主義青年に暗殺されたという大事件があったが、それがちょうど日曜だったので、知らないでいた人が多かった。と言うのは、西班牙(スペイン)には新聞記者日曜休日法という法律があって、日曜日の夕刊と月曜日の朝刊は出さないことにしている。したがって日曜日にはどんな突発事があっても、翌日の夕方までは一般的に報道されない。事実、このダアト暗殺事件のときも、あくる日まで誰も知らなかった。が、ホウセリトが死んだ日は、闘牛があったくらいだから日曜だったにも係わらず、この法律を無視して堂々と大々的に写真入りの号外を出して、そして堂々と罰金を食った新聞があった。保守党首領という政界大立物の横死には規則によって、沈黙を守っても、一闘牛士の異変を伝えるためには、社として大金を犠牲にしてかまわないのだ。ここに闘牛に対する西班牙(スペイン)民衆の態度が一番よく反映していよう。
ついでだが、この闘牛で殺した牛はどう処分するかと言うと、皮は革屋へ、肉は肉屋へそれぞれ引き取らせている。が、さんざん血を出して死んだんだから、肉はべらぼうに硬くてほとんど食用に耐えない。したがって、値段も猛烈に安い。だから、闘牛のあったあとは当分、裏街の裏まちまでこの靴の底みたいな「闘牛(トウロス)ステイキ」か何かがあまねく食卓に往きわたろうというわけで、ことによると、今日の牛ドン・カルヴァリヨなんかも、二、三日するとモンテイロ街のペトラの下宿で、皿の上の無邪気(イノセン卜)な、一肉片に変形して私のフォウクの下に横たわるかも知れない。用心しよう。
やあ! 急に騒がしくなった。
ベルモントだ!
ベルモントだ!
ベルモントが出て来た。
いつの間にか手銛士(バンデリエイル)と代り合って、いよいよ仕留花形役(マタドウル・デ・トウロス)のベルモントが砂を踏んでいる。
彼の業(わざ)は素早かった。
金モウルの手に剣(エストケ)がきらめいたと思ったら、湿った音を立てて「赤い小山」が横に倒れた。
脱帽したベルモントが、円形スタンドの全方面へまんべんなく挨拶してるのが見える。
総立ちだ。
カアネエション・指輪・CAPA・帽子・すてっきなんかが雨のようにリングへ飛ぶ。
オレイハ!
オレイハ!
オレイハ!
太陽の叫喚。
人民の声。
耳(オレイハ)! 耳(オレイハ)! 耳(オレイハ)!
牛の耳を切り取ってベルモントへ与(や)れという観衆の要求(デマンド)である。
闘牛士はみんな、この牛の耳を乾(ほし)て貯めてる。これをたくさん持ってるほど名声ある闘牛士だ。ベルモントなんかには、何と素晴らしい牛の耳(オレイハ)の蒐集(コレクション)があることだろう!
現にいま、切り離したばかりの血だらけの牛の耳を提(さ)げて、彼は群集へ笑いかけている。
三頭立ての馬が「とうとう死んだ」牛の屍骸(しがい)――マイナス耳――を引きずって走り込む。
砂けむり。
牛の耳の乾物(ほしもの)――私は西班牙(スペイン)まで来て、今日はじめて「牛耳(ぎゅうじ)を取る」という意味が解った。
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