死生
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著者名:幸徳秋水 

 死刑が極悪・重罪の人を目的としたのは固よりである、従って古来多くの恥ずべく忌むべく恐るべき極悪・重罪の人が死刑に処せられたのは事実である、左れど此れと同時に多くの尊むべく敬すべく愛すべき善良・賢明の人が死刑に処せられたのも事実である、而して甚だ尊敬すべき善人ならざるも、亦た甚だ嫌悪すべき悪人にもあらざる多くの小人・凡夫が、誤って時の法律に触れたるが為めに――単に一羽の鶴を殺し、一頭の犬を殺したということの為めにすら――死刑に処せられたのも亦た事実である、要するに刑に死する者が必しも常に極悪の人、重罪の人のみでなかったことは事実である。
 石川五右衛門も国定忠治も死刑となった、平井権八も鼠小僧も死刑となった、白木屋お駒も八百屋お七も死刑となった、大久保時三郎も野口男三郎も死刑となった、と同時に一面にはソクラテスもブルノーも死刑となった、ペロプスカヤもオシンスキーも死刑となった、王子比干や商鞅も韓非も高青邱も呉子胥も文天祥も死刑となった、木内宗五も吉田松蔭も雲井龍雄も江藤新平も赤井景韶も富松正安も死刑となった、刑死の人には実に盗賊あり殺人あり放火あり乱臣賊子あると同時に、賢哲あり忠臣あり学者あり詩人あり愛国者・改革者もあるのである、是れ唯だ目下の私が心に浮み出る儘に其二三を挙げたのである、若し私の手許に東西の歴史と人名辞書とを有らしめたならば、私は古来の刑台が恥辱・罪悪に伴える巨多の事実と共に、更に刑台が光栄・名誉に伴える無数の例証をも挙げ得るであろう。
 西班牙に宗教裁判の設けられたる当時を見よ、無辜の良民にして単に教会の信条に服せずとの嫌疑の為めに焚殺されたる幾十万を算するではない歟。仏国革命の恐怖時代を見よ、政治上の党派を異にすというの故を以て斬罪となれる者、日に幾千人に上れるではない歟、日本幕末の歴史を見よ、安政大獄を始めとして、大小各藩に於て、当路と政見を異にせるが為めに、斬に処し若くば死を賜える者計(かぞ)うるに勝えぬではない歟、露国革命運動に関する記録を見よ、過去四十年間に此運動に参加せる為め、若くば其嫌疑の為めに刑死せる者数万人に及べるではない歟、若し夫れ支那に至っては、冤枉(えんおう)の死刑は、殆ど其五千年の歴史の特色の一とも言って可いのである。
 観(さ)て此に至れば、死刑は固より時の法度に照して之を課せる者多きを占むるは論なきも、何人か能く世界万国有史以来の厳密なる統計を持して、死刑は常に恥辱・罪悪に伴えりと断言し得るであろう歟、否な、死刑の意味せる恥辱・罪悪は、その有せる光栄若くば冤枉よりも多しちょうことすらも、断言し得るであろう歟、是れ実に一個未決の問題であると私は思う。
 故に今の私に恥ずべく忌むべく恐るべき者ありとせば、其は死刑に処せらるちょうことではなくて、私の悪人たり罪人たるに在らねばならぬ、是れ私自身に論ずべき限りでなく、又た論ずるの自由を有たぬ。唯だ死刑ちょうこと、其事は私に取って何でもない。
 謂うに人に死刑に値いする程の犯罪ありや、死刑は果して刑罰として当を得たる者なりや、古来の死刑は果して刑罰の目的を達するに於て、能く其効果を奏せりやとは、学者の久しく疑う所で、是れ亦た未決の一大問題として存して居る、而も私は茲に死刑の存廃を論ずるのではない、今の私一個としては、其存廃を論ずる程に死刑を重大視して居ない、病死其他の不自然なる死の来たのと、甚だ異なる所はない。
 無常迅速生死事大と仏家は頻りに嚇して居る、生は時としては大なる幸福ともなり、又た時としては大なる苦痛ともなるので、如何にも事大に違いない、然し死が何の事大であろう、人間血肉の新陳代謝全く休んで、形体・組織の分解し去るのみではない歟。死の事大ちょうことは、太古より知恵ある人が建てた一種の案山子である、地獄・極楽の簑笠つけて、愛着・妄執の弓矢放さぬ姿は甚だ物々しげである、漫然遠く之を望めば誠とに意味ありげであるが、近づいて仔細に之を看れば何でもないのである。
 私は必しも強いて死を急ぐ者ではない、生きられるだけは生きて、内には生を楽しみ、生を味わい、外には世益を図るのが当然だと思う、左りとて又た苟くも生を貪らんとする心もない、病死と横死と刑死とを問わず、死すべきの時一たび来らば、十分の安心と満足とを以て之に就きたいと思う。
 今や即ち其時である、是れ私の運命である、以下少しく私の運命観を語りたいと思う。




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